「真実」の歩み   作:ライダー☆

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第二十三話 行く先

 風が、静かに夜を渡っていった。

 砕けた石、焦げた地面、散らばった瓦礫——その上に、月光だけが等しく降り注いでいた。白銀の塵はもうどこにもない。ロームという存在が確かにここにいたことを示すものは、何一つ残っていなかった。まるで最初から存在しなかったかのように。三千年という時を生きた女神族が、一閃の前にこれほど呆気なく消えるものかと、シエルはぼんやりと思った。しかしそれを不思議と感じる余力すら、今の彼女には残っていなかった。

 シエルは、その場に立ち尽くしていた。

 

 膝が笑っていた。肋が軋むたびに、肺の奥が燃えるように痛んだ。折れた骨が呼吸のたびに内側を刺す感覚は、しかし今の彼女の胸の痛みに比べれば、ほとんど何でもなかった。体の傷よりも、ずっと深いところに、もっと大きな傷が口を開けていた。

 それでも、倒れなかった。倒れるわけにはいかなかった。まだ、言わなければならないことがあった。

 

「……ガラン」

 

 声が、かすれた。喉の奥が張りついたように固く、言葉を押し出すのに力が要った。それでも続けた。

 ガランは振り返った。双刃槍を下げ、静かにシエルを見た。責める目ではなかった。裁く目でもなかった。ただ、待つ目だった。それが却って、シエルの喉を余計に締めつけた。怒ってくれていた方が、まだ楽だったかもしれなかった。

 

「私は……あなたたちを、城に引き込んだ。女神族の計画のために。あなたたちを危険に晒した。仲間を傷つけた」

 

 視線が、ゴウセルへと向いた。両腕を失ったまま、それでも静かにそこに立っている人形の姿が、胸に刺さった。マキシリアの傷も、スプレッドの血も、すべてが自分の招いたことだった。

 

「……謝っても、済む話ではないとわかっています。言葉一つで消えるものでは、ない。それでも——」

 

 声が、途切れた。喉の奥が詰まった。言葉が出てこなかった。謝罪の言葉など、いくらでも用意できた。王として、何度も臣下に頭を下げてきた。しかしいざ目の前に立つと、どの言葉も薄っぺらく感じられて、口から出てくることを拒んだ。用意した言葉では足りなかった。足りるはずがなかった。

 それでも。

 

「……本当に、申し訳ありませんでした」

 

 シエルは頭を下げた。深く、真っ直ぐに。王として培った矜持も、積み重ねた虚飾も、何もかもを脱ぎ捨てて、ただ一人の人間として。その姿勢を保つだけで、折れた肋が悲鳴を上げた。それでも、顔を上げなかった。

 沈黙が落ちた。

 瓦礫の上で風が鳴った。遠くで何かが崩れる音がした。それ以外は、何もなかった。

 やがてガランは、低く、短く息を吐いた。

 

「謝罪は受け取った」

 

 それだけだった。責めなかった。糾弾しなかった。余分な言葉を一つも添えず、ただ静かに、その言葉を受け取った。

 シエルは顔を上げた。目の奥が熱かった。泣くまいとした。泣いている場合ではなかった。

 

「……ありがとうございます」

 

 声が、わずかに震えた。「助けてくれて」という言葉は、最後まで声にならなかった。しかしガランには、十分すぎるほど伝わっていた。

 スプレッドは何も言わなかった。ただ、視線をシエルからヨナの街へと向けた。夜の闇の中で、街の灯りが小さく揺れていた。まだ眠れずにいる人間たちの、不安の灯りだった。

 

「……街の人間に、話すことがあるんじゃないか」

 

 その言葉が、シエルの背筋を静かに伸ばした。

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 夜明け前の広場に、ヨナの民が集まっていた。

 城の崩壊した一角から立ち上る煙が、まだ夜空に細く漂っていた。轟音を聞いた者、炎を見た者、恐怖に震えながら夜を過ごした者——皆が不安を顔に貼りつけたまま、広場の中央に立つシエルを見上げていた。鍛冶職人も、革職人も、酒場の主も、顔見知りの商人も、幼い子供を抱えた母親も、皆がそこにいた。昨日まで笑い合っていた顔が、今は固く緊張に引き攣っていた。

 

 その全員の視線を、シエルは正面から受け止めた。

 一度だけ、深く息を吸った。折れた肋が軋んだ。構わなかった。

 

「皆に、話さなければならないことがある……」

 

 声は、震えていなかった。

 

「私は——女神族という存在に、心酔していました」

 

 広場がざわめいた。シエルは続けた。

 

「この街を豊かにしてくれた存在を、純粋に信じていた。力を貸してくれると思っていた。しかしその実、私は利用されていた。この街の人々が五年かけて積み重ねた幸福を、女神族が力を取り戻すための糧として差し出すための、道具として。……皆の笑顔を、皆の安らかな日々を、女神族に捧げるための供物を育てる土台として、私は使われていたのです」

 

 静寂が落ちた。

 だが、それは驚愕だけの沈黙ではなかった。

 ざわめきが止んだ後の広場には、もっと重いものが漂っていた。確認されてしまった、という沈黙が。疑っていたことが、今この瞬間に事実として着地した時の、あの息の詰まるような重さが。

 鍛冶職人は、腕を組んだまま動かなかった。隣の革職人も、口を開かなかった。酒場の主は、地面を見ていた。あの夜、酒場で交わした言葉が、全員の胸に戻ってきていた。

 

 やっぱり、そういうことだったのか。

 

「今夜、女神族がこの街を襲おうとしました。皆の命を、魂ごと喰らおうとした。私がそのきっかけを作りました。この街の王として、皆を守るべき立場でありながら、知らぬこととはいえ、皆を危険に晒した。今夜皆が生きているのは、私の力によるものではありません。……その責任は、すべて私にあります」

 

 シエルは頭を下げた。広場の全員に向けて、深く、長く。折れた肋が再び悲鳴を上げた。息が詰まった。それでも顔を上げなかった。

 沈黙が、続いた。

 誰も声を出さなかった。長い沈黙だった。風が吹いた。蝋燭の光が揺れた。子供を抱えた母親が、我が子をぎゅっと抱き直した。その音だけが、広場に聞こえた。

 

「……王様」

 

 声が、した。か細い声が。

 子供の声だった。人垣の向こうから、一人の幼い子供が前に出てきた。母親が止めようとしたが、子供は聞かなかった。

 

「……王様は、悪いことをしたの?」 

 

 広場が、静まり返った。

 シエルは顔を上げた。子供と目が合った。真っ直ぐな、曇りのない目が、シエルを見ていた。

 

「……知らなかった。しかし、結果として皆を危険に晒した。それは、悪いことです」

 

 子供は少し考えた。それから言った。

 

「でも、王様はずっと、あたしたちのために働いてたじゃない」

 

 その一言に、広場の空気が、わずかに動いた。

動いた、というより、揺れた。凍りついていたものが、わずかにひびを入れた、そんな揺れだった。

 鍛冶職人は、その言葉を聞いて、しばらく動かなかった。子供の無邪気な声が、胸の奥に刺さっていた。先ほどまで、酒場で飲み込んだ言葉が、また喉元まで上がってきた。今度は、飲み込まなかった。

 

「……シエル王…」

 

 男は人垣をかき分けて前へ出た。声は、かすれていた。だが、その目は真っ直ぐだった。

 

「俺は……あんたを疑っていた。城門でのあの目を見た時から。変わった、おかしい、何かある、とずっと思っていた。言えなかったけれど、そう思っていた」

 

 広場に、緊張が走った。だが、男は続けた。

 

「だから今夜、全部聞いて——腹が立ったか、って言えば、嘘になる。利用されていたと聞いて、俺たちもそうだったのかと、ざわついた。それは本当だ」

 

 男の声が、わずかに変わった。怒りでも、糾弾でもなく、もっと別の何かへと。

 

「でも、俺はずっと見てきた。あんたが、この街のためにどれだけ働いてきたかを。夜明け前から動いて、誰よりも遅くまで残って、俺たちの顔を一人一人覚えていた。荒れ地だったこの土地に、最初に鍬を入れたのはあんただ。最初の水路を掘ったのもあんただ。最初の収穫の日に、俺たちと一緒に泥だらけになって笑っていたのも——あんただ」

 

 男の声が、かすかに震えた。

 

「それは、本物だろう。誰に利用されようが、何を知らなかろうが——あんたがこの街のためにしてきたことは、全部、本物だ。俺は……そう思う」

 

 隣に立っていた革職人が、静かに頷いた。

 

「俺も同じだ。だまされていたのは、あんただけじゃない。俺たちだって、あの豊かさを疑わずに享受していた。おかしいと思いながら、言えなかった。あんたを責める権利なんて、俺たちにはない」

 

 酒場の主が、太い腕を組みながら前に出た。その目は、蝋燭の光の下で見せた、あの迷いに満ちた目とは違っていた。

 

「王でいてくれ、シエル様。この街には、あんたが必要だ。あんたじゃなきゃ、駄目なんだ」

 

 それを皮切りに、声が広がった。一つ、また一つ。老いた者も、若い者も、子供も、皆が同じ方向を向いて言葉を重ねていく。責める声は、どこにもなかった。一つも、どこにも、なかった。

 シエルは、唇を噛んだ。

 泣くまいとした。王として、ここで泣くわけにはいかないと思った。しかし目の奥が熱くなるのを、今度ばかりは止められなかった。五年間、ずっと抑え込んできたものが、堰を切るように溢れてきた。

 

「………」

 

 ゆっくりと顔を上げ、後方を振り返った。

 

「この方たちが、皆を守ってくださいました」

 

 視線の先に、ガランが立っていた。月光を背に受け、紅き鎧が静かに輝いていた。スプレッドが傍らにいた。ゴウセルは——両腕を失ったまま、それでも穏やかな顔でそこにいた。マキシリアは苦い顔で腕を組んでいた。アンだけが、きょろきょろと人々の顔を見回していた。

 広場が、ざわめいた。あの紅き鎧の怪物が、守ってくれた。城門で人々を凍りつかせたあの存在が、今夜自分たちの命を救っていた——その事実が、民の間にゆっくりと、しかし確実に浸透していく。

 シエルはもう一度頭を下げた。今度は謝罪ではなく、誓いとして。この街の全員に向けて、この先の全てを懸けた誓いとして。

 広場の向こうで、夜がわずかに白み始めていた。

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 夜が、深まっていた。

 広場の人々が少しずつ家路につき、ヨナの街が静けさを取り戻し始めた頃、ガランたちは城門の前に立っていた。出立の準備は、すでに整っていた。長居をするつもりは最初からなかった。この街に残るべき理由が、彼らにはない。残ることで、この街に迷惑をかける可能性の方が、はるかに大きかった。

 

「……もう行くのか」

 

 シエルが、静かに言った。その声には、引き止めたいという気持ちと、引き止めるべきではないという理性が、等分に混じり合っていた。

 

「儂たちに、居座る理由もないからのう」

 

 ガランは双刃槍を肩に担ぎ、夜の道を見渡した。どこまでも続く暗い道が、月光に照らされて静かに延びていた。スプレッドは腕を組み、特に感慨もなさそうに空を見上げていた。ゴウセルは——マキシリアに仮接合してもらった両腕をゆっくりと動かしながら、穏やかな顔でそこに立っていた。完全ではないが、動く。それで十分だった。マキシリアは最後の調整をしながら、「後で完全に直す」と低く言っていた。アンは、ガランの肩の上で眠そうに目をこすっていた。

 

「あの……」

 

 シエルが一歩、前に出た。その手に、何かを持っていた。折り畳まれた、古びた羊皮紙だった。年代を経た革の匂いがした。端がわずかに黄ばみ、折り目が深く刻まれている。しかしそれ自体から、かすかな魔力の気配が滲み出していた。ゴウセルが微かに眉を動かした。マキシリアが反応した。スプレッドの視線が鋭くなった。

 

「これを、受け取ってほしい」

 

 ガランが手を伸ばし、受け取る。広げると、そこには精緻な線が走っていた。しかし不思議なことに、描かれているのは地形でも街道でもなかった。白い余白の中に、いくつかの点と、かすかな線だけが引かれていた。まるで、まだ完成していない地図のように。

 

「……これは?」

「巨人族の名工、ダブスによって造られた地図だと言われています。ヨナを整備する際、この地の地下深くから掘り起こされました。長い年月、土の中に眠っていたものです」

 

 ガランは地図を眺めた。マキシリアが覗き込み、スプレッドが眉をひそめた。ゴウセルが首をかしげた。

 

「名工ダブス……」マキシリアが低く呟いた。

 

「俺も名前だけは聞いたことがある。巨人族きっての細工師……。しかしこれは——何も描かれていない…?」

「使い方があるそうです。持つ者が、心の底から望む場所を念じると——」

 

 その言葉が終わる前だった。

 地図が、光った。

 誰も何も念じていなかった。少なくとも、意識的には。しかしその羊皮紙は、まるで持ち主の奥底を読み取るように、静かに、確かに輝き始めた。かすかな、温かみのある光だった。

羊皮紙の白い余白に、まるで生きているかのように色が広がり始める。山が描かれ、川が引かれ、森が染まり、街道が伸びていく。筆で描いたのではない。線が生まれ、色が満ちていく。誰も声を出さなかった。ただ、その光景を見ていた。

 やがて光が落ち着いた時、地図には五つの点が輝いていた。

 五つの王国。五つの王都。それぞれが地図の異なる場所に、確かな輝きを持って示されていた。互いに遠く、しかし等しく力強く。

 

「……これは」

 

 マキシリアが、低く呟いた。誰も続きを言わなかった。言葉にする必要が、なかった。

 ガランは、しばらく地図を見ていた。五つの光点が、静かに揺れている。どれも遠い。どれも、簡単には辿り着けない場所だ。

 

「儂は何も念じておらんぞ?」

 

 ガランが言った。

 誰も答えなかった。ゴウセルが、小さく微笑んだ。それだけだった。

 ガランは地図をゆっくりと折り畳み、鎧の内側に、丁寧に仕舞った。それからシエルを見た。

 

「もらっておく。……大事にする」

「……どうか、ご無事で」

 

 シエルは、深く頭を下げた。今度こそ、言葉にできないものすべてを込めて。感謝も、謝罪も、祈りも、この先への願いも、すべてをその一動作に込めた。

 ガランはそれに何も答えず、ただ一度だけ頷いた。それだけで十分だった。そして踵を返し、夜の道へと歩み出した。

 スプレッドが続く。ゴウセルが続く。マキシリアが続く。アンが、ガランの肩の上でシエルに向かって小さく手を振った。シエルは、その小さな手に向かって、静かに手を振り返した。

城門をくぐる音がした。石畳を踏む足音が、少しずつ遠ざかっていく。やがて月明かりの中に、五つの影が溶けていった。

 シエルは、その背中が完全に見えなくなるまで、その場に立ち続けた。風が吹いた。髪が揺れた。城門の向こうは、もう何もなかった。

それでも、立ち続けた。

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 夜道を歩きながら、ガランは地図を取り出した。

 懐から引き出した羊皮紙を広げると、五つの光点が今も静かに輝いていた。それぞれの方角が、確かに示されていた。どれも遠い。どれも、簡単には辿り着けない場所だ。その先に何があるかは、今は何もわからない。

 

「さて。」

 

 ガランは低く呟いた。夜風が吹き、地図の端がわずかに揺れた。

 

「どこから行くとするかのう。」

 

 誰も、すぐには答えなかった。五つの光点が、暗い夜道の中で静かに羊皮紙の上に揺れていた。行く先がある。方角がある。それだけは確かだった。しかしその先に何が待ち受けているかは、地図も、誰の言葉も、教えてはくれなかった。

 マキシリアが腕を組んだ。スプレッドが空を見上げた。ゴウセルが地図をじっと眺めた。アンが、ガランの肩の上で膝を抱えた。

 沈黙は、長くはなかった。

 どれだけ思案しても、結論は変わらなかった。行くべき場所は示されている。行かない理由はない。深く考えたところで、足が向く先は最初から決まっていた——それを、全員が同時に理解した。

 

「……まあ、考えたところで変わらんわな。」

 

 ガランが、地図を折り畳みながら言った。どこか呆れたような、しかし満足そうな声だった。

 

「光点の方へ、まっすぐ行くだけじゃ。」

 

 誰も反論しなかった。スプレッドが小さく鼻を鳴らした。マキシリアが「まあそうだな」と短く言った。ゴウセルが穏やかに頷いた。アンが「うん」とだけ言った。

 それで、決まった。

 そして——

 

「……ガラン、そして、みんな。」

 

 夜道に出てしばらく歩いた頃、ゴウセルが口を開いた。仮接合された両腕を静かに動かしながら、前を向いたまま、穏やかな声で言った。

 

「戦いの後、気になって調べていたことがある」

 

 ガランが、歩みを緩めずに答えた。

 

「なんじゃ」

「女神族の魔力について」

 

 スプレッドが、横目でゴウセルを見た。マキシリアの歩調が、わずかに変わった。

 

「ロームの魔力は、支配権。記憶に刻み込まれた魔力の質からして、間違いない。もう一人——僕とスプレッド、そして、マキシリアを追い詰めたたあの女神族の魔力は、屍暴動狂。自らの魔力を大幅に上昇させ、その魔力尽きるまで動き続ける……」

 

 ゴウセルは続けた。淡々と、だが一言一言を確かめるように。

 

「そして、シエルを調べた。あの人の身体には、女神族の魔力がない。」

「……ない?」

 

 マキシリアが言った。

 

「ない。完全に、ない。支配権の痕跡も、他の何かの痕跡も。あの方は、純粋に信じていた。操られていたわけではなく、ただ、信じていた。それだけだった」

 

 しばらく、誰も言葉を出さなかった。石畳を踏む音だけが続いた。

 

「つまり」

 

 スプレッドが、静かに言った。

 

「ヨナの街には、最初からあの二人の魔力しかなかった」

「そうなる」

 

 ゴウセルが頷いた。

 

「つまり、俺とマキシリアを最初に操った女神族の魔力は、街の中に残っていなかったってことか。」

「うん。後から考えてみれば、あの戦いの場にもなかった。ロームと戦っている最中も、その気配はなかった」

 

 ガランが、低く唸った。

 

「つまり、即座に退避した、ということか」

「おそらく。僕たちがヨナに入った時点で、あるいはそれより前に、すでに動いていた可能性がある。ロームが囮として残り、もう一人は別の場所へ向かった」

 

 マキシリアが腕を組んだ。

 

「最初から、捨て駒だったのか。ロームが」

「ロームがそれを知っていたかどうかは、わからない。ただ、あの女神族は賢い。俺たちがどう動くかを、ある程度読んでいた。そして、読んだ上で逃げた」

 

 沈黙が落ちた。月が、少しだけ雲に隠れた。

 

「じゃあ、もしかしたら五つの光点のどれかに、いるかもしれないってこと?」

 

 アンが、ガランの肩の上から地図を覗き込みながら言った。眠そうな目が、わずかに鋭くなっていた。

 

「かもしれん」

 

 ガランは短く答えた。それ以上は、何も言わなかった。

 夜道を歩く足音が、また続いた。五つの影が、月明かりの中を進んでいく。

 

 しかし彼らは知らなかった。

 五つの王都のそれぞれで、今この瞬間にも、何かが動いていることを。女神族の影が、人知れず根を張り、芽吹き、広がっていることを。

 ある王都では、すでに民が恐怖の中に沈んでいた。

 ある王都では、王そのものが女神族の傀儡と化していた。

 ある王都では、地下深くで聖戦の残滓が目を覚まそうとしていた。

 そしてある王都では——ガランたちが想像だにしない形で、すでに取り返しのつかない事態が静かに、しかし確実に進行していた。

 

 そしてその中のどこかに——あの夜、ヨナから逃げ延びた女神族の影が、息を潜めていた。

 地図の五つの光点が、静かに揺れた。

 

 まるで、警告するように。あるいは——それでも行けと、導くように。

 夜は、まだ深かった。

 五つの影は、歩き続けた。月明かりの中を、前だけを向いて。

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