☆
冷たい水が、肺の奥まで入り込んでくる。
体が重い。
手足に力が入らない。
視界が徐々に暗くなっていく中で、イオリは自分の意識が遠のいていくのを感じていた。
(......このまま、沈むのか)
ふわふわと漂う意識。
(まあそれも仕方ないか...いいや、このままクラゲにでもなってやろう...)
そのときだった。
暗闇の中に、温かい光がふわりと現れた。
髪のような、柔らかい光。
どこか懐かしくて、安心する色。
光がイオリの胸元に飛び込んでくる。
(ん...温かい...)
青緑色の光だった。
彼女と同じ髪色。
(ソラハか......)
呼ばれている。
彼女の、親友の元へ行かないといけない気がした。
イオリは無意識に、その光の方へ手を伸ばした。
光は優しく揺れて、水面の方へと誘うように動く。
(......あっちか)
体が自然と動き出す。
重い四肢を必死に掻き、光を追うようにして浮上していく。
☆
次に気づいたとき、イオリは柔らかな感触の上に頭を預けていた。
膝だった。
ゆっくりとまぶたを上げると、青緑の髪が視界に入る。
ソラハが上から覗き込んでいて、静かに微笑んでいた。
「おはよ、イオリ」
「......えっと、おはよう...確かあのあと......」
声が掠れる。
ソラハは少しだけ視線を逸らしながら答えた。
「溺れたイオリを、僕が助けたんだよ」
「そっか.......ありがとう」
「うん。イオリが無事なら、それでいいんだよ」
ソラハの声は穏やかだった。
でも、イオリは気づいてしまう。
さっきから、自分の方をまっすぐ見ていない。
視線が、少しだけ横にそれたまま、話している。
(......なんで、こっちを見ないんだ?)
イオリはソラハの顔をじっと見つめた。
濡れた青緑の髪が、頬にかかっている。
表情は笑っているのに、どこか視線を避けるような仕草が気になった。
「......ソラハ?」
呼びかけると、ようやくこちらを向いた。
でも、目が合うのはほんの一瞬で、すぐにまた視線を落とす。
「......なんでもないよ。大丈夫?」
「ああ......なんとかな」
イオリは上体を起こそうとして、少しだけソラハの膝に体重を預けたまま、動かなかった。
彼女の体温が、薄い布越しに伝わってくる。
さっきまで冷たかった体が、少しずつ温かくなっていくのを感じながら、イオリは黙って空を見上げた。
(もう少しだけ、このままで......)
遠くから、キララとエリカの声が聞こえてくる。
「あっ、救援が来たよ」
「ん...そうみたいだな」
ソラハが嬉しそうな声をあげる。
二人きりの時間は、もうすぐ終わりそうだった。
それを少しだけ名残惜しく思いながら、イオリはゆっくりと体を起こした。
☆
「この度はありがとうございました...!ホントにありがとうございました ...!」
プールの運営スタッフから謝礼を受けながら、ソラハ達は幾つかのフードチケットを受け取った。
「まったく...例のロボット、めちゃくちゃ浮き輪投げまくってたんだからな」
イオリがぼやく。
「すみません...アレはミレニアムからの試作品なんですか、少し試験運用が足りなかったみたいです...」
「あー、ミレニアムのか...なんだか納得」
エリカの中で合点が行く。
最新先端技術が集まるミレニアム学園だが、意欲的な発想の人物が多いため、頻繁に機械トラブルを起こす事で有名だった。
ソラハが前に出る。
「その...ちょっとだけ残骸を調べさせて貰ってもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
「ソラハ?」
イオリが顔を向けるが、ソラハは人差し指に口を当てた。
「大丈夫、すぐ終わるから。皆は先に売店に行ってて」
トットットと青緑の髪を揺らし走っていく。
「ソラハさん、なにか気になることがあるんだろうね」
「まあまあ!先に行くよう言ってたし、私達は売店に行っとこ!私、かき氷が気になってたんだよね~!」
エリカとキララが歩き出す。
ソラハが向かった方角を、イオリは不思議そうに眺めた。
☆
「見つけた...君だね」
太ももに傷跡があるロボットを見つけた。
例の指示を出していた個体だ。
「確か背中のバックパックに...」
浮き輪を収納するスペースを弄っていると、不思議な色の円盤を見つけた。
「これだ...間違いない、オーパーツだ...」
クジラのキャラがプリントされた巾着を取り出し、中に保管した。
「よし、これでOKだ......でも何でロボットの中にあったんだろう.........何かの拍子に入った...とか」
考えを巡らせるが、そういうのはアロヨンが調査するだろうと、割りきった。
「いいや。今は皆が待ってるからね、早く合流しよ」
フードチケット取り出すと、少女は上機嫌にその場を去った。
☆
駅のホームは、夕方の陽射しが残りつつも、少し涼しくなっていた。
4人はベンチに並んで座り、フードチケットで買ったかき氷を食べている。
キララがイチゴ味、エリカがレモン、ソラハがミルク、イオリは抹茶を選んだ。
少しお高いお店だったせいか、かき氷にはアイスやフルーツ等が贅沢に乗っていた。
「ん〜、冷たくて美味い〜!」
キララがスプーンを口に運ぶ。隣のエリカが「こっちも美味しいよ」と笑いながら、自分のかき氷をキララの口元へ差し出した。
「はい、キララちゃん。あ〜ん」
「ん、あ〜ん......ん、めちゃウマだよエリカちゃん!私のも食べてみてみて~!」
二人が互いにスプーンを差し出して食べさせ合っている。
軽やかな笑い声が弾ける。
その様子を、ソラハがじっと見ていた。
「......ふふ、イオリ」
ソラハが自分のスプーンにミルクかき氷を乗せ、イオリの方へ向き直る。
「はい、この僕があ〜んしてあげる」
「...ん、分かったよ」
ソラハのスプーンが目の前に差し出された。
白い氷とバニラアイスが、ゆっくりと近づいてくる。
イオリは仕方なく口を開けかけた。
その瞬間、ソラハの動きが止まった。
スプーンを持った手が、空中で固まる。
彼女の視線が、明らかにイオリの口元に釘付けになっていた。
(.....?)
イオリが眉を寄せると、ソラハはまるで熱いものに触れたように、慌ててスプーンを自分の口へ運んだ。
「......ふふん、引っ掛かったね、イオリ」
「お、オイ...ソラハ」
彼女にしてはしょうもない悪戯をするなと、顔を見つめる。
だが視線を逸らされた。
イオリは黙って、ソラハの横顔を見た。
「........」
スプーンを差し出した瞬間に固まったあの仕草が、妙に引っかかる。
(......何か、あったのか?)
ソラハはかき氷を少しずつ食べながら、キララとエリカの会話に無理に加わろうとしていた。
「エリカちゃんのレモンかき氷、塩レモンでしょ?いいね~運動した後にぴったりだ」
「少し食べて見る?シロップ漬けでなかなかイケるよ」
「ン、ちょーだい、ちょーだい」
でも、時折チラリとこちらを窺う目が、どこか落ち着かない。
イオリは自分のかき氷を一口すくい、静かに口に運んだ。
冷たい甘さが、舌の上で溶ける。
それでも、ソラハが自分の口元を見たときの、あの一瞬の迷いが、頭の片隅に残ったままだった。
☆
電車は夕方の混雑を少し過ぎた時間で、比較的空いていた。
キララとエリカが途中の駅で降りた後、イオリとソラハの二人きりになる。
向かい合わせの座席に座り、窓の外を流れる景色をぼんやりと見ていた。
「ねえ、イオリ」
ソラハが急に切り出した。
「なに?」
「イオリって、恋人とかいたことある?」
イオリは少し顔をしかめた。
「...いないけど。どうして急に」
「ふーん。じゃあ、キスとかもしたことないんだ」
ソラハがにやにやと笑う。
いつもの、少し生意気な調子だ。
「っ……余計なお世話だろ」
イオリがむっとした声を出す。
「ふふっ...まあまあ、怒らなくても。ただ聞いてみただけ、だよ」
目を細めてソラハが笑う。
その生意気な笑顔を見て、イオリは少しだけ安心した。
プールの後からどこか避け気味だった彼女だが、いつもの調子に戻ったように感じられたからだ。
「……で、そういうお前はどうなんだ」
「ふふん。当然、僕もないよ」
ソラハが胸を張ってドヤ顔を作る。
「そうか、だろうな」
「ン、だろうかってナニ、ねえイオリ」
「さあな」
イオリは短く答えて、窓の外に目を戻した。
ソラハの軽口が、いつもの日常を取り戻してくれた気がした。
それを有りがたく思った事は、本人には言わないでおこう。
☆
西の空は、夏の終わりを思わせる深いオレンジから、ゆっくりと紫へと沈んでいくところだった。
陽射しはもう弱く、建物の影が長く伸びている。セミの声も、昼間ほどには勢いがない。
「じゃあな、ソラハ。今日は……助かった」
「僕こそ、イオリに助けられたんだよ。お互い様だね」
ソラハは手を振って、明るい声で答えた。
イオリがその背中を見送ると、ソラハは少しだけ立ち止まり、ゆっくりと歩き出す。
人通りの少なくなった道。
「.........」
空の色が、さらに落ちていく。
金色がくすみ、影が濃くなっていくように、ソラハの表情からも、明るさが消えていく。
自分の口元に、そっと手を当てた。
「……ごめんね」
独り言が、風に溶ける。
「イオリのファーストキス、僕が取っちゃった……」
胸の奥で、温かいものと重いものが同時に沈んでいく。
助けたはずなのに。
必要なことだったはずなのに。
葉箱ソラハが一番強く感じていたのは、あの瞬間の高揚感ではなかった。
「……まったく僕は……風紀委員のイオリに、だよ……」
必要な行為だった。
それでも、彼女の知らないところで、大切な境界を越えてしまった事実は消えない。
それは、拭えない罪悪感。
「……泥棒、だね」
風が通り抜ける。
夕暮れの空気は、昼の熱を失って、少しだけ肌寒い。
ソラハはその風に身を任せたまま、しばらく動かなかった。
「......いや、彼女風に言うなら、規則違反者か......」
青緑の髪が、夕方の風に軽く揺れる。
夏の一日が、静かに終わろうとしていた。
ソラハはもう一度だけ空を見てから、ゆっくりと歩き出す。
影が、足元に長く伸びていた。
☆
喫茶ヘルツのクジラ、地下の研究室
端末を操作する音が、静かに響いていた。
アロヨンは赤いフレームの眼鏡を少し上げ、画面に映し出されたプール施設の映像を凝視する。
先ほどソラハがオーパーツを届けに来たが、疲れていたのか、すぐに帰ってしまった。
(お疲れ様でした、今日はゆっくりとお休みください...)
彼女が回収してきたオーパーツを横に置きながら、現地に投入した小型ドローンと調査用ロボットからのデータをまとめていた。
「ふむ……これは」
流れるプールの管理端末に残された記録が、まず目に入る。
水流の速度が、一時的に通常の安全基準を超えて引き上げられていた痕跡。
次に、水深表示板。
複数の場所で、付け替えられた形跡が見つかった。
浅いと表示された場所が、実際にはわずかに深くなっている。
さらにミストゾーン。
視界が極端に悪くなるエリアに、小さな落とし穴が複数確認されている。
「視界不良の中で転倒させ、溺れさせる……それが狙い、でしょうね」
アロヨンは静かに呟いた。
どれもこれも、偶発的な故障や整備不良では説明がつかない。
明確な悪意を持った人間の仕業だった。
画面を切り替え、ソラハとイオリが戦闘したロボットの映像記録を再生する。
「マリンセーフティ・アシストロボ...」
中央で指示を出していた個体。
イオリの攻撃を知っていたかのように回避する動き。
「ふむふむ……」
アロヨンの指がキーボードの上で止まった。
一つの仮説が、はっきりと形を成していく。
「おそらく、このオーパーツの効力は『未来予測』。ロボットは、何者かが仕掛けた『プールで人々を溺れさせる計画』という未来を予測した結果、それを阻止しようとして暴走した……ということでしょうか」
チラリと、オーパーツが収められたケースへ視線を送る。
光を帯びた円盤が、静かにそこにあった。
「推定、未来予測のオーパーツ……作動の仕組みはまだ不明ですが、調査は慎重に進める必要がありますね」
アロヨンは立ち上がり、オーパーツをより厳重な封印ケースへと移し替えた。
金属の蓋が閉じる音が、研究室に小さく響く。
「まったく...どこの悪党かは分かりませんが、結果的に、ソラハさんはその流れに巻き込まれた、という事ですね」
眼鏡の奥で、水色の瞳が細められる。
「まあ、犯人を調べるのはゲヘナ学園の仕事ですね......情報提供だけして、任せましょう。...うーん、そもそも何故、オーパーツがロボットの中にあったのかが気になりますね...」
誰かが意図的に入れた?
そんな仮説が浮かび上がる。
アロヨンは静かに息を吐いた。
考えることが山積みだ。
だが、今は、遊びの日にも関わらず任務を全うしてくれた彼女に感謝するべきだろう。
「ソラハさんには、今度美味しいコーヒーとパンを出してあげましょう...そうしましょう」
そこで彼女の思考が一瞬止まった。
先ほどの戦闘映像を思い出す
ソラハがパラソルを機体の脚に突き刺した場面。
そこが勝負の分かれ目だった。
「何故、ロボットはこの攻撃を予測できなかったのでしょうか......」
考えを巡らせる。
「ソラハさんに、何か特殊な力があるとか...?いや、そもそもオーパーツの能力からして違うとか...?」
ぶつぶつと呟く。
答えは出そうになかった。
アロヨンは画面を閉じ、椅子に深く身を沈める。
「……まあ今は、お疲れ様でした、ソラハさん」
誰もいない研究室に、その言葉だけが小さく落ちた。
次に何を調べるべきか。
誰が、何のために、このオーパーツを仕込んだのか。
考えるべきことは、まだ山のように残っている
それでもアロヨンは、マグカップのコーヒーの香りを嗅ぎながら、ゆっくりと目を閉じた。
「まあ、そこも追い追いで...」
地下の研究室に、機械の低い駆動音だけが、規則正しく響き続けていた。
☆