ぼくは最低な人間だ。目を覚まして隣で眠るましろの顔を見て、全てを後悔した。
かと言って、もうましろのことを拒絶するだけの気力はない。そうなればもう大人も子どももない、ケダモノだ。スーツも制服もなく、生まれたままの姿でベッドを軋ませるだけ。
もう、そうすることでしか彼女の暴走を収めることはできなかった。
「セーくん……」
「……わかった」
だけど、後から後から湧いて出てくるのが欲望というもの、特に先日まで悶々と持て余していたましろは、泊まりに来るたびにぼくを求めるようになった。枷が外れたことで誘い方もより直接的に、淫らに、ぼくを捕えてくる。
馴染んでいくたびに、とんでもなく惨めな気持ちにすらなるというのに、ましろは幸せそうで。
「すき、だいすきだよセーくん」
どうしたらいいのか、解らない。今の関係が歪んでいるものだなんてことくらいぼくだって解ってる。あまりに不健全で、不道徳の極みであることも、これがましろにとっていい影響なんて与えてるわけがないってことも。
──じゃあどうしたらいい、ぼくはどうしたら彼女を正しく導けたのか。答えをくれる相手なんて居るわけがない。ぼくが出来ることは、今の関係をせめて、誰にもバレないように続けてましろにこれじゃだめだと気づいてもらうことしかできない。
「バレねぇとでも思ったか?」
「どうして……先輩が」
「残念だったな、お前があろうことか倉田を連れてゴム買った薬局な、オレの生徒がバイトしてるんだよ」
「……わざわざ離れたところを選んだのに」
「悪事ってのはそうやってバレるようになってるってことだな」
──バレてはいけない。そう思っていたのに、二週間もしないうちにバレてしまった。
羽沢珈琲店に呼び出されその連絡記録を見せられて言い逃れはできないことを悟った。相手は弦巻さんで、どうやら同じバンドの松原花音さんが見かけて、そのバイトの子、奥沢さんに共有したらしい。
「……なるほどな、拒めなかったと、立派にクズの言い分だな」
「解ってますよ、そんなこと」
「まぁ相手は惚れた女だしな、ここまでよく頑張った方だろ。オレなら誘われた時点で手出してるな、多分」
「……そんな慰め、いりませんよ」
やっぱりそうだ。先輩は解ったような顔で同情する。ぼくの気持ちを肯定するけど、それは間違ったことだ。教師として、大人として、ぼくはやってはいけないことをしてるのに。
だけど、先輩はゆっくりと立ち上がって笑う。
「ま、オレはよくても、お前の生徒はなんて言うか知らんけどな」
「……しゃべったんですか?」
「オレがしゃべんなくても一緒だよ。桐ヶ谷が倉田あたりから話を訊き出してる頃だろ、そうすりゃ、すぐにでもバンドメンバー全員に共有される」
「……そうでしょうか」
「安心しろ誠二、お前はもう自分の意思で先生を辞めることなんてできねぇんだよ──オレと同じでな」
あれだけ大人だとか言っておいて結局このザマだ。そんなぼくを叱咤して、まだ先生なんて呼んでくれる人がいるとは思えない。
ぼくは先輩のように強い意志、その源となる存在がいたわけじゃない。なにせぼくは、ましろのことを好きになってしまったんだから。
先輩が去っても、動けないでいるとその席に誰かが座った。月ノ森の制服、ましろから訊き出した透子か、と一瞬思ったが、椅子に座るその仕草は乱雑さが一切ない。このお淑やかな座り方をするのは。
「……る、瑠唯」
「やはり、ここにいましたか」
「どうして」
「桐ヶ谷さんから事情を訊いて、家にいないのであればと思ったまでです」
「……もしかして、家にも?」
「はい、桐ヶ谷さんと二葉さんが、広町さんは倉田さんと一緒にアトリエで待機してもらっています」
恐らく、透子から家にいないと連絡をもらってぼくが学校やファミレスなどを探そうと散ったのだろう。そこで羽沢珈琲店を選んだ瑠唯がぼくをいち早く見つけ出した。
その表情は、いつも通り揺らぎのないと思いきや何かを抑え込んだように思えてしまった。
「……事情を知ったなら、ぼくが今こうしてキミといるのもよくないと思いませんか?」
「いいえ」
「即答、どうして?」
「私が倉田さんではないから」
その言葉はまっすぐなようで、震えていた。女子高生に手を出したぼくが恐ろしいのかと一瞬思ったけど、そうじゃない。
彼女は、怒っている。どうしようもなく、怒りのままに振舞おうとするのをなんとか理性で留めているんだ。
「人間は、他者を理解することができない──私は、つい最近までそう思っていました」
「ぼくは、今でもそう思っているよ」
「ええそうでしょう。本当の意味で他者を理解などできない、今のあなたの痛みが私には解らないから、そんなことを考えるだけ無駄なのかもしれない」
「うん」
「だから私は、あなたのような理解してくれようとする大人に初めて出会えて、少し考えを変えたほうがいいと思いました」
ぼくは瑠唯の言葉に首を横に振った。瑠唯のことを理解なんてできていない、今も何を考えてその言葉を向けているのかも、どうして彼女がこの場でぼくに言葉を向けているのかすらも解らない。まるで、ぼくに再び先生として立ち上がってほしいかのように、まっすぐ見つめてくる意味が解らない。
「私は自分でも感情表現が乏しいと思っています。その方が無駄をなくせるとすら、そして私の容姿や体型は15歳というにはあまりにも成熟しているとも」
「……そうだね」
「それ故か同級生や先輩、学校の先生すら、私をまるで成熟した大人のように扱います。私がなまじ勉強や運動も出来るからというのも関係しているようですが、当たり前のように八潮さんなら大丈夫、と気軽に口にします」
「瑠唯……」
「でも……けれど、倉田誠二という先生だけは、違いました」
瞳が揺れる。口許はほぼ真一文字で淡々と声を発するだけ、眉もほとんど動かない。でも瞳の動きで伝わってくる。今、瑠唯は言葉を必死で探してるんだ。
自分の気持ちを感情で伝えられないから、だからせめて言葉を尽くそうと、それでぼくが少しでも教師として再び立ち上がってくれるかもしれないなら、と。
「あなたはキャンプの時から、私を15の子どもとして扱いました、私にとってはそれだけで認められたような気分になった」
「認められた?」
「……子どもでいいのだと、あの四人のように振舞ってもいいと」
瑠唯は、やっぱり羨ましかったんだ。感情のまま、情熱のままにバンドを立ち上げたことが、躓いて、挫折してもまた立ち上がってボーカルとして舞台に立とうとしたましろが、そんなましろが戻ってきた時のためにと欠かさず練習をしていた透子たちが、羨ましくて。
「瑠唯は……ましろたちのように、成りたかったんだ」
「はい」
「それが、モニカに入った、もう一つの理由」
「……感情を優先した先にあるもの、という意味では同じですが」
モニカがましろに影響を与えたように、ましろはモニカに影響を与えていた。自分を肯定しようと他者を関わるようになった七深、自分を変えてみようとバイトを始めたつくし、自分が何か一つに熱くなれることを証明したい透子、そして自分の感情が否定されない世界を欲しがった瑠唯、そうやって影響し合って、モニカはバンドとして輝けるんだろう。
「そして、それは子どもも大人も変わらないわ」
「……瑠唯?」
「子どもが羨ましいのなら、そうすればいい。倉田さんに好意があるのなら、それでいいのではありませんか?」
「けどぼくは……」
「少なくとも、世間体では非難されるべきかもしれませんが、男女関係に世間体を持ち込むことは効率的ではないでしょう? 法律上禁じられた関係でもありませんし、私には倉田さんとの性行為そのものが身体的苦痛でない限りは、問題だと感じませんでした」
瑠唯の口から淀みのないマシンガンが放たれる。正論、すごく正論なんだけど、それはあまりにも正しすぎてキレイな色をしていない。
その正論は、世間体から目を逸らすための体のいい言い訳だからだ。それを使ったらもう、ぼくはおしまいだよ。
「それは、感情論じゃないよね」
「感情論ですと……胸が痛みました」
「え?」
「最初から、付け入る隙がなかったのはそうですが」
「ちょ、ちょっと待て」
「何か?」
「なんでそこでフラットな顔ができるんだよ……その言葉はまるで」
その続きを紡ぐことはできなかった。瑠唯の表情が、今まで動かなかったはずの表情が緩やかに解けていくのだから。柔らかく微笑んだ彼女が、次に言うことなんて決まっていた。ぼくは、それに耳を塞ぐことなんてできなかった。
「あまりにも短絡的な感情だと、否定したくなりました。でも、先生と話す時間が、顔を合わせて笑いかけてくれる時間が、隣を並んで歩く時間が……それを肯定しました」
「それは」
「解っています、私のこれは横恋慕というのでしょう。誰かを好いている相手を好きになるなんて、効率的ではないけれど──この感情はどうしても否定できません」
瑠唯の告白に、時間が止まったような気がした。何か言わなきゃ、何かをちゃんと返してあげなくちゃいけないと思うけど、どうしても言葉が見つからない。酸素不足の魚のように口を開けたり閉じたりと間抜けな動作を繰り返していると、羽沢珈琲店のドアが開いてそこから月ノ森の制服の生徒が二人、ぼくに向かって歩いてきた。
「いた! セージセンセー!」
「るいさん! やっぱり話してたんだ」
「……ええ、連絡していなかったのに」
「逆に連絡してもルイから返事こねーから絶対ココだと思った」
「……つくし、透子」
つくしにも透子にも見つかってしまった。瑠唯のこれは個人的に話がしたかったと同時に時間稼ぎの意味合いもあったのだろうか。
──好きという感情はどうしても否定できない。瑠唯が言いたかったのはもっとあったように感じるけどとにかく伝えたい最低限のことは伝えたとでも言いたげに瑠唯は立ち上がって透子たちと入れ替わりで去っていった。
「つか、ルイがあんなにセンセー探しに協力してくれるとは思わなかった」
「るいさんと話した時に、何があったんですか?」
「それは……あの子のプライバシーもあるから、秘密ということで」
このままだと透子が瑠唯の質問ばかりしそうだとつくしは一旦、仕切り直してコーヒーを注文した。コーヒーが届くまでぼくは瑠唯との話で質問責めをされたけど、コーヒーが机に置かれたタイミングで透子の表情が険しくなった。
「で? セージセンセーはシロとヤったの?」
「……うん」
「ど、ど、っちから……?」
「シロに決まってんじゃん、だってセンセーだよ?」
「そっか」
「ぼくだって一応男だからね?」
すごく失礼な評価を受けている気がするが、事実としてましろに迫られて観念したので否定しきれず情けない反論しかできなかった。
ぼくは諦めて透子たちに詳しい経緯を話した。そこで初めて、彼女たちにもましろとぼくの関係が始まった原因も包み隠すことなく語った。
「それで、覚えてないってのを理由にして半年逃げてたってことなら、サイテーなのはセンセーじゃんか」
「え、そ、そうかな……? 結婚してない、できないのにそういうコトしようとするの、ダメだと思うんだけど」
「ふーすけ……イマドキ婚前交渉なんて当たり前だから」
「不健全だよ!」
つくしがピュアなのはこの際どうでもいいとして、やはりというか透子はましろの肩を持つ。だからこそ、ぼくは透子には会いたくなかった。
ましろの肩を持つとはつまり、ぼくとましろの関係を肯定することなのだから。
「センセーもふーすけも潔癖すぎでしょ、実際に学校内でヤリまくりの先生と生徒だっているのにさ」
「それは極論すぎるしバレたらクビだよ」
「そりゃそっか、けど先生を好きになる生徒も、生徒を好きになっちゃう先生も、実はありふれてるハナシじゃん?」
「ありふれてるからって、なぁなぁしちゃだめなことでしょ!」
「ふーすけはセンセ側かよ」
ありふれている、という意見はわからなくはない。実際にそれで結婚するケースもあるし、卒業してから結婚することに、さっき透子が言っていた婚前交渉が当たり前ということと絡めて思うことはあっても表立って糾弾はしない。
だけど、ぼくはそういうグレーが大嫌いだ。白なら白、黒なら黒でハッキリさせたいし、バレなきゃ犯罪じゃない、なんて最低最悪の言い訳だ。
「でもどうして、先生はもっとましろちゃんにだめって言ってあげられなかったんですか?」
「……ぼくは、覚えてないからね。ましろのハジメテの相手だったのに」
「センセーもハジメテだったってシロから」
「お、大人なのにですか?」
「ふーすけ、さっき言ってることと矛盾してる」
「あっ……たしかに」
余計なことばかり話しているな、ましろは。
だからもう、ぼくは教師としてのぼくを保つのは限界だった。今のぼくは11歳年下の親戚と日常的に性行為をする最低な大人だ。ならそれでいい。もう、今はグレーじゃなくて真っ黒なんだから。
「今回で気付いたことがあるんだけどね、ぼくはどうやらましろみたいな子がタイプだったみたいだ」
「……先生?」
幸いなことに相手は月ノ森のお嬢様で、ましろの味方だ。ならやりようは幾らでもある。
教師の体裁を取り払い、ぼくは内側に眠っていた獰猛なケダモノを呼び覚ます。それは気に入らないものに嚙みついていた、バカで弱くて、孤独な野良犬だった頃のぼくだ。
弱い犬ほど、吠えてしまうんですねぇ