空の遥か遠方、何かが激突した。その瞬間、天を斬り裂くような閃光が夜を焼き、火焔の刃が雲間を裂いたかのごとき光輪が広がった。
アンはそれを見ていた。街の片隅、石段を降りた先の古びた木の椅子に腰掛け、体温を奪う風の中で、彼女はその光景に目を凝らしていた。
高空の一点から生じた強烈な発光は、まるで第二の太陽が突如として顕現したかのような錯覚を呼び起こす。光は冷たく、無慈悲なほど純白で、街全体を照らし出していた。明滅する閃光が建物の輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、影を濃くするたびに、アンの瞳もまた細められる。光の出処は見えない。ただ、そこに何かがある。巨大で、破壊的で、抗いがたい何かが。
「……ガラン。」
その名を口にしたとき、アンの声はほとんど風にかき消され、虚空へと吸い込まれた。だが、そのささやきは祈りに変わる。心の中に降り積もった思念が、祈りという形を取り始める。
アンには、信じるものが一つだけあった。魔神族の中でも頂点に位置する「十戒」の一人、ガラン。彼が持つ恐るべき力、気高さと威厳。力だけでなく、生き様の端々から溢れる揺るがぬ信念。彼女にとってガランは単なる戦士ではなかった。それは憧れであり、畏敬であり、象徴だった。彼が倒れる未来など、想像したこともない。そんな想像は、自分が彼を信じる者としての資格を捨てることと同義だった。
それでも、心の片隅に巣食う小さな影は、彼女を内側から侵食しようとする。——オロバス。その姿は一切見たことがない。だが、その名が「女神族」の中でも特異であることだけは、もうわかっていた。神の名を持つ存在。それがどれほどの力を秘めているのか、アンには想像すらできなかった。だが、見えぬものへの恐怖は、しばしば現実の脅威よりも強く作用する。彼女はオロバスの実力を測ることを自ら拒み、知らぬことこそが平穏であると信じようとしていた。
——ガランが負けるはずがない。
そう呟きながら、彼女は再び空を見上げた。金属のように冷たい風が頬を撫で、髪を吹き上げる。遠雷のような轟きが、雲の奥底から微かに届く。その音がただの自然現象でないことは明らかだった。世界の構造そのものが軋み、何かが壊れ、再構築されようとしている。心臓が打つたびに、鼓動の衝撃が骨を鳴らす。彼女の内面に宿る予感は、「あの光こそが、ガランの力だ」と告げていた。
オロバスの存在がどれほどの脅威であろうと、知る必要はない。恐れは知識から芽吹く。ならば、信じることこそが強さとなる。
アンは目を閉じ、唇をかすかに震わせて、もう一度願う。
「お願い、ガラン……。」
言葉にするたび、心がわずかに整う気がした。彼の姿を思い浮かべる。地を穿つ戦槌のような肉体、灼熱の闘志、敵をも震わせる覇気。彼が持つ力は、もはや生物の域を超えていた。だが、その強さは、ただの破壊ではなかった。怒りでも、憎しみでもない。信念。
「どうか、勝って……そして無事に、みんなのもとに……」
祈りは言葉を超えて、彼女の全存在からにじみ出た願いとなる。
一瞬、空が静まったように思えた。光が一時的にその勢いを失い、代わりに重たい沈黙が街を覆う。まるで、天が彼女の願いを受け取ったかのように。
その沈黙を破るように、再び轟音が走った。大気が裂け、何かが砕け、解き放たれた。アンは息を呑み、音の向こうにあるその"結果"を見届けようとする。
そして、信じた。
ガランは、負けない。あの光は、彼の力が真に放たれた証だ。
その確信とともに、彼女は瞼を閉じ、静かに祈りを続ける。世界がどう変わろうとも、たとえ空の色が反転しようとも、その信念だけは揺るがない。
────
「がふっ……!?」
空間が悲鳴を上げた。螺旋にねじれた風圧が炸裂音を伴って拡散し、雷鳴のごとき衝撃が大気を裂く。その中心、稲妻の残滓のように閃いたガランの双頭槍が、オロバスの胴を穿ち貫いていた。骨を砕く感触、肉を断つ重さ、それらが槍の柄を通してガランの腕に伝わる。瞬間、噴き出した血飛沫が空へ弧を描き、赤黒く染まった滴が熱気を帯びた地面に雨のように落ちる。
「どうじゃ、少しは堪えたか? 老いぼれの槍もまだ錆びちゃおらんわい」
「お……おのれ、老いぼれごときが……ッ!」
オロバスが呻く。だがその言葉を遮るように、ガランの魔力が噴出する。
「これが……ワシの"本気"じゃ。」
その身体が膨張する。筋肉が唸りを上げて隆起し、皮膚を押し広げて鎧の隙間を裂く。全身から紫黒の魔力が放射状に迸り、地面を焦がし、空間をひび割れさせる。双頭槍を振るうたびに空間が軋み、風が断ち切られ、周囲の景色が断層のように歪む。その魔力の名を「
しかし、オロバスの眼に宿る焔は消えていなかった。全身が光へと変じ、燐光を伴ってゆっくりと再構築されていく。骨が組まれ、筋繊維が這い、皮膚が再生する。その様は、もはや生物の枠を逸脱していた。彼の魔力「忠誠心」は、死の概念すら否定し、己が復讐のためだけに存在を繋ぎ止める。
「俺は死なん……何度でも蘇る。復讐を果たすまで、何度でもな!」
オロバスの拳が空を裂く。瞬間、雷鳴めいて走る轟音と共に、拳が双頭槍の刃と激突した。打撃と斬撃、質量と速度が衝突し、爆ぜた衝撃が地平をなぎ払い、地面をえぐる。砂塵が巻き上がり、戦場全体が瞬間的に無音の真空と化す。
ガランは大地を踏みしめ、衝撃に抗いながら笑う。その笑みに、老いの余裕も驕りもなかった。ただ——戦いへの純粋な愉悦だけが刻まれていた。
「死ねんのなら、砕き続けるまでよ!ワシの槍で、お主の幻想、叩き潰してくれようぞ!」
双頭槍が円弧を描き、刃が風を断ち、オロバスの首を刎ね飛ばす——かに見えたその刹那、光に還った彼の肉体は瞬時に再生し、拳が風圧と共に唸りを上げて逆襲する。その一撃がガランの胸部に炸裂し、彼の巨躯が後方へと吹き飛ばされた。
「復讐の何が気に入らん!お前ら魔神族は罪を積み重ねたんだ、裁かれて当然だろう!」
「くだらん!復讐など妄執の塊よ!己の命をそれに費やすなど、哀れの極みじゃわ!」
地を砕いて起き上がったガランは、咆哮と共に再び疾駆する。槍が音速を超え、斬撃が空間を割く。その疾走は、かつての彼とは異なる次元の速度であり、視覚すら追いつかぬ。オロバスもまた拳を構え、迎え撃つ。拳と刃がぶつかるたびに、音が消え、大地が波打ち、空が軋む。天と地の均衡が崩れ、戦場そのものが変貌していく。
「魔神族は、いつか裁かれるその時が来る!お前も、逃れられない運命なんだ!」
「運命、だと?……ふん、滑稽な言葉よ。」
ガランの瞳が爛々と輝く。
「そんなものがあるとしてもな……ワシが、それごと塗り替えてやるわ。」
次の瞬間、双頭槍がオロバスの胸元を斜めに裂いた。血飛沫が爆ぜ、だがその体は再び光と化して修復される。間を置かず、拳が唸り、ガランの腹部に炸裂した。重量と衝撃が重なり合い、ガランの身体が地面へと叩きつけられ、地面が陥没する。轟音と共に粉塵が舞い、大地そのものが呻くように振動する。
それでも、ガランは立ち上がった。槍を地に突き立て、破顔一笑。
「………壊れるまで、貫いてやろう。ワシの槍が砕けるか、貴様の"忠誠心"が折れるか——勝負じゃ、オロバス!」
雷が天に奔り、黒雲が渦を巻く。戦いの熱が地形を侵し、空間を歪め、世界そのものを崩壊させんとする。双頭槍が唸りを上げ、オロバスの身体を容赦なく打ち砕く。だが、そのたびに彼は光の奔流と共に甦る。岩塊が砕け、地が割れ、空が割れる中で、それでも戦いは終わらない。
「まったく、しぶといにも程があるわ……立ち上がるか!」
空間を抉るように槍を振るい、ガランは再びその巨躯を躍動させる。刹那、雷光を孕んだ一閃がオロバスを穿ち、紫電が空間を引き裂く。しかし、光へと変じた肉体はまたもや再構築され、再生は止まらない。
そして、ガランは哂った。その笑みは老兵のものではない。猛り狂う戦鬼の、心からの笑みだった。
ガランは大地を蹴り、一瞬で間合いを詰める。その速度は空間すら歪め、風を引き裂く。双頭槍が閃き、天地を引き裂くような斬撃が放たれる。オロバスの体が裂け、地面が爆裂し、巨大な山岳が根元から崩壊する。しかし、オロバスはまたもや光と化し、再び姿を取り戻す。
「貴様は、とっくに!俺が死なないことは理解しているはずだ!」
怒声と共にオロバスの拳が唸る。空気が引き攣れ、次の瞬間、大気そのものが破裂するような衝撃音が炸裂する。ガランは槍を水平に構え、その一撃を受け止めた。衝突の余波が大地を陥没させ、周囲の岩盤が斜めに捲れ上がる。衝撃に耐えながらも、ガランは片眉を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「どうかな。……お主の再生は、何を代償に成り立っとる? "忠誠心"じゃ。己が主への忠誠の深さが、命を繋ぎ留める。……だとすれば、その揺らぎが命取りとなるはずじゃ。」
オロバスは口元を歪めた。
「揺らぎ……だと?俺の忠誠に揺らぎなど、あるはずがない!」
「ほぉ。……では、問うてみようかの。」
ガランは槍を地に突き立て、腕を組んだ。まるで戦いの場で議論を始める哲学者のように、あるいは刑場の丘に立つ審問官のように、静かで、しかし圧倒的な重みをもって言葉を紡いだ。
「おぬし、水晶玉で儂らを見ておったじゃろ。儂がこの街の人間どもを助ける場面も、全部のぉ。……見たはずじゃ。人を護るために戦う魔神族を。」
「…………何が言いたい。」
「儂はただ訊きたいんじゃ。……おぬしが"悪"と信じた魔神族が、命懸けで人間を護っておった。そのとき、おぬしの心の中に、何も芽生えんかったかのぉ?一片の疑問も、疑念も。」
沈黙が落ちた。
それは一瞬だったかもしれない。あるいは永遠にも等しく引き伸ばされた静寂だったかもしれない。だが、その問いはオロバスの胸の奥底に、音もなく突き刺さっていた。
——魔神族が、人間を護る。
水晶玉越しに見た光景が、問われた瞬間に脳裏で鮮明に蘇った。ガランが少女を庇う姿。街人を救い出す姿。戦いの後、憤然と立ち尽くすでもなく、勝者として振る舞うでもなく、ただ静かに傷ついた者たちの傍に立っていたあの背中。それは——オロバスが生涯かけて滅ぼし続けてきた"種族"の姿ではなかった。
信じていた"絶対の悪"が、揺らいでいた。たった一度、たった一夜の光景で。それを認めることは、千年の信念を否定することに等しい。だから認めたくなかった。だから怒りで塗り固めようとした。だが
「忠誠心」は嘘をつかない。彼の魔力は、己の信念の純度に比例して力を増す。逆もまた然り——疑念が生じた瞬間、その揺らぎは忠誠の火を、ほんの僅かに、しかし確かに弱める。
再生が、一瞬だけ鈍った。
「……っ」
気づいたのは、オロバス自身だった。いつもなら瞬時に再構築されるはずの肉体に、一瞬の空白が生じた。光の粒子が集結する速度が、わずかに鈍っていた。
「……気づいたか、小僧。」
ガランの声は静かだった。勝ち誇った響きではない。むしろ、老いた剣士が若き敵の本質を見極めたときの、その悼みにも似た声音だった。
「貴様……何をした……?」
「何もしとらん。……おぬし自身が、揺らいだだけじゃ。」
ガランは槍を拾い上げ、ゆったりと構え直した。
「"忠誠心"とは、信じる対象が正しいという確信によってこそ極まる力じゃ。だが、その確信に亀裂が入れば、たとえほんの一筋であろうとも——再生の炎もまた、揺れる。……おぬしは今、自分でも気づかぬうちに問い始めておるんじゃよ。己の信じてきたものが、真に正しかったのかどうかをの。」
オロバスの眉間に深い皺が刻まれる。冷や汗が背を伝った。これまで信じて疑わなかった"不死"が、いま、足元から崩れようとしていたのだ。
「認めん……認めるものか……俺の忠誠が、魔神族ごときに負けるなど……断じて、ありえない!!!」
オロバスは絶叫とともに、自身の魔力を限界まで引き出す。その光は太陽にも等しく、周囲の大気を焼き、地上を灼熱の渦に変えた。もはやそれは暴走に近かった。自己を燃やし尽くしながらの、一撃必殺。
しかし、ガランは一歩も退かない。むしろ軽くため息を漏らし、周囲を冷静に見据えていた。オロバスの拳は重く、鋭く、しかし荒れていた。彼は既に、冷静さを失っていた。
「負け犬の遠吠えじゃ。理性を手放した者に、勝ちは来ん……それもまた、儂がよぉく知っとることじゃ。」
次の瞬間、ガランが地を蹴った。空間が軋み、距離が消える。オロバスは拳を振るったが、その動きは明らかに遅れていた。ガランの双頭槍が、雷撃のごとき速さで閃き、オロバスの胸部を貫いた。
「王手じゃ。」
「ぐっ……!」
オロバスの体が崩れ、光の粒子が辺りに散った。もはや、それは即座に戻る気配を持たなかった。光は収束せず、ただ零れ、消えかけていた。
"忠誠心"の再生能力——限界は、すでに超えていた。
「ば、バカな……俺が……こんな……リュドシエル様……どうか……お許しを……」
断末魔に似た呻き声を最後に、オロバスは膝を折った。ガランは双頭槍を大きく振り抜き、その勢いのまま深く息を吐く。荒れ果てた戦場には未だ灼熱の余韻が漂い、焼け爛れた大地から立ち昇る煙が風に流れていた。足元に広がる瓦礫の海を見下ろしながら、彼は槍を肩に担ぎ直した。
「ワシの勝ちじゃ、女神族よ。」
その一言は、すべてを終わらせる鐘の音のように重く、揺るぎない現実として空間に響いた。だが次の瞬間、ガランは無言のまま槍を下げた。刃は血に濡れることなく、ただ無為に地を撫でるのみ。
「……殺さん。」
その言葉を聞いたオロバスの瞳が見開かれた。動揺がその双眸に宿る。理解が追いつかない。魔神族が、自分のような存在に情けをかけるなど——理屈の上ではあり得ぬ選択。彼は血の滲む唇を震わせ、喉の奥から声を搾り出した。
「なぜ……?」
ガランは険しい表情を崩さぬまま、どこか憐憫を帯びた目で敵将を見下ろした。その眼差しは、復讐の果てにある空虚を見通す者のものだった。
「復讐なんぞ、虚しいもんじゃ。ワシは戦を愉しむが、私怨を戦場に持ち込む気はない。おぬしが生き延び、この敗北を咀嚼できるのなら——それもまた、一つの勝ち方よ。」
オロバスの拳が震えた。怒り、羞恥、屈辱。心の奥底に澱のように沈んでいた感情が、かすかに波打つ。だが同時に、魔神族に言われたその言葉が、奇妙な鈍痛となって胸中に残った。
「……貴様は、本当に魔神族なのか……?」
問いかけというにはあまりに低く、呟きに近いその声。ガランは鼻で短く笑うと、くるりと踵を返す。
「ワシはワシじゃ。おぬしも、自分の道を探せ。それと、二度とあの街に危害を加えるな。」
その背中は揺るがず、堂々としていた。戦に勝った者の風格と、それを超えた何かを宿している——力を超えてなお存在に重みを与えるもの。それが、今のガランだった。
オロバスは、瓦礫の中から苦悶を噛み殺すように立ち上がった。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。それでも彼は拳を固く握った。傷は深い。だが、それ以上に、精神に刻まれた屈辱の方が痛かった。よりによって、魔神族に生かされた——その事実が、何よりも誇りを蝕んでいく。
彼は唾と共に血を吐き、地面を睨みつける。傷口が再び開き、赤黒い血が滴ったが、オロバスは構わず顔を上げた。
「……ふざけるなよ。魔神族に生かされるなんて、屈辱以外の何物でもない……!」
声は微かに震えていた。だがその震えを自ら嘲るように、彼は乾いた笑みを浮かべた。心を保つ術は、それしかなかった。
「……この借りは、いずれ必ず返す。」
吐き捨てたその言葉には、怒気と悔恨が渦巻いていたが、ほんの僅かに——否、本人すら気づかぬ程度に——別の感情も混じっていた。羨望か、あるいは……微かな敬意か。
ガランはその言葉を背に受け、喉を震わせて笑う。双頭槍を肩に担いだその姿は、どこか芝居がかった老戦士のようでありながら、刃のような実存感を滲ませていた。
「ほぉ、借りとな?ワシは貸した覚えはないがのぉ。」
ガランは鼻先で笑い、オロバスを見下ろした。目を細めたその視線に、もはや戦いの熱はなかった。代わりに宿っていたのは、凍てついた憐憫と、それを隠そうともしない醒めた光、まるで、勝負の果てに相手の心の奥底を見透かした者の、それだった。
「次に会う時は、もう少し面白くしてくれ。……さっきみたいな、復讐に囚われたツマラン顔じゃなくての。」
言葉は鋭利だった。嘲りでも侮蔑でもない。ただ、確かな洞察に裏打ちされた真実が、鋼のような音を立てて突き刺さった。
ガランは踵を返し、戦火に灼かれた瓦礫の上を、まるで何かを踏みしめるかのように歩き出す。背を向けたまま、気まぐれな風に任せるように片手を上げ、言い放った。
「楽しみにしとるぞ、小僧。」
「んなっ、小僧だと貴様……!?」
「じゃあな。」
その言葉を最後に、ガランの背は夕闇の残滓へと紛れ込んでいった。オロバスは崩れた大地に膝をついたまま、その後ろ姿を黙って見送ることしかできなかった。
忌々しいはずだった。魔神族など、目にするだけで吐き気を催すほどの憎悪の対象。だが、今の自分の胸にあるのは、確かな困惑と、拭いきれぬ感情の残滓だった。
——復讐に囚われたツマラン顔。
ガランの最後の一言が、脳裏で幾度も反響する。言葉ではない。刃だった。目をそらしたくなるほど鋭く、そして重い。オロバスは拳を握り締めた。確かに、今の自分は…
いつからこうなった?
その言葉が、まるで胸を貫く刃のように重くのしかかる。誇り高きリュドシエル様に忠誠を誓い、聖なる使命を遂行していた。それが、いつの間にか、復讐の焔に身を焼かれ、かつての信念を灰燼に変えていた。
気づけば、信じていたはずの神は冷酷だった。正義を語りながら、その実は残酷な支配者。だが、その冷酷を、誰よりも肯定し、支持し、推し進めたのは他ならぬ——自分自身だったのではないか?
血の滲む掌を見下ろす。かつての戦いで握った剣、振るった魔力、命を奪うたびに信念を刻みつけたその手が、今はただ重く、鈍く痛む。何を壊したのか。何のために殺したのか。魔神族だからという理由だけで、命を奪うことに、いつしか疑問を抱かなくなっていた自分がいた。
「……違ったのか?」
誰に向けるでもなく、問いが漏れた。けれどその言葉は、荒野の冷気のなかで確かに空気を震わせ、自身の胸を打った。
リュドシエル様。あの方は、確かに崇高な光のような存在だった。だが、その光は、他者を焼き払うほどに強く、強すぎた。自分は、その光に目を焼かれ、影を見ることすら忘れていたのではないか。そのことに気づいたのは、皮肉にも——魔神族によって、だった。
「……忌々しい魔神族め。貴様の言葉など、何の意味もない……はずなのに、なぜ胸に残る……。」
口では罵りながらも、声には憎しみの棘がなかった。代わりに滲んでいたのは、あまりにも不本意で、認めたくもない、戸惑いの感情だった。
もし、あの方が今も生きていたら、自分に何と告げただろうか。——復讐ではなく、誇りを貫けと?それとも、ただ黙して戦えと?
否、それすらも欺瞞だったのかもしれない。あの方が求めたのは誇りではない。支配だ。秩序という名を借りた、絶対の統制だ。それを支えたのは他ならぬ、自分自身。
「俺が、間違っていたのか……?」
問いは空に消えた。誰も答えはくれない。けれど、胸の奥底で、何かが音を立てて崩れ始めていた。
静かな風が吹いた。戦いのあとの沈黙を運ぶ風。その中で、ただひとつ確かなことがあった。もう、かつてのように戦えはしない。リュドシエル様はもういない。過去に縋っても、光は戻らない。ならば、自分は——これからどう生きるべきなのか。
オロバスは、なおも遠く歩くガランの背中を見据えた。
「ふざけた化け物め。貴様のような魔神族が、なぜ……こんなにも……!」
声が震えた。だが、その震えに憎しみの色はなかった。代わりに滲んでいたのは、自分を変えた存在への、理解しがたい疑問と——微かな尊敬だった。
それでも、答えは出ない。ただ、今ひとつ確かに感じていた。
忠誠とは、誰かに縛られるためのものではない。己の信じる道を照らす、灯火であったはずだ。
だとすれば、自分はまだ、それを見失っていた。だからこそ、歩かなければならない。信じるべき光を、自分自身で見つけるために。
オロバスは、ひとつ息を吐いた。吐血の混じるその息は熱を失っていたが、彼の目だけは、かつてないほど静かに燃えていた。ゆっくりと拳を開く。そこには何もなかった。ただ、残滓のように残る誓いだけが、脈打っていた。
そして彼は歩き出す。星が瞬く夜の荒野を。風が吹き抜ける戦場を、誰にも頼らず、誰にも縋らずに。
リュドシエル様。俺は——
言葉にはならなかった。だが、心の奥底に、確かな意志の種が芽吹いていた。
────
燃え尽きた山岳地帯を背に、ガランはひとり荒野を行く。月は皓々と天空に浮かび、蒼白の光が地表を硝子のように照らしていた。戦いの熱は肉体の奥底にまだ微かに燻っていたが、それさえも彼には心地よかった。槍を肩に担ぎ、まるで剛鉄を打ち終えた鍛冶師のように、彼は満足げな顔をして歩を進めていた。
やがて、遠くに灯が見えた。石を積み上げた建物が立ち並ぶ、小ぢんまりとした街。夜の静寂に包まれ、まるで時間ごと眠りについているようだった。
「……さて、戻るとするかの。」
街に戻った途端、最初に姿を現したのはゴウセルだった。水晶のような瞳が月光を受けて微かに揺らぎ、彼の柔らかな笑みが夜気に滲む。
「おかえり、ガラン!!」
「おぉ、ただいまじゃ。」
拳と拳がぶつかり合う音が、小さくも確かに響いた。骨と魂の奥で交わる、それは言葉よりも確かな挨拶だった。
「無事でよかった。戦いは、どうだった?女神族は?」
「ククク……骨の折れる相手じゃったわ。だが一人で行って正解じゃ。……あやつを、少しは変えることができた……はずじゃからな。」
「変える……? なるほど、そういうことか。君は、やっぱり優しいんだね。」
「褒めても何も出んぞ?カッカッカ……。」
二人のやりとりを遮るように、街角の影からスプレッドが現れる。組んだ腕の先で、冷たい瞳がガランを値踏みするように捉えていた。
「ずいぶん派手にやってきたな。戻らなきゃ……ま、墓でも作っといてやるかと思ってた。」
「そりゃあありがたいこって。名入りの墓じゃとなお良い。」
「……ノってくるのか…。」
「場面に応じてセリフを用意しておくのが芸というもんじゃろ。」
ガランの口端が吊り上がると、スプレッドは肩をすくめてため息を吐いた。
「……まぁ、無事ならそれでいい。体を休めるために早く寝ろ。」
その声音には、かすかに滲む安堵があった。ゴウセルがそれを察して、目を細める。
「本当は心配してたのに。」
「……知るか。」
ガランは周囲を見回し、ふと問う。
「そういや、アンはどうした? 真っ先に駆け出してきそうな娘じゃが……。」
ゴウセルが静かに街の奥を指差した。灯のない路地、その陰からひとつの影が駆けてくる。
「ガラン!」
栗色の髪を夜風に揺らしながら、アンが飛び出してきた。目元には涙の光が宿り、潤んだ瞳が真っ直ぐにガランを捉える。
「信じてた……信じてたの。あなたが、必ず帰ってくるって。」
ガランは肩を揺らし、照れ隠しのように笑った。
「それはそれは、律儀なこって。」
安堵に胸を撫で下ろしたアンは、小さく笑みをこぼす。その笑顔が、夜の冷気を少しだけやわらげた。
────
翌朝——太陽が東の空に昇り、街に金色の光が満ち始めたころ、四人は再び顔を揃えていた。広場には住人たちが集い、旅立ちを見守っている。
「……そろそろ、出るかの。」
ガランの一言に、ゴウセルが静かに頷く。
「このままここにいるのは得策じゃない。想像以上に目立ちすぎた。」
「女神族に見つかるのは時間の問題だろうな。ここでこれ以上、犠牲を出すわけにもいかねぇ。」
スプレッドは手をポケットに突っ込みながら、抑揚のない声で言い放った。
そのとき、群衆の中からアンが一歩踏み出す。まっすぐガランを見つめるその瞳には、恐れよりも決意があった。
「私も行くわ。」
「……ほう?」
ガランの眉がわずかに動く。アンは深呼吸し、静かに言葉を紡いだ。
「あなたの強さを知りたい。昔、あなたの伝記を読んだ日から、私は……ずっと憧れてた。あなたの生き様を、この目で見届けたい。そして、隣にいたいの。」
その言葉に、ガランの表情が一瞬だけ揺れる。しかし次の瞬間には口角を吊り上げ、豪胆な笑みを浮かべた。
「気骨ある娘じゃ。……だが、子守りはせんぞ。それでもええなら、好きにせい。」
そう言って、ガランは膝を折り、無言で背中を差し出す。
「ほれ、乗れ。」
アンは一瞬呆気に取られたが、すぐに嬉しそうに笑い、小柄な身体を軽やかに躍らせた。両手でガランの肩にしがみつき、背中越しに遠くを見やる。
「ありがとう、ガラン。」
スプレッドは鼻で笑い、ゴウセルは柔らかな眼差しでそれを見守っていた。街の人々が静かに頭を垂れ、彼らを見送る。
ガランを先頭に、ゴウセル、スプレッドが続き、肩の上にはアン。
「さて……行くかのぉ。」
一歩、また一歩。彼の足が大地を踏みしめるたび、土が鳴り、空気が震える。どこへ行くかはまだ定かではない。だが、その背には確かな意志と、それぞれの願いが刻まれていた。
旅は、続く。