「真実」の歩み   作:ライダー☆

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待たせてごめんね。
なんかモチベが上がんなかったの。何なら今でも上がりきってない。(*´ω`*)ユルシテ.


第八話 「真実なる行動」

 戦いの幕が上がったのは、わずかにして0.4秒。それは、神話すらも記憶し得ぬ、あまりに短く、あまりに残酷な時間だった。

 重厚な岩肌を思わせる四肢を有する巨人族の王、ドロールは、その瞬間、腹部に風のような一撃を喰らい、巨木の如き体躯を無様に横転させられた。一発。ただ一発。衝撃が走り、咆哮すら間に合わぬまま、大地に沈んだ。

 彼は己の肉体に、誇りを持っていた。それは岩よりも硬く、魔よりも強靭。かつて〈十戒〉「敬神」のカルマディオスから受けた渾身の打撃すら、皮膚一つ貫けなかった。だが今、彼の腹部を穿ったのは、身の丈、自分の四分の一もない小柄な魔神だった。

 

「っ……!」

 

 苦悶の吐息。硬いはずの胸板から、鉄錆の匂いが溢れる。

 彼は混乱していた。森に満ちた異様な魔力の渦に気づき、応じるように駆けつけたその足で、気づけばこの男と対峙していた——まるで意識の継ぎ目が抜け落ちたかのように。

 己の足が勝手に動いたような、不気味な感覚。これは単なる焦りでも、慢心でもない。操られていた。確信ではない、だが、感覚がそう告げていた。何者かに意志を委ねられたような……それは目の前の男の魔力か、それとも……

 

「……どうした?考えごとか?」

 

 ゼルドリスの声が、冷や水のように頭を冷ます。

 

「……ぐっ……おのれ……!」

 

 歯噛みした。そうだ、今は過去を思い返している時ではない。己より遥かに小さき魔神に一撃で倒れ伏したこの体たらく。巨人族の王の威厳など、地に落ちた。これ以上の恥はない。ならば、この男を倒す。それしかない!

 ドロールは魔力を解き放とうとする。だが、何も起きなかった。掲げた手は虚しく風に煽られただけで、力は応じなかった。

 

「お前の魔力は封印した。……安心しろ。すぐに返してやる。」

「……なっ、何を……!?」

 

 その言葉の意味が分からなかった。魔力の封印——それが可能だというのか。しかも無言で、無動作で。だが目の前の魔神は、それを自慢する様子すらない。ただ一片の感情もなく、事務的に、どこか疲れたような目で言い放つ。

 

「俺の名はゼルドリス。魔神王の力を借り受け、それを行使する者——魔神王の代理人だ。」

「魔人王……!?」

 

 理解が、恐怖の名のもとに遅れてやって来る。ドロールの瞳孔が開き、冷や汗が背筋を伝い、肌を焼くような絶望に包まれる。魔神王。その名は、いかなる魔の者であれ、心の奥底で本能的に恐れを覚える存在だ。

 その代理が、目の前にいる。

 ゼルドリスはそんな怯えなど意に介さず、言う。

 

「選べ、巨人王ドロール。ここで死ぬか、〈十戒〉の一員となるか。」

「……あなたたちの、仲間……だと……?」

「そうだ。お前の名は、妖精王グロキシニアと共に、魔界中に鳴り響いている。お前に与える力は約束しよう。悪い話ではあるまい。」

「ふざけるな……私は『光の聖痕』の一人……そんな誘いに応じるわけが……!!」

 

 言葉を絞り出したドロールに、ゼルドリスの瞳が氷のような鋭さを放った。その顔には一片の温情もない。ただ殺意と冷酷さが浮かんでいた。だが、次の瞬間、彼は一転して、嘘のように柔らかな微笑を浮かべ、ドロールの記憶に触れ始める。

 

「……天はお前に二物を与えた。類まれなる力と……孤独を。」

 

 ドロールの背骨が凍りつく。そう——忘れていたはずの過去が、脳裏に蘇る。忌避された異形の体、どこまでも浮いた存在。四本の腕と魔を秘めた隻眼、そして青き肌。祭り上げられたのは、強さゆえ。だが、心の奥底にはずっと……虚無があった。

 

「……グロキシニアは、どこだ。」

「グロキシニア?お前の友か?喜べ。奴も〈十戒〉となった。」

 

 ……そうか。ドロールの中で何かが静かに崩れた。裏切りか、それとも彼もまた選んだのか……。答えなどどうでもよかった。ただ——孤独ではない、そう思えるその可能性だけが、彼の心を動かした。

 彼は、口を開いた。巨人族の王としてではなく、ただ一人の"異形の者"として——答えを、出した。

 その瞬間、ドロールが消えた。

 残った魔神はあたりにある魔力を探り、そして舌打ちした。

 

「ゴウセルめ。魔力を完全に消しやがったな!これではもう奴を捕まえることはできんな。……ここは一旦諦めるとするか。しかしただではすまさん。いつか必ずあいつは仕留める。」

 

 漆黒の翼を生やし、彼は天高く飛んでいった。

 

────

 

「……遅れてしまった。すまないね。」

 

 その声は、森の深奥から響いた。

 その声を聞いた瞬間、ふたりの目は自然と音の方へと向けられる。振り返った先にいたのは——葉にまみれ、枝に貫かれ、苔すら貼りついたゴウセルだった。彼の身体には、草原の残滓とでもいうべき自然の断片が張りついていた。まるで森そのものが彼を引き止め、彼に纏わりついたかのようだった。

 

「な、なんじゃその姿ぁ……!」

「どうしたの、それ……!」

 

 ゼルドリスに気づかれぬよう、ゴウセルは魔力を完全に遮断していた。結果、瞬間移動すらできず、森の獣道を車椅子で物理的に突破するしかなかった。遮る枝は腕に引っかかり、茂った葉は顔に絡み、全身を草の鎧で覆われることになったのだ。

 

「急いでたからね……。とはいえ、ここまでになるとは流石に予想外だったよ。」

 

 彼は苦笑しながらも、静かに葉を払わせていた。

 

「ゼルドリスの魔力は完全に消失した。……よかった。これで、邪魔は入らない。」

 

 安堵の吐息を乗せてそう言うと、彼の顔にふと、春霞のような微笑みが浮かんだ。その笑顔に触れたふたりの緊張は、不思議なことに綿雪のように溶けて消えた。

 今は過去を振り返るべき時ではない。彼がこれから為す"行為"——それが、聖戦を終焉へ導く確信として在るならば、彼らはその未来だけを信じたかった。

 

「……ゴウセルよ、少し、私の手を握ってくれないか。」

「いいよ。……でも、どうして?」

 問いを挟みながらも、ゴウセルはそっと彼の手を取った。その手は、冷たい。けれど確かに、命の灯を握っていた。

 

「よく聞いてくれ。今から私は、全魔力、全生命を代償に——たった一人の男にまつわる、記憶と認識、そのすべてを覆す『禁呪』を発動する。」

「禁呪……?」

「そう。これは『神々にさえ禁じられた呪術』だ。神話の奥底に沈められた禁忌、だが、今こそ用いる時だ。」

「たった一人の男……?そいつは一体誰なんじゃ……?」

「君は知らない男さ。知る必要もない。嫌味ではなく、本当に。」

「そ、そうか……。なら、それでいいんじゃが……。」

「だが、その発動には、わずかに魔力が足りない。だから、君の手を、借りたい。」

「うん。わかった。僕の力で良ければ、いくらでも使って。けど……本当に、それで聖戦は終わるの?」

「終わるとも。いや、終わらせてみせる。この男の記憶が変われば、女神族は『常闇の棺』を用いざるをえなくなる。そうすれば、聖戦は、強制的に"終結"へと転がり落ちる。」

 

 そのとき、後方にいたガランの額に疑問の符号が浮かんだ。常闇の棺?一人の男?答えを求められないと分かっていても、気にならずにはいられなかった。だが、それ以上に、気になる問いがあった。

 

「のう、お主。」

「どうしたんだい?ガラン。」

「魔力を貸してほしいと言っておったな。ならば、儂が貸そう。……さっき、お主から魔力を贈り物として受け取った。ならば、それを今、返すこともできよう?」

「いいや、それは断る。」

「な、なぜじゃ!?」

「君に与えた魔力…その正体を説明していなかったね。今話そう。」

 ゴウセルは視線を逸らさずに言った。その眼差しは、暗い湖の底に静かに沈む真珠のように、深く澄んでいた。

「君に授けた魔力の名は——「真実なる行動(トゥルー・アクション)」。」

「……魔力に、名があるのか?」

「ああ。『今この瞬間、君が最もすべきこと』を察知すると発動する魔力だ。君の意志とは無関係に、君の身体を"真実の方向"へと導くんだ。まるで魂が自身の行動を引っ張るかのようにね。」

「なるほど。つまり、まだ儂の体は動いておらん。ということは——魔力を返すことは"今すべきこと"ではないということじゃな?」

「その通り。…それに、もうひとつ。この魔力は"一度きり"だ。発動すれば効力は失せ、ただの魔力として君の一部となる。だからこそ、大切に使ってほしい。それと、魔力に対して絶対に反抗するような行為はしないでほしい。最悪の場合、命を落とす可能性もあるからね。」

 

 ガランは、協力できぬことに少しの不満を覚えながらも、その理に納得し、地面にどっかりとあぐらをかいた。

 ゴウセルの手を握る少年は、深く見つめ合い、そして微笑む。その一瞬は、永遠にも似た静寂に包まれていた。

 やがて、ゴウセルの視界が揺らぎ、涙腺が崩壊する。熱いものが、次々と地へと落ちた。

 

「ねぇ……ゴウセル……お願い……君がいなくなる前に……僕と話して……。」

「……ああ。子に罪を背負わせる親に、話すことを拒む理由なんてあるはずないだろう。……ごめんね、ゴウセル。」

 

 そして二人は、ガランを背にして静かに語り始めた。その背中が、世界で最も優しく見えた。

 そのときだった。

 ガランの胸の奥に、鉄槌のような衝動が打ち込まれた。心臓が強く脈打ち、骨の髄に電流のような熱が走る。思考より早く、彼の体は前へ引きずられた。

 

 ギュンッ

 

 風を裂く音とともに、身体が勝手に動き出す。意志の介在などなかった。あったのは、ただ一つ。

 

「あれじゃ……あの娘……!」

 

 妖精族の娘。血に濡れ、涙を流して倒れていた小さな命。人間に抱かれ、怯えながらも希望を見たあの娘。その面影が脳裏に焼きついた瞬間、《真実なる行動》が牙を剥いた。魔力が——発動したのだ。

 

「おや、どうやら……私の魔力が発動したようだね。何度でも言うけれど、反抗は厳禁だよ、絶対に!」

「分かっとるわいッ!……じゃが、一体どこへ行くというんじゃ…ぬおおッ!!?」

 

 その瞬間、ガランの巨体が弓なりにしなり、木々の間を突進し始めた。贈与された「真実なる行動」の魔力が、彼の意志を遥か後方へと置き去りにし、肉体だけを矢のように撃ち出したのだ。最短最速の経路を優先するその魔力は、理性や快適さなど露ほどにも考慮しない。

 枝を折り、葉を撒き散らし、幹にぶつかり、藪に揉まれ、まるで森という森から洗礼を受けるように、彼の体はボコボコと自然に殴打されていった。叢の葉は無遠慮に顔を撫で、棘は指をかすめ、飛び出した根に足を取られながらも、体は前へ、ただ前へと進み続ける。

 

「むず……痒いな…」

 

 そう呻いた直後、視界が急にひらけた。自然の絨毯を蹴って駆け抜けていた脚が、ようやく止まる。そこは、一面が吹きさらしのように整地された異様な空間だった。そして、視線の先に立ちはだかるように、漆黒の門がそびえていた。天を突くような高さ、異様な装飾。禍々しい荊が門を這い、まるで自ら意思を持っているかのように波打っている。

 

「なんじゃここは……こんな場所、見覚えが……」

 

 かすれた独白の最中、足元に何かが当たって転がった。コツン、という乾いた音。見下ろすと、掌ほどの石がひとつ、灰色に光っていた。拾い上げたそれは、なぜか人肌のようにぬくもりを感じさせる、ザラついた手触りをしていた。

 

「まさか。」

 

 その直感が正しかったことに気づいたのは、数秒後だった。駆け出し、空間の端に立つ一本の細い幹のもとへと向かう。そこに、あの娘がいた——妖精族の娘、ゲラード。今にも倒れそうなその身体は、石化した人間の左手に、まるで庇護されるように抱かれていた。

 ガランの記憶に、あのときの光景が鮮明に蘇る。あれは確かに、自分が本物のゴウセルを知る以前に、石に変えた人間の姿だ。彼は確信する。これが——あの男だ。

 すると、風が止まり、枝葉が静まり、時間がその脈動を失ったかのような沈黙の中、細い幹がバキリと音を立てて崩れた。支えを失った石の腕が空中を舞い、コン、と小さな音を立てて地面に落ちた。

 

(……頼む。ゲラードを、助けてくれ。)

 

 それは空耳でも幻でもない。骨の髄まで染み入るような確かな"声"だった。慌てて辺りを見回すが、どこにも姿はない。草木の陰にも、門の影にも、命の気配はなかった。ただ、声だけが確かにそこにいた。

 

「なぜじゃ……なぜ、あやつの声が……!」

 

 声の正体に気づいたとき、膝が震えた。あの声は、石にした男の"残響"だった。生きていた証、誰かを想う心、そのすべてが魔力に焼き付いたかのように、ここに遺されていたのだ。

 彼は再びその左手を見る。指先が、あたかも意志を持つようにこちらへと向いていた。まるで哀願するかのように。助けてくれ、と。

 ゴホッ、と咳き込む音がした。娘が目を覚ましたのだ。唇からは血がこぼれ、焦点の合わない目で、愛しい誰かの名を呼ぶ。その声は細く、掠れていて、命の灯火が風前に揺らめく音のようだった。

 それでも、彼女はまだ生きている——ならば。

 次の瞬間、ガランの体が再び強く引かれた。意思など関係ない。魔力が告げるのだ、「今、なすべきこと」がまだあるのだと。

 

「ぬぅおおお!?終わりじゃなかったのかぁああ!」

 

 呻きながらも再び木々を薙ぎ倒し、叢をかき分けて走る。痛みと混乱の道を抜け、ふいにまたしても視界がひらけた。

 だが、そこには言葉を失うほどの"存在"が待ち構えていた。

 地形が不自然にえぐられた広場の奥、天を突くような巨大な樹木の根元に、蔦と葉で編み込まれた"扉"が静かに佇んでいた。幾重にも絡んだ蔓が網のように密生し、荘厳かつ異質な美を持ってそこに立っている。

 ガランは手を伸ばし、そっと表面を撫でた。触れた瞬間、冷たさと同時に、心の奥底がじんわりと温まるような、奇妙な感覚に包まれた。

 

「なんじゃこれは……まるで、癒やしと封印が同時に宿っておるような……」

 

 恐る恐る押してみた。だが、びくとも動かない。硬質で、圧倒的な存在感。力を込めても動かず、まるで意思を持って拒んでいるようだった。試しに、蔓の一本を握って引っ張る。だがそれはあっけなく千切れ、まるで警鐘のようにヒュンと宙を舞った。

 

「……ただの扉じゃない、これは"結界"じゃ……!」

 

 彼は理解する。これはただの障害ではない。魔力が導いたこの地には、明確な"意味"がある。そしてこの扉の向こうにこそ、"その意味"が眠っているのだと。

 彼は武器を持っていなかった。〈四大天使〉との死闘の末、己が手で愛槍を砕き捨てたのだ。かつて血と誇りを吸い込んだその鋼の化身は、もうどこにもない。

 だが拳はある。鋼よりも硬い信念が、今もその両腕に脈打っていた。

 

「ふん、素手で足りるわい。」

 

 そう呟きながら、彼は拳を扉へと叩きつけた。鋼鉄の扉のような蔦の障壁に、岩塊を粉砕する怪力が幾度もぶつけられる。三十秒、数千の打撃がその肌を殴りつけたが、扉はまるで不動の意志を象徴するかのように、微動だにしなかった。返ってくるのは、ジンジンと焼けつくように痛む己の拳の疼きだけ。

 

「こりゃ参ったな……」

 

 だがその刹那、脳裏にひらめきが稲妻のように閃いた。

 

「資源なら、腐るほどある。ならば、作ればええ。」

 

 辺りの木々を次々と粉砕し、数十本に及ぶ木材を粗削りに束ね、即席の槍を幾つもこしらえる。かつての愛槍には及ばぬが、それでもこの肉体と合わされば十分すぎるほどの破壊力になるだろう。

 

「これで準備は万端じゃ……!」

 

 意気揚々と、彼は再び扉に一打を加えた。が、その瞬間だった。先ほどまで岩の如く沈黙していたツルが、乾いた音を立てて呆気なく崩れた。

 

「な……っ!?」

 

 唖然とするガラン。周囲を見渡す。先ほどまで生い茂っていたはずの木々は根こそぎ消え、まるで火に焼かれた後のように更地と化していた。手にした槍に目を落とす。

 

「……そうか。栄養を、あのツルは木々から吸い上げとったのか。道理でどんな攻撃も通じぬわけじゃ……。武器、何百と作ったのに、無駄にしてしもうたか……」

 

 悔しげに歯噛みしながらも、扉の内へと足を踏み入れた瞬間、その光景に息を呑んだ。

 日光が斜めに差し込む静寂の空間。まるで別世界のような楽園だった。朽ち果てた森の荒廃を尻目に、そこだけが春の夢のように息づいていた。色彩の爆発とでも言うべき花々が咲き乱れ、空気には水滴のように瑞々しい香りが満ちている。

 だが、その中心に鎮座するのは、異様に華麗な杯だった。その杯は、大樹の根元に置かれ、まるで神に奉納された聖遺物のように荘厳な雰囲気を放っていた。杯の周囲では、水が穏やかに、まるで小夜曲のように流れていた。

 

「……これは、ただの泉ではないな。」

 

 彼はためらいもせず、それを「ガッ」と掴み、勢いよく口元へと傾けた。

 水には何の味もなかった。ただの液体に過ぎない。しかしその無味が、むしろ魂の深奥に直接届くような清澄さを持っていた。氷のように冷たく、だが陽光を含んだ風のように温かい。衝動だった。理由は不明。ただ、体の奥底から「飲め」と命令された。意味など必要ない。ただその瞬間に存在した欲求に従ったまでのこと。

 

 彼の胸が膨らみ、皮膚の下で筋繊維が再編成されていくのを、彼自身の感覚でありありと知覚した。骨が鳴り、血液が湧きたち、細胞が歓喜の咆哮を上げる。彼は笑った。腹の底から、老いも悔いも塵と化すほどに、咆哮のごとく笑い声を響かせた。

 

「ふはははははッ!!こりゃあ……若返っとるぞ!!」

 

 身体が軽い。両手の痛みが消え、首に残っていた鈍痛も跡形もない。地面を軽く殴ってみれば、大地が音を立ててめり込むほどの衝撃が走る。

 

「なるほど……『真実なる行動』とは、このことか。つまるところ、これを、あの娘に飲ませれば……」

 

 だがその直後だった。ドン。地の底を打つような、鈍く重い音が響いた。地面がうねるように震える。木々が泣き叫ぶように音を立て、折れ始めた。

 

「な、なんじゃこれは……!」

 

 彼は、気づいていなかった。自分が飲み干したその水は「生命の泉」。妖精王の森を支えていた命脈であり、それを失えば、森はたちまち命を絶つ。崩壊が始まったのだ。……発端は、他ならぬ彼自身だった。

 

「あの娘に水を……届ける手段がない!どうすれば……あっ!」

 

 ひとつの可能性が脳裏をよぎる。彼は空中で指を動かし、何かをなぞるように描くと、ピタリと一点を指さした。娘が倒れていた、あの場所を。

 

「ええい、やるしかないわい……!」

 

 彼は大地を割り、大樹を根こそぎ持ち上げた。杯の残り水を湛えたその大樹は、既に朽ち始めていた。皮が剥がれ、芯が軋む。

 

「皮が剥がれてきとるな……。あと数秒もすれば、自然と砕ける。ちょうど、あの娘の頭上でな。」

 

 大地を踏みしめ、筋肉に全力を込める。そして

 

「そうれぇいっ!!」

 

 唸りを上げて飛んでいく大樹。その軌道は見事だった。空を裂き、娘のもとに正確に落ちる。刹那、大樹は空中で木端微塵に砕け、水だけが残され、まるで聖水の雨のように彼女の全身を濡らした。

 

「ふぅ……これで、ええ。」

 

 そう言って油断した瞬間だった。

 

 ズズッ……ッッ!!

 

 大地がうねり、地面から太いツルが突き出る。ガランの身体を鷲掴みにし、両手両足を縛り上げた。力が入らない。まるで根が肉体の内部まで食い込み、神経そのものを絞めつけているかのような錯覚。

 

「ぐっ……ぬうぅっ!?」

 

 抗う間もなく、彼の身体は地面に引きずり込まれていく。森がその異物を呑み込むかのように、音もなく沈めていく。

 〈十戒〉の一人、ガラン。その末路はあまりにも静かで、あまりにも唐突だった。

 彼が消えた後、この場所だけは、森の崩壊が嘘のように静まり返っていた。そこに満ちるのは、風も音もない沈黙——償いのような静謐だった。

 

────

 

 彼女は、静かに目を開いた。

 薄曇りの空が視界に広がり、その色彩はまるで世界が喪に服しているかのように重く沈んでいた。しかし彼女の意識がまず感知したのは、空でもなく地でもない——己の肉体だった。両脚を走っていたはずの血の奔流は、ぴたりと止まり、あれほど深く裂けていた傷口も、今では絹のように滑らかな肌へと回復していた。あまりに不可解な回復だった。どこか夢の中にいるような、現実の輪郭を失った浮遊感。何が己に起きたのか——それは、彼女の知識でも直感でも、掴み取れなかった。

 ふと前方に、異質な存在感があった。

 

「これは……ロウ……?」

 

 見る者の記憶をゆっくりと攫っていくような、不思議な静けさに包まれたそれ——石にも似た塊。しかし、彼女は確かに感じた。そこには、冷えきった石には決して宿らぬ、ごく微細な、かすかなぬくもりがあった。冬の夜明け前、まだ陽も登らぬ中で感じる体温の名残のような。彼女はその手を、ぎゅっと両手で包み込んだ。手のひらで熱が生まれたのではない、胸の奥から込み上げた熱が、涙となって溢れ出したのだ。

 

 ——ゲラード。

 

 確かに聞こえた。空気を震わせたのではない、魂に染み込んだのだ。その声が、彼女の全身を打ちぬいた。そして、彼はそこにいた。幻でも、記憶でもない——現れたのは、紛れもなくロウ。誰よりも優しい目をしていたあのロウ。

 ロウは、彼女をふわりと抱きしめた。春の陽だまりのようなぬくもりが、彼女の全身へ、まるで静かに沁み入る雨のように伝っていく。

 

「あなたに……あなたに会いたかった……!!!」

「俺もだ。ずっと、お前に会いたかった。だからこそ、今こうして……最期にお前を抱きしめられることが、本当に嬉しい。」

 

 その言葉が、甘い刃となって彼女の胸を貫いた。喜びと悲しみとが、複雑に絡み合いながら、涙の川となって頬を流れる。

 

「それと……もう一つだけ、頼みがある」

「……え?」

「"赤き鎧の男"に、礼を言ってやってくれ。お前を救ったのは……そいつだ」

「赤き……鎧……? 一体誰…!?」

「それ以上は俺にもわからない。知っているのは、それだけだ。そして……俺にはもう、時間がない。」

「…………!!」

「お前と話せてよかった……またな、ゲラード!」

 

 まるで風が木の葉を攫っていくように——そのぬくもりが、音もなく消えた。彼女が握っていたその手は、冷たく、無機の感触へと変わっていた。慌てて手を開いた瞬間、そこにあったのは砕け散った灰のような石片だった。声を出す暇もなく、ただ静かに、それが全てだった。

 ロウは、完全にこの世界から消え去ったのだ。

 ——その事実が、静かに彼女の心に着地した。

 彼女は震える手をぐっと押し、立ち上がった。濁りきった曇天を見上げながら、喉を震わせ、唇を噛みしめ、目にいっぱいの涙を浮かべて、空へと誓いを放った。

 

「私は生きるわ……ロウ。あなたのために、生きる……!」

 

 そのときだった。大地が、哭いていることに気がついた。

 地鳴り——否、それはまるでこの森全体が慟哭しているかのようだった。樹々の軋む音、根の裂ける音、風の呻き声。何百年とこの森と共にあった彼女でさえ、これほどまでに痛切な悲鳴を聞いたことはなかった。

 

「まさか……泉……」

 

 あるひとつの記憶が、閃光のように脳裏を走る。思い当たる「生命の泉」。そこに、身を預けて癒された記憶。まさか、あれが……!

 

「森が……朽ち果てる!!!!」

 

 反射的に魔力を解放し、天へと跳んだ。風が悲鳴を上げ、木々が無数に崩れ落ちていく。空から見下ろすその光景は、まるで生きた森が断末魔の嘆きをあげながら自壊していくようだった。

 だが、もっとも恐ろしいことに気づいた。

 

「兄上……兄上はどこに!?魔力を、感じない……!兄上ーーー!どこにいるのですか、兄上ーーー!!」

 

 魂を引き裂かれるような叫びを、彼女は宙に放った。しかし、返事はなかった。

 一方、地の奥深く——そこでは一人の男が、闇に沈みながら、どこか楽しげな、ニヒルな笑みを浮かべていた。傍らに立つ親友へ、無言で会釈を送る。親友もまた、同じ仕草で返す。言葉は必要なかった。二人は、妖精王の森が崩壊していくこの瞬間でさえ、「魔神族」の側に立つことを選び、ある種の満足と興奮を感じていた。

 

 そして、森の空に響き続けるのは、一人の妖精の、絶望に染まった叫びだった。兄の名を呼ぶその声は、天に突き抜け、だが誰にも届かぬまま、朽ちゆく木々と共に、世界の沈黙へと吸い込まれていった。

 

────

 

 いったいどれほどの時が過ぎたのか。日数の記憶など、既に干からびた夢のように砕け散っていた。

 赤錆にまみれた鋼鉄の右手が、地中からぬっと現れた。まるで死者の墓場から這い出す亡者のように、その指は土を掻き分け、大地を食むようにして掴み取った。指関節がきしむ音がした。乾いた骨が軋むような、鈍い悲鳴。

 全身が、泥の胎内からずるりと産み落とされるように、赤き鎧の男——ガランが這い上がってきた。鉄の皮膚に纏わりつく湿気と根、吐き出す息は腐葉土の匂いを纏い、空気を汚した。額からぽたりと泥が落ちる。目の奥には未だ薄闇が残っていた。

 

「はぁ……はぁ……まったく、死んだと思ったわい……うぐっ……いや、これでは……死ぬ……な……」

 

 声はひび割れた岩盤のように掠れていた。千年にわたる沈黙がその喉を乾かし尽くしていたのだ。目覚めたのはたった一時間前。意識の下層で燻っていた生への執着だけが、彼を地上へと引きずり戻した。

 腹の底がからっぽだ。骨が擦れ合い、関節が悲鳴を上げる。脳は霞に包まれ、方向感覚すら失われている。ガランは意識の断崖をよじ登るように歩き出した。まるで破れた操り人形のような足取りだった。それでも彼は進んだ。立ち止まれば、死神がその肩に手を置く気がした。

 曇天が空を覆っていた。空の色は死者の血を薄めたような灰青で、陽光はどこにもなかった。ふらりと揺れた足が、小石に躓いた。

 

「おっと……い、いかん……」

 

 ガランの巨体が地に伏す寸前、足音が聞こえた。乾いた枝を踏む軽やかな音。まるで風に踊る影法師のように、それは確かに近づいてくる。

 マゼンダの髪が風にそよぎ、黄色の瞳が夕暮れの焔のようにきらめいている。少女のように整った顔立ち。微笑が、まるで咲き始めの花のように無垢だった。

 

「久しぶり!ガラン!千年ぶりだね!!」

 

 その名を呼ばれた瞬間、記憶の底に沈んでいた名残り火がぱちりと弾けた。彼は知っていた。その少年を、否、魔術師の人形、感情を持つ「造られし者」ゴウセルを。

 再会の余韻も束の間。ゴウセルの瞳が微かに揺れ、指が空気を切る。

 

傀儡縛り(ジャック)

 

 その名を告げると同時に、不可視の鎖がガランの頭部に打ち込まれた。ずしんと頭蓋の奥に重さが走る。身体が自らの意志を離れ、糸に引かれる木偶となって動く。

 

「……ごめんね。本当はこんな形で再会したくなかった。でも、君がそんな状態じゃ……ちゃんと話もできない。だから、君の身体の支配権を一時的に僕に預けてもらうよ。」

「なるほど……助けてくれた、というわけか。して、これからどこへ向かうのじゃ?」

「僕の家さ!三百年前に見つけてから、ずっとそこで暮らしてるんだ!!」

「ほう……それで大丈夫だったのか?……千年も一人で……」

「大丈夫だったよ!だって……ガランが、いつかきっと僕のもとに来てくれるって信じてたから!」

 

 笑顔の温度に、ガランの胸がほんの少しだけ温まった気がした。

 その瞬間、糸がぷつんと切れたように、彼の身体から力が抜け、地に崩れ落ちた。

 

「……ガラン?ガランってば……?」

 

 揺さぶる手。震える声。初めて見るような焦りが、ゴウセルの表情に浮かんでいた。

 

「ガラン!」

 

 その絶叫が、夢の奥底に沈んでいた魂を引き戻した。ガランは目を見開き、地から飛び起きた。その勢いで、前のめりだったゴウセルと頭を激突させる。

 

「うぐっ……」

「はは……ガラン!よかった、生きてたんだね!」

 

 ガランは眉をしかめつつも笑った。喉から洩れる声は、ようやく人の音を取り戻していた。

 

「しかし……なぜじゃ。さっきまで、死にかけておったはずなのに……目覚めた途端に力が戻っておる……お主の魔力のせいか?」

「違うよ。僕の魔力は身体を操作するだけ。体力を回復させたりはできない…」

 

 ならば、なぜ。彼の身体はどうしてこのように……。けれどその疑問は、ガランの中であっけなく霧散した。細かいことなど、どうでもよかった。生きていた。それで十分だった。

 

「もうええわい。生きておるならそれでよい。余計な理屈など要らん。忘れよう。」

「うん、そうだね!!」

「して、家はどこじゃ?行こうではないか。……すまんな。千年も待たせてしもうた。そんなに経っておるとは思わなんだ。」

「いいんだよ!だって、来てくれたんだもん!!」

 

 ゴウセルは笑い、駆け出した。朝陽が山間から滲み出し、世界を金色に染め上げていく。ガランはその光に目を細め、ゴウセルの背を追って歩き出す。鉄靴が、かすかな希望のリズムを刻んだ。

 新たな生活が、幕を開ける。

 そして彼は確信していた。あの狂騒の夜のような「聖戦」は、終わったのだと。

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