会社の後輩が悪魔っ娘なのだが魔族恐怖症の俺はどうすればいい   作:足洗

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酒精に問う

 

 カクテルグラスの縁を彼女の細い指がそっとなぞる。

 無論、彼女は唇のリップグロスの痕を硝子に付けてしまうような粗相はしなかった。食事の所作一つ一つにさえ行儀作法の習いが染み着いている。彼女がそうした旧く、また高貴な生まれと育ちを経てここにあるのだと、不敏な己にも察せられるほど。

 だから、グラスに触れるその行為は彼女なりの茶目っ気なのだろう。

 

「ふふ、あんまり熱心に見詰めないでください」

「っ、すまない」

「いいんです。面映ゆいだけで不快ではありませんから。実は今、結構はしゃいでるんですよ、私」

「それは、意外だ」

「貴方を前にすると、飾るのをやめてしまいたくなる」

 

 シャンデリアの火が揺れていた。実体の、本物の火である。

 仄明るい暖色があらゆるものの輪郭を朧にする空間の中央で、俺達はテーブルを挟んで向かい合っている。

 光の加減の所為ばかりでなく、彼女の笑みは、紫紺色の瞳はひどく熱っぽく、とろりと蕩けて、堪らなく甘い。

 甘い視線に耐えられず、俺は手元のグラスを引き寄せ中身を呷った。

 洋酒らしいやや暴力的な酒精が喉を焼く。今はそれがありがたい。痛みを伴う刺激が必要だ。この落ち着かない気分を誤魔化し、感覚ごと鈍らせてしまう為に。

 

「貴方には……剥き出しの私を見て欲しい」

 

 彼女の甘い囁きで脳が痺れてしまう前に。

 

 

 

 飲みの場として会社近くの手頃な居酒屋を想定していた己の浅はかな思惑は見事に挫かれ、優秀な後輩社員は既に個室を予約済みだった。

 タクシーを拾ってすぐ、彼女は聞き馴染みのない言語で行き先を告げた。運転手は、それに驚くでもなく聞き返すこともなく無言で頷くと、じわりと車を発進させた。

 会社から数分の距離。であるにもかかわらず、俺はここが何処なのか分からなくなっていた。車窓から外を、道のりを確かに見ていた筈なのに。

 思い出せない。

 

「ここ、時々来るんです。肉料理が美味しいんですよ」

 

 

 

 酒類の豊富なレストランといった風情。世間的に想像される個室居酒屋とは明らかに趣が違う。隠れ家的というより、まるきり洋館の食堂室だ。

 イミテーションではない本物の古色を備えた調度品の数々。己が今腰かけている布張りの木製椅子にしても、座り心地は極上なのだろうが尻の据わりは非常に悪い。

 つまるところ身の丈に合わない。己のような小市民の庶民には本来縁のない場所だ。

 けれど、彼女の言う通り、出される料理はどれもこれも絶品だった。特にこの子羊肉のソテー。今まで食べたことのない芳醇な香りのソース、聞いたこともない香草を馴染ませた焼き加減も絶妙。

 洋酒とすこぶる相性が良いのが困りものだった。

 我ながら呑気だと思う。あれほど動転してなんとかして状況から逃避しようとしていた者が……いや、これも一種の逃避には違いない。

 

「職場には、その、馴染めたかな」

 

 結局、月並みな質問を投げ掛けて、胸奥の雑念を忘れることにする。ないもののように扱う。

 彼女は、笑った。嘲るでもなく呆れるでもなく、柔らかに。

 愛玩物を愛でるような顔で。

 

「とても。優しい方達ばかりですし、弊社の上役さんは何かと弁えてくださるから、面倒も少ない。新人の身でどうかと思わなくもないんですけれど、のびのびやらせていただいてます」

「あ、ははっ、そりゃ頼もしいな。アスモデウスさんはもうとっくにうちにはなくてはならない主力メンバーだから……」

「アーシャ」

「ぇ、ぁ、あぁ……アーシャさんは、もう立派にうちの課の一員だよ」

「先輩のお陰ですよ」

 

 愛称、渾名、実に慣れない音霊に舌を縺れさせるこちらの無様を真っ直ぐ見詰めながら、彼女は言った。

 

「貴方がいたから、私はここにいる」

 

 社交辞令を真に受けるほど純心じゃない。

 しかし、その視線と同様に真っ直ぐに過ぎる言葉は油断していた己の胸を刺した。胸中に沈めたものを揺さぶった。

 気の所為だ。気の迷いだ。

 他意などない。優秀な彼女に評価されたというその一事のみただ阿呆のように喜べばいい。

 他意など、ない。ないのだ。

 惑乱する。キャンドルが眩いのか、それとも。

 彼女の微笑が、あまりに妖艶だから。

 

「魔族についてあまり詳しくない課長さんに先輩、とりなしてくれたでしょう。魔族のこと、私の名前、私の、悪魔としての伝承とか」

「い、いや、それは」

「ああ! わかってます。別に陰口を言われたなんて思ってませんよ。課長さん、すごく助かったって先輩のこと褒めてました」

「……そう、か」

「誤解されることも多いから、すごく、すごく嬉しかったです。先輩が私のことを、よく調べてくれていて」

「し、調べたという訳じゃ。詮索がしたい訳じゃない。ただ俺は……ただ」

「ただ?」

 

 小首を傾げて笑みで先を促す彼女に、俺は返答できなかった。

 俺が魔族、魔界の知識を求めたのは彼女が言う誤解の解消や相互理解の為なんかじゃない。そんな生産的な目的意識など欠片もなかった。

 俺はただ……恐かったのだ。未知なる彼女らが、人知の及ばぬ魔界が。

 恐くて恐くて仕方なかったから。

 調べずにはおれなかった。知ることで不安を消し去りたかった。

 

 『アスモデウス』

 

 七大悪魔が一柱。かの七つの大罪に数えられ、旧約聖書にもその名は記されている。

 無論、人界において語り継がれる神話や伝承の妖魔精霊神仏と魔界より来た彼ら彼女らは名を同じくするだけの異なる存在だ。

 過去、数多の歴史・民族学者や宗教者達が紛糾して言葉と物理の掴み合い殴り合いの争論を経て、当の魔神達がはっきりと否定したことで一旦の決着を見たが。

 それでも中には、同じか似通った特性を有する者もあった。

 それは外見であったり、性質性格、能力、あるいは権能と言ってもいい。

 彼女が、大悪魔アスモデウスが司るのは────

 

「色欲、淫蕩」

 

 それが彼女の唇から紡がれることに言い知れない背徳感を覚えた。

 生真面目な、清廉な、謹厳な、優秀な、言い訳の余地もないレッテルと色眼鏡で俺は彼女の印象を規定している。

 当の彼女は悪びれもしない。当然、恥じらいも、躊躇いもない。

 それは彼女、大悪魔アスモデウスの存在に刻まれた権能なのだから。

 

「っ、そ」

「ふふ、課長や課の同僚さん達には言わないでいてくれましたよね、先輩」

「よ、余計な気を、回したと思う……」

「そんなことありません。ありがとうございます。嬉しいです」

「礼を、言われるようなことじゃ、ない」

「だって、貴方はそんなになるほど……そんなにも恐れている魔族と、こうして言葉を交わしてくれるんですもの」

「ぁ……いや、いやそれは」

「後輩として扱ってくれる。ただの私として見ようと、努力してくれる……それが、ひどく嬉しいんです」

「……」

「私の、贅沢な、身の程知らずな悩み、聞いてくれますか?」

 

 飲みの席ならそう不思議はないことなのだろう。

 身の上話を語らうのは。

 彼女は静かな口調でそれを打ち明けた。完璧にも思える彼女の、その欠落について。

 

「人界に初めて来た時、嬉しかった。どっちを向いてもどこを訪れてもそこには人間がいるんです。書物で読んだことしかない、憧れの存在が」

 

 魔族が人間を異常なまでに好む理由は諸説ある。

 庇護欲や愛護の精神、自分達より遥かに弱く儚い寿命を生きる人類に対して強烈な救済欲求を発露させているのだというのが現在有力とされている結論だが。

 一説には、人間は考える葦であるから、と。

 人間の自らの非力を補う創意が、生きる為に奮われる思考と努力と極彩色の感情が、有り様が、彼女らの心を打つのだと。

 

「初めて友達ができた。人間の男の子。とある中学校に特別講師として招かれて、我々のこと、魔界の文化習俗を知ってもらう為に三ヶ月間先生役をやらせてもらいました」

「……」

 

 人魔交流の機会は民間で開かれるイベントや婚活サービスはもとより、今や文部省の行政方針にも盛り込まれている。

 国語、英語、数学、理科、社会等と並んで魔界学、魔界語学は現代を生きる学生達の頭痛の種だ。

 ただ、俺の学生時代はまだ、今よりも少しだけ魔界は遠い世界だった。

 では、彼女にとっては?

 

「楽しかった。私の本来の姿に、初めは驚いて、遠慮していた子供達が少しずつ少しずつ打ち解けてくれて、私が魔界のことを教えてあげると同じように人界のいろんなことを教えてくれる。特に、その、男の子はね、私にとてもよくしてくれた。クラスメイトの子達にとりなしてくれたんです。恐がることない、魔族は、悪い人達じゃないって。それが……嬉しかった……嬉しかったぁ……」

「…………」

 

 涙。彼女は、思い出に涙していた。大切で大切で大切なものを思い描き、慈しみ懐かしみ、そして。

 

「私の、千年を半ばにする悪魔の、たった三ヶ月の大切な日々は、あの綺麗な学舎は、あの男の子の優しい笑顔は……破壊されてしまった」

 

 それが失われたことを嘆き、悲しんでいる。

 俺は、胸倉を掴んで痛みに耐えた。動悸する心臓が、胸骨を打ち破らんばかりに暴れて、叫んでいた。

 何故、何故。

 

「その後、学校がまた魔界から講師を招聘したそうです。評判がよかったからって、魔族を信頼してくれたから、だから……なのに、その魔族はあろうことか、信頼してくれた子供達を……あんな、あんな真似を……!」

「っ、は、ぁ、はぁ、はぁ、はぁっ……」

「……魚蔵先輩、教えてくださいませんか」

「へ……?」

「今度は貴方のことを。貴方の、過去を」

 

 どうして、彼女はそんなことを問うのだろう。

 どうして彼女はよりによって。

 彼女は知っているのか。彼女は、俺を、俺の過去を。学校、教室、クラスメイト、初恋、赤い、教室、淫臭、嬌声、笑み、肉色、液体、絡まり合う肉、肉、肉。

 狂宴────サバト。

 彼女、彼女は。

 

「き、キミ、あぁキミは……先生」

「はい」

「魔界の、先生……」

「はい……お久しぶりです。魚蔵くん。会いたかった……もっと早く」

 

 茨の蔦を喉から引きずり出すように苦しげに、アスモデウスは呟いた。

 俺は呆として彼女と、彼女越しに過去を見ている。

 胸を刺す痛み。それはあの日、俺の恐怖が穿った虚穴。

 俺は穴から響く風鳴りのような声で、この胸に空いた傷を語り始めた。

 

 

 

 

 

 

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