親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
体育館の屋根の向こうには、底知れないほどの鮮やかな青空が広がっていた。開け放たれた扉からは、肌を抉るような、痛烈な寒風が吹き込む。予報通り、今日は今季一番の冷え込みらしい。そのせいか、体育館の中も、ただ立っているだけでは指先どころか全身が痺れてしまいそうなほどに冷え切っていた。かろうじて室内である分、外よりは幾分かマシだと自分に言い聞かせるが、それでも全身の筋肉が意思とは無関係に強張り、棒のように硬くなっていくのを感じる。
だが、この身体を縛り付けるような硬直は、寒さだけが原因ではない。体育館を満たす空気は、まるで薄氷のように張り詰め、ピリピリとした緊張感で満ちていた。ほんの少し力を込めて蹴り飛ばしさえすれば、この場に存在するあらゆるものが音を立てて崩れ去ってしまうのではないか、そんな錯覚さえ覚えるほどの、危うい静寂が支配している。
少年は、そのただならぬ空気に戸惑いを隠せないまま、恐る恐る視線をまっすぐに向けた。網膜に映し出されたのは、肩にかかる程度のセミロングヘアが特徴的な、絵に描いたような可愛らしい雰囲気の美少女だ。
「あの……先輩」
吐き出した声は、自分のものではないように掠れていた。
「うん。大丈夫…………きて」
後ろ髪を無造作に束ね終えた彼女は、常とはまるで違う表情をしていた。普段は雪のように白い彼女の頬は、微かに朱色に染まっていた。薄く開かれた唇からは、わずかに乱れた呼吸が漏れる。その瑞々しい吐息と、慎ましやかながらも確かな色気が滲み出る姿は、ムウッと息が詰まりそうなほどの、熱っぽい男の性欲を掻き立てるには十分すぎた。それもそのはず、目の前の彼女は、雑誌にも取り上げられ、他校にまでその名を轟かせるほどの美貌と、見る者を惹きつける卓越した運動神経を兼ね備えた、誰もが認める人気者。そして、その眩いばかりの輝きの裏には、周囲への細やかな気配りを忘れない、揺るぎない人格者としての顔も持ち合わせていた。そんな完璧な彼女からの、情熱的ともとれる誘いに、少年はごくりと唾を飲み込んだ。喉仏が不自然に上下する。
「い、いや、でも……」
全身の血が逆流するような焦燥感と、本能的な抗いがたい衝動が同時に押し寄せ、言葉がうまく紡げない。
「お願い。もう一度だけ」
懇願するような、しかしどこか芯の通った彼女の声に、少年は熱い石を胸に抱いたかのように、言い放ちたい衝動に駆られた。だが、まっすぐにこちらを見据えるその瞳は、獲物を前にした獰猛な獣のように鋭く、今にも飛びかかってきそうなほどの気迫に満ちていた。その強烈な視線に、少年は本能的に直視することを避け、ちらりと視線を横に逸らす。
「〜〜〜〜ッ」
そこにいたのは、彼と同じく、今にも飛びかかってきそうな形相でこちらを睨みつける親友の顔だった。その激情をはらんだ瞳は、まるで火花を散らしているかのようだ。少年はたまらず、両手でしっかりと抱え持っているオレンジ色のバスケットボールへと目を落とす。そして、深い溜息と共に、ゆっくりと天を仰いだ。
──なぜ、こうなったと。
物語は、ほんの少しだけ時間を遡る。
頬を刺すような冷気が、剥き出しの皮膚に容赦なく食い込む。朝の気温は氷点下。まだ夜の残滓を引きずる空には、数多の星が宝石のように瞬いていた。街灯の頼りない光がぼんやりと照らす路面を、田中龍太はただ静かに、一歩ずつ踏みしめていく。
空気が凍りつき、微細な氷の粒子となって肌にぶつかるような冷たさ。だが、その痛烈な冷気も、体が慣れるまでほんの数分だ。走り出せば、その冷たさは驚くほど早く意識の端へと追いやられていく。硬く踏み固められたアスファルトの感触を足裏に感じながら、龍太は軽快に歩道を駆け抜け、一定のリズムで呼吸を刻んだ。最初は「寒い」という感覚が思考を支配していたが、それは次第に薄れ、やがて彼の意識はただひたすら「走る」という行為そのものに集中していく。研ぎ澄まされていく感覚の中で、全身の細胞が覚醒していくのを感じた。
目的地の一軒家が視界に入った時、既にそこに人影があるのが見えた。龍太の接近を察知したのだろう、彼が大きく手を挙げる。それに応えるように、龍太もまた、無意識のうちに手を挙げ返していた。
「よぉ、大喜」
「おはよう、龍っ! 今朝も寒いな!」
少しの間、外で待っていたのだろうか、大喜の鼻先は寒さで赤くなっている。しかし、その表情は寒さとは裏腹に、朝日にも劣らぬ爽やかな笑顔だ。その屈託のない笑顔に、龍太もまた、自然と口元が緩むのを感じた。
猪股大喜。彼と龍太は、中学一年からの腐れ縁のような友人だ。互いの性格を知り尽くし、時にぶつかりながらも、その友情は揺るぎない。
「よしっ、今日こそ勝つぞー!」
意気揚々と、まるでスタートラインに立つスプリンターのように手首を振りながら、大喜は勢いよく立ちジャンプを繰り返す。その子供じみた行動に、龍太は苦笑を禁じ得なかった。
「まだ言ってんのかお前は」
「当たり前だろ! 龍に勝つまでやるからな」
その真っ直ぐな言葉に、龍太は短く「そうかい」と返した。吐き出す息は白く、まるで肺まで凍てつくようだ。それなのに、目の前の大喜から伝わる熱気のせいか、それともこの長年続けてきたルーティンがもたらす条件反射なのか、龍太の体にも少しずつスイッチが入ってくるのを感じた。軽く体をほぐし、いつものように大喜のラケットバッグを背負う。
「良いよ、自分で持つから」
「勝ったら返すよ」
「こ、このっ」
不満げな声を上げる大喜を無視して、龍太は指定のスタート位置についた。大喜もまた、文句を言いながらも隣に並ぶ。互いの息遣いが、冷たい空気の中で白く弾けた。
「今日はどっちからの掛け声にする?」
「じゃあ、大喜に任せる」
「わかった! よし」
大喜が胸いっぱいに息を吸い込み、声を張り上げる。
「よーい、どん!」
スタートの合図とともに、龍太の体が弾けるように動き出した。地面を蹴る感触が足裏に伝わるたび、筋肉が瞬時に収縮し、そして解き放たれる。最初の一歩、二歩で視界の端が大きくぶれた。自分がどれほどの速度で走っているのか、もはや客観的には分からない。ただ、風そのものになったような、突き抜けるような感覚だけがそこにあった。
「はやっ!」
大喜が何か言いかけた気がしたが、龍太は気にも留めずにゴールへと一直線に突っ走った。幸い、この早朝の時間帯は、人影も車の往来もほとんどない。全速力で走ったところで、危険は少ないと判断できる。難なく目的地である学校にたどり着き、龍太はゆっくりとジョギングに切り替えた。振り返っても、そこに大喜の姿はない。足音も聞こえてこないことから、今回の競争も自身の勝利を確信した。
「いつになったら体力つくのやら」
呟いても、悔しがる声が返ってくることはない。きっと、今頃彼は「くそー!」と叫びながら、その場にへたり込んでいるのだろう。そんな光景が容易に想像でき、龍太は思わずクスリと笑みを漏らした。
待つこと数分後。
「は、速すぎ……っ、だろっ、はぁ、はぁ」
ゼェゼェと荒い息を吐きながら、大喜がようやくたどり着き、その場に仰向けに倒れ込む。その情けない姿に、龍太は呆れたような顔になった。
「お前なぁ、もっと体力つけろよ? それじゃあこの前みたいに負けるぞ?」
「く、くそぉ〜」
心底悔しそうな顔をする大喜に、龍太はまた笑ってしまう。これが、まるで電気のスイッチを押せば部屋が明るくなるように、彼らにとってはあまりにも当たり前の日常だった。
そして、同時にそれは大喜にとって、待ち望んでいた朝でもあった。
何せ、この先、彼らが向かうあの箱には、大喜がひそかに抱く憧憬が存在しているのだ。きっと彼のことだから、憧れの人物に自ら話しかけるなどという高難度のコミュニケーションは期待できないだろう。それでも、その憧れと同じ空間に居続けるために、彼はこうして毎朝、こんなに早い時間から朝練に付き合っているのだ。
ただ、いい加減、何かアクションを起こしてほしい。それが龍太の切なる願いだった。このままでは、彼女は彼にとって、永遠に遠い存在でしかない。大人になった時に、誰にも語られることのない、切ない青春の一ページとして記憶されるだけになってしまうだろう。そんなことを、いつものように考えていた、その時だった。
──また今日も競争してるの?
背後からふわりとクリスタルグラスを打つような声が耳に届いた。えっと、思わず身体が石像のようになった。倒れ込んでいた大喜もまた、凍りついたように固まっていた。
まさか、と、恐る恐る背後を振り返れば、そこに立っていたのは……。
「ち、なつ……先輩」
「おはよう」
掠れた声で呟かれた大喜の声に反応した彼女は、男の心を優しく包み込むような、そんな柔らかな微笑みを返した。
──そう。
この時、確かに、ほんの少しずつではあるが、何かが動き出し始めていた。
それが良い意味なのか、それとも悪い意味で物語を動かすことになるのか、この時の龍太には、まだ知る由もなかった。
どうにも、体育館の傍でぜいぜいと息を切らし仰向けに倒れ込む男と、それを見下ろすもう一人の男という構図は、通りすがりの人間の興味をそそるらしかった。彼女が声をかけてくれたのは、純粋な好奇心からだったのだろう。しかし、まさか彼女の方から直接話しかけてくるとは、龍太も大喜も想像すらしていなかった。何せ、今まで一度たりとも、彼女が彼らに意識を向けているような素振りを見せたことはなかったからだ。
まさに降って湧いたような幸運。だが、現実は残酷だ。体育館に響くのは、シャトルとバスケットボールが飛び交う、乾いた音ばかり。大喜は、相変わらずちらちらと彼女の様子を盗み見ては、何か話しかけたそうに口をもごもごさせている。しかし、彼女の視線は常に、あの鮮やかなオレンジ色のボールに吸い寄せられているかのようだった。
かれこれ30分ほど、このもどかしい光景を眺めている身としては、龍太はひどくじれったい気持ちに苛まれていた。だが、これまでと決定的に違うのは、会話のきっかけが生まれたこと。あとは、大喜がその臆病な殻を破り、勇気を振り絞るだけだ。まさか、大喜の根深い負けず嫌いが、こんなところで役に立つとは。スポット暖房の温かさに身を委ねながら、龍太はほんの少しだけ誇らしい気分になっていた、その時だった。
「ねぇ、ワン・オン・ワン、やらない?」
クリスタルグラスを打つような澄んだ声が、唐突に耳に届いた。大喜は「へっ!?」と間の抜けた声を上げ、龍太も「うぉっ!?」と奇妙な呻きを漏らす。なぜか大喜以上に驚きを露わにした龍太に、千夏はきょとんと小首を傾げる。その仕草さえも絵になるな、などと場違いな感想を抱きながら、龍太は「い、いえ、何でもないです」と慌てて座り直した。顔が熱くなるのを感じた。
「どうかな?」
千夏は、龍太から大喜へと視線を滑らせ、再び問いかける。大喜は顔を真っ赤に染めながら、小さく、しかし力強く頷いた。
こうして始まった2人のワン・オン・ワン。
合図と共に、千夏は軽やかに走り出す。その動作は、まるで水面を滑るかのようだ。にもかかわらず、ドリブルの音は体育館に鋭く響き渡る。バスケットボールは彼女の意のままに、まるで体の一部であるかのように滑らかに動き、大喜を鮮やかにかわして空中で完璧な弧を描いた。ネットをかすめる乾いた音と共に、ボールは吸い込まれるようにゴールに収まる。
次は大喜の番だったが、ボールはあっけなく彼女に奪われた。そうやって何度かシュートを決められ、龍太は思わず額を抑えた。
「はぁ、はぁ、ゴホッ」
大喜の敗北は、当然と言えば当然だ。相手はバスケットボール部のエース、それも県内トップクラスの実力者。自分たちとは競技の土俵が違う。だが、それにしても、せめて一矢報いてほしかった。
千夏はといえば、疲れた様子も見せず、涼しい顔でボールを手にしている。その姿は、やはり彼女が別格であることを、嫌というほど実感させた。そんな時、不意に千夏の視線が龍太に向けられた。
「田中龍太くん」
何故かフルネームで名前を呼ばれた瞬間、龍太は硬直した。心臓が不規則に脈打つ。
「君も一緒にやらない?」
「は?」
突すぎる誘いに、驚きすぎて顎が外れるかと思った。まさか、自分にまで話が飛んでくるとは。そんな龍太の様子を見た彼女は、しばらくして、くすくすと上品に笑った。
「面白い顔してる」
「失礼な!」
即座に返すと、千夏は「ごめんごめん」と笑いながら再び尋ねてきた。
「それで、どうする?」
龍太は少し悩んだ。しかし、ふと横目で大喜の情けない姿を捉え、ある決意を固める。
「わかりました」
「準備運動とかは?」
「さっきのランニングでバッチリです」
立ち上がった龍太は、千夏と対峙するように向かい合う。投げられたボールをキャッチする。その小さな粒状の凹凸は、どこか懐かしい感触だった。ボールを床に叩きつけると、手のひらに「ボンッ」と響くような衝撃が伝わる。そのリズムに乗ると、その感触が心地よく感じられ、ボールが手に吸い付くような感覚が生まれる。
「慣れてるね」
「昔遊びで少しだけやってた程度です」
「じゃあ、遠慮なくできそうだね」
「いや、そこは遠慮してくださいよ」
「いつでも良いよ」
「聞いてねぇ……」
「さぁ来い」と、千夏はぐっと姿勢を低く構え、臨戦態勢を整える。
先ほどの柔らかい雰囲気が一変し、そこには生真面目な、一点の曇りもない勝負師の顔があった。
本気だ。
彼女の網膜はまっすぐ龍太の動きを捉えようとしている。どんな相手にも手を抜かない。その揺るぎない精神は、確かに大喜と似通ったものがある。二人、実はお似合いなんじゃないだろうか。そう思った。負けず嫌いなところと、何事にも真っ直ぐなところが。だからこそ、ここはそれを利用させてもらおう。
「先輩。せっかくの勝負ですし、賭けませんか?」
不意に切り出した龍太の言葉に、千夏が目を丸くする。
「賭け?」
「この勝負に勝ったら、大喜と連絡先交換してください」
「はいっ!?」
「えっ? き、君のじゃなくて?」
「…………」
仕掛けた龍太自身が、その交渉材料に自分が入っていないのは、確かに奇妙だ。本人もその自覚はあったようで、思わず黙り込んでしまう。
「……もし私が勝ったら?」
「…………今考えます」
「考えてなかったのっ!?」
「考えてなかったんだ……」
2人の心底呆れたような、しかしどこか残念そうな視線が、龍太の心に突き刺さる。ものすごく眉間にシワを寄せながら考えるが、何も思い浮かばない。しかし、この沈黙は痛い。龍太は咄嗟に言葉にした。投げやりになった、と言っても差し支えないだろう。
「…………じゃあ、アイス一週間分奢ります」
思わず大喜がズッコケそうになる。
「いやいや、流石にそれで千夏先輩が──」
「あ、アイス一週間……」
それを聞いた彼女は、「平日分のおやつ……」とブツブツ呟いている。
あれ、意外と効いてる?
懐に特大なダメージを負いそうだが、追加攻撃してみよう。
「パンケーキとかケーキとかも諸々追加しますよ? あ、なんだったら駅前の有名なケーキをホールで──」
「──うん、わかった」
「「──えっ」」
さっきより食い気味の返事に、思わず2人してキョトンとしてしまう。
じーっと後輩2人に見つめられた千夏は、次第に自分の発言に顔を赤くし、手をあたふたとしていた。
「あっ、えっと、違うよ? 別に食い意地が張ってるってわけじゃなくて……!」
「「…………」」
余りにも必死で伝えようとしてくる彼女に、龍太と大喜は目を合わせる。そして、思わず吹き出してしまった。
そんな彼女は決まりが悪そうに顔をぱっと赤らめる。終いにはバスケットボールで顔を隠した。
「…………最近、食べてなかったから」
特に事情を深掘りしたわけではないが、そんな自白が返ってくる。彼女の練習熱心な様子からして、おそらく食事制限でもしていたのだろう。ひとしきり笑った後、龍太は彼女に『先輩の好きなものをたらふく奢る』という、自らの懐を深く傷つけるような条件を呑んでもらうことになった。
「じゃあ、その条件でやりましょうか」
「うん。因みに、2人と連絡先を交換するってことで良いよね?」
「はい、それでだいじょ──ん? はい? なんだって?」
2人?
大喜と、だれ……?
「……ふふっ、また面白い顔してるよ?」
「い、いや、コレはあまりにも衝撃的で……えっ、まさか俺のも?」
「じゃないと、好きなタイミングで奢ってもらえないからね」
「……なるほど」
なんだろう、今挑発された?
その瞬間に龍太はスッと表情が引き締まった。
そんな雰囲気を感じたのか、彼女また生真面目な顔に戻る。勝負師の顔にお互いが様変わりした。
わかる。
こうして対峙した事で、彼女がコレまでに培ってきた経験や血の滲むような努力がわかる。
雰囲気がそう伝えている。
そんな彼女に触発されたのか、皮膚の表面がチリチリと粟立つように意欲が湧いてきた。
もはや勝ち目なんてゼロに等しくても、この人に──勝ってやる。
深い海に潜るダイバーのように深呼吸をした。ひとつの部屋から別の部屋に移っていくように頭を切り替える。勝負は恐らく──一瞬で決まるだろう。
視線を上げた。リングが遠くに見える。視線の先にあるそれは、手の届かない目標のように高く輝いている。それでも、いけると確信があった。
「じゃあ、行きますよ」
目の前に立ちはだかる彼女だけが、龍太の視界に残る。ボールを右手に持ち、軽くドリブルをついた。その規則的な響きが、心臓の鼓動に重なる。次の動きを予測しようとする相手の目を見て、龍太は確信した。
──抜ける。
「よーい」
どん。
まるで陸上競技のような、乾いた合図。息を吸い込み、一歩目を踏み出す。それは、まるで地面を裂くような、爆発的な一撃だった。
「────え」
千夏の驚きの声が聞こえた気がしたが、一瞬で彼女を置き去りにし、誰もいないその空間に、一気にゴールまで距離を詰める。そのまま流れるような動作でレイアップシュートを決めた。
ネットを揺らす音と共に、ボン、ボンとボールの弾む音だけが響き渡る。バスケットボールは確かに瞬発力も必要なスポーツだろう。だが、陸上、特に短距離走のランナーもまた、些細な出遅れが致命的な差を生むスポーツだ。その一瞬の風を競う競技に人生をかけてきたからこそ、この土俵においては、龍太に有利に働いたのかもしれない。
「とりあえず、勝った」
ホッと一息つき、龍太は親友に今日の成果を称えてもらおうと視線を向けた。しかし、大喜は何故か一点を見つめたまま固まっていた。いや、青ざめていた、という表現の方が正しいだろうか。不穏な何かを感じ、龍太は千夏の方へと視線を移した──。
「せ、先輩……?」
視界の先に立っていた彼女は、大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていたのだ。自分が勝ってしまったことで、何か彼女のプライドを深く傷つけたのだろうか? それとも単に、悔しいだけ? いや、それにしても、泣くほどのことだろうか?
俯いてしまった彼女に、どう声をかけて良いのか分からなかった。勝負に乗った時点で、勝敗は必ず生じる。謝るのも違う。それはきっと、相手を惨めにしてしまうから。だが、流石に女の子を泣かせたまま、というわけにもいかなかった。龍太は思わず、衝動的に声をかけた。
「あ、あの……「……っかい」 えっ?」
俯いた彼女が言葉を被せながら何かを伝えていた。思わず聞き返すと、意を決したように涙を拭って顔を上げる。美しい顔に似合わず泣きじゃくった子供のような表情で。
「もう一回!」
「えぇ……」
どうやら、とんでもなく面倒な導火線に火をつけてしまったらしい。
そして、現在に至るのだが、体育館の空気には、どこか試合後の独特な緊張感と、全身から絞り出されたような倦怠感が入り混じっていた。膠着状態が続くワン・オン・ワンの終盤、龍太は汗ばむ手でボールを握りしめながら、自分が仕掛けたこの状況を心底から後悔していた。まさか、ここまで意地になるほど、彼女が「もう一度」を要求してくるとは思わなかったのだ。
だが、それを直接彼女に言うことはできなかった。彼女の瞳の奥に宿る、強い光の圧力に、言葉を発することができなかった。彼女の眼は、もはや龍太自身を見ているのではなく、何か別の、もっと根源的なものを見据えているかのようだった。何かを切り捨てようとしているような、そんな研ぎ澄まされた眼差し。それは、もしかしたら彼女自身の弱さか、あるいは、過去の自分か……。
いずれにしても、こうなっては、決着がつくまで彼女が自ら限界を迎えることは恐らくないだろう。どんなに追い詰められようとも、最後まで食らいついてくる。その意思の強さが、ひしひしと伝わってきた。
──あれ、ナツ何してんの?
──なーんか、あの子と勝負してるらしいよ
──あの子ってアレだよね、例の中等生の
この体育館に、三人の息遣い以外の音が混ざり始める。どうやら、かなりの時間を費やしてしまっていたらしい。気づけば、次々と体育館に人が現れ始め、この予期せぬ騒動を眺める観客と化していた。彼らの好奇の視線が突き刺さる。流石に、彼女たちの練習の邪魔になってしまっては申し訳ない。
龍太は観念したように、ようやく口を開いた。
「次で勝っても負けても終わりにしませんか?」
龍太の提案に、千夏はコクリと頷いた。ようやく状況を理解してくれたのだろう。ふう、と、ドクドクと不規則に脈打つ心臓を落ち着かせるために、龍太は何度も深呼吸を繰り返す。深呼吸をすることで、体中の疲労を無理やり押し殺す。爆発的なスピードがもう出せないことは分かっている。それでも、この状況を打開し、勝利を掴み取るための策は、まだ残っていた。
観客が徐々に集まり、視線が交錯する中、龍太と千夏は再び向き合った。千夏の瞳が鋭さを増し、その視線が鋭利な刃のように龍太を貫く。龍太もまた、意識を極限まで集中させる。ボールを強く床に叩きつける音が体育館に響き渡り、その反響が全体に広がった。
「いきますよ……!」
その声が合図となり、勝負が始まった。
彼女も散々わかっているはずだ。
スピードでしか勝負できない龍太を。だからこそ、今度もそれで勝たせてもらう。
ぐっと脚に力を入れて、渾身の力で蹴った。
ドリブルしながらというのはどうもスピードを鈍らせる。それでも彼女を抜くには十分だったはず。
──速いっ
──でもナツも追いついてるよっ
観客席から聞こえるざわめきが、龍太の耳にも届く。だが、彼は構わず右に行くと見せかけ、左へ素早く切り返した──が、やはり千夏は驚くほど早く反応し、龍太の動きに食らいついてくる。
なら──ドリブルのリズムを変え、次の瞬間が勝負。
龍太は低く構え、ドリブルのスピードを一気に緩めた。彼女がほんの一瞬、動きを止めたそのタイミングを、龍太は見逃さなかった。ボールを千夏の股の間に通す──股抜きだ。
「──っ」
千夏が息を呑むような音が聞こえた気がしたが、龍太に振り返る余裕はない。目の前に広がる、待ち望んだ景色と共に跳躍した。地面を蹴る感覚が、骨の髄まで響き渡る。足の筋肉が弾けるように動き、龍太の体が軽々と空中に放り出された。視界が一気に広がり、コート全体が足元に沈んでいく感覚。時間が一瞬止まったように感じられた。
ゴールはもう目の前だ。
最後の一撃を放つように、龍太は右手を振り下ろす。手のひらとボールがリングの内側を叩きつける瞬間、指先の感覚が弾けた。ガン、という乾いた音と共にリングが大きく揺れる。その余韻が、龍太の腕を通して体中に心地よく伝わる。そのままゴール下に着地した。
とりあえず勝負には勝った。
だが、心の片隅に一抹の不安が宿りながら振り返ると、そこに立っていた彼女は泣いているわけではなかった。龍太は少しホッとしたのと同時に、千夏の表情に驚いた。きっと悔しいはずなのに、その表情には、少し嬉しいような、懐かしいような、何とも言い難い、様々な感情がブレンドされたような微笑みが浮かんでいたのだ。
「私の負けだね」
その一言には、潔さと、それでも滲み出る悔しさが混じり合っていた。彼女が素直に負けを認める姿に、龍太はただ感嘆するばかりだった。
「その、ごめんね。ムキになっちゃって」
「…………食い意地?」
「ち、違うよ…………!」
「違うって言う割にはムキになってましたよねぇ。そんなに食べたかったんですか? 例のパンケーキ」
「そ、それは……うぅ〜」
千夏は両手で顔を覆ってしまった。そうやって子供のように拗ねる姿は、彼女の持つ完璧なイメージとのギャップも相まって、抗いがたい魅力を放っていた。なるほど、これが彼女が皆から好かれる所以なのだろう。本人が全くの無自覚なのが、またたちが悪い。これでは大喜のライバルは、龍太が想像する以上に多いのかもしれない。
「取り敢えず、邪魔者は撤退しますね」
「あっ、ちょっと待って」
そう言うとコチラの返事を待たずに、ダッシュで何処かに走り去ってしまった。先輩の意図がわからず置き去りにされたまま数分後。
息を切らしながら彼女が戻ってきた。
「はい。これ」
そう言って彼女は自分のスマートフォンを差し出してきた。ますます意味が分からず首を傾げると、
「私の連絡先。勝負の件、忘れちゃった?」
「…………い、いえ、覚えてましたよ?」
「ふーん。私は覚えてたのに?」
「あ、いや……すんません」
や、やべぇ、完全に目的を忘れていた。地球のように真っ青な顔で頭を下げると、クスクスッと笑う声が鼓膜に届いた。
「冗談だよ。交換しよう?」
「わ、わかりました。…………えっと、すみません。友達追加のやり方教えてもらっても良いですか?」
「えっ」
「えっ」
大きな瞳を見開いて驚きを露わにする彼女は、次第に口元を携帯で隠した。口角が上がっていることは隠しきれていないが。
「もしかして、過去から来たの?」
「…………別にいいでしょ。本当に知らないんです」
「フフッ、そっか。じゃあ、携帯貸してもらっても良い? もし見られて嫌なものがあったらアレだけど」
「いえ、まったく問題ないです」
「すごい自信」
携帯の履歴を消す行為だけは入念にいつも行っているから問題ないはず。
慣れた手つきで龍太のスマホを操作する彼女の指先を、なぜか目で追ってしまっていた。
「はい。これで連絡取れると思うよ」
「すみません。ありがとうございます」
「じゃあ、折角だし試しに」
彼女がか細い指で自分の携帯をスクロールし、何やらまたタップとスクロールを繰り返す。その数秒後に、ピコリと自分のスマートフォンが鳴った。
音につられてみれば、画面に表示されたのは彼女の名前とスタンプ。それはこれまでの戦いの報酬のように感じさせた。
「ありがとうございます!」
(よしよし、これでとりあえず大喜とより接点が生まれるはずだ!)
胸のつかえが下がった気がする。
これで、変わらない日常に何か変化が訪れる。もどかしさとはオサラバだ。
「ところで、何で大喜くんと交換するって条件にしたの?」
「えっ?」
純粋な彼女の疑問に、ギクッと龍太の肩が跳ねた。
「龍太くんじゃなくて彼を選んだのは何でなのかなーって気になって。事前に話してた訳ではなさそうだったし」
「そ、それは……ほら、アレですよ。朝練よく一緒なんで3人で仲良くなれたらなと」
「ホントかなぁ?」
「ホントですよ。男に二言はありません」
苦しまぎれの嘘を真顔で言い切ると、彼女は何がそんなにおかしいのか、声を立てて笑い出した。その屈託のない笑顔に、龍太は何が面白いのかさっぱり分からなかった。
「じゃあその朝練仲間と言うことで、改めてヨロシクね──田中龍太くん」
ひとしきり笑った後、彼女はそう言って悪戯っぽく微笑んだ。
ん?
やっぱりそうだ。
「あれ、先輩。なんで俺の名前知って──」
ずっと胸の内にあった疑問。
なぜ、彼女は自分の名前を知っていたのか。
その答えを聞き出そうとした瞬間、背後から突き刺すような、猛烈なプレッシャーを感じて言葉が途切れた。ぞくりと、足元から悪寒が這い上がってくる。
お化けでも見るかのように、恐る恐る振り返れば、そこには燃え盛る炎のような、激しい怒りを湛えた先輩方の姿があった。
彼らはもはや、嫉妬という感情を隠そうともしていない。
その集団の中に、見知った顔が二つ。
目が合った瞬間、さっと逸らされた。
その瞬間、龍太はすべてを悟った。
恐らく、自分はここで死ぬのだろう、と。
この勝負で勝ち取った代償は、龍太の想像を遥かに超えて大きかったらしい。
ならば、と彼は断腸の思いで、一つの決断を下した。
「これはその…………羨ましい?」
「「「何してんじゃテメェぇえええ──!!」」」
──グッバイ、俺の人生。
「今日からお世話になります。鹿野千夏です。よろしくね、龍太くん」
「…………ふぅ」
「あ、あれ、龍太くん!?」