「真実」の歩み   作:ライダー☆

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第十二話 油断

 二柱の女神族——ラボラスとグラーシャは、陶酔にも似た昂揚感に包まれていた。勝利という確信が、心の芯を熱く満たしていたのだ。人質を取っているとはいえ、これは戦いだ。道義や恥辱を持ち出す余地などない。ただ優位に立っている、その事実だけがすべてであった。

 赤き鎧の「十戒」は俺の「撃墜せし闘争本能(パニッシュ・インスティンクト)」によって大打撃を喰らい、残る二人のうち、一人はグラーシャの「過剰治癒(オーバーヒール)」の本質に触れ、代償として首を刎ねられ、戦場から永遠に退いた。力の均衡は、既に瓦解している。

 

 この状況から導かれる答えは、一つ…「勝利」。そしてその勝利は、女神族二柱の力だけでは成し得なかった。オロバスの冷徹な助言がなければ、恐怖に囚われたまま足を竦ませていただろう。生きることを最上の命題とし、死を本能的に忌避する彼女たちにとってはなおさらだ。

 

「嘘……そんな……!」

 

 ラボラスの腕に抱えられたアンは、石畳の上に転がるゴウセルの首を目にした瞬間、体から力が抜け落ちるのを感じた。凍りついたように言葉を失い、ただ瞳を見開いたまま、呆然と見つめていた。

 その様子を横目に、ラボラスは口の端を吊り上げた。自分が支配しているという実感が、声色にも滲む。

 

「女神族に逆らえばどうなるか……これが答えだよ」

 

 嘲るような声音は、薄汚れた刃のように彼女の胸を裂いた。悪意の無遠慮な解放、歪んだ優越感の露呈——それらが言葉に染み込んでいた。

 アンは身を強張らせた。彼の撫でる手がどれほど「優しく」あっても、そこに込められた支配の意図を感じずにはいられなかった。逃げ出したい、けれど、抗えばその先にあるのはさらなる苦痛だけ。さきほどの一撃が、それを十二分に教えてくれていた。

 抗えば、潰される。黙っていても、抑圧される。けれど、この場所から逃げ出すことは叶わない。…また、あの地獄のような場所に逆戻りだ。

 その思いは、やがて彼女の想像を越えた恐怖を呼び起こした。反抗者の庇護を受けた自分もまた、報復の対象となるかもしれない。そうなれば、街そのものが「浄化」される危険さえある。怖い。本当に、怖い。

 

「嫌だ、嫌だ……」

 

 涙が頬を伝い、嗚咽が喉を突き上げる。彼女は泣きながら繰り返した。だが、それがラボラスの癇に障ったらしい。唐突に彼の手が振るわれ、乾いた音を立てて彼女の頬を叩いた。

 

「泣くんじゃねぇ。うるせぇなぁ…。……俺はそういうのが一番嫌いなんだよ」

 

 優しさを装った口調は跡形もなく消え、代わりに荒んだ声が飛んできた。その眼は光を失った猛獣のように虚ろで、ただ苛立ちと支配欲だけを宿していた。アンは恐怖に身を固くし、唇を噛んだまま涙を止めようと必死だった。

 呼吸を殺し、嗚咽を抑え、まるで壊れた人形のように沈黙する。すると、ラボラスは再び「優しい顔」に戻り、頭を撫でる。

 

「いい子だ。」

 

 その言葉は、まるで枷の音だった。

 戦場では、グラーシャが狂気のような執念で暴れ回っていた。妖精族に一度殺されたその恨みが、暴走という形で今、制御不能な熱量を帯びて噴出している。眼は血走り、口元からは泡混じりの唾液が垂れていた。

 スプレッドは幾度も岩壁に叩きつけられていた。切り札があったが、発動には時間が要る。油断すれば即座に死が訪れる。だからこそ、ゴウセルの「傀儡縛り」が必要だった。だが、彼は首を落とされた。喪失の衝撃に、心の軸が折れた。

 暴走は止まらず、連撃は余白を与えない。骨は砕け、臓腑は押し潰され、血に染まった彼はもはや呻き声すら出せず、虫の息だった。それでも思考は続いていた。後悔——だが、もはや遅い。視界は滲み、焦点は定まらない。ただ見えているのは、自分の目前で涎を垂らしながら拳を振り上げる、鬼神のような彼女の姿。

 万事休す。そう思った。その時だった。

 ふいに、そよ風が吹いた。

 その風に揺れて、地に転がるゴウセルの首がコロリと回ったと同時に、

 

「……ぬ、ぬぅ……」

 

 呻き声が聞こえた。音の主は——ガランだった。

 その声に、グラーシャの動きが止まった。音を認識したのだ。彼女の暴走は、外的刺激への反応でしか制御されていなかった。つまり、殴り続けていたスプレッドの苦鳴が音として消えかけたから、彼女の意識は新たな音へと向けられた。拳を止め、彼女はスプレッドの首を放す。

 岩に背を引きずり、スプレッドは喘ぎながらもその光景を目に焼きつけた。

 

「……ガ……ガラン……」

 

 口から漏れる、ひび割れた声。ラボラスがそれに応じて嘲るように言った。

 

「起き上がったか。だが遅かったな。一人はもう首を飛ばされ、もう一人も……見りゃわかるだろ?死ぬ寸前だ」

「……そのようじゃな。」

 

 そう言って、ガランは背をまっすぐに伸ばした。

 刹那、風が吹いた。一秒に満たぬ隙間——その空白の向こう側から、ガランの背中に衝撃が走った。風に混じってきたのは拳ではなく、剥き出しの殺意だった。背中をトントンと軽く叩きながら、彼は痛みに眉をしかめ、そして悠然とラボラスを見やった。

 

「なるほど……一瞬の殺気、その揺らぎすらも見逃さんとは。手に余る魔力よの。」

「………………」

「そしてそこにおる娘も、相当なもの。殺すとなれば、骨が砕けるほど苦労するじゃろう。……だが、そんなものは無益。どうせすぐに復活して、より強大になって戻ってくる」

 

 その言葉には達観すら宿っていた。諦観ではなく、理に裏打ちされた理解。敵を畏れ、冷静に見極めた末の答え。

 

「で?そっから引き出されたお前の答えは何だ?」

「決まっておろう。」

 

 ガランは構えを解いた。すると彼の背後に揺らめいていた"拳の陽炎"が、風のように消えた。双頭の槍を石畳の上へとそっと置き、両の掌を高く掲げる。その姿は明確な降伏の意思表示であった。そして何より——彼が石化していない。それが「真実」の証だった。

 

「ガラン……な、何を……!?」

「勝ち目はない。だから、降参するんじゃ」

 

 ラボラスが高らかに哄笑した。嘲りと快楽が混じり合った声が、破裂するように広場へと響いた。

 

「ハハハッ!こいつは傑作だァ!あの汚れた魔神族が……しかも"十戒"の一柱が……! こんな滑稽な絵図、あるかよ!」

 

 愉悦に顔を歪めるラボラス。ガランはただ、静かにそれを見返していた。その眼差しに怒りも羞恥もない。あるのは計算された沈黙のみ。

 このやり取りを目にしていたのは、スプレッドやグラーシャ、アンばかりではなかった。崩れかけた家屋の窓の奥から、避難していた住人たちが顔を出し、騒ぎの顛末を固唾を呑んで見守っていた。

 その中には、かつてガランに土下座して謝罪した男の姿もあった。男は赤い鎧の巨躯が両手を挙げたのを見て戦慄し、呟いた。

 

「……あの男が、降参を……やはり……女神族には……勝てないというのか……!」

 

 絶望が肩を伝い、震えが止まらなかった。

 隣に立つ長老は、黙したまま遠い記憶に思いを巡らせていた。かつて彼が若き日に書肆で手に取った伝記。その中に描かれていたのは、血の滴る甲冑をまとい、蛇のごとく長い首を持つ異形の魔神。今、目の前で降伏を宣言するその姿と、記憶に刻まれた"怪物"の姿が重なった。

 

「もしや、あの男……"それ"なのか……」

 

 長老は口に出さなかったが、確信に近い直感が胸を刺した。かの"それ"が十戒の一人、"真実"の戒禁を司る者であるならば——。

 彼は男の肩に手を置いた。「大丈夫。あやつらは、負けんよ」と、静かに囁いた。

 ガランは手を掲げたまま、静かに告げた。

 

「……そやつを、返す。」

 

 指差されたのはアンだった。ラボラスは口元を歪め、「こいつか?」と小突く。ガランは頷いた。「このガランに、決して二言はない」と、重く言い切った。

 

「嘘でしょ……ねえ、ガラン。嘘だよね……?」

「嘘ではない。お前も知っておろう。儂は「真実」のガラン……偽りを口にはできん。」

「嫌……そんなの嫌だよ……もう、あそこには戻りたくない…」

 

 少女の叫びにも、ガランは首を振るだけだった。そして、さらに一歩踏み込んだ提案を口にする。

 

「一人ではない。儂らが助けた娘たち、全員を返す。」

 

 ラボラスの顔に、喜色が一気に広がった。「なんという収穫か」と。これでもう「あの御方」に媚びへつらう必要もない。己の掌に完全な勝利があると確信した。彼は上機嫌でグラーシャに声をかけた。「呆けている妖精を殺して、娘どもを回収しろ」と。

 だが、そこでガランは続けて言った。

 

「……ただし。条件がある。代わりに、ひとつだけ飲んでほしい。」

 

 ラボラスは鼻で笑った。穢れた魔神族の条件など、本来なら耳を貸す価値もない。だが今の彼は、勝利の酩酊に浸る上機嫌な道化。ゆえに、"余裕"から生まれた"遊び心"で応じてやる。

 

「……なんだ?言ってみろ」

「……この街には、二度と手を出すな。ここに住む者たちを、自由にしてやってくれ」

 ラボラスはにやりと嗤った。

「……いいだろう。飲んでやろう、その条件」

「本当か…?」

 

 ガランが念を押すと、ラボラスは実に気前よく、頷いた。屈辱に顔を歪めず、むしろ子どものように無邪気に喜ぶガランの姿は、ラボラスの嘲笑をより深く、愉快なものにした。

 もちろん、内心ではそんな条件を守るつもりなど毛頭ない。後になって、街を今以上に蹂躙する気でいた。だがその瞬間——

 

「よぉし、グラーシャ。妖精を殺…………!?」

 

 言葉が途切れた。体に異変が起こる。自らの口から発した何気ない「嘘」が、引き金を引いた。

 ふと見ると、ガランが笑っていた。先ほどまでの純真な喜びではない。どこかに含みを孕んだ、まるで"見えている者"の笑み。

 

「お主、嘘をついたな。」

「!!!!?」

 

 全身が凍りついた。いや、正確には——石化し始めた。

 「圧倒的優位にある」と錯覚した瞬間にこそ、最も深い落とし穴がある。それが"戒禁"という絶対にして冷徹なる呪縛。

 その姿を目にした長老は、ひげを撫でつつ呟いた。

 

「やはり、あれは"真実"のガラン……」

 

 かつての伝記に、こう記されていた。

 ——その者は"十戒"が一柱、"真実"の名を冠する者。偽りの言葉を発せば、いかなる者も石と成り果てる。そこに逃れの術は存在せぬ——

 

「お、長!これはどういう……」

「……あやつは確かに降参した。だが、それは"終わり"ではなかった。あやつは、自らの"真実"という戒めを武器に、彼らの虚偽を逆手に取ったのじゃ。偽りの言葉を聞いた瞬間、戒禁は発動し、相手は石と化す。……勝ち目がなかったのではない。勝ち目は、作るものなのだ。いついかなる時でも、あやつはそれをやってのけた。」

 

 その言葉の意味が飲み込めず、青年はただ曖昧に頷いた。

 ラボラスの肉体は、もはや完全な石像と成り果てていた。昂然たる嘲笑も、勝利の余韻も、すべては灰色の仮面の内側に閉じ込められ、永遠に動かぬ姿となった。

 アンはその腕の隙間から素早く抜け出し、石と化した脇をすり抜けて、まっすぐにガランのもとへ駆け寄った。そして、ためらいなくその胸へと身を投げ入れる。

 

「ガラン……ありがと……!」

「……すまんの。あんなことを言ってしまって。正直なところ、ついさっきまでは本気でそうするつもりだった。」

「……いいのよ。だって……助けてくれたんだもん。」

 

 彼女の震える声に、ガランは小さく目を細めた。そして、わざとらしく肩をすくめる。

 

「……なら、それ以上は謝らんでおこう。くどい謝罪は毒と一緒じゃ。しつこさほど人を疲れさせるものもあるまい。さて、アンよ。儂から離れんでくれよ。」

「えっ……?」

「儂はもう戦えん。降参をした身じゃ。もしこれから戦えば…それは戒禁に背くということ、即ち、儂自身が石と化す。あやつが石になったのは、儂が戦ったからではない。……勝手に、滅びたのだ。」

「え!?じゃあ、どうするのよ。あの血まみれの妖精にやらせるの?無理よ、あんなの!」

 

 アンの視線の先で、スプレッドは膝をつき、血に濡れた顔を両手で覆っていた。彼女の問いに、彼は呻くように答える。

 

「な……ふ、ふざけるな……俺は……できねぇ……ぞ……!」

「分かっとる分かっとる。お主が無理だということくらい、最初からな。が、お主ら、ひとつ大事なことを忘れとらんか?」

「え……?」

 

 唐突に、沈黙を割る声が走った。グラーシャの腕が空を裂こうと振るわれる寸前——その動きが、空間ごと凍り付いたかのように静止する。呼吸すら忘れる一瞬。彼女の肉体は、まるで見えない鎖で縛められたかのように、動きを封じられていた。脳は命じているはずなのに、四肢は指一本すら動かない。

 

傀儡縛り(ジャック)。……ありがとね、ガラン。敵をそっちに引き付けてくれて。おかげで魔力の蓄積に集中できたよ。」

「なぁにどうってことはない。……あとは頼んだぞ。お主しか残っておらんのだからなぁ。」

 

 スプレッドとアンは、一瞬、幻覚を見ているのではないかと錯覚した。あの時、彼の首が斬り飛ばされたのを、この目で見たはずだ。否、見間違いなどではない。肉が断たれ、機械のように倒れ込む彼の姿は、誰の記憶にも確かに刻まれている。

 しかし、その"死体"のはずの人物——彼女の背後に、いつの間にか、しれっと立っていたのだ。

 

『ゴウセル!!!!』

「ヤッホー♪」

 

 無邪気に手を振る彼は、死んではいなかった。

 ゴウセルは人ではない。人に似せて造られた、無機の器。血も通わなければ、心臓もない。首を落とされたところで、即死などという理屈は通じない。

 ラボラスの視界がガランに向いたとき——つまり、彼がゴウセルの存在を一時的に意識から外した隙を突き、ゴウセルは倒れ伏した肉体を自力で修復し、再接合を完了していたのだ。誰にも気づかれぬよう、音も立てず、気配を消して。そのうえで、限界まで抑えていた魔力を、暴走する彼女の背後へと、圧倒的精密さで注ぎ込んだのである。

 その一撃により、制御を失っていた彼女の魔力は抑え込まれ、精神の主導権を彼が握った。

 

「お前……生きてたのか!?どうやって……!?」

「スプレッド。僕は"人形"だよ?君みたいに血を流して、命を失うことはないんだ。」

 

 ゴウセルは微笑を浮かべて、あたかも子供が秘密を明かすような口調で言った。スプレッドは思わず胸を撫で下ろし、それから不器用に笑った。

 

「……あ、あぁ、そうだったな。だが……よかった。お前が無事で。」

「逆にこっちが心配しちゃうよ。……あとで君の怪我の手当をしよう。彼女を倒してから……ねっ!」

 

 その言葉と同時に、ゴウセルは魔力の紐を操るように両手を掲げた。傀儡縛りが唸りを上げ、見えざる鎖の束が対象を締め上げていく。だが——アンは直感した。その魔力は、見かけほど意味を成していない。脇下で彼に守られていた短い時間に、彼女は確かに"あの瞬間"を見た。あの女神族が、魔力を無に帰していた瞬間を。

 

「ねぇ、ガラン。彼は……何をするつもりなの?さっき、あれは、効いてなかったはずよ?」

「ふむ……まぁ、見ておればわかるじゃろう。ヒントをやろうか。お主、さっき言っておったな。"空腹感がない"と。」

「ええ。言ったけど……それが何か?」

「もし、その状態で誰かに大量の"食べ物を食え"と命じられたら……どうなると思う? 反抗する、という答えはなしじゃ。」

「どうなるって……」

 

 そのときだった。前方から、呻きにも悲鳴にも似つかぬ濁った声が響いた。アンが反射的に振り返ると、そこには、身体の随所が不自然に膨張し、内部から膨れ上がるように変形していく"彼女"の姿があった。肌は破れかけ、血管は浮き上がり、内からの圧力に軋みを上げている。

 

「グゥ……オォォォッ!!?」

 

 まだ、彼女は魔力を"無"にしていなかったのだ。そのことに気づいたアンは、先のガランの問いを脳裏で反芻し、戦慄を覚えた。

 

「まさか……」

「お主、察したようじゃな。ゴウセルは、儂と同じく"精神状態"を逆手に取ったのじゃ。あの男も、余裕の顔で儂を弄んだ……その慢心が命取りとなって石になった。あやつも、同じ理を踏んだまでじゃ。」

「でも…ガランは気を失ってたんじゃ……?」

「なぁに、儂は気を失ってなどおらん。……ただ目を閉じて耳を澄ませておった。どうやらあやつの治癒は、肉体だけでなく"精神の傷"にも作用するようじゃ。」

「…………」

「であれば、逆に問うが良い。"精神に永遠に異常をきたし続ける"状態を維持すれば、治癒は際限なく発動し続ける……つまりは、暴走が止まらぬということじゃ。……しかも、どうやらあやつ、自分で魔力を止められぬようなのじゃ。」

 

 アンは唇を噛んだ。

 

「……じゃあ、あの治癒は、意図的に制御できない……?」

「さよう。だからこそ、ゴウセルはそこを突いた。お主に空腹のまま大量に食べろと命じたらどうなるかと訊いたな。答えはこうじゃ——いずれ限界を迎え、すべてを"吐き出す"のじゃ。」

「精神の傷は、確かに深くて治りにくい。でも、軽い傷なら?そもそも、"主導権を奪う"程度の支配なら、それだけで異常をきたすには十分だよ。」

 

 ゴウセルが言った。声は静かだが、その背後にある意志の炎は燃え盛っていた。

「彼女は人間の器を依代にしている。でも、その器の耐久性まで高くはなっていない。肉体は、精神の膨張についていけないんだ。」

 

 次の瞬間

 

「ギィ……ギヨヨァ……!!」

 

 彼女の口から、異形の悲鳴が迸った。全身が痙攣し、赤黒い血が目と口から滲み出る。眼球が裏返り、皮膚が破裂音とともに裂け、骨が内側から砕けていく。暴走した治癒が己の肉体を誤作動させたのだ。再生と破壊が無限に交錯し、細胞は自壊し、再生し、また壊れ……耐えきれぬほどの矛盾が、ついに臨界を迎えた。

 血は噴き出すことなく空中で蒸発し、皮膚と肉と骨は、復元しきる前に自壊して、壁や大地を砕きながら霧散していく。残されたのは、ただ一つ——紅に染まった"血眼"。

 ゴウセルはそれを拾い上げ、手のひらで抱え、それからゆっくりとスプレッドのもとへと歩み寄った。

 

「……?」

「あげる!!」

 

 ゴウセルは掌に抱えた紅い"目"を、まるで菓子でも差し出すように突き出した。

 

「いや、いらねぇよ。捨ててくれ…。」

「違うよ。この"眼"には、まだ、かすかにだけど…彼女の"過剰治癒"の魔力が宿ってる。いつ失われるかはわからない。だから、これを……ボロボロの君に、使ってほしいんだ。」

 

 スプレッドの顔に戦慄が走った。

 

「つ、使ってほしいって……言ってもさぁ……どうやって……?」

「食べる!!!!」

 

 一拍、いや、二拍遅れて、スプレッドの表情が凍りついた。脳裏に浮かぶ光景——自らの手で血走った眼球を掴み、ぐにゃりとした感触のまま口内に押し込む姿。嘔吐感が喉元まで突き上げてきた。彼は即座に拒絶反応を示しながら、ゴウセルを睨んだ。

 

「無理だ……想像しただけで、吐きそうだ……」

 

 だが、ゴウセルがそばにいる。それが唯一の救いだった。

 

「……味覚を消してくれ。ゴウセル、お前ならできるだろ。」

「うん。できるよ。」

 

 ゴウセルはわずかに指を動かすと、魔力の流れをスプレッドの神経へと滑り込ませた。味覚を司る感覚器は静かに沈黙し、無味無臭の世界が訪れる。

 スプレッドは顔を歪めながら、ゴウセルの手から"血眼"を受け取った。その手はわずかに震えていた。生理的嫌悪の壁は、理性と魔術では超えきれない。だが、彼は己の咽喉にそれをねじ込み、咀嚼することすら拒んだまま、湿った塊を押し流すように飲み込んだ。

 喉の狭間をそれが通り抜ける瞬間、彼の全身に得体の知れぬ悪寒が走った。味覚は消えていたが、"目を喰らった"という現実が精神に深く爪を立てる。彼は、精神まで癒えることを祈ったが——その願いが届くことはなかった。

 

「……はぁ……助かった。確かに助かったが…………記憶、消すことできねぇか?」

 

 目を伏せながら、スプレッドは虚ろな声で言う。

 

「記憶に関することは、ちょっと応用が効かなくてね。僕にも無理なんだよ。」

「……引き起こすだけが苦手ってわけじゃねぇのな……」

「そういうこと。」

「……頼むから数年後にはできるようにしてくれよ。……うぇ……気持ち悪ぃ。お前が味は消してくれたが……気味悪さは丸ごと残ってる。吐きそうだ……」

「頑張れ。」

「他人事かお前ぇ…」

「他人事だもん。」

 

 二人のやり取りが戦場の静寂を破るように響いた。スプレッドが肩を震わせて毒づき、ゴウセルが軽やかに応じる。それを遠巻きに見守るガランの背後——街の建物の影から、人々がぞろぞろと姿を現し始めた。

 その中央には、白髪の長老がいた。重々しい足取りで、ガランの方へと進み出る。その様を見たガランは、静かにアンへ目配せを送り、二人の側へと促した。そして自らは立ち上がり、街の長老と向き合った。

 

「……終始、あなた方の戦いを見ておりました。」

「そうか。」

 

 長老は深く頭を下げる。震える声に、確かな敬意と感謝が混じっていた。

 

「なんとありがたいことか……我らを縛りつけていた、"女神族"を名乗る者たちを、討ち果たしてくださるとは……」

「なぁに。儂は何もしておらん。すべては、ゴウセルの手柄じゃ。」

「いえ、それでも……我々にとっては、あなたがたこそが救い主なのです。」

 その言葉に、ガランは肩をすくめた。

「……まぁ、褒められて悪い気はせんのぉ。」

「もう、皆には伝えてあります。あなた方は、"十戒"なのですね……」

 

 その名を聞いた瞬間、ガランの肩がわずかに震えた。だが次の刹那には、表情も呼吸も、いつもの飄々とした仮面に戻っていた。周囲からは一切の殺気も敵意も感じられなかった。ただ純粋な感謝と尊敬が、空気のように満ちていた。

 その頃、スプレッドは内心でぼやいていた。

 

(俺、魔神族じゃないんだけど……言えねぇな、今さら)

「しかし、あなた方の"魔性の力"の中に、私は"悪"を感じません。むしろ、あなた方の行動は、"正義"と呼ぶべきものです。その証拠に……今こうして、我らと対話し、娘たち、そして…アンを救ってくださいました。」

「一度は、降参したときに……犠牲にしたがな。」

「最終的に、救い出してくださったではありませんか。」

「…まぁな。」

「我々は、あなた方"魔神"を歓迎したいのです。ささやかですが、食料を集め、もてなしの準備を…」

「いや、それはよい。」

 

 ガランは、きっぱりと断った。

 

「儂らはこの街に、長く滞在するわけにはいかん。」

「えっ……し、しかし……!」

「よいのじゃ。それよりも、お主らはその貴重な糧を、自らの命と心を支えるために使うがよい。儂は、心の底からそう願っておる。」

 

 その言葉に、長老は深々と頭を垂れた。敬意も感謝も、言葉では語りきれないほどに込めて。

 ガランはその背にあった双頭槍を拾い上げ、躊躇いなく宮殿の方角へと身を向けた。三人が声を揃えて問いかけた。「どこへ行くつもりなのか」と。短く沈黙が横たわり、ガランはそれを切り裂くように応じた。

 

「……あの宮殿には、まだ一人おる。絶対にな。」

 

 その一言で空気が震えた。

 

「何だと!?あの二人だけじゃなかったのかよ……!」

 

 スプレッドが息を呑む。ガランは視線を空に向け、低く語る。

 

「妙だったのだ。宮殿で出会ったとき、あの男は儂らを見るなりすぐに逃げた。臆したように、後ろも振り返らず。しかし……ここに来たときは、まるで何かに突き動かされるように、迷わずこの地を目指してきた。わずか一時間足らずで覚悟を決めるようなタマか、儂にはそうは思えん。」

 

 彼の語りは、砂を噛むような鋭さで続いた。

 

「それにな、スプレッド。お主は気づかなんだか?」

「ん…?」

「お主があの娘を繰り返し殺めていたとき、あやつ、誰かの名を叫んでおった。『オロバス』とな。」

「……は、そう言えば……あれ?そうだったっけ……?」

 

 気まずそうに頬をかくスプレッドを、アンが訝しげに見つめる。

 

「……覚えてないの?」

「いや、その……暴走がすごすぎて、正直何も……」

 ガランは頷いたが、声に陰を落としたまま続けた。

「もしそれが事実なら、少なくとももう一人、宮殿に残っておるということじゃ。そして……あの二人を駆り立てた張本人かもしれん。ならば気がかりな点がいくつもある。なぜ、加勢に来なかった?なぜ単独で残った?なぜ姿を見せなかった?」

 

 言葉が鋼鉄のように重く響く。

 

「……奴は、自分だけは死ねぬ理由があるのかもしれん。あるいは、味方すら"障害"と見なしていたのか。どちらにしても共通するのは、仇討ち。魔神族への、な。」

 

 火花のように思考を散らしながら、彼は結論に至る。

 

「復讐に身を焦がす者は、しばしば独自の美学と行動原理に縛られておる。加勢しにこんかったのは、"やり方"が違ったからかもしれん。あえて、そうしなかったのじゃ。……もしそれが真であれば、やはり仇討ちが根底にある。」

「…………」

 

 スプレッドは口を引き結び、静かに問う。

 

「じゃあ……お前は……乗り込むのか?」

 

 ガランは一拍おいて、低く、しかし揺るがぬ声で答えた。

 

「そうじゃ。だが、お主らの手は借りん。一人で行く。」

「なんでだよ。それまでの理屈と合ってねぇぞ。」

「"サシ"じゃ。もし奴も一人なら、儂も一人で応じねばなるまい。……これは、あくまで儂の"勘"じゃがな。」

 

 スプレッドが睨みつけるように言葉を投げる。

 

「……外れたら、どうするんだ。」

「その時は、その時じゃ。」

 

 振り返らぬまま、ガランは背を向けて言い残す。

 

「お前さんたちは、この街を守ってくれ。万が一ということもある。……頼んだぞ。」

 

 重い一歩を踏み出し、彼は宮殿の方角へ歩き出した。アンが小さく声を掛ける。

 

「……帰ってきてね。」

 

 まるで戦地に赴く者を見送る、切なる祈りのような声音だった。ガランは振り返らず、ただ一度、力強く頷いた。

 そして、黒き翼を広げ、夜空へと舞い上がる。緑の瞳が星々を貫き、彼の影は山の向こうへと消えていった。

 残された三人のうち、ゴウセルがふと横の男——石となった元女神族を一瞥し、軽く指先で突いた。石像はバランスを崩し、硬質な音を響かせながら地面に衝突し、粉々に砕け散った。その破片は、まるで信仰の崩壊を象徴するかのように風に散った。

 

「……やはり、彼らは……」

「どうした、ゴウセル?」

「復活は……しない。完全に、女神族を信じきっていた。己を捧げ尽くした者の魂は、もう戻らない。」

「なっ……」

 

 スプレッドが声を詰まらせる。

 

「……もう、どうしようもない。手遅れだし……ある意味では、彼らにとって幸福だったのかもしれない。でも、今僕らにできるのはただ一つ。せめて……安らかな眠りを祈ろう。それだけが、せめてもの償いだ。」

 

 その言葉は夜風のように静かに広がり、やがて沈黙が包む。

 空にはすでに太陽の気配はなく、群青の天蓋に星が瞬いていた。二筋の流星が交差し、天に消えた。その下を、ひときわ大きな影が飛ぶ。魔神・ガラン。彼の緑の双眸が宮殿の闇を貫き、運命に引き寄せられるように山を越えてゆく。

 彼方に見える宮殿は、今や静謐な死の気配に包まれながらも、不気味な胎動を孕んでいた。

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