「……チッ、サリエルとタルミエルめ……」
その舌打ちは、氷の粒が石畳を穿つ音のように冷たく、硬質だった。リュドシエルの声が、天界の指令塔に響く。威厳に満ちたその響きは、神の命令に背いた天使の翼をもぎ取るような厳烈さを帯びていた。
長きに渡って練り上げた作戦。その要として投入された神罰の火力。それによって命を刈り取ったのは、所詮、数万にすぎぬ雑兵——虫けらの群れだった。〈四大天使〉としての矜持が軋む。胸奥に燃える神聖な自負が、嘲笑と侮蔑に焼かれていく。
そして極めつけに、サリエルとタルミエルの魔力が遥か彼方へと薄れていった。
敗北。それ以外に説明は不要だった。
彼は、高貴にして穢れを嫌う存在だ。自らの手で敵を汚すなど、あってはならぬ。だがこの状況では、神の代行者である自分の白き手をもって、直接地に触れねばならぬらしい。リュドシエルは、静かに身を翻した。玉座のごとき司令台から、修羅の地へと降りる覚悟を纏って。
「……ネロバスタ。」
「はっ!」
声をかけられた瞬間、彼女の体はまるで電流を走らせたように反応した。凛々しく、忠誠の形を取って膝をつくその姿からは、隠しきれぬ感情の熱が滲んでいた。
「……どうやら、私が直々に向かわねばならぬようだ。この場を留守にする。お前はこの門を死守せよ。私以外、誰であろうと通すな。破られれば、天界の援軍は閉ざされ、我らは地に堕ちる。」
「お任せください!このネロバスタ、命に代えても必ずや!!」
その声には、剣よりも鋭い覚悟が宿っていた。彼女の視線はリュドシエルの後ろ姿に絡みつくように注がれる。それは敬愛などという言葉では包みきれぬ。崇拝に近い、あるいは恋慕に酷似した、甘やかな毒を孕んでいた。
リュドシエルが部屋を出たあと、ネロバスタの顔から硬さがほどけ、ふと女の表情が覗いた。それは、冷厳な戦士の面差しではなかった。花のように柔らかく、雫のように揺れる——あまりにも人間的な顔。その美貌には、神に仕えるものとしての厳かさと、少女のような秘めた願望が同居していた。
しかし、リュドシエルが「言い忘れたことを思い出した」と言い、再び恩寵の中へ戻った瞬間
「ひゃっ……!」
ネロバスタは思わず変な声を上げた。驚きと羞恥が入り混じった、戦士にあるまじき情けない響き。慌てて姿勢を整え、険しい顔を作り直す。しかしそれは、未熟な彫刻のように未完成で、柔と剛が不恰好に混在していた。
そして彼女は、再び彼を見つめる。
リュドシエルの姿——その存在が視界に入った瞬間、脳裏が揺れた。まるで禁忌の香を吸い込んだかのような恍惚が全身を包み込む。心は高鳴り、言葉は舌の上で溶け、ただ彼の姿しか目に映らない。
(私はどうしてしまったの……?)
脳が、心が、思考すらも彼に侵蝕されていた。
「……念のため、援軍を要請しておけ。いかに我ら〈四大天使〉といえど、十戒を相手取るには……骨が折れよう。」
その声は優しげに響いた。だがそれは、本物ではない。
「……はい。ただちに門を開き、援軍を要請します。」
その返答には、人間らしい葛藤も、恋情の匂いもなかった。ただ、均一で、平坦で、冷たく機械的な言葉が紡がれた。それこそが、彼女がいま囚われている檻の正体だった。
洗脳。記憶の改竄。認識の操作。そのすべてが、一本の薄紫の矢によって成された。矢は、彼女の後頭部に突き立っていた。無理やり刺し込まれたその魔具は、視点をねじ曲げ、想いを捏造する。
彼女にとって"リュドシエル"と見えているその男は——
〈十戒〉が一人、「無欲」のゴウセル。
天使の顔を借りた、感情なき人形。その視線は極北の氷原よりも冷え切り、声色には一切の揺らぎもなかった。だがネロバスタの目には、最も慈愛深く、温もりを湛えた天上の声として届いていた。なんという残酷な幻か。なんという、完璧な罠か。
「私も同行しよう。」
彼の冷たい唇から零れた言葉に、彼女は陶酔するように頷いた。
「……はい、リュドシエル様……」
まるで恋する乙女のように。
そして、天界の門へと向かうさなか
「なあ、ネロバスタ。……お前にとって、"リュドシエル"とは、どういう男だ?」
唐突な問いだった。だがそれは、"不自然"に振る舞うことすら恐れぬ余裕から発されたものである。なぜなら、彼女の精神はすでに檻に閉じ込められていた。思考の回路はねじれ、視界は幻像に彩られていた。言葉は、自らのものではなくなっていたのだから。
「リュドシエル様は……知力、魔力、魅力、すべてを兼ね備えた〈四大天使〉筆頭……」
その声音は、まるで古代の失われた詩篇を機械が朗読しているかのようだった。冷たい均整、乱れのない抑揚、そして情動を完全に排除した"誠実な模倣"。語られる言葉の一つ一つは、まるで彼女の魂の奥底に埋め込まれた聖典の断章のようであり、それは同時に"彼女自身"の声ではなかった。
「……もはや〈光の聖痕〉が魔神族を打ち滅ぼし、豊潤なる魔力の楽園ブリタニアを我らが手に収めるのは、時間の問題。聖戦の勝利のために……家族も、友も、すべてを捨てたリュドシエル様の覚悟を……無駄にしてはならない。捨て去っては……ならない……。」
その言葉は、一輪の黒百合が咲く音のように静かで、どこか狂気を孕んでいた。彼女が語るのは、真実ではない。誰かが彼女の中に刻み込んだ、精巧な嘘だった。しかし、その嘘は彼女の口を借りて、まるで本物の信仰のように響いた。
「……ほう。なるほどな……」
ゴウセルの無機質な目がゆっくりと瞬いた。
「ただ一つの目的のために、すべてを捨てた男か。……俺も、そんな男を知っているよ。」
それが誰なのか、彼は明かさなかった。ただ、その響きには過去という暗闇の底から滲み出るような、わずかな痛みの色があった。感情を持たぬはずの人形が、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ——人間の顔をした。
そして、彼らは天界の門へと到達した。
その門は、神々が彫り込んだ自己賛美の霊廟のように壮麗だった。四方を取り囲むようにして、天使の像が林立している。威風堂々、誇り高く、無数に、無遠慮に——まるで天使という存在そのものを、押しつけがましく形にしたような異様さ。風が像の隙間を抜けるたび、かすかな呻き声のような残響が響いた。それは"過剰な崇拝"が放つ冷気であり、その場にやってきたもう一人の「十戒」ですら思わず眉をひそめるほどだった。
「……メラスキュラ。捕虜の救出、どうだった?」
ゴウセルの声は変わらず、石のように無機だった。反して、返答は苛立ちと不満に満ちていた。
「どうだった、ですって?ハッ、笑わせないでよ。……どうもこうもない。完全な、罠だったわよ。」
その声音には毒が含まれていた。だが、それは本質を偽るための殻でもあった。ゴウセルは黙って指を向けた。指先から流れるように彼女の記憶へと魔力が侵入する。ページをめくるように軽やかに、だが聖典を破り捨てるかのごとき無遠慮さで、記憶を辿る。その行為がどれほど彼女の怒りを買うかなど、初めから計算済みであった。
「その勝手に人の頭を覗くクセ、どうにかならないのかしら?」
「……ならない。」
その即答は、岩盤に釘を打ちつけるような冷たさだった。
「……あ、そう。なら、いいわ。」
メラスキュラが肩を竦めた瞬間
「……お前と入れ違いに、リュドシエルが向かっていった。」
「……!」
感情が一瞬で、顔の筋肉に電撃のように走った。目が細く歪む。眉が吊り上がる。リュドシエルが動いた。これは、ただ事ではない。
(……こちらの戦力は私とゴウセルだけ。あちらには〈四大天使〉三柱。これは——)
「一人だけだ。リュドシエルのみ。」
「……? どういうこと?」
ゴウセルは微かに口元を上げた。笑みというにはあまりに冷たく、機械の作った模倣笑顔のようだった。
「サリエルとタルミエルの二人は、自らの聖櫃で上空へ飛び去った。……理由は不明だが、何者かに"聖櫃ごと"弾き飛ばされたのだろう。」
「何者かが……まさか、あの裏切り者メリオダス!?」
「いや、それは違う。聖櫃のまま跳ね返していた。メリオダスの「全反撃」なら、そうはならない。原型のないただの攻撃として跳ね返されるはずだ。」
「てことは……「十戒」の誰かが思いっきり持ち上げたりしたってことかしら。……まさか、あの老いぼれ……!?」
「さぁな、わからん。そこまで頭のリソースを割きたくはない。だが……〈四大天使〉二人が離脱したことで、「光の聖痕」の戦力は一気に減少した。」
メラスキュラは沈黙した。目を細め、何かを計算するように額を指先で撫でた。
「ふぅん……それで?戦況は?優勢?劣勢?」
期待と酔いの混じった声だった。その眼には光がなかったが、戦いに陶酔する女だけが持つ異様な輝きが宿っていた。だが、次の一言がその酔いを一瞬で凍らせた。
「……状況は劣勢。分が悪い。」
それは感情の温度をすべて奪った言葉だった。メラスキュラの顔から血の気が引く。冗談めかした口元が、不自然なまでに動かなくなる——。
────
「…ハァ……全く自我を保ツノも楽じゃない……。」
ガランの声は、もはや咽ぶ火山の噴き上げのようだった。肉体という器が限界を超え、内部の魔力が狂乱の獣と化して全身をのたうつ。その中心にあって、彼は辛うじて自我の鎖を手繰り寄せていた。
脳裏を駆け巡るのは理性ではない。——誇りだ。〈十戒〉としての誇りと、たとえ骸になろうとも戦友を救い切るという、化け物なりの仁義だった。九十六年間、死場所を探し続けてきた男が、こんなところでようやく、"死ぬ意味"を見つけたような、そういう覚悟だった。
一方、モンスピートの胸には、不気味な静寂が宿っていた。深手を負った体は、もはや先刻とは別人のように回復している。筋肉は蘇り、血流は熱を帯び、魔力は海のように満ちていた。まるで破滅の予感を含んだ静かな満潮のように、彼の内に力が戻っているのが見て取れた。
だが、それもこれも——目の前で咆哮しながら暴走を続ける、ガランがすべてを引き受けたおかげだった。
その事実を前に、モンスピートは微かに目を細めた。感謝という言葉は彼の語彙には稀だった。だが、胸の奥に湧き上がる感情は明らかにそれに近い。同時に、"まぁ、自分もちょっとは頑張ったかな"という自惚れが、髭の奥にひっそりと笑みを宿らせた。
「……はは。」
喉の奥で、ささやかな嗤いが咳のように漏れた。するとすぐ隣から、ざらり、とした音がした。
デリエリが、喉を振るわせて何かを吐き出した。赤黒い塊がベッ、と地に落ちる。それは癒えかけていた傷の痂皮——喉を封じていた瘡蓋だった。彼女は口元に血を垂らしたまま、それを指で拭うことすらしない。痛みも、出血も、彼女にとっては「状況の一部」に過ぎなかった。生きている証とすら思っていないのだろう。ただ一言、呟いた。
「……腫れモンが取れた。」
その言い草には、怒りも苦しみもなかった。まるで、朝の歯磨きで血が出ても気にしない者のように淡々としていた。それが、彼女という戦鬼の"常態"だった。
モンスピートは静かに頷き、戦況を見渡した。空は灰色。低く垂れ込めた雲が、まるで神の目隠しのように天上を覆っていた。その曇天を見上げるとき、彼の胸にある記憶が疼く。忘れがたい、古傷のような記憶——。
────
その日、空は曇っていた。けれど雨は降らなかった。風はなく、音もない。
モンスピートは、まるで誰かに押し出されたようにふらふらと歩き出した。理由はない。ただ——暇だった。数十分、気の向くままに足を運んだあと、不意に彼の動きが止まった。
沈黙のなか、彼は屈み、地面に手を置いた。指先が触れたのは、岩肌でも砂でもなく、均された土だった。生物の体温も、魔力の波動も、過去の爪痕さえない。無害。無音。無反応。そこに、己を邪魔する一切が存在しないことを確認した瞬間、彼は重力に身を委ねて腰を下ろした。
静けさを貪るように、眼を閉じ、呼吸を浅く整える。——まさしく、こういう場所を探していたのだ。
だが、それも長くは保たなかった。
「やっほ〜♪」
底抜けに陽気な声が、何の前触れもなく上から降ってきた。開けたばかりのまぶたに、眩しさすら感じる笑顔が飛び込んでくる。彼女——デリエリの姉は、いつものようにニッ、と唇を引いて笑い、その場に寝転んだ。
「……なんだい、また君か。」
モンスピートは一拍置いてから、まるで雨に濡れた服を脱ぐような嫌気を滲ませて言った。彼女の陽気さは、日照り続きの庭にばら撒かれる花火のようだった。賑やかで、美しくて、だがうるさい。静寂を求めていた彼にとっては、これ以上ない邪魔者である。
シッシッ
彼は手を振って追い払う仕草をした。すると、彼女はさらに笑みを深くし、同じ動作を真似て返してきた。人を煽る技術に関しては一流だ。
「おちょくってるのかい?」
「なぁに、あんたのことは私が一番知ってるもん。」
「そりゃそうだろうね……呼んでもいない、求めてもいないのに、ノコノコとやってくる。」
「つれないなぁ~、もうちょっと顔を緩めてもいいんじゃない?」
「緩めようとしたところにお前が来た。こわごわするに決まってる……」
「なんでだよぉ。私は別に、あんたの邪魔をしに来たわけじゃない。一緒に、のんびりしに来ただけ。」
「来る必要がどこにある。お前の妹と一緒に家にいればいいじゃないか。」
「今日いないんだよ、あいつ。『十戒』として女神族を討ちに行ってるの。しっかし大変だよね~『十戒』も。あのメリオダスってやつが、女神族の味方についちゃったんだからさ~。」
「他人事みたいに言うなよ。」
「だって他人事だもん♪」
モンスピートは、うんざりとしたように鼻から息を抜いた。
彼女はデリエリとは正反対だった。あの妹は、無表情を顔の標準装備としているような女だ。沈黙は美徳、感情は鎧の奥に隠し、笑顔など数えるほどしか見たことがない。だが姉の方は、全身から感情を洩らし続けていた。まるで割れた水差しのように、喜怒哀楽が絶え間なくこぼれていく。目元にすぐ涙をため、口元には絶えず笑みを湛え、怒るときは火山のように爆ぜる。
一体、どこでこの姉妹は分岐したのかと、モンスピートは何度か考えたことがある。
——そして、ある時ふと思ったのだ。「似ているところ」を探したくなった。
気味が悪い、と自分でも思った。だが、どうしても探したくなった。デリエリに似た何かが、この陽気な姉の中にもあるのではないかと。結果、彼が得た答えは——「後先考えずに行動している」という、実につまらない共通点だった。あまりに薄っぺらい一致に、モンスピートは頭を抱えたくなった。時間を費やしたことを、ほんの少し、いや、かなり後悔した。
「……なぁ、お前はなぜ、そこまで感情をこぼす。」
静けさの底から掬い上げるように、モンスピートは言った。その声は低く乾ききっていた。濡れた石を指先で弾いたように、淡々としていながらどこか痛々しい響きを孕んでいた。
「ん?どういうこと?」
彼女は首をかしげながら問い返す。いつも通りの能天気な声。だが、その裏に微かな揺らぎがあることを、モンスピートは聞き逃さなかった。
「そのまんまの意味だ。深い意図はない。」
「へぇ。珍しいじゃん。あんたがそんなこと言うなんてさ。」
「デリエリと比べてみると……どうにも、姉妹には見えなくなってくるんでな。似てるところといえば——姿かたち。そして、『後先考えずに行動する』、その二つだけだ。」
モンスピートの言葉に、彼女は「はは」と小さく笑った。乾いた笑いだった。落ち葉を踏んだときの音のように、どこかひりついた響き。
「……そうかもね。言われてみればさ。」
そう言って、彼女は背中から勢いよく起き上がった。それはまるで、長い間水面に潜っていた者が息を吐くような動作だった。
「……あいつさ、『十戒』に選ばれてから、変わっちまったんだよ。それまでは、私なんかよりずっと……いや、遥かに明るいやつだった。」
「……それは意外だねぇ。正直、全く想像がつかない。」
「だろ?でも本当さ。あいつは戦場に立つようになってから、徐々に変わった。『殺し』を覚えて、『失い』を覚えて、そして……『感情』を削り落としていった。」
その語り口は、最初こそ明るさを装っていたが、次第に色を失っていく。声の温度が下がり、言葉の端に濁りが混じる。それはまるで、冬の川に沈んでいく陽光のようだった。
「感情がいらないと思ったわけじゃない。でも、必要最低限に抑えるようになったんだ。私と話すときだけは、少しだけ……ちょっとだけ、昔の感情を見せてくれた。」
思い出は、蓋をすれば黙るが、完全に沈黙してくれるわけじゃない。記憶という名の押し入れの奥底で、息を潜めながら膨らみ、ある瞬間、雪崩のように堰を切って襲ってくる。
「けど……メリオダスが裏切ったときから、それがひどくなったんだよ。あいつ、私が一番覚えてほしくなかった『恨み』を覚えちまった…。」
言葉の鋭さが胸を裂く。彼女の声は震え、感情は溢れ出す泉のようにとめどなく流れ出した。
「私と話すことも減った。一晩中帰ってこない夜もあった。……お前だって知ってるだろ? あの子が感情を顔に出さなくなったの、最近のことじゃない。」
「……まぁね。ずっと彼女の傍にいたから……私には分かる。」
モンスピートはうなずいた。短く、しかし重たく。すると彼女は、ぽつりと呟いた。
「モンスピート……あいつを、もとに戻すことはできないかなぁ?」
足元に、何粒もの雫が落ちた。土が吸い込む暇もないほど、絶え間なく涙が零れた。モンスピートは、丸くすぼまった彼女の背をそっと撫でた。その手は大きく、指の動きには優しさが宿っていた。
「できないよ。」
静かな拒絶が空に沁みていく。
「『十戒』は魔神王直属の精鋭だ。メンバーの交代は可能だが、それには本人の許可がいる。それに……戦闘に全てを捧げた今の彼女が、それを許すとは思えない。もう少し早ければ、まだ……方法はあったかもしれないが。」
「…………そっかぁ、そうだよなぁ……!」
嗚咽とともに言葉が崩れ落ちた。顔は涙と鼻水にぐしゃぐしゃになり、頬は赤く染まり、唇はわななく。彼女はまるで、抱えきれない感情の瓦礫に埋もれた少女のようだった。モンスピートは小さく息を吐き、言った。
「だから……今の彼女を愛するしかない。君になら、それができるだろう?」
「……でぎる……!」
顔をくしゃくしゃにしたまま、彼女が叫んだ。感情がむき出しになったその顔を、モンスピートは一瞬だけ見つめ——すぐにそらす。
「……そんな顔を近づけるな。ほら、マントを貸すから拭け。」
彼女は差し出されたマントで顔を乱暴に拭った。涙と鼻水の痕跡を一掃するその手つきは、まるで劇の幕が切り替わるように唐突で、先ほどまでの泣き崩れた姿が嘘のようだった。そのあまりの変わりように、モンスピートはほんの少し眉をひそめた。もしかすると、あれは演技だったのではないか。そう錯覚するほどに、彼女の温度が一気に上がっていた。
「そうだな……なぁ、それをするために、何を贈ったらいいと思う?」
唐突な問いだった。感傷の余韻を蹴飛ばすような、軽やかで突拍子のない一言。
「……プレゼントかい?さあね、わからない。そういうのは……正直、不得手だ。」
モンスピートは苦笑いとともに肩をすくめた。
「う〜ん、じゃあ……無難にペンダントとかにするかな!!」
彼女は自分のアイデアに満足げに頷いた。その表情には一抹の迷いもない。
「……にしても、なんで急にプレゼントの話なんだ?そんなことをしなくても、君がいつも通り明るくしていれば、それで道は拓けるかもしれないじゃないか。」
「それ、何度もやってみたけど……全然ダメだったから。」
「……あ、そうなんだ。しかも"何度も"?本当に懲りないねぇ。」
「そりゃあだって、デリエリの姉だからね!」
満面の笑顔。先ほどまでの涙が幻だったかのような快活さ。あまりに切り替えが早すぎて、慰めた側としては滑稽に思えてくる。モンスピートは小さく溜息をつきながら、頬杖をついた。
「モンスピート。」
「ん? なんだい?」
「……お前、私がここにいると邪魔か?」
静かに、しかし芯のある声音だった。冗談めかした調子は影を潜めていた。
「いや、そんなことは——あれ?」
思わず口をついて出た言葉に、自分で驚いた。つい先ほどまで「これ以上の邪魔はない」と感じていたはずなのに。モンスピートは己の頭をぽりぽりと掻いた。心の内に渦巻く微かな齟齬に気づき、苦笑する。
「……そういえば、のんびりしたかったはずなんだがな。今はもう、そんな気分でもない。不思議な日だ。」
すべてを諦めたような声。それでいて、どこか受け入れている声音だった。
「ははは!ほぉら、面倒くさくないだろう?本心はそうなんじゃないかな〜って思ったよーー!」
「……あまり調子に乗らないほうがいい。燃やしちゃうよ。」
「あ、ごめん……あはは。」
小さな沈黙が流れる。そして、彼女は顔をほころばせて言った。
「こうやってあんたといるときが一番、落ち着く。」
「……」
「昔はね、デリエリといるときが一番だった。でも……今じゃ、あいつは遥か遠くへ行ってしまったような気がする。距離じゃなくて、心の話だよ。けど、そんな私に、あんたは声をかけてくれた。」
その瞳には微かな光が宿っていた。名残火のように、消えかけてはまた燃え上がる小さな輝き。
「デリエリの隣にいたとき、お前があまりにも物悲しそうだったからな。……今となっては、『声をかけなければよかった』とも思ってるよ。」
「ま〜た強がり言っちゃってさ。」
「……はぁ。」
「私、あんたを求めてる。だから、今日だってあの険しい山を登ってきた。」
モンスピートの眉がわずかに動いた。彼女がここに辿り着くまでの道のりを思い浮かべた。そこは、岩肌が鋭く、風が吹きすさぶ獣道。半歩でも踏み違えれば、咆哮を上げる魔獣どもの餌食になるような、非戦闘員立ち入り禁止区域。そんな場所を、彼女は一人、命綱もなく登りきったのだ。
奇跡のような偶然の連続で無傷で来れたに過ぎない。ほんの少し歯車が狂えば、今この場に彼女の姿はなかったかもしれない。その事実が、じわりと重さを持って胸に沈んだ。
「……一人は、寂しいからさ。」
その一言が、すべての核心だった。モンスピートはふっと目を細めると、わずかに表情を歪めてつぶやいた。
「……興が冷めた。」
「へ?」
間の抜けた声を上げた彼女を、モンスピートは何の前触れもなく抱き上げた。彼女の身体は宙に浮き、彼の腕の中で軽やかに揺れた。
「……一緒にプレゼントを買いに行こう。」
そのささやきは、春先の風のように柔らかく、耳の奥にすっと沁み込んでいった。彼女は嬉しそうに頷いた。
そして、二人は街へと向かい、ペンダントを購入した。細い銀鎖に、小さな紫水晶が灯るものだった。出費は痛かったが、彼は何も言わなかった。彼女の笑顔が、それに勝る報酬だったからだ。
「ありがとう」
彼女は声も動きも大きかった。両腕をブンブンと振り回しながら、まるで舞台の上で大団円を演じる役者のように、モンスピートへと手を振って去っていった。その後ろ姿がやけに目立って、彼は顔をしかめながら呟いた。
「……変な一日だったな。……まぁ、いいとしよう。」
彼の言葉は風にさらわれ、空へと溶けていった。
それから、わずか一日が過ぎただけだった。にもかかわらず、時の流れはどこかぎこちなく、呼吸のリズムを狂わせるように歪んでいた。
その朝、モンスピートはデリエリと共に、女神族討伐の任に就いた。空は曇天、曖昧な光が地を照らし、まるで神々がその存在を隠すかのような、密やかな天の帳が広がっていた。風は重たく、空気は湿っていた。森を吹き抜ける音にすら、何かの前兆のようなざわめきがあった。
隣を歩くデリエリは、相変わらず感情の起伏を面に表すことがなかった。だがモンスピートには、その無表情の下に、硬く結ばれた唇の陰に、微かな綻びがあるのを見逃せなかった。
「……何かあったのか?」
足を止め、彼は問うた。静かながらも鋭く、相手の内奥に踏み込む声音で。するとデリエリは、まるで胸中にこびりついた棘を引き抜くように、一瞬顔を歪めた。そして、拳を握り、胸元をぎゅっと押さえるようにして、声を絞り出した。
「……家に帰って……姉貴が、いなかったんだ」
その瞬間、周囲の世界が一拍遅れて反応したようだった。風の音が遠のき、鳥の声も止んだように感じた。
「近くには……血の跡があった。姉貴のものと思われる、少量の……。しかも、家の壁には……抵抗した跡があったんだ。手の跡が、くっきりと……!」
彼女の声は、今にも崩れ落ちそうな橋のように不安定で、それでいて最後の一語にすがりつくように、叫ぶように続けた。
「……なにか……知らないか?モンスピート……教えてくれ……!!!」
その言葉には、強さも怒りもなかった。あるのはただ、妹としての、ひとりの家族としての、どうしようもない脆さと願いだった。
モンスピートは、返す言葉を持てなかった。心の中に冷たい波紋が広がる。昨日の記憶が、鉛のように胸に沈んでいく——。
ペンダントを買って、別れたあの瞬間。彼女が手を振り去っていった、その背中を見送った。あのとき、もし一緒に帰っていれば。あのとき、彼女を家まで送り届けていれば
思考は茨のように絡みつき、後悔は毒草のように心を蝕んでいった。あの笑顔が、あの「ありがとう」が、今となっては刃のように突き刺さる。
そして、彼女が再びその姿を現したのは、それから間もないことだった。
妖精王の森。かつて精霊たちの囁きが満ち、澄み切った魔力が静かに流れる神域。そこに、突如として天を裂くような光が走った。天蓋を破るように出現した巨大な聖櫃——白金に輝く意志の器。神の威光を携えた絶対の審判装置。
その光の中に、彼女はいた。
倒れていたのでも、血まみれになっていたのでもない。まるで聖なる炎に身をさらしながら、なお凛と立つ蝋燭のように——細く、揺らぎながらも、確かにそこに。
────
「……どうした、モンスピート。」
デリエリの、鋭くも柔らかな声が横から差し込んできた。その瞬間、モンスピートの身体はびくりと小さく跳ねた。氷の上を歩くような不安定な思考が、唐突に現実へと引き戻される。
「!?ああ、いやいや……なんでもない。ちょっと考え事をね……」
口元を引きつらせながら、慌てて取り繕う。本能がそうさせた。彼女の前では、不用意に心の隙を見せてはならないと。手は無意識に顎髭へと伸び、軽く捻る。逃げ道のない会話から目を逸らすように。デリエリはそれ以上追及せず、腕を組んで腰を下ろした。小柄な身体からは想像できぬほど、静かな気迫が滲む。
「……ガラン様、ありがとうございます。助けられました……!!」
「カカカッ!ナァに、どうってこたナァい!」
砕けた笑い声が山間に響く。魔神の古強者、ガランは満足げに肩を揺らした。四人の体力は徐々に回復しつつあった。空気にはわずかに穏やかな魔力が満ち、束の間の平穏が訪れたように思えた。
だが——
ドン。
大地が鳴った。いや、それは単なる震動ではない。空間そのものが一瞬、軋み、震えたのだ。まるで見えぬ巨神が天を踏みしめたような、圧倒的な存在の到来。理性が音よりも先に「危険」と叫ぶ。本能が、逃げろと叫ぶ。だが、逃げられるはずがないと、誰もがすでに知っていた。
「ハッ、危ない!!」
フラウドリンはすぐさま「巨大化」を発動し、三人を豪腕で掴み、衝撃の中心から放り投げた。その瞬間、大地へと白雷が落ちた。聖なる閃光、それは怒りでも慈悲でもない——ただ、裁きだった。
その閃光の中から現れたのは、一人の男。薄く笑う唇、冷然とした瞳、装束に刻まれた神聖文字。そして背中に広がる翼は、太陽の残光のように金白く輝いていた。
〈四大天使〉、リュドシエル——
「はじめまして。さようなら。」
声は軽やかでありながら、無慈悲の刃であった。その四語だけで、場の空気がすべて塗り替わった。山も、風も、虫の羽音さえも、その刹那に沈黙する。
「——ほざけェ!!!!!!」
怒号とともに、三体の魔神が躍動する。戦の幕は引かれた。激突は避けようのない宿命となった。モンスピート、デリエリ、そしてガラン。いずれも歴戦の猛者、肉体も魔力も回復し、死線をくぐった者たちの鋭さを取り戻していた。
しかし——リュドシエルは違った。
攻撃を「見る」ことはしない。彼は感じ、読み、捉える。視覚の域を超えた直観的知覚により、攻撃の起点すら許さず、まるで未来を知るかのように位置をずらす。そして、完璧な「当たり角」を即座に算出し、そこへ神速の光刃を放つ。一瞬の判断と動作が、すでに術式の域を逸脱していた。
「フン。」
つぶやくように吐かれた声とともに、聖なる光が魔神を貫いた。その光には刻まれていた——神の紋章。かつてエリザベスの瞳に宿っていた、あの禍々しくも清らかな印。焼け爛れる肉体。削り取られる魔力。回復など意味をなさぬ、聖の極点。
「ぬオォォアぁぁ!」
ガランの斧刃が振り下ろされる——しかし、切り裂かれたのは幻。残像すら掴めない。リュドシエルの実像はすでに背後にあり、沈黙のまま青白い閃光を放つ。
「汚物が喋るでない。気味が悪い。」
青の残光が、右端に走った。その腕が、剣と化した。一本の刃、それも斬鉄の如き意志を持った「神意」そのもの。振り抜かれた光の一閃が、老いた魔神を幾重にも刻む。
始まりから終わりまで、わずか0.8秒。その速さは雷鳴よりも迅く、光よりも静かに。
地に伏した身体を支えながら、ガランははっと我に返る。身体は痩せこけ、意識は靄の中にありながら、なお明晰だった。体を見ると、痩せている。意識も正常に保てている。「臨界突破」が終了したのだ。それすなわち魔力が底をつきたということ。
だが、ガランはその理を知らなかった。その力の発現方法も、消耗の代償も、何一つ知らぬまま。だから彼は立ち上がる。膝に力を込め、リュドシエルを指差す。
「お主……なかなかやるのぉ。今のは、確実に殺す勢いでいったんじゃがの……」
ガランの声音には、どこか興奮と恐怖が同居していた。重戦車のような巨体の胸奥で、心臓が不規則に脈打つのを感じる。彼のような魔神でさえ、リュドシエルという存在に「格の違い」を本能的に悟らされたのだ。
「何……貴様ら如きに、私を殺せる道理などない。殺されるのは……貴様ら、醜悪なる下等種まじん族が。」
リュドシエルの声は氷刃のように鋭く、冷たい。尊大な言葉ではあったが、そこに迷いは一片もなかった。己が絶対正義であると信じて疑わぬ眼差し。神の代弁者のようなその態度に、魔神たちの怒りが沸点を超える。
「……貴様だな。」
低く呟くデリエリの声に、空気が張り詰める。
「ん?」
「わかるぞ……貴様が姉貴を殺したんだなッ!!」
裂けるような怒声とともに、デリエリの瞳に血が滲む。拳が震えていたのは怒りのせいか、それとも恐怖か。いや、その両方だ。
「ああ……あの、お前によく似た娘のことか。捕らえるのに少々手こずった。無駄に抵抗するからな……」
涼しい顔で答えるリュドシエル。その言葉は、デリエリの胸に燈る怒火へ、冷油を注ぎ込んだ。"無駄に抵抗する"——その一言に、彼女が最期まで諦めなかった事実が、残酷な美しさを持って刻まれていた。
「ほう……君だったか。……元より許す気などなかったが、ますます許せなくなったよ。」
モンスピートの声は、静かで、冷ややかで、燃えていた。熱を殺した怒りが、逆に凶々しい気配をまとっていた。
「全く……人の命を弄ぶとは。少しは悲しめ。罪の意識を持て。……天使の名が泣くぞ?」
「罪など持つ必要はない。我ら気高き〈女神族〉の行うことは全て『善』!貴様ら下等なる魔神が行うことは全て『悪』であり、『罪』である!!」
狂信。驕り。否、絶対的な信念。言葉に込められた確信が、彼の歪んだ正義をさらに鮮烈にした。これほどまでに純粋な悪意は、逆に恐ろしい。疑いがない。揺らぎがない。それが、最も始末に負えない存在の形だった。
「話が通じんか。」
「……そうみたいだね。」
モンスピートとデリエリは目を交わし、短く頷いた。
「じゃあ、殺すか。」
「おうッ!」
リュドシエルは笑った。鼻で笑うのではない。声を上げて、高らかに。彼にとっては冗談のような言葉だったのだ。己に挑むには、あまりにも愚かで、滑稽。——絶対に勝てるはずがない。そう断じていた。どれほどの恨みを抱こうが、どれほどの怒りを胸に燃やそうが、無力な者にとってはただの空焚き。炎ではなく、煙にしかならぬと。
だが——彼には理解できなかった。なぜ、彼らが微笑むのか。
「お前の言う通りだ。私たちは、お前を殺せない……『今、この状態では』な。」
「!?……何?」
リュドシエルの眉が、かすかに動いた。聞き慣れない響きがそこにあった。「未完成の覚悟」ではなく、「完成された覚悟」の匂いが。笑いが、消えた。
「ガラン……ここまでのようだ。お前には感謝している。面白く、救われる時間だったよ。だから——フラウドリンを連れて、ここから離れてくれ。」
「何を……モンスピート!何をする気じゃ!?」
ガランの叫びに、モンスピートは静かに答える。
「……『死ぬ』のさ。」
その言葉にこめられた音が、妙に澄んでいた。諦めではない。解放でもない。ただ——決意だけが、研ぎ澄まされた刃のように、その一言に宿っていた。
あの瞬間、ガランの脳裏に再び、過去の記憶が蘇った。かつて戦場で出会った、歳上の友。気丈で頼りがいのある男だった。別れ際、彼は微笑んで言った。
「じゃあな。忘れるなよ。」
その笑顔が、今のモンスピートと重なる。後日聞かされた、彼の死。自爆特攻の命を受けていたのだという。あの笑みは、覚悟の笑みだったのだ。
「……そういうことか。」
ガランは呻くように呟き、小さく頷いた。そして全力で駆け出す。大地を蹴り割るように走り、フラウドリンのもとへたどり着く。
「撤退するぞ!!」
「な、なぜですか!?私はまだ戦えます!!」
「違う。……奴らは、何かをする気だ。」
ガランの声に、抗う余地はなかった。
その刹那、モンスピートとデリエリは無言のまま両の腕を天へと掲げた。ただ掲げただけ。しかしその動作には、異様なまでの決意と、常軌を逸した静けさが宿っていた。リュドシエルの眉が僅かに動く。視線の底に、不可解の色が滲んだ。魔力の震えも、呪文の詠唱も、霊的な気配すらない。ただ沈黙だけが、血よりも濃くその場を支配していた。
次の瞬間——
ズブリという生々しい音が、空気を裂いた。己が両の掌を、ためらいもなく胸元へと深々と突き立てたのだ。まるで、心臓という名の聖域を、自らの意志で穢すかのように。
「……ッ!」
指先から鮮血が噴き出す。それはまるで、命そのものが破れたかのような、赤黒い花の開花だった。その液体はただの血ではない。彼らの決意、憎悪、断ち切れぬ執念が煮えたぎるかのように、熱を帯びて地に落ちた。
苦悶の表情が顔を歪め、眼はかすかに虚空を見上げた。そこに、神も救いもないことを、すでに知っている者の目だった。
そのとき、リュドシエルが思わず顔を背ける。その視線の先に——逃げるガランとフラウドリンの姿があった。
「………逃がすものかッ!」
リュドシエルが咆哮するや否や、モンスピートの口から炎が奔流のごとく解き放たれた。それはもはや攻撃というより、呪いに近い。執念と絶望の獄炎。リュドシエルの全身を包み込み、神衣を焦がす。
だが、彼らに必要だったのは、ほんの数秒——ただそれだけ。
二人は胸から手を引き抜いた。すると掌の中で蠢くものがあった。六つの心臓——魔神族にしか存在しない、命の核。それらは今も鼓動していた。死を拒むかのように、最後の力を振り絞って脈打っていた。
しかし、二人はその躊躇すらも容赦なく握り潰した。ぐしゃりと音を立てて。返り血が顔に降り注ぎ、彼らの輪郭を塗り潰していく。まるで血のマントを羽織ったかのように。
「我が……六つの心の臓と贄を捧げ契約する……!!!」
「解放せよ……我が魂に内在されし本性を!!!!」
その瞬間、胸の奥深く、最後の一つの心臓が破裂する寸前に巨大な鼓動を鳴らした。
ドクンッ!
彼らの全身に奔るのは、あらゆる魔力の理を凌駕した力。理性を切り落とし、記憶を燃やし、己という存在そのものを捧げるほどの……神への反逆そのものだった。肉体が軋み、骨がきしみ、筋肉が膨張する。皮膚が裂け、異形の何かが這い出てくる。内側から張り裂けるような痛みは、まるで自らが「人型」という檻を破る儀式であるかのようだった。
この姿を——
魔界の住人は「呪われた獣」と呼ぶ。
その名は、インデュラ。
数は少ない。否、少ないのではなく「ならぬ」のだ。なぜなら、インデュラとは魔神族にとっての禁忌。己の六つの心臓をすべて捧げ、獣の契約を交わした者の末路であるからだ。
その存在には理性がない。記憶もない。ただ破壊のみを悦びとし、血の香りに酔い、存在するすべてを蹂躙し尽くす。善悪の観念を持たず、命を踏みつけることに迷いもない。魔神族の中ですら忌み嫌われ、遠ざけられ、名を語ることさえ避けられた存在。最強ではない、最凶であるがゆえに。
この変貌を遂げた者に、もはや戻る術はない。かつての名も、記憶も、愛も、すべては業火の中に焼かれ、風化し、灰と化す。
それでも、彼らは迷わなかった。
同胞の仇を討つために。己のすべてを賭して、"理性"という最後の砦を焼き払い、獣と化した。記憶が消えるなら消えていい。名前が失われるなら失われていい。それでもこの怒りと、この憎しみと、この愛だけは——獣になろうとも、どこかに残るはずだと、そう信じながら。
そして今、インデュラは新たに二体、戦場に現出した。
一体は女だった。もはや名前も記憶も意味を持たぬ"それ"は、かつてデリエリと呼ばれた魔神族。長くしなやかだった髪は逆巻く棘となり、見る者の視線を刺す黒鉄の鞭と化した。右腕は蟹の鋏に変じ、異様な光沢を帯びてうねる。その形状は、神経毒を含む獣の触腕か、処刑台の断頭器か。口から漏れる咆哮はもはや言語ではない。燃え滓のような声帯が震え、空を引き裂く。
もう一体は、〈十戒〉の中でも群を抜いて強い存在——モンスピートだった。両腕は数を増し、十を超える触腕が蠢く様は、深海に棲まう異形の神を思わせる。蛸にも似たその四肢は、風も地も拒むように滑らかで、無音にして粘着質。何一つ叫びを発さずとも、周囲に充満する威圧は、まるで山そのものが唸るようだった。沈黙こそが暴力であることを、彼の存在が証明していた。
空には女神族の一柱、リュドシエルが浮かんでいた。その眼は高慢に細められ、唇には嘲笑の余韻が宿る。醜い化け物が、さらに醜く成り果てただけ。下劣なる肉塊に、神の理が届くはずもない。彼はゆったりと手を前に伸ばした。処刑に値する塵芥を片付ける、それだけの動作だった。
だが次の瞬間、その世界が反転した。
「ガァァァルァァッ!!!!」
空気を裂く咆哮。時間すら切断するような、狂気の速度。インデュラと化したデリエリの巨大な鋏が、閃光よりも速くリュドシエルに襲いかかる。
それはもはや"動き"ではなかった。"瞬間"であり、"災厄"であり、"死神の手"であった。
神速の刃が空間ごと抉る。リュドシエルの研ぎ澄まされた神経すら、その一撃を認識することができなかった。真正面から現れた獣が、そのまま右腕で薙ぎ払う。ただそれだけの単純な動作——にもかかわらず、防御も回避も不可能だった。
彼の体は空中で捻れ、軌道を失いながら大木へと激突した。ゴッという音が地鳴りのように響き、樹皮と血が空中に混ざった。だがそれで終わりではなかった。衝撃の勢いは止まらず、彼の身体は次なる木々を——三本、四本、五本と——まるで乾いた紙のようにへし折っていく。
それはまるで、落ちてくる彗星が森を薙ぎ払うような光景だった。
彼の高貴なる名が、血に塗れた泥濘の中に落ちた。この"リュドシエル"が、敵の攻撃を受けた?この私が、地に叩きつけられた……?
頭が追いつかない。だが、現実は一片の容赦もなく、彼の誇りを踏みにじった。
「汚らわしい……ケダモノ風情がぁ……!この私に、傷をッ!」
絶叫。その声は怒りというより、恐怖と混濁した屈辱の嘶きだった。この男が、初めて恐怖を知った瞬間だった。天上の神が、地の泥濘を初めて舌の上で感じた瞬間だった。
だが、返す声があった。
「ガアアアア!!!ウオォォォアアッ!!!!」
インデュラと化したモンスピートが吼える。その声は空を割き、大地を震わせ、神の威光すら掻き消した。理性など、もうどこにもない。意思など、もはや残っていない。
あるのはただ、破壊。復讐。憤怒。滅却。
かつてそこに"モンスピート"という名の男がいた。静かで、冷徹で、愛する者のために己の命を捨てた男が。今の獣の中に、その面影はない。記憶も、名も、声も、すべて燃え尽きた。
だが——それでも、獣は前へと進む。
聖戦の終局は近い——だがそれは、神の勝利などではない。もしかすれば、全ての者が思い違いをしていたのかもしれない。
勝者となるのは……神ではなく、魔神。その中でも、理を超えた獣たちなのかもしれない。
いや——もしかすれば、勝者など、どこにもいないのかもしれなかった。