十五分物語(短編集) 作:網浜
影山影太はその扉の前ではたと我に返った。それまでの出来事について、何一つ思い出せない。彼はいったい何故この扉の前に立っていたのだろうか。
それは、影太の自宅、階段から二階に上がり廊下を真っ直ぐに行った先にある何の変哲もない部屋の扉であった。
本当にどうということもないただの部屋だ。影太はこれまで一度も入った覚えはないが、とにかく、おかしなところはなにも無い部屋であった。彼の両親も常々そういっていた。あまり気にする必要はない。
だから彼は、深く考えることをやめ、速やかにその場を後にする。自分の部屋に戻り、漫画を読んで時間をつぶした。
一家そろっての夕食を終え、リビングでテレビをみた後お風呂に入り、彼が自室に戻ったのは夜の八時であった。通常、それから彼は宿題や明日の準備などをして、九時になる頃には眠りにつく。彼は小学六年生で、両親は子どもの睡眠時間を気にする方であったから、それ以上夜更かしすることは稀であった。学校では存分に遊び惚けている彼なので、寝付けないなどということもあまりない。
あまりない、ということは、たまにはあるということだ。その日がそうだった。
なんとなく寝苦しくて、影太は何度も寝返りを打ちながら、目を瞑ったまま時間を過ごしていた。彼に兄弟はいないため、子ども部屋は彼一人だ。電気を消した真っ暗な部屋で一人きり。こういう日に限って、怖い話などを思い出したりして、余計に眠れなくなってしまう。この一人の状況にはもちろん慣れてはいるものの、一度気になりだすとどうにも我慢がならない。まだこの空間が本当に真っ暗闇で、何も聞こえない無音の空間だったのならよかったのだ。しかし実際には窓から差し込む月の明かりが部屋の輪郭を薄っすらと浮かび上がらせているし、静けさの中には時計の針の音や家の鳴る音、得体のしれない重低音が不気味な存在感を放っている。五感に響くすべてが不穏で、彼はよりきつく目を瞑り、それがかえって意識を覚醒させる。小学六年生にもなって、と彼自身思いはするのだが、しかし暗闇への恐怖は如何ともしがたい。
こんなとき影太は、耳を澄まし、不気味な闇の音の向こう側にあるはずの、両親の生活音に意識を傾けることにしている。両親がまだ起きていて、普段通りに動いている。その事実が、得体のしれない恐怖を僅かなりとも緩和してくれる。当然この日も、彼はそうしていた。
両親はまだ一階にいて、会話などは聞こえない。トイレやお風呂に行く時のドアの開閉音やかすかな足音が何とか聞こえる程度だ。それでも彼が日常と自分を繋ぎとめるには十分で、じっと耳を傾ける。両親のどちらかがリビングのドアを開け、どこかへ向かった。トイレだ。しばらく後に再度ドアの音。トイレから出てきたのか。リビングに戻り、また静かになる。それから、どれだけ経ったかはわからないが、またどちらかがリビングから出てくる音。今度はお風呂だろうか、と思っていると、足音は階段を登り、近づいてくるようだった。二階には両親の寝室もある。しかしまだ両親が寝るには早い時間帯だろう。何か物をとりに来たのか。そんなことを考えながら、足音に集中する影太。父か母の足音は、寝室の前に差し掛かり、彼の予想に反して、そのまま真っすぐ通り過ぎた。その先にあるのは、影太の部屋しかない。自分の部屋に何か用だろうか。部屋の扉を開けて、寝ているか確認しに来たのか。そうなると、一時しのぎではあるけれど、音よりも尚安心できるかもしれない。少し期待した影太だが、その期待もまた裏切られることとなった。
影太の部屋も、通り過ぎた。その先にはなにも無いのに。
いや、と彼は思い出す。
その先には、部屋があったはずだ。何の変哲もない普通の部屋が。何故忘れていたのかはわからない。
足音の主は、その部屋に行くのだろう。何しろ足音の向かう先には、その部屋以外には本当に何もない。
おそらくはその部屋の前で、足音が止まった。影太は妙に緊張して、ぎゅっと目を瞑ったまま、唾を飲み込む。
父、ないし母はあの部屋になんの用事なのだろう。これまで両親があの部屋に入っているのを見た覚えはまったくない。入る理由もないはずだ。あの部屋には何も無いのだから。
その時、影太の頭にとても嫌な想像が広がって、背筋にぞっと何かが走ったような感覚を覚えた。
あの足音は、本当に両親のものなのだろうか。
まったく知らない誰かのものなのではないか。
それどころか、足音の主は、もしかすると人間ですらないのではないか。
何も根拠のない妄想でしかなったが、その時はあたかも真実のように感じられ、どうしようもない恐怖に包まれる影太。
目を瞑ったまま決して開かず、布団をかぶり体を丸める。そして否応なく意識が耳だけに集中し、その足音の次の挙動に全神経が注がれる。足音はどうするのか。部屋に入るのか。立ち去るのか。
しかし、いつまでたってもなにも起きる気配はない。足音はあの部屋の前に立ったまま、一歩も動かず、おそらくは身じろぎひとつしていない。
なにかの重低音や時計の音に神経をすり減らした影太は、やがて根負けし、仕方なく、恐る恐る目を開いた。
相変わらずの嫌らしい薄闇の自室だ。
何の変哲もない。
いつの間にか開いていたドアから覗く顔が
影山影太はその扉の前ではたと我に返った。それまでの出来事について、何一つ思い出せない。彼はいったい何故この扉の前に立っていたのだろうか。
影太は不思議そうに首を傾げ、扉を眺める。何の変哲もない普通の部屋の普通の扉だ。なにもおかしくはない。
彼は、深く考えるのをやめ、自室に戻った。
彼は何も覚えてはいない。
いつもどおり。
完