会社の後輩が悪魔っ娘なのだが魔族恐怖症の俺はどうすればいい 作:足洗
「有給休暇、ですか」
まるで未知の言語を口にするかのように俺は課長の言を繰り返した。
間の抜けた声だった。
誰あろう俺自身が発したくせに、思わず失笑しかけるほど。
案の定、デスクの傍に立つ俺を椅子に座ったまま見上げて、課長はますます困り顔になる。
「うんまあ、本来上司が使い方にごちゃごちゃ指図するのは良くないんだけどさ。魚蔵はあんまり取らないだろ。先月と、先々月もだっけ」
「そう、ですね。休むほどの用もなくて」
「若いのに寂しいこと言うなよ。繁忙期ってわけでもないしさ、この際どーんと使ってみたら?」
「はあ……」
「……ぶっちゃけると、上から指示が来てるんだ。有給消化率の悪い社員に、強制じゃない範囲で、奨励するように……難しいこと言ってくれるよ、まったく」
「上から? ……労基に睨まれた、とか?」
「ないないない。うちは今時珍しいくらい上も下も平和で呑気だから。だから、今回のこれはたぶん、鶴の一声があったんじゃないかな」
「あぁ、社長の思い付きですか」
こちらの軽口に課長は少し笑って、急に考え込んで。
「いや……勘だけど、もっと上じゃないか」
「社長の上?」
「そう。それこそ、ある意味
「…………」
課長の言い様に、すぐには返答できなかった。意味を察することはできたが、認められるかは別だから。
天上より遠い場所。しかし今や地続きの異なる世界。
魔界。
国内、どころか地球に存在する無数の企業。官民、その合法・非合法すら問わず、魔界の影響を受けずにいるものが果たしてどれほど残っているだろう。
そして弊社に最も縁深い魔界関係者はただ一名。
俺は自身の背後を見やった。
自分自身のデスクの隣。彼女を中途入社の新人などと思える者はもういない。前代未聞の有能人材がこの期に及んでまだリクルートスーツを着ている。彼女は末席に居座り続けている。
俺の隣席を頑として動かない魔族の女。
アスモデウス……アーシャは当然のようにこちらを見ていた。俺が自分を見ることを予期していたかのように。
可愛らしく小首を傾げて彼女は微笑む。
「君らって付き合ってるの?」
「は?」
「あ、いやいや、プライベートなことだし口出しする気はないんだけど。こういうの何ハラっていうのかな」
「違います!」
咄嗟に発した声量は思った以上に大きく、さらに運悪く喧騒の間隙を突いてしまったものだから、結果として俺のその
課内にいる人間と、人間でない者の視線が一挙に背中に殺到する。
それで二の句を発する胆力など自分にはなかった。俺は無様に口を噤んだ。
課長の驚き顔に辛うじて謝罪するのが精一杯だった。
「い、いや、こっちこそ邪推したな。すまんすまん……」
「いえ……」
「あぁ、えぇと……まあなんだ、僕は異類婚した側の人間だから、否定的な人にとやかくも言えないんだけど。そう悪いもんじゃないよ」
課長の視線がデスクに落ちる。机上に置かれたデジタルフォトフレームに一組の家族が映し出されていた。
遊園地だろうか。課長と長身の女性、そして二人と手を繋ぐ小さな女の子。
女性と女の子はどちらも白髪だった。純白の体毛が首筋から溢れてファーのようになっている。なによりその頭からは長い耳が生えている。白兎の獣人。
課長の奥方は魔界出身者だ。
「……娘さん、お幾つなんですか」
「もう八歳。ハーフだからってのもあるけど、すぐ大きくなるんだこれが」
「はは……そうなんですか。可愛いですね」
「うん、母親似でよかったぁ。美人だし、とにかく優しい子なんだ。この子も、嫁さんも、僕には勿体ないくらい」
「……」
父親であり、夫でもある。彼は家族を持つ一人の男の顔になる。
俺は、自分が恥ずかしくなった。
家庭を守り家族を愛することの是非などは、問うこと自体が愚かなのだ。そこに人種の違いも世界の違いも関わりはない。
浅薄な思想で、彼が築き育んだものを否定しようとした。
何様のつもりなんだ、俺は。
「すみませんでした……」
「ん? いや、いやいや、僕のことはいいんだよ。魚蔵にもいろいろ事情とかあるだろうし」
「……」
「まあ、お前を心配してる人間が周りにいるってことをさ、ちょっと知っておいてくれよって話」
「はい……」
「あと」
課長は周囲を覗い、一段声を落として言った。
「魔界の女の人は、かなぁり積極的だから。もし気に入られちゃった時は……覚悟した方がいいよ」
「……そう、ですか」
課長が笑う。
俺も愛想笑いを返す。上手くできていたか、自信はない。
「なにかありましたか?」
デスクに戻ってすぐ彼女が尋ねてくる。視線はモニターを向いたまま、五指は淀みなくキーボードを叩いている。
「いや……別に」
「そうですか? 途中、先輩がこっちを見たから。私の話かなーって思ったんですけど」
「陰口じゃない」
「あっはは、わかってますよ。魚蔵く……先輩はそんなことしないって知ってます。昔から」
「……」
昔。
十年は確かに昔と言ってもいいだろう。人間にとっては。俺にとっては、遠い。記憶は薄れ、霞み、時と共にますます遠退いていく。
痛みだけだ。はっきりと残っているのは。この胸の穴だけだ。
では、彼女にとってはどうか。魔物、魔族、魔界の住人、数百年、下手をすれば数千年を生きる人外の者達にとって。
彼女にとってもこの十年は、長く、遠いものなのだろうか。
「そろそろお昼です」
「あ、あぁ」
「魚蔵先輩は外食ですか? それとも買い置き?」
「下のコンビニで済ませる。アーシャさんも、適当に切り上げて昼休みに」
「よかった! はい、これ」
「え?」
横合いから差し出された四角い包み。それを思わずまじまじと見詰める。
風呂敷に包まれた小箱だった。それが弁当箱なのだと理解するまで思った以上に時間が掛かった。
それを自分に差し出す意味を察するには、もう数秒必要としたが。
彼女は辛抱強く物分かりの悪い男の乏しい理解力に付き合ってくれた。
「……俺に、か?」
「はい、先輩いつも外食か買い食いでしょ。栄養補助系のやつばっかり。正直、酷いです」
「そ、そんなに酷いかな」
「最悪です」
「あ、はい……すみませんです」
「食生活もそうだし、仕事も。休める時はきちんと休まなきゃダメです。仕事の質を気にするならなおさら」
「ご尤もで……」
押し頂くように弁当の包みを受け取る。
「これ」
「手作りですよ」
彼女はまた問いに先回りしてそう答えた。それは何故か逃げ場を塞ぐような、拒否を許さぬような、そういう強引さを覚える声色だった。
いや、余裕の無さ、だろうか。
拒絶されることへの恐れ。怯え。
伏し目がちに、紫紺の瞳が俺を見上げる。
「食べて、くれますよね……?」
「……いただきます」
「! はい! 召し上がれ」
ぱっと華やぐ。ただでさえ華と彩のある顔立ちが、そんな無邪気な喜色に染まると。
もはや何も言えなくなる。
「えっ、アスモデウスさん、魚蔵さんの弁当作ってるの!?」
「えぇすごーい! 超健気!」
いつからいたのか、数人の同僚や事務方の女性社員達が俺達の様子を見物していたらしい。
「やっぱあの二人ってさ……」
「絶対そうだよ」
「魚蔵さんマジで羨ましいわ」
好き勝手に、あるいは聞こえよがしに囃し立てる彼ら彼女ら。そこに悪意は微塵もなかった。あれはそういう祝福なのだ。良かれと思って送られる賛辞なのだ。
事情を知らない同僚達に落ち度はない。
おかしいのは相変わらず俺一人。
異常者は、俺一人だけだ。
「ちゃんと有給、取ってくださいね」
「っ! 聞こえて……」
「魚蔵くん」
耳元で彼女が囁く。まるで俺達は親密な仲なんだと、周りに示し、知らしめる。
小悪魔めいた微笑み。
最初から俺に逃げ場などなかったようだ。