大学時代の先輩たちは知っている、おそらく後輩の伊丹は知らないだろうけれど、あの頃のぼくはもっと無礼で、気に入らないものがあると吠える弱い犬だった。全てを見下しているようで、全てが怖い、バカな子どもだった。
「……先生?」
「どうしたの、つくし? 」
「い、いや……雰囲気がさっきまでと」
「ああ、もう大人だからって自分を我慢しないでやろうと思ってさ、だってもうそんなくだらない体裁も必要ないくらいやらかしちゃってるわけだし」
「つまり……今のセンセーが素ってこと?」
「素っていうか、なんて言ったらいいかな、今までは割と自分の言動をイチイチ立ち止まって考えて、そうやって選んでたんだよ、でももう必要ないでしょ」
透子やつくしは驚いている。そりゃそうだ、自分でも堅苦しいと思っていたものを取り払ってしまったんだから。大人になって丸くなったとかじゃない、ただ自分のこの乱暴な性格に首輪を付けて飼いならせるようになったってだけ。それでも、清瀬先輩相手だと偶に出てたけどさ。
「でさ、ましろの話なんだけど」
「し、シロがさっきタイプだったってハナシ?」
「うん、ぼくって潔癖症気味なんだよ。元々泥遊びとか嫌いでさ、なんだけど家庭菜園のレタスを使ったスープを飲んでる時に、芋虫が浮いてるのを見つけてね、それ以来は悪化したよ」
「……それと、ましろちゃんとの関係は?」
「ピュアだろ、あいつ……ぼくがちょっと親身になって一年未満、家庭教師しただけでさ、あからさまにぼくに惚れてるのが解るくらい」
好きなんだろうって気づいたのはぼくが変えるのを残念そうにしていた時からだ。しきりに休憩中も話しかけてくるようになったし、ぼくに見られてる意識のせいか、家庭教師として部屋に行く時はいつも部屋をキレイにしていたし服装も気を抜いていなかった。
ピュアで、男を知らない、それがまるで穢れのない、名前のような白を連想させた。それが彼女に惹かれたきっかけだ。
「笑えるよ、もう20代も後半になったってのに、過去に男がいた気配とか、交際してないような──もっと明け透けでいいか、処女が好きだったなんてさ」
「うん、正直引く」
「透子ちゃん!? というか先生も、急にどうしたんですか?」
「懺悔、かな……ぼくはキミたちを騙してきたようなものだからね」
つくしに本気で心配されてしまうけど、構わない。せいぜい気持ち悪がって、ぼくのことなんて気にしなくなればいい。
悪い言い方をするだけで、ぼくが言っているのは本音でもある。ぼくの初恋の人は加賀谷先輩だ、あの人だって男性経験のなさそうな、清楚なお嬢様という雰囲気に一目惚れしたのだから似た様なものだろう。
「で? センセーはシロを自分好みにして、メロメロにして、自己肯定感アゲたかったんじゃない?」
「そうだね、うん、透子の言う通りだ」
処女を求める、ということは即ちぼくだけを知っていてほしいという独占欲の亜種みたいなものだろうか。実際に、ましろの惚れこみ方や嫉妬すらもぼくには気持ち良かった。
これを認めてしまえば、なんてことはない。このまま、ましろと人には言えない付き合いをして、卒業を期に結婚でもなんでもすればいい。それで全てが終わる。
「で、でももし、誰かにバレたり……私たちがうっかりバラしたら、どうするんですか?」
「その時は潔く教職も辞めるよ、教育倫理として悪いなら、それを辞めればいい」
「……先生」
「もう、こうなったらぼくに残されてる道は、どっちにしたってマトモじゃいられないんだ」
ぼくにはましろを悲しませる選択は取れないし、ぼく自身がましろと離れたくないと思っている。だから別れるという選択は取らない。そうなるとバレずに生徒と同じ年齢の子と付き合っている最低のクズ教師になるか、それが原因で教職から離れた最低のクズになるかのどっちかくらいだろう。
「どっちにするかは……ぼくはズルい人間だから、透子に任せるとするよ」
「あたしかー、ふーすけじゃなくて?」
「つくしは、優しすぎるからね。いざって時にぼくの首を切り落とす選択を取れないと思う」
「先生を、終わりになんて、できないよ……」
「ね? 七深も同じ、あの子は他人の痛みみたいなものに敏感だから……そして、瑠唯にも無理だ」
「そう? ルイならあっさり選んでくれそうだけど」
「瑠唯はぼくに告白してきたからね」
「えっ!?」
「マジ!?」
「できたとしても、後悔させるだろうから」
だから消去法で透子ということになる。彼女はこの中で最も仲間意識が強い。ぼくの存在がましろの、モニカのためにならないと判断したら即座に切り捨ててくれるだろうし、そうやってトドメを刺したことを忘れてくれるだろうから。
「……正直さ、あたし、ムカついてんだよね」
「何が? 酔った勢いでましろに手を出したこと?」
だが、透子の表情は明確な怒りを見せていた。喜怒哀楽がハッキリしている透子のことだ、ましろのことで怒ってるだろうと当たりを付けたけど、どうやら表情の変化から間違っていることが伺えた。
「それも、ちょっとムカっとしたけど! あたしとふーすけがセンセーって呼んだ日のこと、たった一ヶ月ちょいで忘れてるってことだよ!」
「そっ、そうですよ……私たちも、生徒だって、これからも色々……モニカと一緒にいてくれると思ってたのに」
「じゃなくて! あたしは逃がさないって言った! 」
その剣幕に、なによりその言葉にぼくは驚きを隠せなかった。この期に及んで、まだあの時と同じことを言うのか、ぼくはモニカにとって有害以外のなにものでもない。ましろだけならまだしも、瑠唯にまで好意を伝えられたのが証拠だろう。
「ルイもシロくらい単純だったってこと、センセーならわかってるんじゃないの?」
「それは」
「私、るいさんの変化、気づいてた……先生と話す前、ちょっとだけ髪型とかリボンとか、スカートとか整えてるの見たことある」
「きっとさ、ルイはロボットっぽいってみんな思ってたんだよ。表情全然変わんねーし、不愛想だし、すぐ効率がどーとか言うしさ。けど、センセーには違って見えたんでしょ?」
「……うん」
「シロと一緒じゃん」
月ノ森に受験することすら無駄だと言われていたましろ、無表情で不愛想で、大人っぽい雰囲気だけでそう扱われてきた瑠唯、そのどちらにもぼくは他者とは違う手を差し伸べた。
ましろが受かると信じて勉強を見てきた、瑠唯の子どものような部分と感情を認めてあげた、たったそれだけのことをした。
だけど、彼女たちにとってはそれをしてくれた初めての異性であったから。そう考えると二人は共通点が見えてくる。
「そんなの、簡単すぎるよ」
「チョロいとは思うけど、ふーすけとかななみもさ、そういうトコあるってセンセーは知ってるけど、言わねーじゃん? あたしもきっとそうなんだろうけど」
「……あるね」
「あたしら、ほぼ男に耐性ないんだよ、だから誰にも解ってもらえなかったトコをセンセーが笑って受け入れてくれたら、惚れるって」
「わ、私はそんな単純じゃない……はず!」
そんな自己申告、それどころかモニカ全員を巻き込んだ発言、そこに精いっぱいの否定だったはずなのに自信のないつくしの言葉に思わずぼくも噴き出してしまう。
ましろは自己肯定感を上げるために必要だったから、瑠唯はもう一度考え直してほしいとメンバーが思っているからと口にした言葉がどっちもクリティカルだった、なんてバカバカしい。
「ぼくが悪い大人みたいだな」
「いやいや実際センセーは悪い大人でしょ」
「そうです、でも……そんな悪い大人が、私たちの先生なんです!」
「……つくし」
「あたしらは別に部活じゃないから、顧問とかいないけどさ……顧問のセンセーがいたらこんな感じなのかなーとか思ってるんだよね」
透子の笑顔に、つくしも同意する。
ぼくは音楽が専門というわけじゃない。楽器は弾けないし、耳が特別いいわけじゃないから詳しいアドバイスなんてできない。それどころか、音楽の指導ならむしろ瑠唯にでもやらせた方が正確だろう。
だけど、そうじゃないんだよな。活動を応援してくれて、支えて、時には導いてくれる。そういう大人がいることに彼女たちは救われてるのかもしれない。
「……ぼくでいいんだろうか」
「シロとのイチャイチャを控えてくれたら、あたしとしては問題ナシ!」
「節度あるお付き合いをしてくだされば、私も」
「どうして、ぼくなんだ」
どうして、こんなにあっさりと認めてしまえるんだ。ぼくはキミたちよりも年上で、成熟した大人であるべきなのに、友人であり同じバンドのメンバーと恋人同士という関係にかこつけて、勉強を教える建前で家に連れ込み、泊めてその間はただの男と女になっている。
ぼくはこれを気持ち悪いと断罪されるべき行為だと思っている。だから今までこうして隠してきたのに。
「あれだよ、特に理由なんてないんだって!」
「……理由がない?」
「第一さ、顧問になるのにそんなめっちゃ語れる理由ある先生とかいないっしょ」
「それはそうだけど」
「それより大事なのはさ、あたしらがセンセーを頼りにしてるってことじゃね?」
「されてるのかな」
「してます! ななみちゃんも」
「ルイとかシロなんて惚れてるくらいだから、相当だし」
二人の眩い笑顔に、ぼくは漸く、先輩の目指していた教師像がなんだったのかを知ることができたような気がした。背中を追いかけて、反発して、地団太を踏んで、吠えて、それでもずっと見てきたあの姿がどういうものなのかをぼくは、今日になって初めて知ることができた。
──ああ、本当にそうだ。ぼくはずっと勘違いしていた。大人なんて言ってもぼくは誰かに認められたい子どもと同じだったんだ。
「ぼくは、そんな大人にはなれないから……教師として最低のクズだと思ってくれていいよ」
「いいじゃん、大人だーって上から来るよりずっと、ウチらのこと考えてくれるってことだしさ」
「先生も、変わりたいと思ってるなら……一緒に変わればいいんですよ!」
「変わる……そうだね」
あの河原で瑠唯に問いかけられた言葉を、少しだけ訂正したくなった。人生で遠回りだと思ったことがあるのか、という問い掛けにぼくはある、と答えた。でも実際は、今の今までずっと、大きな遠回りをしてきたんだ。
「さてと、ななみに連絡して決着ついたーって報告しとかなきゃな」
「もう、心配したんですから連絡、ちゃんと返してくださいね! こういうところまでましろちゃんそっくりなんだから……!」
「ごめん、もうないようにする」
「瑠唯への連絡は自分でしないと、今どんな顔してんのか見たいんだけど……やっぱ電話にしてよセンセー!」
先輩──大人になってから再会した清瀬先輩は、美城先輩から餌付けされたお菓子を口に咥えて、内ポケットからライターを取り出そうとして、それがとっくに止めたタバコではないことに苦笑いをしながら、訳知り顔で語ってくれた。あれは、結構酔っ払っていたからこそ、語ってくれた先輩にしては珍しい、自分語りだったんだな。
「肩肘張るなよ、大人になったとしてもオレらはカミサマにはなれやしねぇから、ガキを導くってことにあんまり固執しすぎんな」
「……解った風に言いますね」
「そりゃ、解ってることだからな」
「なっくん、それやろうとして失敗してるからね!」
「オレらが見てやれるのは、万人じゃなくて、ちゃんと教師としても認めてくれるほんの一握りの生徒だけ……
捉えようによっては諦観ともとれる言葉、だがぼくは今になってその
万人にましろとの関係を非難されても、陰口を叩かれても、蔑まれたとしても、ぼくにはぼくを先生と呼んでくれる生徒がいる。
「もう一度、ましろと話すよ……やり直しなんてできないし、もうぼくらの関係は戻せないけど」
「ガンバレ、センセー!」
「ましろちゃんはメンタル弱いから……って先生にとっては今更ですね」
七深からも「逃げたくなったら相談するのも手ですよ~」とメッセージが来ていた。
瑠唯、つくし、透子、そして七深から先生として認めてもらったのならぼくは後、一人に認めてもらえばそれでいい。
──ふと、メッセージはもう一通来ていた。そこに書かれていた言葉に、ぼくは不思議と笑えてしまう。本当に、敵わない。
『ガキを恋人兼生徒にしようなんて、オレを越えたなクズ教師』
嬉しくない、ぼくがやろうとしてることはあの先輩ですら通らなかったくらいめちゃくちゃな、茨の道だ。
──でも、それがぼくの足を止めるどころか背中を押してくれたのも、また事実だった。
先生は子どもにそう認められて初めて先生に成れる。
これは作者個人的な意見ですので、皆様はどうか職業理念に反さない高潔な聖職者であってほしいものです。こんな先生が本当にいたら作者は発狂するでしょう。