会社の後輩が悪魔っ娘なのだが魔族恐怖症の俺はどうすればいい   作:足洗

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誓いの接吻

 

 

 

 

 亀裂。この白い部屋の四方、材質不明の白い壁面、床、天井、全てが軋み、至る所を破砕されながら、部屋そのものが地響きを立てて揺れている。あるいは空間それ自体が、震撼して。

 揺り動かされている。あたかも巨大な掌が、この白い空間を紙細工の箱でも扱うように、ぐしゃりと握り潰そうとしているかのような衝撃。

 

「し、侵入……?」

「なになに魔警が来たの!? こんな境界深度に!?」

「結界はどうなってんだよ!? 空間ごと潰すなんて芸当どこの誰が」

「ぁ、あぁ……」

 

 妖蛇(ラミア)の女の様子がおかしい。わなわなと震え、一歩、また一歩と後退る。かと思えば次の瞬間、纏っていた白衣を引き裂き、タイトスカートが弾け飛び、その下から巨体が現れる。伸びる。伸びる。人の化けの皮の下に隠していた蛇身がぶるぶると戦慄きながら正体を表した。

 

「に、逃げ、逃げた方が、いい、かも……」

「転移……できない!? なんで!? ちょっと穴熊女! ゲート閉じてんじゃねぇぞ!! クソクソクソ開かねぇ! なんで!? ああああなんでだよ!!」

「き、きゃんきゃんうるせぇんだよっ、淫売が!」

 

 恐慌が伝播していく。先程までの安穏とした空気は見る影もない。

 吸血種の女はおろおろと周りを見渡し、時に手に法陣の光を点し魔術行使を試みるがその尽くが失敗に終わる。精神不安の為に力が発揮できないのか……何らかの干渉・阻害を受けているのか。

 サキュバスの女は鬼の形相で自身の二回り以上ある獣人に吠えかかった。こちらは姿形はそのままに、奔放で無邪気だった猫の皮が剥がれた様子。

 対する羆獣人の女も苛立ちながらそれに吠え返しているが、こちらはどこか迫力に欠けた。覇気の衰えというより、怯えている。怯えた獣同然の有様。熊らしい小造りな両耳はぺたりと畳まれ、体格すら今や縮んで見えるほどだ。

 

「どうして、貴女様が……」

 

 美しい蛇の女。彼女はもう震えてはいなかった。恐怖を感受できるのは心が正常な時だけだ。

 彼女の眼はもはや正常な色をしていなかった。

 きっと、彼女は知っている。

 この空間を震撼させる存在を知っている。

 だから、つまるところ彼女はこの場の誰よりも早く……諦めがついたのだろう。

 

 白い亀裂から、黒い靄が這い出てくる。

 質量を伴うほどに重く濃密な黒。それは、まるで闇のようだった。物陰に、井戸底に、叢の奥深くに、夜を更けさせるあの、純な、澄んだ闇に似ていた。

 闇は満ち、手始めに床を覆う。

 そして、桶に水を満たすより簡単に、素早く、あっさりと────それは空間を呑み込んだ。

 

「や、やだやだやだやだや────」

「やめろ! やめろ! クソォ! クソが────」

「ひぃ助けてぇ────」

 

 三者三様の悲鳴と悪罵と命乞いが掻き消える。

 そして、全てが沈み、俺自身すら沈みかけたその刹那。

 

怒れる王(アエシュム・ダェイワ)よ、何故です。私はただ、人間を愛していただけで……」

 

 儚げに女の手が虚空に、己に向けて差し出された。助けを乞うように、あるいは……女の方こそこの己に救いの手を差し伸べたのかもしれない。

 救えぬ愚か者に、過去に縋る憐れな弱者に。

 そして闇に投げ出された妖蛇の巨体はそれをさらに上回る巨大な“掌”に掴まれた。

 長い爪、ほっそりとしたしなやかな指、象牙細工のように滑らかな漆黒の手。巨大すぎる女の手。

 ソレは、蛇の始末の作法を心得ていた。

 蛇は尾の側を切って裂いてもすぐには死なない。

 蛇を殺すなら、頭を。

 

「待っ」

 

 己の喉から制止の声が漏れ出た時には既に遅く。

 黒い手はその親指で、ラミアの頭を躊躇なく潰した。

 赤が散華する。

 あまりにも軽々しく軽石めいた音を立てて潰れた頭骨の様。頬張ったプチトマトを奥歯で噛み潰す、そんなイメージが脳裏を過った。

 胸の底から悪寒が這い上がり、俺は虚空に吐瀉物を撒いた。上質な酒や野菜や肉料理が汚らわしい液体と固形物の混ざりものになって闇に消えていく。

 俺はゆるゆると背後に振り返った。水中で身体の向きを変える要領で、ゆっくり、ゆっくりと。

 そこにあった。

 無限に続く深淵の底で、それでもなお視界を埋め尽くす巨大な、強大な、存在。

 鳥の前脚、獅子の下半身、蝙蝠に似た三対の翼膜、竜鱗に覆われた躯は上裸の女。黒い、漆黒の肌をした女。

 山羊の角を頂く紫紺色の髪と眼光。美貌。圧倒的美貌。深淵なる、底知れぬ、恐恐たる美。人間の認識能力を超えた先にある狂える美。

 目が焼ける。脳が焼ける。

 見ていたい。見たくない。見なければ。見ては駄目だ。

 巨大な手が、そっと、壊れ物を扱うように己を包んだ。

 その手付き、その肌触り、覚えがある。

 いや、澄み切った闇を見た瞬間にも俺は知っていた。わかっていた。

 彼女が、誰か。

 

「アー……シャ……」

 

 呼ばわれた異形の女王は、子供のように無邪気に笑った。

 

 

 

 

 

 ふと気付けば、夜の公園にいた。

 円形の噴水広場。街灯の白々しい光の下、ベンチに腰掛けていた。

 夜気の冷えに現実を感じる。現実への回帰を実感する。

 そして、手を握られていた。隣に座る彼女に、アーシャに。

 右手を見下ろす。赤黒い塊になった筈のそれは、まるで何事もなかったかのように五指と掌に戻っていた。ありふれた人間の手の造形を取り戻していた。

 血潮の粘つく熱さが今は女の冷えた指に包まれ、ひどく、心地よい。

 

「っ!」

「……」

 

 女の手を振り払い、ベンチから飛び上がって距離を取る。

 心臓の鼓動は早く、そして固い。血流の激しさに反して身体が重い。立ち眩みがする。血を失ったからだ。

 あれは間違っても夢などではなく、現実だからだ。

 

「こ」

「はい」

 

 殺したのか────俺の躊躇に、彼女は頓着しなかった。平素なら考えられないほど無思慮に、無神経に、事も無げに返答が寄越される。

 彼女は、本当に。

 

「厳密には、まだ。これからそうしようと思います。まあ基本的に不死の魔族や半不死の魔界人にとっての死と、人間の迎える死は概念的に異なるんですけど」

「理屈は、どうでもいい! そんなことは」

「やめませんよ。やめる訳ないじゃないですか。先輩、魚蔵くん、あれらが貴方に何をしようとしたか。貴方だって見たでしょう。あれらの本性を。聞いたでしょう。あれらの所業を」

「……それは、そうだが」

「減少したとはいえ、人に仇を為す魔界人は後を絶たない。その所業が、人間にとってどんな意味を持つのか、人間の精神をどれほど歪め貶め穢し、壊すのか、あれらはまるで理解しない。できない」

「だからといって殺すのは違うだろうが! 何の為の法律と罰則だ!」

「罰は、抑止力にはならないんです。不死ですからね。懲役刑とか、禁固とか、あまり意味がない。生かしておくだけ資源の無駄です。魔界人はね、決して更生などしません。人間とは違います」

「違いなんて……」

 

 ない、と言い切れない。俺は彼女らに対してあまりに無知で、そして度し難い欺瞞を腹の内に隠している。

 魔を憎悪しながら、擁護するという矛盾。

 アーシャは、教師の顔でこの出来の悪い生徒に微笑んだ。

 

「魔界人は生まれが全てです。生まれた瞬間にその性が決まる。存在が確定する。賢しい者、粗暴な者、気弱な者、慈悲深い者、悪辣な者、欲深な者、人を愛する者……人を愛しながら、食らう者」

「……」

「肺を備えて生まれた動物に息をするなとは言えないでしょう? 気の遠くなるような時間を掛けて矯正するか、あるいは魂を弄れば存在の有り様を変質させることもできるでしょうが、それをすれば弄られる前とはまるで別種の魔物になります。いわゆる、魂の死、転生です。潰して殺すのと、そう違わない」

「だから彼女らを殺す為に」

「……」

「俺を囮に……()()使ったのか」

 

 真っ直ぐに、その視線は揺れず、俺を見ていた。何も言わず、抗弁などせず。

 それは肯定以外のなにものでもなかった。

 彼女は誠実だった。傲慢なまでに。

 潜伏に徹した魔物を見付け出すことは同じ魔物や魔族にさえ困難だという。空間、時に時間さえ行き来する魔界の住人達。かの者を探し出すということは、流れ乱れる海中に漂う特定の砂一粒を探し当てるに等しい。

 それこそ、砂に自ら居所を報させるより他ない。

 理屈はわかる。途方もない、超常の力など理解はできないが、そうせざるを得ない道理はわかる。

 わかるが、それでも。

 理不尽に対する憤りもまた、抱かずにおれない。

 そしてなによりも。

 

「俺を使ってこれから、またさっきみたいに同族を殺していくつもりか」

「いいえ」

「?」

「貴方に、やって欲しい」

「………………は?」

「これは貴方がすべきことです、魚蔵くん」

 

 真剣そのものの美相を俺は穴が空くほど見詰めた。その正気を疑い、冗句ですと言って笑ってくれるのを期待した。

 彼女は無言で俺を見詰め返してくるだけだった。

 

「ふ、ふざ、ふざけるなッ! するわけないだろう! そんなこと、そんなこと、は……」

 

 自分にはできない。そんなことしてはならない。そもそもそんな力はない。そんなことは────許される訳がない。

 

「貴方でなければダメなんです」

「意味が、わからん。は、ははっ、あんた、頭おかしいんじゃねぇか?」

「貴方だけなんです」

「俺は!」

「魔族に奪われた。傷付けられた。穢された! それでも! それでも……魔族(わたし)達を見限らない貴方だけが……!」

 

 後退る俺に、彼女は迫り寄る。

 ヒールの音を恐れた。白い手を嫌った。縋るようなその目がこちらを見ていると思うだけで、痛い。苦しい。耐え難い。

 

「見ないでくれ……」

「魚蔵くん、大事な人。優しい子。私の……愛しい(ひと)

「……アーシャ……先生」

 

 彼女はそっと両腕で俺の頭を抱き締めた。我が子に接する母親のように、その手付きは柔らかだった。

 

「あの日、貴方は傷付けられてしまった。私の思い出、貴方と、貴方達と過ごした温かな学び舎は……奴らに食い尽くされてしまった。あぁ……あぁ、許せない」

 

 ────許さない。

 恋情を吐露するように女は苛烈な憤怒を囁く。

 そうか。

 突如として理解する。青天の霹靂めいて湧き上がる。共感が。同情が。

 彼女も同じなのか。

 彼女もまた憎悪しているのか。

 魔族でありながら、魔族を、己の同胞(はらから)を。

 

「貴方と一緒に為し遂げたい。同じものを失った貴方、私の貴方、私と貴方で、人倫を解せぬ愚かで憐れな魔族共に」

「……」

「復讐を」

 

 あまりにも罪深い誓いを求める彼女を、俺は。

 俺は……即座に拒絶できなかった。常識や倫理や法を守るべきだと偉そうに説教しておきながら。許されないと知りながら。

 彼女の告白は。

 悪魔の囁きは、強烈に心を惹き付けた。

 不意に、しなやかな手が頬を包む。彼女は自然な動きで俺の首筋に顔を寄せ、そのまま。

 首筋に口付けた。柔らかな唇が開き、皮膚に吸い付いたのがわかった。

 そして、牙が刺さる。咬んでいる。

 痛みさえ甘い。痺れを伴う快感に息を呑んだ。

 ようやく我に返って女の体を両手で押しやった。

 一歩、退いてアーシャを見やる。睨み付けるだけの気力すら残っていない。

 

「印を記します。私の誓い」

「なに、を」

 

 それがどういう意味なのか今の俺にはわからなかった。

 彼女の、先端の割れた舌先の赤さが目に焼き付く。

 彼女に吸われた首筋が熱い。血が、一筋垂れていくのがわかる。

 噛み傷が熱を発するのか、それとも彼女の舌が皮膚を焼いてしまうほど熱いのか。

 

「貴方に捧げる」

 

 熱い。ひどく熱い。

 まるで、体が火のようで────

 

 

 

 

 

 

 

 

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