夜は完全に町を支配していた。月は天の真上にあり、その冷たい光が町全体を銀に染めている。風は乾いて冷たく、石畳に残った水気が足元から体温を奪っていく。
その静けさのなかで、まだ灯りが消えぬ建物が一つあった。城の陰から少し離れた場所。煙突が傾き、壁は煤で黒ずんでいる――そこは〈ヨナの吐息亭〉と呼ばれる古い酒場だった。軋む鎖に吊るされた看板が風に揺れ、その名を夜に向かって呟いていた。
店の中では数人の常連が酒を酌み交わしていた。燻製肉の香りと泡立つ麦酒の匂いが、湿った空気と混じり合って漂う。卓上の蝋燭が揺れ、琥珀色の光が男たちの顔を照らしている。どの顔にも、言葉にならない何かが澱のように沈んでいた。
そんな中、重たい声が一つ、低く響いた。
「なあ。なんでシエル王は、あんな連中を城に入れたんだ……?」
五十を過ぎた鍛冶職人が、喉仏を上下させながら呟いた。声は焼けた鉄のようにざらついていた。ジョッキを卓に叩きつけるように置くと、その場に沈黙が落ちる。炭火の爆ぜる音だけが、重い空気を切り裂いた。
「俺も……変だと思った。」
向かいに座る痩せた革職人が言った。泡を袖でぬぐいながら、目を細める。皺が深く刻まれた目尻が、言葉以上の懸念を滲ませていた。
「あいつらが来たとたん、シエル王は"城へ招きたい"なんて……あまりに早すぎる。まるで最初から、来ると知ってたみたいだった。」
「だが、それ以上に変だったのは"あの目"だ。」
鍛冶職人が低く唸るように言った。ジョッキの縁をなぞる指が微かに震えている。鉄を打ち続けてきた無骨な手が、その細い縁の上でわずかに揺れていた。
「俺は見たんだ。城門の階段を登るシエル王の目……あれは歓迎じゃない。もっと冷たい、もっと深い……獣が、牙の本数を数えるような、そんな目だった。」
その言葉に、酒場の主がカウンターの奥から口を挟んだ。濃い眉を寄せながら、大鍋をかき混ぜる手を止める。厚い掌が柄から離れ、静かに卓に置かれた。
「見定める目、ってことか。」
「そう、それだよマスター。無感情で、でも一点の迷いもなかった。」
「……最近のシエル王、変わったよな。外に出ることも少なくなった。」
革職人が頷く。
「でも、あの方が来てから、街は潤った。荒れ地は聖地になり、雨が降るようになった。南には道が通り、野獣も森から出てこない。……俺たちは生きやすくなった。」
その言葉には、感謝と疑念が等分に溶け合っていた。恩恵を否定する言葉を吐くことへの後ろめたさと、それでもなお残る違和感。そのふたつが、男の声音の中で静かにせめぎ合っていた。
「だとしても――納得できねえ。」
鍛冶職人が唇を噛んだ。その目には迷いがあった。歯の裏側に言葉が溜まっているのに、それを吐き出す勇気が出ない、そういう目だった。
「俺一人じゃ、王に何も言えない。でも、見て見ぬふりもできない。善きことの裏に、何が潜んでいるか…知らずに生きていけるほど、俺は鈍くねえ。」
「……俺もだ。」
酒場の主が椅子に深く腰を下ろし、低く言った。蝋燭の光が顔の陰影を浮かび上がらせる。その炎が、風もないのに微かに揺れた。まるで、この場の空気そのものが不安を孕んでいるように。
「言わねばならんことがある。でも、言えば終わる。だから俺たちは、ここで飲む。話す。ここでだけ。」
その言葉の重みが、店内の空気を一層濃くした。誰も反論しなかった。誰も立ち上がらなかった。ここでしか吐き出せない真実を、麦酒と一緒に飲み下しながら生きていく——それが彼らの選んだ、唯一の抵抗だった。
鍛冶職人は黙って頷き、ジョッキを飲み干した。泡が口元を濡らすが、ぬぐおうともしない。ただ天井を見上げた——生涯で何度となく見上げてきた、煤けた木の天井を。答えがそこにあるわけではないと知りながら、それでも目を向けずにはいられなかった。
そのときだった。
遠く、北の高所から、低く鈍い音が地を這って届いた。石を砕き、梁を折る、腹の底に響く衝撃音。それは一度ではなかった。連続する轟音が夜気を引き裂き、酒場の窓硝子が小刻みに震えた。蝋燭の炎が大きく揺れ、男たちの顔に伸びた影がぐらりと歪む。
「……なんだ今のは!?」
皆が席を蹴って立ち上がる。扉を蹴破るように飛び出した先、彼らはそれを見た。
「シ、シエル王!?」
高壁に、シエルの体が激突していた。血を吐き、土煙を舞わせ、壁にめり込んでいる。鎧の胸板が大きく凹み、砕けた石片が雨のように降り注ぐ。あの沈着不動の王が、まるで投石機から放たれた礫のように、城壁に叩きつけられていた。
「何が……起きた……?」
「お、おい!あれを見ろ!!」
誰かが叫んだ。崩れた城壁。その向こうから、紅い鎧をまとった怪物が、ぬっと姿を現す。月光が紅鎧の表面で燃えるように照り返し、その巨躯が夜の闇に屹立していた。
それが――"真実"のガランだった。
彼に何が起き、なぜここに現れたのか。物語は、ほんの数分前へとさかのぼる――
────
ガランは、賓客用に設えられた寝室にて、ただ、寝台に身を横たえていた。衣装の上から毛布をかけたまま、彼は微動だにせず、眠っていた。
否——眠っているように見えた。
暗闇の中、石壁の向こうで虫が鳴いている。遠くで夜番の衛兵が交代する足音。城という巨大な躯体がひっそりと息をする、その静寂の中に、ガランは身を沈めていた。だがその意識は、薄い眠りの膜の下で、絶えず周囲の気配を読み続けていた。戦場を幾千と渡り歩いた者の本能が、安らぎを装いながら、夜の城の隅々まで感覚の触手を張り巡らせていた。
その時、シエルは静かに、ガランの寝室に踏み込んだ。
足音が床を鳴らす度、その音が無情に広がり、静寂を切り裂いていく。ガランは寝台に横たわり、完全に静止している。呼吸すら感じられない。まるで命を持たぬ者のように、彼の姿はまるで死者のようだった。
シエルの喉がかすかに鳴る。唇は乾き、舌が貼りついた。柄を握る手は冷え、指先だけが妙に痺れていた。頭では決めているはずなのに、膝の内側がわずかに震えている。夜風が窓の隙間から忍び込み、燭台の炎を細く揺らした。
(これしかない。……けれど――)
呼吸が浅くなり、胸郭がうまく広がらない。剣を持ち上げようとするたび、心臓が抗うように跳ねた。その度に、自分が何をしようとしているのかを体が突きつけてくる。怯えではない。信念は揺らいでいない。ただ、これほどの存在を前にして、命という概念そのものが重さを帯びて感じられた。
シエルは歯を強く噛んだ。
痛みで雑念を押し潰し、ついに剣を掲げる。
「……許せ。」
刃が閃き、寝台を覆う毛布を裂いた。木板が悲鳴を上げる。
だが――そこに、ガランの体はもうなかった。
空っぽの毛布が崩れ落ち、音が室内に散った。気の抜けた布切れが床に沈む。その光景が、シエルの思考を一瞬だけ完全に凍らせた。
次の瞬間、背後で床がきしむ。
振り返るより早く、熱を帯びた気配が首筋を撫でた。それは圧力というよりも、存在そのものの重量だった。
「…儂を斬る気でおったのか?娘よ。」
背筋に冷たい電流が走る。立っていたのは、さきほどまで死者のように横たわっていたはずの紅鎧の怪物――ガラン。その眼は深い緑に光り、森の奥で燃える燐火のように澄み切っていた。まるで「全てを見通している」と言わんばかりに。
「カッカッ…………大した根性じゃ、娘よ。」
その言葉に、シエルは息を呑んだ。
なぜ「娘」と。なぜ、私が女であることがわかったのか。鎧に身を包み、声を押し殺し、身分を隠してきた。街の誰もが「若き王」と呼び、女として見抜いた者はいなかった。だがガランの眼は、迷いなく真実を突き刺していた。呼吸の浅さ、刃の揺らぎ、声の震え——些細な揺れすら見逃さず、「女である」と断じたのだ。この男の眼は、鎧も偽名も、積み重ねた虚飾のすべてを、まるで薄紙のように透かして見ていた。
「しかし驚いたもんじゃ。こんな若い娘がこの街を統治している王だとは……。」
「……っ!」
シエルは咄嗟に後退し、剣を構え直した。緑の眼光が、じりじりと精神の根を蝕んでくる。次の瞬間、床を蹴り、斬撃を浴びせかけた。火花が散り、空気が裂ける。
だが、ガランの動きは重い巨体に似合わぬほど滑らかだった。
半歩の身のこなしで刃をかわし、逆に肘の一撃でシエルの胴を弾く。衝撃が鎧を揺らし、肺から息が漏れる。手のひらが痺れ、剣がわずかにぶれた。
「……うぅむ……やはり妙じゃな。」
ガランの声が、重く低く響く。緑の眼が鋭く細まり、シエルの全身を射抜いた。
「この街に来た時からずぅっと気になっておった。あの時はスッとはぐらかされたが……なぜ、儂らが名乗る前から――お主は儂の名を知っておった。…なぜ知っておる?」
その問いは、刃よりも鋭く胸を突いた。
シエルの脳裏に、あの瞬間がよみがえる。
(……言えるものか。あの時だって、気が急ぎすぎてつい漏らしてしまった発言なんだ!!)
胸が詰まり、喉が硬直する。言葉を紡ごうとするたび、心臓が荒々しく跳ね、答えを封じた。正体を知っている。それを口にすれば、この瞬間にすべてが崩れる。だから——何も言えない。
沈黙を破ったのは、叫びだった。
「うおおおッ!」
シエルは焦りを力に変え、踏み込み、渾身の剣を突き立てる。
だが、鋼は止められた。
ガランの指先に。
わずか二本の指が、切っ先を摘むように受け止めていた。火花も音もなく、斬撃は凍りついた。刃が、指の間で微動だにしない。岩盤に突き刺した棒杭のように、剣は完全に静止していた。
「脆いのう。」
ガランの声が、静かに響く。
次の瞬間、わずかに押し返された衝撃が、全身を吹き飛ばす力へと変わった。石壁など存在しなかったかのように、シエルの体は後方へ弾き飛ばされる。砕け散る石、折れる梁。夜風が肺をえぐり、月光が眼前に広がった。
彼女は城の外へ、土煙とともに叩き落とされる。
「しまった、力を入れすぎたか。…………とはいえ、暗殺だとは驚いたもんじゃ。しかし、やぁっぱり儂の思うとおりじゃったな。この街は怪しかった。………なんて言ってる場合じゃない。アン達を起こして、ここからとっとと帰らねば……。」
背を向け、寝室を出る。石の廊下はしんと静まり返っており、遠くで灯る燭台の火が頼りなげに揺れている。壁に伸びるガランの影が、炎に引き伸ばされて歪んでいた。
歩を進めながら、ふと考えが胸をよぎった。
(……それにしても、妙じゃな。なぜシエルは儂を暗殺しようとした?)
脳裏に、先ほどの剣戟が蘇る。シエルは儂に斬りかかったが、あの瞬間、圧倒的な力の差に怯える素振りは見せなかった。むしろ――最初から「勝てぬ」と承知しているように見えた。
(……あやつ、戦いそのものに驚いておらなんだ。ただ、儂の問い――"なぜ名を知っておる"と聞いた時だけ、焦った。あの反応……あれは何かを隠しておる。それにあの焦り方は、儂の「真実」の戒禁に怖がっているわけでもない。叫んで突っ込んできたんじゃからな、それでどうにか戒禁にかからんようにしたんじゃからな。)
足音が廊下に響く。歩きながら、胸の奥に冷たい感覚が広がっていく。
(もしや……シエルの背後には、何かがおるのではないか?そして、儂の名前を知っておったということは……)
脳裏にひとつの結論が閃いた。
(もしやもしや……女神族……!?)
その瞬間——
床を這う気配。次の刹那、前方から蔓が鞭のように伸び、ガランの喉を狙った。
「ぬっ!?」
鋭い蔓を薙ぎ払うと、緑の魔力の残滓が散った。見覚えのある気配だった。
「……これは、スプレッドの"植物化"……!」
驚愕に目を見開くガラン。その視線の先、暗い廊下の奥に二つの影が立っていた。一人は無数の蔓を背に揺らすスプレッド。もう一人は、刃のような瞳でこちらを睨むマキシリア。
ふたりの視線は、明確な敵意を帯びてガランに注がれていた。そして彼らの瞳は「普通ではなかった」。光彩の焦点が定まらず、理性の色が薄い。意思の主が別のところにあるような、操り人形めいた空虚な輝きがそこにあった。
「てめぇ……シエル様を吹っ飛ばしやがったな!」
「覚悟しろ……極悪人め!」
「なっ!?おぬしら一体どうしたというのじゃ!」
マキシリアの指先から走る風が、剣のごとき鋭さで廊下を裂いた。
「はぁぁ!」
風刃は一直線に突き抜け、ガランの頬をかすめて背後の石壁を粉砕する。砕け散った破片が雨のように降り注ぎ、暗がりの空気を震わせた。
その隙を狙い、スプレッドの蔓が床から噴き出す。ねじれ、絡み、縄のように四肢を捕らえんと襲いかかる。
「くっ……!」
ガランは腕を振り払い、紅鎧の膂力で何本も引き千切った。だが切断された蔓の断面からはすぐに新しい芽が伸び、増殖するように彼の足元を覆っていく。
「スプレッド!目を覚ませ!儂じゃ、ガランじゃぞ!」
叫んでも応えはなく、スプレッドの瞳は虚ろに光を帯びている。人形遣いに糸を引かれた傀儡のように、その瞳には意思の揺らぎすら存在しなかった。
次の瞬間、マキシリアが炎を纏った。両手を交差させると、燃え上がる紅蓮の刃が虚空を裂く。
「覚悟しろッ!」
火と風が混ざり合い、爆ぜる竜巻が廊下を埋め尽くした。
「ぬぅ……!」
ガランは横跳びで壁際に退く。だが紅鎧を掠めた炎は熱で歪みを走らせ、灼けた金属の臭いが鼻をつく。
(やはり……洗脳されておる!あやつらの眼は理性を失い、ただ敵意のみを宿しておる!あやつら二人程度の力を持った存在をどうにかすること自体はそれほど苦労をかけずにいけるじゃろう。だが……!)
ガランは歯を噛みしめる。
(スプレッドとマキシリアは仲間!儂には、この二人を斬ることなどできぬ!)
頭上から、蔓が槍のように突き出される。避けた瞬間、足元を別の蔓が絡みつき、彼の動きを鈍らせる。そこへマキシリアの火球が雨のように放たれた。
「くっ、おのれ……!」
鎧の腕を前にかざし、爆炎を弾き返す。火花が散り、背後の柱が崩れ落ちた。瓦礫の隙間を縫い、ガランは渾身の踏み込みで前へ出る。だが追いすがる蔓が腰に絡み、壁へと叩きつけようとする。
「ぐぅぅ……!」
壁にめり込む寸前、紅鎧の巨力で無理やり蔓を引き裂き、石粉を撒き散らして踏みとどまる。
「目を覚ませと言うておるのじゃ!儂は敵ではないッ!」
声は廊下に反響する。だが二人の瞳は依然として冷たい。マキシリアは再び両手に風を集め、スプレッドはさらに蔓を増殖させる。
ガランは、避け続けながらも心を苛まれていた。仲間を斬れぬ焦りと、このままでは押し潰されるという現実。その板挟みが、鎧の奥で彼を焼いていた。強大な力を持ちながら、その力を振るえない——それは、かつての戦場でも味わったことのない種類の苦しみだった。
仲間の顔が、敵の目をしてこちらを見ている。
その事実だけが、ガランの内奥で、静かに、しかし確実に、何かを燃やし続けていた。
────
紅鎧の巨人と二人の仲間との攻防は、廊下を崩し、石を砕き、轟音と炎の渦を撒き散らしていた。火と風、そして蔓のうねりが交錯し、夜の城を赤黒く染め上げる。柱が倒れ、天井の石が剥落し、生きていた建物が少しずつその形を失っていく。
——そのさらに上空。
月光が白銀の海のように降り注ぐ夜空に、二つの影が浮かんでいた。揺るがぬ光を背に受け、静かに並び立つ。彼らの背には、漆黒の空気さえ裂くかのような大きな翼が広がっていた。羽ばたきはなく、それでも空に在ることを当然とする威容。羽の一枚一枚が夜の星光を吸い込み、深い光沢を湛えていた。
その影は、闘う三人を見下ろし、口元に微かな笑みを浮かべていた。
「……シエルはよくやってくれた。……おかげで始まったな。」
「うむ。しかし、「きっかけ」があったとはいえ、仲間同士で殺し合うとは……人の脆さ、儚さよ。」
ひとりの影が愉悦を含んだ声音で囁く。もうひとりは細めた眼差しで頷いた。
月光が彼らの輪郭を照らし出す。透き通るような肌と、眼窩の奥で光る冷ややかな輝き。彼らは——女神族。見下ろす瞳に、慈悲も哀れみもなく。そこにあるのはただ、計画が順調に進むことへの確信と、甘美な期待だけだった。
だが。
その沈黙に、かすかな亀裂が入ったのはその直後だった。
一方の女神族が、わずかに眉をひそめた。饒舌な余裕が、一瞬だけ薄れる。その眼差しが、眼下の戦いではなく、城全体から溢れ出す何かを捉えていた。
「……おかしいな。」
低く、思案するような声で呟く。
「あの男の魔力が——上がっている。いや、上がり続けている。戦闘によって消耗するどころか、むしろ……増幅している。まるで底があってないようだ。」
もう一方の女神族が、ゆっくりと視線を向けた。その瞳にも、先ほどまでの余裕の色が薄れている。
「どうやら…奴の持っている槍が何かしらを起こしているみたいだな。魔力があの槍にどんどんと溜まっている…」
眼下の城から、また一際大きな轟音が上がった。石が砕け、炎が弾け、夜空に火花が舞い散る。それと同時に、ふたりの皮膚がぴりぴりと粟立った——あの紅鎧の男が放つ魔力の余波が、これほどの高所にまで届いてきたのだ。空気が圧されるような感覚。それはもはや、遠くで感じる戦闘の振動などではない。何かが、確実に膨張していた。
「……このまま際限なく上昇し続けるとすれば。」
一方が静かに言った。その声は冷静だったが、言葉の奥に、かつてなかった種類の緊張が滲んでいた。
「計画の前提が、崩れるかもしれない。」
長い沈黙が落ちた。月が雲の縁に差し掛かり、ふたりの輪郭が一瞬だけ曖昧になる。城の中で、また炎が爆ぜた。紅鎧の怪物が放つ闘気の余波が、夜風に乗って高空まで届いてくる。ふたりは翼をわずかに広げ、その圧を受け止めるように静かに佇んでいた。
やがて、一方の女神族がゆっくりと口を開いた。その声は静かだったが、覚悟の重みを纏っていた。
「……じゃあ、あいつの相手をすることになったなら。」
視線は、今も城内で魔力の嵐を起こし続けているガランへと向けられていた。
「——俺がするか。」
それは宣言でも問いかけでもなかった。勇んだ言葉でもない。ただ、この場において自分が出なければならないという冷静な算段と、その算段の重さを静かに引き受ける意志が、たったその一言に凝縮されていた。
もう一方の女神族は何も答えなかった。ただ、眼下で燃え盛る城を見つめながら、その沈黙が答えのすべてを語っていた。
月が雲に隠れた。夜がひとつ、深くなる。