「真実」の歩み   作:ライダー☆

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第二十五話 扉が開く

 扉が、また静かに開いた。

 今度は騎士ではなかった。

 入ってきた人物は、クオトラと同じ空気を纏っていた。しかし、その纏い方が違った。クオトラの冷たさが彫刻のそれであるとすれば、この者の冷たさは——深海のそれだった。見えない。底がない。触れれば壊れるのではなく、触れた側が溶けて消えるような、そういう種類の冷たさだった。

 

「やぁ。」

 

 男の声だった。

 

 背が高く、白衣を纏っていた。白衣というよりも、白い闇と呼んだ方が近かった。光を反射するはずの白が、この男が纏うと、むしろ周囲の光を吸い込むように見えた。年齢は判然としなかった。若くも見えたし、古くも見えた。時を超えた曖昧さがその顔に張りついていた。人が数十年をかけて刻む表情の変化が、この男の顔には存在しなかった。それが却って、見る者の本能に何かを警告した。

 彼は、女神族、〈十六の光〉の一人であった。

 

「ロームから、何も届いていないな。」

 

 問いかけというよりも、確認だった。答えを知った上で、口に出しただけの声だった。

 

「ヨナという小さな街で、消えた。」

 

 クオトラは窓から視線を外さないまま言った。広場の民たちが、まだ剣を振っていた。その光景を眺めながら、仲間の死を伝えるその声音は、降り続ける雨を告げるのと何ら変わらなかった。

 

「消えた、か。」

 

 男は特に驚いた様子もなく、室内の椅子へと歩み寄った。座りはしなかった。ただ椅子の背に手を添え、窓の外を眺めた。ロームが死んだという事実は、この男の中で既に処理され、整理され、次の思考の材料として組み込まれていた。悼むという概念が、この男には存在しないようだった。

 

「ロームらしい最期だ。あれはいつも、自分が囮だということを最後まで気づかない。」

「あなたが、そう作ったのでしょう。」

「あぁ、そう作った。」

 

 男は、あっさりと認めた。否定するつもりも、弁明するつもりも、微塵もなかった。事実として口にしただけだった。ロームという存在が、最初から囮として設計されていたこと。その死が、計画の誤差の範囲内であったこと。それらすべてが、その四文字に凝縮されていた。

 沈黙が、また落ちた。

 騎士は、二人の会話の中で息をするのも忘れていた。この部屋の空気が、自分が存在していいものか確信が持てなかった。しかし動けなかった。動くことで、この二人の何かに触れてしまうことが、本能的に怖かった。

 

「それで。」

 

 クオトラが、ようやく窓から視線を外した。男を見た。その双眸が、室内の暗さの中で静かに光った。感情ではなく、計算の光だった。

 

「倒したのは何者。」

「さあ。」

 

 男は肩をすくめた。そういう仕草をする者に見えなかったが、した。その仕草だけが、この男の中にかろうじて残る人間的な名残のように見えた。

 

「ロームが相手取れなかった何かだ。支配権を持ちながら、聖櫃まで使って、それでも届かなかった。この大陸に、そんなものがいたとは思っていなかった。」

 

 男は、窓の外へと視線を向けた。

 

「少し、愉快だ。」

「愉快。」

「そう。愉快だ。」

 

 男の唇が、わずかに動いた。微笑みと呼ぶには温度が足りなかったが、形だけは微笑みに近かった。三千年を生きて、なお予想外のものと出会えるという、静かな驚きのようなものがそこにあった。感情ではなく、知的な反応だった。

 

「ならば。」

 

 クオトラは再び窓の外へと視線を戻した。広場の民たちが、まだ剣を振っていた。号令の声が、ガラス越しに薄く聞こえた。一定のリズム。一定の速度。設計された通りに動く歯車のように。

 

「ここへ来る可能性がある。」

「あるかもしれない。ない、かもしれない。」

「どちらでも構わない。」

 

 クオトラは、静かに言った。その声には、どちらの可能性に対しても等しく準備が整っているという確信があった。来ることへの恐れも、来ないことへの安堵も、どちらも存在しなかった。

 

「来るなら——来ればいい。」

 

 窓枠に添えた指先が、もう一度だけ、ゆっくりと叩いた。一度。それだけだった。しかしその一動作が、言葉以上の重みを持っていた。

 

「この王都は、すでに出来上がっている。」

 

 広場を見下ろす目が、何も映していなかった。民の苦しみも、剣の素振りも、崩れた家屋も——何も。ただ、完成した設計図を最後に確認するように、静かに、淡々と眺めていた。誤差を探しているのかもしれなかった。しかし誤差は、見当たらないようだった。

 男は何も答えなかった。

 ただ白衣の裾を翻し、来た時と同じ静けさで、扉へと歩いていった。その足音は、厚い石の床の上でも、ほとんど音を立てなかった。まるで最初からそこにいなかったかのような、そういう去り方だった。

 

「………「化け物」の件は。」

 

 クオトラが、背中に向けて言った。

 

「適当にやっておく。」

 

 男は振り返らなかった。扉が、静かに閉まった。

 閉まった扉は、何も変えなかった。空気も、静寂も、窓の外の景色も、何一つ変わらなかった。ただ部屋に残ったのは、クオトラと、頭を垂れた騎士と、重い沈黙だけだった。

 クオトラは騎士のことを、すでに忘れているようだった。

 いや——最初から、存在を認識していなかったのかもしれなかった。

 

「下がれ。」

 

 声だけが、降ってきた。感情のない声だった。命令というよりも、機械が出力する指示に近かった。

 騎士は音を立てずに立ち上がり、足音を消して退室した。扉が閉まると同時に、部屋には静寂だけが残った。

 クオトラは、一人で窓の外を見続けた。

 広場の民たちが、日が傾くまで剣を振り続けていた。号令の声は、夕暮れの空に薄く溶けていった。それを眺めるクオトラの表情は、最初から最後まで、一度も動かなかった。

 

 

 

 

 

────

 

 

 

 

 

 ヒエンの白馬が、王都の城門をくぐった。

 ガランたちが最初に感じたのは、空気の違いだった。

 ヨナとは違う。荒廃した王都とも違う。この王都の空気は——緊張していた。圧迫されているのではなく、張り詰めているのだった。弦を張り切った弓のように、どこもかしこもが臨戦の気配を帯びていた。城壁の上の歩哨は数が多く、それぞれの間隔が計算されていた。城門脇の衛兵は眼光が鋭く、手が常に剣の柄の近くにあった。すれ違う騎士たちは例外なく背筋が真っ直ぐで、視線が定まっていた。訓練された緊張と、本物の緊張が、この王都の空気の中で複雑に絡み合っていた。

 

「……厳しい街じゃな。」

 

 ガランが低く言った。見物するような声ではなかった。測るような声だった。

 

「昔から、軍の王都だからな。ここはそういう場所だ。」

 

 ヒエンは前を向いたまま答えた。

 

「ここ数日、特に張り詰めている。理由はある。道すがら話す、と言ったが——先に見てもらった方が早いかもしれん。」

「見せたいものがあるか。」

「ある。」

 

 ヒエンは、馬の歩みを緩めなかった。

 城門をくぐった衛兵たちの視線が、ガランの一行に刺さった。ガランという存在が視界に入った瞬間、複数の衛兵の手が、反射的に剣の柄へと伸びた。三人、四人——しかしヒエンが一度だけ手を上げると、その動きが静止した。言葉はなかった。命令もなかった。ただヒエンという存在の重さが、それだけで言葉の代わりをしていた。長年かけて積み上げてきたものの重さだった。

 

「人望があるのじゃな。」

「年功じゃ。」

 

 ヒエンは短く言った。謙遜でもなく、自嘲でもなく、ただ事実として言った。それが却って、この老騎士の長さを物語っていた。

 アンが、ガランの肩の上からきょろきょろと周囲を見回した。通りを歩く人々も、店先に立つ商人も、荷を運ぶ者も、皆がどこかしら強張った顔をしていた。笑っている者が、ほとんどいなかった。ヨナでは、すれ違う人々が自然と笑みを持っていた。その記憶と、目の前の光景を比べると——何かが、根本的に違った。

 

「……みんな、怖い顔してる。」

 

 アンが小声でガランに言った。

 

「そうじゃな。」

 

 ガランも、小声で返した。その声には、ただ同意する以上の何かが滲んでいた。

 ヒエンが馬を止めたのは、大通りの外れにある、古びた建物の前だった。兵舎でも宿舎でもなく、作りからすれば倉庫に近かった。外壁は年季が入り、看板の類は一切なかった。しかし扉に刻まれた紋様が、その建物を何か別のものとして示していた。古い紋様だった。この王都が今の姿になる以前から、ここにあったことを示す種類の古さだった。

 ヒエンは馬を下り、手綱を柱に結んだ。扉の前に立ち、振り返った。

 

「入ってくれ。ただし——」

 

 一拍置いた。

 

「驚いても、剣は抜くな。」

 

 マキシリアが眉を上げた。スプレッドが静かに眼を細めた。ゴウセルが首をかしげた。アンが「え、何があるの」と言った。

 ガランは何も言わず、ただ頷いた。

 扉が、開いた。

 中は薄暗かった。窓が少なく、差し込む光は細い。外の空気とは明らかに異なる、重く淀んだ気配が鼻をついた。埃ではなかった。もっと別の何かだった。言葉にするなら——生と死の間にある場所特有の、あの重さだった。

 しかし目が慣れると——床に、人が横たわっているのが見えた。

 一人ではなかった。

 三人、四人、五人——それ以上。奥の方まで、続いていた。皆が同じ向きに、整然と並べられていた。毛布が掛けられ、それぞれの傍らに水と僅かな食料が置かれていた。誰かが丁寧に世話をしている証拠だった。

 眠っているのではなかった。

 眠りには、穏やかさがある。この人々の顔には、それがなかった。かといって苦しんでいるわけでもなかった。ただ——空だった。何も映さない水面のように、その表情は空だった。

 

「……これは。」

 

 マキシリアが、低く呟いた。

 ゴウセルが、静かに歩み寄った。一人の傍らに膝をつき、顔を覗き込んだ。老いた男だった。白髪が几帳面に整えられており、着衣も誰かに整えてもらった跡があった。呼吸はある。脈もある。外傷は、ない。しかし目が開かなかった。名を呼んでも、肩に触れても、何も反応しなかった。どこにもいないようだった。体だけがここにあり、その主は別の場所に——あるいは、どこにも——行ってしまったようだった。

 

「魔力の痕跡が……ある。」

 

 ゴウセルが静かに言った。その声は平静を保っていたが、眉がわずかに寄っていた。

 

「ヨナの街で戦った…奴らのものじゃない。もっと精緻な、もっと深い介入の跡だ。これは——」

 

 ゴウセルは一拍置いた。

 

「記憶を、抜かれている。」

 

 室内の空気が、変わった。

 スプレッドの目が鋭くなった。マキシリアが拳を握った。アンがガランの鎧に近づいた。

 ヒエンは扉の傍らに立ったまま、その言葉を聞いていた。表情は動かなかった。すでに知っていた者の顔だった。しかしその目の奥に、長く抱えてきた怒りが、岩のように、音もなく、沈んでいた。

 

「この王都で、三十二人。この状態になった者の数じゃ。」

 

 ヒエンの声は、静かだった。しかしその静けさは、感情がないからではなかった。感情が多すぎて、表に出すことを諦めた者の静けさだった。

 

「最初の一人が出たのは、ひと月前。以来、じわじわと増え続けている。全員が、何も語らぬまま倒れた。前触れもなく、突然に。家族が気づいた時には、もうこの状態だったという。最初はどうにかならぬかと試したが、どうにも、この状態から治りはしなかった………」

 

 老騎士は、横たわる人々の顔を一瞬だけ見た。すぐに視線を外した。慣れることができないものを、それでも何度も見てきた者の目だった。

 

「共通点は——皆、この王都の外れで暮らしていた者だ。城に近い場所の者は、まだ一人も出ていない。端から——静かに、確実に、侵食されている。」

「外れ、か。」

 

 ガランが低く繰り返した。その声の奥で、何かを考えていた。城から遠い者が先に狙われる。それは偶然ではない。守りの薄い場所から、気づかれないように食い荒らしていく——それは、ヨナで見た手口と同じ匂いがした。

 

「これが、儂が探していた正体だ。そしてこれが、女神族の仕業だというなら——」

 

 老騎士の目が、ガランを見た。長い年月をかけて磨かれた目だった。諦めを知らない目だった。

 

「お主たちが知っていることを、聞かせてもらいたい。儂が長い時間をかけて集めてきた欠片が、お主たちの持つ何かと繋がるかもしれない。」

 

 ガランは、しばらく横たわる人々を見ていた。一人一人の顔を、ゆっくりと見た。老いた者、若い者、女、男。その全員が、同じ静けさの中に沈んでいた。記憶を抜かれた人間は、こういう顔をするのか——ガランはその事実を、ただ静かに、しかし確かに、胸の中に刻んだ。

 それから、ヒエンへと向き直った。

 

「……話そう。」

 

 低く、静かに言った。

 

「儂たちが見てきたことを、すべて。お主が集めてきた欠片と合わせれば、形が見えてくるかもしれん。」

 

 ヒエンは、小さく頷いた。その目に、初めて何かが宿った。怒りでも安堵でもなく——同じ方向を向いた者同士が初めて顔を合わせた時の、静かな、しかし確かな光だった。

 外で、風が鳴った。細い窓から差し込む光が、揺れた。横たわる人々の顔の上を、静かに通り過ぎていった。その光は、答えを持っていなかった。ただ、等しく降り注いだ。

 生きている者にも、記憶を失った者にも、同じように。

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