そこは、かつて神々の声が谺した聖域だった。
だが今、音という音は沈黙に呑まれ、冷気が大理石を這うのみとなった。
天井は果てなく高く、空中に浮かぶ無数の水晶が淡く明滅していた。揺らめくその光は、理そのものを象徴するかのように静謐で、干渉を拒む威厳を纏っている。柱は白銀に輝く大理石で構築され、均整を保ちながら空間を貫き、あたかも異端を排除する結界のように威容を放っていた。
静寂が空間を支配していた。だがそれは、安らぎとは正反対の性質を持っていた。安寧の沈黙ではなく、断罪の直前に訪れる緊張のそれ——一片の音すら許されない、冷厳な律が空気そのものに刻まれていた。誰一人、息を呑むことすら憚られる。
その中心、玉座の上に座す影——。
動かず、語らず、ただ存在するのみ。それだけで、空間そのものが彼女に従っていることが理解できた。時間さえ、彼女の周囲では歪んでいるかのように感じられる。在るだけで、支配は完結していた。
——そんな場に、微かな足音が響いた。
それは、風の中の葉擦れにも満たないほどの、か細い音だった。しかし、それだけでこの聖域の均衡は微かに揺らいだ。
現れたのは、女神族の一人。痩身の若き男である。震える膝を引きずるように進み、その足取りには決意よりも恐怖が色濃くにじんでいた。報告を果たさねば、命の保証すらない。彼はそれを理解していた。理解しきった上で、ここに立っていた。
「……申し上げます。」
絞り出すような声。叫びにも似た悲鳴である。
「オロバス様が……たった一人の魔神族に……敗北されました……」
その瞬間、空気が一段冷えた。まるで、その報せが宮殿そのものの体温を奪ったかのように。床を這う冷気が霜となって広がり、男の体から血の気が引いていく。
「それだけでは……ありません」
喉の奥が焼けつくように痛む。だが、言葉を止めるわけにはいかなかった。
「……私が派遣した女神族二名も、全滅……致しました……!」
沈黙——否、それは死よりも重い「無音」であった。
「……なるほど。」
低く、淡々とした声が広間を貫いた。それは感情を持たぬ冷鋼のような響きで、ただ事実のみを斬り捨てる刃であった。
玉座の主は、僅かに顔を上げた。
「つまり、貴様はこの神域に、我らが敗北したと報せに来たのだな?」
男の呼吸が止まる。否定しようとする理性はあったが、声帯は凍りついたまま動かない。
「無様だな。」
次の瞬間、彼の視界が歪む。空間が揺らいだわけではない。男の意識が、崩れはじめていた。
「安堵せよ。我が手で、役目を終えた貴様を解き放ってやる。」
それが最後の言葉となった。男の体は微光を放ち、粒子となって空気に溶けた。叫びもなく、痛みすらなく、ただ無に還った。残されたのは、転がった鎧の残骸だけだった。
玉座の主は、それに目もくれず、冷淡に命じた。
「………十六の光を集めよ。我らの使命を遂行する時が来た。」
即座に従者たちは動いた。誰一人として言葉を交わさぬ。この空間では、命令以外の音は不要であり、余剰は即ち断罪に繋がる。
ここは「正義」を掲げる地である。しかしそれは、断じて慈愛を意味しない。「正義」とは「裁き」の名を借りた、力による支配であり、ここに集う者はその価値観を骨の髄まで刻まれている。
神殿の中心、堂々たる大広間には、天井へと伸びる柱が聳え、天上には巨大な聖紋が刻まれていた。それは女神族の意志と秩序を象徴する刻印であり、この場の空気すら従わせるような重圧を放っていた。
そこに集った十六の影——九人の男と、六人の女。
いずれもが選び抜かれた女神族の精鋭。〈四大天使〉に並ぶ力を持ち、忠誠、知略、戦闘力の全てにおいて突出していた。
しかし、誰もが気づいていた。そこに、ひとつの光が欠けていることに。
そして、玉座の主がその沈黙を断ち切る。
「オロバスが敗れた。一人の魔神族によって」
その一言が、広間の空気を瞬時に凍らせた。無音。目を伏せる者も、声を漏らす者もいない。ただ、冷たく張り詰めた静寂が天蓋の下に満ちていた。
信じられない。
それは、十六の光すべての胸中に走った、根源的な拒絶の感情だった。言葉にならず、脳裏に浮かんだまま固着する。誰もがその事実の重さを理解するまでに、幾ばくかの時を要した。だが、それでも口を開く者は一人としていない。なぜなら、その発言の主は——絶対である。
オロバスが敗れた。あのオロバスが、たった一体の魔神族に屠られた。馬鹿げている。戯言としか思えない。しかし、あの御方がそう言う以上、否定は罪となる。
女神族の中でも、その剛腕において頂点に立っていたオロバス。戦場では無数の魔神族を粉砕し、力こそが正義であるという真理を、暴力によって刻みつけてきた彼が——たった一体の下等な魔神族に敗北したというのか。
……あり得ない。
否定が胸を衝き、喉を塞ぎ、言葉を消す。広間に漂うのは、理不尽な現実を前にした全員の沈黙と、ゆっくりと浸食してくる絶望の気配だった。
その沈黙を切り裂いたのは、玉座の上から放たれた一声だった。
「くだらぬ。」
その声音には、情緒の一片すらない。冷たい刀が空気を裂くように、感情も価値も斬り捨てていた。
「貴様らの面差しは、自らが敗者となったようだな。」
震えたのは、ただの音ではなく、命だった。幾人かが息を詰め、背筋をこわばらせる。だが、決して動揺を表に出すことはない。それは愚かであり、無能の証左とされるからだ。ただ黙し、ただ服従するのみ。
「オロバスは強かった。だが、それで敗れたのならば、所詮その程度の存在であったということだ。」
その宣告は、かつての仲間を土塊のように踏み砕くものであった。オロバスは忠誠厚く、誰よりも信頼されていた存在だった。だが、その名誉も忠義も、敗北の二文字の前には無に等しい。主の価値観において、敗者は存在しないに等しい。
「勝者こそが正義であり、敗者には存在する意味すらない。」
その言葉は、血も温度も通わぬ真理として、広間に落とされた。
この御方が求めるのは、ただの忠義でも、徒な献身でもない。必要とされるのは、絶対の力によって秩序を体現できる者のみ。弱者は不要。価値すらない。
「命ずる。」
ようやく、命令が下された。
「各々が独自に行動し、敵を殲滅せよ。」
瞬間、数名が目を見開いた。なぜ、集団ではなく単独での出撃を命じるのか。疑念が、鋭い針のように意識を貫いた。
その中から、一人の男が一歩を踏み出した。漆黒の短髪に青い眼光を宿し、整った顔立ちと端然たる佇まいを持つ女神族の戦士。その名は——オルフェウス。知略に優れ、状況判断に長けた彼は、今も沈黙を守りながら、適切な機を見極めていた。
「御意に従います。しかし、あえて伺います。なぜ、単独行動を選ばれたのか…。」
その問いに、玉座の主は口元をわずかに歪めた。冷酷な意思を滲ませた一瞥が、オルフェウスを貫く。
「貴様らは、群れねば勝てぬのか?」
その問いに含まれた嘲弄は、氷の刃のように心臓を突き刺した。だが、オルフェウスは一拍の沈黙ののち、静かに首を振った。
「……否。その必要は……ございません。」
「ならば、動け。」
命令は、絶対だ。
「群れて動けば、敵はまとまり迎撃に転ずる。だが、貴様らが各々動けば、敵は分断を強いられる。」
理であり、戦術であり、そして挑発でもあった。相手がどれほどの存在かを測るには、こちらが本気で個としてぶつかるしかない。群れに依存する者には、真の強さなどない。
「加えて——」
冷ややかな声音が、なおも続く。
「貴様ら十六……いや、今や十五が揃っても勝てぬ相手ならば、我が軍勢に意味はない。」
その言葉は、宣戦布告ではなく、選別だった。己が生きる価値を証明する場としての戦場。その資格がない者は、ただ排除される。
「さあ、狩りを始めよ。」
命令は下された。広間の扉が、無音のまま開かれる。十五の光は、躊躇うことなく進み出る。これは命令ではない。選別であり、試練であり、各々の存在を賭けた戦いだ。
戦場は、既に彼らを待っている。
そして帰還を許されるのは、勝者のみである。
────
早朝の空気は冷たく、まだ夜の名残を宿した蒼穹の下、ガランたちは静寂を破ることなく歩みを進めていた。遠くの地平線には、ほんのりと朝焼けの薄明かりが滲み、空の色がわずかに朱に染まり始めている。それでも周囲は深く静まり返り、まるで世界ごと眠りについているかのような、柔らかな静謐の時間が流れていた。
ガランは歩みを止めることなく、無目的にただ進んでいた。オロバスを倒し、街を離れたその先に何が待っているのか、特に考えていない。むしろ、考えることすら無意味だと感じていた。歩き続ければ、自然と道が開けるだろう。それ以上の期待もなかった。
その隣を歩くゴウセルは、まるで日向の散歩を楽しんでいるかのように、両手を広げ、歩幅も軽やかだった。風を感じるように、両腕を軽く揺らしながらその静けさを愉しんでいる。
「ねぇ、次はどんな展開が待ってると思う?」
ゴウセルの声は、今の静かな空気を愛でているかのように、軽やかで無邪気だった。その問いかけには、どこか遊び心がこもっている。
スプレッドは、特に反応もなく歩き続け、視線をほんの少しだけ空に向けた。冷静な目線の中には、ゴウセルの言葉が心地よく響いているものの、それを言葉にすることはなかった。ただ、足元の道を見つめながら、無言で歩を進めていった。
「さぁな。」
彼の答えは一言だけ。それ以上、何も求めていないというように、再び視線を前に向ける。彼の表情からは、無理に会話を続ける必要はないという思いがにじみ出ていた。
ゴウセルはそんなスプレッドの反応にも、楽しげに笑いながら歩き続けた。
「僕はね、これからすっごい大冒険が始まると思ってるんだ。もしかしたら、もっと大きな戦いがあるかも。仲間だって増えるかもしれない!」
その声には、純粋な期待と興奮が詰まっていた。それは、まだ目を覚まさない世界に、軽やかに響き渡るようだった。
「……テンション高いなぁ、お前。」
スプレッドはその声に少しだけ笑みを浮かべ、軽く言葉を返す。その一言には、冷静さを保ちながらも、どこか微かに心が弾んでいる様子が感じられる。口元の端が、少しだけ上がっていた。
そして、アンはさらにその元気を増して歩を進める。
「ねぇガラン、これからどこに向かうの?」
その無邪気な問いかけには、軽さと無敵感が漂っていた。どんな困難も、自分には関係ないというような、安心感と期待感が込められていた。
ガランは一瞬、仲間たちの顔を見渡し、ふと思う。
——こんな感じで、どこに向かってるんだっけ?——
だが、その答えはすぐには出なかった。彼の足は止まることなく、ただ前へ進み続けるだけ。冒険の先に何が待っていようと、それを考える必要はなかった。歩き続ければ、自然に道が開けるだろう——それが、仲間たちのやり方だと感じていた。
「決めとらん。どこに行くかなど。」
ガランの言葉は静かに、しかし確固たるものだった。
「え?そうなの?」
アンが驚いたように問い返すが、ガランはすぐに答えた。
「まぁ、その場その場で決めりゃいいじゃろう。腹が減ったら川岸に行って魚を取ればいい。森にいるなら野イチゴやらを採ればいい。寝るときにゃ即興の家やら小屋やらを作ってどうにかすればいい。」
その言葉には、無計画であっても生き延びる術を心得た者の泰然とした余裕が感じられる。
「………」
アンは少し考え込むようにして黙ったが、ガランはその沈黙を心配する様子もなく、再び足を踏み出す。
「安心せぇ、なんとかなる。儂を信じろ、アン。」
その言葉は、まるで大地そのものが語るように、揺るぎなかった。
「そうね。憧れの人を信じなくてどうするのってね。」
アンの声には、どこか頼もしさが込められていた。彼女は迷うことなく、ガランの言葉を受け入れ、その背中に信頼を託していた。
そして、彼らの前に広がるのは、果てしなく続く草原だった。空が次第に明るさを増していき、朝の光が草の一筋一筋に反射して、白く輝くように見える。何も決まっていない未来が、今、目の前に広がっている。
それでも、ガランたちはただ歩き続けた。
────
昼を過ぎる頃、空腹は次第に意識の隅にまで忍び寄ってきた。朝食を軽く済ませただけで、それからというもの、ガランたちはほとんど食事を取っていなかった。腹の虫が徐々にその存在感を増し、会話の合間にも遠慮なく鳴き声を上げ始めていた。
「お腹、すいたな〜」
アンが小さな声で呟くと、その言葉はしばしの間、周囲に響き渡ることなく静かに消えた。ガランはその声を受け、無言でうなずいた。
「確かに。そろそろ何か食べないと、きつくなりそうじゃな。こいつを抑えるのは良くなかろう。」
ゴウセルはすぐさま元気よく手を挙げた。
「じゃあ、さっきガランが言ったように木の実でも採ってこようよ!あそこにある森には、きっとたくさん実がなってる!」
指を指した先には、青々とした木々が立ち並ぶ森が広がっており、その緑深い誘惑が大気ごと迫ってくるようだった。ゴウセルはすぐにその方向に向かおうとするが、スプレッドが冷静な声で制止する。
「ちょっと待ってくれ、アンを休ませる場所を確保したい。」
スプレッドの言葉に、ゴウセルは足を止めて振り返る。
「休ませる場所?」
「あぁ。こいつは人間だ。俺らよりも体力は低い。無理して歩き続けるのは良くないだろうしな。体を休めさせたほうがいい。」
「確かに。」
ガランは一息つくと、周囲を見渡して一瞬考えた後、左方向に目をやった。そこには、大きな木が一本、堂々と立っていた。
「休むにはちょうどいい場所になるな。」
ガランはその木を指し示し、槍を一振りする。鋭い槍の先端が木の幹に深く食い込み、力を込めると、槍は一瞬で木を真っ二つに裂けさせ、その丸太が二つ、地面に転がり落ちた。
「よし、これで。」
ガランはその丸太を見て満足げに頷く。まるで自分が大工師にでもなったかのような、無骨な達成感が顔に滲んでいた。
「アン、お前はここでちょっと休んでろ。儂らはすぐに木の実を探してくるから。」
アンはその言葉に元気よく飛び跳ねて返事をした。
「わーい!じゃあ、私はここで待ってる!すぐに帰ってきてね!」
彼女はそのまま転がっていた丸太に身を預け、リラックスした様子で目を閉じた。やがて、ゴウセルはスプレッドと共に森へと向かっていった。
「じゃあ、僕たちは速攻で木の実を探してくるぞー!」
「おー!」
ゴウセルの声が、どこか楽しげに響く。その背中をガランが見送りながら、口元に軽く笑みを浮かべ、呟いた。
「ゆっくりでいいよ〜。」
アンは目を閉じたまま、静かに返事をする。丸太に身を任せて、深呼吸をした。涼やかな風が顔をかすめ、木々の間から漏れる陽光が温かく彼女を包み込んだ。静かなひとときが、彼女の心にゆっくりと安らぎをもたらす。
「気持ちいいなぁ〜。…けど……うぅ〜お腹減ったよぉ〜お腹と背中がくっつきそうだよぉ〜美味しいもの食べたいよぉ〜。」
アンはぐでっとした口調で、その思いを吐き出すように呟いた。その時、ふっと風に乗って、香ばしい匂いが鼻腔をかすめた。アンは一瞬、それが風の流れの中でただの幻のように思えたが、次の瞬間、その香りがますます鮮明になり、思わず目をぱっと開けた。
「何これ…いい匂い!」
その香りは、焼き魚の脂が滴る、あの官能的な香ばしさだった。どこか近くから漂ってくる。アンはその薫香に誘われるように立ち上がり、本能に従うままその源を追いかけ始めた。
「どこだろう、この匂い…」
足を速めて歩き進めると、しばらくして川岸に辿り着いた。そこには、小さな焚き火がぽつりと灯っており、その上には二匹の魚が串に刺されて、静かに焼かれていた。煙がふわりと立ち上り、食欲を喚起する香りが一層強くなった。
「……これ……!」
空腹が理性を侵蝕していたのか、ほんの一抹の逡巡も抱かずに、アンは焼かれた魚の串へと手を伸ばした。その手つきは飢えた獣のように素早く、次の瞬間、彼女は豪快に魚へとかぶりついた。
「美味しい〜〜!!」
思わず漏れた声は、ただの驚嘆ではない。口内に広がる香ばしい脂と、身に染み込んだ塩気が喉奥を駆け抜け、胃袋を歓喜で震わせた。骨からほろりと外れる身は柔らかく、それでいてしっかりと焼き締まっている。彼女は夢中で食らいつき、一匹をぺろりと平らげた。
「よし、もう一匹いっとこ~……!」
その勢いに任せて、アンは次の串に手を伸ばそうとした。だが、その手は魚に触れる寸前で、ぴたりと止まった。
気配だった。
肌を刺すような視線が、背中に突き刺さる。まるで急に影が降ってきたかのような違和感に、アンの動きが止まる。ゆっくりと振り向いた彼女の瞳に映ったのは、一人の男だった。
青年——だが、その姿からは年若さよりも、得体の知れぬ静謐と緊張が滲んでいた。肩にかかる栗色の髪は風にわずかに揺れ、切り裂くような薄緑色の瞳が、無言でアンを射抜いている。黒と灰を基調とした服に身を包み、軽やかなジャケットを羽織る彼の風貌は、どこか都市の雑踏から切り離されたような浮遊感を帯びていた。
だが、何より印象的だったのは、その目だった。
冷たい。鋭い。言葉を使わずして、責めることを理解させる、圧倒的な沈黙の力を持っていた。アンは咄嗟に視線を逸らした。
「え、ええっと……?」
喉がひくつき、言葉が舌の上で空転する。彼女の目線は、男の手元へと自然と滑った。そこには、片手にぶら下げられた細長いガラス瓶があり、琥珀色の液体——酒らしきものが、瓶の中でゆるやかに揺れていた。その瓶を男は無言で傾けながら、アンの様子を観察している。
その視線が語っていた。——「それは、俺のものだろう?」
アンの思考が、ようやく追いついた。
(……あれ?これって、もしかして……盗み食い?)
鼓動が、胸の内で徐々に速まっていく。彼女は魚の串を握ったまま、半ば慌てるように口元を手で押さえ、もぐもぐと咀嚼していたものを無理やり飲み込んだ。
「あ、あの!ごめんなさい!!……これは、その……悪気はなくて!」
懸命に釈明の言葉を紡ごうとするが、男の無言の圧がすべてを踏みにじってくる。言葉は喉の奥で途切れ、再び唇を噛んだ。
男は沈黙を破ることなく、一歩、地面を踏みしめた。
音が鳴った。乾いた草を踏む小さな音だったが、その音はアンにとって処刑の鐘のように大きく響いた。
「ごめんなさい!!だから、あの……こ、こっち来ないで……!な、なんか、話があるなら……!」
必死の声も、男には届かない。ガラス瓶が傾き、ゆっくりと液体が揺れた。その小さな動きさえも、今の彼女には不吉な予兆に映る。
アンは震える手で地面を押し、勢いよく立ち上がった。彼女の身体がわずかに後退するたびに、男の足音もひとつずつ、ぴたりと追うように近づいてくる。
視線を感じる。額ににじむ冷や汗が、頬を伝っていく。
(…この人、本気で怒ってる……?)
風が吹いた。草がざわめき、焚き火の火が小さく揺れた。その刹那、男の目がアンのすべてを見透かしたかのように輝く。意識が一瞬、暗転しそうになる。
「や、やめて……!」
その場に根を張ったような恐怖が、彼女の声を震わせた。逃げたい。しかし足は竦み、背中は丸まり、どうしても動けない。
そして次の瞬間、抑え込まれていた恐怖がついに閾値を超えた。
「いやああああああッ!!」
乾いた空に、アンの悲鳴が突き刺さった。
────
その頃、ガランたちは満載の木の実を抱えて森を抜けようとしていた。
「こりゃあ大漁じゃな。これならアンのやつもきっと喜ぶじゃろうて」
「だろうな。俺の『植物化』で両腕を籠に変えても、溢れちまうんだからよ」
「えへへ、ガランと一緒に採ってたら楽しくなっちゃって、つい夢中に……」
「ったくよ、食料は困らねぇが、荷が重くて腕が取れそうだぜ……」
軽口を叩き合いながら坂を下り、見晴らしのよい斜面に並べた丸太へ戻ると、そこにいたはずのアンの姿が見えない。
「……あれ?アンは?」
「さぁな。水でも飲みに行ったんだろ。川が下にあったはずだし。」
スプレッドが何気なく崖の縁から身を乗り出す。だが次の瞬間、彼の身体は静止した。目を見開いたまま言葉を失い、肩も喉仏も、まるで時の流れから切り離されたかのように微動だにしない。そして後ろに立つガランとゴウセルへ向け、無言のまま手だけをちょいちょいと動かした。
「……なんじゃ、何が見える?」
「えっ、ねぇねぇ、何?なんか面白いのあるの?」
二人が肩越しに川辺を覗き込んだ瞬間——
「ぎゃあああ!」
突き刺さるような悲鳴が森を貫いた。そこには全力で逃げ惑うアンと、無言のまま棒を振りかぶる男の姿があった。
「なっ…!?あの娘、何しでかしとるんじゃ!?」
「いやああっ!無理無理!!誰か助けてぇ!」
アンは草をかき分け、地を蹴り、全身で逃走に徹していた。男の振るう棒は勢いを失わず、空気を割って鋭い唸りをあげる。間一髪、かすめるそれに顔を歪めながら、アンは必死に叫ぶ。
「じっとしてろ。礼儀を知らぬ者には、それ相応の罰が必要だ。」
「そんなのぜったい嫌ぁ!」
「拒否権など無い。良い魚が釣れたと喜んだのも束の間、お前はその魚を腹の中へ納めやがった。許されるとでも思うか?」
冷ややかな口調で言い放ちながらも、男の動きは一切乱れなかった。足取りは緩やかだが着実で、逃げるアンとの距離を、じわじわと詰めていく。まるで悠然たる鷹が地を駆ける小動物を追うように、余裕と確信を持ちながら獲物との間合いを縮めていく。
「くっ……!このままじゃ——!」
そのとき、視界の端に、木立を抜けてくる三つの影が映った。見知った顔が風に揺れる木の向こうから現れる。
「た、助かった……」
アンは一転して満面の笑みを浮かべ、全力で手を振った。彼女の絶叫は、魂そのものが喉から飛び出しそうな勢いだった。
「ガラーン!スプレーッド!ゴウセール!助けてぇぇ!」
しかし、三人はどこか呆けたようにその様子を眺めていた。
「……なんじゃ、また妙なことに巻き込まれとるな」
「……顔、必死すぎない?」
「追われてるなぁ、それもかなり全力で。」
「……で、どうするんじゃ?」
「どうなるか見てから判断、でも面白そう。」
「それかずっと眺めてるのもまぁいいんじゃねぇの?」
「早く助けてぇぇぇ!!?」
アンの叫びが再び木霊し、ようやく三人は動き出した。
男の背後をガランが回り込み、スプレッドが横から挟み込む。ゴウセルは至近から飛び出し、棒を持つ手に的確な蹴りを入れた。棒は空中に跳ね上がり、乾いた音を立てて地に落ちる。
男は一瞬のうちに制圧され、動きを封じられた。その後、草むらの中に腰を下ろし、ボトルを傾けながら、ようやく静かに口を開いた。
「……いや、すまん。少しばかりムキになりすぎた」
男は額の汗を拭い、視線を逸らしながら言った。その声音には怒りの残滓がまだ微かに含まれていたが、火の手はすでに収まっていた。
「いいんだ、んなこと。非はこいつにある」
スプレッドが穏やかな口調で言うと、隣に立っていたアンの頭を容赦なくがっしりと掴んだ。細い首が引き寄せられ、抗議の声すら出せず、アンはそのまま項垂れる。
彼らがすぐに助けなかった理由は、言うまでもなく、その傍らに転がっていた焼き魚の残骸である。皮はめくれ、骨は剥き出しにされ、肉の繊維は小さく噛みちぎられた痕跡を残していた。それが、事件の核心だった。口にするまでもなく、アンが盗み食いを働いたのは明らかだったのだ。彼らは黙って見守り、彼女がしっかりと謝罪するまで介入しなかった。これは正当な報いであり、必要な手順であった。
「……うぅ。」
「なぁに自分が被害者みたいに振る舞ってやがる。それはお前じゃねぇっての」
「……ごめんなさぁい……」
「悪かったのぉ。代わりと言っては何だが、儂らが採ってきた木の実でも……」
「いや、それはいい。俺はそういうの苦手だ。食感がだめというか……まぁ駄目なんだよ。」
男は軽く首を振った。
「……そうか。ん、すまんの。」
しかし、ガランの中には未だ強い呵責が残っていた。身内の過ちに、けじめをつけねば気が済まなかった。
「なにか償いをせねば、儂の気が収まらん。何かあるかの?」
そう言って腕を組むと、男はしばし黙考したのち、軽く肩をすくめ、冗談めかして口を開いた。
「……まあ、そうだな。最近この辺りの森で狼の群れが作物を荒らしててな。そいつらを始末して、ここに持ってきてくれたら許してやるよ。」
それは本気ではなかった。ただの軽口——些細な仕返しのつもりだった。しかし、次の瞬間。
「……わかった、ゴウセル。」
「オッケー。」
ゴウセルが静かに答えた。その声は冷たく、音として空間に沈むようだった。
刹那、空気が張り詰める。風が止まり、葉が震える。微細な音さえも押し黙った。
ゴウセルの掌が、ゆっくりと宙をなぞるように動き出す。
「傀儡縛り。」
パリッ、と音を立てるように空気が弾けた。そして——
森の奥から、ガサガサと草木を押し分ける音が聞こえ始めた。それは単なる揺れではない。根を踏みしだく重量、複数の蹄が刻む不協和なリズム。それは地鳴りだった。
ドドドドドドドドドッ!!
「……え?」
男が目を見開いた時には、既に光景は形成されていた。
十、二十、いや三十を超えるか。無数の狼が、目を剥き、牙を剥きながら、まるで見えない糸に吊るされた操り人形のように空中を滑っていた。そして次の瞬間、彼らは寸分違わぬ間隔で、男の足元に整列するように落とされた。
「はい、ガラン。」
ゴウセルの指示に応じ、ガランがゆっくりと双頭槍を構える。灰のように冷めた目つきで、狼たちを一瞥し——
「命があるのは承知の上じゃが……すまんの、ここはちょいと許せよッ!!」
ドゴォォォォン!!
土煙が舞い上がり、音が爆ぜる。まさに爆撃。剛力による一撃で、十数匹の狼が悲鳴すら上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。
「よぉし、スプレッド〜。」
「…わかってるっての。最後の仕上げだ。」
スプレッドが両手を掲げる。すると、地に生えた草が生き物のように蠢き、倒れた狼たちの身体に絡みついていく。柔らかくも力強く、肌に吸いつくように伸びた蔦は、丁寧に毛皮を剥ぎ、余分な脂を排し、まるで老練な料理人が手際よく下処理をするかのように肉塊へと加工していった。
「うん、これで完璧。」
淡々と並べられる肉の山。見た目にも整然と、美しくさえあった。
男はその一部始終を呆然と見ていた。開きかけた口から言葉は出ず、目は一切の焦点を失っていた。世界の構造が根本から歪んでいくような、そんな錯覚すら覚えた。
「…………」
やがてようやく、震える声が男の喉奥から絞り出された。
「お、おまえら……本気でやるとは……」
その声にアンがそろそろと近づき、男の服の裾を指先で引いた。
「…ほ、本当にさっきのはごめんなさいね?私は、今の一連の流れの中、一切何もしてなかったんだけど……いや、しようと思ってもできなかったのよ!?やる気はあった!あったから!……あのぉ、これで、許してもらえる……?えへへ……」
男は返事の代わりに、ゆっくりと喉を鳴らしながら唾を飲み込み、硬直した表情のまま呟いた。
「……いや、もういい。なんだか、全部ちっぽけに思えてきた……。」
かくして、アンの罪は——あまりにも過剰で、滑稽ですらある手段によって、帳消しとなった。
一件落着かと思われた空気の中で、男だけは何かを引きずるように沈黙していた。まるで頭の内側で小石が転がり続けるような違和感。彼は、三人の異形の者たちを改めて見つめ、ぽつりと疑問を口にした。
「すまん、少し気になるんだが……お前ら、名前は何だ?」
「スプレッド。」
「ゴウセル。」
「……ガラン。」
その瞬間、男の顔色がほんの僅かに変わった。スプレッドの名には何の引っかかりもない。ゴウセルにはどこか既視感があったが、それ以上ではなかった。だが、最後に発せられた名——「ガラン」——その音が耳に入った瞬間、彼の内側で、深く閉じられていた記憶の扉が軋んだ。
心臓の鼓動が一拍、重くなった。腹の底に、鉛の塊でも沈んだかのような感覚が走る。
「……ガラン。」
男は、その名を反芻するように、かすれた声で呟いた。
記憶が蘇る。かつて、自分がまだ少年だった頃、どこを飛んでいるかもわからぬ女神族たちが語っていた伝説の名。「十戒」。魔神王直属の精鋭。その中に、圧倒的な破壊を司る者がいたという。戦場に現れた瞬間に戦意が霧散し、名を聞いただけで兵士が白旗を上げる。語り継がれるその名こそ、「真実」のガラン。
ただの伝説。現実味のない作り話のはずだった。しかし、今、その名が、この目の前の男の口から自然に発された。しかも、違和感も誇張もなく、まるで当然のように。
疑念と恐怖と、そして一抹の確信が、男の胸の中でせめぎ合った。そして静かに、それが一つの形となって結論を下す。
「ガラン……魔神王直属の精鋭部隊『十戒』の——」
言葉の途中で、男はふと我に返った。自分の立場と、目の前の異常な存在とを、冷静に天秤にかけた。その上で、肩の力を抜き、わずかに口元を歪めた。
——可笑しいな。
あの頃と同じだ。かつて同じ種族として生まれ、そして出会った、手も足も出なかった"強者"との記憶。力の差を見せつけられ、自分の無力さを思い知った、あの痛み。そして今、目の前に立つ「ガラン」という存在が、再びその記憶に重なる。けれど、それが恐怖ではなかった。むしろ逆だ。渇望だった。
「なるほどな。さっきのおかしな行動も、妙に腑に落ちた。……お前、ガランだな?石になってない時点で、嘘ってことはなさそうだ。」
「お主、儂を知っとるのか?……もしや、この娘みたいに伝記か何かで聞いた口か?」
「いや、違う。……実際に、昔、お前のことについて誰かが話していてな。ずっと気になっていたんだよ。」
その声に、迷いはなかった。むしろ確信と、抑えきれぬ昂揚が滲んでいた。
「俺の名は、マキシリア。……腹ごしらえってのは、まあ建前だな。」
言葉の温度が一気に変わる。静かな炎が、男の目の奥で燃え始めた。
「はっきり言おう。……力比べをしたい。なぁ、少しだけでも、俺とやってくれないか?」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気が微かに緊張の色を帯びた。小動物が天敵の気配を感じたときのように、空気の粒子が肌を刺す。
ガランは無言のまま、ゆっくりと双頭槍を手に取った。表情は変わらない。ただ、その動きには一切の無駄がなかった。まるで、呼吸と同じくらい自然な動作。彼の瞳がまっすぐにマキシリアを捉えたとき、殺気も威圧もなかった。ただ静かに、戦いの予兆だけが、確かにそこに在った。