ぼくが最初にその不協和音を感じたのは、モニカの学年があがってすぐの勉強会だった。春休みに課題はほとんど出ないし、勉強会と言うのは名ばかりの夕食会みたいなものだ。瑠唯がそこに来ることは珍しいことだった。勉強会という以上、勉強をしないのなら来る意味はないって、それでも自分だけは勉強をしていたり生徒会の仕事をしていたりと理由をつけて参加してくるよね、とは七深の言葉だった。
──そんな瑠唯から、ぼくは二人きりで話がしたいと言われ、少し迷ったが寝室に招いた。
「ましろが妬くから、ほどほどにね」
「では手短に……相談、というより報告に近いものですが、もしかしたら誠二先生にとっては不都合な結果になるかもしれないので」
「ぼくにとって不都合?」
「……実は、今年から理事長が新しい方になりました。前の理事長はかなり寛容な方で、自由な校風を大事にしてほしい、という考えを持っていましたが」
「もしかして、新理事長は、全くの反対……?」
ぼくの問いかけに瑠唯は首肯した。それをぼくに言ったということは、と思考しそれを瑠唯が肯定する。
──月ノ森は元々、結構締め付けの厳しい校則を持っていた。それはぼくも知っている。大学時代は私立高校の教職を目指す上でそういう校風みたいな情報は大事な要素だったから。
「ええ、形骸化している校則を遵守させる……理事長先生はそのつもりです」
「そんなことして反発されることは、まぁ折り込み済みかな」
「はい、だとしてもルールはルール、守らないものには厳しい処罰を与えるつもりです」
先輩辺りが聞いたら鼻で笑いそうな決定だが、ぼくは「形骸化」という状態は好ましくないと考える派だ。校則は守るべきルール、それを守らないものに学校という狭くとも集団での社会生活を送る資格なしと判断されるのは間違いじゃない。
「幾つかこっそり校則を厳しく解釈しようとしてるっぽいのは?」
「それは別の理事ですが……そちらは最終的に却下されるでしょう」
「なるほど、あくまで現行のルールを厳守させること……問題は課外活動の項目と……」
「個人単位ではスマホの原則禁止などがおそらく反発が大きいでしょうが……そうですね、先生にお話をしたかった理由がコチラです」
生徒手帳に記載されているそれは、異性恋愛の禁止だ。まぁそうだよな、月ノ森は芸術に秀でた伝統あるお嬢様学校だ。中には有名俳優の娘やら、音楽家の娘、有名彫刻家と画家の娘なんてのもいれば老舗呉服屋の娘もいるんだもんな。後半二人はリビングでやかましくしているけど。
「これを遵守するなら……ぼくとましろは付き合えない、ということか」
「はい……」
「勉強会自体も、課外活動と異性交遊、下手をすると両方の違反になってモニカの活動どころか全員退学もありえる、と」
「……残念ながら、課外活動としては一定の成果報告があればおそらく承認されるでしょうが」
「いや……学業に関してこういう時、伝統校は基本的に学内での活動のみを重視する傾向にある。私塾なんてもっての外だよ」
「……なるほど」
そもそも男の家を私塾として月ノ森のお嬢様が放課後に二時間も滞在する、なんておそらく理事会が知ったら卒倒するだろうね。
なんなら学校間でのトラブルとして取り上げられかねない。ましろとぼくが付き合っているという事実は、たとえ親と親戚が許しても歴史と伝統が許しちゃくれないだろう。
「いざという時は……すみませんが」
「うん、ましろが月ノ森生として、モニカとして輝く姿をぼくは見たいんだ。恋人として過ごすのはそれをやり切って卒業してからでも、遅くはないからね」
「……倉田さんには、私から明かすまでできれば待っていてほしいです。それに……できる限り、恋人として長く、傍にいさせてあげたいという気持ちもありますから」
「瑠唯……」
「すみません、もっと言うと、私自身もこの時間が惜しいと思ってしまうから」
急にそんなことを言われると、ぼくもついつい甘い顔をしたくなってしまう。後で罪悪感含めてましろのされるがままにしておこうと心に決めた。
──とはいえ、愚痴もないわけじゃないため、ぼくはやっぱり頼りになる先輩と羽沢珈琲店で待ち合わせた。
「お前、いい性格してるよ。どっかの先輩に影響されすぎだろ」
「そうですか? まぁそんなことより」
「そんなこと、今そんなことっつったか誠二」
「はい」
「……にしても月ノ森がねぇ、いかにも管理したい欲に溢れてて涙が止まらない校則だな」
「言うと思いました」
「あれだろ、月ノ森生らしいってやつ。オレそういうのすげぇ嫌いなんだよなぁ」
でしょうね、と小さく呟いておくだけに留めておく。先輩はよくも悪くも自由側の人間、モニカで言うと透子に近い考え方をする。きっと締め付けが厳しくなったら真っ先に反発して、瑠唯と衝突するのは透子だろう。
「まぁ、ルールを変えられんのはルールに声を上げるやつじゃなくて、おかしいと思いつつもちゃんとルールを守ってるやつ、ってのはそうだけどな」
「先輩はそういう時、どうします?」
「はは、高校ん時に屋上でタバコ吸ってたやつに訊くなよ」
「ははは……本当に先輩ってクズですね」
「まぁそのタバコは不良教師から分けてもらったもんだけど」
「……とんだ教師がいたものですね」
やはりルールは守るべきだ、とぼくは改めて思った。ルールを守らなくていいと大人が教えるとこういうダメな大人が出来上がるんだろう。
遵法精神というのは社会生活において、特に法治国家においては欠かせないものだ。罰を受けたくないから、ではなく多くの人が安全な暮らしを送るために守るべきものを守るという共通認識を持ち合わせていなければならない。
「ま、部外者とはいえ教師としては、ちと厳しすぎる気もするが、おおっぴらに反対はできねぇな」
「そうですね、ぼくも個人としてはましろのこともありますから反対したい気持ちもありますが」
「……ただなぁ」
「なんです?」
「多分だぜ、おそらくだけどその理事長はただ管理したいってだけじゃなそうなんだよなぁ」
先輩の言葉に首を傾げた。何かを感じ取っているのだろうか、それともただの勘だろうか。
ただ管理したいというだけならむしろ理解できるのか、という戸惑いも少しあったがそれ以上に何かに引っ掛かっているような、まさに奥歯に何かが挟まったような物言いだった。
「──正義に譲歩って言葉はねぇからな、悪意があってくれた方が戦いようはあるってことだよ」
「正義、ですか」
絶対的に正しいと思っている人の主張を変えることは非常に難しい、というのはぼくも理解できる。ただ子どものためを思うのが正義ならば、と思わなくはないけれど。先輩はぼくのその言葉を否定した。あくまで個人の顔は見えちゃいねぇよ、という言葉がぼくにはとても、胸に残ってしまっていた。
「……でもぼくは、今回のことは助けを求められない限りは静観しようと思います」
「すぐ倉田が助けてってくるだろ」
「いえ……ましろではなく、瑠唯から何か言わない限り」
「八潮か……二年で生徒会長になったんだっけか?」
「はい……その理由も、おそらく」
「生徒会長は生徒の代表……ヒナも言ってたよ」
「はい」
先輩は、氷川姉妹、白鷺さんが卒業して少しだけ寂しそうにしていた。特に顧問として接してきた日菜さんの卒業は、彼の寂寥の元になっているのだろう。
そういえば、先輩の天文部は日菜さんだけだったはず、廃部になったのだろうか。
「いや、高松ってやつが新しく入ってきた。バンドはやってなさそうだが、変人だな」
「なるほど、よかったですね」
「……なんだよ」
「いえ、OGも喜んでいると思いますよ」
うるせぇと呟いた先輩の横顔は、やっぱり少しだけ寂しそうに見えた。こんな顔をしていたら奥さん、美城先輩に怒られるだろうに。
──とはいえ、ぼくも月ノ森に関しては部外者だからと言ってただ指をくわえて見守っているわけにはいかない。少なくとも、瑠唯は今、孤立無援状態だ。七深やましろならその孤独に気づけるだろうけど、ぼくだってモニカの輝きを見守ってきた大人として、まだできることがあるはずだから。
「……ごめん、ましろ」
だけど、その希望は打ち砕かれることになった。瑠唯が、ましろにぼくと別れてほしいと言われたのだと、ましろが教えてくれた。
ぼくに何も言わずに、ということは厳罰化、もしくは既に理事会側に倉田誠二という存在がいて、それが月ノ森生と関わっていることがバレてる、と判断していいだろう。
「私……るいさんや、セーくんに、何かした……?」
「そうじゃない、瑠唯のことを疑わないでほしい」
「……なんで、るいさんの話ばっかりするの?」
「……ましろ」
「るいさんの言う通りにしようってなに? セーくんは何を知ってるの?」
「ぼくが……言えることはない」
こんなことしか言えないぼくを許してほしい、だなんて言うこともできない。
ましろを最優先にする、恋人として特別だ、なんて言っておいてまた瑠唯のことばかり、きっとましろはそう思っているだろう。でもこればっかりはそうするしかない、そうじゃないと今度こそましろは月ノ森にはいられなくなってしまう。
「瑠唯」
『……お電話してくる頃だと、思って待っていました』
「じゃあぼくが何を言いたいかわかるね?」
『はい、ですから先に答えを言っておきます──別れてください、校則の厳罰化は決定事項となりました』
「……ぼくのこと、理事会は知ってたんだね」
『ええ、何度か車で近くまで迎えに来ていましたので』
「……ごめん、瑠唯」
大人としても教師としても、ぼくの立場はものすごく弱いものだった。ぼくも迂闊なことをしていたから、こうして瑠唯にしわ寄せがあった。
瑠唯のこと、責めるつもりはないけれど、だからってましろに先に言ったら何もかもが台無しになるかもしれなかったのに。
『……個人的な感傷です』
「感傷?」
『ええ、私も……あの日々が失われると知って、動揺してしまったのかもしれません』
「……瑠唯」
『倉田さんとは、会えましたか?』
「うん……ありがとう、それと……ぼくも少し、動いてみるよ」
『先生が……? 何をされるのでしょうか』
「ちっぽけなことだよ、会いたいって言われたらそうするしかないよ」
『……学校外でしたら電話等で話すことは制限されていませんから、また、今度はこちらから』
「わかった」
──ぼくは嘆息する。もうすぐ全国共通学力テストがあって、それに向けての勉強会も開く予定だったのに、それも中止になるだろう。まぁ透子あたりは気にしないだろうが、それでもあの頃の日々はもう失われたのだろう。
だけど子どもには子どものできることがあるように、大人には大人にできることがある。完全な部外者だろうとなんだろうと、ぼくはモニカの先生になってるのだから。
「……やっぱりか」
翌日の昼、月ノ森全校生徒に向けて理事長からの通達があったらしいことを、透子の連絡で知った。内容は瑠唯が話していたこととほぼ一緒、その中にはスマホの原則禁止があった気がするが、まぁ透子なのでここはスルーしておこう。
──ましろからは、流石にないか。ただおそらくまた暴走しかねないため叔父さんと叔母さんには連絡しておかないと。昼休みは過ぎていたが、偶然なことにこの時間に授業がないためぼくは資料そっちのけで透子からの話を転送しておく。
「もしもし、はい倉田誠二です……はい、その節は大変お世話になりまして、はい、少しご相談がありまして……はい、そうです、はい」
ましろに──子どもに手を出しておいて、どの面を下げて言うのかって思うこともあるが、でもやっぱりぼくは大人で、教師なんだ。
だからぼくは、大人のやり方で自分の都合のいいようにルールを解釈する。真正面からぶつかるなんて青春を生きるあの子たちに任せておけばいい、ぼくができることは根回しとルールの穴を突くことだけ。幸いなことにルール自体の変更はない、それは瑠唯や理事長との話し合いで回避したらしいから。
「……瑠唯が諦めない限り、モニカが諦めることはない。だからぼくは、それを信じてるだけです」
狡くて汚い大人でもいい。揚げ足を取ったり、屁理屈をこねたりしたとしてもそれでいい。その姿が、昔嫌いだった大人と同じだったとしてもぼくはもう構わない。それだけぼくにとってましろと、モニカのみんなと過ごした短い時間は何者にも代えられない、大切で特別なものだったんだから。それは、誰にも奪わせたりはしない。
理事長先生もこんなクズが月ノ森生に近づいてるのは嫌やろうなぁ