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宜しくお願いいたします。
春の温かな陽光が会場を包み込み、トレセン学園主催の定期的に行われるチャリティーイベントは賑わいを見せていた。ジェンティルドンナは、仲間たちと共に募金活動をしていたが、心の中で少し焦りを感じていた。いつも通り、周りのウマ娘たちは笑顔でファンと交流している。だが、ジェンティルドンナはどこか心が落ち着かない気持ちを抱えていた。
そんな中、会場の片隅に目を向けると、小さな少女がピアノの前に座っているのが見えた。車椅子に座り、少し不安げに鍵盤を指でなぞっている。その姿はどこか儚げで、ジェンティルドンナの目を惹きつけた。
彼女は足を止め、その光景をしばらく見守った。少女が鍵盤を押すたびに、音は確かに出ているが、どこか不安定で途切れ途切れだった。しかし、少女は一生懸命に指を動かし、曲を奏でようとしていた。その姿に心を打たれたジェンティルドンナは、ゆっくりとその少女に近づいていった。
「こんにちは。ピアノが好きなのかしら?」
ジェンティルドンナは優しく声をかけた。
少女は顔を上げ、その目が瞬間的に驚きと喜びに変わった。
「ジェンティルドンナさん…!」
その声に、ジェンティルドンナは微笑んだ。少女が名前を呼んだ瞬間、心の中に温かいものが広がった。
少女は嬉しさのあまり、口元を抑えながら言葉を続けた。
「病院にいるとき、ずっとレースを見て応援してるんです!ジェンティルドンナさん、すごく強くて、素敵なんですよ!」
ジェンティルドンナはその言葉を聞いて、少しだけ胸が締めつけられるような気持ちになった。しかし、彼女は穏やかな笑顔を浮かべ、ミサキをじっと見つめた。
「そう言ってくれると嬉しいわ。でも、あなたの方がもっと素敵よ…あなた、名前はなんていうのかしら?」
少女は少し照れたように笑いながら答えた。
「私は、ミサキです。」
「ミサキちゃん…もうピアノは弾かないのかしら?」
ジェンティルドンナはその名前を覚え、にっこりと微笑んだ。
ミサキはジェンティルドンナのその微笑みを見て、少し照れたように微笑んだミサキは、ジェンティルドンナを見つめながら、恥ずかしそうに小さくつぶやいた。彼女の指先は名残惜しそうに鍵盤を撫でている。その目は少し陰りを帯びていた。
「わ...私はもうピアノを弾けないんです…」
その言葉にジェンティルドンナの表情が一瞬変わった。ミサキが無理をして笑っていることを感じ取ったのだ。
「ピアノが好きでしたのよね?」
ジェンティルドンナは優しく尋ねる。
ミサキは少し顔を曇らせながら、ゆっくりとうなずいた。
「はい…でも、病気になってから、もう弾けないんです。指先が自由に動かなくなって...でも...いつか自分の手でまた弾きたいんです...」
ジェンティルドンナの胸が痛くなった。彼女の夢が、病気によって諦めるしか無くなったことが。どんなに無念だったんだろう。
ジェンティルドンナは、そんな彼女を励ますように言った。
「...そう...弾けるといいですわね...」
ジェンティルドンナは力強く言ったが、言葉だけで誰かを勇気づけられるなら誰も苦労も苦悩もしない事をジェンティルドンナ自身が一番理解していた。でも、心の中で自分が何をしてあげられるか、何か方法があるのかと悩んでいた。
その後、ミサキと別れたジェンティルドンナはその場を後にした。
寮への帰る途についたジェンティルドンナは、これしかない、と決意を固めた。
☆☆☆☆☆
その夜、ジェンティルドンナはトレーニングを終えた後、決意を胸に、学園の音楽室に足を踏み入れた。トレーニングの疲れはあまり感じなかった。むしろ、心の中でずっとあの少女の顔が浮かんでいた。ミサキの、あの憧れの目を忘れられなかった。
ジェンティルドンナは部屋の隅にある古いグランドピアノの前に座った。誰かが使い込んだであろう鍵盤は、少し埃をかぶっている。ジェンティルドンナはその埃を払い、深呼吸をひとつしてから手を鍵盤に置いた。
「素人ができるわけない」と心の中で自嘲しそうになる自分を、ジェンティルドンナは強く否定した。今、この瞬間から始めなければ、ミサキに何も伝えられないと感じていた。
初めて指が鍵盤に触れたとき、思ったよりも指先が硬直して動かない。その感覚に驚いたが、それでも何とか楽譜が示す次の音を押さえようと必死に手を動かす。最初に奏でた音は、ほとんど無音に近かった。ただ、指の下で金属的な感触を感じただけだった。
それでも、次第に指の先に少しずつ力が入るようになった。音符をひとつずつ確認しながら、最初のフレーズを弾き終えたときには、少し疲れたように腕を伸ばしてため息をついた。
(これで…ミサキちゃんに届くのかしら?)
彼女はピアノを見つめながら、ふと自信を失いかけた。しかし、すぐにその考えを打ち消した。ミサキが希望を持ち続けているから、ジェンティルドンナも諦めるわけにはいかない。やると決めたからには、最後までやり遂げなければならない。
その思いを胸に、何度も鍵盤を叩き続けた。
窓から差し込む月明かりは、そんなジェンティルドンナをずっと見守っていた。
☆☆☆☆
次の日、ジェンティルドンナはまたピアノの前に座った。何度も指が鍵盤に触れるたびに、音符が不確かで、指が滑ることがあった。最初の数日は、指がどのように動くべきか、全く感覚が掴めなかった。さらに、覚えたはずのメロディが頭の中で混乱して、思うように弾けないことが続いた。
彼女はピアノの前でしばらく動かなくなり、深く息を吸った。今までレースでは完璧に走り抜けることができた自分が、こうしてピアノの前で立ち往生していることに、少し悔しさを覚える。しかし、すぐにその気持ちを払いのけ、手を再び鍵盤に置いた。
「もう少し、もう少し…」
彼女は自分に言い聞かせるように呟きながら、何度も手を動かした。徐々に指が鍵盤に慣れてきて、曲のフレーズが少しずつつながるようになってきた。最初はぎこちなかった指の運びも、少しずつ自然になり、音楽の流れを感じられるようになった。
その日から、彼女は毎日欠かさず練習を重ね、指が以前よりもスムーズに動くようになった。だが、やはり完璧には程遠く、時折、メロディが崩れ、音が不安定になることもあった。しかし、それでも彼女は諦めず、少しずつ自分の演奏に自信を持つようになった。
ある日、練習を終えた後、ジェンティルドンナは汗を拭いながら鏡を見た。その顔にはまだ少し疲れが残っていたが、それでも彼女の目には強い決意が宿っていた。自分のためではない、彼女のためにピアノを弾くのだと。
☆☆☆☆
ついに、チャリティーイベントの日がやってきた。会場は大勢の人々で賑わっていたが、ジェンティルドンナはその中で目の前のミサキを見つけた。ミサキは車椅子に座って、今にも泣き出しそうな顔でジェンティルドンナを見守っている。
ジェンティルドンナは、純白のワンピースを身にまとい、ステージの中央に立っていた。その存在はまるで、会場の光を集めて放っているように、美しく輝いている。まるで美麗な芸術作品が現れたかのように。
彼女が一礼し、椅子に座る。
軽く深呼吸し、グランドピアノに向き合う。
ゆっくり彼女の手が鍵盤に触れると、最初はほんの少しのためらいがあった。それでも、指先が少しずつ鍵盤に沿って動き、やがてエルガーの「威風堂々」の重厚な旋律が響き渡る。
最初の一音が広がると、ジェンティルドンナの表情も少し緊張していることが分かる。演奏はまだ硬さを帯びていて、音のひとつひとつに少しだけ不安が残っている。しかし、次第にその不安は消え、しっかりとした音に変わっていった。
そして、次の瞬間、彼女の指が少し力強く鍵盤を押さえた。その音色が、会場を包み込んでいく。観客は息を呑んでその音に耳を傾ける。ジェンティルドンナは目を閉じ、ピアノの鍵盤に心を預けるように、ひと音ひと音を大切に奏でていった。
演奏が進むにつれ、彼女の指先に込められる力が徐々に増していく。それは、彼女がミサキに伝えたい想い、そして、自分自身の気持ちを旋律に乗せようとしている証だった。最初はあくまで理性で弾いていたが、次第にその音がどんどん感情を帯びていった。
曲の中盤に差し掛かると、ジェンティルドンナは目を開けて、ミサキをじっと見つめた。彼女の顔は、真剣そのもので、演奏を通してミサキのために何かを伝えたくてたまらない様子だった。その瞬間、旋律はより強く、より優しく、そして情熱的に変わっていった。弾むようなリズムが、彼女の内面の揺れをそのまま表現していた。
「私はあなたのために、精一杯弾くんだ」と心の中で誓いながら、彼女の手が次々と鍵盤を打ち込んでいく。その音はまるで心の叫びのようで、力強く、でもどこか切なさも感じさせる。それが少しずつ積み重なり、曲全体が壮大に、またはしなやかに形を変えていった。
クライマックスに差し掛かると、ジェンティルドンナの指先が鍵盤を捉えるたびに、音のひとつひとつが力強さと優しさを同時に放ち、まるで涙を流すように音が会場を包んだ。彼女が必死で伝えようとする想いが、そのまま旋律に込められていく。
最後の和音を弾き終えると、会場が一瞬の静寂に包まれた。その静けさは、ジェンティルドンナの心の中のすべての感情を受け止めてくれているように感じられた。少し息を呑みながら、彼女は目を閉じ、しばしその余韻に浸る。
その瞬間、観客が一斉に拍手を送る音が響いた。それはまるで、ジェンティルドンナがどれだけ頑張ったのか、そのすべてを理解してくれたかのような温かい拍手だった。ジェンティルドンナは顔を上げ、少し照れながらも、深く頭を下げて感謝の気持ちを伝えた。
そして、ミサキの姿が目に入った。彼女は涙を流しながらも、満面の笑みを浮かべてジェンティルドンナを見つめていた。その笑顔こそ、ジェンティルドンナが演奏した理由そのものであり、心から誇らしく感じる瞬間だった。
☆☆☆☆
チャリティーイベントが終わった後、ジェンティルドンナはミサキの手をしっかりと握り、笑顔で話しかけた。
「今日は来てくれて本当に感謝しますわ。私の演奏が、少しでもあなたの元気になれたなら、それだけで嬉しいわ。」
ミサキは涙を拭いながらも、ジェンティルドンナに感謝の気持ちを込めて答えた。
「本当に、素敵でした…!まさか、ジェンティルドンナさんがピアノを弾いてくれるなんて...本当に夢みたいでした。」
ジェンティルドンナはその言葉を受けて、微笑みながらうなずいた。そして、少し沈んだように、ミサキの車椅子を押しながら、ふと考えを巡らせた。
「さて、今日はこのまま帰るのかしら?...もし宜しかったら、送らせてくださいな。」
ミサキは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに安心したように頷いた。
「ええ…ありがとうございます。」
ジェンティルドンナは優しく車椅子を押しながら、ゆっくりと歩き始めた。いつものレースとは違う、穏やかな時間が流れていく。ミサキは車椅子の座席に身を任せ、ジェンティルドンナが彼女を送り届ける姿に、心の中で温かな気持ちが湧き上がった。
「ジェンティルドンナさん、さっきの演奏、本当にすごかったです。でも、どうしてあんなに緊張していたんですか?きっと、完璧に弾けたはずです。」
「そうね…実は、すごく緊張していたの。」
ジェンティルドンナは少し恥ずかしそうに言った。
「完璧じゃなかったかもしれませんけど...今の私にできる精一杯のことをやりましたわ。」
「でも、私にはとても特別なものに聞こえました。私が病気でピアノを弾けなくなってしまったけど…その代わりに、あなたが私にピアノを弾いてくれたんですね...すごく嬉しいです。」
ジェンティルドンナは少し顔を赤らめ、あまり目を合わせずに答えた。
「私も嬉しいわ、ミサキちゃん。あの演奏を通して、あなたに少しでも力を届けられたなら、それだけで私は幸せよ。」
そして、二人はゆっくりとトレセン学園の校門前まで歩いてきた。ジェンティルドンナは車椅子から手を離すと、ミサキの前にひざまずき、真剣な表情で言った。
「ミサキちゃん、約束してほしいの。これからも元気でいて、私の走る姿を応援し続けてほしいの。そして、いつかまた…ピアノを弾ける日が来たら、私にも聴かせてくださいね。」
ミサキは涙を堪えきれず、ほんのり笑顔を浮かべながら答えた。
「もちろん、ジェンティルドンナさん。また会える日を楽しみにしているね!...私頑張るから!」
ジェンティルドンナは微笑みながら彼女の決意に深く頷き、ミサキの手を軽く握った。
「また会いましょうね、約束よ。」
ジェンティルドンナがミサキを見送る最後の瞬間、二人の間に言葉はなかった。ただ、心の中でお互いに温かい思いを抱きながら、ジェンティルドンナはゆっくりと校門を離れて行った。その背中に、ミサキは何度も「ありがとう」と心の中でつぶやいた。