親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
体育館の屋根の向こうに、抜けるような青が広がっていた。
開け放たれた扉から、肌を削ぐ寒風が遠慮なく吹き込んでくる。予報では今季一番の冷え込みだという。なるほど、室内とは名ばかりで、立っているだけで指先の感覚が薄れていく。それでも外よりはマシだと、龍太は自分に言い聞かせた。言い聞かせたところで、筋肉が意思を裏切って強張っていくのは止められない。
もっとも、この硬直は寒さだけのせいではなかった。
空気が、張り詰めていた。
薄い氷を一枚、床の上に敷いたような緊張。爪先で軽く小突けば、この場のすべてが甲高い音を立てて割れてしまう──そんな錯覚すら覚える静けさが、体育館を支配している。
少年は戸惑いを呑み込みきれないまま、視線をまっすぐ前に向けた。そこにいたのは、肩にかかるセミロングの絵に描いたような可憐な少女だ。
「あの……先輩」
吐き出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
「うん。大丈夫……来て」
後ろ髪を無造作に束ね終えた彼女は、いつもの様子ではなかった。雪を思わせる白い頬に、わずかな朱が差している。薄く開いた唇から、乱れた呼吸が漏れた。瑞々しい吐息と、本人は気づいてもいないであろう色香。それは、健全な男子高校生の理性を試すには十分すぎた。
無理もない。
目の前の彼女は、雑誌に載り、他校にまで名の知れた美貌の持ち主。卓越した運動神経に加え、周囲への気配りを欠かさない人格者でもある。非の打ちどころがない。そんな相手からの、半ば情熱的とも取れる求めを前にして、龍太は喉を鳴らした。
「い、いや、でも……」
血が逆流するような焦りと、本能的な抗いとが同時に押し寄せ、言葉が形にならない。
「お願い。もう一度だけ」
懇願のようで、芯の通った声だった。胸の奥で何かが熱く灼ける。だが、こちらを射抜く瞳は、獲物を見据える獣のそれに近い。今にも飛びかかってきそうな気迫に押され、龍太は思わず視線を横へ逃がした。
逃がした先に、もう一つの修羅があった。
自分と同じ表情で——いや、それ以上の剣幕でこちらを睨みつける、親友の顔。瞳の奥で火花が散っている。
龍太はたまらず、両手に抱えたオレンジ色のボールへ目を落とした。そして、深い溜息とともに、ゆっくりと天井を仰ぐ。
——なぜ、こうなった。
物語は、ほんの少しだけ時を遡る。
頬を刺す冷気が、剥き出しの皮膚に容赦なく食い込んでくる。氷点下の朝。夜の名残を引きずる空には、星がまだ宝石のように散らばっていた。心許ない街灯の下、田中龍太は一歩ずつ、路面を踏みしめていく。
凍てついた空気が、細かな粒となって肌にぶつかる。痛いほどの冷たさも、しかし数分の辛抱だ。走り出してしまえば、寒さなど意識の隅へ押しやられる。固く締まったアスファルトの感触を足裏に拾いながら、龍太は歩道を駆け、呼吸のリズムを刻んだ。はじめは「寒い」という一語が思考を埋めていた。それがやがて薄れ、ただ「走る」という行為だけが残る。全身の細胞が、ひとつずつ目を覚ましていく。
目的の一軒家が見えたとき、すでにそこには人影があった。龍太に気づいたのだろう、大きく手が挙がる。応えるように、龍太の手も無意識に上がっていた。
「よぉ、大喜」
「おはよう、龍っ! 今朝も冷えるなあ」
しばらく外で待っていたらしく、猪股大喜の鼻先は赤く色づいている。それでいて表情は、朝日に負けないほど晴れやかだ。屈託のないその笑みを見ると、龍太の口元も自然とゆるんだ。
大喜とは中学一年からの腐れ縁である。互いの性格を知り尽くし、ぶつかっては笑い、それでも壊れない。そういう関係だ。
「よし、今日こそ勝つぞー!」
スタートラインのスプリンターさながら、大喜は手首を振り、その場で跳ね回る。子供じみたその姿に、龍太は苦笑をこらえきれない。
「まだ言ってんのか、お前は」
「当たり前だろ! 龍に勝つまでやめねえからな」
まっすぐな宣言に、龍太は「そうかい」とだけ返した。吐く息が白い。肺の奥まで凍りつきそうだ。それなのに、大喜の熱気のせいか、何年も続けてきた習慣のなせる業か、龍太の体にも徐々に火が入っていく。軽く体をほぐし、いつものように大喜のラケットバッグを肩に担ぎ上げた。
「いいよ、自分で持つって」
「勝ったら返す」
「こ、このっ……!」
不満げな声を背に、龍太はスタート位置についた。文句を垂れながらも、大喜が隣に並ぶ。二人の息が、冷たい空気の中で白く弾けた。
「掛け声、今日はどっちが?」
「じゃ、大喜に任せる」
「おう、よっしゃ」
大喜が胸いっぱいに息を吸い、声を張った。
「よーい、どんっ!」
合図と同時に、龍太の体が弾けた。地を蹴るたび、筋肉が一瞬で縮み、解き放たれる。二歩目で視界の端がぶれた。自分がどれほどの速度で動いているのか、もはや客観的な物差しは効かない。ただ、風そのものになったような、突き抜ける感覚だけがあった。
「はやっ!」
背後で大喜が何か叫んだ気がしたが、構わずゴールまで一直線に突っ込む。幸い早朝のこの時間、人影も車もまばらだ。全力で駆けても危険は少ない。学校にたどり着くと、龍太は呼吸を整えながらジョグに切り替えた。振り返っても、大喜はいない。足音すら聞こえてこない。今回も勝ったと、確信する。
「いつになったら体力つくんだか」
呟いても、悔し紛れの罵声は返ってこない。今ごろ路上で「くそー!」と叫びながら、大の字になっているに違いない。その光景がありありと浮かんで、龍太はつい笑ってしまった。
待つこと数分。
「は、速すぎ……っ、だろっ、はぁ、はぁ」
肩で息をしながら現れた大喜が、その場に仰向けで倒れ込む。あまりに情けない様子に、龍太は呆れ顔になった。
「お前なあ、もう少し鍛えろよ。この前みたいに、いつか負けるぞ」
「く、くそぉ」
心底悔しそうな顔。それがまた可笑しくて、龍太はもう一度笑う。スイッチを押せば部屋が明るくなる——それくらい当たり前の、二人の日常だった。
そして今朝は、大喜にとって、待ちわびた朝でもあった。
この先、二人が向かうあの建物には、大喜がひそかに想いを寄せる相手がいる。とはいえ、自分から話しかけるなどという離れ業は、彼の性分では期待できそうにない。それでも同じ空間にいたいがために、こうして毎朝、馬鹿げた時間から朝練に付き合っているのだ。
いい加減、何か動いてほしい。
それが龍太の本音だった。このままでは彼女は、永遠に手の届かない存在で終わる。
大人になったときに、誰に語ることもない、ほろ苦い青春の一ページとして仕舞い込まれるだけだ。
——そんなことを、いつものように考えていた、まさにそのときだった。
『——また今日も競争してるの?』
背後から、澄んだ声がふわりと届いた。
え、と全身が石になる。倒れていた大喜も、凍りついたように固まった。
まさか。恐る恐る振り返れば、そこに立っていたのは——。
「ち、なつ……先輩」
「おはよう」
掠れた大喜の呼びかけに、彼女は柔らかく微笑んだ。男の心臓をやんわり握り潰すような、そんな笑みだった。
それが幸運の前触れなのか、面倒事の幕開けなのか。
このときの龍太には、まだ知る由もない。
体育館のそばで息を切らして倒れる男と、それを見下ろすもう一人。なるほど、通りすがりの好奇心をくすぐる構図ではあったらしい。彼女が声をかけてきたのは、たぶんそれだけの理由だ。だとしても、向こうから話しかけてくるとは、龍太も大喜も思っていなかった。これまで一度として、彼女が二人を視界に入れている素振りはなかったのだから。
降って湧いた幸運。
とはいえ現実は、そう甘くない。
体育館に響くのは、シャトルとボールが床を叩く乾いた音ばかり。大喜は相変わらず、彼女をちらちら盗み見ては、口をもごもごさせている。話しかけたいのが見え見えだ。だが彼女の視線は、もっぱらオレンジ色のボールに吸い寄せられたまま。
かれこれ三十分、このじれったい寸劇を眺めてきた龍太は、いい加減もどかしさに焼かれていた。それでも今日は違う。会話の糸口が生まれたのだ。あとは大喜が臆病な殻を破り、一歩踏み出すだけ。まさか、あの根深い負けず嫌いがこんなところで役に立つとは。スポット暖房の熱に身を寄せながら、龍太はほんの少し誇らしくなっていた——その矢先だった。
「ねえ、ワン・オン・ワン、やらない?」
澄んだ声が、唐突に降ってきた。大喜が「へっ!?」と間の抜けた声を上げる。なぜか龍太のほうが「うぉっ!?」と妙な呻きを漏らした。当人以上に驚く龍太に、千夏はきょとんと首を傾げる。その仕草さえ様になるな、と場違いな感想を抱きつつ、龍太は「い、いえ、なんでも」と慌てて座り直した。
顔が火照るのを感じる。
「どうかな?」
千夏が、龍太から大喜へと視線を移す。大喜は耳まで赤くしながら、それでも小さく、しっかりと頷いた。
こうして、二人のワン・オン・ワンが始まった。
合図とともに、千夏が走り出す。水面を滑るような、と言いたくなる滑らかさ。それでいてドリブルの音だけは、鋭く床を打つ。ボールは彼女の手の一部であるかのように動き、大喜をあっさり置き去りにして、宙で美しい弧を描いた。ネットを掠める乾いた音。吸い込まれるように、得点。
次は大喜の番だった。が、ボールはあっけなく奪われる。何度かそれを繰り返され、龍太は思わず額を押さえた。
「はぁ、はぁ、ゴホッ」
敗北は、まあ、当然と言えば当然だ。相手はバスケ部のエース、それも県内屈指の実力者。そもそも土俵が違う。それにしても、せめて一矢くらい報いてほしかったが。
千夏はといえば、汗の一つもかいた様子がない。涼しい顔でボールを手にしている。やはり別格だ、と嫌でも思い知らされる。と、その視線がふいに龍太へ向いた。
「田中龍太くん」
フルネームを呼ばれた瞬間、龍太は硬直した。心臓が一拍、不規則に跳ねる。
「君も、一緒にやらない?」
「は?」
唐突すぎて、顎が外れるかと思った。まさか自分にまで話が飛んでくるとは。そんな龍太を見て、千夏はやがて、くすくすと品よく笑った。
「面白い顔」
「失礼な」
即座に返すと、「ごめんごめん」と笑いながら、彼女はもう一度尋ねてくる。
「それで、どうかな?」
少し迷った。が、横目に大喜の情けない姿を捉えた瞬間、ある決意が固まる。
「わかりました」
「準備運動は?」
「さっきのランニングで済んでます」
立ち上がった龍太は、千夏と向き合った。投げられたボールを受け止める。表面の細かな凹凸が、妙に懐かしい。床に叩きつけると、手のひらに芯のある衝撃が返ってくる。リズムに乗ると、ボールが手に吸いつくような感覚がよみがえった。
「慣れてるね」
「昔、遊びで少し」
「じゃあ、遠慮なくいけそうだ」
「いや、そこは遠慮してくださいよ」
「いつでもどうぞ」
「聞いちゃいねぇ……」
「さあ来い」と、千夏が腰を落とし、構える。
先ほどまでの柔らかさが嘘のように消えていた。そこにあったのは、一点の曇りもない勝負師の顔。
——本気だ。
彼女の瞳が、龍太の動きを一切逃すまいと張りついてくる。どんな相手にも手を抜かない。
その芯の強さは、確かに大喜と通じるものがある。……二人、案外お似合いなんじゃないか。負けず嫌いで、馬鹿正直なところがそっくりだ。だったら、その性分を利用させてもらおう。
「先輩。せっかくの勝負だし、賭けません?」
ふいの一言に、千夏が目を丸くする。
「賭け?」
「俺が勝ったら、大喜と連絡先を交換してください」
「はいっ!?」
「えっ。き、君のじゃなくて?」
「…………」
仕掛けた本人が、その取引から自分を外している。確かに妙な話だ。自覚はあったのか、龍太は思わず口をつぐんだ。
「……もし私が勝ったら?」
「…………今、考えます」
「考えてなかったの!?」
「考えてなかったんだ……」
二人分の、呆れと、なぜか少し残念そうな視線が突き刺さる。眉間に深い皺を刻んでみても、何も浮かばない。だが、この沈黙が一番こたえる。半ば投げやりに、龍太は口を開いた。
「…………じゃあ、アイス一週間分、奢ります」
大喜がずっこけそうになる。
「いやいや、さすがにそれで千夏先輩が——」
「ア、アイス一週間……」
ところが当の彼女は、「平日分のおやつ……」と何やらぶつぶつ呟いている。
——あれ。意外と効いてる?
懐が大いに痛む予感はするが、ここは追い打ちといこう。
「パンケーキでもケーキでも、なんなら追加しますよ。駅前の有名店のやつ、ホールで——」
「——うん、わかった」
「「——えっ」」
さっきより食い気味の即答に、二人そろって固まった。後輩二人にまじまじと見つめられ、千夏はみるみる赤くなって、手をあたふたさせる。
「あっ、ち、違うよ? 別に食い意地が張ってるとかじゃなくて……!」
「「…………」」
必死すぎる弁明に、龍太と大喜は顔を見合わせ——こらえきれずに吹き出した。彼女はばつが悪そうに、ぱっと頬を染め、ついにはボールで顔を隠してしまう。
「…………最近、控えてたから」
問い詰めたわけでもないのに、そんな自白が漏れてくる。あれほど練習に打ち込む人だ。食事制限の一つもしていたのだろう。ひとしきり笑い終えると、龍太は『先輩の好物を好きなだけ奢る』という、自分の財布を深々と抉る条件を呑むことになった。
「じゃ、その条件でやりましょうか」
「うん。ちなみに、二人と交換ってことでいいよね?」
「はい、それで大丈——ん? はい? なんですって?」
二人?
大喜と、誰……?
「……ふふ、また面白い顔」
「い、いや、これはあまりに想定外で……えっ、まさか俺のも?」
「じゃないと、好きなときに奢ってもらえないでしょ?」
「……なるほど」
なんだろう、今、挑発されたか?
その瞬間、龍太の表情が引き締まった。空気を察したのか、千夏もまた、勝負師の顔に戻る。二人の輪郭が、同時に切り替わった。
——わかる。
向き合っただけで伝わってくる。
彼女がこれまで積み上げてきた時間。血の滲むような反復。雰囲気が、それを語っている。釣られるように、龍太の皮膚の表面が、ちりちりと粟立った。
勝ち目は限りなくゼロに近い。
それでも——この人に、勝ってやる。
深海へ潜るダイバーのように、息を吸い込む。一つの部屋から別の部屋へ移るように、頭を切り替えた。勝負は、おそらく一瞬で決まる。
視線を上げる。リングが、遠い。手の届かないものに見えるほど高く、白く光っていた。
いける。
確信があった。
「じゃあ、行きますよ」
立ちはだかる彼女だけが、視界に残る。ボールを右手で軽く突いた。一定の響きが、心臓の鼓動に重なっていく。次の一手を読もうとする相手の目を見て、龍太は悟った。
「よーい」
どん。
陸上競技めいた、乾いた合図。息を吸い、一歩目を踏み込む。地面を裂くような、爆発的な踏み出しだった。
「———え」
千夏の声が遠くで聞こえた気がしたが、構わない。一瞬で彼女を置き去りにし、無人の空間を突っ切って、ゴールまで距離を詰める。流れるようにレイアップ。
ネットが鳴り、ボン、ボンとボールの跳ねる音だけが残った。バスケに瞬発力が要るのは確かだ。だが、わずかな出遅れが命取りになる短距離走者にとって、最初の一歩こそが命。その一瞬に人生を賭けてきた身には、この場面、分があったらしい。
「とりあえず、勝った」
ひと息ついて、龍太は親友のほうへ振り向いた。今日の戦果を、せいぜい称えてもらおうと思って。
ところが大喜は、一点を見つめたまま固まっている。
いや——青ざめている、と言うべきか。
不穏なものを感じ、龍太は千夏へ視線を戻した。
「せ、先輩……?」
そこに立つ彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
勝ってしまったことで、誇りを傷つけたのだろうか。それとも、ただ悔しいだけか。いや、それにしたって、泣くほどのことか。
俯いた彼女に、かける言葉が見つからない。勝負を受けた以上、勝敗はつく。謝るのも違う。それは相手を惨めにするだけだ。とはいえ、女の子を泣かせたまま放っておくわけにもいかない。龍太は衝動のまま、口を開いた。
「あ、あの……」
「……っかい」
「……えっ?」
俯いたまま、彼女が言葉を被せてきた。聞き返すと、意を決したように涙を拭い、顔を上げる。整った顔立ちに似合わぬ、泣きじゃくる子供のような表情で。
「もう一回!」
「えぇ……」
どうやら、とんでもない導火線に火をつけてしまったらしい。
そして、現在に至る。
体育館の空気には、試合後の高揚と、絞りきった倦怠とが奇妙に入り混じっていた。膠着したワン・オン・ワンの終盤。汗ばむ手でボールを握りしめながら、龍太は自分で蒔いた種を、心の底から悔いていた。まさか彼女が、ここまで意地になって「もう一度」を繰り返すとは。
しかし。
もう辞めたい。と。
それを口に出すことはできなかった。
瞳の奥に宿る圧に、声を奪われていた。彼女の眼は、もはや龍太を見ていない。もっと根源的な何か——自分の弱さか、あるいは過去の自分か。そういうものを見据えている気がした。何かを断ち切ろうとする、研ぎ澄まされた眼差し。
こうなった以上、彼女が自分から限界を認めることはまずない。どれだけ追い詰められても、最後まで食らいついてくる。その意思の強さだけは、痛いほど伝わってきた。
『——あれ、ナツ何してんの?』
『なーんか、あの子と勝負してるらしいよ』
『あの子ってアレでしょ、例の中等生の』
三人の息遣い以外の音が、いつの間にか混じり始めていた。ずいぶん長くやっていたらしい。気づけば人がぽつぽつと現れ、思わぬ騒動を眺める観客になっている。好奇の視線が刺さる。さすがに、ほかの部員の練習を邪魔するのは申し訳ない。
龍太は観念して、ようやく口を開いた。
「次で、勝っても負けても終わりにしません?」
千夏がこくりと頷く。
ようやく折り合いがついたらしい。
ふう、と龍太は、不規則に脈打つ心臓をなだめるべく、何度も息を整えた。深呼吸で、全身の疲労を無理やり押し殺す。さっきのような爆発的なスピードは、もう出ない。それは自分が一番よく知っている。それでも、この局面をひっくり返す手は、まだ一つ残っていた。
観客が増え、視線が交錯するなか、二人は再び向き合う。千夏の瞳が鋭さを増し、刃のように龍太を貫いた。龍太もまた、意識を極限まで絞る。床を打つボールの音が、体育館いっぱいに反響した。
「いきますよ……!」
その声を合図に、勝負が始まった。
彼女もとっくに見抜いている。
龍太にはスピードしかない、と。
だからこそ、今度もそれで勝たせてもらう。脚に力を込め、渾身で蹴った。ドリブルしながらでは、どうしても速度が鈍る。それでも彼女を抜くには十分なはずだった。
『——速いっ』
『でもナツも食らいついてるよっ』
観客のざわめきが耳に届く。
だが構わず、右へ行くと見せかけ、左へ鋭く切り返す——のだが、千夏は信じがたい速さで反応し、ぴたりと食らいついてきた。
——なら。
ドリブルのリズムを変える。勝負は、次の瞬間だ。龍太は低く構え、ドリブルのスピードを一気に殺した。彼女の動きが、ほんの刹那、止まる。その一瞬を、龍太は見逃さなかった。ボールを彼女の股の間に通す——股抜き。
「——っ」
千夏が息を呑む音がした気がしたが、振り返る余裕はない。待ち望んだ景色とともに、跳んだ。地を蹴る感触が骨の髄まで響く。脚の筋肉が弾け、体が宙へ放り出された。視界が開け、コート全体が足元に沈んでいく。一瞬、時間が止まったように感じた。
ゴールは、もう目の前。
最後の一撃を叩き込むように、右手を振り下ろす。手のひらとボールがリングの内側を打った瞬間、指先で何かが弾けた。ガン、と乾いた音が鳴り、リングが大きく揺れる。その余韻が腕を伝って、体じゅうに心地よく広がった。そのままゴール下に着地する。
——とりあえず、勝負には勝った。
一抹の不安を抱えたまま振り返ると、今度の彼女は泣いていなかった。ほっとしたのも束の間、龍太はその表情に目を奪われる。悔しいはずなのに、そこに浮かんでいたのは、嬉しいような、懐かしいような——いくつもの感情が溶け合った、言葉にしがたい微笑みだった。
「私の負け、だね」
その一言には、潔さと、それでも滲む悔しさとが入り混じっていた。素直に負けを認める姿に、龍太はただ感服するほかなかった。
「その……ごめんね。ムキになっちゃって」
「…………食い意地?」
「ち、違うってば……!」
「違うって言う割に、ずいぶん必死でしたよね。そんなに食べたかったんですか、例のパンケーキ」
「そ、それは……うぅ〜」
千夏が両手で顔を覆う。
子供のように拗ねるその姿は、完璧なイメージとのギャップも手伝って、抗いがたい魅力を放っていた。
なるほど、これが彼女が好かれる理由か。
本人がまるで無自覚なのが、いっそう質が悪い。これでは大喜のライバルは、想像以上に多そうだ。
「とりあえず、邪魔者は退散しますね」
「あっ、ちょっと待って」
返事も待たず、彼女はどこかへ駆け出していった。意図がわからず置き去りにされて、数分。
息を切らせて、千夏が戻ってくる。
「はい、これ」
差し出されたのは、彼女のスマートフォン。ますます意味がわからず首を傾げると、
「私の連絡先。勝負の件、忘れた?」
「…………い、いえ、覚えてましたよ?」
「ふーん。私は覚えてたけど?」
「……すんません」
完全に目的を忘れていた。青ざめて頭を下げると、くすくすと笑う声が鼓膜をくすぐった。
「冗談。交換しよ?」
「わ、わかりました。……えっと、すみません。友達追加のやり方、教えてもらっても?」
「えっ」
「えっ」
大きな瞳を見開いた彼女が、やがて口元を端末で隠す。隠しきれていない口角の上がりようだったが。
「もしかして、過去から来た?」
「…………別にいいでしょ。本当に知らないんです」
「ふふ、そっか。じゃ、貸して。見られて困るものがあったらアレだけど」
「いえ、まったく問題ないです」
「すごい自信」
履歴を消す作業だけは、いつも入念にやっている。問題ない、はずだ。慣れた手つきで龍太の端末を操る彼女の指先を、なぜか目で追ってしまっていた。
「はい。これで連絡取れるはず」
「すみません。ありがとうございます」
「じゃ、せっかくだし試しに」
細い指が画面をスクロールし、何度かタップを重ねる。数秒後、龍太の端末がぴこりと鳴った。
音につられて見ると、画面には彼女の名前と、一つのスタンプ。それは、今日の戦いの報酬のように思えた。
「ありがとうございます!」
(よし。これで大喜とも、ちゃんと接点ができたはずだ)
胸のつかえが下りた気がする。これで、変わらない日常に、少しは風穴が開く。もどかしさとも、お別れだ。
「ところで、なんで大喜くんと交換するって条件にしたの?」
「えっ?」
何気ない問いに、龍太の肩がびくりと跳ねた。
「龍太くんじゃなくて彼を選んだの、どうしてかなって。事前に示し合わせてた感じでもなかったし」
「そ、それは……ほら、アレですよ。朝練、よく一緒なんで。三人で仲良くなれたらいいなと」
「ほんとかなあ?」
「ほんとですよ。男に二言はありません」
苦し紛れの嘘を真顔で言い切ると、彼女は何がそんなにおかしいのか、声を立てて笑い出した。屈託のないその笑みの理由が、龍太にはさっぱりわからない。
「じゃあ、その朝練仲間ってことで。改めてよろしくね——田中龍太くん」
ひとしきり笑ったあと、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
……ん?
やっぱり、そうだ。
「あれ、先輩。なんで俺の名前を——」
ずっと胸に引っかかっていた疑問。
なぜ彼女は、最初から自分の名を知っていたのか。
問いを口にしかけた、その瞬間だった。
背後から、突き刺すようなプレッシャー。ぞくり、と足元から悪寒が這い上がってくる。お化けでも見るように、恐る恐る振り返れば——そこには、炎を宿したような形相の先輩方が居並んでいた。
嫉妬を、もはや隠そうともしていない。
その集団の中に、見知った顔が二つ。
目が合った瞬間、さっと逸らされた。
すべてを、悟った。
——自分はここで死ぬのだろう、と。
この勝負で勝ち取った代償は、龍太の想像を、はるかに超えて重かったらしい。ならば、と彼は断腸の思いで、一つの決断を下す。
「これはその…………羨ましい?」
「「「何してんじゃテメェぇえええ──!!」」」
──グッバイ、俺の人生。
「今日からお世話になります。鹿野千夏です。よろしくね、龍太くん」
「…………ふぅ」
「あ、あれ、龍太くん!?」