このメガネは何かを見落として勘違いしてます
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──気まずい空気が流れる。気づかなかったけれど、確かに学生カバンが玄関の隅に転がっていた。ぼくはそれを拾い上げて、中身を一応確認する。中に、前にましろが作っていたバンドメンバー募集の張り紙が、くしゃくしゃになって入っていた。かなり乱雑に剥がしたような跡も見受けられる。
「……どうしてこんなものが?」
それよりもとぼくは体操服を探すが何処にもない。リビングに戻りながらそれを伝えようとするとタオルケットに包まれたましろが抱き着いてくる。
小柄であるが故にタオルケットの隙間からチラリとミントカラーの下着と、顔立ちの幼さからはあまり想像できない谷間が目に入ってしまう。
「ま、ましろ……とにかく服を、制服、破れたりしてないみたいだけど」
「やだ」
「……どうして」
「もう、どうだっていい……月ノ森に入って、自分でも特別な何かを見つけられると思ったのに……結局私は……っ!」
「ましろ……」
「──抱いて」
「……え」
普段の透き通ったものとはまるで違う、濁った、ひび割れた声。涙交じりの鼻声で放たれたその言葉がぼくの心に雨を降らせる。窓を打ち付けるような、激しい雷雨のような痛みと悲しみだった。
だが戸惑うぼくに対してましろは涙を流しながらタオルケットを床に散らし、キャミソールにブラとショーツという下着姿で訴えてくる。
「お願い、もうセーくんに特別をもらわなくちゃダメなの、お願い……あの夜みたいに、襲われたい」
「──っ、やめろ!」
「っきゃ……」
ぼくは思わず、本当に反射的にましろを拒絶し、弾き飛ばした。
──あまりに自暴自棄な言葉だ。襲われたいだなんて、ぼくとの記憶で辛いものを誤魔化そうとしたって、傷は消えない。ぼくが出来るのはましろを襲った犯人を見つけることだけ、そしてその傷が癒えるまで傍で支えることだけだ。
「セーくん……」
「……ごめん、ましろでも……今のは、自分を大切にしてない。ぼくはキミを自暴自棄にしたいわけじゃない」
「わ……私、こそごめんなさい──そっ、そうだよね……セーくんの努力も無駄になっちゃうもんね、せっかく勉強見て、くれたのに」
「……え?」
「え?」
今の言葉は、なんだ? この流れでぼくの努力が無駄? 勉強を見てもらったのに?
何かがおかしい。ぼくは少し、ほんの少しだけ考えて一つの仮説を導き出す。急に途絶えたTOKOのバンド練習風景の写真、乱雑に脱ぎ捨ててあった月ノ森の制服、カバンに入っていたくしゃくしゃのバンドメンバー募集の張り紙、そしてましろの言葉、これは一本の線で繋がるんじゃないだろうか。
「どう、したの?」
「いや、なんでもない……ましろ、ヤケになるのはいいけど、鍵はちゃんと閉めて」
「あ……また忘れてた」
「こんな格好してるなら猶更、下手すると何かあったのか、なんて邪推するよ」
「そ、そうだよね……なんか、意識したら急に恥ずかしくなっちゃった」
「服、ぼくのジャージでいいなら貸すよ」
「お願いします」
──よかった、色々と勘違いしていたけれどそもそも勘違いでよかった。とにかく強姦魔が部屋に押し入ってましろを襲ったとか、そういう理由で服が脱ぎ捨ててあったわけじゃないと知れてほっと息を吐く。でも、そうなると今度はましろに何があったのかを話してもらわなくちゃ。
「はい、ホットミルク」
「……セーくん苦手なのに」
「ましろはよく牛乳飲んでたから、それにぼくだって、冷たいものなら飲める」
「えへへ、用意がいいなぁ……ますますすきになっちゃう」
「……それで、何があったの?」
「実はね……バンド、喧嘩しちゃった」
ましろが語ってくれた内容は偉大なる我らがクズ先輩的な言い方をすれば青春的なアレコレ、という一言で片づけられるものだった。とはいえ、当人からすれば一生に一度の大問題となればぼくも彼女の背中を押してあげたい。
「月ノ森でも特別なものなんてなくて、それで衝動的に……」
「制服を……やっと腑に落ちた」
「うん、こんな形ばっかり月ノ森生になったって……結局私は私なんだって……ぐす」
「そうだね……どんなに服を着替えても、表面の記号を変えても、ましろはましろだ」
「……ん」
「ただ、ましろと違うのはこれを肯定的な意味でぼくが使っていること」
ましろが倉田ましろであるのは当然のことであって、違う方がおかしな話だ。幾ら月ノ森に入学してもそれは「月ノ森生の倉田ましろ」になるだけで、特別な能力を持った誰かに成れるわけじゃない。
「ましろは自分のポテンシャルを低く見積もりすぎだよ」
「……そんなこと、だって、声出なくて、下手で、なのに楽器もできない、リズムも取れないし、パニクったらどうしていいのかわかんなくなる、こんな状態なのに」
「確かに、今のましろは声が出なくて、歌が上手くなくて、他に出来る楽器もない、リズム感もよくないし、不測の事態に立て直しもできない、そんな状態かもしれない」
「……二回言わなくていいの」
「ごめん──とにかく、それは事実だろうね」
逆にバンド活動の準備と練習をしている中で自分の世界観が独特で歌詞を褒められた。という成功体験、その歌詞のいいところを、意図を声に乗せて汲み取れるのも、またましろにしかできないことだ。
「ぼくのアドバイス、家庭教師を見ていた時のことを覚えてる?」
「うん、セーくんの、キラキラしてるところ」
「ぼくじゃなくて、ぼくのアドバイスね」
どうやらましろはそのまま否定系を積み重ねられたことで嫌になって逃げだしてしまったらしい。中学生の頃の指導法は流石に同年代じゃ通用しないだろうとは思うけど、ましろに「できない」探しをさせるとこうなる。自分に自信がなくて、ネガティブなのにメンタルが脆いんだから。
──だからましろを立ち上がらせるのは「できる」を探してあげること。できるって思わせることだ。
「……でも、逆によくこれだけ自分の欠点をつらつら挙げられるね」
「貶してる?」
「褒めてるよ、ぼくがましろを貶すわけないでしょ」
「そうだね!」
なんで怒るんだろう。ぼくは褒めてるというのに。
まぁいいや、と話を進めていく。そもそもさっき挙げた欠点は一つの要因に行きつく。それはたくさんの「できない」ではなくて一つの「できない」を「できる」に変えるだけでまるでリバーシのようにひっくり返ってしまうということを意味する。
「今、ましろが唯一できてないこと──それは努力だ」
「努力……頑張りが、足りない?」
「ましろが嫌がりそうな言葉に変換するならね」
「……努力、してきたつもりだもん」
努力というのは何かを目標にし続けているのが至極当然だというぼくの持論はこの際ましろには通用しないと諦めようか。
そもそもましろは今バンドを通して自分の中に眠る「特別な何か」を呼び覚ますという目標を前に足踏みをして、疲れて立ち止まっている段階だ。これはつまるところ
「……言われました」
「だね、じゃあ今更長々と解説はしなくていいね?」
「久しぶりに厳しい先生モード……でも、もう一度お願いします」
「はい、じゃあ次は忘れないようにね」
目標というのは階段状に設定すべきだ。最終目標が「特別な何かを見つける」ということであるならば、それを叶えるための大きな目標を幾つか設定する。そうしてその大きな目標を叶えるための中くらいの目標、その中くらいのために小さな目標を幾つも作る。できることでいい、これを怠るから自分が何を「できる」ようにすれば目標へ到達できるのかが見えなくなる。見えなくなるから「できない」ことに対して何をすればいいのかわからなくなる。わからないから他責で考えやすくなって悪循環を起こす。そして他責をしている限りは絶対にそのするべきことは見つからない。
「ぼくは具体的にバンドメンバーと何を口論したのか知らないけど、大体これに当て嵌まるんじゃない?」
「……当て嵌る」
「だけどましろはできないことがよく見えてる。そのできないことへの改善策を、自分の中にだけ探せばいいだけだよ」
「それが、努力?」
「そう」
こればっかりは近道はない。むしろ近道を探そうとすると無駄足になる。逆に遠回りでもいいから確実にできることをしていくのが大事だ。
ましろの場合は、とにかく練習あるのみだ。声が出ないなら発声練習や腹式呼吸や腹筋、長距離走での肺活量増加、音域が狭いなら音域を広げるトレーニング、リズムが取れないならメトロノームとにらめっこでもして音符に合わせて拍手をして反復練習、楽器ができないのはボーカルならこの際必要ないと割り切る。時間の無駄、そういう取捨選択も時には必要だ。
「なんか……アイドルのプロデューサーだ」
「なに?」
「なんでもないです……うぅ、最近ずっと優しかったから、甘やかしてくれると思ってここに来ちゃってた……セーくんがそんな甘いわけないよね……うん」
「そうだね、ぼくはましろを甘やかしたいんじゃなくて、ましろを導きたいんだから」
「真顔で言わなくていいから……でも、セーくんの優しさだよね、これが」
これが優しさと思われると少し、ましろに厳しくしすぎたかと心配になる。
本当に甘いカレシならましろは頑張ってるから大丈夫と無根拠に抱きしめてあげられただろうけど、ぼくから言わせれば無根拠なのが許せない。根拠のある頑張ってるから大丈夫を提示してあげてこそだ。
「大丈夫だよ、ましろは頑張れる子だってぼくは勉強を見てきたから知ってる。だから……ましろならバンドを、月ノ森から生まれたバンドを大きく、有名にできるよ」
「……セーくん」
「そういえばバンド名は?」
「決まってない……月ノ森バンドってことになってる」
「決まってないんだ……その仮称はいつか変えた方がいいだろうね」
「いい名前ないかなぁ」
それはぼくが口出しすることじゃない。グループの名前は、そこに関わる人たちが夢や目標、思い出、そんな宝物をぎゅっと詰め込んだものだ。
悩んで、いつか出せばいい。その時が、ましろが本当にバンドガールとして羽ばたく時だと思ってるよ。
「とりあえず体力つけないとね、ましろは」
「……いっぱい歌うと疲れちゃうもんね」
「ジムでも行く? 女の人がやってるパーソナルジム紹介するよ、知り合いに同性の筋肉が大好きって変な先輩がいてね」
「変な先輩は紹介しないでよ、あとジムはちょっと……」
「なら朝走る? 知り合いに走れば走るほど元気になる変わった先輩がいてね」
「それも変な先輩だよ……」
ぼくの先輩、変な人が多いな。あの大学が変なのか……いや待て、そうするとぼくも変人の仲間に入ることになるからそれは違う。ぼくがあの変人の巣窟のようなゼミに配属されたのは何かの間違いだと今でも思ってるから。
「すごいね、セーくんは」
「何が?」
「ずっと雨が降ってたのにもう、晴れちゃった」
「ましろには灰色より青が似合うよ」
「セーくんは、紺色が似合う」
「そっか」
その日は久しぶりにましろが家に泊まることになった。突発の泊りだから電車に乗って下着や服を買って、ご飯を食べて、帰りにアイスを買って一緒に食べた。
家で映画を観て、少しだけ夜更かしをしてお酒を飲んで……これはぼくだけだけど。
「ねぇ、セーくん?」
「なに?」
「私が下着だった時、胸見てた?」
「……なんのこと?」
「セーくんおっぱいすきだよね、私が薄着になるとちょっと心配そうにおっぱい見てるもん」
「それはましろの薄着が心配だからじゃないかな」
第一に心配だったら顔を見てるはずだろ、と抱き着かれた時の話からは絶妙に逸らしていく。
ましろに言うことはしないが確かにぼくは貧乳と巨乳派か問われれば巨乳派だ。自分にはないああいう柔らかい部分を無意識に欲しているような気がする。
「いーや、セーくんはおっぱいすきだよ、だって顔埋めてきたもん」
「……記憶にないね」
「本当にないんだもんね、あんなに揉んだり吸ったり──」
「──いい加減にしろよ?」
「お酒入ると乱暴になるんだね、やっぱりセーくんは」
「やっぱりってなんだよ」
「言っていいの?」
「言いわけないだろ」
本当に、ましろもどうにかして忘れてくれないだろうか。だがましろにとっては初体験であり好意を寄せてきた相手から迫られたという喜びの体験なのだから忘れるわけもない。やっぱり全てのミスはあのバカップルと二対一で飲んだこと、それしかない。
「セーくんセーくん」
「今度はなに?」
「酔ってきちゃった?」
「結構、立つとフラつくかも」
「じゃあ……セーくんは、私のことえっちな目で見てる?」
「……見てる」
そう言ったらちょっとは怯んでくれるかな、そういう打算もあったのに、ましろは怯むどころから安心したかのように新品のルームウェア、その腿まで大きめのシルエットのパーカーのジッパーをおろし始める。中は、ぼくが買ったから知ってる。セパレートになっていて下はショートパンツ、上はへそ出しのキャミソールだ。
「……自分を襲ってきた男の前で着る寝間着じゃないね」
「襲っていいよってサイン出してるつもり」
「ぼくはましろに手を出さないんじゃなくて、倫理観的に出せなくて我慢してること、解ってる?」
「うん……でもここにはさ、セーくんに我慢しろーなんて意地悪言うひと、いないよ?」
「……ぼくがいる」
「じゃあ……ちゅーだけでも、して。そしたら、もう誘わないから」
「一回だけね」
ぼくはもう、ましろの前では禁酒した方がいいだろう。どうやらテキトーに選んだ缶チューハイは強いというわけじゃないが身体に合わない類のものだったのだろう。これを沢山飲めば悪酔いしていたかもしれない、そんな感じだった。
そんな現実感が薄れてしまえば、またあの日の悪魔がぼくの内側から目の前の少女を襲えと囁いてくる。
「……これで許して」
「許します……今日はね」
それを口づけ一度でなんとか丸め込んで、その後は何事もなくお互いに別々に寝た。
また再び月ノ森の制服に身を包んだ彼女の振り返っての笑顔を見ると、惚れた弱みというのはもしかして、ましろではなくぼくに適用されるのではという真実に気づき始めていた。
まさか、ぼくが大人と子どもだということに固執しているが故にドツボに嵌っているだなんて、そんなことあるわけがない。あっちゃいけないんだ。
なんだかんだと流された挙句に言い訳、これがクズ教師メソッド
これにてプロローグが終わり、倉田ましろが「Morfonica」として羽化していくことになります。