会社の後輩が悪魔っ娘なのだが魔族恐怖症の俺はどうすればいい 作:足洗
彼女はとても優秀だった。
お世辞抜きに、確実に俺よりもずっと。
物覚えの早さ、応用の的確さ、上司の思惑の察しの良さ、俺がこれまでの人生で出会った誰よりも……それこそ、人間よりあらゆる能力に秀でている魔族を含めてすら、彼女は桁違いだった。
彼女が入社して三ヶ月余り。明らかに会社の業績が上がっている。この短期間で現に数字としてそれを集計できてしまうほど明白に。
先頃など、本社からこの事務所へ社長が直々に来訪し彼女に面会を求めたのだ。
「はあ……では直属の上司、
「だってさ、魚蔵」
「なんでだ!? い、いや、なんでですか!?」
その場に何故か同席させられた己の場違い感たるや筆舌に尽くし難い。教育係などという立場は彼女の出社五日目にして早々に返上した。
にもかかわらず、彼女は頑なに俺の部下を名乗るのだ。
「先輩にはとても、とても良くしていただいています。父“へ”の薦めでこちらを紹介されましたが、本当に良いご縁を賜って私も感謝しています……ですから、くれぐれも、よしなに願います」
あれは、世にも不可思議な空間だった。
そう広くもない会議室に、上等な仕立てのスーツを着た貫禄ある初老の男性、つまり我が社の取締役社長殿がオフィスチェアに浅く腰掛け入社三ヶ月の中途入社社員と神妙に向き合うあの様は。
あの瞬間、まるで彼女こそが雇用主に見えた。
「俺なんかを立ててくれるのは、まあ、とてもありがたいとは思うけど、正直荷が重い。アスモデウスさんは明らかにもっと上に行くべき人……ヒトだ」
「表面的な能力の多寡なんて私にはあまり意味がありません。あ! いえ、侮辱している訳でも軽視しているつもりもないです。ただ、我々は血筋によってそれが約束されています。努力で勝ち取ったものではないんです……人間の、薄紙を重ねて積み上げるような努力は美しいです。私が人界で見て聞いて学びたいのはそれですから……この言い様も、無礼極まりないですね。貴方達を虚仮にしている」
「いや……そんなことはない」
それに対して嫌悪感や忌避感といったものは特にない。
卑屈だの劣等感だのというものを抱く為には、彼女は能力の面で自分からあまりに遠すぎる存在だ。
ひたすら戸惑いと、恐縮の念が胸を刺す。
そして……押し殺せぬこの、苦手意識も。
ごく早い段階で既に、俺は彼女が至極良識的な、思慮の深いヒト……理性的な魔族女性であることを理解していた。
人間の微妙で些末な機微。およそ上位存在と呼んで差し支えない魔族からすれば理解に苦しむような人間的思考回路にも、彼女は一定の理解と譲歩を示してくれる。
畏れ。
優れた者、美麗な者、世界の異なるモノ。
普遍から逸脱したものを排斥したがるのが人間だ。人間の性だ。
それは、安心を得る為に。
己の狭い世界の安寧を守る為の防御反応。
愚かだと思う。物理的に世界が広がってしまった現代においては、そうした差別思想はこれまで以上に愚劣で、醜悪な行いとされている。
差別はいけない。
偏見は捨てるべきだ。
だのに……俺は未だ、前時代的価値観を保持するレイシストだった。
俺は、俺を先輩、先輩と慕ってくれる部下の彼女が。
隣のデスクに座る仕事仲間の彼女が。
魔族の女が恐い。
無意識にもパーソナルスペースは普段の半歩多く確保するようになった。
会話の際、気付けば彼女の視線から逃れて口許や喉の辺りを見ている。
極力二人きりは避けた。
ランチに誘ってくれる度、同行してくれる人間の同僚を探し、時には買い置きを用意してまで断ったこともある。
「ごめんなさい。私、馴れ馴れしいですか?」
「え、いや、そんなことは……」
「やっぱりまだ人間の距離感、みたいなものが掴めないみたいで。きっと不快な思いをさせてしまったから……」
「ち、違う違う! 俺が、特別人見知りなだけだよ」
「そう、なんですか」
「ああ、この前の勤務評定でも注意されたんだ。もっと上司や同僚とコミュニケーションを取るようにって。社会人三年目なのにな。ははっ」
「先輩は今のままでいいです」
「そう、かな」
「はい、今のままで……十分素敵ですよ」
「は、はは、ありがとう。フォローが沁みるよ。あはははは」
「……」
その時の彼女の表情は、意外だった。清廉で、凛として、ひたすら美しい造形に、一滴。
細いひび割れのように走るその……淋しさ。
淋しそうに微笑む彼女が、俺には魔族の女性ではなく、ただの小さな女の子に見えた。
胸を刺す。その痛みに名前を付けるなら、それはきっと偽善だ。
魔族を恐れている。魔族を嫌っている。関わりたくない近寄りたくないと内心で必死に叫んでいる癖に、何を今更と。
俺は自分の矛盾に吐き気を覚えた。
だから、その日俺は判断を誤ったのだろう。
罪悪感なんてもので中途半端に行動するから。
自分も他人も望ましからぬ結果を生む。間違いなく害悪だ。
深夜残業。当然だが、それは俺自身が抱える案件の詰め作業だった。
それなのに彼女からの手伝うという申し出を断りきれなかったのは、ひとえに俺の語彙力と意志力の敗北に他ならない。
静かな事務所で、他の社員や課長すら帰宅済み。
あれほど避け続けた二人きりという状況に陥っていながらも、俺は冷静だった。
火急の仕事に追われていたこともそうだが、彼女の、アスモデウスという名の魔族の女性のヒトとなりを知り始め、病的な回避行動を取らない程度に慣れていたこと。
油断。
弛緩。
言い換えてしまえば、己の落ち度だ。
「データ、そっちに回しますね」
「ありがとう。チェックする……と言っても、完璧なんだろうな」
「確認作業は大事ですよ」
「ええはい、ごもっともです」
「ふふふ」
魔族の女性と軽口を叩ける。内心、俺は俺の成長を喜んでいた。
苦手意識の克服。それを努力で成し遂げた……などと、それなりに思い上がっていたのだ。
それに社会人のいい大人がいつまでも同僚の女性によそよそしいというのは、正直かなりみっともない。
立派な見栄である。けれどこれこそ社会人的で真っ当な動機の筈だ。
真面目に、真剣に仕事に取り組む彼女に、外面はともかく、腹に一物隠しながら接するというのはひどく不誠実にも思えた。
「……アスモデウスさんは」
「アーシャ」
「は?」
「アスモデウス、じゃ呼びにくいでしょう? 苗字もあるんですけど、そっちはもっと仰々しいから……友達や家族は私のことアーシャって呼ぶんです」
「それは、俺が呼ぶのはちょっとどうかな。ほら、最近ハラスメントのコンプラ研修受けたばっかりなんだ」
「あっはは、セクハラになるから?」
「そうセクハラ」
「あっはは、ふふ、そんなの可笑しい」
「可笑しかないさ。人間社会は何かとうるさいから」
「だって……人間の男の人が? 魔族の私に?」
「────」
その瞬間、冷水を浴びたような心地で俺は硬直していた。
彼女の微笑。
どんな名画の美女より芸術的な美貌の象形する笑み。
そこにあったのは、ひどく自然な。
絶対者。
ハラスメント、心理的侵害行為、それは所詮人間同士の小競り合いに過ぎない。
蟻が象にどうやってハラスメントを働ける?
つまり、俺と彼女の差とはそういう次元。
「先輩」
「……は、えっ、な、どうした?」
「? 先輩こそ、どうしたんですか。しどろもどろで……可愛い……」
「あ、あはは、ごめんごめん、ぼんやりしてた……で、なんだったっけ?」
「この後、食事に行きませんか。一仕事終えた慰労会に」
「えっ、いや……」
「……やっぱり、嫌ですよね」
「い、いや!」
同じ文言をオウム返しに繰り返す。今の己は無様以外の何ものでもなかった。
ただ、罪悪感で、それに突き動かされて、みだりに動かした舌は。
「行こう。お礼も、したいから」
「! は、はい、はい! 行きましょう。あぁ、嬉しい……嬉しいです、先輩」
「お、大袈裟だな」
「ふふ」
汗の浮いた俺の顔にはどんな表情が張り付いていたのだろう。
艶やかに微笑み、己の面相を映す彼女の紫紺色の瞳を見返す勇気が俺にはなかった。