「真実」の歩み   作:ライダー☆

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第七話 処刑人VS妖精王

 グロキシニアが「光の聖痕」の下へと向かっている途中の話。

 

「う、うぅぅ……!」

 

 それは女神族ネロバスタの呻きだった。声は掠れ、喉の奥から絞り出すように漏れ、胸の奥の恐怖を赤裸々に吐露していた。彼女の正面、宙空をふわりと浮遊するのは、深紅のローブを身にまとった一人の魔神、「十戒」メラスキュラ。禍毒の蛇のように、彼女の存在そのものがこの場の空気を侵していた。

 だが、ネロバスタは自らの剣を抜かない。刃は無意味。勝機のない戦は、ただの死に過ぎぬことを、彼女は骨の髄まで理解していた。だからこそ、彼女は「光の聖痕スティグマ」——外にいるはずの同志たちに救援を求めていた。だが……誰も来ない。沈黙は瓦礫のようにのしかかる。声も、気配も、祈りも返ってこない。

 

(なぜ……なぜ誰も来ない……!?)

 

 逃げたのか?否、ここを棄てれば彼らに未来はない。そのことは全員が熟知していたはずだ。ならばなぜ、この沈黙は続く?

 背後で、かつて天界と魔界を分かつ「門」が軋んだ音を立てる。優美だったはずのその造形は、いまやおぞましい瘴気を孕み、滴る血肉のように歪み変わっていく。ネロバスタは膝をついた。高潔なる神の使いであるはずのその膝が、まるで獣のように崩れ落ちた。

 

(……終わった。リュドシエル様に、私はもう顔向けなど……)

 

 そのとき、静かに崩れたのは門だけではなかった。

 メラスキュラ——恐るべき敵の顔に、かすかな怯えの色が滲んだのだ。勝利の喜悦ではない。敗北を悟った者特有の、不可解な困惑と微かな絶望が、彼女の唇から洩れ出た。

 

「な……何なの、これ……」

 

 声は震え、呟きのようにか細く消えた。蛇の毒牙すら忘れたような表情。メラスキュラの額には、見覚えのない冷や汗が滲んでいた。

 

「違う……これは、魔界の門じゃない……私が作ったのは……何?」

 

 混乱の深淵に落ち込む彼女の視線が、壊死のように濁っていく。天界の清浄を侵しながら立ち上るその「門」が、自らの意志ではなく、外部から植え付けられた指令の産物であることに気づいた瞬間、彼女の背に氷柱のような戦慄が走った。

 ——ゴウセルだ。あの男が、私を!

 怒号が喉を裂いた。目は血走り、口は裂け、白眼は天井を睨みつけていた。

 

「私を……操ったわねぇぇ!!」

 

 思い出した。サリエルとタルミエルが極大聖櫃で魔神族を焼き尽くす直前、彼女はあの場を離脱した。あの判断は、彼女の意志ではなかった。そう「定着」されていたのだ。あの男によって。認識すら操作された結果、ここへ来た。自分の行動に疑念を抱くことすらできぬよう、巧妙に思考を封じられていたのだ。

 それは、魔界の「牢獄」への誘導だった。自由意志を奪われ、枷をかけられ、虚構の命令に従っていたという事実に、彼女の精神は泡立つように沸騰した。

 だが、その怒声は最後まで響かなかった。次の瞬間、顔面を鷲掴みにされた彼女の体がぐにゃりと崩れ、言葉を呑み込んだ。操者の術が全身に走り、彼女の体は木偶のように無抵抗となる。

 

 指先の主は、車椅子に座した男だった。

 恩寵の光の中で、その男は辺りを眺め、小さく笑った。その笑みは、春の風のように柔らかく、だが、そこには氷の刃のような静謐な狂気が潜んでいた。

 

「……五百年ぶり、か。外の空気を吸うのは。」

 

 彼はゆっくりと視線を落とし、動かぬメラスキュラに語りかける。

 

「それにしても、メラスキュラ。絶叫はやめてくれよ。魔神王に気づかれる。」

「……あ、な、た……あなた……は……!」

「そうだったな。メラ、君は、"本物"の俺に会うのは初めてだったな。」

 

 その瞬間、ネロバスタの呼吸が止まりそうになった。彼女が感じたことのない——"格"の違う魔力が、その場を支配していた。メラスキュラを凌駕するなどという生易しいものではない。まるで大気そのものが彼を核にして回転しているような、圧倒的な魔性。

 男は無造作に顎髭を撫でた。思索のように、戯れのように。

 

「……俺が、"ゴウセル"だよ。」

 

「ゴウセル……あなた……許されないわよ……魔神王様に、無断で……いったい、どういうつもり……なの……?」

 

 メラスキュラの声は、粘膜のように重く、息詰まるような怒りと戸惑いの熱を孕んでいた。声帯の奥から引き絞るように絞り出されたその言葉は、震えながらも彼に届いた。だが

 

「……聖戦の真っ只中だから……とでも言いたいのだろう?」

 

 男は振り返らぬまま、静かに呟いた。その声音は、まるで深海の底から響いてくるような冷たい圧迫感をもっていた。

 

「だが……生憎様だな。聖戦など、俺にとっては塵芥も同然。関心など、欠片ほどもない。」

 

 その声は、まさしくゴウセルのものだった。だが、同時に"それだけ"ではなかった。木霊のように何重にも折り重なり、異なる声色が潜在的に鳴り響く。ゴウセルという器の奥に潜む「本質」が、断片的に滲み出ていた。

 その様子を見ていた「十戒」ガランは、唇を噛みながら奇妙な違和感を覚えていた。ぶつぶつと何か独り言を繰り返す様子に、小さな不気味さを覚えたのだ。しかしその違和感は、ロウの記憶を盗み見ていたという事情によって、彼の思考の端に追いやられた——今のところは。

 ゴウセルは、なおも語った。

 

「メラ、妄信的信者であるお前には理解しようがないだろうがな。……俺は「魔神王」に「無欲」の戒禁を与えられ五百年、俺は自由を奪われた。だから……自ら創った人形、ゴウセルを通じて、外の世界と接してきた。だが……それも限界だ。俺はもうじき、この世界と別れを告げる。」

 

 言葉とともに、男の指が空気を裂くように動いた。まるで魔の指揮者のように、一つの旋律を奏でるかのごとく——

 ビッと指差されたその瞬間、メラスキュラの体が揺れた。彼女の意思とは無関係に、手が、魔力が、発動の構えをとったのだ。先刻、彼女がゴウセルを転移させたときと同じ術式。それを、男は彼女に"やらせた"。彼が「自分自身」である人形の下へと向かうために。

 

「……行くとしよう。」

 

 彼はくるりと背を向けた。そうして、天界に差し込む恩寵の光を背に浴びながら、ぽつりと語った。

 

「しかし、あぁ……君の魂は、高潔だ。」

 

 その瞬間、語りかける相手が変わった。彼はもはや、メラスキュラにもネロバスタにも話していない。まるで透明なる誰か——この場に「存在しない者」へと語っているのだった。

 

「荒々しさも、怒りもない。ただ、池の辺を渡る風のように静謐で、柔らかく……だが、確かにそこに在る。君の"真実"は、芸術だ。」

「なに……あい……つ……誰と話してるの……?」

 

 答えはなかった。男は、すでに恩寵の光をくぐり抜け、ゆっくりと天界の外へと姿を消していった。彼がいた空間には、狂気と静寂だけが余韻として残された。

 光の中に取り残されたメラスキュラの体が、微かに震える。縛られることを何よりも嫌う彼女は、全魔力を解放して自らを締め上げる術を無理やり打ち破った。気道を走る熱のように、制御不能な魔力が炸裂し、彼女の体を解放する。

 彼女は高笑いを上げた。呪いを断ち切ったという歓喜、そして裏切り者に対する烈火の如き怒りが、彼女の表情を灼くように染めていた。

 

「ゴウセルッ!!」

 

 怒声とともに、彼女は恩寵の光から飛び出そうとした——その刹那。

 空間を満たすような、凶暴で純粋な"魔力"が襲来した。それはまるで、天を裂く稲妻にも、奈落の底から吹き上がる煉獄の風にも似ていた。理性という壁を無惨に蹂躙する、圧倒的な"狂気"だった。

 メラスキュラの表情が凍りついた。

 

(……これは、誰?)

 

────

 

 同時刻——

 

「……ぜひ、君と話がしたい。」

 

 ゴウセルの声は、夜明け前の空気のように澄んでいた。冷たく、それでいて温度を感じさせる不思議な響きを帯びていた。

 

「少し遠くへ行こう。ここは……騒がしすぎる。」

 

 ひと振りの手の動きで、魔力が呼応する。彼の創った「人形」は宙へと浮かび上がり、無機質な身体を携えて彼の背後を漂う。まるで影法師のように、あるいは失われた双子のように。二人は、光と闇の綾なす空間を背にしながら、静かに歩き出した。まるで戦乱の嵐のただ中にぽっかりと空いた無風地帯に足を踏み入れるように。

 

「まぁ……ええじゃろう。」

 

 ガランが歯を鳴らすように呟いた。

 

「そういえば、お主……封印されておったとか……何をやったんじゃ?」

 

 彼の問いは、軽口に見せかけて、鋭い針のように本質を穿っていた。

 

「……魔神王が、俺の"力"を恐れた。」

 

 ゴウセルの瞳が、わずかに翳る。そこに宿る光は、呪われた未来を見つめる預言者のような静謐だった。

 

「その後、俺は"無欲"という戒禁を与えられ、「十戒」に組み込まれた。そして意志を削がれ、牢獄へと幽閉された。存在そのものを封じられたのだ。……だが、俺は人形を創った。"ゴウセル"という名の器を使い、聖戦の場へ出た。俺の代弁者として、この世に立たせるために。」

 

 言葉が、重く落ちた。石を水面に投げ込んだかのように、沈黙が波紋を描く。

 

「…………で?」

 

 ガランの声はひどく乾いていた。

 

「お主は……それを、聖戦をどうしたい。」

「……必ず、止める。」

 

 その一言に、怒りも哀しみもなかった。ただ純粋な意志が、刃物のように鋭く込められていた。

 しばしの静寂ののち、ガランが笑う。憎まれ口のようでいて、どこかあたたかい。

 

「気が合うのぅ。儂も、同じ気持ちじゃ。」

 

 ゴウセルの視線が、ふとガランの方へと向いた。彼の記憶を覗き見ていたのだ。

 

「……君の記憶の中にあった光景……面白いね。」

「なんのことじゃ?」

「……永い時を過ごしてきた記憶の残像。……これは、家族かい?」

 

 そこに映像はない。ただ言葉の中でのみ描かれる幻影。しかし、ガランは確かに頷いた。

 

「……君は、彼らに看取られたのか。」

「そうじゃ。」

 

 その声には、苦渋も後悔もなかった。凪のように穏やかで、どこまでも静かだった。

 

「最期の瞬間に、声が出せてよかったと思っておる。黙って死んだんじゃ、虚しいからなぁ。伝えたい言葉を抱えたままでは、魂も浮かばれん。」

「……そして、天国かと思ったらそこは魔界でした、と。」

「全く、驚いた。夢かと目を疑うほどじゃった。」

 

 二人は静かに笑った。だがそれは、絶望を笑い飛ばす者のそれではない。過去を受け入れた者たちだけが持つ、静かな強さだった。

 

「……だが、君の家族たち……彼らは"十戒"に、よく似ている。」

「じゃろう?儂にも面影が見えた。あのデリエリという娘、親戚のエリーと瓜二つじゃ。モンスピートも……炭門にそっくりでのう。偶然にしては、出来すぎておるわ。」

「だが君は……その家族に"欲"を抱かなかったのか?」

 

 その問いは、戒禁"無欲"の核心を抉る問いだった。

 

「……抱かんかった。」

 

 ガランはきっぱりと言い切った。

 

「儂らは皆、与え合っておった。求めずとも、必要なものは巡ってきた。戦争を体験したからこそ、それが分かるんじゃ。……欲を出せば、全ては遠ざかっていく。資源も、平和も、仲間も。」

 

 彼の言葉は、焼け野原を越えて生き延びた者にしか語れぬ重みを帯びていた。

 

「だからこそ、儂は"与える"ことを選んだ。生き残った者の使命として。わざと戦いの恐怖を語ることで見せつけ、二度と起きぬよう"教訓"を与えた。そして、家族には安心を、安らぎを与えようとした。そこに"欲"などなかった。儂の行動すべては、"平和"という名の青空の下でなされた大義じゃ。」

 

 ゴウセルは目を細め、深く一礼するように手を叩いた。

 

「……俺は"無欲"を課され、感情を失ったと思っていた。だが、君と話していて、まるで一瞬だけ……それが戻ってきたように感じたよ。君は、俺の戒禁の影響を受けない。……本物の"無欲"とは、君のような存在のことを言うのかもしれない。……君のような人が世界の全てであれば、聖戦など起きはしなかっただろうに」

「……起きてしまった。仕方のないことじゃよ。」

 

 風が吹いた。時を巻き戻すような風だった。

 そして、ゴウセルは静かに言った。

 

「……だから、俺は今から"死ぬ"。」

 

 唐突すぎる言葉に、ガランは目を剥いた。

 

「何?どういうことじゃ?」

 

 だが、ゴウセルの表情は笑っていた。春の日差しのように穏やかで、どこまでも清澄だった。

 

「……俺が"死ぬ"ことで、聖戦は終わる。」

 

 その眼差しに浮かんでいたものは、憂いや悲壮ではなかった。そこには——誰よりも深く、強く、明確な"覚悟"があった。その覚悟を、ガランは感じ取った。何も言わず、彼はただ黙って頷いた。安易な否定の言葉は、もはや不要だった。

 その眼差しには他でもない覚悟と確信があった。ガランはそれ以上問い詰めることをしなかった。彼の覚悟を無駄にするようなことはしたくなかったから。

 

「しかし、どうやってやるんじゃ?」

 

 ゴウセルは語った。

 

「ほぉう…………なるほどな。いや、驚いたがすぐに理解した。お主、それほどまでの覚悟を持っているとはな。見かけによらずとんでもないやつじゃ。」

「理解してくれるとは、ありがたい。正直、否定されると思っていた。」

「覚悟をもって死んだ者を儂は知っておるからな。それも……戦が終わった後に、その意味がわかったのじゃ。」

 

 一拍の間。風が枝葉を撫でるように、沈黙が二人のあいだを滑っていった。

 

「じゃが、お主が死んだ後……あの人形のゴウセルは、どうなるんじゃ?」

「……それについても、ちゃんと考えてある。」

 

 ゴウセルは歩みを止め、あたりを見回した。光の恩寵が届かぬ陰の斜面。かすかな草の匂いが土に染みている。ここで、と彼は呟いた。

 

「ここなら……大丈夫だ。あの光の干渉を受けない。」

「なぜ距離を?」

「その理由は……いずれ話すさ。だが今は……「自我起動」」

 

 その一言が、場の空気を切り替えた。魔法の声に応じるように、人形のゴウセルの瞳に色彩が宿る。虚無だった眼窩に、意識の火がともった。まるで夜明けに差し込む朝陽のように、じわりと世界を照らし始める。

 

「……おはよう、ゴウセル。」

 

 奇妙な挨拶だった。自分自身に向けて発せられた言葉。しかしそれは紛れもなく現実で、ただの滑稽さでは片づけられない、重みのある始まりだった。

 

「ゴウセル……起き抜けに重い話をしてすまない。でも、よく聞いてくれ。これからお前は……自分の意志で、生きていかねばならない。」

 

 人形の表情が揺れる。幼子のような不安が、瞳の奥に滲んだ。その頬に、ゴウセルは静かに手を添える。優しさと切なさが指先に宿る。それは、まるで別れを告げる親が、眠る子の額に口づけするような仕草だった。

 

「……本当はもっと教えてやりたかった。けれど、時間がない。……すまない。」

 

 その声に宿る温もりは、もはや魔神のそれではなかった。ただ、命を灯し、命を託す者の声だった。

 次の瞬間、人形のゴウセルは泣き出した。胸をかきむしるような嗚咽。

 

 置いていかないで。ぼくが、ぼくが人形だから置いていくの。

 

 その問いは、鋭利な刃のようにゴウセルの胸を刺した。感情の未熟な彼は、最悪の未来を即座に思い描き、その恐怖に呑み込まれてしまったのだ。だからこそ、彼は答える。強く、しかし優しく。

 

「違う。お前はもう……ただの人形じゃない。」

 

 彼はゴウセルの胸に優しく手を当てた。そこには、彼がありったけの心の魔法を詰めた心臓が入っているのだという。

 

「……ゴウセル、君の中にあるんだ。これは、お前への贈り物。俺からの、最初で最後の。」

 

 ゴウセルは再び涙を流す。彼の心に宿る真実が、その胸に届いた証だった。

 

「おなじ姿でも、まるで子どもと大人じゃな。」

「そうかもね。感情面では、ゴウセルはまだ生まれたばかりなんだ。」

 

 そして、ゴウセルは唐突に告げる。

 

「……俺は命を落とす。……でも、君と出会えて嬉しかったよ。今の君にとっては、ほんの一瞬かもしれない。けれど、俺にとってはかけがえのない時間だった。友人としての時間だった。」

「……急になんじゃ。」

「友として、頼みがある。……俺の死後、ゴウセルがどう生きるかは誰にもわからない。善にも悪にも転ぶ可能性がある。もし、道を見失うことがあったら……君に、導いてやってほしいんだ。」

「………………」

「図々しい頼みなのはわかってる。……断ってくれてもいい、忘れてくれてもいい。」

 

 頭を下げるゴウセル。その横で、人形のゴウセルが潤んだ目で、ガランをじっと見つめていた。

 

 お願い。僕を正しい道へ導いて。

 

 その視線に宿るのは、意志の萌芽。生きるという困難に抗おうとする、覚悟の一歩だった。ガランは、ふっと目を細め、二人に大きく頷いた。

 

「よいぞ。儂がやってみよう。保証はできんがな……」

「!!……いや、それで十分だ。ありがとう、ガラン。」

「ありがとうガラン!……あははっ!」

 

 無邪気に笑い、手を差し出すゴウセル。その手を、ガランはしかと握った。——奇妙な再会と、奇跡のような別れの儀式が、静かに進行していた。

 

「最後に会えたのが君で、本当によかったよ。我が親友。君には、ぜひお礼がしたい。」

「お礼じゃと?」

「君は気づいてないかもしれないが……その身体、もうかなり老いている。数年もすれば、自然と朽ち果てるだろう。」

「あぁ、そうなんじゃな。……この体になって、やけに鎧が軋むと思ってたんじゃがそういうこと……」

「……だから。君には、長く生きてほしい。ゴウセルのためにも。そして、君自身のためにも。」

「なるほど。すぐに逝ってしまっては、導きもなにもないからなぁ!」

「受け取ってくれ。心温かき友よ。二人のゴウセルからの……感謝の贈り物を。」

 

 ゴウセルの掌から解き放たれた魔力は、まるで星屑を紡いだ糸のように煌き、宙を弧描いてガランの頭上へと舞い降りた。これはただの術ではない。信頼という名の遺言であり、命の継承である。

 そして物語は、数分前へと遡っていく。メラスキュラが震え上がった、あの時まで。

 

 

────

 

 

 グロキシニアの魂は、地鳴りのような慟哭の中で灼けただれていた。

 妹の死。仲間の喪失。信頼という名の命綱を自らの手で焼き切った人間たち。世界が瓦礫のように崩れ落ちる音が、彼の胸腔の内で絶え間なく反響していた。喉は悲鳴すら拒絶し、理性は朽ちた葉のように風に千切れ飛んでいた。もはや彼は、"妖精王"という名を冠した神秘ではなく、原始の獣。破壊本能の残骸。

 

 光——それは本来、救いの象徴であるべきだった。しかし彼はそれを"敵"と読み違えた。喪失によってひしゃげた心が導いた誤認。恩寵の光へと突進したその先、彼の血走った眼は二つの影を捉えた。メラスキュラ。そして、ネロバスタ。

 その刹那、彼の奥底で荒ぶる獣が呻いた。

 

 アイツらのせいだ。アイツらが、すべてを壊した。

 

 正気という名の灯火は既に吹き消されていた。彼の行動に意味はない。ただ、敵意という黒煙をまき散らし、憎しみという名の刃で、無差別に世界を裂くだけの存在。その姿はもはや、かつて自らが唾棄した〈インデュラ〉の如し。

 ネロバスタは、錯覚に救いを見出した。援軍だと思い、歓喜の声をあげかけ、声帯が、潰れた。花が咲くよりも速く、彼女は崩れた。潰れた肉、飛び散る骨片。彼女の死は、まるで秋風に散る一枚の枯葉のようにあっけなく、そして残酷だった。最期に思い浮かべるべき者の名すら、脳裏には浮かばなかった。

 

「……フゥー……フゥー……!」

 

 天井を打ち震わせる咆哮。唾が飛び、嗚咽とも呻きともつかぬ声がこびりつく。涙か、鼻水か、あるいは血か。区別もつかぬ液体が、床に"ぽたり"と音を立てて落ちた。

 その狂気の中心に佇む妖精王を、メラスキュラは観察していた。目元が、ヒク、と震えた。しかし彼女の胸にあったのは恐怖ではない。せいぜいゴウセルとの対峙に比すれば、些細な苛立ちに過ぎなかった。怒りの捌け口を求めていた彼女にとって、グロキシニアは丁度良い"的"だった。

 

「あらあら……随分荒れてるみたいね。そんな中悪いけど、死んでもらうわ。」

 

 黒き瘴気が、彼女の周囲に漂っていた"靄"から凝縮され、一振りの黒槍へと姿を変える。それは死の象徴。触れれば肉を腐蝕させ、避ければ地を穿ち、溢れた瘴気で命を蝕む。選択肢など存在しない。死に方を選べ、という宣告に等しかった。

 そして槍は放たれた。が。

 

「……は?」

 

 鋭く放たれたはずの槍が、空中で霧散する。闇を喰らうはずだった漆黒の穂先は、突如現れた金色の光に叩き落とされた。太陽のように明るく、それでいて雷鳴のように破壊的な——巨大な槍。それは、霊槍バスキアス。

 

 第一形態《バスキアス》。ロウを葬った技。その破壊を、彼は再び呼び覚ましたのだ。

 

 その咆哮とともに、恩寵の光は断末魔をあげて崩壊する。爆風が走り、メラスキュラの体は空中で回転し、獣のような重量とともに大地に叩きつけられた。槍の素材たる"靄"を防御に回していた彼女に、もはや守る手立てはなかった。体の節々が悲鳴を上げ、骨は軋み、血は湯のように噴き出した。唇の端が震える。油断。それは敗北の片鱗であり、彼女は今、その報いを受けていた。

 そして見上げた視線の先には、怒りの具現と化した妖精王。金の髪を炎のように逆立て、地を削る魔力を全身から噴出させて迫ってくる——。

 動けない。骨が砕け、内臓が悲鳴を上げる。再生には時間がかかる。このまま、もう一度バスキアスを喰らえば……

 

「うううううう……うあああああ!!!」

 

 悲鳴とともに、二発目が放たれる。その瞬間。

 ——金属音。

 

「……メラスキュラ。何たる醜態だ」

 

 鈍く、鋭く、冷徹な声。影が降り立つ。恩寵の光が消えても、門は残っていた。その門が呼んだのは、死神。

 

「……あなだ……がはっ」

「もういい。喋るな。俺がやる」

 

 「処刑人」ゼルドリス。胸元を大胆に開けた紅の衣、漆黒の髪と瞳。まるでかつての裏切り者、メリオダスの鏡像のような姿。しかし、その中に宿るのは、兄とは異なる"完遂の意志"。

 

(……やった……これでもう……)

 

 メラスキュラがうっすらと笑う。もはや勝利は、目前。

 ゼルドリスが静かに口を開く。

 

「妖精王グロキシニア。よくぞ同胞を追い詰めた。だが……その姿は、哀れだな。」

「黙れ……黙れぇええ!!お前に何がわかる!!!何もかもを喪った者の……絶望がああああああ!!」

「理解などできん。だが、関係ない。これは任務だ」

「任務だとぉ!?ふざけるな……"俺"の怒りは、お前の言葉では、もう止まらない!!」

 

 槍が構えられる。大気が震える。魔力が荒れ狂う暴風のように地面を裂く。赤い髪が翻り、その姿は怒りを纏った戦神。

 一方、ゼルドリスは一歩も動かぬ。己の影すらも踏み越えぬまま、嵐の中心でただ立つ。

 

「……撃ってこい、グロキシニア」

「死ねぇええええッ!!!!」

「ゼルドリスの勝ちよ」

 

 その瞬間、世界が鳴った。槍が振り下ろされるより早く、ゼルドリスの腕が閃いた。霊槍は斬られることなく、素手で叩き上げられたのだ。天に昇る光の雨。破片と化した槍は空に溶け、グロキシニアの怒りも、それとともに一瞬怯んだ。

 だが、次の瞬間——"彼"は、目の前にいた。

 疾風。音を超える速度。胸元に刻まれるのは、"処刑人"の蹴撃。

 煙が晴れると、そこにいたのは地に倒れ、気を失った妖精王。メラスキュラはようやく再生を始めていたが、ゼルドリスは既にその姿に背を向けていた。

 

「……そこか、ゴウセル。逃がさんぞ!!」

 

────

 

「……感づかれたか。あの刺すような圧……ゼルドリスの魔力だな。仕方ない、腹を括るとしよう。」

 

 そこにガランもゴウセルも、すでに姿はなかった。だが、彼は疑念ひとつ抱かない。それもそのはず。ガランたちを逃がした張本人こそが、他ならぬ彼だったのだから。

 〈脱獄者に加担した〉などという烙印を、あの冷酷無比なる処刑人、ゼルドリスの前で曝したが最後、斬首どころでは済まない。心も魂も、潔白な理想ごと刈り取られるのがオチだ。だからこそ、今あの二人を失ってはならない。彼は自分の後を継ぐ者、「意志」を未来へ繋ぐ灯火だったから。

 彼は来た。聖戦を終わらせるために。そして、命を棄てる覚悟も、とっくに内心で済ませていた。だが、それは今ではない。

 こちらに近づいてくる魔力が、もうひとつある。彼は、その「もうひとつ」に賭けていた。

 

「……少しばかり、非道な真似をさせてもらうが……どうか、許してくれ。」

 

 その手のひらに宿る魔力は、熱を帯びていた。掌から指先へ、脈動する意志が血流のように奔る。

 ドスン……ドスン……と、地の底から巨人が目を覚ますような足音が大気を震わせていた。その鼓動のような振動が、大地を通じて彼の脳髄へと響き渡る。

 

────

 

 ガランは、彼の指示どおりに逃げた。あの男の言葉には、理屈を超えた信頼を抱かせる力があった。否、信じるほかに選択肢がなかった——その場において、最も理性的な行動だった。

 脇にゴウセルを抱えながら、彼は妖精王の森を駆け抜ける。息を荒げることもなく、ただ粛々と。そしてようやく辿り着いたのは、森の最果て。風が崖を削り、太古の記憶を残すその場所だった。

 

「……はぁ、まったく疲れるのう。……で?ここでええのか?」

「うん。ありがとう。……ゴウセルが、"ここで待ってて"って言ってたから。」

 

 崖から見下ろす光景は、静謐な詩だった。戦火の手が届かぬ桃源。風に揺れる枝葉がささやくように音を立て、空気は澄んでいた。遥か遠方、晴れた空の蒼と雲の白が寄り添い、まるでこの地上に微笑んでいるかのようだった。

 

「……あの場所が、ゴウセルの望んどる世界なんじゃろうな。」

「うん、きっとそうだね。……ねぇ、ガラン?」

「なんじゃ?」

「……これからも、よろしくね!」

 

 ゴウセルの笑顔は、風のように嘘がなかった。純度の高い光——幼き日差しのように、無垢で真っすぐ。ガランは、その笑顔に思わず笑みを返し、大きな手で彼の頭を優しく撫でた。

 ——懐かしかった。

 かつて撫でた鈴太郎の髪の感触が、指先に甦った。あの子はこうすると、くすぐったそうに笑ったものだった。今頃、どこで何をしているやら……

 

 

 ドンッ!

 

 

 地響きと共に爆音が空気を裂いた。音の来た方向——ゴウセルがいた場所。

 

「まさか……今の爆発は…この魔力はっ…!」

「何が起きとるかは知らんが……とんでもないことだけは確かじゃ……ゴウセル、死ぬなよ……!!」

 

 ゴウセル、彼の「酷なこと」は、成功した。

 たとえ自責の念が心の奥でくすぶっていても、それは決して彼の行動を鈍らせはしなかった。むしろ、それゆえに鋭く、冷酷に、正確だった。魔力を込められた"彼"は、まるで意志を移された操り人形のように、ゴウセルを庇って前に出た。その額には、先ほどネロバスタが貫かれたのと同じ、淡く揺らめく紫の魔力の矢が突き刺さっていた。

 

「ゴウセル。あなたは逃げてください。ここは、私が喰い止めます。」

「すまないね。名も知らぬ巨人族。」

「…チッ、ゴウセル貴様!!」

 

 ゴウセルは振り返らず、背を向け進んでいく。処刑人はその背を追い、巨人族は己のすべての魔力を開放して、その進撃を阻むべく立ちはだかる。

 

「"光の聖痕"のドロール…やはり、ゴウセルはここまで見越していたか。」

「さあ、覚悟を決めてください。これより正々堂々、このドロールが相手になります!」

 

 ゼルドリスは、迷わずにゴウセルを追うことを切り捨てた。

 早計に思えるかもしれない。だが、戦場において思考の迷いは死を呼ぶ毒だ。眼前の敵に、全霊を叩き込む。唯一無二の選択肢。彼の目はドロールを見据える。敵にしておくには惜しいほどの資質。巨体に宿る大地の魔力、揺るぎなき戦意。かつて「十戒」に二つ空席があったが、いま一つが埋まり、そしてこれで「ゼロ」だ。

 ゼルドリスは脚に、重力を束ねるような力を込めた。空間がたわみ、土が沈む。

 

「ああ、やるとしよう。」

 

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