「十戒なぞ……所詮は、醜い獣。」
ネロバスタの口から漏れた声は、感情の色を完全に剥ぎ取られた、機械音のようなものだった。彼女は、まるで祈祷書の文言をなぞるだけの修道士のように、同じ言葉を何度も繰り返していた。問いかけたゴウセルは既に次の興味に移っていたが、ネロバスタはその小さな舞台の上で、なおも忠義という名の台詞を吐き続ける。
徹底された洗脳。されどそこに滲むのは、根本にあった忠誠の残滓か。
それを見たゴウセルは、音もなく手を二度叩いた。嘲笑ではない。静かな、機構に対する敬意だった。
「リュドシエル様は最高の狩人。獣を追い込み、確実に仕留める者。……その行為に、"失敗"の二文字は、存在しないわ。」
それを聞いていた者がいた。
メラスキュラ。陰の香を纏うかのごとく佇んでいた彼女は、唐突にくるりと身を翻し、ネロバスタへとその冷えた視線を向ける。その目には、愚者に向ける憐憫すら浮かばない。
「頭の悪い"コ"ね。」
言葉の刃は甘く柔らかい。しかし、その裏にあるのは、女王蛇の冷たい毒。
彼女は知っていた——「十戒」の最終手段を。そして、ここに向かう道中で、その最終手段を用いる「覚悟」が、彼らの内に確かに芽吹いていたことも。白く美しく整った唇が裂け、顔の下半分が歪みに転じる。蛇のように異様な長さを持つ舌が覗き、毒牙がぎらりと光る。その口から紡がれた言葉は、まるで呪いを孕んだ真理だった。
「残念。それは、"ただ"の獣だった場合の話よ……。」
言葉とともに空気が凍る。脳髄に毒を垂らすようなその一言は、事実の牙を突き立てた。
そう、彼らは"ただ"の獣ではなかった。理性と引き換えに、六つの心臓を供物として差し出し、"禁忌の獣"——インデュラとなったのだ。
そしていま、その二体の存在は、女神族の神聖なる均衡を——決定的に崩壊させていた。
デリエリ。彼女は鋏の如き腕でリュドシエルを叩き伏せた。その一撃は、光の速さすら追い越す"本能"の奔流だった。空間の裂け目から飛び出した悪夢のように、彼女は回避も防御も許さぬ速度でリュドシエルを殴りつけた。その拳が振り下ろされたとき、理も秩序も意味を失った。
風が叫び、森が泣いた。
彼の体は空中を舞い、大木に激突し、幹を裂き、次なる木々すら連鎖的にへし折る。それは肉体の暴走ではなく、力という名の黙示録。神の「余裕」が朽ちた瞬間だった。
ガランは、己の瞳が捉えた現実に言葉を失っていた。まるで山そのものが拳を持ち、雷鳴の如く振るわれたかのような——そう錯覚するほどの衝撃。たとえ同胞であろうと、あの一撃には恐怖すら抱く。脊髄が冷えた。ガランは思わず叫んだ。
「フラウドリンよ!早う撤退しようぞ!」
その声は怯懦ではない、本能の叫びだった。フラウドリンもまた、その異様さを悟っていた。顔面は蒼白に染まり、口元から搾り出すように言葉が漏れる。
「は、はい!……しかし、あの変化……あれは……」
「む?なにか知っとるのか?」
「少しだけ……いえ、ごく断片的な伝承を耳にしたことが……。あれは——破壊の権化「インデュラ」。魔界の底の底、光の一滴すら届かぬ瘴気の沼にのみ棲まう、呪われし獣。魔神族でさえ、その名を口にすることを避ける伝説の化生……!」
その言葉に、ガランの瞳がさらに大きく見開かれる。
「……なんと、聞いた感じではとんでもない奴らしいのぉ。実際、さっきの一撃、格が違う、否、あれは次元そのものが違っておる!」
フラウドリンは頷きながらも、喉の奥で呻くように言葉を続けた。
「それでも……あのお二人が、あのデリエリ様とモンスピート様が、禁を破ってまでインデュラ化を選んだとは……!」
そこには驚愕と、そして一抹の悲しみすらあった。
モンスピートは言っていた。ここからは下がってくれと。戦列から離れていてほしいと。なぜなのか? 彼らの戦いに、力を貸すことすら許されないのか? よくよく考えずとも、我々は仲間だ。助け合えるはずだ。そう思っていたガランが、疑問をそのまま口にした。
「なあ、フラウドリン……儂らは、足手まといになるから、か?」
フラウドリンは静かに首を振る。そして、ゆっくりと語った。
「……それは、"インデュラの性"にあるのかもしれません。」
「性じゃと?」
「はい。これは聞いた話でしかありませんが……インデュラへと変貌した者は、理性も本来の姿も失う。理や秩序の仮面を剥ぎ捨て、本性が曝け出される。"敵と味方の区別がつかない"。かの獣は、ただ一つ、"闘争本能"だけを指針として動く存在……!」
「元に戻ることは?」
「私が知る限りでは、不可能です。最後の心臓を燃やし尽くすまで、暴れ続けます。それを知っているうえで、二人は発動したのです。」
ガランは唸った。思考ではなく、深部から滲む納得。
——自我を捨ててでも戦う覚悟。
——勝利を奪うための捨て身。
それほどまでに追い詰めた〈四大天使〉、とりわけ——リュドシエルという男。
そしてそのリュドシエルは、今、烈火のごとき怒りに燃えていた。この気高き神の顔に、獣風情が傷を刻んだのだ。それは、彼にとって神性の侮辱に他ならなかった。
「汚らわしき畜生が……この私に傷を……!」
言葉が終わるや否や、彼は指を組み、光の奔流をその掌に凝縮する。
《聖櫃》
あらゆる闇を裁く、女神族の至高の術式。その光は太陽を凝縮したかのような輝きを放ち、まっすぐにデリエリへと放たれた。
だが——彼女は、動かなかった。
目の前に迫る滅びの光に、彼女はまるで像のように直立し、一歩たりとも動こうとしなかった。
「な、なぜだ?なぜ動かん……」
叫びが空を裂く。聖櫃はそのまま直撃し、デリエリの姿を光の奔流が呑み込む。あまりに眩く、視界は一瞬白で満たされた。
「……そうか。」
——勝った。彼は確信した。
この高貴なる神に、逆らえる存在などないのだと。あの女は、恐れをなして硬直した。怒りの圧に膝を折った。まるで蛇に睨まれた蛙のように。魔神族など、所詮は取るに足らぬ雑種——その確信が、脳髄に甘い悦びを齎した瞬間だった。
しかし。
光が晴れた次の瞬間、その確信は氷のように砕け散った。
デリエリは——無傷だった。
皮膚一つ焼け落ちていない。立ったまま、こちらを睨みつけている。その双眸は血のように赤く、闇よりも深く、怒りと本能に燃え上がっていた。そして、その背後にはもう一体。触手のような腕をうねらせ、微動だにせず、こちらを注視しているモンスピートの姿があった。
リュドシエルは震えた。——これは夢ではない。否、願望すら通じぬ、現実だ。
忌むべき化け物たちが、静かに、だが確実に、己を引き裂かんと狙いを定めていた。
「あいつの活躍もこれで終いじゃろう。早かったな……。」
「おのれ馬鹿な……こんなことが!!」
感情の奔流が声に乗る。それは抗いようのない現実への抵抗であり、理屈を打ち砕くほどの混乱だった。
そのとき、空が震えた。天の裂け目から、二つの神気が急降下してくる。
サリエルとタルミエル。女神族の聖光を纏いし双翼の戦士たち。
だがその姿は無惨だった。聖櫃の反動で深く削られ、羽根は裂け、体表は黒く焼け焦げている。それでも彼らは回復術で辛うじて身を立て直し、この戦場へと舞い戻ってきた。だが、眼前に広がった光景は——彼らが知る戦場ではなかった。
そこには、異形の"獣"がいた。
かつて十戒と呼ばれた者たちの、変わり果てた末路。筋肉は裂けてなお膨れ上がり、骨格は原形を失って軋み、肌という肌から瘴気が滲み出していた。それはまさに悪夢が具現化したような眷属——理性なき破壊衝動の化身、インデュラ。その姿を見た瞬間、サリエルとタルミエルの内に宿る女神としての尊厳すら、一時的に凍りついた。
——彼らの耳に、震える怒声が飛び込んだ。
「サリエルッ!タルミエルッ!何を傍観しているのだッ!貴様らも手伝わぬか!」
それは、リュドシエルの叫びだった。
高潔なる四大天使の首魁。常に威厳を崩さず冷徹であるはずの彼の声が、いまや焦燥に満ち、かすれ、怒りとも恐怖ともつかぬ震えを帯びていた。その声は語っていた——目の前に立つ存在は、「たかが魔神族」などではない、と。
二人は動いた。手傷を癒す間も惜しみ、再び戦地へと舞い戻る。だが、まさにその瞬間、
それは起こった。
モンスピートが動いた。蛸のように異様に伸びた腕が、空を裂き、天使たちを絡め取る。その捕縛は、まるで死神の腕が魂を縛るがごとく、冷酷で、確実だった。
捕らえた者は、「敵」だ。彼の中に宿る闘争本能が、そう断じていた。
その瞳が、ぼけた魚のような虚ろな視線から一転、ギョロリと回転し、サリエルとタルミエルを射抜く。次の瞬間、彼は呪文を紡いだ。
―オレイケテバス―
それは火とは呼べぬ。もはや灼熱そのものが具象化した災厄だった。大地を裂き、樹木を蒸発させ、空気を灼き尽くす業火が、天をも焦がすかの如く噴き上がった。あたり一帯は火口に変わり、森は一瞬で「無」へと還された。
リュドシエルは光の障壁を展開するのが精一杯だった。眼前の存在に、初めて"自分より強いかもしれない"という恐怖がよぎる。そのわずかな動揺が、口を突いて出た。
「こ……この化け物共が……!」
天使にあるまじき言葉。——それは、認めてしまった証だ。この闘いは、「秩序」と「混沌」が対等に交差する戦場であると。
その隙を狙い、デリエリが跳んだ。その動きは、雷光のように鋭く、獣のようにしなやかだった。鋭利な髪が槍のごとく伸び、リュドシエルへと襲いかかる。寸でのところで彼は回避したが、その一撃は森の地表を突き抜け——
爆ぜた。
地鳴りと共に、天地を喰らうかのような爆発が起こった。まるで山が息を止め、地の底から咆哮を上げたような轟音。大地はひっくり返され、樹々は塵と化した。リュドシエルは蹴り飛ばされる。空中で数度跳ね上がり、まるで鞠のように翻弄されながら、地へと叩きつけられた。自身の結界も割れ、聖衣の一部は焼け焦げている。
「……あり得ん……こんなことが!醜き存在ごときが、〈四大天使〉を前に……!!」
その視線の先に立つ二体の"化け物"。彼らの身体から立ち上る瘴気は、夜を呑み込む沼のように深く、重く、邪悪で、まるで"この世の理"に対して真っ向から否を突きつけるような、絶望の象徴であった。
────
一方その頃、森の奥——撤退を続けるガランとフラウドリン。
大地は呻き、木々は断末魔を上げて裂けてゆく。瓦解する森を駆け抜ける彼らは、倒れている一つの影を見つけた。
「こ、これは……!?女神族の娘!!」
フラウドリンが驚愕を込めて叫ぶ。それはエリザベス。気を失っている、白き乙女だった。
だが次の瞬間、大地の震動が変わった。
ドシン……ドシン……と、規則的な足音。だがそれ以上に、ガランは肌を刺すような違和感を感じ取った。近い。自分たちと同等の、否、それ以上の"力"を持つ存在が、こちらに向かっている。ガランの顔が険しくなった。フラウドリンはまだ気づいていない。ならば、逃すなら今。そう判断した。
「し、しかし……!」
「お主の口ぶりで悟ったよ。敬語…つまり儂より下の立場。ならば命令に従え。そして、飛び方を教えてくれた恩もある……それに報いるだけじゃ。行け、フラウドリン。」
「……すみません。ではガラン様、どうか……どうかご無事で!!」
フラウドリンは一閃のように飛び去り、ガランはただ一人、暴風の兆しの中に立った。風の音が止み、空気が硬直する。来た。
魔神族と巨人族——まるで災厄の二重奏。しかも、その魔神の瞳は、地に横たわる女神族へと焼けつくような視線を注ぎ、そして次に、ガランを貫いた。
「メリオダス、この男は一体…!」
(メリオダス、まだここに来る前に、デリエリが言っておったな。となればこの小さいのが……魔人族の裏切者か。)
「ガラン…お前がエリザベスを……!」
「待て。メリオダス…でええんじゃろうな?……『お前』っちゅう呼び方は正確ではないな。やったのは〈十戒〉、その中の一人、デリエリという娘じゃ。」
「…………なんだと?」
「嘘じゃないぞ?お前らも知っておるかもしれんが…巨大な"聖櫃"というもんが現れてな、捕虜の魔神族どもを皆殺しにしおった。……それが引き金よ。」
「……お前の戒禁が発動しない。つまり、本当か……。……で、何をしにここへ来た?」
「助けに来た。」
一瞬、メリオダスの眉が跳ねた。だが、それを怪訝に見やるのは隣の巨人——ドロール。その巨躯に似つかわしくないほど慎重な声色で、彼は言った。
「助けに来た……?すみませんが、それは信じられない。〈十戒〉の一人である貴方が、敵に与するなどと……」
そのとき、メリオダスが口火を切る。言葉は氷のように冷たく、刃のように鋭い。
「ドロール、こいつの言っていることは本当だ。」
「!?メリオダス、それは何故……!」
「——"真実"のガラン。こいつの戒禁、《偽りを述べし者は石と化す》。己自身にも例外はない。」
「ということは……本当に……」
「助けに来たと言っとるじゃろうが。その前にも、一人仲間を逃しとるが。」
「……フラウドリンか。」
「そうじゃ。」
ガランがフラウドリンを逃がした理由。それは今、目の前にいるこの二人にあった。巨人の方はよい。だが裏切りの魔神族ともなれば、その裏切り者に憤怒の火を燃やしかねない。激情に任せて突撃しかねぬ。それを見越し、退路を与えたのだ。計算された一手。
だが——そこまでだった。肝心の「助け方」については、白紙だったのである。
「おいおい……。」
メリオダスが呆れたように言葉を漏らす。
「ま、まあ……あの二人を止めるのが本来の目的じゃ。どうにかしてな。」
「……あの二人……まさか、あの禍々しき気配の主が……?」
「間違いねぇ……あいつら、"インデュラ"になっちまったんだ!!」
「インデュラ?それは一体……?」
「"十戒"が、己の心臓六つを代償に変貌する、禁忌の終末形態だ。理性を失い、本能だけが支配する……破壊の化身。」
「な、なんですって!?では、このブリタニアは……!」
「止める手段があるとすれば……あいつらが最後の心臓を燃やし尽くすまで待つこと。だが、それじゃ"後の祭り"だ。ブリタニアは焼け野原、冥府すら棲めぬ廃土と化すぞ……!」
「そんな……!!」
「だから、協力を乞うた。手のつけようのない狂気には、狂気をもって応じるしかない。……ある程度は偶然じゃがな。」
「………そうだな、今は俺たちも本気を出すときだ。利害は一致してるし。……っと!その前に俺にはやるべきことがある!」
その言葉とともに、メリオダスは大剣を地面に突き立て、目の前の結界、女神族の力で張られたその魔障の内に、両の手を差し入れる。
「な……!メリオダス、それは!」
「何をしようというのじゃ……お前さん、その娘を助けるつもりか?」
「ああ、そのつもりだ。」
その声には、一片の迷いもなかった。
しかし、触れた瞬間にその手は焼かれる。肉が裂け、骨が剥き出しになっても、彼は一歩も退かない。
魔神と女神、相容れぬ存在の"交わり"が、これほどまでの苦痛を伴うというのに。だが、彼には理由があった。彼女は"運命"——それ以外の言葉が、もはや彼には見つからない。助ける、それだけだ。
焼け焦げる腕でエリザベスを抱き上げるその姿は、まるで光なき夜に燃え盛る松明だった。
「こいつは……豪胆の極みじゃな……。くっついても不思議ではないのぉ。」
彼女の睫毛が震え、閉ざされていた瞳が開かれる。瞬間、涙が零れる。何もできなかった。何も守れなかった。その自責が、彼女の心を砕く。だが、メリオダスはただ笑った。何一つ責める気などない。すべて、俺がやる。そう語る笑みだった。
けれど彼女は、その笑みに首を振る。彼が、魔神族である彼が、自分のためにここまで傷ついてくれた。だから、もうこれ以上、彼を傷つけたくない。
そっと彼の胸に触れた彼女は、隙を縫って跳び上がった。三人の視線が天を仰ぐ。そこに見えたのは——狂気を宿した二体のインデュラ、そして、それを睨み据える一人の〈四大天使〉——。
────
恐怖
その名をリュドシエルが胸に覚えたのは、一体何世紀ぶりのことだったか。
その感情はあまりに久しく、己の中で正体を掴むまでに一瞬の逡巡を要したほどだ。冷たい霧のように肺を満たし、胸を締めつけるそれは、まさしく「恐怖」に他ならなかった。
だが、逃げる?臆す?それが〈四大天使〉と謳われた自分の取るべき姿勢か。否。
誇り高き光の軍勢の将として、彼は拳を握り直した。背後には退路がない。ならば、前進あるのみ。深淵のように視界を覆う先の見えぬ闇を見据えながら、彼は薄く笑みを浮かべた。それは諦念ではない。自らの限界に笑いかける、天使の皮を被った狂者のそれである。
と、その時だった。空を裂いて、彼女が現れた。
エリザベス。
その気配はまさに福音そのものであった。「都合がいい」と、彼は思った。これほどの悪鬼も、彼女さえいれば塵芥に帰すはずだ。共闘を求めることに一片の疑いもなかった。勝利を手繰る鍵が、今まさに目前に舞い降りたと信じたのだ。
リュドシエルは手を差し伸べる。だが、その手は——強く、鋭く、拒絶された。バシッ、と音が鳴った。その一撃は、手の甲ではなく、彼の"信念"を打ち据えたのだった。
「……あなたは、下がってて!」
声は優しく、それでいて硬かった。無理に威厳を纏わせようとしたのか、その声色はかすかに掠れていた。だが、その震えの中にこそ、決意が宿っていた。リュドシエルの眉が跳ね上がる。
「なっ……」
驚愕と屈辱。天使の顔から仮面が剥がれ落ち、そこには一人の戸惑う者の顔が露わになった。
一方で、デリエリはエリザベスをじっと見つめていた。その眼差しの奥で、何かが軋む。見知らぬはずの姿に、既視感が走ったのだ。記憶の奥底、深い靄の中から、彼女の声が、輪郭が、浮かび上がる。「思い出してはいけない」と告げるように、頭痛が頭蓋を締めつける。彼女は子どものように頭を振った。記憶を払い落とすかのように、激しく、狂おしく。
エリザベスの足が一歩、前へと踏み出された。声は、澄んだ泉のように静謐で、しかし絶対的だった。
「……私は、彼らを救います。」
「な……何を馬鹿なことを……そんなことできるわけが」
言葉が終わるよりも早く、空が光に染まった。エリザベスの翼が大気を裂くように広がり、その羽根に宿るは、神域にも匹敵する高貴なる「光」。暴風が巻き起こる。凄絶な光が吹き荒れ、天地を圧する。だが、その光には「怒り」も「暴」もなかった。ただ一つ、「純粋な善」がそこにあった。
対峙する二体のインデュラは、猛風に抗うように身を前傾させた。それこそが、エリザベスの狙い——胸が露わになった瞬間、彼女の両手が前に伸びる。
——《光あれ》。
その言葉と共に放たれた輝きは、浄化の奔流となって襲いかかる。それは殺すための光ではない。破壊ではなく、救済の光。あらゆる「悪意」や「呪詛」を焼き払い、魂の芯を露わにする"善"そのものの術。
だがその時、背後から雷鳴のような叫びが響いた。リュドシエルだった。彼は血走った目でエリザベスを睨みつけ、声を絞り上げる。
「正気ですか!?『十戒』など救う価値はない!彼らを消し去れば、女神族のみならず、他種族にとっても脅威は減る!聖戦の集結にまた一歩近づくのだ!目を覚ましなさい!」
だが、その叫びは虚空に溶けていく。エリザベスの目に、迷いは一つとしてなかった。「救う」。それが彼女の唯一の答えだった。しかし、「曇り」がなくとも、「影」は生まれる。
光に抗うように、二体のインデュラは雄叫びを上げた。その身体は更なる変容を遂げ、もはや"人"の形を留めぬ。理性が焼かれ、本能が剥き出しとなる。エリザベスの術は押し返され始めた。そして、彼女の肩は目に見えて沈んでいた。魔力の奔流に抗い続けた結果、すでに限界は近い。
「はぁ……はぁ…………くっ!」
それでも、彼女は立っていた。
決して崩れぬその姿勢は、まるで吹雪の中で膝をつかぬ一本の大樹のようだった。その姿を、ただリュドシエル一人が見ていたのではない。下方、荒野の縁にて、三人の戦士がその光景を見守っていた。
ドロールが咆哮のごとき声で「援護を」と叫んだ刹那、メリオダスはその言葉を斬り捨てた。剣ではなく、鋭利な現実という名の拒絶で。
「駄目だ……俺の魔力じゃ、エリザベスの魔力と相殺されちまう!」
口惜しさが喉の奥で焼け焦げていた。
「巨人族の力も、女神族の加護とは水と油だ……混ざらねぇ。……どうにもならねぇ!」
その声音には、牙を抜かれた獣のような苛立ちと、己の無力を噛みしめる音があった。
「そんな……では、「
「そういうことだ。……くそっ……!!!」
そんな二人のやり取りを、ガランは後方で斜に構えながら聞き流していた。だが、表情はどこか思案深い。現れた疑問をメリオダスに直接訊くのは、火薬庫に松明を投げ込むようなもの——今現在、理性という名の安全装置を外した男に、軽口を叩けばどうなるか、死してなお骨に刻まれていた。ガランはドロールへと、訊いた。
「のう、今言った「全反撃」……どんな技じゃ?」
「……ありとあらゆる魔力を、倍以上の威力で跳ね返す技です。……しかし、それをなぜ今この状況で?」
「…………なぁに、ちょっといいこと思いついたんじゃよ。この「真実」のガラン、自慢じゃないが頭が柔らかいんでの。」
「?……そういえば、あなた助けに来たとは言いますが、魔力がからっきしではありませんか」
「魔力……じゃと?うーん、確かに体がちょっとばかり重い感じはするが……何故じゃ?まぁいいわい。思いついたことを実行するまでじゃ。」
「では、私にもいい考えがあります。……できるかどうかはわかりませんが……」
「なんじゃと?」
────
その刻々と過ぎる刹那の中で、エリザベスは徐々に押し込まれていた。まるで逆巻く奔流に抗う小舟のように——祈りにも似た浄化の力は、次第に押し返されていた。
サリエルとタルミエル——かつて〈十戒〉モンスピートの業火によって全身を焼かれ、黒焦げの屍寸前まで追いやられた彼らは、すでにその傷を癒していた。にもかかわらず、彼らは身動き一つせず、ただエリザベスの苦闘を遠くから見つめている。傍観ではない、諦念に近い沈黙。あれは自嘲だ。己ら〈四大天使〉が束になっても抗えぬ化け物に、今さら何ができようか——そう理解し、動けぬまま凍りついていた。
そして、それを真っ向から否定する者がいた。いや、否定ではない。無視だ。蹂躙だ。エリザベスの努力を「くだらん」と嘲笑し、顔に浮かべるのは冷笑。
リュドシエル。彼にとって「救い」とは理念ではなく手段、聖戦を終わらせるための駒を配置するだけの作業。〈十戒〉など、助ける価値すらない、否、存在することすら許されぬ瘴気でしかない。
「……サリエル、タルミエル。今のうちに我らで"十戒"を屠るぞ!!」
その命令は、雷鳴のごとき勢いで放たれたが、返ってきたのは無言という重圧だった。二人は頷かず、拒絶もせず、ただ彼を静かに見つめる。無言こそが最大の異議であり、信念の対立だった。
それでも、リュドシエルは一人、聖なる光を手に掲げる。聖櫃——神々の魔力が集結せし裁きの刃。その先にいるのは、エリザベス。必死の形相で「やめて」と叫び、必死に訴えかけてくる。だが彼は、もはやその懇願を紙切れ一枚ほどの重みとしてしか感じていなかった。あれは理想にすぎぬ、甘ったるい幻想だ。現実は血を啜り、命を削る。
「さぁ……聖なる光の前に滅せよ、"十戒"!」
「やめてーーーーー!!」
叫びが天を裂いた刹那、聖櫃が放たれる。天を灼く閃光——だが、その光は一瞬で、まるで火種に水を浴びせたように掻き消えた。リュドシエルの顔に浮かんだのは疑念、そして狼狽。何が起きた?なぜ光が潰えた?そして目の前に立つ影に気づいたとき、すべてを理解した。冷ややかに、しかし確実に彼の光を打ち砕いたのは、あの忌々しき魔神、
「貴様……メリオダス!!」
その名を吐き捨てるように叫ぶリュドシエル。その視線の遥か下で、ガランとドロールはそれを見上げていた。
「……ふむ、手筈通りじゃな。メリオダスが遮ったか。さぁ、あとはおぬしの番じゃぞ、巨人のドロールよ!」
「あぁ……だが、ほんの数秒だけ、待ってくれ」
ドロールは、巨体を静かに宙へと持ち上げた。巨岩が浮かぶような異様な光景。だが、足音は微塵も鳴らない。彼の巨躯は風のように軽やかに、地から地へと跳ねた。まるで大地と対話するかのように。
それは"ドロールの舞"——大地の魔力を吸収するために編み出された、古代巨人族の神秘なる舞踏。踊りと呼ぶにはあまりに質朴で、力強く、しかしそこには確かな優美があった。地を撫でる彼の足裏から、静かに、だが確実に、大地の魔力が収斂しはじめていた。
そして、それを感じ取ったのは、ガランだった。
「……よし、よし!!いいぞいいぞ!感謝するぞドロール!……おぬしの舞、その奇怪な術によって、大地の魔力がこの「ガラン」の身体に流れ込んでくるのが分かるわ!」
その顔にはかつてない興奮の色が走っていた。己の器が満たされてゆく。まるで干からびた大河に、一気に氾濫する洪水が流れ込むような凄まじい魔力の奔流。
「予想通りじゃ。"大地"という第三者から得た魔力は、使用者であるドロールの権限に属す。だが……」
ドロールが静かに続ける。
「……その魔力は、元来の"自己の魔力"とは異なるため、短時間ならば——まるで水と油のように交わらず、別々に管理できる。ゆえに、使用者の承諾と操作さえあれば、他者への魔力供給も可能だと……考えました」
「——まさか成功するとはのぉ!」
「ええ、私も半ば賭けでした。しかし……見事、実を結びました」
「大成功じゃ。おぬしのお陰で、魔力という魔力がこの身を満たし、膨張しとるわい!!さぁて、やるべきことは一つ!」
ガランは思いっきり力んで、「臨界突破」を発動した。
それは理屈や訓練によって成すべき技ではない。方法など知らぬ。ただ己が骨と筋と魂の全てを限界まで震わせ、強引に"扉"をこじ開けるように——ガランは発動した。それ故か、肉体が悲鳴を上げる。筋繊維が軋み、骨が軋み、心臓が胸郭の牢獄を打ち破らんと暴れる。魔力の奔流は、滾る溶岩が脈打つように彼の体表を揺らし、破裂寸前の戦斧と化していた。暴走状態にあっても、戦うべき相手は明確だ。ならば、迷いはない。
ガランはその巨体に見合わぬ速さで跳躍した。山をも貫く推進力で天へと飛び上がり、空を裂いて二体の背後へと向かう。
同時に、サリエルとタルミエルもまた、その翼に怒気と決意を宿し、無言で動いた。リュドシエルの背後に展開し、聖なる審判を下すべく、光の海原を切り裂いて「十戒」へと突撃する。
だが、心には曇りがあった。なぜだ。なぜあのエリザベスが、あの高貴なる存在が、忌むべき魔神族に情けをかけるのか?なぜ救おうとする?その価値はどこにある?魔神族とは破滅を撒く徒花ではないのか。その疑念は、胸の内で爆ぜ、ついには言葉となって噴き出した。二人は、その声をもってエリザベスに問い質す。
傷つき、血の気が失せていながらも、彼女はまっすぐ彼らを見据え、震える声で叫んだ。
「——その価値を決めるのは、誰?誰が、決めていいっていうの?」
その声が、裂け目のように雲を割った。
灰色の天幕にひびが走り、金色の光が差し込む。あたかも彼女の信念に呼応するかのように、ひと筋、またひと筋と、希望の光が降り注いだ。人間族に、妖精族に、巨人族に……そして、魔神族にさえも。サリエルとタルミエルは、目を見開き、次第にその眉間の皺をほどいていく。言葉ではない何かが胸を打ち、ただ「そうせねばならぬ」という直感が、二人の聖者を導いた。
一方、リュドシエルの怒りは沸点を超えていた。
「もういい!!御託はもうたくさんだ!!——あの方は決してお許しにならないッ!」
彼の口から吐き捨てられた「あの方」という存在。名は語られずとも、その圧倒的な威圧感は、聞く者に畏れを植え付ける。エリザベスでさえ、その名の裏にある"何か"を知っているようだった。それでも彼女は、怯まない。断じて歩みを止めない。彼女の信念は、炎の中に立ち続ける不動の聖像のように、決して揺るがなかった。
「私は………誰に許しを乞うつもりもない!」
——その一喝は、風をも裂く刃のようだった。
激昂したリュドシエルは振り返り、背後の二天使に命じた。
「よいか、メリオダスもろとも『十戒』を討て!エリザベスなど、もはや魔神族に肩入れする堕ちた女神にすぎぬッ!!」
サリエルとタルミエルはその命に従い、手を前に突き出し、聖なる光を放つ。光は雷霆の如くエリザベスへと奔り、時を裂いた。しかし、その輝きが彼女の胸元へ届いた瞬間、刹那、空気が震えを孕んだ。
だが、光は砕けなかった。燃え盛るわけでも、焼き尽くすこともなく——むしろ、まるで母が子を抱き締めるように、ふわりとその身を包んだ。怒りと断罪の光ではない。癒し、庇い、満たす光へと——まるで聖なる羊水のように、彼女の疲弊した身体と魂を、優しく、確かに支えた。
それは援護だった。真に彼女を守るための、絶対の意志をもって捧げられた加護。
「なっ……」
リュドシエルの口が、干からびた木のように開き、声にならぬ呻きが漏れる。
「なぜだ……お前たち……何を、している……っ!」
その双眸は、信じがたいものを見た獣のように見開かれていた。言葉は怒気を纏っているのに、どこかひどく弱々しい。まるで柱の影に隠れる子どもの声のように。視線の先では、かつての部下たちが、自らの意志で彼から離れていく。彼らが守っているのは、彼ではない。魔神族の味方をする、かつて見下したあの"堕ちた女神"だった。
感情が、胸の奥で音を立てて崩れていく。不信。背信。誤算。そして、底知れぬ孤独。それはじわじわと染み出す毒のように、彼の思考を侵していった。冷たい洞窟の中で、灯火を消された者のような心持ちだった。誰よりも正しくあろうとし、誰よりも高みに立とうとしたその誇りが、音もなく剥がれ落ちていく。
そして、彼は悟った。
仲間を持たなかったのは、裏切られたのは、見捨てられたのは……自分の方だったのだ、と。
すべてを悟り、頭を抱えるリュドシエル。
そのときだった。重く鈍い、肉を裂くような叫び声が、空間を切り裂いた。
「ぐぅっ……あぁぁ!!!」
咄嗟に、視線が前を穿つ。見る。見てしまう。
エリザベスの身体が、まるで緩慢に崩れ落ちる砂像のように、空で膝をついていた。力の奔流はとうに尽き、光は淡く、薄れ、消えかけた命火のように揺らいでいる。天より注がれるはずだった聖なる光は、遅すぎた。ほんの一瞬の遅れ——だが、その一瞬が、すべてを決定づけた。
前のめりになった異形の魔神たちが、怨嗟と憤怒の熱を背負いながら、咆哮とともに這い寄ってくる。まるで地獄から這い出した獣のように、血と悪意の臭気を纏いながら。
「う……うっそ〜〜ん?」
タルミエルの声が裏返る。信じたくない現実が、音になって口から漏れた。
「くっ……サポートが遅かったか……!!」
サリエルは唇を噛み、拳を震わせる。後悔はいつだって遅れてやってくる。だが、今ほどその遅れが致命に思えたことはなかった。
「エリザベスッ!!」
メリオダスの声が爆ぜた。怒気でも、焦燥でもない。喉から絞り出された魂の悲鳴だった。視線が、エリザベスへと引き寄せられる。彼女の元へ駆けようとする意志が、全身に宿る。リュドシエルに向けていた警戒は——刹那、断ち切られた。
その一瞬。リュドシエルは動いた。
頭を抱えていたその姿勢は、もはや仮初の演技に過ぎない。わざとらしい苦悶を演じながらも、彼は獲物の隙を伺う猛禽の眼差しを隠し持っていた。機は熟した。彼の眼前に、最も憎むべき存在、魔神王の器たる者が、無防備に立っていた。
両手が音を立てて変じ、蒼き光の剣と化す。その刃は氷のように冷たく、そして太陽のように灼熱を孕む。対極の力を内包した聖なる剣。邪悪を穿つために創られた神罰の具現。
「今だ……滅びよ、穢れた者ども!」
彼は空へと舞い上がる。弾かれた弓矢のように、一直線に虚空を裂いて跳び上がり、そこから急降下する。蒼の剣を構え、怒涛の勢いで地を穿たんとするその姿は、まさに天誅を担った堕天使の如し。その刃の先には、油断しきったメリオダスがいた。あの愚かな男は、女神族一人を心の全てにしている。だからこそ隙を晒す。戦場で最もしてはならない、それを——した。
「愚かなり、メリオダス……お前のその選択が……全てを、無に返すのだ!」
「しまった!!」
声が空気を裂いた。断末魔のような咆哮と共に、天より神罰の剣が落ちた。
だが。
ガキィィンッ……
金属を噛み砕くような轟音。火花が散り、赤が弾ける。しかしそれは血ではなかった。閃光の中、現れたのは、紅玉のように輝く鎧——。その鎧を纏いし、咆哮する魔人がそこにいた。
「カァァッカッカッカァァアッ………!」
嗄れた喉を裂いて笑う咆哮。それは、憤怒でも勝鬨でもない。敵を愚弄する、豪胆無比な嘲笑——〈真実〉のガラン、その人であった。
「貴様……"十戒"の……!!」
リュドシエルが目を見開く間もなく、ガランはその筋骨隆々たる腕を振り抜いた。リュドシエルの体が風切る音と共に吹き飛ばされ、空に円弧を描いて跳ね上がる。その瞬間、ガランは全魔力を拳に圧縮した。力を凝縮し、風を歪ませ、拳の周囲に渦巻く空気すら硬質に変え、放たれたそれは——見えない弾丸と化し、音を置き去りにして天を穿った。
だが、それだけでは、到底届かぬと知っている。
ガランとリュドシエル——その間に横たわる力の差は、深淵と空とを隔てるほどに絶望的だった。さきの打撃も、あくまで油断の隙を衝いただけ。真正面からぶつかれば、その優劣は明白だった。リュドシエルもまた、それを理解していた。吹き飛ばされながらも空中で体勢を整え、掌を突き出す。神々しき光が手のひらに集い、空気弾を受け止めようとした。
だが。
その防御の前に、一人の影が、すっと立ちはだかった。
「……ッ、メリオダス!?貴様、何を——!!」
背中を見せたその男は、空気弾に向き直り、風の刃を真正面から見据えていた。神の剣を無視して割り込むなど、常識では計れぬ愚行。それは、戦場の論理を破壊する行為であった。
「…………黙ってろ。」
その一言が、剣よりも鋭く、リュドシエルの心臓を突いた。
これこそが、彼らの描いた布陣だった。メリオダスは囮となり、時間を稼ぐ。その間に、ドロールから魔力を受け取ったガランが到着。空気弾を放ち、それをメリオダスが"受ける"。
そして
「——《全反撃》!!!!」
風が爆ぜた。空気弾が数倍の威力となって跳ね返され、旋風の刃は唸りを上げて宙を裂いた。大気は削がれ、音は鋼のように痺れ、世界が一瞬、震えた。
——だが、それだけでは終わらない。
彼は先に言っていた。自らの魔力は、エリザベスの光と相殺し合ってしまうと。それを知っていながら、あえて跳ね返したのだ。その理由——"壁"。
二体のインデュラが前のめりになっている状態。それこそが、エリザベスの聖なる光を無事に届かせるための"肉の盾"だった。リュドシエルが理解した時にはもう遅かった。反撃された空気弾は、跳弾のようにインデュラの背へと命中し、凄まじい音と共に肉を裂いた。
「おのれ……貴様ら、そういうことだったのか……!!」
メリオダスは冷然とリュドシエルを見やり、口の端をほんの少しだけ持ち上げる。グッドサイン。それは、全てを語る沈黙の合図。ガランもまた、サインを返す。
「イヤはヤ、オ前さンの魔力、素晴ラシイもノじゃァ。」
「お前の言った作戦があったからできたんだ。俺の魔力がエリザベスの魔力を打ち消す。
だが、あいつらが壁になれば、光は遮られず届く。狙い通りだ。」
「そシて……大打撃を与えるトイうわけジャなァ。見ロ、怯み始メたゾ!」
二体のインデュラは、苦悶に身をよじり、痛みによろめいた。その巨大な体躯が、不安定に揺らいでいる。
——今しかない。
「エリザベスーーー!!今だ、いけーーーーッ!!!」
メリオダスの声が、風を貫いた。サリエルとタルミエルが、今にも崩れそうな彼女の背を支える。彼らの目が、静かに頷く。力強く、そして確かに。その眼差しが、エリザベスの心に火を灯す。
彼女は深く息を吸い込んだ。限界を越え、魂を振り絞る。内なる光をすべて槍へと変え、空間を裂きながら放った。
まさに天槍。
聖なる光の槍が、二体のインデュラを一撃で貫いた。闇の瘴気が彼らの肉体から噴き出し、瘴雲は風に吹かれて跡形もなく消えていった。もはや、彼らは"インデュラ"ではなかった。ただの、"彼ら"に戻っていた。
デリエリは、失神したまま、モンスピートの胸の中に倒れ込む。彼もまた、無言のまま、その身を優しく抱きとめた。選び取った未来。選び取った"救い"。エリザベスは、その使命を果たしたのだ。
メリオダスが彼女のもとへ駆け寄り、その小さな身体を優しく抱き留める。
「お前のおかげで、あいつらは元に戻ったんだ。」
その言葉に、彼女の瞳がわずかに潤む。そして、すべての責務を終えた者のように、静かに意識を手放した。彼の腕の中で——安堵に包まれながら。
しかし、その中で怒りを抑え切れない存在が一人。
「おのれ……おのれ……貴様らなど、生かしておいてなるものか!!」
怒声が空を裂いた。稲妻のように迸るその叫びは、まるで天界そのものが悲鳴を上げるかの如く震えた。
——憎悪。
それは理ではなく、熱。冷たい論理を焼き潰す、熾火のような激情だった。
リュドシエルの目は狂気に濁っていた。もはや"聖"の名を冠する者の眼光ではない。理性の残滓すら燃え尽きた双眸は、暗黒にのみ取り憑かれた猛禽のようだった。
魔神族への嫌悪。宿命と教義によって塗り固められたその執念は、もはや底なしの奈落と化し、彼の内側から崩壊を始めていた。彼は天翔ける閃光となって降下した。翼は爆ぜる雷鳴。地を穿つ矛のごとく一直線に、気を失ったデリエリとモンスピートを目指す。
動かぬ者を斬る。もはや戦いではない。ただの虐殺。
その両手には、もはや"剣"ではない。神の名を騙る処刑の凶器。青白く光る手刀は、天の裁きを偽った死神の鎌と化し、標的の頭蓋を貫くべく振り下ろされる。
「邪魔者はいない……今度こそ、今度こそ……確実にッ!!!」
それはもはや"正義"ではなかった。敗者の尊厳を踏みにじる、"誇り"の破壊だった。
「やめろ、リュドシエルー!」
メリオダスの叫び虚しく、リュドシエルの手刀は、彼らの脳天を貫く寸前だった。