十五分物語(短編集) 作:網浜
孤独が板につきすぎると、些細な心の揺らぎに神経質になってしまう。影太にとってはそれが億劫で仕方がなかった。
己が選んだ道であり、その事について他者に文句を言うつもりはない。ずっとなかった。なかったのだが、そういった感覚はむしろ生理的な快不快に近く、信念とは無関係に、ある日突然彼に襲い来るのであった。
その日の朝食時に、まさにそれが起きた。
彼は朝テレビを見ない。ラジオもきかないし、新聞も読まない。それらはまさに揺らぎの元であり、活動開始時にそういった影響を受けると一日に響くからだ。
ただ心身を凪とし、精神の水面に波紋を立てぬよう静かに栄養を摂取し、仕事へと向かう。長年の習慣だが、容易いものではなかった。
シリアルに牛乳をかけ、木の匙で掬い口に運ぶときに、唐突にやってきた。
あの子も、こうしてシリアルを食べていた。用意をしたのは妻。朝食はもっときちんとしたものを、と影太が言うと、じゃああなたが作りなさいと彼女は口を尖らせた。
精神の水面はいとも容易く波立った。慌てて彼は心を無にする。無にする動機があまりに明らかで、そこに意味はなかった。思考は消えず、影太に禅の素養はない。
心を揺らしながらシリアルを食らい、身支度をして、仕事場へと向かった。出社の経路は凡庸で、徒歩、満員電車、そして徒歩。歩いていると思考は実にスムーズに働く。脳が記憶を整理するのだという。まったく余計な機能だと、彼は考える。何も整理などしてほしくはなかった。ただ、なにも無くありたかった。そのための努力は、しかし、敢えてすることはない。満員電車は不愉快で、しかしただ不愉快に没頭できるという点では嫌いではない。人ごみに対する苛立ちは無意味で、無意味な事への没入は後になにも残らない。残したくない彼には最適であろう。
職場では、ただひたすらに、仕事をした。人間の心を特に必要としない職のはずだったが、そう上手くいくことはない。折に触れ人間らしさや社交性が求められ、彼は表向きそれにこたえ、何事もないように装って日々を送っている。今日もそうして、概ね上手くはいった。
ひとつ、よくないことがあった。
昼休み。彼は昼食を食べない。正確には、ペットボトルのお茶と簡易な棒状の栄養食のみを食する。毎日のルーチーン。
そんな彼を見かねる人物がいた。課長、と彼女は言った。そして、食事の重要性や、最近の彼の体調についてくどくどと語った。影太は適当に相手をして、心配してくれてありがとうと心にもないことを言ってその場をやり過ごした。
ただそれだけだ。だが、よくないことではあった。
夜にはもちろん、帰宅する。残業は少ない、という点で良い職場だ。彼は帰り際に購入した惣菜を食べ、少し酒を飲む。食事らしい食事は夜だけだ。職場の彼女が言うように、健康にはあまりよくないだろう。だが、別に健康でありたいわけではなかった。
夜はぼんやりとテレビを視ることにしている。夜のテレビは、心を無にしてくれた。風呂は短く済ませることにしている。風呂場ではとにかく頭がよく回るからだ。
そして、適度な時間に電気を消して、横になった。
今日もなにもなさず、無為な人生を過ごした。このまま無為に老いさらばえて、消えるようにいなくなれればそれでよい。願わくば誰にも迷惑をかけたくはないが、それは難しいかもしれない。
寝る前に、ひとつ、思い出してしまった。
おやすみ、とあの子は言っていた。妻も。当時は特になんとも思っていなかったが、それは世間に言う、小さな幸せだったのだろう。
今となっては、苦痛でしかない。
完
なんか嫌な事でもあったのかもしれませんがよく覚えてません。