会社の後輩が悪魔っ娘なのだが魔族恐怖症の俺はどうすればいい 作:足洗
「カップ、洗いますね」
「……っ、あぁ、お願いする」
横合いから伸びてきた白い手が、デスクの上からとうに空っぽのマグカップを取り上げる。
また、呆けていた。
退勤間際。残業は彼女のお陰を以て首尾よく消化され、あとは戸締まりをして、事務所を出るだけ。
本日の仕事から解放され、晴れて自由の身。何の憂いもありはしない。
ない筈だった。
まさか後輩の女性社員から飲みの誘いがあるなどと、まったく想定していなかった。
しかし、それは驚くべきことだろうか。同僚同士が仕事終わりに一杯引っ掛けて行く。至極普通で健全な日常だ。会社員の醍醐味と言ってもいい。
異常なのは、この期に及んで断りの文句や言い訳を探して探して、探しあぐねて意識を浮遊させている己こそが。
給湯室に向かう黒いジャケットの背中を見やる。やはり流麗な形と姿勢。きっと彼女は背骨すら美しいのだろう。
その凛々しい姿が、しかし今はどこか幼く見える。上機嫌な子供が足取り軽く、スキップを踏むような。無論、実際に彼女がそんな真似をしている訳ではないのだが、何故かそのような印象を覚えた。
嬉しいと、彼女は言った。
たかだか先輩社員との食事会に、あんな、あんなにも高揚して。
「……」
彼女のようなヒトが、思惑はどうあれ忌憚なく隔意もなく接してくれることは素直に喜ばしい。不平不満を垂れる方がどうかしている。
俺はどうかしている。
随分前から、それはわかりきっていた。
病気だ。精神疾患の類い、医者にかかれば適切な病名を与えてもらえるに違いない。
そしてこの病んだ男は身の程知らずにも、内心でまたしても手前勝手な不満を鳴らした。
──彼女が魔族でさえなかったら
胸ぐらを掴み、Yシャツと胸板を握り潰す。胸を刺す痛み、懐かしい痛み。
新鮮な、痛み。
偽善者の悲痛は、どこまで掘り返そうが醜悪なだけだった。
彼女に落ち度はない。彼女に罪などありはしないのに。
「……まだ、忘れられないのか」
独り言ちてから、急に恥ずかしくなる。いい歳をした大の男が、なんて無様だ。
PCの電源を落とす。
サーバールームの空調が一定温度で維持されていることを確認し、各フロアの通用口を施錠していく。
深夜残業に慣れ、事務所を締める手順は体が覚えている。誇るどころか悲しみさえ覚える習性に従い、最後に給湯室の照明を落としに向かう。
丁度、彼女もそこにいる。
ぴちゃ、ぴちゃ
通路の角、コーヒーメーカーやウォーターサーバー、冷蔵庫が立ち並んだ給湯スペースから盛んに水音が響いてくる。
ぴちゃ、ぴちゃ
カップを洗っているのだろう。
ぴちゃ、ぴちゃ、ぐちゅ、ぐちゃ
「アスモデ……」
「ひやっ」
薄暗がりの中でさえ艷やかな濡れ羽色の後ろ髪が宙を踊る。
小さく上がった悲鳴にこちらの方こそ驚いた。
さっと素早い所作でアスモデウスが振り返る。
その時、彼女の。淡い色合いのリップが引かれた唇で、舌が。
先端が二つに裂けた舌先が、見えたような気がした。
頬が少しだけ紅潮していた。横髪の数本が何故か口に含まれている。
そして、彼女はそのまま後ろ手で水道のレバーを上げた。
無遠慮に水がシンクを叩いて、やたらに響いた。
「み、見ましたか」
「何を、かな」
「……いえ、なんでもないんです。ごめんなさい。すぐ洗っちゃいますから」
「あぁいや、急かしてる訳じゃないから……ゆっくりでいいよ。ありがとう」
「お礼なんてそんな、こちらこそご馳走さまです」
「ん? ああ……まあ、曲がりなりにも先輩だからね。後輩に良い格好はしたい」
「?」
食事代の奢りどうこうを気にする程度に彼女にも庶民感覚が備わっているのか。いや、それこそ学び取ったのか。
牧歌的な話題で、なにやらようやく人心地を取り戻せたような気がした。
「ぁ……あぁはは、はい、では遠慮なく、ご馳走になりますね」
珍しい歯切れの悪さで彼女は両肩を竦め、苦笑した。
そうしてシンクに置いたマグカップに水を注ぐ。
器は見る間に溢れ返り、残留したコーヒーで薄黒く濁った液体を吐き出す。滔々と。
際限なく、それは溢れ続けた。