「真実」の歩み   作:ライダー☆

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第三話 臨界突破

 妖精王の森──その天蓋にて

 

 空を裂くように、二つの光柱が突如として降臨した。

 白銀に煌めくその輝きは、まるで祝福のように見えながら、その実、祝福とは真逆の存在だった。内側からねじれ蠢く殺意と断罪の意志が、ただならぬ気配として周囲に溢れ出す。それはもはや"視る"ものではなく、"感じる"ものであった。骨の奥で、本能が警鐘を鳴らす。

 光は、瞬き一つのうちに人の形を成した。──それと同時に、空気の密度が変わる。無言のまま場を支配する威圧が、刃よりも鋭く、炎よりも熾烈に辺りを切り裂いた。戦の予兆ではない。これは、始まりそのものだ。

 先ほどデリエリによって打ち落とされたエリザベスの身体を、燦然たる聖光が包み込む。天より舞い降りた二柱の存在──すなわち、サリエルとタルミエル──がそれを為した。

 

「君たち、よくもエリザベス様に無礼を働いたね。怒られるのは僕たちなんだよ?」

「これで君たち、処刑確定ですねぇ〜。ま、そもそも魔神族は全員処刑対象ですけど〜?」

 

 一柱は少年のような華奢な姿にあどけなさを纏ったサリエル、もう一柱は三つの顔を備え、肉声が反響する奇怪なる姿のタルミエル。彼らは事の一部始終を高みから見下ろしていた。そして密かに賭けをしていたのだ。

 「十戒」がこの罠に落ちるか否か──タルミエルが賭けたのは「落ちる」、サリエルは「落ちぬ」に賭けた。

 

「賭けは私の勝ちですねぇ〜〜〜♪」

「それは無効だよ。僕が賭けたのは、"十戒"全員が揃ったときに、って条件つきだったからね」

「え〜〜〜っ!?そんなの聞いてなぁ〜〜いっ!!」

「ちゃんと言ったよ。君が聞いてなかっただけだもん。」

 

 ふたりは、あたかも遠足の行き先で揉める子供のような軽薄な調子で言い争っていた。だが、彼らの立つその空間には、幾万もの魔神の咆哮が鳴り響いている。にもかかわらず、〈四大天使〉たちは寸毫の緊張も見せず、笑いながら空中に漂っていた。それ自体が、一種の恐怖だった。余裕とは時に、暴力よりも相手を萎縮させる。

 

「女神族の冗談って、ほんっと、寒気がするくらい笑えないわ」

「ふん……〈四大天使〉が二柱か。これは、多少は楽しめるかもな」

 

 地上にうごめく魔神たちは、敵の軽口に歯噛みし、怒気を募らせる。だが、その怒りが何かを変えることはなかった。サリエルとタルミエルは、まるで酒宴の続きでも語るかのように、新たな賭けを持ちかけ合っていた。

 

「じゃあサリエル〜、次は"十戒"を倒すのにかかる時間で賭けましょ〜?」

「いいねぇ。じゃあ、僕は五分で。君は?」

「わたしは……十秒♡」

 

 片や右手を、片や左手を突き出す。その指先はまるで天地の糸を握りしめるように微かに曲がり、同時に、周囲の魔力が震え始める。気圧そのものが歪むほどの濃密な霊気──それは、言葉もなくして敵意を伝える殺気の結晶だった。

 その異様さを、誰よりも早く感じ取ったのはガランだった。

 死と隣り合わせの戦塵の中で生き抜いてきた本能が、声を上げた。あれは──あの手の形は、地獄の合図だ。

 記憶がフラッシュバックする。かつて戦場で見た、敵兵が静かに指を曲げたその瞬間、地面が爆ぜ、仲間たちの身体が熱と肉片に変わった。後に知った。それは起爆装置に繋がれたワイヤー、見えぬ糸が張られた地雷だった。あのときと同じだ。否、それ以上の"何か"が、今、空から降り注がんとしている。

 咄嗟に、彼は近くにいたメラスキュラの身体を乱暴に抱きかかえた。

 

「──全員、退避ッッ!!!!!!」

 

 声というより、咆哮だった。喉を裂くような叫びに、魔神たちは一瞬動揺したが、それは遅かった。

 メラスキュラは突然のことに言葉を失い、舌を噛み切ってしまった。傷を再生魔力で塞ぎながら、彼女の視界に飛び込んできたのは、極大の聖櫃だった。一つや二つではない。すべての魔神族を葬るために、何十個もが連なるように、連鎖反応を起こしながら展開している。過去に幾度も聖櫃を目にしてきたメラスキュラでさえ、これほどの規模は見たことがなかった。

 しかしそれを把握する間もなく、彼女は自分がガランの腕の中にいることに気がつく。嫌なのか、それとも本能的な拒絶なのか、彼女は体をブンブンと縦横に揺らし始めた。拘束から逃れようとするそれは、まるで血を吸われた蛇が痙攣するようで、あるいは檻の中で暴れる猛獣のようでもあった。

 

「落ち着けお前さん。」

「落ち着けるわけないでしょ! いきなり私を抱きかかえて……あぁーもう、舌が痛いってば!」

 

 舌の傷口からにじむ血を修復しながら、彼女は烈火のように怒鳴る。

 

「放しなさいよ。気持ち悪い……からっ!!!」

 

 メラスキュラは勢い任せにガランを突き放した。身体が自由になった瞬間、彼女は猫のように背を反らし、思い切り伸びをする。その姿は、絞首台の縄をすり抜けた死刑囚のように生への快哉を叫ぶかのようだった。

 だが、そんな彼女を見たガランは、呆れを滲ませた眼差しで顔をしかめる。

 

「お前さん、そんな悠長にしとる暇はないぞ?同数になったんじゃからな。」

 

 その言葉に、メラスキュラは肩越しにチラリと振り返り、嘲笑のこもった鼻息をひとつ。

 

 ──グシャ。

 

 空気が弾けた。破砕音が響いた。視界を穿つような閃光が弾け飛び、再び〈極大聖櫃(オメガアーク)〉が砕け散ったのだ。光に目を細めるガランを尻目に、メラスキュラはまたもや、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「……魔神たちの仇は、ガラン、あんたに任せたから。じゃあねぇ〜。」

 

 言い捨てるように言葉を残し、光の洪水がすべてを白く染め上げた。その奔流の中で、メラスキュラの姿は跡形もなく掻き消えていた。光が引いたとき、ガランは周囲を慌ただしく見回していた。

 

「どこへ行った……!?どこへ逃げたっ!!」

 

 焦燥にかき立てられたガランの叫びをよそに、天より舞い降りた二柱の〈四大天使〉は再び呑気な賭けごとの続きを始めていた。

 

「はいっ!五秒で私の勝ちねぇー!」

「残念。まだ二匹残ってるよ。あそこでキョロキョロしてる豚と、どこかへ飛んでいく豚。」

「んん? ねぇ、あの方向って……光の恩寵がある方角じゃなかったかしら?」

 

 その言葉に、サリエルの瞳に稲妻が走った。一拍の間もなく、彼は苛立ちを舌打ちで吐き出した。

 

「チッ……!」

 

 彼の両手が掲げられ、そこに渦巻くのは神風の胎動。旋風の魔力が、双手から怒涛のように渦を巻き、巻き上がる風圧が空間そのものを切り裂く。逃がすわけがない。みすみす獲物を取り逃がすなど、〈四大天使〉にとっては耐え難い失態だった。

 しかし、その瞬間──それを遮るように、別の声が戦場にこだました。

 

「残念。五匹だよ。」

 

 音ではない。戦場を震わせたのは、"真実"だった。

 彼らは魔神族を下等と見なしていた。人間に劣る蛆虫、憐れむ価値もない劣等種。極大聖櫃オメガアークを放てば、すべては灰燼と化す。そう信じて疑っていなかった。だが、

 モンスピートの炎が語るのは、「過信」という名の死。

 彼の魔力は、炎というよりも「熱そのもの」だった。揺らめく火柱が地を穿ち、空気を沸騰させ、次の瞬間には風すら燃える。彼の手のひらには、黒き炎が収束していた。まるで、太陽が産み落とした忌まわしき子──その火球が、地と空とを断罪する審判の槌へと変貌する。それは焼き払うのではない。「存在」を、この世から消し去る炎だった。

 ──戦場において、慢心は死と同義。

 今、その格言は真実となり、天使たちの幻想を焼き崩さんとしていた。

 

「"獄炎鳥"」

 

 その瞬間、炎の鳥が天空を舞い、サリエルを包み込んだ。羽ばたくたびに引き裂かれる空気、火柱が大地を焦がす。巨大な炎の鳥が、一瞬にしてサリエルを包む。その姿はまるで、深淵から放たれた神の使者が、魂そのものを火の矢で貫くかのようだった。

 

「サリエ……!」

 

 タルミエルの叫びが虚空に響く。

 だが、その隙を、デリエリは見逃さなかった。目を光らせ、一瞬の決断でタルミエルの顔面へと一撃を放つ。拳が顔に当たった瞬間、ゴムのように凹む感触が伝わった。しかし、その打撃が効いているようには見えなかった。彼の顔は、まるで蚊が触れたような軽い反応を見せ、何もなかったかのように微笑んだ。その笑みが、デリエリの拳を握る手に、さらなる力を込めさせた。

 

「2!!!」

「ぶごっ!?」

「3!4!5!6!7!8!」

 

 デリエリの声は、空気を裂くように響いた。タルミエルの顔は尋常ではないほどに凹み、彼はその場に崩れ落ちる。拳を喰らった直後、口から出るべきは言葉ではなく、無音の苦悶だった。デリエリはその表情を楽しむかのように、もう一度、拳を振り下ろした。

 それが何度目かの一撃だったろう。拳が放たれる度に、力、速度、重さが増していく。まるで嵐のように、次々と拳が降り注ぐ度に、タルミエルの顔はその場で変形していった。目の前で繰り広げられるのは、まさに暴力の狂詩曲だった。

 

「デリエリの「連撃星(コンボスター)」、攻撃を繰り返すたびに20万ポンドの重さが加算され、攻撃力も上昇する。……しっかし驚いたよ。〈四大天使〉が直々に、それも他の戦場を犠牲にしてまで我ら「十戒」を討ちに来るとは思わなんだ。だが……こっちとしても手間が省けて助かるよ。……で、ガラン。よく気づけたね。」

 

 モンスピートの声には、驚きと共に、その余裕が次第に欠けているのが聞いて取れた。彼の眼前で繰り広げられた戦局の変化に、表情がひどく歪んでいた。

 

「嫌な予感がしてのぉ。ああいうのは生前見たことがあってな。」

「生前、ねぇ……。今でもそこんところがよくわからないが、まぁ無事で良かった。メラスキュラは?」

「どっかいった。あの眩い光が発せられたと同時に……かのぉ。ようわからん。」

「なるほど。(……魔力は森から感じられる。奴のことだから変なことしてなけりゃいいが……)」

 

 モンスピートの声に不安が滲む。その視線が一瞬、森の奥へと向けられる。しかし、その刹那――

 

「あっはは。驚いたなぁ。どうやって僕らの極大聖櫃(オメガアーク)から脱出したのぉ?」

 

 目に映るのは、獄炎の中から一筋の影が立ち上がる瞬間だった。炎の中で、サリエルはまるで何事もなかったかのように悠々と立ち上がり、その姿に余裕すら漂わせていた。炎が彼の周りで舞い上がるも、それはまるで彼の体を撫でる風のように感じられる。

 

「獄炎が……届いていない?」

 

 その問いが空気を切り裂く。

 モンスピートの声が洩れたその瞬間、デリエリは目の前で繰り広げられる戦局にすべてを注いでいた。彼女が放つ連撃が加速度的に加わり、その一撃一撃がタルミエルの顔を無惨に破壊していく。しかし、それでも彼は倒れることなく、まるで生き物のように反応を示していた。肉体そのものが、どこまでも弾力を持つかのように、次々と殴打を弾き返す。

 

「むぅん!!」

 

 一瞬にして、タルミエルはその身に強大な反発力を蓄え、デリエリの連撃を打破した。その力は、まるで雷鳴の如く轟き、デリエリの拳が空を切る。コンボが途切れ、その威力は急激に失われていった。

 

「まぁ〜〜ったく、そんなんじゃ飽きちゃいますよぉ〜〜〜。」

 

 タルミエルは軽く微笑みながら、彼女の前に立つ。どこまでも余裕が漂い、その声にはどこか嘲笑が含まれていた。デリエリは一瞬、立ち止まり、今までの戦い方が無駄であることを痛感する。

 だが、そんな彼女の目の前で、突如として激しい音と共に、眩い光が放たれた。タルミエルが新たな聖櫃を発動したのだ。

 

「聖櫃。さっきのレベルとは程遠いけど、それでもあなたに大怪我を与えるぐらいは簡単にできちゃうのよ〜〜〜?」

「うぐっ……!」

 

 逃げる間もなく、デリエリはすぐにその攻撃に直面していた。すべてが遅すぎた。構えたその体勢は、もう修正が効かないところにまで来ていた。彼女の体は完全に捕らえられ、そして……

 

「じゃあねぇ〜〜〜〜♫」

 

 デリエリは思わず目をつぶった。彼女の心臓が、締め付けられるような恐怖を感じたその瞬間。

 

 ドッ。

 

 鈍い音が響いた。目を開けたデリエリが見たのは、ガランの双頭槍の斧刃によって一刀両断にされたタルミエルの姿だった。まるで木を切り倒すかのような一撃が、その身を真っ二つに分け、タルミエルの不意を突いた。

 それは衝動と直感の産物だった。モンスピートの言葉――「お前は強い」――その響きは心に残っていたが、実感には遠かった。ただ、目の前に試す場面があった。だから、やるだけやった。それだけのことだった。

 だが、その結果は明白だった。振り下ろした一撃は空気を裂き、地を断ち、神の如き存在を二つに裂いた。双頭槍の斧刃は本来の柄のバランスを失っていながら、その切れ味は刃物さながら──否、それ以上だった。まるで世界の理すら両断するような凄絶さを帯びていた。

 ガランは自らの両手を見つめる。そこに握られた双頭槍の斧刃──それはまるで、長く眠っていた獣が、主の号令に応じて覚醒したかのように、静かに、だが確かな威厳を湛えていた。

 

「ガラン!!」

 

 デリエリの声に振り向き、彼は軽く顎を引いて応じた。

 

「ああ、遅れてすまなんだ。」

 

 無骨な笑顔に、戦場とは思えぬ安堵が浮かぶ。

 

「いや、助かった。」

 

 短いが、真に込められた礼だった。

 

「……だが、これで確信が持てた。やれる。やってやるさ。」

「あらそぉう〜〜?」

「!!?」

 

 死したはずのタルミエル──断裂された肉が、溶けた飴のように絡み、蠢き、やがて人の形を取り戻す。笑っていた。その唇から垂れるのは、血ではなく、嗜虐そのものだった。

 

「今の貴方達の顔、最高♡」

 

 彼は生理的嫌悪の塊である。冷笑とともに、魔力の奔流が大気を満たす。ガランとデリエリは即座に呼応した。言葉など不要だった。本能的に放たれる魔の咆哮が、彼らを突き動かす。

 

 

 一方、戦場の一角──森の奥で、火と光が交差していた。

 

 モンスピートは無言だった。ただ静かに、確実に、天使を焼く。名もなき天使たちは灰と化し、妖精も、巨人も、その猛火の前には声すら上げられぬ。だが──

 

「へぇ……すごいじゃないの。攻撃を確実に回避した……と思っていたんだがねぇ。」

 

 サリエルは違った。〈四大天使〉たる者、矜持が違う。モンスピートの左腕が裂けた。深く。骨をも穿つ傷口から、魔の血が滴る。闇が傷を喰らい治そうとするが、間に合わぬ。

 

「アハハッ!君、いい勘してるっ!死ぬまで僕を楽しませてよぉ!!!」

 

 狂気をまとった声とともに、サリエルが再び突進する。その光は稲妻より鋭く、殺意より純粋だった。だが、次の瞬間、世界が震える。

 

 ドウッ……!

 

 鈍く、巨大な音が空気を震わせる。サリエルの体が宙を舞い、大樹へと叩きつけられた。その彼方には、巨躯。巨躯。常軌を逸した質量と威圧が立っていた。

 これこそフラウドリンの魔力「巨大化(フルサイズ)」。彼の左手には、返り血が滴っていた。

 

「モンスピート様、ここは私が!!」

 

 それは忠誠からの行動だった。彼に休息を与えるため、前に出た──だが、違和感があった。手が熱い。視界の端、大樹の根元に赤が滴る。それを突風が散らす。煙が渦巻き、その中から現れたのは……

 

 無傷のサリエルだった。白金の笑みを浮かべたまま、悠然と歩む。

 

「言ったよね?五分で済ませるって。」

「五分もあれば十分……行くよ、フラウドリン。」

「はっ!モンスピート様!!!」

 

 本格的に火蓋を落としたこの二つの戦い。しかし、戦局は明らかだった。〈四大天使〉、優勢。魔族たちはまるで赤子をあやすかのように扱われる。余裕と焦燥、笑みと歯軋り──天と地のような差がそこにはあった。

 そして、その流れは如実に結果を生む。

 

 ガランが吹き飛ばされた。タルミエルの青年の顔──右側──そこから発せられた光線によって。空間を裂くそれは、双頭槍の斧刃を捻じり、身体を弾き、ガランを地に叩きつけた。

 

 ドガンッ──!

 

 地面が揺れた。そして、信じ難き偶然。放り出された双頭槍が、彼自身の胸に突き立った。

 

「……ったく、こんな奇跡、今起きんでええわ……!」

 

 苦笑混じりに呻きながら、槍を抜こうとする──が、視界の隅に映ったその武器の輪郭が、彼をはっとさせた。

 双頭槍──そう、これこそが希望の残響。先ほどまで「不要」と嘆いた奇跡が、今や「必要」な意味を持っていた。

 

「ガラン様!!」

「……よそ見、厳禁だよ?」

 

 声と同時に衝撃が襲い、肋骨の奥に鋭く杭を打ち込まれたような痛みが走る。

 

「ぎぅっ!!」

 

 また、やられた。これで何度目かすら数える気も起きない。避けられ、斬られ、突かれ、打ち据えられるたびに、フラウドリンの巨体は確実に磨耗していった。

 〈巨大化〉──それは魔の恩寵、力の権化。しかし同時に、彼の巨体は的でもあった。山のような肉体がゆえに、サリエルの旋風はまるで彫刻刀のように正確に急所を抉り出した。

 

「グッ……!」

 

 旋風が貫通し、深紅の血が霧のように噴き上がる。〈巨大化〉が解け、魔力が霧散する中、フラウドリンの膝が崩れ落ちた。大地が彼の体を受け止める音は、岩が砕けるような鈍い轟きだった。

 

「フラウドリンッ!」

 

 モンスピートが即座に反応し、掌に濃密な魔力を凝縮させる。空間が軋み、彼の魔力が放たれる刹那──見えた。フラウドリンの背に、天使サリエルの足が置かれている。

 踏みつける。玩具を壊す子供のように。見下ろす目には情けの欠片もない。

 

「人質か……まったく、どちらが魔族だか。」

 

 モンスピートは、低く、絞るように呟いた。その言葉には怒りも嘆きもなかった。ただ──侮蔑だけが、あった。

 次の瞬間、旋風。刃のような風が舞い、モンスピートの肩口を斬り裂いた。赤黒い血が飛散する中、サリエルの唇がわずかに釣り上がる。まるで、愉悦に歪んだ絵画のように。

 

 だが──その笑みは、すぐに凍りつく。

 

「ザクッ。」

 

 音が鳴った。肉を割く、鋼の牙の音。直後、鋭い槍の斧刃が、まっすぐ、正確に、サリエルの右眼球を貫いた。ガランの一撃だった。

 

「ひ、ひぁっ……!」

 

 鋭い痛みと混乱にまみれて、サリエルは情けない悲鳴を漏らす。背筋が反射的に硬直し、膝が折れそうになる。ぐらつく視界に、黒く巨大な影が映った。影は、天を覆っていた。茫然と顔を上げる。口が、意思に反して半開きになる。焼け焦げる音。空気が燃える匂い。熱が肌を舐め、骨まで焼き尽くすような恐怖。

 降り注いだのは、灼熱の拳──否、熔岩そのものだった。

 

「しかし、よくやってくれた……さすがはガラン……っ!?な、何を……!?」

 

 モンスピートの目が鋭く見開かれた。視界の隅、斧刃を投げたはずのガランが、双頭槍の残された柄の部分だけを手に持ちながら、まるで野犬のような凄絶な勢いでタルミエルのいる元へと突き進んでいたのだ。地を蹴る音が雷鳴のように響き、彼の巨体が空気を裂いて飛んでいく。

 

「馬鹿なっ……あのタルミエルに正面から向かうとは……自滅に等しいぞ!」

 

 焦燥と共にモンスピートがガランを追いかけ、そして呼びかける。

 

「やめろ、ガランッ!!お前の力は確かに強い。だが──奴に真正面から挑むなど、無謀な賭けはやめろッ!!」

 

 その声は届かない。否、ガランは最初から聞く気などなかった。

 

「んん?あら〜?お客様がもう一人……あ、いや、お二人も?来てくれるなんてうれしい限り♡」

 

 タルミエルが毒々しい笑みを浮かべる。獲物を嬲ることに悦を感じるこの天使は、先ほどからデリエリを弄ぶように痛めつけていた。燃え尽きかけの蝋燭のように、彼女の回復も遅れがちだった。

 タルミエルの指が、無防備なデリエリの首筋を掴む。鋭い爪が白い肌を食い込み、血がにじむ。

 

「は〜い、この娘の頭、粉砕しちゃいま〜す♪」

 

 モンスピートの目が怒りに燃える。

 

「それが嫌なら……ねぇ、そこのチョビ髭?あんたはそこでじっとしてて。代わりに、このガラクタじじいとタイマンで勝負♡片手でやってあげるから、それで公平でしょ?」

 

 その瞬間、モンスピートの中で何かが冷たく崩れ落ちた。絶望の名を冠した思考が、理性を蝕む。ガランは今、双頭槍の斧刃をすでにサリエルへの攻撃に使ってしまっており、残るは柄の部分だけだ。対するは、三つの頭と六つの目で敵情を監視する、圧倒的な異形の存在。勝敗など、始まる前から決している。

 それでも、ガランは弱音を吐いたり、退いたりは一切しなかった。すでにタルミエルの目前に立ち、静かに呟いた。

 

「そうじゃな。」

 

 その声は、戦場にあるまじきほど穏やかで、どこか凪いでいた。モンスピートの眉間に、嫌な汗がにじむ。

 

(……妙だ。怒りに燃えていたはずのガランが、あれほど冷静だと? まさか……順応したというのか? いや、それにしては……冷静すぎる。)

 

「そうねぇ、あなたが先に打ち込んでいいわよ。そのあと、私があなたをぶった斬る。名付けて、『タルミエル・ゲーム』!」

「……命のやりとりを"ゲーム"呼ばわりとは、全く下品な話じゃわい。」

「うるっさいわね〜〜、魔族風情に命の価値なんてあると思ってるの? 笑わせないで。」

 

 挑発には乗らず、ガランは小さく息を吐いた。

 

「では一つ、頼みがある。そこの娘、どかしてくれんかの。真正面から打ち込めば、どうしたって巻き込んでしまう。」

「へぇ、紳士ねぇ……。いいわ、特別に♡」

 

 タルミエルが、デリエリを人形のようにぶら下げながら、モンスピートの方向へ軽く放る。

 

「これでいい〜〜?」

「ありがとさん。じゃあ……いくぞ。」

 

 その瞬間、風すら斬るような音が響いた。

 

 ザンッ

 

「……!?」

「はれっ……?」

 

 タルミエルの瞳が、驚愕のまま凍りつく。次いで、胸元から顎まで一直線に走る赤黒い裂け目。三つの頭が同時に揺れ、そして──裂けた。

 真っ二つに。

 まるで古木を斧で割ったかのように、皮膚と肉が破裂音と共に弾け、内臓が風に晒された。血と臓物が花火のように舞い、彼の胴体は音を立てて崩れ落ちる。

 

「……ほい。これで一発じゃ。」

 

 モンスピートは、空から零れ落ちるデリエリの身体を抱き止めながら、瞬きを忘れた。血飛沫と硝煙が空に滲み、彼の視界は朱と灰に満たされる。

 

「……あり得ない。」

 

 それは彼の口から洩れた、ほとんど無意識の呻きだった。ガランの力が強大であることは、誰より彼が知っている。だが、タルミエルを一撃で真っ二つにするなど──不可能に等しい所業のはずだった。

 モンスピートの目が、ガランの右手に視線を滑らせる。そこに握られていたのは──双頭槍の柄から無理やり引き剥がした、斧刃の部分。刃先からは、鮮血が糸を引いて垂れていた。まるで喉笛を食い破った獣の口のように、真紅の息を漏らしていた。

 

「お前……それはまさか!!」

「ん?あぁこれか?見てのとおり、槍から斧刃の部分だけを力任せに引き剥がしたんじゃよ。これこそ必殺「尖轟斬(スペア)」なんつってな。」

 

 笑いながら、彼は自らの悪知恵を語り始めた。曰く、双頭槍の斧刃を力任せにへし折り、武器を二つに分けたこと。曰く、サリエルの動きが止まった一瞬を逃さず、斧刃を遠投して奴の眼球を突き刺す囮とし、もう一方の柄を自らの背中に突き立てて隠匿したこと。

 皮膚を貫き、骨をこすり、肺の先端まで達するほどに深く刺した。痛みはあった。だが、聖戦前にモンスピートから食らったあの炎の攻撃、それに比べれば、ただの爪先の痒みに等しかった。

 そして今──タルミエルが獲物を嬲るその瞬間。ガランは躊躇なく背中から柄を引き抜き、その切断面の鋭い端を刃として、獣のごとき速さと力で振り抜いたのだ。虚を突かれた天使は、成す術もなく断たれた。

 モンスピートは顎を撫で、口元に渋い笑みを浮かべた。

 

「なんともまあ……よくそんな策を思いついたねぇ。」

「ふん。力の差がありすぎて、あいつら油断しきっとるんじゃよ。眼も曇っておった。あれでは木の実を数える猿と同じ。カァーーッカッカッカ!!」

 

 その傍らで、デリエリが身を起こした。まだ傷の残る体を、無言のまま戦場の空気に晒す。彼女の目が、鋭く、冴えている。モンスピートが事情を手短に説明すると、彼女は一度だけ頷き、すぐに魔力を循環させて体の再生を促した。

 

「身体の心配なんざ、いらないよ。私は──タフなんだよ。」

 

 吐き捨てるようなその言葉に、しかし薄氷のような微笑が添えられていた。刃物のように冷たく、けれども確かに感謝という色を含んだ一片の微笑みだった。

 その笑みを見て、モンスピートの表情が緩む。

 

「モンスピート、フラウドリンのもとに戻ってやれ。まだ……あのガキ、くたばってねぇだろう?」

「……おっと、そうだった。じゃあ、任せたよ。」

 

 そう言い残し、炎の魔神は虚空を蹴って戦場の深層へと沈んでいく。残されたガランは、その背を見送りながら苦笑を漏らした。

 

「過保護じゃな。」

「……あいつなりの、気遣いってやつだ。悪くはねぇ。」

「ほぉ〜う? 珍しく人間臭いこと言うのう。」

「なっ……てめぇ、後でまとめて殴る。」

「カッカッカ! おぉ怖い怖い!……っと、冗談はここまでじゃな。」

 

 戦場の空気が、凍てつくように張り詰めた。

 

 見る間に、先ほど真っ二つに裂けたタルミエルの身体が、まるでフィルムを巻き戻すように再構築されていく。神聖の光が肉と骨を編み直し、三つの顔が再び吠えるように咆哮を上げた。再生した彼の顔には、もはや余裕の微笑などなかった。浮かんでいたのは──怒りと屈辱。神の誇りを汚された天使の、純然たる殺意だった。

 ガランとデリエリは、その顔を見て、同時に笑った。

 

「いい顔になったじゃねぇか。」

「どうせなら、左右の顔もそうなってほしかったがのぉ。」

 

 タルミエルの唇が裂け、三重の声が重なるように響く。

 

「やってくれたじゃなァァ……!?いいわ、殺してあげる。次は手加減なんてしない。全力で、ぶちのめしてあげるわ!!!」

 

 タルミエルの咆哮は、音ではなく災害だった。三重の声帯が絞り出す絶叫は、暴風となって周囲の大気を引き裂き、戦場そのものの構造を揺るがせる。天の使いが怒るというのは、理が崩れるということだ。声が風を呼ぶ時、それは「冷静」がどこかへ置き去りにされている証拠だった。

 ガランとデリエリ──二つの凶星が、螺旋を描きながら同時に軌道を変える。軸を中心に回転する刃と拳。それぞれが軌跡を描くたび、空気が鳴き、空間が撓んだ。

 連撃星、その真価は連続攻撃の蓄積にある。間断なき怒濤こそが、彼女の武の根幹。ガランはその律動に合わせ、舞うように戦う。双頭槍の柄を短剣のように握り直し、その切断面の鋭利な端を刃として、猛禽のような軌道で振り抜いた。

 

 タルミエルは面倒だからと、「聖守」で二人を突き飛ばそうとした。……したのだが、

 

「"伐裟利"!!」

 

 タルミエルが唱えかけた呪文は、声帯を貫かれ、脳を裂かれて途中で途絶した。ガランの刃が、文字通り彼の首を刈り取ったのだ。斬撃は、吟遊詩人の歌を遮るように、魔法詠唱の旋律を無惨に断ち切った。

 

「おぉ~~い!デリエリィ!頭を吹き飛ばしてやったぞぉ!」

 

 戦場であるにも関わらず、ガランは無邪気な子供のように叫び、天使の首を手に掲げて見せた。

 

「………だからどうした?」

「お主の"連撃星"とやら──攻撃を重ねるごとに威力が増すってぇ話じゃろぉ!ほれぇっ!!!」

 

 ガランは笑いながら、首をボールのように軽々と放った。肉塊が弧を描いて宙を翔け、デリエリの掌に吸い込まれる。

 彼女の眼が、まるで猛獣が喉笛に噛みついた時のように細められる。感情の温度は一気に沸騰点を超えた。獲物を得た瞬間の狩人に、言葉など不要だった。

 

「なるほどな。そういうことかよ……。よんじゅう……ろくぅ!!」

 

 デリエリの拳が、タルミエルの首に命中する。骨が砕け、軟組織が潰れ、髪が千切れる。続けざまに、二発、三発と拳が打ち込まれ、すべてが加算される。質量が倍増するように、拳の速度と威力が指数関数的に跳ね上がっていく。顔面は原形を留めず、血と骨が霧となって舞った。

 彼女は笑う。人間では構成できない角度で歪んだ笑顔。戦いの悦びが感情を食い破った狂気の笑みだった。

 その背後、ガランは斃れたタルミエルの首なき肉体へと歩み寄り、双頭槍の柄を再び振りかぶった。口元には悪戯っ子のような嗤いを浮かべながら。

 

「喰らえ禍々しい、天使とかけ離れた存在よぉ!!"去魔斬(こまぎり)"!!」

 

 タルミエルの肉体は、咎を受けた神像のごとく解体された。柄の切断面で切り裂かれた四肢と胴体が、糸の切れた操り人形のように無重力の空間を漂い、規則性のない動きで宙を舞う。その肉片の一つひとつからは天界の血が滴り、夜空に紅い点描を打ち込むように弾けていた。

 しかしその刹那、残された"頭"が突如として意思を取り戻し、執念のような魔力の奔流を放つ。見えざる衝撃が放たれ、正面にいたデリエリの胸部に小さな打撃を与える──が、その一撃は彼女の足を止めるには遠く及ばなかった。

 

「……へぇ、まだ抵抗するか?」

 

 その声は、冷笑と殺意を等分に混ぜた音色だった。

 その瞬間、ガランが指で「これこれ」と短くサインを送った。彼女の視線がその意味を即座に読み取り、口角がひとつ吊り上がる。

 視線の先には、宙に浮かぶタルミエルのバラバラになった肢体。それらが復元を始める前に、殴り壊せ。そういう合図だった。

 

 デリエリは空を蹴った。いや、それは"蹴る"というより、"炸裂"と呼ぶべき加速だった。空気が破裂し、足元に亀裂が奔る。体が弾丸のように跳ね上がり、まずは浮かぶ片腕に拳を叩き込む。

 砕けた。骨ごと肉が捩じれ、関節が裏返る。飛散した破片が、戦場の空に紅い線を描いた。

 次は脚部。次は胸骨。肋骨の弧が、一打で七つに割れる。魔力による再生が追いつかず、ただ壊れたまま宙を彷徨う。

 その間、タルミエルの意識は切れ切れにつながったまま、死と再生の狭間を浮遊していた。

 

(……さっきの"連撃星"、あれを五十……いや六十近くは喰らっていた……。だが、あれはまだ"序章"だった……あれを喰らったとしたら……私は、本当に……!!)

 

 彼の思考が恐怖に染まりかけたとき、女魔族の咆哮が空を裂くように響いた。

 

「ひゃーくじゅうごォオ────ッ!!!」

 

 絶叫。数字が積み上がるたびに、拳が重く、鋭く、冷たく、破壊的になっていく。

 そして次の瞬間──デリエリの気配が完全に"獣"と化した。人の姿を保ちながらも、気配は百獣を束ねる大王の如き覇気。天使の頭部に向かって、圧倒的速度で突撃する。

 

「ひゃくじゅう……ろぉ────くッ!!!」

 

 その一撃は、もはや拳という形を成していなかった。ただの"暴力"だった。風を裂き、空を砕き、空間にヒビを入れる衝撃が、天使の頭部を芯から粉砕する。

 

「ぷぎゃっ!!!?」

 

 醜悪な音が鳴った。鼻から血が噴き、眼球が飛び出し、歯列が崩れ、口があり得ぬ角度に捻れる。まるで壊れた泥人形のように、天使の顔は原形を留めなくなった。

 

「まだまだまだまだまだまだまだ──!!!」

「ほほぉ〜……これはこれは、面白いのう……」

 

 ガランは戦場の熱気の中にあってなお、どこか呑気に頬を掻いた。眼前で繰り広げられるのは、魔族の一撃が天使の体を内側から破壊し尽くす地獄絵図。それにもかかわらず、老戦士は口元に愉快そうな笑みを浮かべていた。

 

「ここまで差があっても、力は埋まるものなのか……魔力とは底なしの業じゃのう。ところで儂の魔力とは……何じゃったかのう?」

 

 呟く彼の脳裏に一抹の好奇が差し込んだ──そう、ほんの一瞬の、思考の漂流。だがその一瞬が命取りにはならなかった。なぜなら、デリエリが圧倒的に優勢だったからだ。

 重みを増していく拳。それはもはや「殴打」ではなかった。一発ごとに20万ポンドの質量が魔力と融合し、天使の体に降り注ぐたび、骨が砕け、神経が焼け、再生が追いつかぬほどの激痛が細胞を軋ませていた。衝撃波が周囲の岩を粉塵に変え、空気が高温の煙となって渦を巻く。

 タルミエルは理解した。この戦いはすでに"力"の問題ではない。デリエリという魔族の心の奥底に眠る姉への哀哭が、暴力の形を借りて己を撃ち続けているのだと。だからこそ、耐えるしかない。もはや逃げも隠れも意味をなさぬ。

 

 ──一撃、また一撃。

 

 そのたびに天使の肉体は炎のように焼かれ、同時に極寒の吹雪の中に投げ出されるような痛みに貫かれていく。皮膚の下を魔力が擦れ、骨の奥で絶叫が反響する。

 

「……150……ッ!」

 

 その声は宣告だった。今やデリエリの一打は、隕石が大気圏を突き破って地表に激突する破壊力に等しかった。それを喰らい続けるタルミエル──いや、彼が喰らい続けられていること自体が、すでに奇跡に近い。

 

「……姉貴の分だ……思い知れぇッ!!!!!!」

 

 その咆哮を最後に、デリエリの拳に、ほんの一瞬の"間"が生まれた。狂気の連打にあって唯一の"静"。その一瞬を、タルミエルは見逃さなかった。

 彼の精神はすでに極限にまで研ぎ澄まされていた。脳内の雑念をすべて払い、0.1秒の隙に全てを注ぎ込む。勝ちを捨て、生存のためだけに動く冷徹な意志。

 彼の掌に、聖櫃が浮かび上がった。

 それを見たデリエリは、電光のような反応で警戒を深める。踏み込みが止まり、連撃が──ついに──途絶えた。

 

「いかんっ!逃げるんじゃ、デリエリ!!」

「安心しろ!私は頑丈だ!それに、今のこいつならお前でも十分に倒せる!!!!」

 

 叫ぶガラン。そう、彼女は戦える。だが……ガランは戦えなかった。

 聖櫃が閃光とともに放たれ、その軌道は一直線に、彼の元へと飛来した。まるで初めから標的が決まっていたかのような正確さ。タルミエルはずっと……この"老いぼれ"を狙っていたのだ。

 

「なっ!?」

 

 反応が、間に合わなかった。魔力の奔流に支配されたその光は、避ける猶予すら与えぬまま彼を押しつぶし、地面へと叩きつける。

 地が裂け、土石が爆ぜ、老魔神の身体が深々と地に埋まっていく。光の力に抗うことすらできず、骨が軋み、肉が潰れ、魔力が内部から崩壊する。

 そうして、ガランは聖櫃に押しつぶされてしまった。

 

「ガランッ!!!」

 

 反射で視線を逸らしたデリエリ。わずかに開いたその隙こそ、タルミエルの狙いそのものだった。

 

「……ごめんなさいねぇ、これも戦術なの……よッ!」

 

 肘が、雷の如き速度で振り抜かれた。鉄塊をぶつけたような衝撃音が響き、デリエリの身体は空中で弧を描き、そのまま岩盤に叩きつけられる。地が揺れ、衝撃で岩肌がひび割れ、爆風が周囲を包む。

 動けない。いや、動かせない。

 100を超える連撃星。それはデリエリの肉体に累積した"負債"でもあった。魔族の身体とはいえ、限界を超えた反動が一気に襲いかかる。筋繊維が断裂し、骨が軋み、魔力の流れすら狂い始める。

 

(……まだ……終わってない……)

 

 だが、体は言うことを聞かない。地面に伏した彼女の身体からは血が染み出し、呼吸は浅く、不規則になっていく。

 一方のタルミエルは、頬を伝う血を一拭いし、歪んだ顔に笑みすら浮かべながら、聖櫃の残滓が消えた方向──ガランが押しつぶされた場所へと視線を向けた。

 

「はぁ……まったく、よくもやってくれましたねぇ……」

 

 タルミエルの肩が上下し、口元から漏れる呼気が白く染まる。まるで戦いの熱気が彼の体温を奪ったかのように。片膝をついたまま立ち上がると、その目に宿っていたのは、怒りでも憐憫でもない──純粋な、冷ややかな敵意だった。

 

「この私に、怖いだなんて感情……抱かせるなんてぇ……」

 

 唇を歪め、笑みの形にしたまま呟く声は、ねっとりと湿った毒気を孕んでいた。そしてその声と同時に、大地が呻いた。タルミエルの周囲、数百メートルに渡って、地表が爆ぜ、竜巻の柱が巻き上がる。風が哭き、天が裂ける。空気がその存在を拒絶するかのような、聖の力による局地的な天災が、戦場を飲み込んでいく。

 「十戒」の二人──デリエリとフラウドリンが、血の海に沈んでいた。彼らの姿はもはや"戦士"のそれではない。焼け爛れ、砕けた肢体は、地獄に堕ちる寸前の亡者を思わせる。

 タルミエルの肉体にも、幾筋もの傷が走っていた。焦げ付き、皮膚が裂け、白骨すら覗いていた。だがそれらは、再生の光によって瞬く間に癒えていく。まるで時の流れを逆行させるかのように。

 

「そっちも……終わったみたいだね?」

 

 天翔る影が一つ。サリエルが、乱れた呼吸を押し殺しながら地に降り立った。肩で息をしながらも、その眼差しは油断なく鋭い。聖なる光を背に纏ったまま、彼は肩をすくめるように言った。

 

「……ハァ、ハァ……まあね。あの老いぼれの奇襲で旋風を使い損ねて、ちょっと焦ったけど……なんとかなったさ。」

 

 彼の服は擦り切れ、肩口からは血が滴っている。それでも彼の声にはどこか、勝者の余裕があった。

 

「それは良かった♡……でもぉ、あなたの"五分"っていう賭け、外れちゃったみたいじゃな〜い?」

 

 サリエルは苦笑を浮かべる。

 

「本当にね。まさかここまで粘るとは……。彼らの"意志"が、これほど強靭だったとは思わなかったよ。」

 

 その"意志"は、もうすぐ消える。

 

「これからどうする〜〜?〈十戒〉を跡形もなく消し飛ばすのは、当然としてぇ。」

 

 タルミエルが静かに頷いた。

 

「……あの森へ向かった残党が一人いた。追おう。そういう奴が、一番厄介だ。」

「オッケー♪じゃあ、さくっと終わらせましょ!」

 

 二人の間の会話が終わると同時に、天より三つの聖櫃が顕現する。銀白の輝きがねじれながら拡散し、残る三人──デリエリ、モンスピート、フラウドリンを包み込む。

 聖光の檻。もはや力尽き、立ち上がる気力もない魔神たちに対し、それは無慈悲な死刑宣告となる。抵抗の気配はない。痛みの呻きさえも、もはやない。

 聖なる檻が蝕むのは肉体ではない、魂だ。魔族の本質に染みついた"不浄"を根絶する光。それを前にして、サリエルもタルミエルも、いかなる憐憫も抱かない。ただ粛々と任務を果たす、正義という名の機械だった。

 

「それじゃあね、十戒諸君……」

 

 タルミエルが囁くように言う。

 

「楽しかったわよぉ〜……なんて、おべんちゃらは言わない。……よくも、ここまでやってくれたわね、ほんとにッ。」

「不浄の魂ども……裁きの光に滅せよ……!!!」

 

 聖櫃が閃き、純白の雷光が爆ぜた。

 

 その刹那。

 

 ─グアッ

 

 一つの聖櫃が、浮いた。いや、"持ち上げられた"のだ。

 タルミエルとサリエルの視界が、鋭く、硬直する。あれほどまでに敵の肉体を削り、魂を蝕んでいたはずの神聖具が、まるで枯れ枝のように軽々と宙を舞う──ありえぬ光景だった。

 

「……ッ、なに……!?」

 

 視線の先、聖櫃を持ち上げていたのは、信じがたいことに、あの老兵──ガランだった。

 その肌は血と煤で塗れ、全身に走る傷からは焼けた肉の匂いすら立ち上っていた。それでもなお彼の体は異様な膨張を遂げていた。筋肉が怒り狂ったかのように膨れ上がり、体中から溢れる力の奔流が、まるで溶岩のごとく熱を孕んでいた。

 そしてその双眸。

 黄昏色の戦場に浮かぶ二つの翡翠──燃える緑の目が、真っすぐに天使たちを射抜いていた。その眼光に、もはや老いの翳りはなかった。ただ、本能を刃と化した獣のように、戦意だけが剥き出しに光っていた。

 

 

 数十秒前──。

 

 ガランは確かに、タルミエルの放った聖櫃によって押しつぶされ、命脈すら尽きたと思われていた。だが彼は、死に損なっていたのではない。死を踏み台に、立ち上がったのだ。

 ほんの一瞬、崩れ落ちる寸前の視界に映った光景が、彼の意識を繋ぎ止めた。

 モンスピートが倒れ、フラウドリンが沈み、デリエリが動かない。

 それを見た時、老戦士の胸奥に眠っていたものが、暴れた。

 自らを認めてくれた。老いを理由に蔑まなかった。共に肩を並べ、命を懸けて戦ってくれた。そんな彼らを、いま、目の前で燃やされようとしている。

 そんな結末を、許せるはずがない。

 

「まだ、終わらんッ!!!」

 

 その瞬間、静かな奇跡が起こった。

 聖櫃が、浮いたのだ。全身を貫いていた霊光の針が、突如として跳ね飛ばされたかのように緩み、ガランの拳が、それを持ち上げていた。

 否、それは拳ではない。意志そのものが"力"と化していた。

 全身を貫く奔流。凶暴なほどの膨張感。思考を曇らせる異常な高揚。それが、自分自身の「魔力」によるものだと、この時の彼はまだ知らなかった。

 

 魔力「臨界突破(クリティカルオーバー)

 

 それは、肉体という器の限界を超えて、戦士の在り方そのものを"武"と変える魔力。戦意と忠誠と怒りが混ざり合った果てに、あらゆる筋繊維が雷のように膨張し、骨は剣より硬くなり、血流は鉄を熔かすほど熱を帯びる。

 それを"仲間"のために無意識のうちに引き起こしたのだ。

 

「……でぇいッ!!!!!!!!」

 

 轟雷の如く放たれたその叫びと共に、彼は持ち上げた聖櫃を二人の天使に向かって投擲した。質量は巨大、速度は音速、込められた意思は──破壊そのものだった。

 サリエルが咄嗟に魔力障壁を展開するも、既に聖櫃は防御姿勢を破壊する"速度"で襲いかかっていた。タルミエルが叫びを上げるよりも早く、衝撃が彼らを飲み込む。

 

 しかし、それだけでは終わらなかった。

 

 獄炎が走った。

 モンスピートだった。肉体は傷だらけ、魂は焼かれていたはずの彼が、寸前で魔力を絞り出した。彼の炎が、鎖となって天使たちの四肢に絡みつく。まるで地獄の断罪が、天の戦士を堕とすかのように。

 

「判断が……遅れたな…………」

 

 その呟きは、静かな勝利宣言だった。

 サリエルとタルミエルが絶叫する。

 

「貴様ァッ!!!」

 

 けれど、もう遅い。怒りも嘆きも、拳も魔力も、結果を変えるには間に合わない。

 聖櫃は炸裂し、光が彼らを呑み込む。砕かれるはずだった神具は、逆に天使をそのまま上空へと連れ去る光の檻となり、遥か天へと消えていった。

 残された三人──デリエリ、フラウドリン、モンスピートを閉じ込めていた聖櫃も、魔力が途切れたことで霧散する。

 そして気絶した二人を抱きかかえたモンスピートは、ガランの方を見た。血塗れの老戦士に、微かに笑みを浮かべる。

 

 ガランは、なおも臨界突破の魔力に飲まれたまま、咆哮のように、魂の叫びを吐き出した。

 

「ザマァァァミロォォォォォォ!!」

 

 その叫びは、戦場を越えて、空の果てまで響き渡った。老いた魂が、この異世界で初めて、本当の意味で"自分"として戦った。その証が、今、夜空に刻まれていた。

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