「十戒」——それは、「
一人一人が、ただの戦士ではなかった。いずれも"災厄"の名にふさわしい暴威と魔力を備え、凡百の存在では対峙すら叶わぬ異端。彼らに立ち向かえる者は〈四大天使〉、あるいはそれを超えるほどの"光"を有する存在に限られていた。
かつて女神族たちは、その強大な敵を打ち破るため、数えきれぬ犠牲を払って常闇の棺へと封じた。だがその際——死を恐れた女神族の一部は、仲間を見捨てて逃げ延びた。そうして数百年後、彼女たちは人間の肉体を器として密やかに生き延びてきたのだ。
彼女らは安堵していた。もう"あれ"ほどの怪物たちは、この世にいないはずだと。
だが——その"思い込み"の上に成り立っていた安穏は、今、音を立てて崩れ落ちる。
目の前に立っているのが、「十戒」なのだから。
「さあ、正々堂々と勝負しようか、君!」
ゴウセルの声は明るく澄んでいた。だが、その眼差しには"容赦"という名の感情は一切ない。
「え…………えぁ……ぁ……」
言葉にならなかった。喉が凍りついていた。もはや抗うこともできない。ラボラスは反射的に横目で赤鎧の男を見やる。
そう——彼は、あの「十戒」のガラン。〈四大天使〉のサリエル、タルミエル、そしてリュドシエルすら手を焼いたと噂されし「真実」の魔神。その名は戦場において、まるで悪夢のように語り継がれている。
それを思い出した瞬間、ラボラスの顔から血の気が引いた。頬は蒼白となり、膝が小刻みに震え始める。精神は既に崩壊寸前で、理性が焼け焦げていた。そんな極限の狼狽のせいで、目の前の虹翼の妖精、スプレッドすらも、「十戒」の一人だと誤認してしまった。
「なぁ、ゴウセル。あいつ……震えて動かねぇぞ?どうしたんだ??」
「ふむ……我らが"十戒"と知らなかったのではないか?」
「いやいや、まさか。相手は女神族だぞ?お前らの名くらい、通ってるに決まってるだろ。」
(ええ、通っていましたとも名前だけは!顔なんて知らないんです!戦場に立ったこともないんだから!)
内心で叫び散らす。——だが、どう足掻こうとこの状況は動かない。自分に残された選択肢は、もはや一つしかなかった。
ラボラスは右足を、音もなく一歩後ろに引いた。体勢を低く、重心を崩さず、機を窺う。
「っ、来る!」
ゴウセルの思考が警鐘を鳴らした、その瞬間——
ダッ!
ラボラスは己の誇りも威厳もかなぐり捨て、背中を向けて一目散に駆け出した。先程までの不気味な威勢など、砂上の楼閣。今はただの逃走者。必死の形相、目に涙を浮かべ、歯を食いしばって。
(ふざけんなよ……聞いてねぇぞ!「十戒」が三人!?そんなの話が違うだろ!俺たちを脅かす化け物は、もう存在しないはずだった!奴らから聞いてた魔神族も妖精族も、ただの下級でしかないって……!このままじゃ……このままじゃ「あの御方」に殺されるかもしれねぇ……でも、それでもいい、逃げ切ってやる!そのときはそのときだ、命乞いでも何でもして生き延びてやる!)
狂ったように駆けながら、彼は上の階——オロバスのいる暗い一室へと消えていった。
三人は、戦いが始まるものとばかり思っていた。だからこそ、ラボラスの逃走はまるで拍子抜けの一撃だった。
「……逃げたか。」
ガランがぼそりと漏らす。その声には、拍子抜けの色と、奇妙な安堵が混在していた。
ともかく敵は消えた。次にすべきは、残された者たちの保護。倒れている九人の救出、そして牢に囚われた十人の娘たちを街へ帰すこと。二人が九人を持ち上げている中で、スプレッドは牢獄へと向かう。
重い鉄扉を開け、独り牢獄の奥へと足を踏み入れる。中には、錆びた鉄の腐臭が鼻腔を刺し、空気は濁って澱んでいた。燻んだ空間に、少女たちが九人、互いに身を寄せ合い、押し合うようにして震えていた。まるで寒夜に凍える雛鳥の群れだ。だが、スプレッドの表情は眉をひそめたままだった。
「……十人のはずだよな。」
視線を巡らせ、口の端を歪めながらガランに顔を向ける。
「おいガラン、足りねぇぞ?」
「んん?何がじゃ?」
「人数だ。ここにいるのは九人。どう見たって、一人足りねぇ。」
「一人足りん?そんな馬鹿な……どこかにおるじゃろ。」
「"どこか"ねぇ……たとえば……右とか?」
嫌な予感が胸を叩く。スプレッドはおそるおそる顔を右に向けた。
そこに、いた。
他の娘たちから距離を置いて、闇の中にひっそりと立つ少女。年頃は十六、いや、十七か。背は高く、くすんだ栗毛のセミロングが肩口で揺れ、エメラルドの双眸がじっとこちらを見ていた。雪のように白い肌には、少女特有の初々しい色気が仄かに漂っている。だが、それら全てが、暗がりの中で異様な存在感となっていた——まるで彼女そのものが"異界"に属しているかのように、浮いていた。
「……あぁ、いたよ。悪かったな、ガラン。」
「別に構わん。それより早う運んでくれぃ。」
「はいよ。」
スプレッドは左腕をゆっくりと掲げ、自らの魔力を注ぐ。その手はみるみるうちに巨大な蔓へと変化し、檻の隅で固まっていた九人の少女たちを包み込むように優しく、だが確実に掬い上げた。
言葉もなく突然そのようなことをしたものだから、少女たちは悲鳴を上げ、植物の内側から必死で叩き、暴れた。まるで籠に閉じ込められた鳥が羽をばたつかせるように。この混乱は、自分の配慮の足りなさに起因しているとスプレッドは理解していた。だが、彼にはどうすることもできない。仕方なくゴウセルを呼び、少女たちの身体を傀儡のごとく一時的に制御してもらうことにした。
「悪かったな、荒っぽくなっちまって。……さて、残るは一人か。おい、お前、手を貸せ。」
スプレッドは静かに右手を差し伸べた。
少女はそれを、迷いもなく、力強く、払った。
スプレッドは目を瞬き、冗談かと思ったようにもう一度手を差し出した。だが、返ってきたのは同じ拒絶の動作だった。
「……お前、ここに残りたいってのかよ。」
低く、怒りの色を含んだ声に、少女は無言で首を横に振った。
「じゃあなんで俺の手を振り払う!俺が嫌なのか?」
「うん。」
即答だった。あまりに素直なその言葉に、スプレッドは虚を突かれ、ぽつりと呟いた。
「……ああ、そう……なんだ……」
「私、あの人のところに行く。いるんでしょ?さっき呼んでたじゃない。」
「え、ああ、ゴウセルのことか?」
「違う。」
「え……まさか……」
少女はニッと口角を上げると、踵を返して軽やかに牢を出た。そして迷いなく、赤い鎧を纏った男——ガランの肩に、ひらりと飛び乗った。
「ありがとね、ガラン!!」
その笑顔は、空間の暗さを跳ね除けるように明るかった。まるでそこだけ、陽の光が射したかのように。それを見たスプレッドは、内心でむくれた。なんか、すごく……ムカついた。
「ん?お主……さっき襲われとった娘か?」
「そう。で、あなたに助けられたってわけ。あっ、そうそう。名前を言ってなかったわね。私、アン。よろしくね!」
ガランは少女、アンの名乗りに対し、ふと眉を寄せて首を傾げる。
(……あれ? 儂、この娘に名乗った覚えはないんじゃが……まぁ、いいか。)
彼女——アンは、他の九人とは決定的に異なっていた。震える娘たちが膝を抱えて身を縮める中、彼女はただ一人、牢へやってきた女神族の男に向かって拳を振りぬき、その頬を殴り飛ばした。臆さず、恐れず、ためらいもなかった。それが彼女の本性であり、己の資質を彼女自身が最もよく知っていた。勇気、快活、無鉄砲。それは褒め言葉にもなるし、時に無謀とも呼ばれる資質である。
怒った女神族が彼女を力ずくでねじ伏せようとした、その瞬間。背後から現れたガランが、無言でその男の身体を真っ二つにした。鋭い斬撃は一閃、まるで彼の怒りが物理となったかのように男を両断した。
斃れた男の死体を見て、九人は短く悲鳴を上げた。「ひっ」と喉の奥で潰れた声を漏らし、さらに縮こまる。だがアンだけは、まるで別の生き物のように、息を呑んだままガランを見つめていた。そのエメラルドの瞳に、恐怖はなかった。あったのは、熱に浮かされたような憧れの光…
彼女には夢があった。数年前、街の古書店でふと手に取った一冊の伝記。それは、異形の存在「血に濡れた魔神」について記された本だった。迫り来る脅威を、一切の躊躇なく、力でねじ伏せる者。その冷徹さと正義の苛烈さを併せ持った強さに、アンは心を撃たれた。
そして彼女は、目の前の男。この首の長い、紅い鎧を纏った剣鬼こそが、伝記にあったその"魔神"だと確信していた。
——そいつは「十戒」が一人「真実」の戒禁を持ちしもの。偽りを口に出せば何人たりとも石と化す。彼から逃れるすべはない。ガラン、それが彼の名前。血に濡れた鎧を着し、首の長い長身の化け物……——
「えーっと、一、二、三、四……十人か。うぅ〜む……まさかここまでおるとはな。驚きじゃわい。さてと、こやつも連れて行こう。これで中の女神族は消えたはずじゃしな」
(ガラン……間違いない……間違いない……! あぁ、夢みたい……憧れが今、目の前に……!)
彼女の中に「魔神に殺される」という恐怖は存在しなかった。それは憧れの存在に出会えたという感動のせいでもあるが、何より彼の一挙手一投足から「闇」を感じなかったからだ。その所作には一切の私利私欲がなく、彼の行動には正義が通底していた。彼女は確信していた。この人は、正義だと。
「さっきの九人も合わせると二十人……ちょっと多いのぉ。少しばかり、ゴウセルとスプレッドに手伝ってもらうとするか。」
(……ああ、行ってしまう……待って、待って……!)
声を出そうとした。だが、出なかった。理由は明白——恥ずかしかったのだ。顔が火照っているのを手で確かめると、指先まで熱を持っていた。彼女は慌てて冷たい壁際へと身を寄せ、手足を冷やすようにして自分の鼓動を鎮めようとした。
そこへ、スプレッドがやってきた。彼は左手を植物に変え、九人の少女を優しく包み込むようにして持ち上げた。その動きには悪意がない。むしろ不器用なまでに優しい。そのやり方は、どこかガランと似ていた。
(この人も、きっとガランの味方なんだ……)
「……おいお前、手を貸せ。」
差し出されたスプレッドの手を見て、アンは心の中で即座に結論を下した。——違う、あなたじゃない。私は、あの人の隣にいたいの。申し訳ないけれど、ここは譲れない。彼女は黙ってその手を払った。そして、再び差し出された手も拒んだ。次の瞬間、彼女は牢を飛び出し、躊躇なくガランの肩へと跳び乗った。
「ありがとね、ガラン!」
満面の笑顔。その輝きは、煤けた牢の中で一点だけ陽光が射しているかのようだった。スプレッドはそれを見て、妙に腹立たしい気持ちになった。
そうして一行は牢を後にし、宮殿の外へと出る。遠くに広がる街を指差し、ガランが飛翔の準備をする。
「アン、と言ったか。……口を閉じとったほうがいいぞ。舌を噛み切るかもしれん。」
「えっ?……わ、わかった!」
「よし、帰るか!!」
次の瞬間、二人の魔神よ一人の妖精は、大地を蹴った。風が一気に唸りを上げ、身体がぐんと空へと持ち上がる。跳躍は山をも越え、空気が稀薄になるほどの高度に達していた。アンは飛ばされぬよう、必死でガランの首にしがみつく。眼下には一面の雲と、縮む大地。その光景に、震えるどころか、彼女の心は高鳴っていた。
「すごい……!!やっぱりあなた、ガランなのね!!」
「……なぁ、儂、お主に名を名乗ったかのぉ?そこの記憶だけ、ぽっかり抜けておるんじゃが……」
「ふふっ、それはそうよ!だって、名乗ってないもの!」
「じゃあなんで儂の名を知っとるんじゃ!?」
「ふふん、それは着いてから教えてあげる。ほら、見て……街が見えてきたわ!」
街の広場には、人々の姿が見える。誰もがこちらに手を振っていた。
────
「はぁっ……はぁぅ……ぅあ……。」
肺を絞られるような息遣いとともに、ラボラスは膝から崩れ落ち、床に手をついた。全力疾走の末の肉体的限界が、四つん這いという屈辱的な姿勢を彼に強いた。汗が額から顎を伝い、床に点を描く。
そんな彼を見下ろすオロバスは、瞳の奥にひび割れたような冷淡さを湛え、声を絞り出すように言った。
「……あいつらから逃げてきたみたいだね。」
「あぁ……っ……はぁ、はぁ…………想定外だった。まさか、あいつらが『十戒』だったとはな……!逃げはしたが、この先どう動くか……」
言葉を途切れさせながら、ラボラスは震える指先で額の汗をぬぐった。だが思考は熱を帯びたまま、止まらない。
「……さぁ、どうしようもないんじゃない?僕はあいつらに太刀打ちできないし。」
オロバスの言葉には諦念というより、冷笑が混じっていた。魔力を持たぬ彼にとって、「十戒」との対峙など、それこそ神話に登場する巨竜へ素手で挑むに等しい。
「……そうだよな。お前には魔力がねぇ……」
「……………あぁ、そうだね…………。」
「となると、俺たちがこの先、ハッピーエンドに辿り着くには」
「"私ら二人"であの街に行くしかない。」
硬質な声が、部屋の背後から割り込んだ。振り返れば、そこにいたのは、死んだはずの女神——グラーシャだった。
喉元から腰まで、真っ二つに断裂されたはずの肉体は、いまや寸分の狂いもなく元通り。血の痕すら残っていない。だが、目に浮かぶのは理性を焼き尽くされた猛獣のような充血、そして噛み砕かれそうなほどに強張った顎。
彼女の魔力の名は「
魔力は死さえ超越する。傷を受けた瞬間に組織を再生させ、止まった心臓や断裂した内臓でさえ蘇らせる。だがその代償は甚大。
——彼女は暴走する。
抑えが効かぬ衝動が、神性の仮面を打ち砕く。血管が膨張し、拳は小刻みに震えていた。その様子は、もはや女神というより、奈落より這い出た復讐者のようであった。だが彼女は、己の内に潜む猛火を、必死に押し留めていた。それは他者のためではない。純然たる「自己保存」——今以上の苦痛から逃れるために。
「そうだな。……その前に、計画を立てよう。」
ラボラスの声は、木漏れ日が氷を溶かすように穏やかだった。彼の言葉にグラーシャは目を伏せ、静かに頷く。その瞬間、彼女の背後の空気が揺らいだ。陽炎のような熱の歪みが、次第に形を取り始め、やがて圧倒的な存在感をもった拳となってそびえ立つ。
「
これは、ラボラスの肉体が自動で放つ反撃の魔力だ。彼に向けられた殺意や暴力的な衝動を、等価以上の力で撃ち返す。グラーシャが拳を振るえば、その倍の拳が彼女自身を叩き潰すだろう。
彼女の魔力は、治癒はできても、痛みは消えない。つい先ほど、真っ二つになった肉体が修復される際の激痛を、彼女はまだ覚えていた。喉を引き裂かれたような絶叫、床を濡らした涙と嘔吐。それを、繰り返したくはなかった。
「……落ち着くには時間がかかるだろうな。それまで、耐えてくれ。俺も好んでやってるわけじゃねぇ。……この魔力は、無意識に発動しちまうんだ。」
ラボラスの声には、どこか贖罪を乞うような響きがあった。だが彼女は、苦々しい顔をしながら鼻を鳴らす。
「……クッ。ほんっと、こういう時に限って、噛み合わない能力よね。」
「まぁな。で、どうする?相手は『十戒』だぜ?」
「そっちが言い出したんでしょうが。」
「ま、まぁそうだが……」
言葉を探して視線を泳がせるラボラスの横で、オロバスが静かに口を開いた。口角には、微かに皮肉を帯びた笑み。彼が語ったのは、無謀と一笑に付されるような作戦だった。だが、二人はそれを聞くと、意外にもほほえんだ。計画に不備はある。成功の保証もない。だが、この場に必要だったのは「動く理由」だった。
二人は迷うことなく部屋を出る。長方形の窓を蹴って、冷たい風を裂きながら宙へ舞い、街へ向けて飛翔した。残されたのは、オロバスただ一人。彼は静かに水晶玉を見つめ直す。透き通った球面の奥に映るのは、娘たちの帰還を涙と歓喜で迎える街の人々の姿だった。
────
娘たちが戻ってきた。それはただの帰還ではなかった。家族にとっては、ぽっかりと空いた心の穴に温もりが流れ込むような、言葉を超えた回復であった——まるで長い冬の果てに届いた春の息吹が、凍えた胸をそっと溶かすように。
男たちは震える九人の少女をそっと抱きかかえ、身を縮める彼女たちの肩に毛布を掛けながら、暖炉のある方へと導いた。女性たちはすぐさま竈に立ち、湯気を立てるスープやわらかなパンを用意する。陶器の器が並び、匙が音もなく添えられた。その一つひとつに、心を癒すための祈りにも似た慎重さが込められていた。
だが一方で、女神族に「器」として利用されていた九人は、その場に溶け込むことができなかった。所在なげに辺りを見回す彼らの表情は、端的にいえば薄ら寒い。街の人々の視線が、無言の拒絶として肌に刺さった。彼らは居場所のない空気を察し、足早にその場を離れ、まるで己の存在そのものを消すかのように街の外へと姿を消した。
そんな中、一人の男がガランたちのもとへと歩み寄った。彼は深々と頭を下げ、途切れ途切れの言葉で、謝罪と感謝の念を伝える。
「娘たちを、助けてくださって……にも関わらず、先程は……あんな……本当に申し訳ありませんでした……!」
だが当のガランは、まるでそうした感情の重さを軽やかに跳ね返すような調子で答えた。
「なぁに、お前さんらは何も悪うないさ。儂がお前さんらの立場だったら、同じことをしとったじゃろう。ありゃ正当防衛ってもんじゃ。」
「し、しかし……」
「気に病むな。それよりも、娘たちをしっかり介抱してやれ。儂の身体に乗っ取っとるこやつはともかくとして、アン以外の娘たちは、未だ心の傷は癒えておらんはずじゃ。」
「えっ……あぁ、はい!分かりました……本当に、ありがとうございます!」
男は返す言葉も見つからぬまま、うなずいて駆けていった。揺れる足取りで五人のもとへと向かい、その背には安堵と懺悔が綯い交ぜになっていた。
五人の少女たちは毛布に包まれ、家族の腕に抱かれていた。乾いた唇にはスープが運ばれ、脈打つ鼓動が少しずつ、現実へと引き戻していく。だがそれを見たアンは、憮然とした表情で鼻を鳴らす。
「なんじゃ、不満か?お前さん。」
ガランが肩に乗せたまま、ちらと横目で見下ろすと、アンはむっつりとした顔で答えた。
「違うわよ。ただ、あの程度でガタガタ震えてるのが、なんともみっともないって思っただけ。」
「怖いもんは怖いんじゃ。それは仕方のないことじゃ。お前さんは……度胸がありすぎるんじゃよ。それだけの話じゃ。」
「そうかしら?」
「そうじゃとも。して、スープは飲まんでええのか?」
「いらないわ。……私は昔から、空腹感ってものをあまり感じないの。たぶん、生まれつき、そういう体なのよ。」
「ほぉう……。」
ガランは視線を娘たちに戻した。毛布に包まれた少女たちの傍らには、父母らしき者たちが膝をつき、手を握り、額に頬を寄せている。それは、失われたものが再び手元に戻ったという奇跡への、魂の祈りだった。人はただ生きるのではない、共に生きるのだと——彼はそう思った。
その光景を見ていると、ふと、胸の奥に疼きが走った。彼にもかつて家族がいた。老父として、日々を共に過ごし、互いの声で一日を始め、一日の終わりにまた言葉を交わした、あの日々。いまやそれは、風の音のようにかすかで、決して戻らぬ追憶にすぎなかった。
だが、彼の肩に乗るこの少女、アンには、誰も迎えに来ていない。
家族は?なぜ、彼女のもとには誰一人として駆け寄らないのか?寝込んでいるのか、それとも。気になった彼は、試しに訊ねてみた。
「……アンよ、お前さんの家族は、どこにおる?お前さんを迎えに来ておらんようじゃが……」
少女は答えた。短く、静かに。
「いないわ。」
その一言が、空気を変えた。ガランは一瞬言葉を失い、僅かに眉を顰める。
「……おっと。いらんことを訊いてしもうたか。ちと気配りが足りんかったな……」
だがアンは、かぶりを振った。表情は変わらず、ただ目だけが、少しだけ細くなった。
「ううん。そうじゃない。……私、記憶がないの。」
その一言は、夜更けの水面に落ちた小石のように静かでありながら、ガランの心に広がる波紋は止まなかった。彼は僅かに首を傾げ、視線をアンの横顔に滑らせた。知りたかった。彼女の背後に広がる空白の歴史を。沈黙の中で、問いかけるように目を細めると、アンはゆっくりと語り出した。
「……私は誰から生まれたのかも、誰に育てられてきたのかも、どんな場所で、どんな風に生きてきたのかも。全部、思い出せないの。私の過去は、初めから存在しなかったみたいに、真っ白なのよ。」
彼女の声は、乾いた風が砂を撫でるようにかすれていた。記憶という根を持たない者の孤独は、他人には触れようのない深淵に沈殿している。
「……数年前、私はひとりで草原を歩いていた。干からびたような身体で、食べるものも、飲むものもなくて。何日も何も口にせず、ついには力尽きた。意識が闇に沈んで、目覚めたとき、私はこの街のベッドの上にいた。」
その時に駆けつけてくれたのが、この街の長だったという。命の灯が風前に揺らめいていた彼女を、唯一見つけ、抱き起こした人間。アンの話しぶりには感謝も愛着もなく、ただ事実として積み重ねられているだけだった——まるで、自分の人生を他人事のように語る者の声だ。
「……それからは、この街で生活してきた。私の居場所は、ここしかなかったから。……で、今に至るわけ。」
言い終えると、アンは一息つき、肩の力を少しだけ抜いた。ガランは目を細め、老獪な声音で言った。
「あんがとさん。……なるほど、興味深い。記憶喪失か。……おぉい、ゴウセル。」
「ふぁふいぃ(なにぃ)?」
不意に呼ばれたゴウセルは、娘たちに混ざり、山盛りの野菜を押し込みながら頬を膨らませていた。その様子は、先ほどまでの重苦しい雰囲気を台無しにしかねないほどに無防備だった。ガランは思わず溜息を漏らしつつ、手招きする。
「こっちに来とくれ、話がある。」
「どうしたの、ガラン?」
「この娘が記憶を失っとるようでな。昔のことがまるで分からんらしい。……お前の"
ゴウセルは一瞬黙し、そして即座に拒絶した。
「…………無理。」
その即答に、空気が一瞬、間の抜けたものとなる。
「……無理なのか?」
「前にね、うちに盗賊が入ったんだよ。そのとき試しにやってみたんだけど……記憶を引っ張り出すどころか、脳に過負荷がかかって、そいつ子供みたいになっちゃってさ。そのまま森に走っていって、今も戻ってこない。」
「あぁ、あったな……そんなこと。泣きわめきながら"おかあさーん"とか言ってどっか行った奴か。」
「それそれ。」
「容赦ないのう、お主……。」
話の顛末を聞いたアンは、静かにガランを見た。その目には失望などではない、しっかりとした光があった。
「……いいわ。無理に記憶なんか取り戻さなくて。私は今の生活で満足してるもの。過去なんかなくても、今がちゃんとしてれば、それでいいじゃない。……それに、その記憶の中に、何か重大なことが眠っているとも限らないでしょう?」
そう言うと、アンは小さく笑った。その笑みに、虚勢ではない硬質な意思が宿っていた。
「それより、今度は私が訊きたい。……あなた、〈十戒〉のガランなんでしょ?」
ガランの目が細められた。刃を隠したような間が一瞬走る。
「……バレたら困る、ということか?」
「そう。あなたがね。街の人たちは、あなたたちが娘を救い出してくれたことに感謝してる。でも、〈十戒〉だと知ったら、すべてを疑い始めるわ。娘を助けた理由も、"何かを企んでいるのではないか"と疑われるに決まってる。……今のうちにこの街から出たほうがいい。あなた達が責められる姿なんて、見たくないもの。」
彼女の声音には真剣な色があった。敵意ではない。警鐘でもない。ただ、静かな願いだった。ガランは、ふっと息を漏らした。
「……気遣い、感謝するぞ、アン。じゃが、そういうわけにもいかん。」
「どうして?」
「……確かに、儂らはお前さんたちを救い出した。だが、それだけでは終わらんのじゃ。やるべきことが、まだ残っとる。」
「やるべきこと……?」
「そうじゃ。そして、噂をすればなんとやら、か。」
その瞬間、ガランはゴウセルを振り返った。
「ゴウセル!」
——
ガランの指先から放たれた一条の光矢が、真昼の電光のごとく街を駆け抜けた。矢は音を立てず、街のすべての人間の頭部を貫いた。だがそれは、殺戮のためではない。魔力で精緻に編まれたその矢には、明確な"情報"が宿っていた。
——女神族が、この地に来る——
光矢が伝えたそれは、突き刺さるような現実であった。人々は唐突に脳内に流れ込んできたその啓示に驚愕し、恐怖に打たれたように身を震わせた。次の瞬間、街は混乱の坩堝と化した。
「女神族が……来る!?」
「まさか……!」
誰かが叫び、誰かが泣き出し、誰かが子を抱いて走った。悲鳴が街を縦横に走り抜け、扉が乱暴に閉まり、窓が板で打ちつけられてゆく。数分足らずで街は音を失った——まるで嵐の前触れのように、全ての人間が姿を消した。
残されたのは、四人——ガラン、ゴウセル、スプレッド、そしてアンだけだった。
「お前さんは逃げんのか?」
「当たり前でしょ。せっかく「憧れあなた」と出会えたんだから……ずっと側にいたいのよ。」
「本当に強気な娘じゃ。だったら儂の後ろにいたほうがいい。これから始まるのはちょっとした戦いじゃ。」
空気が裂けた。
女神族。一人の男と一人の女が、宙を滑るようにして街へと舞い降りた。二人は無言のまま眼光を鋭くし、獲物を探す猛禽のように周囲を睥睨している。そして、女神族の女が声を張り上げた。
「あの妖精はどこに行ったのかしら!?私の身体をズタズタにしたあの化け物!絶対に許さない……殺してやる!おい貴様ら、あの妖精の仲間だろう? 居場所を吐け!」
(…声だ。この声…牢屋の外で聞こえたのは、こいつだったのね!まさか女神族だったなんて……ていうことは、隣の男も…)
アンの拳が、無意識のうちにギュッと握られた。だがその動きは勇ましさの現れではなかった。膝の奥が微かに震えている。彼女は、ようやく気づいたのだ。「強気」ではなかった。ただの「強がり」だったことに。
ラボラスは、ガランの背後で身を縮める少女を見て口元を歪めた。状況は確かに不利だった。だが、この瞬間、己に微かな光が差し込んできたように感じた。まだ、捧げ物は手元にある。彼は静かに、娘を指差す。
「まだ……俺らに運は味方してくれているみたいだな……」
「?何をブツブツ言ってやがる、気味の悪い……」
「そう言っていられるのも、今のうちだ!!」
ラボラスは娘へ向かって駆け出した。地を裂く勢いで加速し、その横目に映ったのは、赤鎧の男が宙を舞い、軽く吹き飛ぶ姿だった。直前、男は双頭槍を振り下ろしていた。つまり、意図せずラボラスの魔力が発動したのだ。
「ガランッ!!」
「やはり……彼の魔力は武力に反応して自動的に反撃するんだ……だからさっき、ガランをあそこまで挑発したんだ!」
ラボラスは笑った。その目は冷たく、自信に満ちていた。
「そう、そうすると思ったよ。俺の魔力なんて知る由もねぇ。できても予想だけ………しかも今、"足手まとい"が傍にいる状況で、最善の判断などできるはずがない!」
彼は娘の体を脇に抱えた。その動きは猛獣が獲物を攫うがごとく迅速で容赦なかった。
アンは気づいた。彼には殺意がなかった。欲望があるだけだ。ならば、この隙を衝くしかない。彼の腕を殴り、隙間を作って脱出する。これは勇気ではない。ただ恐怖から解き放たれたいという、一心の本能による決断だった。
彼女は殴った。だが次の瞬間、自らの体が重圧に沈み、背中に激痛が走る。ラボラスが彼女の髪を撫でながら言った。
「やめておけ。あの化け物が吹き飛ばされたのは、俺の魔力によるもの。攻撃本能に反応し、即座に反撃する。そして俺には、ダメージなど通りはしない。」
「が……ぁ…………」
「抵抗は無意味だ。ただ、黙って従っていればいい。」
スプレッドも、ゴウセルも、ラボラスに対して一歩も動けなかった。戦意を見せた瞬間、自らが餌食になることを彼らは理解していた。
「もうお前らはどうすることもできない!だが……俺らにはある。グラーシャ!!」
「了解~♡」
女神族の女が振り下ろした大剣が、石畳を砕いて突き刺さる。その隙を狙い、スプレッドが妖精の姿となり「植物化」で腕を蔓へと変え、女の脳天を穿つ。
「貴様……妖精……!」
「『どうすることもできない』?寝言は寝て言え。」
「はは……そのセリフ、そっくり返してやるよ。グラーシャの魔力は『過剰治癒』。死んでも、確実に蘇る……」
「……知っている。俺が真っ二つにしたのに、今ここにいる時点でな。治癒系の魔力がとは思ってたよ。だが関係ない。無限に殺し続ければいいだけのことだ。」
スプレッドは殺した。幾度も、幾度も。「植物化」で女の身体を突き貫き、破壊し、再生を上回る速度でその命を奪い続けた。しかし——異変は訪れる。
殺すテンポが落ちてきている。体力にはまだ余裕がある。ではなぜ?その疑念が頭をよぎった瞬間——
ガシッ。
グラーシャの手が、彼の蔓を掴んだ。その瞳が血走っている。肉体が、過剰に治癒され、限界を超えて暴走していた。呼吸は荒く、牙を剥き出しにしている様は、まさしくインデュラのそれに近い。
「『過剰治癒』は、治癒しきれなかった"過剰"な魔力が暴走を引き起こすんだ。なぁ妖精、貴様は何度あいつを殺した?」
「……罠か……っ!」
「イタミヲ我慢シタワヨ……コレハオ返シヨ!」
「くそっ、まずい!」
「殺スッ!!」
彼女の拳がスプレッドを直撃し、岩壁まで吹き飛ばす。全身に走る痛み。動けない。スプレッドは、己の軽率さを呪った。
「最悪のパターンに入っちまったな……」
スプレッドは奥歯を噛み締めながら、咳き込むように吐き捨てた。筋肉は痺れ、意識の芯に鉄の杭が刺さったように集中できない。鳥へと変じる術式を組もうとしても、魔力は砂のように指の間から零れ落ちていく。
「……ぐっ、だめだ。変身のための力すら入りやしねぇ……」
その瞬間、耳を劈くような咆哮
「ガァアッ!」
咆哮と同時に、暴走した獣の姿が妖精めがけて跳躍した。土煙が巻き上がり、空気が裂ける。だがその進路に、誰かが立ち塞がった。
ゴウセルだった。紫色の魔力を矢の形に収束させ、両の手に備えたその姿は、まるで闇夜に浮かぶ稲妻。
「ゴウセル……!」
「傀儡縛り!!」
鋭い叫びとともに、紫の光が暴走体の周囲に絡みつく。術式は対象の神経束へと侵入し、意識を奪う。暴走であろうと、思考の隙を突くことさえできれば、その支配を奪うことが可能なのだ。
「今のうちに、ここから離れて!」
ゴウセルの叫びは、焦燥と決意に満ちていた。その声に、スプレッドは短く頷く。
「ああ、わかったぜ……ゴウセル……」
その胸中には、別の決意が巣食っていた。
(……こんなところで"あれ"を使うのは御免だったが……背に腹は変えられねぇ。こんなところで逃げるもんかよっ!)
灼けるような痺れを押して、スプレッドは地を蹴った。身を隠すように距離をとりながら、背後へ手を伸ばす。指先が静かに揺れる——彼の、最後の切り札が像を描く。
「……行くぞ……!」
だが——その瞬間。背後から、ねじくれた笑みの声が飛び込んできた。
「警告だ。」
ラボラスだった。壁にもたれかかるように立ち、余裕すら滲ませた態度でそう言い放つ。そして、何が可笑しいのか——笑っていた。その笑みが、スプレッドの神経を逆撫でした。危機の最中に笑う者の顔ほど、苛立ちを呼ぶものはない。
突如、鈍い音が響いた。
ドゴッ。
胸の奥がざわめいた。嫌な予感が脊髄を這い上がり、スプレッドは振り返る。
転がってきたのは、ひとつの物体——いや、「それ」は首だった。
桃色の髪がふわりと宙を漂い、白磁の肌に澄んだ瞳——数百年を共に歩んだ男、ゴウセルの首だった。
世界が一瞬、無音に包まれた。
「……ゴ、ゴウセル……?」
その言葉は吐息のように、微かな震えと共に漏れた。ラボラスが言葉を継ぐ。今度は、淡々と、まるで実験結果を報告する学者のように。
「"過剰治癒"ってのはな、ただ傷を癒すための能力じゃない。暴走を引き起こす。そこまでは説明したはずだが……もうひとつ、肝要なことを言い忘れていた。」
彼はゆっくりと人差し指を立てた。
「精神的な傷も"癒せる"ってことだよ。つまり、《傀儡縛り》みたいな外部支配も"傷"と認識すれば、無効化できるんだ。治癒がそのまま、支配の解除になる。……っと、言っても、もう手遅れだったみたいだけどな」
スプレッドの全身から力が抜ける。心臓が凍りついたような感覚。それでも視線だけは、ラボラスを射抜くように睨みつけていた。
「……そんな……ゴウセル……!?う、うそだろ……」
「"そいつ"は首を吹き飛ばされた。もう戦うことはできない。」
ラボラスは狂気じみた喜悦に満ちた笑みを浮かべながら、心の奥で呟いた。
(感謝するぞ、オロバス……お前の言ったとおりだったな……!)
────
「今、なんと言った?」
ラボラスの声は冷えていた。鈍色の刃が鞘からわずかに抜かれるときのような、予兆めいた響きすら孕んでいる。彼は音もなくオロバスへと歩を進めた。
「言葉通りだよ。あいつらは、君たちの魔力の真価を知らない。抽象的な脅威としてしか捉えていない。そして、奴らは"人間"という呪縛を背負っている。守るべき存在があるというのは、戦場においてはそれ自体が桎梏だ。対して、君たちには、何の制限もない。」
沈黙が落ちる。ラボラスの眉間がわずかに寄った。
「……それで、力の差が覆せると?」
「覆せるさ。ラボラス、君の魔力『撃退せし闘争本能』は、敵の攻撃衝動に反応して、その力を上乗せした反撃を叩き込む特性を持っている。相手にしてみれば、己の拳が何倍にも増幅された威力で跳ね返ってくるようなものだ。だから、"攻撃させる"状況を意図的に作ればいい。」
オロバスは言葉を区切り、片手を広げる。
「たとえば、無防備な人間たちに一直線に向かえばどうだ?敵は否応なく本能を曝け出し、全力で迎撃してくる。その瞬間こそが君の魔力の引き金だ。」
ラボラスの眼が鋭くなる。オロバスの視線は、次にグラーシャへと向けられた。
「そしてグラーシャ。君の『過剰治癒』は……君が使うことで、継続使用によって治癒を越えた"膨張"が起きる。肉体が耐え切れなくなったとき、君は暴走する。制御を超えた力が、君を"準・十戒級"にまで引き上げるだろう。確実にだ。」
「……わ、私にそれをやれっていうの?」
彼女の声はかすれ、瞳が恐怖に震えた。
「そうだ。それ以外に勝算はない。」
「嫌よ!痛いのはもうごめん……さっきの一撃でさえ、涙が出るかと思ったんだから!」
「だとしてもやるしかない。"あの御方"に背けば、死よりも深い業火に焼かれるだけだ。」
オロバスの声は一段低く、鉄のように重く響いた。沈黙の中で、空気が一変する。
「……」
「君たちの魔力は、"あの御方"から与えられたものだろう?本来は死者の残滓。女神族が遺した力だけを、無理やりこの世界に繋ぎ止めた。それを君たちは借りているだけだ。」
グラーシャは奥歯を噛みしめた。ラボラスは無言のまま、拳を握る。
「"あの御方"に反旗を翻せば、魔力は霧散し、君たちはただの抜け殻になる。かつての栄光も誇りも、全て土に還る。……君たちは今、女神族としての終焉に立っているんだ。逃亡ではなく、覚悟が必要なんだよ。」
その言葉は、熱ではなく氷のように内臓を刺した。沈黙の末、グラーシャとラボラスは互いに目を見た。そこにあったのは恐れではなかった。渇望だった——絶望の縁においてなお、力に縋りつこうとする、生への本能だった。
二人は、わずかに頷いた。オロバスは無言でそれを見届けると、静かに笑い、親指を立てた。宮殿の扉が開かれる。二人の姿は、冷たい風の中に消えていった。
そして残された静寂の室内、オロバスは独り言のように呟いた。
「はあ……うまくいくかな……いや、無理だな。」
笑ってはいない。自嘲もしていない。ただ、現実を直視していた。
「あの二人じゃ、あいつらの足元にも届かない。……それでも、駒は必要だ。命が消えるまで、動いてもらう。」
────
それは、水晶玉に映る圧倒的優位に立った二人を見ても、同じであった。
「…………やっぱり、足元にも及ばないか。……僕も、そろそろ準備したほうがいいかもね。隠してきた「僕本来の魔力」を……。」
ラボラス 魔力:撃退せし闘争本能
種族:女神
人間の体を器とした女神族の一人で、かなり天狗な性格をしている。が、個人の力はそれほどでもない。「撃退せし闘争本能」は相手の攻撃衝動に対して倍以上の威力で反撃するため、敵を挑発し衝動さえ起こせば大きく出ることが可能。だが、「あの御方」から与えられた仮初の魔力のため制御はできず、無意識的に発動する。
闘級 5800
魔力 2000
武力 2800
気力 1000
グラーシャ 魔力:過剰治癒
種族:女神
ラボラスと同じ、人間の体を器とした女神族の一人。狂暴な性格をしているが、力はラボラスよりも大きく劣る。魔力「過剰治癒」はその名の通り、やりすぎなほど体を癒す魔力であり、仮初であるため無意識的に発動する。また、半端の肉体なため、耐え切れず暴走を起こしやすい。
この魔力を持っていた女神族は、この力を使いこなしていたようだ。
闘級 2060
魔力 980
武力 760
気力 320