「ふん。」
——沈黙。
長い、長い沈黙だった。耳鳴りがするほどの静寂の中で、ロームはその場に突っ立ったまま、欠伸でもこらえるように無造作に首を鳴らし、頬を伝う血すら拭おうともせず、砕けた瓦礫と骨片の散らばる戦場に、まるで散歩道でも歩くような軽やかな足取りで背を向けた。
視線の端にシエルが映っても、彼は歩みを止めなかった。足音は規則正しく、乱れもなく、それはこれが戦いの場であることすら忘れさせるほど日常的な音だった。
「結局、お前は何もできなかったな。じゃあなガラン。地獄で仲間を待ってろよ。」
吐き捨てるように落とされたその言葉は、返答を求めてすらいない独り言のように夜気の中へと溶け、当然のごとく、何の返答も戻ってはこなかった。当然だ。返す口が、もうどこにもないのだから。
ロームが次の一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「…………ローム様。」
静かな声が、彼の背中に刺さった。
シエルだった。さっきまでの焦りとも、怯えとも、そのどちらとも決定的に異なる声だった。もっと低く、もっと静かで、底が完全に抜け落ちたような——あるいは逆に、何か固いものが胸の奥で固まりきったような——そういう響きを帯びていた。普段の彼女の声とは、何かが根本的に違っていた。
「んだよ。」
「……ヨナの、人たちを。どうするつもりですか。」
ロームの足が止まった。止まった、そのことそのものを、シエルは見逃さなかった。胸の内で何かが、ひやりと冷えた。
「……なんでそんな話を今する。」
「答えてください。」
「俺はお前に命令する立場にある。お前が俺に質問できる立場だと思ってるのか。」
「……答えてください。私は、どうされようが止まる気はありません。」
繰り返すその声に、感情はなかった。恐怖も哀願もなく、ただ静かに、揺れることなく、まるで岩のように同じ言葉が繰り返されるだけだった。だからこそロームは、初めてゆっくりと振り返り、シエルの顔をまともに見た。
シエルの手が、剣の柄に触れていた。
「……はぁ、もう言っちゃったしなぁ。まぁいいや、教えてやるよ。」
ロームの口端が、ゆっくりと弧を描いた。それは笑みというよりも刃に近く、値踏みするような——いや、値踏みするまでもないような——そういう乾いた冷たさを帯びた表情だった。
「今夜、月が落ちる前に、ヨナの人間を一人残らず喰いつくす。それが今夜の仕事だ。最初から、それだけが目的だった。ガランを始末したのも、城の連中を引き付けたのも、その全部が、今夜この時のための準備にすぎねぇ。」
シエルは、息を吸った。
「……最初から。」
「そうだ。」
「……ヨナを作ったのも。私を助けたのも。あの街を、私に任せたのも。……その、全部が。」
「ご名答。」
ロームは続けた。何の躊躇もなく、何の感情も込めず、まるで今日の天気でも語るように、淡々と言葉を並べた。
「死にかけてた女を一人拾い上げて、試しに街を任せてみたら人が集まるわ治安は上がるわ、お前は予想以上に優秀だった。おかげでヨナは俺の想定をはるかに超えた豊かさを手に入れた。……豊かな土地には豊かな魂が育つ。そして、よく育った魂は燃えがいい。千年前の聖戦で大幅に落ちた俺たち女神族の力を取り戻すには、そういう質のいい魂が大量に必要なんだ。お前はその魂を育てるための土台を、実によく整えてくれた。本当に感謝してるぞ、シエル……。」
その言葉の意味が、ゆっくりと、一滴一滴が石に染みるように、シエルの胸の奥へと降りていく。一つ一つ確かめるように。じわりじわりと、取り返しのつかない重さで、染みていく。
「……この、この街の人たちは………!!」
「役目を果たした。それだけだ。」
その一言が、石の矢のように胸板を貫いた。
シエルの脳裏に、ヨナの光景が次々と蘇る。
荒れ果てた死地だったあの大地に、最初に水が湧いたときの、あの朝。誰も信じなかった。自分でさえ夢かと思った。それでも土を掘り続け、種を蒔き続け、水路を引き続けた日々。指の腹が固くなるほど鍬を握り、眠れない夜を幾晩も越えて、ようやく最初の芽が地を破った時、近くにいた老婆が声もなく泣いていた。その顔が、今も鮮明に焼きついている。
あの鍛冶職人が、最初の収穫祭の日に「この街は本物だ」と言って笑っていた顔。革職人の子供が、川で初めて魚を獲ったと自慢げに見せに来た時の、その小さな手。酒場の主人が、「あんたが来る前は毎晩飢えた夢を見てた。今はそれがない」と、酒杯を傾けながら静かに言った夜。
——笑顔だった。毎日、笑顔だった。
「笑っていた。……毎日、笑っていた。私に、ありがとうって言ってくれた。あなたが来てから安心して眠れるようになったって、そう言ってくれていた。」
「そうだな。よく育った魂は燃えがいいと言っただろ。幸せに生きた人間の魂はとりわけ上質でな、お前がよく守ってくれたおかげでみんないい顔してる。これ以上ない素材だ。申し分ない。」
何かが、砕けた。
音はしなかった。それでも確かに、シエルの胸の奥で何かが割れ、崩れ、二度と元の形には戻らないと、本能の部分でそう理解した。
剣を抜いた。
「ッ――お前、」
シエルは、ロームを見据えたまま口を開いた。震えていた。しかし今度は、その震えの種類が違った。
「……私は」
声が、かすれた。それでも続けた。
「……王家に生まれて、何もできなくて、父に捨てられて。一人の男に拾われて、初めて誰かの役に立てると思った。今でもそうだ。ヨナの人たちが笑うたびに、私は……私は初めて、自分が生きていていいのだと思えた。あの人たちの笑顔が、私の存在を許してくれているような気がした。そんなものに縋っていたのだと、あなたは言いたいのでしょう。使い捨ての道具が感傷を持つなと、そう言いたいのでしょう。」
息を一つ、吸う。
「……でも、それでも。私はあの人たちに、本物の恩義がある。笑顔をもらった。生きる理由をもらった。たとえその全てがあなたの計画の上に成り立っていたとしても——あの人たちが私に向けてくれたものは、本物だった。その本物の前で、私は逃げることができない。」
剣先がロームを向いた。まっすぐに。ぶれることなく。
「止まれない、と言いましたよね。……私は止まれないと、そう言いましたよね…!」
震えていた。手も、膝も、喉の端も、全部が細かく震えていた。ただ剣先だけが、ぶれることなく一直線にロームを向いていた。まっすぐに。ただまっすぐに。一点の迷いもなく。
「……本気か。お前に俺が殺せるとでも、本気で思っているのか。」
「……殺せなくていい。ただ、止まれない。止まるわけにはいかない。この街を護るのは、この私の役目…!!!!」
「馬鹿め。」
ロームは一瞬だけ黙った。シエルの目を、じっと見た。逃げない目だった。折れない目だった。それから、腹の底から低く、嗤った。
「いいだろう。付き合ってやる。」
────
一撃目。シエルの剣は、まっすぐだった。迷いも躊躇も一切なく、全体重と全ての感情を乗せて振り抜かれたその一撃は——ロームの無造作に伸ばした指二本に、あっさりと挟み止められた。
金属が甲高く鳴く。腕が根元から痺れる。視界に白い衝撃が走る。
「悪くはない。人間にしては、な。だが、それだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。」
腕を一振り。たった、それだけだった。シエルの身体が宙を舞い、地を転がり、砂塵を激しく巻き上げながら石壁へと叩きつけられた。背骨に鈍い衝撃が走り、肺から空気が根こそぎ絞り出され、喉が焼けるように痛んだ。全身がじんと痺れ、一瞬だけ視界が完全に暗くなった。
それでも立ち上がった。
「……まだやるか。」
「…………うおおお!!」
剣は弾き飛ばされ、石畳の上を転がったままどこかへ行ってしまっていた。拾いに行く暇も、体力も、今のシエルにはなかった。だから素手で構えた。両の拳を握り、足を肩幅に開き、それだけのことをするのにも、今は全身の力を振り絞る必要があった。
我ながら馬鹿げている、とシエルは思った。それでも足は前へ出た。前へ出るしかなかった。あの人たちの笑顔が、頭の中を埋め尽くして離れなかった。それ以外に何も考えられなかった。
「そうか。なら死ね。」
今度は蹴りですらなかった。ロームの掌から解き放たれた魔力の奔流が、まるで壁のようにシエルの全身を正面から直撃した。骨が軋み、視界が白く焼ける。地を二度跳ね、三度跳ね、城壁の方向へと打ち上げられるように激しく吹き飛んだ。背中から城壁に激突し、石を砕きながらそのまま崩れ落ちる。
石片が降り注ぎ、粉塵が舞い、全身が一斉に悲鳴を上げた。折れた肋の痛みが波のように何度も押し寄せ、息を吸うたびに胸の内側が燃えるように痛く、口の中に鉄の重い味が満ちた。
それでも、膝をついて、立ち上がろうとした。立ち上がれた。
視界が揺れていた。耳鳴りがした。足が笑っていた。指先の感覚が薄れていた。
それでも。目を、閉じなかった。
「……お前、本当に。」
ロームの声に、初めて感情らしきものが滲んだ。呆れか、面倒か、あるいはそのどちらとも違う何か得体の知れないものか、シエルには判断できなかった。静かに歩み寄ってくるその足音が、やけに大きく、やけに重く響いて聞こえた。
ロームはゆっくりと両の手を持ち上げる。その指先に、光が集まり始めた。かつてガランを一瞬で飲み込んだ、あの光。骨片の一欠けすら残さず塵に変えた、あの絶対的な光。
聖櫃
それが今度は、シエルへと向けられていた。
「……ヨナの人間は全員俺たち女神族が喰らう。お前が死のうが生きようが、俺の仕事には何の関係もない。どうせお前一人が足掻いたところで何も変わらん。それが現実というものだ。」
光が収束する。音が消えていく。風も、砂の音も、自分の呼吸すらも、世界から色が一枚ずつ剥がれていくような、そういう感覚が全身を満たした。
シエルは目を閉じなかった。逃げなかった。最後まで、見届けると決めていた。あの人たちの代わりに、ここで立っていると、そう決めていた。自分の力のなさを、せめて最後だけは恥じないでいたかった。
光が膨れ上がった。解き放たれようとした。夜を塗り替えんばかりの輝きが、シエルへと向けて収束し、絞られ、その一点へと全てが注がれようとした——
——その瞬間だった。
轟音が、鳴った。
だがそれは聖櫃の音ではなかった。もっと単純な、もっと原始的な、もっと生々しい音だった。肉と骨と、圧倒的な力とがぶつかり合う、何か根源的なものを揺さぶるような音だった。
ロームの巨体が、吹き飛んだ。
「!?」
横合いから何かが直撃した。聖櫃の光が霧散する。収束していた莫大な力が四散し、衝撃波が砂塵を爆発させ、周囲の石壁を細かく震わせた。何が起きたかわからないまま、ロームは石柱へと激突し、石を砕き、粉塵をまき散らしながら、重い音とともに地へと転がった。
痛い。
その感覚に、ロームは一瞬だけ、現実そのものを疑った。支配権を持つ自分が。あらゆる存在の力をその領域の中で削ぎ落とし続ける支配の魔力を持つ自分が。それでも消えないこれほどの激痛を生むほどの一撃を、喰らった。
あり得ない。この場に、そんな力を持った存在がいるはずがない。ガランは死んだ。骨片まで塵になるのを自分の目で確かめた。城の中の連中は今頃ハンゾウとの戦いで手一杯のはずだ。では、何が。誰が。
砂塵が、ゆっくりと晴れていく。
シエルの揺れる視界に、影が映った。
大柄な体躯だった。双刃槍を大地につきたて、ただ静かに、微動だにせず立っている。
鎧があった。
紅き鎧が、あった。
先ほど聖櫃に飲まれ、骨片の一欠けまで塵となって夜風の中へと消えたはずの紅き鎧が、傷ひとつなく、欠けひとつなく、まるで研ぎ直したばかりのように月光の下でくっきりと、力強く輝いていた。まるで最初から何事もなかったように。まるで死などというものが、この男には端から関係のない話だとでも言うように。まるでこの男に限っては、世界の理が少しだけ、違う形で成り立っているとでも言うように。
シエルは声を失った。口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。目の前のものを理解しようとする思考が、それを理解することを頑なに拒んでいた。
ロームは立ち上がろうとして、膝が沈んだ。その事実だけで、十分だった。このロームが、膝をついた。
「…………な、」
ロームの口から、絞り出すような、押し潰されたような声が洩れた。いつもの余裕も、侮蔑も、嗤いも、そのどこにもなかった。
「……なぜだ。なぜお前が立っている。……俺は見た。骨片まで光に溶けた。お前は確かに消えた。消えたはずだ。なのに、なぜ……!なぜお前が、今ここに……!」
「そうじゃな。」
その男は振り返らなかった。ただロームを静かに見下ろし、静かに、ただ静かに言葉を返した。その声には怒りも興奮も苦しみも含まれていなかった。まるで波一つない深い水面のように、完全に凪ぎきっていた。
「消えた。確かに消えた。骨の一欠片まで、お前さんの聖櫃に飲まれた。それは認めてやろう。お前さんの聖櫃は確かに儂を一度、この世から消した。」
「なら……!ならなぜ……!」
「じゃが」
双刃槍が、音もなく持ち上げられる。紅き鎧が月光を弾き、その輝きは先ほどよりもなお鮮明に、なお力強く、深夜の闇を切り裂くように染め上げた。砂塵の中でその紅が揺れ、まるで炎のように、まるで怒りのように、静かに燃えていた。
「儂は〈十戒〉じゃ。……ガラン。」
それだけだった。説明もなく、誇りもなく、飾り気もなく、ただ事実として言葉が落ちた。石が落ちるように。夜が明けるように。変えようのない何かとして、その言葉は場に深く、静かに刻まれた。
ロームの顔から、完全に余裕が消えた。代わりに浮かんだのは、純粋な、戦意だった。飾りのない、剥き出しの、戦意だった。シエルが一度も見たことのない顔だった。このロームという男が、初めて本気でそこに立った顔だった。
シエルは、その紅き鎧の背中を、ただ呆然と見上げていた。言葉もなく、思考もなく、ただ見上げていた。
——やってみなきゃ、わかんねぇだろ。
どこか遠い場所から、かつての少年の声が聞こえた気がした。
シエルは、口元をわずかに動かした。声にはならなかった。それでも確かに、何かが胸の奥で、音もなく温かく、燃えていた。
ガラン 魔力:臨界突破
種族:魔人
十戒の一人であり〈真実〉の戒禁を持つ最上位魔人。魔人であるが優しい心を持ち、眠りから覚めた後は、ゴウセルとスプレッド、アンとともに女神族を討伐する旅に出る。
ゴウセルが作った槍の魔力上昇「装備」により、魔力が無限に上昇するため、武力を極限まで高め、魔力が尽きるまで発動する臨界突破との相性は最高である。
闘級 40300∼…
魔力 10000∼…(魔力上昇「装備」によって無限上昇)
武力 24000
気力 6300 (暴走制御「装備」によって微上昇)