扉が開いた瞬間、血の匂いが鼻をついた。
医療室、とヒエンが呼んだその部屋は、実際には医療室と呼べるようなものではなかった。石造りの狭い部屋に、石でできた寝床が一つ。壁際に薬棚があったが、その半分は空だった。かつてここで働いていた者たちが、もう二度と戻らないことを、その空の棚が静かに物語っていた。
アンは、その石の寝床に横たえられていた。
顔が、白かった。血の気という言葉があるが、その言葉の意味を、これほど生々しく理解したことはなかった。唇の色が薄れ、頬から赤みが引き、まるで石の寝床の色に、体そのものが同化していくようだった。腹に巻かれた布は、すでに赤く染まっていた。滲むというよりも、染み出すという方が近かった。布を替えても、替えても、その下から新しい赤が湧き出てきた。
マキシリアが施した処置は、確かに効いていた。「元素」の力を応用し、傷口周辺の時間の流れをわずかに遅らせる——そういう類のものだと、本人は言っていた。しかしそれは、あくまで「遅らせる」だけだった。止める力ではなかった。堰き止められた水が、それでも少しずつ漏れ続けるように、血は止まらなかった。ゆっくりと、しかし確実に、アンの体から命が流れ出ていた。
「……このままでは。」
バルドが、低く言った。その声には、戦場で数えきれないほどの死を見てきた者だけが持つ、乾いた重さがあった。
「出血死する。あと、そう長くはもたない。」
ヒエンは、何も言わなかった。アンの顔を、じっと見ていた。
部屋の外では、ガランたちが動いていた。ゴウセルの「
残されたのは、ヒエンとバルド、そして石の寝床の上で薄れていく命だけだった。
「医者は――」
ヒエンが、ようやく口を開いた。短い問いだった。しかしその短さの中に、すでに答えを知っている者の諦めが滲んでいた。
「…いない。」
バルドは、そう答えるしかなかった。
「この王都に、医者と呼べる者はもういない。記憶を抜かれた三十二人——あの中に、この街の医者のほとんどが含まれていた。もしかしたら、腕のいい者から順に、狙われたのかもしれん…。生きてはいる。しかし、廃人だ。もう、針一本まともに持てない体に……」
ヒエンは、目を閉じた。
「私たちは、戦うことしか知らん。」
バルドが続けた。その声に、初めて苛立ちに似た何かが混じった。それは怒りではなかった。無力さだった。この巨躯を持つ男が、これほどまでに何もできないという事実に、自分自身が耐えられないという、そういう声だった。
「剣なら、いくらでも振れる。しかし——これは、剣で解決できるものではない。」
血は、止まらなかった。
布を替える度に、赤が増していくように見えた。錯覚かもしれなかった。しかし錯覚だとしても、その錯覚を否定できるだけの現実が、どこにもなかった。アンの呼吸は浅く、速かった。まるで体そのものが、残り少ない時間を悟って、急いでいるかのようだった。
ヒエンは、その呼吸を見つめていた。
長い沈黙があった。
その沈黙の中で、ヒエンの中で何かが動いていた。バルドには、それが見えなかった。しかし感じ取ることはできた。長年、この老騎士の傍にいた者にしかわからない、あの空気の変化だった。ヒエンが何かを決める時、いつもこうだった。声を荒げることもなく、表情を大きく変えることもなく、ただ静かに、内側で結論が固まっていく。そういう男だった。
「バルドよ。」
ヒエンが言った。
「彼女の血液型を、調べてきてほしい。」
バルドは、一瞬、その言葉の意味を掴みかねた。
「……血液型? 何のために——」
「いいから、調べてきてくれ。」
ヒエンの声には、有無を言わさぬ響きがあった。長年、この声に従ってきたバルドは、それ以上問うことをやめた。頷き、部屋を出ていった。大きな体が、狭い扉を窮屈そうにくぐっていった。
一人になった部屋の中で、ヒエンはアンの傍に膝をついた。
小刀を取り出した。
自分の手のひらに、それを当てた。躊躇いは、なかった。長年の戦場が、この老騎士から躊躇いというものを、とうの昔に削ぎ落としていた。
刃が、皮膚を割いた。
赤い雫が、静かに盛り上がった。
ヒエンは、その雫を見つめた。それから、アンの青白い顔を見た。記憶がないと、この少女は言っていた。どこで生まれたかも、誰に育てられたかも、何一つ覚えていないと。それでも、この少女は笑っていた。ガランの好きそうなものを探すのだと言って、軽やかな足取りで市場へと向かっていった。その背中を、ヒエンは覚えていた。
——これでしか、彼女を救えない。
ヒエンは、そう思っていた。
自分の魔力でしか……
*****
空気が、悲鳴を上げていた。
いや、悲鳴を上げていたのは空気ではなく、その空気を切り裂きながら駆ける、四つの影の方だったのかもしれない。
街道の両脇に並ぶ木々が、瞬きの間に後方へと過ぎ去っていく。土を蹴る音は、もはや音として耳に届かなかった。踏み込むたびに生まれる音を、次の一歩がすぐに追い越していった。
音速を、とうに超えていた。
先頭を走るのは、ガランだった。その巨躯が地を蹴るたび、大地そのものが軋むような重い震動が伝わってくる。ゴウセルは、その隣を滑るように追走していた。小さな体のどこにこれほどの力が眠っているのか——それを気にする余裕は、誰にもなかった。マキシリアの足取りは、他の誰よりも軽やかだった。まるで風そのものが、彼の歩みを後押ししているようだった。最後尾を、スプレッドが黙って締めていた。その視線は、前方の一点から動かなかった。
誰も、しばらく口を開かなかった。この速さの中で声を出すのは、容易なことではなかった。
それでも、沈黙を破ったのは、スプレッドだった。
「ゴウセル。」
「なに。」
「気になった。…クオトラってのは、どういう街なんだ。」
ゴウセルは、視線を前に向けたまま、少しだけ黙った。
「僕も、詳しくは知らない。バルドさんから聞いた話が、ほとんどだよ。」
少し間を置いてから、続けた。
「クオトラは、ラグナと同じくらい古い王都…というより——元々は、一つの国だったらしい。何代か前、王位の継承を巡って割れた。それぞれが別の王を立てて、二つの国になった。それが、ラグナとクオトラ。」
「兄弟国、ってわけか。」
「そう言えなくもない。でも、仲のいい兄弟じゃなかったみたいだね。何度か、小競り合いもあったらしい。ここ数十年は、表向きは落ち着いていたようだけど。」
ゴウセルは、そこで一度、言葉を切った。
「問題は、その先だ。半年前——クオトラからの使者も、商隊も、一切来なくなった。手紙すら途絶えた。ラグナ側も、何度か人をやったらしい。でも、戻ってきた者は、一人もいない。」
「戻った者が、いない。」
「うん。だから、誰も中がどうなっているか知らない。噂だけが、独り歩きしていた。」
「……なるほどのう。」
ガランが、前を見据えたまま言った。
「儂たちは今、誰も戻らなかった場所に向かっておる、というわけか。」
「そうなるね。」
ゴウセルは、あっさりと頷いた。その声に、恐れの色はなかった。
「でも、確かめないと。あの剣の紋章が、本当にここのものなら——王子のことも、アンを刺した誰かのことも、ここに何かがあるはずだ。」
その言葉に、誰も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、四人の速度が、わずかに——ほんのわずかに、上がった。
そして——それが、見えた。
クオトラだった。
空は、重かった。雲が低く垂れ込め、太陽の位置さえ判然としなかった。ラグナの空も曇っていたが、これは何か、違う種類の重さだった。まるで空そのものが、この王都の上にだけ、意図して蓋をしているかのようだった。
この王都の民の中に、陽光が降り注いだ記憶を持つ者は、もう多くはないのかもしれない。
城壁が近づくにつれ、その考えは確信に変わっていった。
城壁は、崩れていた。完全にではない。しかし、あちこちが大きく欠けていた。崩れ落ちた石が、そのまま放置されていた。積み直そうとした形跡すら、なかった。城門は半ば崩れ、道を塞ぐことすらできていなかった。
四人は、速度を落とした。走ることをやめ、あえて、歩いた。この先に広がる光景を、目に焼き付けるように。
かつては賑わっていたのだろう大通りに、崩れかけた家屋の瓦礫が、そこかしこに散らばっていた。まともに立っている建物より、傾いた建物や、半壊した建物の方が多かった。窓という窓に、明かりはなかった。人の気配は、あるにはあったが、ひどく薄かった。
石畳は、割れていた。踏むたびに、かすかに沈んだ。
脇を流れる水路は、淀んでいた。動いているはずの水が、止まっているようにしか見えなかった。緑がかった膜が、水面を覆っていた。
かつて市が立っていたのだろう広場には、草の一本すら生えていなかった。土がむき出しになり、乾いて、ひび割れていた。
空気そのものが、淀んでいた。
息を吸うたびに、肺の奥に重いものが溜まっていくような感覚があった。
希望というものが、この王都の空気の中から、すっかり抜け落ちていた。
城が、見えてきた。
外壁の崩壊とは対照的に、その城だけは、まだかろうじて形を保っていた。
その城門の前に——人だかりがあった。
最初は、出迎えかと思った。あるいは、追い返そうとする衛兵の一団か、と。
しかし、近づくにつれて、その考えは崩れていった。
数十——いや、優に百は超えているだろう。鎧を纏った騎士、農具を握りしめただけの民、老いた者、まだ幼さの残る者。城門の前に、雑多な人々が、武器という武器を手にして、押し黙ったまま並んでいた。
異様だったのは、その数ではなかった。
痩せていた。
誰も彼もが、痩せこけていた。鎧の下の体は骨と皮ばかりに痩せ細り、頬はこけ、目は落ち窪んでいた。まるで、何かに——命そのものを、少しずつ吸い取られ続けてきたかのようだった。
そして、覇気がなかった。
本来、武器を構えた者からは、何かしらの気配が滲み出るものだ。恐怖であれ、闘志であれ、殺意であれ——何かがある。しかし、目の前の集団から、それは感じられなかった。ただ、虚ろだった。眼が、どこも見ていないように見えた。
それでいて——彼らは、動いた。
一斉に。
まるで一つの意志に操られているかのように、その全員が同時に武器を振り上げ、四人へと向かって駆け出した。足取りに、力はなかった。それでも、止まらなかった。
真っ先に動いたのは、ガランではなかった。
ゴウセルだった。
小さな体が、前へと出た。両手が、静かに持ち上がる。その指先に、色のない、淡い光が灯った。
「ゴウセル!?」
「大丈夫。誰も、殺さない。」
その声と共に、迫りくる群衆の意識の中へ、ゴウセルの力——「侵入」が、静かに入り込んでいった。
最前列にいた騎士の足が、もつれた。剣を振り上げたまま、その動きが止まる。目に浮かんでいた虚ろな光が、一瞬だけ、別のものに置き換わった。困惑だった。自分が今、何をしようとしていたのか、わからなくなったような、そういう顔だった。
「
次々と、人々の動きが乱れていった。剣を振り上げたまま立ち尽くす者。武器を取り落とす者。その場に座り込み、呆然と自分の手を見つめる者。誰も、傷ついてはいなかった。ただ、記憶の中の「今」だけが、静かに書き換えられていった。
それでも、全員の足を同時に止めることはできなかった。
数人が、なおも剣を振りかざしたまま、四人に迫った。
ガランが、片手だけを軽く振った。
それだけで、剣を握っていた騎士の体が、宙を舞った。殺してはいなかった。峰打ちですらなかった。ただ、押しのけただけだった。それでも、人の力では抗いようのない一撃だった。騎士は地面に転がり、そのまま動かなくなった。気を失っただけだった。
マキシリアが、足元の土を軽く踏んだ。地面がわずかに盛り上がり、迫っていた数人の足を絡めとった。転んだ者たちは、そのまま起き上がれなかった。
スプレッドは、何も言わず、ただ道を切り開くように前へと進んだ。その動きに、無駄が一つもなかった。
数十秒——あるいは、それより短かったかもしれない。
気づけば、道が開いていた。
城門の前を埋めていた人だかりは、もはや、四人の行く手を阻むものではなくなっていた。
誰も、死んでいなかった。
それだけが、確かなことだった。
四人は、その間を静かに進んだ。
誰も、振り返らなかった。振り返る必要が、なかった。
崩れた城門をくぐり、城の敷地へと足を踏み入れる。石造りの城は、外の街並みと同じく、あちこちが傷んでいた。しかし——崩れてはいなかった。かろうじて、その形を保っていた。まるで、この城だけが、最後まで何かに抗い続けているかのようだった。
その光景を、城の最上階から見つめる者がいた。
玉座の間、その窓辺に、ただ一人、立っていた。
豪奢な衣を纏いながら、その佇まいには、覇気と呼べるものが、まるで宿っていなかった。四人の姿を見下ろす眼は、氷のように冷たかった。感情という感情を、とうの昔に切り捨ててしまったかのような、そういう眼だった。
クオトラ。
この王都に、その名を冠する者は——ただ一人しかいなかった。
その冷酷な眼が、潤んでいた。
涙が、今にも零れ落ちそうなほど、双眸に満ちていた。それでも、頬を伝うことはなかった。堪えているのか、それとも——涙を流すという行為すら、とうに忘れてしまったのか。
クオトラは、ただ、四人が城内へと進んでいく様を、無言で見つめ続けていた。