「真実」の歩み   作:ライダー☆

2 / 27
第二話 聖戦の幕開け

「聖戦……じゃと?」

 

 ガランの言葉は、冷徹に響いた。数万の魔神たちが、一斉に視線を彼に集める。その目には、何も知らぬ者に対する疑念と不信が刻まれていた。彼の名は知れど、その真意は誰も理解していない。ただ、見知らぬ異物としてそこに立っている、それだけが事実だった。

 

「魔神たちよ、驚くことはない。私がこの者について語る必要も、説明する必要もない。なぜなら、この者は昨日までの記憶をすべて失っているからだ。代わりに別の存在が在る、多分ね。……『聖戦』という言葉に反応したのは、その記憶の断片に過ぎない。私が言いたかったのは、ただこの事実を彼に理解してもらいたかっただけだ」

 

 その言葉が、静かに広がった。まるで水面に石を投じたように、波紋が広がり、消える。魔神たちは瞬時に黙り込み、視線をモンスピートへと移した。ガランはその様子を観察しながら、内心で驚きと畏怖が静かに膨らむのを感じていた。これほど多くの魔神たちを、ただ一言で黙らせる。その力が、目の前の男にある。その事実の重さが、じわりと、骨の髄まで染み込んでくる。

 

「ガランよ、先程私は『酷なこと』と言ったな?」

 

 モンスピートの声は、鋼のように冷たく、音を立てて空気を震わせた。その目はまるで鋭い刃のようにガランを捉え、逃げ場を奪いながら、容赦なく芯まで切り裂いてくる。

 

「ん?あぁ、言ったな。正直、あまり耳にしたくない言葉ではあったが……」

 

 モンスピートの目から、氷のような冷徹さが放たれる。まるでその瞳自体が、人の心を瞬時に見透かす鏡と化しているかのようだった。

 

「我ら魔神族は、女神族、いや、反魔神族に攻撃され、すでに何万もの同胞が命を落としている。特に、戦闘に従事していない者たちが、無惨に命を奪われている」

 

 その一言一言が、ガランの心に石を積むように重く響く。言葉にされることなく、彼はその苦しみを無意識に感じ取っていた。目の前で繰り広げられるこの戦争が、いかに無慈悲で、いかに無駄に命を散らしているのか。戦場の匂いを知る者だからこそ、その現実が、胸の奥で鈍い痛みを生んだ。

 

「これ以上停滞している余裕はない。我々は反旗を翻さねばならない。このままでは、同胞がすべて消え去ってしまう。」

 

 モンスピートの言葉が、鋼のように冷たく空気を切る。彼の目には、決して揺るがない決意が宿っていた。その視線は、まるで鋭い矛のようにガランに突き刺さり、抜けることを許さなかった。

 ガランは一瞬、背筋をピンと伸ばす。目の前の男の瞳に込められた冷徹さが、全身の筋肉に静かに届いてくる。それは命令ではなく、圧倒的な意志だった。逆らうとか従うとか、そういう次元ではなく、ただ存在するだけで人を動かす、そういう種類の力だった。

 モンスピートは、静かに一歩ずつガランに歩み寄る。その足音は、迫り来る戦の足音のように重く、無言でガランを圧倒していく。まるでそのたった一歩一歩が、この場の空気を少しずつ書き換えているかのようだった。

 そして、ガランの目の前に立ったモンスピートは、指先で彼の胸元を軽く小突いた。その音は、乾いた土を打つ音のように、短く鋭く響いた。ガランはその瞬間、心臓の鼓動が一拍遅れたのを感じた。

 

「君はその一人だ。『十戒』、魔神王直属の精鋭部隊。誰もが恐れ、誰もが敬う者たち。その力を君も持っている」

 

 その言葉が、ガランの中で静かに反響する。彼は何も言わない。ただ黙ってその言葉を受け入れる。何も言えなかった。言葉を発することが許されていないように感じたからではない。発するべき言葉が、まだどこにも存在しないからだった。

 

「君には、雑魚ではなく、相当手ごわい連中を相手にしてほしい」

 

 モンスピートは続ける。その声は、冷徹な刃のように鋭く、ガランの耳を静かに突き刺した。

 

「『四大天使』、女神族にはそいつらがいる。倒せれば、まさに大金星だ」

「大金星、か……つまり、実力差がありすぎる、ということじゃの?」

 

 ガランは、震えた声で問い返す。その声には、ほんの少しの不安が滲んでいた。それは弱さではない。九十六年間、現実を正面から見てきた者の、正直さだった。

 モンスピートは軽く頷く。

 

「まぁね。でも、倒せないわけではない。それに、魔神族は頑丈だ。簡単にはやられない」

 

 その言葉に、ガランはほっとしたような、しかし完全には安心できない感情を抱えた。だが、次の瞬間、モンスピートがゆっくりと手をガランの胸に当てた。

 その瞬間、紅蓮のように燃え盛る炎がガランを貫いた。炎は一瞬にして彼の体を真っ二つに引き裂き、まるで刃物で切り刻まれるような鋭さを持って広がった。呼吸が止まり、思考が白く消えた。なぜ急に攻撃を受けたのか、何がどうなっているのか、全くの不明瞭だった。しかし、その痛みと衝撃は圧倒的だった。身体は地面に転がり、冷たい感触が伝わる。目を閉じ、死を覚悟した瞬間、心の中で思った。これは死に直面する瞬間なのだろう、と。すでに死んでいるはずの自分が、また死を覚悟している。この状況の滑稽さにすら、気づく余裕がなかった。

 だが、次に目を開けると、何もかもが平穏を取り戻していた。自分の体が元の形に戻り、傷一つないことに驚く。

 

「どうだ?気づかなかっただろうから、試してみたんだ。急すぎたか?」

 

 その言葉に、ガランは思わず大声で笑い出す。彼の心の中で、恐怖の糸が切れた瞬間だった。元通りになった体を見て、モンスピートを指差す。

 

「まったく、面白いことをしてくれるわい!」

 

 ガランは声を大きく張り上げ、胸を反らして笑った。腹の底から湧き上がるその笑いは、破裂寸前の太鼓のように空気を震わせた。

 

「はぁ……くだらない。モンスピート、話を戻しましょう?」

 

 メラスキュラが苛立ちを隠さずに言った。

 

「モンスピート、出発は?」

 

 モンスピートは微かに目を伏せ、答えた。

 

「あと十分。それまでに――覚悟を、固めておけ。」

 

 声は柔らかかったが、刃を呑み込んだような重さがあった。その言葉の下に、どれほどのものが眠っているか、ガランには測り知れなかった。

 

 そのとき、デリエリの視線はモンスピートの指先を捉えた。

 彼のマントを握る手は、まるで荒波に呑まれる小舟の帆柱のように、必死に耐えていた。マントが皺を刻み、その一つ一つが、彼の覚悟の深さを静かに物語っていた。

 デリエリの胸の奥に、灼けつくような熱が走った。奥歯を無意識に噛み締める。カタカタと震える音が、耳の奥で小さく反響する。

 だが、それでも――

 決めたのだ。

 彼と同じ道を歩むと。

 その覚悟は、身体中を焼き焦がす火傷のような痛みだったが、一度固めた意志に一切の揺らぎはなかった。風に流れる吐息ほどのか細い声で、彼女は誰にも聞こえぬように呟いた。

 

「……私は、あんたと同じ道を歩むよ、モンスピート。」

 

 小さな誓いは、誰の耳にも届かずに空へと消えた。だが、その魂だけは確かに、モンスピートの背に寄り添っていた。そしてそれは、この先どれほどの時が流れようとも、消えることのない誓いだった。

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

同時刻 

 

 人の侵入を拒むかのように鬱蒼と茂った木々を抜けた先、森の中心にそびえる巨樹があった。その樹冠は、夕陽を溶かしたような薄紅に染まり、重厚な静けさを漂わせている。そこが、妖精王の森だった。

 そして、その中央付近に、異質な白が存在していた。女神族の手により築かれた建造物……名を、――光の恩寵といった。

 女神族を筆頭として組織される、人間族、巨人族、妖精族で構成された連合軍〈光の聖痕(スティグマ)〉の拠点の一つである。

 

 窓一つない白亜の巨城は、まるで天上の意志を地上に叩きつけたかのようにそびえ、四大天使の一柱・リュドシエルの加護によって守られていた。その白さは清潔ではなく、冷たく、触れる者を拒む白さだった。

 

 その白き城を見上げる影があった。

 妖精王グロキシニアが、隣に座る巨人族の王ドロールのたくましい腕を、いたずらに突いていた。

 二人は、対照的な異形をまとっていた。グロキシニアは、血のように鮮烈な赤い長髪を流し、アゲハ蝶を彷彿とさせる大きな羽を煌めかせている。一方のドロールは、苔むす岩を思わせる濃緑の肌と、四本の力強い腕を持ち、それでいて容貌は、厳かな彫像のように整っていた。二人が並ぶだけで、そこには異形の王たちの持つ、静かな威圧があった。

 

「やめなさい、グロキシニア。」

 

 ドロールが低くため息をついた。

 

「えぇ〜、いいじゃないッスかぁドロール君。意外と、触り心地が柔らかくて楽しいんスよ〜。」

「ぅむ………。」

 

 グロキシニアはふわふわと笑いながら、なおも指先で彼の腕を突っつく。ドロールは太い樹の幹に腰を下ろし、不満げに口を尖らせた。

 森を撫でる風が、甘い花蜜の香りを運んでくる。その芳香の中、グロキシニアの視線だけは、ひたと「光の恩寵」に吸い寄せられたまま、瞬き一つしなかった。笑いながら手を動かしながら、その目だけは、ずっとあそこを見ていた。

 ドロールは気付いた。彼の澄んだ瞳が、わずかずつ、冬の湖面のように冷たく曇っていくのを。一枚、また一枚、透明な氷が張るように。

 

「気になりますか……光の恩寵が。」

 

 ドロールが静かに問うと、グロキシニアは肩を竦め、無理に明るさを取り繕った。

 

「まぁ……ね。いい隠れ家になるとはいえ、あんなもん、妖精王の許可無く急に建てられたら困るッスよ。ずーっと、ここは平和な場所であってほしかったんスから。」

 

 声は上ずっていた。ドロールにはわかった。戦友として積み重ねた年月が教えていた。グロキシニアは、心の底で泣き叫びたいほど、「光の恩寵」を憎んでいるのだと。明るさは鎧だった。笑いは盾だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。

 

「……グロキシニア。すまない、つらいことを訊いてしまった。」

「別に……いいんスよ。今に始まった話じゃないッスから。」

 

 グロキシニアは笑った。しかしその笑みは、今にも崩れそうな氷細工のように、薄く脆く、どこかひどく危うかった。

 

「勝てば、必ず……この森は取り戻せます。」

 

 ドロールは拳を握りしめ、しっかりと言葉を選んで続けた。

 

「誰にも傷つけられない、誰にも踏み荒らされない、あの素晴らしい森に。」

 

「…………そうッスね。今は、そう思うしかないッスよね……。心を……平然に、保たないと。」

 

 グロキシニアはぎゅっと自分の胸を押さえた。それは、荒れる心を鷲掴みにして抑え込むような、必死の仕草だった。あの森がどれほど彼の魂に根を張っているか、それを知るドロールには、その小さな手の動きが、いかに重いかがわかった。

 

「ええ。私たちは王……この種族たちを導く、先頭に立つ者なのですから。」

「うん。頑張らなくっちゃ………なぁんて言えたらどれだけ良いか!はぁぁぁ、つらいッス……!……ドロール君、助けてぇ〜〜。」

 

 突如、グロキシニアがドロールに抱きついた。ドロールは慌てて彼を押し返す。巨岩を転がすような力で。

 

「やめなさい!くっつくなと言っているんですよ!」

 

 そうして──笑いと哀しみが交錯するささやかな喧騒の只中に、静かなる異物が差し込んでいた。

 二人が座す幹のわずか先に、陰のように立つ影があった。

 一人は人間。もう一人は、魔神族。

 妖精王の森に魔神族がいる。それは、咽返るほどの矛盾だった。だが、誰一人として彼に刃を向けない。疑念も、敵意も、そこにはない。

 理由は単純。彼が──裏切り者だからだ。

 己が信じた者のために、魔神族を裏切った。十戒のアラクナとゼノ、その二名を自らの手で屠り、かつて仕えた組織から姿を消した。

 名はメリオダス。魔神王の血を引く長子にして、十戒を束ねた元統率者。

 その事実が意味するのは、ただ一つ。彼は、「怪物」の側に立つ力を有しながら、「人間」の側に立とうとした、途方もない存在だということ。

 

 その隣に並ぶのは、ロウという名の若者だった。年若く、眩しいほどに生の気配を身にまとう男。快活で、よく笑い、声には人を包む温かさがあった。だが、その目は鋭かった。メリオダスを一目見て、即座に気づいた。――これは、ただの男ではない、と。

 小柄な体躯に見合わぬ巨剣を軽々と振るうその姿は、まるで鉄でできた獣のようだった。そんな芸当を成す人間など、この世界に存在しない。答えは一つしかなかった。

 

「アンタ、魔神族、だろ?」

 

 そう問われたとき、メリオダスは唇の端をわずかに上げ、「驚いたか?」とだけ、短く返した。

 

「……そりゃ驚くさ。そんな大剣を軽々と振り回しているんだからな。……それに、魔神族が女神族側について、同族と刃を交えるなんざ、聞いたこともねぇ。前代未聞だ。お前以外にいねぇだろうよ。」

 

 ロウは苦笑した。メリオダスは、まるで子供が悪戯に成功した時のように、「にしし」と笑った。

 

「……けどな、俺にはわかるよ。お前、いいやつだって。」

 

 ロウのその言葉に、メリオダスは一瞬だけ、顔を空へと向けた。空のどこにも何もないと知っていながら、そこに何かを探すように。答えを探すように。あるいは、問いを手放すように。

 

「いいやつ……か。魔神族から見りゃあ、俺はとんだ大悪党さ。」

 

 その声には、過去を焼いた灰のような哀愁が含まれていた。それが目に見えて重く、ロウは自然と話題を変えた。口をついたのは、聖戦のことだった。

 

「この戦い、どう終わると思う?」

 

 メリオダスは、眼差しを鋭く変えた。その一言は、まるで刃。迷いなく、的確にロウの胸元を突いた。

 

「……戦争に(いい)(わるい)もあるかよ」

 

 さっきとは違う、鋭く突き刺さるような声色の発言。話題をミスったなと思いながらも、ロウはうまく言葉が出なかったため、「……だな」と精一杯の声で答えた。どんな言葉を並べようとも、この一言以上に真実に近づける気がしなかった。

 だが、そのまま終わるのは後味が悪い。気まずさを笑いに変えるべく、ロウは思いついた言葉を口に乗せた。

 

「けどよ、メリオダス。今、一つだけ確かなことがある。」

 

 メリオダスが眉をひそめる。その視線の先に、ロウが差し出す拳があった。

 

「……俺たちは、仲間だってことだ。」

 

 拳は曇りなき意志だった。メリオダスは、ほんの一瞬だけその拳を見つめ、それからそっと、自分の拳を重ねた。

 

「……おう。」

 

 それだけの言葉。それだけなのに、ロウはどこか肩透かしを食らったように、ぽかんとした。もっと軽口が返ってくるかと思ったのに、メリオダスの声は思った以上に低く、静かだった。重さがあった。長い年月を経た者だけが持つ、言葉の重さが。

 少し気まずくなって、ロウは額に人差し指を当て、考え込むように唸った。──前の話題、やっぱりマズかったかな、と。

 

 

 

 

 森の奥で、さまざまな事象が蠢いている一方で──その中心に位置する、白亜の巨塔《光の恩寵》の内部では、静かなる"戦争"が始まっていた。

 そこにいたのは三人の女神族。一人が、必死に言葉を重ねる。もう二人は、黙してそれを聞いていた。けれど、沈黙は傾聴ではなかった。それは、信じるに値しない"声"に対する、無言の拒絶であった。

 話していたのは、エリザベス。柔らかな銀髪を持つその女神族は、穏やかなる慈愛の化身のように生きてきた者。だが、その眼差しには、いまや烈火のような怒りが宿っていた。

 彼女は訴えていた。魔神族との和平を。流された血に、終止符を打つことを。戦いの果てには、誰も望まぬ廃墟しか残らないことを。

 これまで、森に魔神族が現れるたび、彼女は言葉を尽くしてきた。争いを避け、対話を重ね、剣を抜く前に帰ってもらった。なぜなら、誰一人として、心の底から戦を望む者などいないと信じていたからだ。その信念は、傷つくたびに強くなった。折れるたびに根を張った。

 

 ――そして、今日。

 妖精王の森へと戻った際、二人の女神族が光の恩寵の門を開けて出てきた。そのうちの一人が、顔に喜びをたたえ、こう告げた。

 

「……ついに来たのです。すべての種族が待ち望んだ、聖戦の終結が」

 

 その瞬間、エリザベスの胸に灯ったのは、希望だった。ようやく訪れるのだ、あの痛みを繰り返さずに済む未来が──そう思った。それは本物の喜びだった。震えるほどの、本物の希望だった。

 けれど、次に発せられた言葉は、その希望を粉砕した。

 

「魔神共を、根絶するときです」

 

 それは、硝煙のように重く、冷たく、静かに辺りに漂った。沈黙のあと、エリザベスは言葉を失い──怒りに燃えた。その言葉は、あまりに無神経だった。

 ――魔神族のメリオダスが、すぐそばにいるというのに。

 視線を彼に向ける。その顔に宿った怒りは、血が凍るほどに静かで、底知れぬ深さを孕んでいた。

 何も言わずに立ち去る二人の女神族を追い、エリザベスも光の恩寵の中へと歩み入る。彼女の言葉はもはや懇願ではなく、激情そのものだった。

 

「リュドシエル……あなた、正気なの!? 魔神族を根絶やしにするですって!?」

 

 名を呼ばれた男――リュドシエルは、四大天使の一人。その面には、穏やかさの仮面が貼り付けられていた。まるで聖人のような眼差しで世界を見つめながら、その胸には氷剣を抱いている。平和を唱えながら、血の海の上にしかそれが築けぬと信じて疑わぬ男である。だからこそ、今の地位まで昇り詰めた。その代償に、心の温度は、とうに絶対零度へと落ちていた。

 エリザベスの怒声にも、彼は表情を崩さず、ただ一つ、小さな頷きだけを返す。それが逆に、彼女の怒りに火を注いだ。

 

「あなたは言ったわ!すべての種族が待ち望んだ平和がやってくるって!……それなのに、あなたは、メリオダスの目の前で……あんなことを……!!」

 

 その声を遮るように、鋭く割って入った声があった。それは、ネロバスタ――リュドシエルに仕える忠実なる従者のものである。彼女は、光の恩寵において最も熱心な信奉者だった。リュドシエルの言葉は、彼女にとって法であり、信仰であり、光そのものだった。だからこそ、反撥する彼女を許すことはできなかった。

 

「エリザベス様、これは聖戦なのですよ!?もうしのごの言っている場合ではないのです!」

「……やめろ、ネロバスタ。口がすぎるぞ」

 

 リュドシエルの声は、凍てつく刃のように鋭く、静かに空間を切り裂いた。咄嗟にネロバスタは言葉を飲み込んだが、それでもなお、目に宿した忠誠の炎は消えなかった。

 

「リュドシエル様、しかし……!」

「……お前が言わずとも、私に任せておけ」

 

 その一言に、ネロバスタは深く頭を垂れた。支配の鎖に縛られた獣のように、静かに、従順に。

 真白に染まる無機質な空間に、リュドシエルの足音だけが乾いた音を立てて響く。彼は一歩、また一歩と、エリザベスへと滲み寄る。まるで、冬の霜が春を殺すために忍び寄るように──その全身から放たれる気迫は、触れるものすべてを凍てつかせる冷気だった。その冷気に、空間の白さが馴染んでいた。まるで最初からそのために、白く造られたかのように。

 エリザベスは本能的に一歩退いた。だが、退くことは敗北に等しいと悟り、胸中の恐怖を押し殺して、再び前へと踏み出す。細く震える肩を強張らせながら、燃え盛る意志の灯を瞳に宿し、彼に向かって叫んだ。

 

「リュドシエル!いい加減にして!私はあなたの望むことには絶対に賛同しない!!そんなことをしても、何も生まれない……何も、残らない!!」

 

 リュドシエルは片眉すら動かさなかった。代わりに、氷の仮面の下から、抑えた声で応じた。

 

「……これは、長きにわたって練り上げられた計画です、エリザベス様。何も生まれないとは、心外ですね。我々には"希望"が生まれ、勝利が残るのですから」

「そんなもの……!」

 

 エリザベスは悲鳴のように声を上げた。

 

「そんなもの、偽物よ!!一つの種族を根絶やしにして、何が勝利なの!?何が希望なの!!命が……消えるのに……!!」

 

 その瞬間、リュドシエルの表情が、静かに、しかし確実に変わった。まるで底の見えない氷湖が、黒く濁り始めるように。彼の纏う気配は、肌を裂くような冷たさへと変貌し、吐き気を催すほどの邪悪が、じわじわと滲み出してくる。そして、彼は静かに呟いた。天使とは到底思えぬ、闇に濡れた声色で。

 

「魔神族など、虫けらの糞にも劣る存在だ。あれらを、我ら高潔なる者と同じ生命と認めるなど、誰がする?」

 

 エリザベスは全身に冷や汗を滲ませた。寒気ではない。それは、魂の芯を凍てつかせる"恐怖"だった。天使と呼ばれる存在から、これほど純粋な邪悪を感じたことなど、一度としてなかった。美しい顔の下に、これほどの闇が。穏やかな声の奥に、これほどの深淵が。

 次に、リュドシエルは声色を一転させた。春風のように甘く、絹糸のように柔らかく──だが、その裏に潜むのは、底なしの悪意だった。

 

「エリザベス様、目を覚ますのです。もうメリオダスなどという塵芥とは縁を切りなさい」

「…………いや、嫌よ……」

「なぜですか?やつは忌むべき魔神王の跡を次ぐ男だったのですよ?そんなゴミがあなたの相手として務まるわけがない。それに、あなたにふさわしい相手は、他にも……」

 

 言葉とともに、リュドシエルの手が伸びた。白磁のように冷たく美しい指先で、エリザベスの顎をくいと持ち上げる。ぞっとするほどの悪寒が、彼女の背骨を駆け上がった。氷と毒が混じったような感触。生まれて初めて知った、言葉にならぬ"穢れ"の感覚。それは手ではなく、死が触れているような感覚だった。

 エリザベスは、反射的にリュドシエルの手を叩き落とし、その場から逃げた。天使の翼を広げ、必死に空へと舞い上がる。だが、どれだけ空高く飛ぼうと、なお彼女を貫く恐怖は、皮膚を破り、心を締め付け続けた。

 彼女の身体は、震えていた。恐怖と怒りと悲しみに打ち震えていた。あの手の冷たさが、まだ顎に残っていた。

 地上では、ネロバスタが静かに問う。

 

「……追いましょうか?」

 

 リュドシエルは、白い顔に一片の感情も浮かべず、応じた。

 

「放っておけ。あの小娘一人に、何ができよう。……それよりも、計画の遂行だ。我々は、一刻も早く、理想をこの地に刻まねばならぬ。」

「はっ!」

 

 ネロバスタの答礼が、白く乾いた空間に木霊した。

 

 空を裂くように羽ばたく白翼が、遠く高く、森を後にしていく──。その一瞬の閃光を、グロキシニアは確かに見た。深い草むらに身を沈め、空を仰いでいた彼の目が、大きく見開かれる。神木の葉も囁きをやめた、静寂の時だった。

 

 あれは――エリザベスだ。

 

 瞬間、鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。見間違いではない。眉根を寄せ、彼は迷いなく立ち上がる。ドロールとは別れて久しいが、今この場にいたのは偶然ではない。彼女が一人で飛び去るという異常、そこに潜む意味を即座に察知した。

 

「メリオダスに知らせなきゃ……!」

 

 思考よりも先に行動があった。彼は翅を広げ、大気を震わせようとした――その時。

 森の奥から、薄氷のように壊れそうな声が聞こえてきた。

 

「兄上……すみません……すみません……」

 

 その声に、彼の全身が硬直する。

 妹だ――ゲラード。

 その名を胸の奥で繰り返す。可憐で、誇り高く、己が命よりも愛した存在。性的な渇望などとは無縁の、絶対的で純粋な兄妹の絆。それだけに、彼女の謝罪が、得体の知れぬ不安を孕んでいた。謝罪ではなく、告白のように聞こえた。何かを長く抱えてきた者の、限界の声のように聞こえた。

 羽ばたきも忘れ、彼は音もなく森の奥へと駆けた。開けた空間に辿り着くと、そこにいたのは、崩れた彫像のようにうずくまる妹の姿だった。妖精の羽は翳り、肩を震わせ、透明な涙が静かに草を濡らしていた。この光景は、兄である彼にとって、あまりにも痛ましく、あまりにも異常だった。

 

「どうしたんスか、ゲラード……君らしくもない……」

 

 駆け寄り、彼はそっと彼女の涙を拭い、強く、壊れ物のように抱きしめる。心が悲鳴を上げるほどに、彼女の身体は小さく、冷たかった。

 

「兄上……すみません……すみません……!」

 

 彼女の声は、裂けた絹のように弱々しく、それでいて、何か決定的な覚悟を孕んでいた。

 

「あなたに……隠していたことがあるんです。ずっと、胸が潰れそうで……これ以上、黙っていられなかった……!」

「隠してたって……何のことスか?」

 

 グロキシニアの瞳が鋭くなる。妹がこんなにも壊れそうになっている"理由"を、知らずにいるわけにはいかない。

 

「……前に言いましたよね。兄上の留守中に、リュドシエル殿がこの森に結界を張ったって……」

「ああ、あったッスね。まったく……!あいつは、いつだって上から目線で……一言、あたしに許可ぐらい取ってくることすら……」

 

 怒りが言葉を貫こうとした刹那、ゲラードの一言が、それを切り裂いた。

 

「――表向きは、そうなってます。でも……あれは"結界"なんかじゃ、ないんです。あれは、"生き餌"なんです!!」

 

 沈黙が、森を満たした。

 グロキシニアの思考が、一瞬、凍結する。

 「生き餌」――その言葉は、まるで猛毒を塗った短剣のように、彼の心臓を突き刺した。

 あの結界が、森を守るものではなく、"誰か"を誘き寄せるための罠。その対象はまず間違いなく魔神族。しかも、そこで暮らしていた魔神たちを、囮として捧げる意図で張られたものだったとしたら……。その瞬間、かつて誇りだったはずの"結界"が、どす黒い呪縛へと一変した。

 グロキシニアは震えるゲラードの頭を、無言で撫でた。そして、迷いなく、その場を飛び出した。風を割り、空を裂いて。

 目を凝らす。空の彼方、遠ざかっていく一筋の光がある。それは確かに、彼が見た白翼だった。エリザベスが飛び去った軌跡――。

 大地が脈打ち、空気が押し寄せてくる。まるで、何かが蠢き始めている。何かが、森を呑み込もうとしている。彼の本能が叫んでいた。いま彼女に伝えねば、この森は"終わる"。

 

「あそこに彼女はいる!!伝えなくちゃいけない……そうしなくっちゃ……まずいことになるッス!!!」

 

 風が震えた。森を包む大気が、低く呻くように波打ち、その音は誰の耳にも届いていた。

 空に広がるのは、黒い濁流。それは単なる雲ではない。禍々しい意志を持った黒き津波が、怒りに燃える眼差しのごとく、まっすぐ森へと迫っていた。

 巨人の男が、重低音のような声で叫んだ。

 

「"十戒"だ!! 魔人族を率いて、この森へと進軍してきやがったぞ──!!」

 

 その声は、雷のように森中を貫いた。どよめきが広がり、妖精たちは羽音を立て、巨人族は拳を固め、女神族は目を細めて天を睨んだ。逃げ惑う者はいない。なぜなら、逃げ場など最初から存在しないからだ。戦うしかない。死線を越える覚悟を、今ここに決めねばならない。

 メリオダスは、斜めに立てかけてあった巨剣を無言で手に取り、肩に背負った。その眼差しは、まるで業火の中に立つ者のように揺らぎを見せず、ただひたすらに前を見据えていた。

 

「……やばいことになってきたな。」

 

 唇がわずかに動いた。「よし」と一言だけ、彼は呟くと走り出した。

 向かう先は、巨人王ドロール。彼の前に立ち、メリオダスは腹から声を叩き出すように叫んだ。

 

「ドロール!!俺はあいつらの元へ行って、"話をつけてくる"!!だから頼む、エリザベスと――この森を、護ってくれ!!」

 

 その言葉に、ドロールの巨体がわずかに揺れた。思わず吐息が漏れる。あまりにも無謀、あまりにも理想的過ぎる提案――否、狂気に等しい。"十戒"は、かつての仲間であっても、裏切り者を許さぬ。そして彼はその筆頭、"背信の王子"そのものだ。話し合いだと?相手が人間ならまだしも、戦火に塗れた魔人たちに理屈など通用するはずがない。

 ドロールは、喉の奥で唾を呑み下した。

 

 ……だが、メリオダスの眼は、違っていた。疑いも、迷いも、恐れも――何一つない。あるのはただ一つ、滅びを止めるために歩む者の覚悟。それだけだった。その覚悟の前に、言葉は無力だった。

 

「私も同行する。」

 

 ドロールが低く、しかしはっきりと告げた。メリオダスが一瞬だけ目を見開く。だがそれを否定はしなかった。

 

「万が一、戦闘になったとき……巨人族の力は必要不可欠だ。そうではありませんか?」

「……あぁ、そうだな」

「それに、あなたの覚悟。確かに伝わりました。だから……どうか私にも、それを支える役目を、与えてほしい」

「……いいぜ。ただし、こっちからは絶対に手を出すな。話し合いが目的だ」

「心得ています、メリオダス。」

 

 だが――ここで、一つの決定的な問題が浮かび上がる。

 森の守護者が、いなくなる。

 "十戒"の影が迫る中、指揮の要を抜くのはあまりに危険だ。女神族がいるとはいえ、この数、この質――一気に畳みかけられたとき、耐え切れる保証はない。

 そのときだった。

 

「森の留守は、俺らに任せてくれ」

 

 穏やかな声が、場の空気を切り裂いた。声の主は、ロウ。人間の男でありながら、その瞳に宿る意思はまるで古き戦士のようだった。

 

「助けてもらった恩は、返さなきゃな。」

 

 そう言って、彼は少年のようににっこりと笑った。その笑みには、一点の曇りも偽りもなかった。

 ドロールは無言で彼に近づき、節くれだった巨大な手を差し出す。ロウはそれを受け取り、しっかりと握り返した。

 

「お安い御用だよ。俺だってお前らほどじゃねぇが……腕には、ちょっと自信あるからな」

「……あぁ。…恩に着ます。」

 

 だが、そのとき――

 メリオダスは、背中に冷たい感触を覚えた。

 突如、空気が変わったのだ。まるで何かが、"ぴたり"と止まったような。

 そう――魔人族の進軍が、完全に止まった。

 大地の振動が消え、黒雲が凍り付いたように動かない。咆哮も、足音もない。沈黙。圧倒的な静寂。……まるで世界そのものが、息を潜めたような異常。

 なぜだ? 敵側に、止まる理由などないはずだ。攻め込むべき局面に、まさかの足踏み。それは自然の流れに逆行する、"異常"の証。

 メリオダスの眉がぴくりと動いた。まさか――彼の胸中に、一つの仮説が浮かぶ。浮かび、即座に確信へと変わった。彼女の力が、沈黙の中心にある。

 

「まさか…………!?」

 

────

 

 時が――ついに、動き出した。

 十戒の影を先頭に、魔人族の大軍が空へと飛翔する。漆黒一色の翼を背に現し、その羽は闇夜に溶け込むように色を持たぬ、まるで色彩そのものを拒絶する虚無の幕布だった。その様を、ガランは地上から唖然と見上げていた。人の形を模しながら、人にあらざる異形どもが宙に浮かび、黒の大河のように森上を流れていく。その異様な景色に、彼の脳は一瞬処理を拒んだ。

 ふと、彼の傍に降り立った影があった。フラウドリンである。彼はその冷徹な面持ちを和らげ、ガランに手を差し伸べた。

 

「ガラン様、どうかこちらへ。時間が惜しいのです。貴方様も、早く」

 

 だが、ガランはその手を前にしながらも微かにたじろいだ。彼には、わからなかった。どうすれば自分も空へ飛べるのか。どう力を込め、どう意志を走らせれば、あの黒き翼は自らの背に顕れるのか。

 逡巡の気配を察したのだろう。フラウドリンは静かに語りかけた。

 

「簡単なことです。飛ぼうと、心の底から思えばいい。貴方は私よりも強く、そして恐ろしい力を有している。自信を持ってください、ガラン様。自分を疑うことこそが、唯一の障壁なのです。」

 

 その言葉は、思いのほか柔らかく響いた。魔人とは、激情と暴虐を本性とする血塗られた獣――そう思い込んでいた。敵も味方も構わず殺し尽くす冷酷非道の化け物。だが、今この瞬間、目の前で手を差し伸べるこの魔物は、違っていた。導く者の眼をしていた。

 「仲間」という概念――それは、忌避していた情念であったが、意外にも悪くない感覚かもしれぬ。そう思ったガランは、膝に力を込め、思い切って跳ね上がった。

 瞬間、身体がふわりと浮き上がり、地に着地することのない感覚が広がった。風が翼を支え、空が己を受け入れた。

 

「……おぉ!?」

 

 初めて空を掴んだ子鳥のように、彼の瞳が見開かれる。フラウドリンは、優しく笑んだ。

 

「ほら、できたでしょう。」

 

 そのまま、彼は他の十戒たちのもとへと速度を上げて向かっていった。ガランは一人、浮遊しながら呟いた。

 

「優しいもんじゃなぁ……見た目だけで判断しちゃいかんということか。ええ教訓じゃわい。……さて、駄弁っとる暇はなかろう。急がねば!!」

 

 そのとき、彼の身が空を斬った。鳶のごとく鋭く、流星のごとく速く、彼は大気を裂いて飛翔する。初めての宙の感触は、肌に馴染み心地よかったが、油断せず、仲間たちの黒い群れを追った。

 

 そして――すぐに追いつけた。いや、正確には「追いつかせてもらえた」。十戒の軍勢が、突然その飛翔を止め、空の一点に静止していたのだ。

 何事かと、彼は魔人たちの群れを割って前へ進んでいく。

 すると、視界の先に現れたもの――それは、一人の少女だった。

 白金に近い光をまとった髪、夜明けの霧のように清廉な肌、そして背から広がるのは荘厳なる大天使の双翼――その存在は、魔人たちの黒い群れの中であまりに異質だった。高潔、清らか、そして恐ろしいまでの威容。見る者を惹きつけ、同時に本能の奥底に警鐘を鳴らす。"これはただの少女ではない"――ガランは、直感的にそう悟った。

 しかも、彼女は一人。たった一人でこの圧倒的な魔人の群れの前に立ちはだかっている。この状況は、単なる無謀では片付けられない。これは――覚悟だ。九十六年生きた者の目には、それがはっきりと見えた。

 さらに、彼女の背後に広がる森から、奇妙な"共鳴"があった。微かに、だが確かに、魔人族と極めてよく似た波動。しかも、一人や二人のものではない。何千、何万もの気配が、あの森に沈んでいる。

 その感覚に、ガランの記憶が閃いた。

 

 「数万にのぼる魔人たちが、忽然と姿を消している」

 

 モンスピートが言っていたあの言葉だ。胸の奥に引っかかっていた痰のような違和感が、一気に喉までせり上がる。

 

「なんじゃ、あやつは……」

 

 隣にいたモンスピートの肩を、そっと小突く。

 

「なあ、あの少女……いったい何者じゃ?」

 

 モンスピートは、眼を細めて答えた。

 

「女神族エリザベス。……まあ、女神族だからね。我々魔人族にとっては、天敵そのものさ。今ちょうど、"進んではいけない"って私らに警告していたところさ。」

「ほほぉ~う。それが……エリザベスとな……。となれば、あの女神族が……いや、待て」

「どうしたんだい?」

「……感じんか?あの森から放たれておる、儂らとよう似たる気配を。」

 

 その言葉に、モンスピートの瞳が鋭く光った。

 

「感じるさ。あれは間違いない。姿を消した非戦闘員たち――奴らの力だ。……やってくれたな、女神族め。」

「ほう、やはりか。わしの勘に狂いはなかったか。」

 

 そのやり取りを、遠くから聞いていたエリザベスは、瞳を見開いた。まるで雷に撃たれたような衝撃が、心を駆け抜ける。

 ――まさか。

 まさか女神族が、魔人族を捕虜に……?自分が信じるべき女神族が、そんなことを――……だが、思い浮かべた名があった。リュドシエル。彼ならば、やる。魔人をこの世の汚穢と断じ、感情も情けも持たぬ冷酷なる"天の裁定者"。その正義の名のもとに、彼は"収容"と称して、何千の魔人を森の奥へと封じ込めたとしても、何ら不思議ではない。

 

「……あり得る……かもしれない……もしかして……リュドシエルは、本当に……!?」

「リュドシエル……その名は〈四大天使〉の。そいつがどうした。救いを乞うつもりか?」

 

 デリエリの声音は、切り裂く刃のように冷ややかだった。瞳に宿る侮蔑は、濁流のごとき怒気を孕みながら、エリザベスの心の芯を静かにえぐった。

 だが、エリザベスは怯まなかった。言葉を選びながら、それでも決して後退ることなく、わずかに見えた糸口を掴むように語った。──彼が、捕虜たちを用いて何かを企んでいると。

 その言葉に、「十戒」の面々は一瞬、息を呑んだ。ガランを除く全員が、疑念の破片を胸に浮かべる。リュドシエルの思惑、それはありえない話ではない──否、むしろ真実に近いと直感が告げていた。だが、ただ一人、ガランだけは理解の外にいた。状況を把握する知識も興味も、彼には欠片ほどもなかった。

 

「…………てめぇ、この戦を、どう終わらせるつもりだ。」

 

 その問いは、沈黙を裂く雷鳴のようだった。問いの主はデリエリ。問われたエリザベスの声は、揺らがぬ剣のように真っ直ぐだった。

 

「私はこの戦を終わらせたい。その願いには、一点の曇りも、歪みもない!!」

 

 その言葉が、濁った空気に風穴を開ける。やがてフラウドリンが進み出ると、冷静な声で事実を告げた。

 

「どうやら……昨日、我が兵を撤退させた張本人が、あの娘らしいです。」

「ほう……あの娘、なかなか肝が据わってるじゃねぇか。醜い女神族のくせに。」

 

 魔人たちは同意の声を交わすように、まるで呪文のように囁いた。

 

 ―……あの目を見ていると、戦意が萎える―

 

 橙の炎のごとく燃ゆる彼女の眼。その瞳の奥には、不明瞭で禍々しい印が浮かんでいた。それはまるで、神の落とした禁忌の印章。何かを約束し、何かを喪わせる。言葉では語れぬ、その形容しがたい刻印が、見る者の心を静かに蝕む。

 デリエリが、音もなく歩み寄る。エリザベスとの距離はすでに剣の一振り分にも満たない。瞳と瞳が交差する。咆哮にも似た沈黙のなか、エリザベスは恐怖を抱きながらも、それに呑まれはしなかった。ただまっすぐに、彼女を見据えた。

 その様を、ガランは愉快そうに眺めていた。と、ふと思い立ったように、モンスピートへと声を投げる。

 

「のう、モンスピート。この儂の「真実」の戒禁というのは、どうすりゃ発動するんじゃ?」

 

 モンスピートは軽く肩をすくめた。

 

「……もう発動してる。戒禁とは、常にそこにあるものさ。意図など不要だ」

「なんじゃ、そうか。なら……ちと近くまで、行ってみるかの」

 

 ガランが足を踏み出す。石を砕くような重さと、霧を払うような軽やかさが同居する足音。その時だった──交渉の火種が、燃え始めた。

 

「あながち間違っちゃいねぇかもしれねぇ。……だが、まだ信じきれねぇ。」

「……あなたたちの同胞を解放するわ。その言葉が、真実であるのなら。」

「じゃあ、奴が拒んだ場合は?」

「それでも、私がやる。……私には、それができるから。」

「…………いいだろう。ならば、裏切り者のメリオダスも連れて来い!貴様らの陣営にいるのはわかってんだ!!」

 

 エリザベスは瞳を見開き、唇を震わせた。そして──吐き出すように叫んだ。

 

「拒否します!!彼は……私の全てなの!!!」

 

 その瞬間、ガランの瞳に驚愕が閃き、続いて乾いた拍手がその場に鳴り響く。

 

「カーッカッカッ……!肝の据わった娘よ。死に際にもこんな娘は見たことねぇ。まったく、一途な愛ってのは、人をここまで強くするのか!」

「……もし、彼を殺すつもりなら。私は、ここで一人でも、あなたたちと戦うわ!!」

 

 その一言が、場の空気を決定的に変えた。ガランの拍手はより熱を帯び、腹の底から響く笑いに変わる。

 

「よくぞ言った!和平を結ぼうなんて、儂の脳にはなかった発想じゃ!いやあ、あんたァ見事!」

 

 その横で、モンスピートが押し殺した苛立ちを奥歯で噛みしめていた。ガランが喧しく笑っているのが耳障りとかそういうのではない、むしろピリピリした空気が和むからありがたいくらいだった。

 ──メリオダスが裏切った理由。それが、目の前の女神族だという事実が、何よりも腹立たしかった。今は飲み込むしかない……その現実が、喉に刺さった小骨のように彼を苛む。

 

「……チッ。交渉は成立だ。さっさと同胞を返してもらおうか。」

「ええ。」

 

 その刹那だった。空が裂け、地が震える。空間の至るところから、あの男の声が満ちた。

 

『フフ……エリザベス様、時間稼ぎという大役を引き受けてくださり感謝いたします。……ご苦労様でした。我らの準備は、すでに整いました。』

 

 リュドシエルの声が、祝福のように甘く、処刑宣告のように冷たく、大地と空と森を満たした。その声は、どこから来るともわからず、ただ全方位から降り注ぐ。逃げ場がない。遮る壁がない。避ける方向が、ない。

 その声に、場の空気は一変する。エリザベスへと向けられる視線は、信頼という仮面を剥ぎ取られた怒りと疑念に満ちていた。怒声が烈風のごとく吹き荒れた。

 デリエリの拳が迷いなく伸び、エリザベスの胸元を鷲掴みにする。指先には剣のような怒りが宿り、喉元に突きつける凶器と化した。

 

「てめぇ……"時間稼ぎ"ってどういう意味だッ!!裏切りやがったなァッ!!」

 

 その声は雷鳴すら怯ませる憤怒の咆哮だった。

 エリザベスは一瞬、目を見開く。恐怖ではない。あまりにも現実が信じがたく、言葉が追いつかぬ困惑だった。

 

「ち……違う……誤解よ……!私は……私は何も……!!」

 

 だがその声をかき消すように、森の奥から突如として「それ」は現れた。光が迸ったのではない。むしろ"皮を脱ぎ捨てるように"、偽装されていた結界が破れ、その"正体"があらわとなった。

 その正体は、巨大な聖櫃であった。女神族が創り上げた禁忌の檻。光の衣に包まれながら、内側の命を"生かさず殺さず"永劫に痛めつける、まさに神の拷問具。その光は美しかった。美しかっただけに、その中身が、底知れぬ恐怖として刺さった。

 

「ありゃなんじゃ……!?」

 

「"聖櫃"。女神族が誇る魔力の一つ……魔神の肉体と魔力を侵食し、絶え間ない苦痛の中で幽閉する道具よ……!!」

 

 声を震わせながら、メラスキュラが解説する。それは説明というより、呪詛に近かった。

 

「なんじゃとお!?ということは、拷問と全く一緒の思いを……あの数がしとるというのか!!?」

「そうですガラン様。それも非戦闘員ばかりを……!!!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ガランの表情が変わった。怒りの導線が脳髄でバチンと切られ、血が沸騰する音が全身を駆け巡った。拳が震える。怒りに飲まれ、次に向かうのが理性か破壊か、もはや区別すらつかない。

 その衝撃は空にも地にも響いていた。空中で思考の狭間に沈んでいたグロキシニアも、地上を駆けるドロールとメリオダスも、全員が一斉に動きを止めた。

 

「まさか……あれが、ゲラードの言っていた"生き餌"……ッスか……?やって良いことと悪いことがあるッスよ!!!」

「メリオダス!あの光の玉、まさか……!」

「リュドシエル……あの外道、とうとうやりやがった……!」

 

 だが、それは序章に過ぎなかった。さらなる衝撃が、デリエリの心臓を真っ二つに切り裂いた。

 ──聖櫃の中に、見知った影があった。

 デリエリの目が開かれる。その瞬間、視界が震え、空気がねじれた。

 

「──姉貴……!?姉貴ィィ────!!!!」

 

 叫びは、魂を引き裂かれる獣の絶叫だった。唯一、心を通わせた血の絆。永遠に失ったと信じていた、たった一人の肉親。その姿が、光の檻の中で、細く枯れたように存在していた。

 姉は、わずかに手を伸ばそうとしていた。だが、魔力に蝕まれ、命に縛られたその身体は、もはや言葉を紡ぐこともできない。声にならぬ嗚咽が漏れ、頬を一筋の涙が伝った。

 その光景は、誰の心にも楔のように打ち込まれた。だが──リュドシエルにとって、それは"美しい成果"でしかなかった。忌むべき者どもが、苦しみを味わい、塵へと還る。この上ない快楽。この世の真理。聖戦の正義の、頂点に立つ愉悦。

 

「役目は果たした。お前たちにも、それなりの価値があったようだ……」

 

 リュドシエルは微笑みながら、ゆっくりと右手を掲げる。その動きは、さながら天より罪を裁く神の如き所作。

 

「……褒美だ。今すぐ、楽になれ!!」

 

 指が、握られた。

 手が、"神の鎚"と化す。

 次の瞬間、聖櫃が"潰れた"。

 

 ──グシャッ。

 

 空間が軋み、視界が白に染まる。閃光が爆ぜ、そこにあった生命のすべてが、瞬時に蒸発した。

 誰もが言葉を失った。口を開けば、そこから血が漏れそうだった。目を逸らせば、罪を背負う気がした。ある者の視点では、何万という魔神の命が一瞬にして消し飛んだ。またある者にとっては、同胞の喉を一人残らず引き裂かれたのと同義だった。

 静寂のあとに来たのは、言葉ではなく、爆発する怒り。沈黙が一転して、怒涛の叫びが天を裂いた。

 

「みんな……みんな殺した……!!よくも、よくもやってくれたわねェ!!!」

 

 メラスキュラの咆哮が、天を引き裂く。怒声は空気を灼く熱波となり、唸らせる。

 

「女神族め……貴様らこそが、真に憎むべき元凶だったのだな……!!」

 

 フラウドリンの瞳には紅蓮の怒火が燃え、はるか下の地にさえ届かんばかりの憎悪が渦巻いていた。

 

 だが、そこに一人、沈黙を保つ者がいた。

 ―ガラン。彼の瞳は、ほの暗い湖のように静まり返っていた。

 

「……「真実」の戒禁が、発動しとらん……。ほう……そういうことかの。」

 

 その間にも、デリエリは沈んでいた。地の底よりも深い奈落の淵へと。視界は揺れていた。心音が鼓膜を破らんばかりに鳴り響く中、彼女はただ、姉の名を喉奥で反芻していた。

 

「……姉貴……」

 

 涙が頬を伝う。だが、それはただの涙ではない。血のように重く、刃のように鋭い"悔恨"の滴。

 

 ──最愛の姉を、目の前で、失った。

 

 声を交わすことも、手を握ることも、もう二度と叶わぬ。伝えたかったことがあった。謝りたかったこともあった。贈りたかった、たった一つのペンダントすら──渡せなかった。

 彼女は胸元から、それを取り出す。小さな宝石──ダイヤのペンダント。その煌めきは、過去の約束の象徴だった。彼女は、それを拳で握り潰した。

 パキンッ、と乾いた音がした。宝石の割れる音は、心の裂ける音と等しかった。

 次に向けられたのは、怒りの矛先。その眼差しは、怒気を纏った剣となって、エリザベスを貫いた。

 

「これが女神族のやり方か……これがっ!!!女神族のぉ……やり方かぁぁぁっ!!!!」

 

 叫びは嗚咽へ、嗚咽は雄叫びへと昇華する。デリエリは全身の魔力を怒りの燃料に変え、エリザベスへと猛然と襲いかかる。

 

「違う、話を……!!」

 

 デリエリの怒りは臨界点を超えていた。烈火のごとく燃え盛るその激情を、彼女は一点──エリザベスへと叩きつけた。

 拳が風を裂き、空間を歪ませる。その一撃は憎悪の結晶。人の身で受け止められるはずのない"魔神の拳"が、容赦なく少女の体を殴りつけた。エリザベスの身体が宙を裂き、地面に叩きつけられる。その瞬間、空気が凍り、あらゆる音が消えた。まるで世界が呼吸を止めたようだった。

 だが、それでもデリエリの怒りは終わらない。姉の命を奪った報い、それを果たすまでは──否、それすら果たしても足りぬほど、心は焼け焦げていた。

 

「……まだだぁッ!!!」

 

 咆哮とともに、彼女は地へと急降下する。追い討ちをかけるべく、血走った瞳でエリザベスへと迫る──その腕を、力強く掴んだ手があった。

 ──ガラン。

 

「やめいッ!!」

 

 その声は雷鳴のように重く、空気を振動させた。止める理由も、止めねばならぬ理由も、語るより前に圧として伝わってくる。

 

「てめぇ……なんのつもりだッ!?止めてんじゃねぇよッ!!」

 

 デリエリが振り払わんと力を込めるが、ガランの手はびくともせず、まるで岩壁のように揺るがない。

 

「お前さんの気持ちは、痛いほどわかる……。血を分けた者の最期を目の前にして、怒るなというほうが無理じゃ。だが……それでも、聞け。」

「だったらなんで止める!?お前から先に八つ裂きにされてぇのかァッ!」

「……それでも、止める。儂の"戒禁"の力……忘れとらんじゃろう?」

「……真実の、戒禁……」

「そうじゃ。あやつは"嘘"をついとらん。あの娘は、ただあの『声』に操られていた。知らぬ間にな……。だからこそ、戒禁は発動しとらんのじゃ。」

 

 デリエリの表情が一瞬、固まる。脳裏に浮かぶのは、あのときのエリザベスの声色──震えながらも必死に伝えようとしていた、あの眼差し。

 

「……だ、だけど……"時間稼ぎ"って……」

「考えてみい。なぜ、あの『声』は、あの娘に『時間稼ぎの大役を果たした』などと告げた?あの口ぶり、まるで"最初からあの娘が騙していた"と言わんばかりじゃった」

 

 ガランの言葉は鋭いペンとなって、デリエリの激情を少しずつ切り裂いていく。

 

「もしあれが"真実"ならば、エリザベスの語ったことすべてが"嘘"になる。だが、あの娘は戒禁の力に屈していない。それが意味するのはただ一つ──あの子は『本当のことを言っていた』ということじゃ。」

「……じゃあ……あいつは……」

「濡れ衣じゃ。演技でも、策略でもない。"あの娘の心"は、間違いなくお前らを裏切っておらん。」

 

 沈黙が落ちる。デリエリは、地に倒れているエリザベスを見やった。

 ──あの目は、確かに迷っていた。恐れていた。それでも、何かを必死に守ろうとしていた。

 歪んだ視界の中で、絞り出すように一言、彼女は呟いた。

 

「……くっ……」

 

 何つかぬその言葉は、泥にまみれた魂の叫び。しかしそれで姉の死は消えない。憎しみも、痛みも、失われた未来も取り戻せない。では、この怒りはどこへ向ければいいのか? 泣いても、叫んでも、答えはない。怒りと謝罪の狭間で、デリエリは軋むように胸を押さえた。

 その背を、黙って見つめていたのはモンスピートだった。言葉はなかった。慰めが、追いつかない、追いつけない。彼はただ、哀しみに背を預けたまま、目を伏せた。その沈黙は、嵐の後の静けさではなく、嵐の中でしか保てない、か細い静寂だった。

 ──その瞬間だった。

 空気が弾けた。誰かが、巨大な湖へ石を投げ込んだような魔力の波紋が、大気を震わせる。

 

 バチ……ッ。

 

 空に、二つの光球が浮かんだ。だが、その輝きに温もりはない。むしろ、氷よりも冷たい静けさと、不気味な威圧があった。吐き気がするほどの圧だった。

 

「案ずるな……すぐに仲間の元へと送ってやろう」

「おいモンスピート、一体この力はなんじゃ!?とんでもない圧があるぞ……」

「……リュドシエルの他に、"〈四大天使〉"が二柱……。あの光こそ、その顕現だよ」

 

 モンスピートの声に、ガランの表情が凍りついた。

 ──〈四大天使〉。それは、女神族の中でも戦神と謳われる存在。リュドシエルと並び、天界の制裁の化身とされる、破壊と粛清の象徴。

 浮かぶ光は、もはや"神聖"ではない。それは金剛石を逆から磨いたような、輝きの裏に刃を仕込んだような光。温もりも救済もない。ただ冷たく、断罪を告げる裁きの光。それは祝福ではなく、"死"を照らす光明だった。

 光の核が、ゆっくりと形を変えていく。人の姿に似た輪郭が、輝きの奥からにじみ出てきた。光が衣をまとい、威厳と殺意を同時に身に宿しながら──天より降り立とうとしている。

 

「……ふふ。奴ら、"十戒"を一気に消し炭にする気だよ。これはもう──全面戦争だ」

 

 モンスピートが微かに口元を歪めて嗤う。戦いの幕が、いよいよ音を立てて開かれようとしていた。

 

『面白い!!!!!!』

 

 咆哮が走る。誰のものともつかぬその声は、雷鳴のように大地を裂き、空に震えを走らせた。怒りか、歓喜か、あるいはその両方か──闇の側も、応戦の意志を剥き出しにする。

 

「お、おもしろいかのう……?……うぅ、皆、なんだか張り切っとるが……」

 

 その中で、ただ一人、ガランだけが浮いていた。気圧されるように肩をすくめ、目を泳がせる。冗談めかした声色は空回りし、耳の奥で誰も応じぬ沈黙が返ってくる。

 

「……わ、儂、ついていけん……」

 

 そのつぶやきは、もはや誰にも届いていなかった。天地を揺るがす戦意と怒りの渦の中で、ただ一人だけ、蘭賀真という老人の魂が、静かに取り残されていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。