会社の後輩が悪魔っ娘なのだが魔族恐怖症の俺はどうすればいい   作:足洗

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闇に食われて

 

 

 

 

「先輩」

 

 脳の芯を刺されたような心地がした。

 とりわけ高い訳でもひどく低い訳でもなく。音域はアルトに近い。とても落ち着いた声色であるのに、耳に痺れを刻みながら残響する。

 視界の中でまずその美しい形が明瞭な像を結ぶ。アスモデウス、アーシャがこちらを覗き込んでいた。

 

 どうやら自分は椅子に座ったままうたた寝していたらしい。

 せっかく浮上した意識は、しかし少し油断するとすぐにも薄闇に埋没しようとする。蝋燭の朧な灯火が揺れるほど取り戻した筈の視界すら揺らぐ。

 覚醒には程遠かった。

 いや、正常な精神状態ですらない。アルコールは確実に身の内の悪いものを呼び覚ましてしまった。

 トラウマ、傷、壊疽。そういった汚らしい諸々。

 

 ああ、何故。

 

 今更に後悔が胸を焼く。吐き気を伴う不快感は泥酔の所為だが、それだけではない。

 何故あんなことを彼女に話してしまったのか。

 益体もない後悔が頭蓋の内側を引っ搔いた。何度も何度も、何度も。

 

「すまん。すまない……俺、キミに……」

「いいの。いいんです。先輩。先輩は……先輩は……」

「え……?」

 

 声を詰まらせた彼女を見上げる。紫紺の瞳は暗がりの中でこそ妖しく煌めく。けれど今そこに宿る感情は、消極な、打ち沈んだ色。悲しみ。淋しさ。そういう、虚しい色。

 それを振り払うように首を左右して、彼女は微笑んだ。精一杯明るく。

 

「そろそろ出ましょうか」

 

 

 

 

 

 ふと気付けば、俺とアーシャは夜の湿った街路を歩いていた。

 いつ、どうやって店を出たのかまるで覚えていない。意識は断続的に欠け落ちている。

 そういえば会計はどうしたのだろうか。奢ってやる、と偉そうに先輩風を吹かせたくせに、まさか彼女に払わせてしまったのだろうか。

 これでは格好がつかないな……。

 そうやって努めて愚昧なことを考えた。考えることで、もっと重大なものから目を背ける。忘れたふりをする。その不快感から、嫌悪感から、逃避する。

 

 通り雨でもあったのか、濡れたレンガ道を踏む革靴とヒールのくぐもった足音。

 妙にアンティークな意匠の街灯は、西欧のガス灯を模したものだろう。そういえば街並みも、随分古風だ。

 日本ではないようだ。まるで異世界。

 俺はどこか違う世界に迷い込んでしまったのか。

 よろよろと、曖昧に歪んだ視界を進む。

 

 どこへ?

 

 どこへ行ける。俺はどこにも行けない。

 俺は、あの頃で立ち止まったままだ。

 襲われた同級生。穢された幼馴染との思い出。

 恐怖。

 憎悪。

 けれど一抹の、期待。

 違う。違う。俺は魔族を恐れて、憎んでいる。

 違う。俺が恐れるもの、憎むものは。

 転嫁するな。目を逸らすな。誤魔化すな。

 吐き気がする。飲み過ぎたのだろう。

 汚穢(おあい)が胸奥で渦を巻く。ぐるぐるぐるぐる、嫌悪だ。俺は俺自身を嫌悪する。

 

 そうだ。俺が、本当に許せないのは────

 

「う、ぐぁ……」

「先輩」

 

 次の一歩を盛大に踏み外した俺を、横合いから伸びてきた腕がしっかりと受け止める。

 微動だにしない。その手付きはどこまでも労しげで柔らかなのに、手先から腕、それを生やした身体に宿った膂力は成人男性一人分程度の重量をものともしない。人を超えた力。人外の、力。

 その力を感じた瞬間、総身の肌が粟立った。

 跳ねるようにその場から逃れる。実際は足を縺れさせて自ら転んだだけだ。

 彼女は、逃げようとする俺を無理に捕まえようとはしなかった。

 

「先輩、危ないですから」

「寄るな」

 

 当然の心配をしてくれる後輩に対して、感謝なり謝罪なりすべきこの口から吐き出された返答は酷いものだった。敵愾心を押し固めたような言葉。

 俺は何を言っている。

 自分の異常を理解する。だのに。

 彼女が座り込んだ俺にそっと手を伸ばしてくる。

 

「触るな!」

「……」

「俺は、お、俺は、キミを、キミ達を……」

 

 支離滅裂する思考、言葉、感情、視界。

 頭上から悲しげな目で俺を見下ろす美しい人型。罪悪感、自己嫌悪、理性が自分自身の異常を訴えた。

 けれど止まない。歪み。俺の認知はすっかり歪みきっている。精神は狂い始めている。

 もはや無理なのか。

 正しくあること。せめて、彼女と、彼女らと、普通に、ただ当たり前に人と魔として解り合うことはできないのか。

 俺には、無理なのか。

 

「俺の、譫言を聞いたろ……?」

「……」

「俺はキミ達を正しく見られない。まっすぐ、見ることができない」

「……はい」

「もう……俺に関わらないでくれ」

 

 絶縁を、この期に及んで懇願するしかない自分の小心が少しだけ笑えた。彼女と俺との種としての力関係は絶対不変なのだから、これも当然なのだろうが。

 俺は諦めた。諦めようとした。相互理解だの、偏見撤廃だの、共存共栄だの。

 俺には無理だ。小人にそんなもの荷が勝ちすぎている。

 俺には、もう。

 

 明日にも会社に退職届を出そう。現代の実社会から退場しよう。

 この敢然と厳然と全てを内包した世界なる箱の中に、入っていられない、耐えられないと駄々を抜かす愚か者は、自分を変えるか、全てから目を瞑るか、あるいは。

 

 死ぬしかないのだから。

 

 それでいい。

 少なくとも、そうすればもう魔族だからと恐怖せずに済む。魔族、というカテゴリで他者を見做し、己の価値基準に当てはめ、内心で貶めずに済む。

 憎まずに済む。

 それは、なんて素晴らしいことだろう。

 

「先輩」

「……」

 

 アーシャは俺の目の前に跪いた。膝が水溜りに浸るのも構わず、視線はまっすぐこちらを見据えて。

 紫紺の輝き。やはり、綺麗な色だった。

 

「貴方は許さなくていい」

「え……」

「貴方は、私を、魔族(わたし)達を、許さなくていいんです」

 

 アーシャは微笑む。悲しみの形をした笑みは、美しいほどに痛ましく。

 

「いなくならないでください。それは、してはならない。いいえ、断じて魔族(われわれ)人間(あなた)にさせてはならないことなのです」

 

 俺自身の()()を決して許さなかった。世界からの落伍を、自殺すら視野に入れた俺の逃避を、彼女は見抜いている。

 

「貴方は魔族を許さず、憎んで、憎んで、憎みきってください。その権利がある。誰が保障しなくとも私が守ります。貴方の憎悪、この魔王アスモデウスが誓う。だって……」

 

 その片目から流れ落ちた雫が水溜まりに波紋を打つ。

 悪魔の涙。悪魔は泣きながら人間に懇願した。

 

「私、そんな魚蔵くんが大好きだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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