「真実」の歩み   作:ライダー☆

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第二十四話 老騎士ヒエン

 旅の道中は、静かだった。

 ヨナを出てから二日が過ぎていた。街道は整備されているとは言い難く、轍の跡が深く刻まれた泥道が続いたかと思えば、突然石畳になり、また砂利に戻る。大きな街を避けて進んでいるせいもあった。人の目につきにくい道を選ぶのは、ガランという存在と旅をする上での、自然な習慣になっていた。

 その二日の間、一行の間では多くの言葉は交わされなかった。

 

 戦いの後というのは、いつもそういうものだった。語り合うべきことが山ほどあるのに、言葉にしてしまうことへの躊躇いが先立つ。ハンゾウのことも、シエルのことも、ロームのことも、誰もまだ正面から口にしていなかった。それぞれが、それぞれのやり方で、あの夜を心の中で処理している最中だった。

 ゴウセルの両腕は、マキシリアが完全に接合し直していた。ゴウセル本人は「ありがとう」と言って、それ以上は何も言わなかった。

 アンは、相変わらずガランの肩の上にいた。道中で見つけた花を摘んでは捨て、摘んでは捨てを繰り返し、時々「ねえガラン」と話しかけては「なんじゃ」と返され、特に意味のない会話をした。それが、一行の空気を辛うじて人間らしく保っていた。

 

 二日目の夕暮れ時だった。

 街道から外れた森の縁を歩いていた時、突如として大気が変わった。

 鳥が、一斉に飛び立った。

 それが最初の警告だった。次の瞬間、地が鳴った。遠雷のような低い振動が足裏から伝わり、やがてそれは確かな地鳴りへと変わっていった。木々が揺れ、根元から傾ぎ、老木が一本、音を立てて倒れた。

 

 そして——姿を現した。

 

 牛とも熊とも龍とも判別のつかない異形の獣だった。四肢の一本一本が老木の幹ほどもあり、背の高さは城壁に匹敵した。皮膚は岩のように硬質で、その表面に幾重もの古傷が刻まれていた。目は小さく、しかし燃えるような赤い光を宿していた。鼻腔から吐き出される息が白煙のように立ち上り、その咆哮は空気そのものを圧縮するような重さを持っていた。

 アンが、ガランの鎧にしがみついた。

 

「……あれ、何。」

「さあのう。」

 

 ガランは双刃槍を構えることなく、ただその獣を眺めた。その眼には、恐れも興奮もなかった。ただ、静かに測るような光があった。

 

「……でかいな。」

 

 マキシリアが低く言った。

「でかいだけじゃないぞ。あの魔力の質、ただの野獣じゃない。」

 

 スプレッドが眉をひそめた。

 

暴悪獣(ブルータルビースト)……そう呼ばれている生物だ。極めて凶暴な性格をしているはずだけど……どうやら、何かに追われているみたいだ。怯えている。」

 

 ゴウセルが静かに言った。

 その言葉が、場の空気をわずかに変えた。

 よく見れば——獣の動きに、確かに焦りがあった。盲目的に暴れているのではなく、何かから逃げながら、行き場を失って暴れていた。踏み荒らした跡の方向を追えば、かなりの距離を走り続けてきたことがわかった。

 

「……追われとる、か。」

 

 ガランが低く呟いた。

 戦いにはならなかった。

 スプレッドの蔓が静かに伸び、獣の後ろ足を優しく絡め取った。強引に押さえつけるのではなく、ただ動きを緩やかにするように。マキシリアの風刃が獣の耳元を掠めた。痛みを与えるためではなく、注意を引くために。そしてゴウセルが「侵入(インベイジョン)」を仕掛けた——意識を書き換えるためではなく、ほんの一瞬だけ、混乱した思考の中に静けさを差し込むために。

 獣は、止まった。

 赤い目が、ガランを見た。ガランも、獣を見た。

 しばらく、その状態が続いた。

 やがて獣は、低く一声鳴いた。それから、来た方向とは別の方角へと、ゆっくりと歩き始めた。森の奥へ。人の気配から遠ざかる方向へ。地鳴りが遠ざかり、木々の揺れが収まり、鳥が少しずつ戻ってきた。

 

「……逃げた。」

 

 アンが、しがみついていた手を緩めながら言った。

 

「賢い獣じゃったな。」

 

 ガランが言った。

 それで終わりだった。

 一行は何事もなかったように歩みを再開した。

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 翌朝、光点の示す方角へと歩き続けた一行が、最初の目的地の近郊へと踏み込んだ頃のことだった。

 街道の向こうから、蹄の音が響いてきた。

 一頭の白馬だった。

 白馬というよりも、白い巨壁と表現した方が近いかもしれなかった。肩の高さだけでゴウセルの頭を優に超え、脚の一本一本が磨かれた大理石の柱のように太く、鬣は雪のように白く、朝の風に揺れていた。蹄の音は重く、一歩ごとに地面がわずかに沈む感覚があった。

 その背に跨る者も、馬に劣らず異様な存在感を持っていた。

 老人だった。

 

「暴悪獣とやらを探しに来たが……いないか。ここを去っているのか…ん?」

 

 白髪を短く刈り込み、顔には深い皺が幾筋も走っていた。年輪のように刻まれたその皺は、単なる老いではなく、長年の風雨と戦場とが刻みつけた痕跡だった。しかしその背筋は一分の乱れもなく垂直に伸び、鎧の上から見ても、その肩の厚みと胸板の広さは、現役の戦士のそれだった。腰に提げた剣は長く、鞘の装飾は年季を経て磨り減っているが、その分だけ真実の重みを帯びていた。使い込まれた武具には、飾りを超えた説得力がある。

 老騎士は馬を止めた。

 その眼が、ガランで止まった。

 止まった——そして、動かなかった。

 驚愕が、老人の顔に張りついた。それは一瞬で消えようとしたが、消えきれなかった。皺の奥で、何かが激しく動いていた。長年の修練で培った平静の仮面が、この瞬間だけは完全に機能していなかった。老騎士の右手が、無意識のうちに剣の柄へと伸びかけ——止まった。

 意識して、止めたのだ。

 老騎士は、しばらく何も言えなかった。その沈黙は、数秒にも満たなかった。しかし確かに、何かと戦っている沈黙だった。

 やがて、絞り出すように口を開いた。

 

「……これはまた。」

 

 声が、微かに掠れていた。

 

「珍妙な旅の一団じゃな。先頭の巨人は……まさか、魔人族か。」

 

 一拍置いた。その一拍が、重かった。

 

「……見たことがない。」

 

 ガランは、老騎士をじっと見た。その眼の奥を、静かに読んでいた。やがて、低く口を開いた。

 

「……お主。」

「なんだ。」

「儂を見て、動じておらんな。」

 

 老騎士は答えなかった。

 

「一千年前の聖戦を知っておるか。」

「……知っている。」

「ならば魔人族がどういう存在かも、知っておるな。」

 

 ガランの声は静かだったが、その奥に確かな鋭さがあった。

 

「伝承の中の怪物が目の前に現れたなら、普通は腰を抜かすか、剣を抜くか、どちらかじゃろう。……なぜ、どちらもせん。さっき、剣の柄に手が伸びかけて、止まったのも見えておった。何かを考えた上で、止めたはずじゃ。」

 

 老騎士の眼が、微かに動いた。見透かされたことへの、かすかな動揺だった。

 しばらくの沈黙の後、ヒエンはゆっくりと息を吐いた。

 

「……正直に言おう。」

 

 その声から、先ほどの掠れが消えていた。代わりに、長年の重みを帯びた静けさが戻っていた。

 

「動じていないわけでは、断じてない。」

 

 ヒエンは、真っ直ぐにガランを見た。

 

「今この瞬間も、儂の中では相当な嵐が吹いている。魔人族が実在した。封印が解けた。それがどれほどの意味を持つか——わかっているつもりだ。一千年前に何があったかも、伝承としてではなく、ある程度の深さで知っている。」

「ならば。」

「ただ。」

 

 ヒエンは続けた。その声には、言い訳ではなく、積み重ねた年月から来る確信があった。

 

「儂はこの歳まで、戦場を渡り歩いてきた。人が化け物に変わる瞬間を見た。化け物が人の心を持つ瞬間も見た。尋常ならざるものと相対した時、まず剣を抜くより先に、相手を見ることを——長い時間をかけて、体に叩き込んできた。恐怖に動かされた剣は、間違いを犯す。儂はその間違いで、大切なものを失ったことがある。」

 

 老騎士の眼が、ガランをまっすぐに捉えた。

 

「お主の眼は、殺意を持っていない。仲間がいる。子供もいる。そして——この街道を、旅している。それだけで、儂には剣を抜く理由がなかった。驚愕より先に、状況が目に入った。……ただ、それだけのことだ。」

 

 ガランは、しばらくヒエンを見ていた。その眼の奥を、また静かに読んでいた。

 

「……しかし。」

 

 ガランが続けた。その声は、問い詰めるというよりも、確かめるような静けさだった。

 

「それだけではないじゃろう。お主、儂を見た瞬間に何か思い当たったような顔をしておった。経験と胆力だけで、あの一瞬の反応は説明できん。何か、知っておることがあるはずじゃ。」

 

 ヒエンの眼が、また微かに揺れた。

 老騎士は、ゆっくりと白馬の手綱を握り直した。何かを決めるような、あるいは何かを認めるような、そういう間だった。周囲の木々が風に揺れ、朝の光が街道に斜めに差し込んでいた。

 

「……王都に仕える身として、耳に入る話がある。」

 

 低く、慎重な声だった。

 

「近頃、各地で不審な動きがある。正体不明の力が人を操り、民を苦しめ、王を傀儡にしているという噂が、一つ二つではなく、複数の方角から届いている。互いに関係のない場所で、似たような事態が起きている。……その力の出所について、儂なりに調べていた。」

 

 ヒエンは一拍置いた。

 

「行き着いた先は、三千年前の聖戦に関わる何かだった。詳細はわからん。証拠もない。しかし、あの戦争が完全には終わっていないという感触だけは——確かにあった。だから儂は、その正体を探していた。そしてその最中に、魔人族が目の前に現れた。」

 

 老騎士は、ガランを見た。

 

「驚愕と同時に、妙な納得があった。これは、その延長線上にある何かだと。繋がっているという確信があった。だから剣を抜かなかった。剣を抜くより先に、話を聞くべきだと思った。……それが、儂の答えだ。」

 

 沈黙が、しばらく続いた。

 アンが、ガランの肩の上で小さく呟いた。

 

「……なんか、すごい人だね。」

 

 スプレッドが静かに鼻を鳴らした。マキシリアが腕を組んだまま、わずかに表情を和らげた。ゴウセルが穏やかに頷いた。

 ガランは、ゆっくりと双刃槍を肩に担ぎ直した。

 

「……なるほどのう。」

 

 その声には、先ほどまでの鋭さはなかった。代わりに、どこか得心のいったような、静かな重みがあった。問い詰めた結果として返ってきたものが、確かな実質を持っていた。それで十分だった。

 

「ところでヒエンという者よ。儂らがここに来たのは、実はこちらにも用があってのことじゃ。」

「ほう。」

「その前に——暴悪獣とやらを探しに来た、と言うておったな。」

 

 ヒエンの眼が、鋭くなった。

 

「……知っているのか。」

「ああ。」

 

 ガランは気安く言った。

 

「昨日の夕暮れ、森の縁で会うた。」

 

 今度こそ、ヒエンの表情が動いた。

 

「……会うた、と言ったか。」

「追い払った、と言う方が正確かもしれんが。」

 

 ガランは簡潔に説明した。道中で遭遇したこと、戦いには至らず追い払ったこと、獣が怯えていたように見えたこと、去った方角のこと。ヒエンはその間、一言も口を挟まず、じっと聞いていた。老練な者特有の、情報を余さず受け取ろうとする聞き方だった。

 説明が終わると、ヒエンはしばらく沈黙した。白馬が静かに息を吐いた。街道の先で、小鳥が鳴いた。

 

「……なるほど。」

 

 ヒエンは低く呟いた。その声には、安堵と、新たな疑問が混じり合っていた。

 

「この一帯に出没しているという報告が、数日前から上がっていた。目撃した者は皆、言葉を失うほどの巨体だったと言う。近郊の村が二つ、その咆哮だけで家屋に亀裂が入った。……それゆえ、儂が直々に出向いた次第よ。」

「そうだったの?」

「あぁ……しかしそれならば、暴悪獣そのものよりも、それを追っていた何かの方が、問題かもしれん。」

「儂もそう思うておった。」

 

 ガランが静かに言った。

 老騎士は、ゆっくりと白馬の向きを変えた。来た方角へ。王都への道へ。その動作には迷いがなかった。

 

「ついてきてもらえるか。我が王都へ案内しよう。話は、道々でも続けられる。お主たちが持っている情報と、儂が持っている情報——合わせれば、何かが見えてくるかもしれん。」

「……急な話じゃな。」

「急かもしれん。しかし、お主たちのことを知った上で、見知らぬ旅人として見送るのは——儂の流儀ではない。」

 

 ガランは一拍置いて、仲間たちを見た。スプレッドが肩をすくめた。ゴウセルが頷いた。マキシリアが「悪くない」と言った。アンが「行こう行こう」と言った。

 

「……まあ、光点もそちらの方角じゃしな。」

 

 ガランは双刃槍を肩に担ぎ直した。

 

「案内を頼もうか、ヒエン殿。」

 

 白馬が歩み出した。重い蹄の音が、朝の街道に規則正しく響く。その後を、五つの影が続いた。

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 場面は、遠く離れた別の王都へと移る。

 空は重く、雲が低かった。

 その王都に、陽光が差し込んだ記憶を持つ民は、もはや多くなかった。かつて賑わいを見せた大通りは、今や崩れかけた家屋の瓦礫が散乱し、まともに立っている建物の方が少ない有様だった。石畳は割れ、水路は淀み、かつて市が立っていた広場には、草一本生えていなかった。空気そのものが、淀んでいた。希望というものが、この王都の空気の中からすっかり抜け落ちていた。

 

 民は、疲弊していた。

 

 その疲弊は、飢えからだけではなかった。住む場所を失った者が、崩れた壁を背にして夜を過ごしていた。幼子を抱えた母親が、雨露を凌ぐ軒先を求めて街を彷徨っていた。老いた者が、瓦礫の上に座り込んで虚空を見つめていた。

 そして——広場の中央では、騎士たちが民を整列させ、剣の素振りを強制させていた。

 老いた者も、若い者も、女も、例外はなかった。折れた腕を庇いながら素振りを続ける者がいた。足を引きずりながら号令に従う者がいた。泣き顔のまま剣を握る子供がいた。

 

「もっと腰を入れろ。その体たらくで、何が守れる。」

 

 騎士の怒声が飛ぶ。民は黙って従った。逆らう者は、いなかった。逆らえる者が、いなかった。この王都において、逆らうということが何を意味するかを、皆が知っていたからだ。

 

 その光景を、巨大な城の最上階から見下ろす者がいた。

 窓枠に片手を添え、ガラス越しに広場を眺めるその人物は——一見して、この荒廃した王都とはおよそ不釣り合いな存在だった。

 

 

 クオトラ。

 

 

 すべてにおいて完璧と形容するしかない女性だった。黒髪は一筋の乱れもなく整えられ、纏う衣装は深紅と黒の刺繍が施された豪奢なものだった。面立ちは整いすぎているほどに整い、その双眸は暗い室内でも光を宿しているように見えた。しかし美しさの奥底に、温かみというものが一切存在しなかった。彫刻が美しいのと同じ意味で、この女は美しかった。そこに人の息吹はなかった。窓の外で民が苦しんでいても、その表情は微塵も動かなかった。それは無関心ですらなかった。関心を持つという概念そのものが、この女には存在しないように見えた。

 扉が、静かに開いた。

 一人の騎士が、部屋に入ってきた。膝をつき、頭を垂れ、声を絞り出した。

 

「……クオトラ様。ご報告がございます。」

「何。」

 

 クオトラは窓から視線を外さなかった。その声は平坦で、報告を聞く前から、その内容に興味がないことを示していた。

 

「あの男が、再びやってまいりました。」

 

 沈黙が落ちた。

 クオトラの指先が、窓枠をゆっくりと、一度だけ叩いた。それだけだった。感情を示すものが、他に何もなかった。

 

「あら、そう。」

 

 その声は、静かだった。驚きも、動揺も、喜びも、怒りも——何一つ含まれていなかった。ただ事実を受け取っただけの、それだけの声だった。春の雨が降ったと告げられた時と、同じ声音だった。

 騎士は、次の言葉を待った。しかしクオトラは、それ以上何も言わなかった。ただ再び窓の外へと視線を戻し、広場で剣を振らされている民たちを、静かに見下ろし続けていた。

 騎士は、頭を垂れたまま、息を殺していた。

 室内に、沈黙だけが満ちていた。

 窓の外では、号令の声と、素振りの音が、規則正しく繰り返されていた。

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