親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
6月の午後の陽光は、もはや春のそれではなく、アスファルトを白く光らせるだけの熱量を帯びていた。駅前の広場を吹き抜ける風だけが、辛うじて初夏の訪れを告げている。龍太は、その風にさえ背中を押されるような落ち着かなさで、約束の時計台の下に佇んでいた。
約束の時間まで、まだ10分もある。
手持ち無沙汰に視線を彷徨わせれば、行き交う人々の誰もが自分よりずっと確かな目的を持っているように見えた。まだ現れない千夏の姿を無意識に探してしまう自分に気づき、慌ててポケットのスマートフォンに手を伸ばす。内カメラに映ったのは、見慣れているはずなのに、どこか借り物めいた自分だった。
(なんか……やりすぎたか?)
部活を少しだけ早く切り上げ、予約した美容院の扉をくぐったのは、ほんの数時間前のことだ。普段はタオルで無造作に乾かすだけの髪を、今日はワックスで丁寧に束感を出し、サイドは清潔感が際立つように短く整えた。「ちゃんと」したかった。ただ、その一心が、今になって鏡の中の男を他人行儀に見せている。
(……変じゃないよな?)
サイドをすっきりとさせ、トップに軽やかな動きをつけただけの、ありふれたスタイルのはずだ。美容院の鏡で見たときは、確かに「悪くない」と思った。だが、これから会う彼女の瞳というフィルターを通した自分を想像すると、途端に自信が霧散していく。服装もそうだ。糊のきいた白いシャツに、品の良いシルエットのチノパン。スポーツウェア以外の引き出しが極端に少ない自分にとっては、これが精一杯の選択だった。
「……落ち着け、俺……」
小さく息を吐き、頭を振る。
──だけど、やっぱり落ち着かない。
これは、ただの「先輩との外出」じゃない。今まで何度も部活帰りに一緒に帰ったことはある。だけど今日は、「デート」だ。
(千夏先輩、何着てくるんだろう……)
ふとそんな考えが頭をよぎる。普段は部活のジャージ姿が当たり前の彼女が、私服で現れるのだと思うと、無駄に緊張してしまう。
「落ち着け……なんでこんなに緊張してんだよ……俺」
ジャージ姿しか知らない彼女の、私服という未知の領域。その想像だけで、緊張は容易く臨界点を超えそうになる。約束の5分前を指した時計の針が、やけにゆっくりと進む。目の前を通り過ぎるカップルの楽しげな笑い声が、鼓膜の上を滑っていくようで、内容まで届かない。周囲の視線が自分に突き刺さっているような被害妄想は、きっとこの異常な心拍数のせいだ。
(いやいや、そんなわけないだろ)
頭を振って気持ちを切り替えようとしたその時、ふと駅の改札の奥に見慣れた髪色が目に入った。──千夏だ。
その認識と同時に、世界から音が消えた。心臓の鼓動だけが、耳の奥で大きく鳴り響く。人混みの中をすり抜けてくる彼女の姿は、まるでスローモーションのように龍太の目に映った。
薄いブルーのワンピースが風をはらんで、軽やかに揺れている。いつも見慣れたジャージ姿の活動的な輪郭はそこにはなく、代わりに柔らかな曲線がそこに存在していた。少し短くなった髪が肩のあたりでふわりと踊る。ほんの数センチの変化が、彼女の纏う空気そのものを、凛としたものから、どこか儚げで可憐なものへと変質させていた。なにより、その一歩一歩が、まるでスキップでもしそうなほど弾んで見えた。
「ごめんね、龍太くん。少し待った?」
たどり着いた彼女が、わずかに弾む息と共に微笑む。その瞬間、龍太の思考は完全に白紙になった。
「い、いえ、待ってないです」
声が裏返った。必死で取り繕おうとする理性の壁を、本能的な動揺がいとも容易く突き崩していく。
「そっか。良かった」
千夏が安心したように笑った瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先をかすめた。いつもより少しだけ違う香り──それが、龍太の動揺をさらに加速させる。
(……可愛い)
思考の回路を経由せず、網膜に映った情報がそのまま感情となって心の表面に浮かび上がった。言葉を失った龍太と、不思議そうに彼を見つめる千夏との間に、沈黙が灰色の絵の具のように広がっていく。何か、何か言わなければ。
「じゃあ、早速向かいましょう──」
行き先を告げようと一歩踏み出した、その時。ふいに目の前に千夏が回り込み、視界が彼女でいっぱいになった。次の瞬間、両の頬に信じられないほど柔らかく、温かい感触が訪れた。
「へっ? ちょ、せ、せんぱ──」
両千夏の両手に顔を包み込まれ、龍太の身体は完全に石化した。まるで掌中の宝物を確認するように、彼女は龍太の顔を覗き込む。
「……可愛い?」
尋ねたのは、彼女の方だった。上目遣いで、恥じらいに染まった頬を隠そうともせず、彼女は囁くように問う。その破壊力は、龍太の理性のキャパシティをとうに超えていた。
「………めちゃくちゃ、可愛いです」
もはや、しどろもどろになることさえ諦めた、魂からの言葉だった。それを聞いた千夏は、満足そうにぱっと手を離す。
「ありがとう。龍太くんもカッコいいね」
「あ、ありがとう……ございます」
「じゃあ、行こうか」
悪戯が成功した子供のように微笑むと、彼女はくるりと背を向け、今度こそ軽やかに歩き出す。
一人残された龍太は、しばらくその場を動けなかった。頬に残る彼女の手の感触と、耳の奥でまだ熱を持っている自分の心臓の音。
(なんだよこれ……耐えれねぇよこんなの)
これから始まる時間への途方もない期待と、すでに限界寸前の自分自身への呆れがないまぜになった、そんな初夏の風が龍太の頬を撫でていった。
館内へと一歩足を踏み入れた瞬間、外の世界の喧騒と湿った熱気が嘘のように断絶された。ひんやりと澄んだ空気が肌を撫で、視界は深海を思わせる淡い青一色に染まる。天井には水面の揺らぎが投影され、それはまるで巨大な生き物の呼吸のように、静かな波紋を描きながら空間全体をゆっくりと満たしていく。耳に届くのは、抑制の効いたアンビエントなBGMと、濾過装置が立てる微かな水音。ここは都市の喧騒から隔絶された、静謐な海の中そのものだった。
「わぁ……綺麗」
休日の水族館は、当然ながら人でごった返している。それでも、龍太はこの選択が正解だったと確信していた。外の白日の下にいるよりも、この薄暗がりの中の方が、彼女の存在が放つ光をより強く感じられる気がしたからだ。
案の定、周囲の視線が二人、いや、正確には千夏一人に集まっているのが肌で感じられた。本人は水槽の中の生命に夢中で気づく素振りもないが、彼女の美しさは、この薄暗い空間においてなお一層の輝きを放ち、否応なく人々の目を引いていた。特に男性たちの、あからさまな感嘆と所有欲の入り混じった視線。そして女性たちの、羨望と、時に嫉妬の色を隠さない複雑な眼差し。
(こりゃ、俺がしっかりしないとな)
それは庇護欲とも、独占欲ともつかない、まだ名前のない感情だった。龍太は半歩だけ、彼女に体を寄せた。
「先輩、水族館好きなんですか?」
「うん。お魚が泳いでるのって、なんだか癒されるよね。可愛くてずっと見てられる」
上機嫌な千夏は、今にも「さかなさかな〜」と鼻歌を口ずさみそうなほど無邪気な横顔を見せている。その、普段のクールな先輩然とした佇まいとのギャップが、龍太の胸の内で固く張っていた緊張の糸を、ゆっくりと解きほぐしていく。
(……なんか、意外と無邪気なとこあるんだな)
その一瞬を、この青い光に縁取られた無防備な横顔を、永遠に切り取ってしまいたい。そんな衝動に駆られ、龍太はこっそりとスマートフォンを取り出し、カメラを向けた。
「……あっ」
小さなシャッター音。気づいた千夏が、弾かれたように振り返る。レンズ越しに、その大きな瞳と視線がかち合った。途端に、彼女の表情がむっとしたものに変わる。
「変な顔してない?」
「いや、すごい可愛らし……」
思考を介さずに滑り落ちた言葉に、龍太は自分の心臓が凍りつくのを感じた。
(やべ……!)
しまった、と思った時にはもう遅い。千夏の頬が、水槽の照明とは明らかに違う熱を持って、みるみるうちに赤く染まっていく。その反応が、龍太の顔にも熱を伝播させた。気まずい沈黙が、二人の間に重く垂れ込める。この空気をどうにかしなければ。そう思ったのは、千夏も同じだったらしい。彼女は慌てて自分のスマートフォンを取り出すと、必死に話題を探すように言った。
「りゅ、龍太くんはじゃあ、その水槽のエイのマネしてみてよ」
エイの口元が特徴的に曲がっていて、どこかユーモラスな表情をしている。
それを真似しろ、というのか。
「こ、こうですか?」
龍太が顔をひょいと歪めて、エイの特徴的な口元を再現してみると──
カシャッ!
千夏がスマホのカメラを向け、すかさずシャッターを押した。
「ふふっ……ものまね上手いね。そっくりだよ」
「……なんで俺だけ変顔なんですか。消してください」
「だーめ。思い出として残しとくんだから」
「いや思い出って……」
千夏は大事そうにスマホの画面を見つめながら、笑いをこらえる様子もなくクスクスと楽しそうだ。そんな彼女を見ているうちに、龍太も消せと言う気力が抜けてしまう。
自然と、足は次の水槽へと向いていた。
その先で二人を迎えたのは、悠然と泳ぐアザラシだった。ガラス一枚を隔てたすぐそこで、流線形の身体がしなやかに水をかく。
千夏はガラスに近づき、目を輝かせながらアザラシを見つめる。その姿はどこか子供のようで、龍太は思わず微笑んだ。
「わぁ……可愛いね。こんなに間近で見るの初めてかも」
「確かに。思ったよりでっかいですね」
ガラスの向こうで、アザラシがゆったりと身体をくねらせ、何も急ぐことのない様子で泳ぎ回っている。その動きにはどこか気だるさと優雅さが同居していて、見ているだけで心が和らぐ。千夏はガラス越しにその姿を目で追いかけながら、ふっと笑みをこぼした。
「のんびりしてるよね。なんだか、癒される……」
「先輩みたいですね」
龍太がさらりと言った言葉に、千夏は一瞬驚いたように目を丸くした。
「あ、いや、なんか、動きが似てるっていうか……ほら、その、ゆったりしてて、でも気づいたらちゃんと周りを引きつけてる感じ?」
龍太は少し照れくさそうに頭をかきながら言葉を続けた。
千夏はガラスに映った自分の顔をちらりと見て、クスリと笑う。
「そっか、アザラシと似てるなんて初めて言われたけど……悪い気はしないかな」
アザラシが水面近くに顔を出し、こちらをちらりと見るような仕草をする。それを見た千夏が「こっち見てるよ!」と嬉しそうに指を差した。龍太もそれに釣られて、ガラス越しにアザラシに手を振る。
「こいつ、意外と人懐っこいんだな」
「ね、可愛いよね……なんだか、もっと見ていたくなる」
二人の間に流れる空気は穏やかで、透明な水槽の中の世界と同じようにどこか静かで温かい。
アザラシが再び水中へと潜り、優雅な動きで泳いでいくのを見届けながら、龍太はその愛嬌の良さにやっぱりにてるな、と思った。
カフェスペースに差し掛かると、甘い匂いとコーヒーの香りが漂い、リラックスした空気が満ちている。窓からは広がる海が一望でき、遠くで波が静かに砕ける様子が見える。アイスクリームを手にした子どもが、母親と一緒にベンチに座りながら楽しそうに笑っている。
カフェのカウンターには、この水族館ならではのオリジナルドリンクが並んでいた。クラゲをイメージしたふわりとしたブルーのジュレが浮かぶ「クラゲソーダ」や、虹色のゼリーが層になった「珊瑚礁パフェドリンク」など、どれも可愛らしく目を引くものばかりだ。
テーブル席に座る千夏と龍太の間には、「クラゲソーダ」と「珊瑚礁パフェドリンク」が置かれている。千夏はクラゲソーダのストローを手に取りながら、興味深そうに揺れるブルーのジュレを覗き込んでいた。
「これ、本当にクラゲみたいだね!」
「見た目は、まあ……。でも、飲むのには少し勇気がいりません?」
龍太は苦笑いを浮かべながら、手元のパフェドリンクに視線を落とした。透明なグラスの中では、赤、オレンジ、黄色のゼリーがきらきらと光を反射し、トップには小さなホイップクリームと、砂糖菓子でできた精巧な魚がちょこんと乗っている。まるでグラスの中に、小さな熱帯の海が凝縮されているかのようだ。
千夏はスマートフォンを取り出すと、いくつかの角度から熱心にソーダの写真を撮り始めた。青いジュレが光を受けてきらめくその瞬間を捉え、満足そうにひとつ頷く。
「これ、なんか涼しげでいいね。夏にぴったりかも」
「先輩って、こういう可愛いの好きなんですか?」
何気ない龍太の問いに、千夏は少し考えるように首を傾げた。
「うーん、可愛いのも好きだけど……こういう場所だと、なんか雰囲気に合うもの選びたくならない?」
「あー、まあ、それはわかります」
龍太はそう言いながら、自分の珊瑚礁ドリンクを一口飲む。ストローを差し込むとゼリーがふるふると揺れ、口の中にひんやりとした感触が広がった。
「これ、意外と美味いな。甘さ控えめで飲みやすい」
「へえ、どんな味?」
興味深そうに尋ねる千夏に、龍太は少し言葉を探す。
「なんていうか……フルーツポンチみたいだけど、後味にラムネみたいな爽やかさもあって……」
「ラムネかぁ……」
その瞬間、千夏の視線が、まるで磁石に引き寄せられるように龍太のグラスに注がれていることに、彼は気づいてしまった。その眼差しはあまりにも素直で、隠しようのない好奇心に満ちていた。龍太は思わず吹き出しそうになるのをこらえ、黙って席を立った。カウンターで予備のストローを一本もらうと、戻ってきてから、からかうような仕草でそっと彼女の前にグラスを差し出した。
「どうぞ、飲んでみます?」
「えっ、いいの?」
「飲みたいって顔してましたからね」
図星を突かれた千夏は、頬をかすかに赤らめながらも、おずおずと差し出されたストローに手を伸ばした。
彼女がストローに口をつけ、こくりと喉を鳴らす。その何気ない仕草から、なぜか目が離せない。ストローに寄せられた唇の形、白い喉の微かな動き。その全てが、普段の彼女からは窺い知れない無防備な好奇心と結びついて、龍太の胸を静かにざわめかせた。気まずさを感じて視線を窓の外へ逃がすと、穏やかな海の景色が広がっていた。
「うん、確かに美味しいね。爽やかで後味すっきりしてる」
「ですよね」
顔を上げた千夏は満足そうに微笑むと、今度は彼女がふっと席を立った。カウンターから新しいストローを手に戻ってくると、自分のクラゲソーダにそれを差し、グラスごと龍太の前にそっと押し出す。
「私ばっかりもらっちゃうのも悪いから、どうぞ」
「え、いいんですか?」
「うん」
促されるまま、龍太は恐縮しながらも青いソーダを一口飲んだ。ぷるんとしたジュレの食感と、ほんのりとした甘さが口の中に広がり、視覚からもたらされるイメージ通りの清涼感が喉を潤す。
「これ、意外といけますね……涼しい感じがします」
「でしょ?」
二人は顔を見合わせ、同時にふっと笑みをこぼした。だが、その笑みが消え去るか消え去らないかの刹那、互いの視線が絡み合ったことに気づき、どちらからともなく、はにかむように目を伏せた。心地よい緊張感を伴った沈黙が、まるで水槽の泡のように二人の間にぷかりと浮かんだ。
「……ちょっと恥ずかしいね」
「そ、そうですね……」
気まずい沈黙を紛らわすように、千夏が目を向けた先の水槽では、小さな魚たちが泡と一緒にくるくると舞いながら泳いでいる。その光景に目を奪われながら、千夏がポツリと呟いた。
「久しぶりにのんびりしたかも」
ぽつりと零れたその呟きに、龍太は少し驚いて彼女の横顔を見た。
「まあ、予選前は練習でいっぱいいっぱいでしたからね」
千夏は小さく頷き、懐かしむように微笑んだ。
「龍太くん、ずっと走ってたね」
「それを言うなら、先輩だって朝から晩までバスケじゃないですか。どんだけバスケ好きなんです」
龍太の口調には、親しみを込めた呆れが滲んでいた。それを感じ取ったのか、千夏は肩をすくめ、悪戯っぽく笑う。
「バスケ好きだから」
「俺も走るのが好きなので」
その言葉は、ほとんど同時に放たれた。二人は顔を見合わせ、今度は抑えきれずに声を立てて笑った。
「一緒だね」
「一緒ですね」
笑い声が静かなカフェスペースに溶けていく。千夏はその「一緒」という言葉の響きを噛みしめるように、じっと龍太を見つめた。
「私ね、龍太くんのお家に住めてよかった」
ふとした沈黙の合間に、彼女が言った。その声は、先ほどまでの快活さとは少し違う、穏やかで真摯な響きを持っていた。
「そうですか?」
「うん」
千夏はゆるやかに微笑み、視線を少し下に落とす。
「最初は、家族と離れるのが寂しかったし、不安もあったの。でも、龍太くんの家族が温かく迎え入れてくれたから。……ふふっ、龍太くんは気絶してたけど」
最後の付け足しに、龍太は思わず眉を寄せた。
「いや、そりゃそうですよ。急にそんなことになったんですから」
「一応ね、行く前にご挨拶とかは済ませたんだよ? でも、香織さんが龍太くんには黙っていた方が驚くからって」
「……いや、それ絶対面白がってただけじゃないですか。勘弁してくださいよ」
大きなため息をつくと、千夏はまたころころと楽しそうに笑う。その無邪気な姿に、龍太の心も和んでいく。だが、ふと彼女の笑みが収まり、表情にわずかな翳りがさした。
「すごく今さらなんだけど……」
ぽつりと零れた声は、さっきまでの弾んだ調子とは違っていた。どこか戸惑うような、ためらうような色を帯びている。
「龍太くん……その、嫌だったりしなかった?」
伏せられた長い睫毛が、彼女の不安を物語っていた。その問いに、龍太の胸の奥を、見えない棘がちくりと刺した。親友の想い人との、あまりにも不可解で、そして甘い日々。
(……そりゃ、最初はな)
突然始まった、美人で有名な先輩との同居生活。戸惑わなかったと言えば嘘になる。大喜への後ろめたさや、慣れない生活への気まずさ。様々な感情が渦巻いていた。けれど──
「嫌というより、衝撃のほうが強かったですよ」
龍太は静かに、そして正直に答えた。千夏が驚いたように、ぱちりと瞬きをする。
「年頃の女の子と一つ屋根の下っていうのは、正直、どうしていいか分からなかったですけど……」
そこで一度言葉を切り、あの頃の様々な葛藤を胸の奥にそっとしまい込む。そして、今、ここにある確かな気持ちだけをすくい上げた。
「今は、楽しいですよ」
その言葉に、千夏の表情がふわりと花が咲くように和らいだ。
「私もね、龍太くんと仲良くなれて、楽しいよ」
彼女の笑顔は、あまりに自然で。
何の飾り気もなくて、まっすぐで。
だからこそ、龍太はそのまま見つめていられなくて、なんとなく目を逸らしながら、口元をわずかに緩めた。
(……なんか、ずるいな)
心の奥でぽつりと浮かんだその言葉を、龍太はそっと飲み込んだ。
水族館の鮮やかな光が広がる中、龍太は千夏をトイレの前で待っていた。カラフルな魚たちが泳ぐ大きな水槽の近くで、ゆったりとした空気が流れている。青く澄んだ水の向こうでは、小さな魚が群れをなして泳ぎ、まるで夢の中にいるような幻想的な景色が広がっていた。
(こういう時間、意外と悪くないかもな)
千夏と過ごす時間は、最初こそ戸惑いもあったが、気づけば心地よくなっていた。なんだかんだ言いながら、こうして二人で歩いて、話して、笑って──それが妙に自然なことのように感じる。
そんなことをぼんやり考えていた時だった。
「ねえ君、もしかしてモデルやってたりする?」
聞こえてきたのは、少し甘さを帯びた、しかし品定めするような響きを持つ声だった。振り返ると、そこには流行の最先端を体現したような二人の女性が立っていた。巻かれた髪、大胆なピアス、そして龍太を値踏みするかのような、隠しようのない好奇の視線。
「……え?」
突然の問いかけに、龍太は戸惑ったように首を傾げた。
「いやー、絶対そうだよ! 顔立ちが一般人じゃないもん。ほら、あの雑誌で見たことある気がするんだけど」
「私も!」
二人の声は無邪気に弾むが、その視線は龍太の顔のパーツを一つ一つ分解していくようで、居心地が悪い。周囲からちらちらと注がれる視線が、肌にまとわりつくように感じられた。
「いえ、違います。ただの学生です」
「うっそ、そんなわけないって。だってその顔、絶対芸能人レベルじゃん!」
彼女たちは、拒絶を気にも留めず、さらに一歩踏み込んでくる。その距離感に、龍太は無意識に後ずさった。
その瞬間。
──涼やかな声が、ナンパの空気を一瞬で吹き飛ばした。
「お待たせ、龍太くん」
振り返ると、そこに千夏が立っていた。ただトイレから戻ってきただけのはずなのに、彼女の存在は、この薄暗い空間の中でまるでスポットライトを浴びているかのように際立って見えた。艶やかな髪、凛とした佇まい。その圧倒的なまでの美しさに、先ほどの女性二人が息を飲むのがわかった。
「え……あの人、誰?」
「やば、めっちゃ綺麗じゃん」
彼女たちは思わず小声で話し合い、先ほどの強気な態度が少し引き下がるのが見て取れた。千夏は彼女たちをちらりと一瞥すると、彼女は、何も知らないふりをしながら、ゆっくりと龍太の隣に歩み寄る。そして、自然な流れで彼の腕にそっと触れた。
「何かあったの?」
「いや、なんか勘違いされて……モデルとか言われたけど、全然違うし」
龍太が困ったように答えると、千夏は「ふぅん」と短く応じつつも、その瞳には面白くなさそうな色が浮かんでいた。
「そっか。でも、こういう場所で声をかけられるって珍しいね」
言葉は穏やかだが、その裏には少しばかりの棘が含まれていた。それを察したのか、二人はそそくさと後退り始めた。
「ごめんね、なんか邪魔しちゃったみたい。じゃあ、私たち行こっか!」
「そうだね、じゃあまた……!」
嵐のように現れ、そして嵐のように去っていった彼女たちを見送り、龍太は首を傾げる。
「……なんだったんだろう」
隣で、千夏が少し頬を膨らませて呟いた。
「……まぁ、分かっては居たけど」
「ん? 何がです?」
「ううん、なんでもない」
千夏はぷいっと顔を背けるが、その耳がほんのり赤く染まっているのを龍太は見逃さなかった。
「先輩、少し怒ってます?」
「お、怒ってないよ」
そう言いながらも、千夏の声にはどこか拗ねた響きが混じっていた。その様子が妙に可愛らしくて、龍太は思わず小さく笑った。
「すみません、次から気をつけますね」
「べ、別に龍太くんは悪くないよ! 私の心が狭いだけで……」
「いやいや、先輩の心が狭かったら他の人どうなっちゃうんです?」
龍太の軽口に、千夏はさらに顔を赤らめながら何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
ふと、龍太の脳裏に、今の状況が逆転した光景が浮かんだ。もし、千夏が見知らぬ男たちに声をかけられていたら──。そう想像した途端、胸の奥がざらりとした感触に覆われるのを感じ、思わず足が止まった。
「龍太くん?」
不思議そうに見上げてくる千夏の瞳に、彼は我に返る。
「あー、いや、そのですね……」
なぜ、こんなことを思ったのか。その感情の正体は自分でも分からない。けれど、衝動的に言葉が口をついて出た。
「手でも、繋ぎますか……?」
「えっ……」
千夏が大きく目を見開く。その純粋な驚きに、龍太は慌てて手を振った。
「あ、いや、その、またよくわからない人に先輩が声をかけられたら大変かなーと。恋人っぽくいれば、そんなこともないかなって」
苦しい言い訳の後、沈黙が訪れた。千夏の顔が、水槽のサンゴのようにゆっくりと赤く染まっていき、視線が揺れる。そして、ほんの少しの間の後、彼女はためらうように、そっと手を差し出した。
「……うん」
「えっ?」
「手、繋ごう?」
気恥ずかしそうに微笑む千夏の姿に、龍太も照れながらその手を取る。指先に触れた彼女の肌は、白くて柔らかく、そして驚くほど温かかった。その温もりが、まるで電流のように彼の心にじんわりと染み渡っていく。
「先輩って意外と手、小さいんですね」
「そ、そう?」
「バスケットボール、片手で持てなさそう」
「……そんなことないし」
「じゃあ、今日帰ったら証明してもらわないとですね」
「……」
「無言で指抓るのやめてください。冗談ですって」
少しだけ拗ねたように唇を尖らせる千夏の横顔が可愛らしくて、龍太の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
二人は並んで歩きながら、繋いだ手の温もりと、互いの照れた笑顔を、心に深く刻み込むように静かに感じていた。
次に向かったのは、太陽の光を反射してきらめく水面が印象的なイルカショーのスタジアムだった。すでに客席は期待に満ちた観客で埋め尽くされ、賑やかなざわめきが満ちている。二人は幸運にも中央付近の良い席を見つけ、これから始まるショーへの期待に胸を膨らませた。
「ここ、いい場所ですね」
「うん。イルカ、近くで見れるといいな」
ショーの開始を告げる音楽が鳴り響くと、イルカたちがダイナミックなジャンプと共に姿を現した。水しぶきが太陽の光を浴びて虹色の粒子となり、観客席からは歓声が上がる。千夏は子供のように手を叩き、目を輝かせている。その無防備な横顔を、龍太は眩しいものを見るようにそっと見つめた。
「先輩、楽しそうですね」
「うん。凄いよ、あのジャンプ!」
イルカが大きな弧を描いて宙を舞うたびに、千夏の弾んだ声が周囲の歓声に溶け込んでいく。その純粋な喜びに満ちた姿を見ているだけで、龍太自身の心も、まるで水面の波紋のように穏やかに広がっていくのを感じた。
やがてショーはクライマックスを迎え、司会者がマイクを通して声を響かせた。
「さて、ここで本日の特別ゲストをランダムでお招きしたいと思います! 皆さんの中から素敵な一組を選ばせていただきます!」
その言葉に、会場は期待と少しの緊張を含んだざわめきに包まれる。司会者の視線が客席をゆっくりと巡り、そして、まるで運命の糸に引き寄せられるかのように、ぴたりと二人の上で止まった。
「そちらのカップルのお二人! ぜひステージへお越しください!」
「えっ!?」
龍太は驚いて周囲を見回すが、すべての視線と拍手が自分たちに向けられていることを悟る。「いや、カップルじゃ……」という彼の抗議の声は、波のような歓声にかき消された。抗う間もなく、二人は人々の温かい(そして少しお節介な)視線に導かれ、プールサイドへと促された。
ステージに立つと、想像以上に観客席からの視線は熱を帯びていた。龍太は背中にじわりと汗が滲むのを感じながら、隣の千夏の気配を意識する。
「今日はどちらからお越しですか?」
「え、えっと……埼玉からです」
千夏が戸惑いながら答えると、司会者が嬉しそうに頷く。
「素敵ですね~! お二人は本当にお似合いですよ! では記念に、イルカと一緒に記念撮影といきましょう!」
スタッフに誘導され、二人はプールの縁に立つ。促されるままに肩を寄せ合うと、普段意識することのない彼女の体温と柔らかな感触が、服越しにじわりと伝わってきた。
(ち、近い……っ!)
意識しないようにすればするほど、五感が鋭敏になる。隣で同じように緊張しているであろう千夏の、ほんのり赤く染まった耳が視界の端に映った。
「はい、チーズ!」
パシャッというシャッター音と共に、その瞬間は永遠に切り取られた。ホッと胸を撫で下ろした龍太だったが、安堵はあまりにも早く打ち砕かれる。
「さて、せっかくですから、お互いの好きなところを一つずつ教えていただきましょう!」
「ええっ!?」
二人の声が綺麗にハモった。会場からは温かい笑い声が漏れる。
「大丈夫ですよ、リラックスして。では、どちらから行きますか?」
司会者がマイクを向けると、龍太は観念したように息を吐いた。こういうのは男が先だろう……そう思いながら、意を決して口を開く。
「えっと……じゃあ、俺から……」
深呼吸をしてから、彼は少し緊張した声で続けた。
「先輩は……いつも笑顔で、何事にもひたむきで頑張るところが、すごいと思います。それに……その、すごく、可愛いらしいと、日々、思ってます」
「──っ」
最後の言葉は、自分でも驚くほど素直に口をついて出た。会場が「おお~!」という歓声と拍手に包まれる中、千夏の頬が一気に朱に染まるのが見えた。
「そ、そんな……ありがとう。じゃあ、私も……」
視線を泳がせ、逡巡した末に、千夏は意を決したように顔を上げ、龍太の目を真っ直ぐに見つめた。
「龍太くんの、真面目で努力家で、すごく優しいところが……好きです」
その瞬間、龍太の世界からすべての音が消えた。ただ、彼女の「好きです」という言葉だけが、何度も何度も胸の中で反響する。
「はい、素晴らしいですね! お二人、すごく素敵なカップルですよ!」
司会者の声も、どこか遠い場所から聞こえてくるようだった。
「では、お二人に特別にイルカのジャンプをプレゼント!」
ザッバーン!という大きな水しぶきが二人を現実へと引き戻す。ようやく我に返った龍太は、自分が耳まで真っ赤に染まっていることを自覚した。隣の千夏も、顔を伏せたまま、そっと袖で濡れた頬を拭っている。
「……なんかすごいことになりましたね」
「……うん」
もはや、互いの顔をまともに見ることさえできなかった。二人はぎこちない足取りでプールサイドを後にする。その背中を、会場からの温かい拍手が見送っていた。
夕暮れの空が、まるで水彩絵の具を滲ませたかのように、静かにその色合いを変えていく。千夏がトイレに立った後のベンチに一人、龍太は手元のお揃いのストラップをぼんやりと眺めていた。夕陽を受けた青いイルカの透明なボディが、最後の光をかき集めて小さく輝いている。そのささやかな光が視界に映るたび、龍太の心は否応なく、あの喧騒と熱気の中の出来事へと引き戻されていた。
──龍太くんの、真面目で努力家で、凄く優しいところが……好き、です
千夏の言葉が、頭の中で何度もリフレインする。あの瞬間の、少し潤んだ瞳。わずかに震えていた唇。それらは冗談と切り捨てるにはあまりにも真剣で、しかし、公の場で告げられるにはあまりにも唐突だった。本気か、それとも場の空気に流されただけか。その真意を測りかねて、思考は堂々巡りを繰り返し、胸のざわめきだけが大きくなっていく。
「……どういう意味だったんだよ」
誰にともなく呟き、ストラップを握りしめた。答えは、ない。
ただ、「もしも」という仮定だけが、光と影のように心を揺さぶる。もし、彼女の言葉が本心だったなら? もし、そうでなかったとしたら? そもそも、彼女が口にした「好き」という言葉は、どのような感情の色をしていたのだろう。友人としての好意か、それとも──
── でも、それを確かめるのが怖い。
もし、あの言葉がただのリップサービスだったとしたら、勝手に舞い上がった自分が滑稽でたまらないだろう。だが、もし万が一、そこに特別な意味が込められていたとしたら、もう二度と、今までのような気楽な関係には戻れないかもしれない。そのどちらの可能性も、今の龍太にとっては受け入れ難いものだった。
思考が袋小路にはまり込んだ、その時。ふと、彼は気づく。なぜ、自分はここまで彼女の一言に心を乱されているのか。
彼女の笑顔や仕草、繋いだ手の温もり。ふとした瞬間に香る甘い匂い。今日のデートで見た、今まで知らなかった彼女の様々な表情が、脳裏に次々と蘇る。そのたびに、心の奥で固く閉ざされていた何かが、ことり、と音を立てて外れるような感覚があった。
それは、もうぼんやりとした憧れではない。
ただの同居人として、ただの部活の先輩として抱く感情でもない。
(……どうしよう)
気づいてしまった。この胸のざわめきの正体に。
気づかなければよかった、などとは思わない。だが、この感情に名前をつけてしまった以上、今まで通りの自分で彼女に接することができるだろうか。平然と「おはよう」と声をかけ、他愛ない冗談を言い合い、隣で笑うことができるだろうか。
(今まで通り、普通にできるか……?)
少なくとも、今の自分に、それができる自信はなかった。
ふと顔を上げると、燃えるようなオレンジ色だった空は、いつの間にか深い紫紺へとその表情を変え始めていた。そのあまりに美しいグラデーションに、ほんの少しだけ心が慰められる。龍太は大きく息をつくと、思考の渦に疲れた頭をベンチの背にもたせ、静かに目を閉じた。頬を撫でる風の心地よさに身を委ねるうち、彼の意識はゆっくりと現実から遠ざかっていった。
どれほどの時間が、この紫紺の空の下を流れていったのだろう。
千夏が戻ってきた時、龍太はベンチにもたれかかり、静かな寝息を立てていた。沈みゆく太陽の最後の光が、彼の無防備な横顔に柔らかな陰影を落としている。その表情は、日中の緊張から解放された子供のように穏やかだった。閉じられた瞼の下で、一体どんな夢を見ているのだろうか。
彼の指先は、さっきまで二人で選んだお揃いのストラップを、まるで大切な宝物のようにそっと握りしめている。青いイルカの透明なボディが、夕闇に溶け込む寸前の光を捉えて、はかなくきらめいた。その姿が妙に幼く、そして愛おしく見えて、千夏の唇から自然と笑みがこぼれた。
(……待たせちゃったよね)
申し訳ない気持ちと、でも彼が怒っていないことへの安堵が、胸の中で優しく混じり合う。本当は、もっと早く戻ってくるはずだった。けれど、今日の出来事の一つ一つが、あまりにも鮮烈で、心を整理するのに思った以上の時間が必要だったのだ。
「……ふふっ」
彼の寝顔を見つめていると、千夏の胸の奥がじんわりと温かくなる。この感情に、どんな名前をつければいいのだろう。言葉にしようとするほど、その輪郭は曖昧になってしまう。それでも、ひとつだけ確かなことがある。
──愛おしい。
その想いに導かれるように、千夏はそっと彼の隣に腰を下ろした。ほんの一瞬だけ躊躇った後、眠る彼の頭を優しく持ち上げ、自分の膝の上へと導く。
「今日は、誘ってくれてありがとう」
誰に聞かせるでもなく、囁くような声で呟きながら、彼の髪をそっと撫でた。指先に触れる、少し硬くて、でも柔らかな髪の感触。ゆるく跳ねた前髪にふわりと触れると、くすぐったいような、切ないような気持ちが込み上げてくる。
今回のデートのきっかけが、龍太の両親の言葉だったとしても、彼自身の意思で「誘おう」と思ってくれたことが、何よりも嬉しかった。だからこそ、自分も今日のために服を選び、何度も鏡の前で悩み、普段は行かない美容院の扉までくぐったのだ。そんな自分を思い返すと、少しだけ恥ずかしくなる。でも、それくらいには、浮かれていた。
夕焼けの最後の光が、まるで祝福のように二人を優しく包み込む。このまま時間が止まってしまえばいいのに、と本気で思った。
(……忘れたくないな、この時間)
千夏はそっとスマートフォンを取り出し、カメラを構えた。
(これが今日の最後の1枚だね……)
カシャリ、と小さなシャッター音が響く。画面には、自分の膝の上で安らかに眠る龍太と、その髪に触れる自分の指先が映っていた。その写真を見つめ、千夏は静かに微笑んだ。
──しかし、その瞬間だった。
「……おれは……すきです……」
ほとんど音にならない、掠れた寝言。
その言葉が耳に届いた瞬間、千夏の指が止まった。
「え……?」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。静かな公園に響いたのは、自分の心臓が大きく跳ねる音だけだった。でも、確かに聞こえた。はっきりと。
──好きです
それは、どんな夢の続きなのだろう。誰に向けられた言葉なのだろう。わからない。わかるはずがない。けれど、その問いが頭に浮かぶより先に、千夏の胸は期待と不安で張り裂けそうになっていた。
(……もしかして……)
息を呑み、そっと視線を落とす。眠る龍太の髪を、もう一度、今度は確かめるように指先で優しくすくった。
──きっと、ただの夢の中の話かもしれない。
本当のところはわからない。
ただの、甘い思い違いかもしれない。
でも、それでも──
「私も……」
その先を、今はまだ言葉にできない。いつか、この想いを真正面から伝えられる日が来るのだろうか。それとも、このまま胸の奥深くにしまい込むことになるのだろうか。千夏には、まだわからなかった。
今はただ、この奇跡のような瞬間に身を委ねていたい。
風が優しく吹き抜け、木々の葉がさらさらと囁き合う。まるでこのベンチだけが、世界の時間から切り離されてしまったかのように、穏やかな静寂が二人を包んでいた。
「──すき」
夜明け前の淡い光のように儚く紡がれたその言葉は、けれど確かに千夏の胸の奥で、消えない星のように輝き始めた。
今はまだ、届かなくてもいい。いつか、この想いが溢れ出ることを選んだ日に、ちゃんと彼の心に届けば、それでいいから。