冒険の火蓋が切られてから幾刻かが過ぎ、天の端に紅が滲み始めていた。空は血を流すように茜色に染まり、地平はすでに夜の影を孕みつつある。
ガランは足を止め、ふと呟くように言葉を投げた。その声は、戦場に向かう者のそれというより、洞察を求める老練の猟師のそれであった。
「……のう、ゴウセル。戦が始まっとるというのに、すっかり訊き忘れとった。どうやって、人間と女神族を見分ける?たとえ"器"にしとるとしても、外見が変わっとるわけじゃなかろう。それに……もしそやつが、善人の身を借りとったとしたら……こっちも斬るに斬れん。」
その問いは、ただの好奇心ではない。敵と味方の境界が霞むこの戦の只中においては、刃を振るう前に必要な"区別"だった。
ゴウセルは一拍おいて答えた。その声音は静謐で、まるで湖面に落ちる水滴のようだった。
「……すぐにわかるよ。……たとえ器にしていようとも、女神族本来の魔力は人間とは桁違い。異物は、静かでも臭う。肌に刺さるような、過剰な気配がある。……それを感じたら、そいつは"女神"だ。」
そして彼は目を細め、さらに言葉を継いだ。
「それにね――女神族が憑依した"器"を倒せば、ほとんどの場合、女神族の魂だけがこの世から消え去る。与えた傷はすべて霧のように消え失せ、『神』は『人間』へと還元される。……その理由は単純で、女神族は、実在しない約定をもって契約を成したがる。つまり"嘘"の上に立ってる。だが、"人間"がその虚構に気づいた瞬間、精神の中で孤島と化し、支配を拒む。"器"は完全性を失う。」
ガランが唸るように言った。
「ほほーう……面白いのう。他にもあるのか?」
ゴウセルは一瞬だけ逡巡し、それでも吐き出すように口を開く。
「……例外もある。もし"人間"が、自ら望んで信仰し、己を完全に明け渡していた場合――その時、"人間"は消え、"神"だけが残る。もはや"器"ではなく、贄となる。」
重く沈むようなその言葉に、間にいたスプレッドが割り込んだ。
「――だいたい話は読めた。だが、ひとつ腑に落ちねぇ。……お前、そんな情報どこで拾ってきたんだ?」
ゴウセルは頷く。表情は笑みとも無表情ともつかず、どこか操り人形のように整然としていた。
「僕の魔力――『侵入』は、使い方次第で無限の手を持つ。街に流れた記憶の川へ潜って、そこに沈んでいた女神族の"思考"を拾い上げた。」
「……へ、へぇ。お前、そんなことまでできるのかよ。」
「もちろん!なんたって、ゴウセルの人形だからね!」
「に、人形?」
「……まぁ、それにはこうこうこういう理由があって、こーじゃ。」
「マジかよ、そんなことが……あるんだな……。」
ゴウセルの瞳が伏し目がちに揺れる。その瞳の先には、人の気配だけが漂う、空っぽの街があった。風に削られた石畳が、鈍く赤く光っていた。三つ目の山を越えた先、それが彼らの目的地である、ミドラスの街だった。
「二人とも、目的の街に着いた!」
街はまるで死の帳を被せられたように、沈黙していた。
「やけに静かな街じゃのう。」
「……女神族に攻め込まれたら、こうもなる。住人たちは怯え、殻に閉じこもっている。まるで蜘蛛の巣の中心で身を丸める虫みたいにね。」
ゴウセルが振り返り、スプレッドに目を向ける。
「ところで、スプレッド。君、鳥に戻ってくれないか?」
「え?なんでまた……」
「噂がある。妖精を器にした女神族も現れたらしい。姿は未確認だが、君が歩いていれば"それ"と誤認されかねない。」
「……マジかよ。せっかく人型に戻ったってのに。」
スプレッドは舌打ちを一つ残し、ばさりと羽を広げる。風切り音と共に、彼は鮮烈な羽を持つ鳥へと変じ、ゴウセルの肩へと降り立った。
二人と一羽は街へと舞い降りる。だがその空気は、もはや人の営みの残り香ではなかった。まるで音そのものを呑み込む亡骸――"声なき廃墟"だった。風が吹くたび、腐った骨のような乾いた音が石畳を転がった。
街の入口に佇む大きな屋敷。その軒先に吊るされたランタンが、風に煽られカチャリと鳴る。その音が、まるで弔鐘のように耳に残るほど、沈黙が支配していた。
「まったく、骨の髄まで静まり返っとるわ……今の細い音でさえ、まるで山彦じゃ。」
「けれど、人は"いる"。見て。家々の窓の奥、灯りはついている。……ただ、彼らは"外"に出ないだけだ。」
「どこまでも、女神族に怯えとるんじゃな……」
歩を進めた先、街の中央にある噴水へと辿り着く。だが水は腐りかけの血のように澱み、わずかに淀んでいるだけだった。
その時、ガランの目があるものを捉える。噴水の縁に吊るされた、小さなライト。鋼線で連ねられ、色は緑、藍、そして淡い水色――冷気を孕んだ息のように、並んでいた。
「ほほぅ、これは……。女神族のせいで、光すら遠慮がちになったか。それとも……ただの偶然か。だが、こいつは結構きれいなもんじゃ……」
指が触れた瞬間、それまで死んでいたようなライトが、一斉に灯った。音もなく、街全体を覆い尽くすように。
咄嗟に構える三人。だが、その光の帳の向こうから、ぞろぞろと影が姿を現し始めた。人間たちだ。剣を、槍を、弓を手にした、痩せこけた影が三人を取り囲む。
「な、なんじゃこれは……いつの間に湧いた?」
「さぁな。お前がなんかやったんだろう、ガラン。」
その時、一人の男が叫んだ。眼は血走り、声は怒気に濡れていた。
「このやろう……女神族め!また新しい刺客をよこしやがったか!!」
すると、群衆の中から女が一人、怒声を上げた。まるで張り詰めた氷を砕くような叫びだった。
「けど、もう我慢ならないわ!もう怯えて暮らすのはごめんなのよ!!」
言葉は怒りに染まっていたが、その奥底には、長きにわたる恐怖に蝕まれた魂の悲鳴が潜んでいた。
「……まずい状況じゃな。」
ガランが唸る。敵意という名の松明が、一人、また一人と燃え広がっていく。
「おい、ゴウセル!こういうときこそ、お前の『侵入』は使えねぇのか!?」
「使えるよ。でも……この数じゃ時間がかかる。思考はそれぞれ異なるし、恐怖で歪んだ心は簡単に読めないよ…」
「そうか。できるだけ早くしてくれよ?やられるってことはねぇだろうが…」
口論の隙を縫って、今度は別の男が唾を飛ばしながら怒鳴った。目には獣のような血走りと、人間的な絶望が混在していた。
「何をごちゃごちゃ言ってやがる……!お前ら、首を跳ね飛ばしてやる!」
その叫びは、恐怖の裏返しだった。声を震わせながら、誰もが武器を握る指を強く固めていた。槍を、剣を、弓を、まるで御守のように手放さず、しかし今にも折れそうな信念だけで立っている。
冷たい風が、砂利を巻き上げて彼らの足元を叩く。風は無慈悲に彼らの外套をはためかせ、灼くように肌を焼いた。その中で、一人の男が唇を裂いて声を吐いた。怒りに焼かれた魂が、ようやく言葉を手に入れたように。
「お前らを殺したら……次は女神族の拠点に殴り込んで、ぶっ飛ばす!!そして……攫っていきやがった「娘たち」を、俺らは取り返す!」
その言葉に、ガランが反応した。目が光り、頬の筋肉がぴくりと動いた。双頭槍をくるりと回し、一瞬の間を置いて――雷鳴のごとき音と共に、周囲の武器が一斉に砕けた。
刃が跳ね、柄が折れ、石畳に銀や鉄が飛び散る。破壊は精密で、しかも容赦がなかった。熟練の舞踏のように、滑らかでいて致命的だった。次の瞬間、ガランの巨体が音もなく男の眼前へと迫る。あまりの速さに、風すら置き去りにされた。
「なっ……!?」
男の瞳が、剣の柄だけを映していた。銀の刃はすでに地面でバラバラになり、光を失っていた。膝が砕け落ち、言葉にならない呻きが唇から漏れる。咄嗟に手を前に突き出した――"やめてくれ"という祈りだった。
(……しまったわい。やりすぎた。)
ガランは胸中で舌打ちした。暴威を振るうつもりはなかった。ただ、真実を聞きたかっただけなのだ。
彼は表情を和らげ、まるで孫に語りかける老爺のような声色で言った。
「教えてくれんかの。……お主、さっき何と言った?それだけでよいのじゃ。……な?」
「ひっ、ひぃ……!!」
男は地に伏し、頭を抱え、震え始めた。もう言葉は出なかった。心が折れ、魂が閉じてしまったのだ。
ガランは眉をひそめ、顔を上げた。周囲を見渡すと、他の者たちもまた同じように腰を抜かし、武器の破壊に膝を震わせ、恐怖に黙りこくっていた。赤い鎧に緑の光を宿した瞳、圧倒的な力の顕現。人間たちはそれを"神"ではなく、"死"の化身と見なしていた。
「……う~む、やりすぎたかのう?」
「だな。お前、今の光景を見てみろよ。こいつら、俺らを処刑人かなんかだと思ってるぞ?もうちょっとこう、やりようがあっただろ……?」
「いやぁ、ぱっといいのが思いつかなんだ。つい、反射で……はぁ、どうしたもんか……」
すると、風に乗ってかすかな、また別の声が届いた。乾いた杖の音と共に現れたのは、一人の老人。山岳の老木のように背を曲げ、額には幾重もの皺が刻まれている。この街の長老であった。
彼は崩れた人々を見渡し、力なき眼差しを空に向けて、重く沈んだ声を落とした。
「何ということか……!作戦は……失敗したというのか……。」
地に膝をついていた男が、ゆらりと起き上がる。屈辱と恐怖に濡れた顔を伏せたまま、長老の前に進み出て、深く頭を垂れた。声は絞り出すように、喉の奥から這い出た。
「申し訳……ありません、長老……!我々は、ほんの一瞬で全ての武器を破壊されてしまいました!――あの赤い鎧の男に、です!奴は……あれは、化け物です!女神族め、なんて兵を……!」
男の声は、断罪の鐘のように広場に響いた。人々の心に染みついた疑念に火を注ぎ、畏怖を確信へと変えていく。
長老は沈黙した。まるで魂の灯火が今まさに吹き消されようとしているかのように、顔を下げ、唇を噛み、目を閉じた。その姿はまるで、砂漠に根を張りながらも枯れゆく大樹のようだった。
「……おお……何たる結末か。やはりこの街も……他の街と同じく、焼き尽くされる定めなのか……」
彼の杖を握る手が微かに震えた。次第にその震えは全身へと伝播し、ついには杖を握る力すら失われた。
カタン――木の杖が地面に落ちた。乾いた音が、失意の宣告のように響く。
「あ……杖が……」
長老が腰をかがめようとしたそのとき
「はい、どうぞ。」
柔らかな声とともに、杖が手渡された。澄んだ水を思わせる眼差し、美しき少年、ゴウセルだった。
長老は杖を受け取り、驚きと困惑の混じる眼差しで彼を見つめた。まるで深い霧の中に一条の陽光を見出したような、そんな眼だった。ゴウセルの瞳に宿る透明な意思に、長老は己の長い年月で培った直観を呼び覚まされる。
「お……お主……もしや、女神族ではないのか?」
問いは静かだったが、空気は張り詰めた。だが、ゴウセルの返答はあまりにも平坦で、あまりにも澄んでいた。
「うん。そうだよ。」
その言葉には誇張も虚飾もなかった。嘘という毒を一滴も含まぬ、完全な"真"だった。長老の心に、重く閉ざされた扉が、わずかに軋みを立てて開いた。
「お……おお……この者は、女神族ではない……!」
言葉は無意識に漏れた。しかし、それは広場にいた者たちの価値観を打ち砕くのに十分だった。
「長!?な、なにを仰って……!」
人々が動揺する。ガランを"化け物"と呼んだその口で、今や長老がその一派を称えるなど、到底理解できることではなかった。人間たちは困惑の中、目を細め、眉をひそめ、互いに視線を交わす。だが、長老の声がそれらを断ち切った。
「街の者たちよ。よいか、耳を澄ませい。この方たちは女神族などではない。「言葉」だけであるが、……儂にはわかる。この眼で、この魂で感じるのじゃ。嘘偽りはない。」
「な、何ですって!?では、なぜ……あのライトは反応したのです!? 膨大な魔力を持つ者にしか反応しない、あの膨大な光は……!」
問いかけは怒りにも近かった。だが、それに答えたのはゴウセルだった。まるで真理を語る哲学者のように、理性をまとった声で答えた。
「それは、僕たちが膨大な魔力を持っているからだよ。でも、安心して。それをこの街を壊すために使うつもりはない。」
人々の目が揺れる。理解と拒絶、疑念と安堵がせめぎ合う。そのとき、ガランが一歩前に出て語り出した。
「すまんのぉ。先ほど、お主が言ったろう?"娘たちを取り戻す"と。……あれが、気にかかってな。わしはその真意を尋ねたかっただけなんじゃ。」
声は低く、どこか後悔を滲ませていた。
「じゃが、そのためには……お主らの武器を先に壊しておくほうが、安全かと思うたんじゃ。うっかり誰かが飛びかかってきたら、こちらも反応せざるを得ん。……すまん、あの状況では冷静な判断ができなんだ。乱暴にしてしもうた……本当にすまんかったのう。」
その言葉に、誰も即座には反応できなかった。あまりにも不釣り合いだったからだ。つい先ほどまで空を覆い尽くすほどの威圧を放っていた巨人が、今や申し訳なさそうに頭を掻いている。まるで山が謝っているかのようだった。人々は呆然とし、口を半開きにしたまま、ただ立ち尽くしていた。
そして、そんな中で、ゴウセルは、ガランの語りが一区切りついたのを見計らって、再び長老へと向き直った。
「……あなたが、この街の長老?」
ゴウセルの声は静かだったが、その眼差しには、透き通る湖面のように何もかもを見透かす冷徹さが宿っていた。
「はい……そうです。」
長老は頷きながらも、その肩には老木のような疲弊が滲んでいた。言葉を発するごとに、目の奥の炎がわずかに揺れる。
「……ねぇ、"娘たちがどうこう"って話……詳しく聞かせてよ。」
ゴウセルの問いかけは軽やかだったが、そこに宿る気配は重い。まるで針の先に乗せた天秤のように、無数の可能性を見極めようとしている。
長老は、重苦しい呼吸を一つ吐いた。言葉の刃を研ぐように、記憶の奥底に手を伸ばす。
「……数日前、この街に"女神族"を名乗る連中がやってきました。やつらは挨拶も交渉もなく、いきなり食料と物資を奪っていった。……何の見返りも求めず、ただ"奪う"だけの支配でした。」
声には怒りよりも深い疲労があった。希望を摩耗しきった者の声――それは乾いた風のように、ゴウセルの胸を撫でていく。
「最初は、私たちも抵抗しました。だが……最初の反抗で一人、殺されたのです。見せしめでした。それ以降、誰もがその足を止めました……。」
「………………」
「やがて、奴らの振る舞いはさらに苛烈さを増しました。我々を安賃金で酷使し、税の名目で残された物すら取り立て、我々は栄養すら奪われていきました。若者にわずかな食を譲るのがやっとで、皆……この通り、骨と皮になってしまった。」
長老の手が、膝の上で震える。爪の先には泥が入り込み、その下には過労と飢えの色が沈んでいた。
「そして……今日の昼下がりのことです。奴らは十人で現れ、こう告げました。」
――上からの命令で、取り立ては廃止される――
「……良い話のように聞こえるでしょう?」
「まぁ、いいように聞こえるな。よかったじゃねぇか。」
「こぉれ、スプレッド。口を慎め。」
「へいへい……」
「(喋る鳥?…まぁいいか。)……だが、問題はその"代償"でした。」
――若い年頃の娘たちはすべて我々が預かる。拒否権はない――
その言葉が地面を打つ石のように重く響いた。広場の空気が一瞬で凍りつく。誰もがその意味を察し、唇を噛みしめる。
「……我々に、抵抗は残されていませんでした。刃を向ける意思すら、搾り取られていたのです。そして娘たちは、ただ泣きながら……連れて行かれました。」
「……攫われたってことかよ。女神族め、やることが腐ってやがる。」
「彼らは我々が反抗の気配を見せるたびに、決まってこう言うのです。」
――これは報復だ。お前たち人間が何を知っていようが、関係ない――
「……なんのことか、まるで心当たりがないのです。」
その言葉に、ゴウセルとガランは何も答えなかった。彼らにはわかっていた。遥か昔、人間が魔神族に肩入れした時代の"報復"であることを。しかし、それを告げたところで、老いたこの街は何一つ救われはしない。
「……ありがとう。話してくれて、よかった。」
ゴウセルの声は優しく、それでいて痛みを含んでいた。長老がふと顔を上げると、彼の視線はすでに決意を宿していた。
「これから、どうされるおつもりですか?」
ゴウセルはガランを見やる。ガランは、無言で小さく頷いた。意志の槌が心の中で鳴り響く。
「長老。娘たちが攫われた場所を教えてください。僕たちが、彼女たちを助けに行きます!!」
「なっ、なにを……!?」
長老は目を見開いた。その言葉の重みに、すぐには反応できなかった。そして――止めようとした。
「おやめなさい!たとえあなた方がどれほど強くとも、それは無謀です。この街はもう…終わっているのです…!」
哀しみと諦念が入り混じった声。それは希望を恐れる者の言葉だった。
すると、ゴウセルの肩に止まっていたスプレッドが、勢いよく空へと跳び上がり、長老の鼻先まで飛び出た。
「馬鹿野郎。そんな泣き言がなんになる?お前、俺たちの士気を折りにきたのか?」
「……違う!違うのです……!私は、あなた方の"善意"が……死に繋がってしまうのが怖いのです!あなたたちは優しい。それが私には、痛いほど伝わってくる。だからこそ、死なせたくない……こんな街のために……!」
「へッ、いかにも甘ったれた台詞だな。続けりゃ、舌を噛み切らせるぜ?」
「……うぅ……」
「まったく、ゴウセルと同じで"甘さ"を隠さねぇ奴だ。……だがな、それでいい。俺らは強い。女神族なんざ、顔だけ威張った小物だ。あんな連中に、負けるつもりはねぇ。」
沈黙。
「不安か?だったらその不安、背負っとけ。俺たちが、まっすぐ晴らしてやる。」
静寂の中に、炎のように響いた言葉だった。
「……で、どっちなんだ。方向は?」
長老は、しばし目を伏せた後、静かに答えた。
「……南西方向です。山をひとつ越えた先に、巨大な城が……そこに娘たちが……」
「ありがとうな、ジイさん。」
スプレッドはひらりと空を滑り、再びゴウセルの肩へと戻る。その小さな瞳に、獣のような闘志が宿っていた。
「行くぞ!」
『おう!!!!!』
二人はひとっ飛びで山を越えるほどの跳躍力を見せた。腰を抜かしたままの人間たちは、それをなにかの夢じゃないかと思いながら眺めていた。長老は彼らを見て、祈る。
「お願いします。彼らを良い方向にお導きください。……「エリザベス様」……。」
────
「いやぁ〜、今日はとんでもねぇ収穫だったなぁ!」
広大な宮殿の廊下を、皮肉なほど陽気な声が満たした。そこにいたのは、紅蓮の紋章を肩に刻んだ十人の男の女神族たち。捕えた娘たちを弄ぶように語り合うその口ぶりは、まるで戦利品を誇る狩人のようだった。
「全くだぜ。しかし、奴らを縛っておかなくてよかったのか?」
鋭利な骨ばった頬をもつ細身の男が問いかけると、腕の筋肉が岩のように隆起した男が笑った。
「心配すんな。あの牢獄は、魔力の盾に何重にも包まれた鉄壁だ。あんなもん、我ら女神族の術にすら手を焼くほどの代物よ。まして人間など、触れることすら叶わん。」
男たちの背後、銅に似た色合いの巨大な扉が重苦しい存在感を放っていた。その扉の奥に、青黒く光る結界が絡みついた牢獄が眠っている。中には、娘たちが雑に、絶望の檻に閉じ込められていた。
「だがよぉ、何でまた急にラボラス様は娘どもを集めろなんて言い出したんだ?」
不意に発せられた疑問に、仲間の一人が肩をすくめる。
「さあな。理由なんざ、聞いた瞬間に首が飛ぶ。あの人、気まぐれと冷酷が同居してるからな。」
そのとき、列の端にいたずんぐりとした男が突然、鼻息を荒くして怒鳴り出した。
「んがぁっ、もう我慢ならねぇぞ!」
彼は反対方向、つまり牢獄のほうへと、太い脚を揺らして突進した。床石がその体重で軽く軋んだ。仲間たちは一斉にため息を漏らす。
「あいつ……まさかヤル気か?」
「間違いねぇ。抑えきれねぇ欲求を腹に抱えた男だからな。」
「女神族の中でも忌み子扱いされてたしなぁ。ネロバスタ様に消されかけたの、忘れてねぇぞ。」
「今あいつとつるんでんの、俺らだけじゃねぇか?」
「けどやばくねぇ?ラボラス様、確か『傷物にはするな』って……」
「そうは言ってもなぁ。あいつが暴れだしたら止まんねぇし。街の人間の体じゃ、俺たちも全力を出せねぇ。抑え損ねりゃ、こっちが見捨てられちまうかもな。」
「ほんと、ムカつく時代だぜ。かつては我らを讃えて土を舐めた人間どもが、今や目も合わせねぇ。」
そんな呪詛の応酬に、静かに割って入る声があった。
「──そうか、そうか。そいつは苦労してるなぁ。」
低く、どこか皮肉めいた声音。男たちは動きを止めた。前方に目を向けたその刹那、突風が烈火のように吹き抜け、視界が一瞬で白く染まった。次に意識を取り戻した時、彼らは全員、石畳の上に崩れ落ちていた。
声の主はガランだった。大鎌を横一文字に振り抜き、空気を裂く一撃で九人の女神族を一気に気絶させたのだ。斬撃ではない。ただ、風圧と気迫だけで、彼らの精神を薙ぎ払った。
「これをしたって人間は死なんのじゃろ?」
「うん。女神族だけが死ぬ。その証拠に……ほら。」
ゴウセルが淡々と答える。実際、倒れた九人の体に外傷はなかった。
「すぐに目を覚ますよ。だから彼らも街に送ろう。」
「そうじゃな……さて、わしらの目的は――あそこか?」
ガランは背後にそびえる巨大な扉を見やった。
「うん、間違いなく。」
「ならば……騒ぎを聞きつけ、他の者が動き出すやもしれん。お主らは前後を見張っておれ。儂は行く。あの牢の娘たちを、必ず救い出す。」
「わかった。くれぐれも油断しないでね。」
「ふん、承知しておる。」
ガランはその場から音もなく姿を消す。黒煙のように立ち昇ったのは、彼の魔力が空気に刻んだ残滓だった。
スプレッドはその羽根をばさりと広げ、妖精の姿へと変化した。軽やかに舞い上がり、ゴウセルと背中合わせに空を巡りながら、警戒の眼を周囲へ向ける。
「……これ必要か?」
「念には念を入れよってやつだよ。来るかもしれないしさ。」
「来るかぁ?潜入したとはいえこんなにバカでかい城だ。それなのに人気も少ないしよぉ。俺は来ねぇと思うけど……」
スプレッドの目が一瞬で鋭くなった。彼はすぐさま、視界の端にいた一人の女性に視線を留めた。数瞬の静寂。彼女もまた、スプレッドを見返していた。その目が交錯したとき、スプレッドの表情が微かに歪む。
その瞬間、全てが止まった。グラーシャの足元が急ブレーキをかけたかのように止まり、目の前に立ち尽くす二人の姿に気づく。静かに、大剣を構え、警戒の態勢を取る。
「なぁ、ゴウセル。前言撤回だ。いる。」
「?いる?どこに?」
「前。」
ゴウセルはその言葉に疑念を抱きながらも、背中から顔を出し、視線を鋭くした。そこに確かにいた。じっと彼らを見据えている。目の前の二人が、ただの通りすがりではないことを即座に理解した。
「お前ら……そうか、あの街に行ってた魔神族と妖精族だな?」
女の声がかすかに震え、しかし確信を持って言葉を吐いた。その瞬間、スプレッドは少しの間をおいてから、ある程度を把握。そのまま無言で右手を前に突き出した。まるで挑発するように。
「そりゃあお前、私を煽ってるのか?」
「逆にお前には何に見える?言ってみろ。」
スプレッドはその目に、冷徹な光を宿らせていた。その問いに、グラーシャはしばし思考を巡らせ、やがて口を開く。
「なるほど、よほどお前、自分の立ち位置を理解してないと見た!!私は女神族、グラーシャ様だというのにな!」
「んなこた知ってる。それをわかったうえでここに侵入してきた。で、来ないのか?自分の命を失うことが嫌だった臆病者。」
グラーシャはその一言に、顔を紅潮させるのが分かった。驚きと憤怒が交錯する。突如として、彼女の手が握られた大剣に力を込め、その刃をスプレッドに向けて振りかざす。
「ふざけるなよ。お前みたいな下等種族にそんなことを言われる筋合いはない!死ねぇっ!」
剣が振り下ろされる。その一撃を受け止めるかのようにスプレッドは微動だにせず、彼の右手が無意識に地面に触れた。そこで、彼に異変が起きた。それは、まさに地を這うように広がる「ツル」だった。手のひらから、爪の先まで、あらゆる部分からつる植物が生え始める。異常な速さで、無機物さえも植物へと変わっていく。
(え……?)
グラーシャはその光景に目を見開き、動揺が走る。だが、次の瞬間、彼女が感じたのは「剣を握る感覚がない」という不安だった。目の前で、彼女が確かに握っていた大剣が消えていた。目をぱちぱちと瞬きしながら、その手を見下ろす。何かを感じたそのとき、背後から冷徹な声が響く。
「なんだぁ……!?」
振り向くと、そこに見えたのは彼女自身の大剣を握る、妖精族の姿だった。スプレッドはそれを冷静に一振りすると、鋭い音を立てて剣を切り放つ。
「…………じゃあな。」
その一言とともに、グラーシャはしばし呆然と立ち尽くしていた。しかし、すぐにその理解が到達し、叫び声を上げる。だが、その声は一瞬にして止まった。妖精族のひと振りで、彼女の命は瞬く間に終わりを迎えた。死体はまるで無惨に引き裂かれたように、真っ二つに割けている。スプレッドは冷徹な目でその死体を見下ろし、大剣をその場に放り捨てた。すぐにその背を向け、歩みを進める。
ゴウセルが軽く首を傾げながら言った。
「ねぇ、今の何?君の手からツルが出てきてたけど……」
「俺の魔力『植物化』。自分の体と無機物のみを植物に変化させることができる。そして、それは俺が自在に操れるんだ。……今のはそれだ。」
「へぇ〜。便利そうだね!!」
「お前の魔力ほどじゃないさ。」
少しの沈黙。スプレッドはゴウセルを見やり、続ける。
「ま、そんなことはどうでもいい。……うまくいったか?ガラン」
「うん、いったぞ。じゃが、娘の人数が多すぎる。儂一人じゃありゃどうしようもないんでな。手伝ってくれるか?」
その言葉を聞き、ガランは憮然とした顔で立っていた。背後には、倒された女神族の死体と、粉々に砕けた扉の残骸。そして、床に置かれていたのは、巨大牢獄を丸ごと変形させた、大きな球のような物体だった。
「僕、四人持つよ。そうしたら……残りは何人になる?」
「儂が担げるのは六人ほどじゃ。とすれば……後ろの、女神族に器にされとった九人を引いて、残り十人かのう。牢獄の方にもう一人、器にされとった奴がおったからな。」
「……なるほど。……ん?……おい待て。まさかと思うが、俺にその十人を持てとは言わんよな?」
スプレッドの問いに、二人は同時に黙した。何も言わないという返答こそが、最大の肯定だった。スプレッドは目を細め、こめかみに指を添えて、髪をかき乱す。
「……やれないことはないが……負荷がかかるなぁ。……この九人、置いてっちゃダメか?」
だが、問答の時間は突如、異物によって裂かれた。一つの意志が、鋭利な殺意を帯びて、彼らへとまっすぐに迫っていた。ラボラスである。
グラーシャの遅れを察知し、彼女を迎えに行く途中だった——その進路が、たまたま彼らと一直線に交差しただけの話だった。だが、交差するにはあまりに都合が悪すぎた。
ラボラスは、廊下の終端で不意に足を止める。目に映ったのは、平穏とはかけ離れた異様の光景だった。床に広がる血の花、崩れた扉、死に晒された同胞の女神族——だが彼は一瞬で事態を読み取り、理解を完了させた。
「……グラーシャは、"今は"無理らしいな。ならば……」
言うが早いか、腰の裏に隠していた短刀を左右の手にひとつずつ握り、ほとんど間髪入れずに放つ。矢のように飛来したその刃は、真紅の鎧を纏ったガランの懐へと届く直前、あっさりと弾かれた。
ラボラスの表情は微動だにしなかった。むしろ、口元に小さな笑みを浮かべてすらいた。弾かれることこそが、彼の狙いだったのだ。
「お前、魔神族だろう?……そこでくたばってる女と同じ。俺は……お前らを"知ってる"。」
「ほほぉーう……お主、女神族か?カッカッカッ、卑怯な真似をしおって。」
「フッ、"卑怯"だの"汚い"だの……そんな言葉で片づけるのはやめとけよ。悔しかったら――来い。」
「別に悔しくもなんともないんじゃが、どうするかのぉ。」
「……?」
ラボラスはふと、ガランの背後に目をやった。赤い鎧の陰から、白磁のような手が床に垂れている。否、白ではない。血に濡れ、赤く染まった女神族の服だった。瞬間、彼の脳髄に警鐘が鳴る。視線を上げる。奥にあったはずの牢獄の鉄扉——それが、無残に破砕され、歯抜けのように口を開けていた。
しまった。このままでは、献上すべき娘たちが全て"散って"しまう。あの御方に渡す器が、一つも残らない。それは、すなわち"死"の宣告に等しい。単に肉体が滅ぶだけではない。存在ごと、断罪される。……それだけは、何があっても避けなければならない。
しかしラボラスの表情に、狼狽の色は一切なかった。鼓動の早鐘を胸の奥に隠したまま、静かにもう一振り、短刀を抜き放つ。そして、再び宙へと放つ。弾かれる。先程と同じく、赤の鎧が刃を難なく弾き落とした。
「……しつこいのぉ、お前さん。そんなに、やられたいのか?」
ガランが鼻を鳴らす。だがラボラスは、その嘲りにすら無関心だった。その眼差しは、もはや氷のように冷えていた。
「しつこくしなければ"まずい"ことに、ようやく気づいたからな。……本来なら生きたまま、ゆっくりと苦痛を刻み込むつもりだった……が、もう、そんなことはどうでもいい。」
その声音に、殺意が籠もる。火のように熱く、氷のように冷たい。感情はない。あるのは"意志"だけだ。
「確実に、殺す。」
「面白い……そこまで言うなら、お主、儂とやり合って――」
「――ここは僕にやらせて。」
割って入ったのは、静かな、けれど明確な意思を帯びた声だった。ゴウセルが、一歩前に出た。
「……ゴウセル?」
「嫌な予感がする。……彼は、君を"誘っている"ようにしか見えない。」
「誘っている……?ふむ、よくわからんが、そういうものかのう?」
「ナイフを投げる対象は、僕たち全員のうち誰でもよかったはず。でも、彼は"君"を選んだ。武力において最も優れる君を。あえて、だ。」
ゴウセルの声には一点の濁りもない。その視線は、ラボラスを真っすぐに射抜いている。
「それが偶然だとは思えない。……なら、僕が行く。これは、"対話"じゃない。」
「…ほう。ただの貧相な小僧が、俺とやり合うつもりか?身の程という言葉を知らんらしい。」
「それは、こっちのセリフだよ。」
ゴウセルは静かに背筋を伸ばし、前へと踏み出す。その目は、決して嘲らない。だが、決して怯まない。感情ではなく、確信が支えていた。
「僕は武力じゃ勝てない。でも魔力なら、僕はこの世界の"誰よりも"強い。……そう、断言できる。」
「ふっ……ふあははっ!大きく出たな、小僧!一応言っておくが、俺は強いぞ?女神族の中でも、屈指の腕利きだ。」
「だったら!」
彼は叫んだ。天へ向かって、堂々と。
「僕も"強い"!!」
四肢を広げ、誇張でも嘘でもなく、「強さ」を全身で描こうとする姿——あまりに滑稽で、あまりに幼稚。ラボラスは鼻で笑った。能力も発動していない。魔力の気配も薄い。言動だけが空回りし、独りよがりに聞こえる。余裕で戦える。そんな錯覚すら抱いた。
「"十戒"が一人、ゴウセル。行くよ!」
しかし——それは錯覚だった。
それが"錯覚"だったのだと、彼が理解するまでに、たった一拍しか要しなかった。
「……あぁ。……あぁ……?……あ、ぁあッ!!?」
次の瞬間、ラボラスの背筋を、氷の鞭が打ち据えた。
世界の空気が一変していた。温度が変わったのではない。空気そのものが、"異質なもの"に変わった。重力が乱れ、視界が歪む。ゴウセルの立っている場所だけ、まるで次元が捻じれているようだった。
余裕の笑みは霧散していた。頬を伝う汗は、もはや冷や汗というよりも、恐怖という名の"漏れ"だった。
——しまった。俺は"地雷"を踏んだ。いや、それ以上だ。これは——災厄そのものだ。
ゴウセル 魔力:侵入
種族:人形(人間ではない)
十戒〈無欲〉のゴウセルによって造られた人形であり、その強さは折り紙付き。ガランが起きるまでの三百年の年月で、スプレッドと友達になり、そして何かを作ることを得意としたらしい。
魔力「侵入」は、相手の精神に侵食し、精神に作用する力を持つ、強力な魔力だ。
闘級 33300
魔力 31000
武力 800
気力 1500
スプレッド 魔力:植物化
種族:妖精
鳥に変化していた妖精。見た目は若い好青年だが、年月で言えば千年以上の時を生きている。魔力「植物化」は自分の体と無機物のみを植物に変化させることができる。ゴウセルとは三百年の仲。
闘級 29000
魔力 10000
武力 16000
気力 3000