親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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10話

 

 

 

 六月の午後の陽光は、もう春のものではなかった。アスファルトを白く灼くだけの、容赦のない熱。駅前広場を吹き抜ける風だけが、辛うじて初夏を名乗っている。

 龍太は、その風にさえ落ち着かず、時計台の下に立っていた。

 

 約束まで、まだ十分ある。

 

 行き交う人の誰もが、自分よりずっと確かな目的を持って歩いていく。まだ来ない千夏を無意識に探している自分に気づき、慌ててスマホに目を落とした。内カメラに映ったのは、見慣れているはずなのに、どこか借り物めいた男だった。

 

(……やりすぎたか?)

 

 部活を早めに切り上げ、予約した美容院に駆け込んだのが数時間前。いつもタオルで雑に乾かすだけの髪を、今日はワックスで束感を出し、サイドを短く整えた。ちゃんとしたかった。その一心が、今になって、鏡の中を他人行儀に見せている。

 

「……落ち着け、俺……」

 

 息を吐き、頭を振る。

 

 ——だけど、落ち着けるわけがない。

 

 ただの「先輩との外出」じゃない。部活帰りに帰ったことなら、何度もある。だけど今日は、デートだ。

 

(千夏先輩、何着てくるんだろう)

 

 あまり知らない彼女の、私服という未知の領域。想像するだけで、心拍が跳ねた。針が、やけにゆっくり進む。すれ違うカップルの笑い声が、鼓膜の上を滑っていく。視線が突き刺さる気がするのは、きっと、この異常な鼓動のせいだ。

 

(いやいや、そんなわけ——)

 

 頭を振った、その時。

 改札の奥に、見慣れた髪色が見えた。

 

 ——千夏だ。

 

 その瞬間、世界から音が消えた。鼓動だけが、耳の奥で鳴る。人混みをすり抜けてくる彼女が、スローモーションのように映った。

 薄いブルーのワンピースが、風をはらんで揺れている。見慣れたジャージの輪郭はそこになく、代わりに、柔らかな曲線があった。少し短くなった髪が、肩で踊る。ほんの数センチの変化が、彼女の空気を、凛としたものから、儚げで可憐なものへと変えていた。

 なにより、その足取りが、スキップしそうなほど弾んでいる。

 

「ごめんね、龍太くん。少し待った?」

 

 弾む息とともに、微笑む。その瞬間、龍太の頭は、真っ白になった。

 

「い、いえ、待ってないです」

 

 声が裏返る。

 取り繕う理性の壁を、動揺が易々と崩していく。

 

「そっか。良かった」

 

 安心したように笑った瞬間、ふわりと甘い香りがした。いつもと違う香り。それが、追い打ちをかける。

 

(……可愛い)

 

 思考を経由せず、目に映ったものが、そのまま胸に落ちた。言葉を失った龍太と、不思議そうな千夏。沈黙が広がっていく。何か、言わなければ。

 

「じゃあ、早速向かいましょう——」

 

 行き先を告げようと一歩踏み出した、その時。

 ふいに、千夏が回り込んだ。視界が、彼女でいっぱいになる。

 次の瞬間、両の頬を、柔らかく温かいものが包んだ。

 

「へっ? ちょ、せ、せんぱ——」

 

 両手で顔を挟まれ、龍太は石化した。掌中の宝物を確かめるように、彼女が覗き込んでくる。

 

「……可愛い?」

 

 尋ねたのは、彼女のほうだった。

 上目遣い。

 恥じらいに染まった頬を、隠そうともしない。

 

「…………めちゃくちゃ、可愛いです」

 

 しどろもどろになることさえ諦めた、魂の言葉だった。それを聞いて、千夏は満足そうに、ぱっと手を離す。

 

「ありがとう。龍太くんもカッコいいね」

「あ、ありがとう……ございます」

「じゃあ、行こうか」

 

 悪戯が成功した子供みたいに笑って、彼女はくるりと背を向け、今度こそ歩き出す。

 一人残された龍太は、しばらく動けなかった。頬に残る手の感触。耳の奥で、まだ暴れている鼓動。

 

(……耐えれねぇよ、こんなの)

 

 期待と、自分への呆れと。

 そのないまぜを、初夏の風が撫でていった。

 

 

 

 

 

 

 

 館内へ一歩入った瞬間、外の熱気が、嘘のように断たれた。

 ひんやり澄んだ空気。視界は、深海を思わせる淡い青に染まる。天井に投影された水面の揺らぎが、巨大な生き物の呼吸のように、ゆっくりと空間を満たしていた。耳に届くのは、抑えたBGMと、微かな水音だけ。都市の喧騒から切り離された、海の中だった。

 

「わぁ……綺麗」

 

 休日の水族館は、人でごった返している。それでも、龍太はこの選択を正解だと確信していた。白日の下より、この薄暗がりのほうが、彼女の光がよく見える気がしたからだ。

 案の定、視線が千夏一人に集まっていた。本人は水槽に夢中で気づきもしない。男たちの、感嘆と所有欲の入り混じった目。女たちの、羨望と、時に嫉妬の眼差し。

 

(こりゃ、俺がしっかりしないとな)

 

 庇護欲とも独占欲ともつかない、名前のない何か。龍太は半歩、彼女に寄った。

 

「先輩、水族館好きなんですか?」

「うん。お魚が泳いでるの、癒されるよね。可愛くてずっと見てられる」

 

 今にも「さかなさかな〜」と鼻歌を歌いそうな、無邪気な横顔。普段のクールな先輩然とした佇まいとのギャップが、龍太の張り詰めた糸を、ゆっくりほどいていく。

 

(……意外と、子供っぽいとこあるんだな)

 

 この青い光に縁取られた横顔を、切り取ってしまいたい。衝動のまま、こっそりスマホを向けた。

 

「……あっ」

 

 小さなシャッター音。気づいた千夏が、弾かれたように振り返る。レンズ越しに、視線がかち合った。表情が、むっとしたものに変わる。

 

「変な顔してない?」

「いや、すごい可愛らし……」

 

 思考を介さず滑り落ちた言葉に、龍太は心臓が凍りつくのを感じた。

 

(やべ……!)

 

 時すでに遅し。千夏の頬が、照明とは違う熱で、みるみる赤くなる。その熱が、龍太にまで伝染した。

 

 重い沈黙。

 どうにかしたい。

 それは千夏も同じだったらしく、慌ててスマホを構え、話題を探すように言った。

 

「りゅ、龍太くんは、じゃあ、その水槽のエイのマネしてみてよ」

 

 エイの口元が、特徴的に曲がっている。

 どこかユーモラスだ。

 ……それを、真似しろと。

 

「こ、こうですか?」

 

 顔をひょいと歪め、再現してみせると——

 カシャッ! 

 すかさず、シャッターが切られた。

 

「ふふっ……ものまね上手いね。そっくり」

「……なんで俺だけ変顔なんですか。消してください」

「だーめ。思い出として残しとくの」

「いや思い出って……」

 

 大事そうに画面を見つめ、クスクス笑う。その横顔を見ているうちに、消せと言う気力が抜けていった。

 

 足は、自然と次の水槽へ向かう。

 そこで二人を迎えたのは、悠然と泳ぐアザラシだった。ガラス一枚の向こうで、流線形の身体が、しなやかに水をかく。

 千夏が近づき、目を輝かせる。その姿がどこか子供のようで、龍太は微笑んだ。

 

「わぁ……可愛いね。こんなに間近で見るの、初めてかも」

「確かに。思ったよりでっかいですね」

 

 アザラシが、何も急がない様子で身体をくねらせる。気だるさと優雅さの同居した動きは、見ているだけで和んだ。

 

「のんびりしてるよね。なんだか、癒される……」

「先輩みたいですね」

 

 さらりと言った言葉に、千夏が目を丸くした。

 

「あ、いや、動きが似てるっていうか……ゆったりしてて、でも気づいたら、ちゃんと周りを引きつけてる感じ?」

 

 照れて頭をかく龍太。千夏はガラスに映った自分を見て、クスリと笑う。

 

「アザラシと似てるなんて、初めて言われたけど……悪い気は、しないかな」

 

 アザラシが水面に顔を出し、こちらを見るような仕草をした。

 

 「こっち見てるよ!」と、千夏が嬉しそうに指を差す。龍太も釣られて、手を振った。

 

「こいつ、意外と人懐っこいんだな」

「ね、可愛いよね……もっと見ていたくなる」

 

 静かで、温かかった。

 

 

 

 

 カフェスペースは、甘い匂いとコーヒーの香りに満ちていた。窓の外には海。遠くで、波が静かに砕けている。

 テーブルには、水族館オリジナルの「クラゲソーダ」と「珊瑚礁パフェドリンク」。千夏は、揺れるブルーのジュレを覗き込んでいた。

 

「これ、本当にクラゲみたい!」

「見た目は、まあ……。でも、飲むのには少し勇気がいりません?」

 

 苦笑して、龍太は自分のグラスに目を落とす。赤、オレンジ、黄色のゼリーがきらめき、トップに砂糖菓子の魚。グラスの中に、小さな熱帯の海が閉じ込められていた。

 千夏はスマホで、何枚もソーダを撮る。光を受けてジュレがきらめく瞬間を捉え、満足そうに頷いた。

 

「涼しげでいいね。夏にぴったりかも」

「先輩って、こういう可愛いの好きなんですか?」

「うーん、可愛いのも好きだけど……こういう場所だと、雰囲気に合うもの選びたくなるかな」

「あー、まあ、わかります」

 

 龍太は珊瑚礁ドリンクを一口。ストローを差すとゼリーがふるふる揺れ、ひんやりした感触が広がった。

 

「これ、意外と美味いな。甘さ控えめで」

「へえ、どんな味?」

「なんていうか……フルーツポンチみたいだけど、後味にラムネの爽やかさもあって……」

「ラムネかぁ……」

 

 その瞬間。千夏の視線が、磁石のように、龍太のグラスに吸い寄せられた。あまりに素直な、隠しようのない好奇心。

 龍太は吹き出すのをこらえ、黙って席を立つ。カウンターで予備のストローをもらい、戻ると、からかうように、そっとグラスを差し出した。

 

「どうぞ、飲んでみます?」

「えっ、いいの?」

「飲みたいって顔してましたからね。流石は食い意地」

 

 図星を突かれ、千夏は頬を赤らめつつ、おずおずとストローに口をつける。こくり、と喉が鳴った。

 その何気ない仕草から、なぜか、目が離せない。ストローに寄せた唇。白い喉の、微かな動き。普段の彼女からは窺い知れない無防備さが、龍太の胸を静かにざわめかせた。気まずさに、窓の外へ目を逃がす。穏やかな海が、広がっていた。

 

「うん、確かに美味しい。後味すっきりしてる」

「ですよね」

 

 満足そうに微笑むと、今度は千夏が席を立つ。新しいストローを自分のソーダに差し、グラスごと、そっと押し出してきた。

 

「私ばっかりもらっちゃうのも悪いから。どうぞ」

「いいんですか?」

「うん」

 

 促されるまま、龍太も青いソーダを一口。ぷるんとしたジュレと、ほんのりした甘さ。見た目通りの清涼感が、喉を潤した。

 

 ——間接的に、同じストローではないけれど。

 ——それでも、お互いのグラスを交換した、ということが。

 

 二人は顔を見合わせ、同時に、ふっと笑う。だが、笑みが消えるか消えないかの刹那、視線が絡んだことに気づいて、どちらからともなく、目を伏せた。心地よい緊張をはらんだ沈黙が、水槽の泡みたいに、ぷかりと浮かぶ。

 

「……ちょっと恥ずかしいね」

「そ、そうですね……」

 

 紛らわすように千夏が見た水槽では、小さな魚が泡とともに舞っていた。それを眺めながら、彼女がぽつりと呟く。

 

「久しぶりに、のんびりしたかも」

「まあ、予選前は練習でいっぱいいっぱいでしたからね」

「龍太くん、ずっと走ってたね」

「それ言うなら、先輩こそ朝から晩までバスケじゃないですか。どんだけ好きなんです」

 

 親しみを込めた呆れに、千夏が肩をすくめた。

 

「バスケ好きだから」

「俺も走るのが好きなので」

 

 ほとんど同時に、放たれた言葉。顔を見合わせ、今度は抑えきれずに、声を立てて笑う。

 

「一緒だね」

「一緒ですね」

 

 笑い声が、静かなカフェに溶けていく。千夏は、その「一緒」という響きを噛みしめるように、じっと龍太を見つめた。

 

「私ね、龍太くんのお家に住めて、よかった」

 

 ふとした沈黙の合間に、彼女が言った。さっきまでの快活さとは違う、穏やかで真摯な声。

 

「そうですか?」

「うん」

 

 視線を、少し下に落とす。

 

「最初は、家族と離れるのが寂しかったし、不安もあったの。でも、龍太くんの家族が、温かく迎えてくれたから。……ふふっ、龍太くんは気絶してたけど」

 

 最後の付け足しに、龍太は眉を寄せた。

 

「いや、そりゃそうですよ。急にあんなことになったんですから」

「一応ね、行く前にご挨拶は済ませたんだよ?でも、香織さんが、龍太くんには黙ってたほうが驚くからって」

「……それ絶対、面白がってただけじゃないですか。勘弁してくださいよ」

 

 大きな溜息に、千夏がまた、ころころと笑う。その無邪気さに和んでいると、ふと、笑みが収まった。表情に、翳りがさす。

 

「すごく今さらなんだけど……」

 

 ぽつりと零れた声は、戸惑うような、ためらうような色を帯びていた。

 

「龍太くん……その、嫌だったり、しなかった?」

 

 伏せた長い睫毛が、不安を物語っている。その問いが、龍太の胸の奥を、見えない棘でちくりと刺した。親友の想い人との、不可解で、甘い日々。

 

(……そりゃ、最初はな)

 

 突然始まった、有名な先輩との同居。戸惑わなかったと言えば、嘘になる。大喜への後ろめたさ。慣れない生活の気まずさ。けれど——

 

「嫌というより、衝撃のほうが強かったですよ」

 

 静かに、正直に答える。千夏が、ぱちりと瞬いた。

 

「年頃の女の子と一つ屋根の下なんて、どうしていいか分からなかったですけど……」

 

 そこで一度、言葉を切る。あの頃の葛藤を、胸の奥にしまった。そして、今ここにある気持ちだけを、すくい上げる。

 

「今は、楽しいですよ」

 

 その言葉に、千夏の表情が、ふわりとほどけた。

 

「私もね、龍太くんと仲良くなれて、楽しいな」

 

 その笑顔は、あまりに自然で。

 何の飾りもなくて、まっすぐで。

 だからこそ、龍太はそのまま見ていられなくて、目を逸らし、口元だけをわずかに緩めた。

 

(……なんか、ずるいな)

 

 心の奥に浮かんだその一言を、そっと飲み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トイレの前で、龍太は千夏を待っていた。大きな水槽の近く、小さな魚の群れが、夢の中のように泳いでいる。

 最初は戸惑いもあった。なのに、気づけば心地よくなっている。歩いて、話して、笑って——それが、妙に自然だ。

 そんなことを考えていた時だった。

 

「ねえ君、もしかしてモデルやってたりする?」

 

 少し甘く、しかし品定めするような声。振り返ると、流行の最先端を体現したような女が二人。巻いた髪、大胆なピアス、そして、龍太を値踏みする視線。

 

「……え?」

「いやー、絶対そう! 顔立ちが一般人じゃないもん。あの雑誌で見た気がするんだけど」

「私も!」

 

 声は無邪気に弾むが、視線は龍太の顔を分解していくようで、居心地が悪い。周囲の目が、肌にまとわりつく。

 

「いえ、違います。ただの学生です」

「うっそ、そんなわけないって。その顔、絶対芸能人レベルじゃん!」

 

 拒絶を意に介さず、一歩踏み込んでくる。龍太は無意識に後ずさった。

 その瞬間。

 ——涼やかな声が、その空気を、一瞬で吹き飛ばした。

 

「お待たせ、龍太くん」

 

 千夏だった。

 ただトイレから戻ってきただけのはずなのに、その存在は、薄暗い空間でスポットライトを浴びているように際立っている。艶やかな髪。凛とした佇まい。その美しさに、女二人が息を飲むのがわかった。

 

「え……あの人、誰?」

「やば、めっちゃ綺麗じゃん」

 

 強気が、引き下がる。千夏は彼女たちを一瞥すると——何も知らないふりをして、ゆっくり龍太の隣に立った。そして、ごく自然に、彼の腕にそっと触れる。

 

「何かあったの?」

「いや、なんか勘違いされて……モデルとか言われたけど、全然違うし」

「そっか。でも、こういう場所で声をかけられるって、珍しいね」

 

 言葉は穏やかだ。だが、その裏に、ほんの少しの棘がある。察したのか、二人はそそくさと後退りはじめた。

 

「ごめんね、邪魔しちゃったみたい。じゃ、私たち行こっか!」

「そうだね、じゃあまた……!」

 

 嵐のように現れ、嵐のように去る。それを見送り、龍太は首を傾げた。

 

「……なんだったんだ」

 

 わけが分からずそのまま歩みを進める。

 ふと隣で、千夏の雰囲気が少し変わった気がした。

 

「先輩? 大丈夫ですか?」

「う、うん! 大丈夫だよ?」

 

 そうは言うが。

 普段の彼女と少し雰囲気が違う気がした。思い当たるのは、先ほどの出来事だ。

 気を悪くしてしまったのだろうか。

 

「すみません、次から気をつけますね」

「べ、別に龍太くんは悪くないよ! 私の心が狭いだけで……」

「いやいや、先輩の心が狭かったら、他の人どうなっちゃうんです?」

 

 軽口に、千夏はさらに赤らめて、何か言いかけ、飲み込んだ。

 ふと、龍太の脳裏に、逆の光景が浮かぶ。

 もし、千夏が見知らぬ男たちに声をかけられていたら——。

 そう想像した途端、胸の奥が、ざらりとした。

 

 思わず、足が止まる。

 

「龍太くん?」

 

 不思議そうに見上げる瞳に、我に返る。

 

「あー、いや、そのですね……」

 

 なぜ、こんなことを思ったのか。その正体は、自分でもわからない。けれど、衝動的に、言葉が出ていた。

 

「手でも、繋ぎますか……?」

「えっ……」

 

 千夏が、大きく目を見開く。その純粋な驚きに、龍太は慌てて手を振った。

 

「あ、いや、その、また変なのに声かけられたら大変かなーと。恋人っぽくいれば、そういうのもないかなって」

 

 苦しい言い訳のあと、沈黙。千夏の顔が、サンゴのように、ゆっくり赤く染まっていく。

 視線が、揺れる。

 そして、ほんの少しの間のあと。

 ためらうように、そっと手が差し出された。

 

「……うん」

「えっ?」

「手、繋ごう?」

 気恥ずかしそうに微笑む姿に、龍太も照れながら、その手を取る。触れた肌は、白く、柔らかく、驚くほど温かい。その温もりが、電流のように、じんわりと心に染みていく。

 

「先輩って意外と手、小さいんですね」

「そ、そう?」

「バスケットボール、片手で持てなさそう」

「……そんなことないし」

「じゃあ、今日帰ったら証明してもらわないとですね」

「……」

「無言で指抓るのやめてください。冗談ですって」

 

 少し拗ねたように唇を尖らせる横顔が可愛らしくて、龍太の顔にも、自然と笑みが浮かぶ。

 二人は並んで歩きながら、繋いだ手の温もりと、互いの照れた笑顔を、心に刻むように、静かに感じていた。

 

 

 

 次に向かったのは、イルカショーのスタジアムだった。客席はすでに埋まり、賑やかなざわめきが満ちている。二人は中央付近の良い席を見つけた。

 

「ここ、いい場所ですね」

「うん。近くで見れるといいな」

 

 開始の音楽とともに、イルカたちがダイナミックなジャンプで姿を現す。水しぶきが太陽を浴びて虹色になり、歓声が上がった。千夏は子供のように手を叩き、目を輝かせている。その無防備な横顔を、龍太は眩しいものを見るように、そっと見つめた。

 

「先輩、楽しそうですね」

「うん。凄いよ、あのジャンプ!」

 

 イルカが宙を舞うたび、弾んだ声が歓声に溶ける。その純粋な喜びを見ているだけで、龍太の心も、水面の波紋のように、穏やかに広がっていった。

 やがてショーはクライマックスを迎え、司会者がマイクを取る。

 

「さて、ここで本日の特別ゲストを、ランダムでお招きします! 皆さんの中から、素敵な一組を!」

 

 期待と緊張のざわめき。司会者の視線が客席を巡り、そして、運命の糸に引かれるように、ぴたりと二人の上で止まった。

 

「そちらのカップルのお二人! ぜひステージへ!」

「えっ!?」

 

 すべての視線と拍手が、自分たちに集まる。「いや、カップルじゃ……」という抗議は、歓声にかき消された。抗う間もなく、二人はプールサイドへ促される。

 ステージに立つと、観客席の視線は、想像以上に熱かった。背中に汗が滲む。龍太は、隣の千夏の気配を意識した。

 

「今日はどちらから?」

「え、えっと……埼玉からです」

 

 戸惑う千夏に、司会者が嬉しそうに頷く。

 

「素敵ですね〜! お二人、本当にお似合いですよ! では記念に、イルカと撮影を!」

 

 スタッフに誘導され、プールの縁に立つ。促されるまま肩を寄せ合うと、普段は意識しない体温と、柔らかな感触が、服越しに伝わってきた。

 

(ち、近い……っ!)

 

 意識しないようにするほど、五感が鋭くなる。隣の千夏の、ほんのり赤い耳が、視界の端に映った。

 

「はい、チーズ!」 

 

 シャッター音とともに、その瞬間が切り取られる。ホッと胸を撫で下ろした龍太だったが——安堵は、あまりに早く打ち砕かれた。

 

「さて、せっかくですから。お互いの好きなところを、一つずつ教えていただきましょう!」

「ええっ!?」

 

 二人の声が、綺麗にハモった。会場から、温かい笑いが漏れる。

 

「大丈夫ですよ、リラックスして。では、どちらから?」

 

 マイクを向けられ、龍太は観念して息を吐く。こういうのは、男が先だろう。意を決して、口を開いた。

 

「えっと……じゃあ、俺から……」 

 

 深呼吸。少し緊張した声で、続ける。

 

「先輩は……いつも笑顔で、何事にもひたむきで頑張るところが、すごいと思います。それに……その、すごく、可愛らしいと、日々、思ってます」

「——っ」

 

 最後の言葉は、自分でも驚くほど、素直に出た。会場が「おお〜!」と沸く。千夏の頬が、一気に朱に染まった。

 

「そ、そんな……ありがとう。じゃあ、私も……」

 

 視線を泳がせ、逡巡した末に。

 千夏は、意を決したように顔を上げ、龍太の目を、真っ直ぐに見つめた。

 

「龍太くんの、真面目で努力家で、すごく優しいところが……好きです」

 

 その瞬間。

 龍太の世界から、すべての音が消えた。

 ただ、「好きです」という言葉だけが、何度も、胸の中で反響する。

 

「はい、素晴らしい! お二人、本当に素敵なカップルですよ!」

 

 司会者の声も、遠い場所から聞こえてくるようだった。

 

「では、お二人に特別に——イルカのジャンプをプレゼント!」

 

 ザッバーン! 

 大きな水しぶきが、二人を現実へ引き戻す。我に返った龍太は、自分が耳まで真っ赤なのを自覚した。隣の千夏も、顔を伏せ、袖でそっと濡れた頬を拭っている。

 

「……なんか、すごいことになりましたね」

「……うん」

 

 もはや、互いの顔をまともに見ることさえできない。ぎこちない足取りでプールサイドを去る二人を、温かい拍手が見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 夕暮れの空が、水彩を滲ませたように、静かに色を変えていく。

 千夏がトイレに立ったあとのベンチで、龍太は手元のお揃いのストラップを、ぼんやり眺めていた。夕陽を受けた青いイルカが、最後の光をかき集めて、小さく輝いている。その光が目に映るたび、心は否応なく、あの熱気の中へ引き戻された。

 

 ——龍太くんの、真面目で努力家で、凄く優しいところが……好き、です

 

 頭の中で、リフレインする。

 あの瞬間の、少し潤んだ瞳。わずかに震えた唇。冗談と切り捨てるには真剣で、しかし、公の場で告げられるには、唐突すぎた。本気か、それとも場の空気か。真意を測りかね、思考は同じ角を、何度も曲がる。

 

「……どういう意味だったんだよ」

 

 誰にともなく呟き、ストラップを握りしめる。

 答えは、ない。

 ただ、「もしも」だけが、光と影のように心を揺さぶった。もし、本心だったなら。もし、そうでなかったとしたら。彼女の「好き」は、どんな色をしていたのだろう。友人としての好意か、それとも——

 

 ——でも、確かめるのが、怖い。

 

 ただのリップサービスだったら、舞い上がった自分が、滑稽でたまらない。だが、もし、そこに特別な意味があったら、もう二度と、今までの気楽な関係には戻れないかもしれない。そのどちらも、今の龍太には、受け入れ難かった。

 思考が袋小路にはまった、その時。

 ふと、気づく。

 なぜ、自分はここまで、彼女の一言に、心を乱されているのか。

 彼女の笑顔。

 仕草。

 繋いだ手の温もり。

 ふとした瞬間の、甘い匂い。

 今日見た、知らなかった表情が、次々と蘇る。そのたび、心の奥で固く閉ざしていた何かが、ことり、と外れていく感覚があった。

 

 それは、もう、ぼんやりとした憧れではない。

 

 ただの同居人として、ただの先輩として抱く感情でも、ない。

 

(……どうしよう) 

 

 気づいてしまった。この胸のざわめきの、正体に。

 気づかなければよかった、とは思わない。だが、名前をつけてしまった以上——今まで通り、接することができるだろうか。平然と「おはよう」と言って、他愛ない冗談を交わし、隣で笑うことが。

 

(今まで通り、普通に……できるか?)

 

 少なくとも、今の自分に、その自信はなかった。

 ふと顔を上げると、オレンジだった空が、いつの間にか、深い紫紺へ変わりはじめていた。その美しいグラデーションに、ほんの少しだけ、心が慰められる。龍太は息をつき、疲れた頭をベンチの背にもたせた。頬を撫でる風に身を委ねるうち、意識は、ゆっくりと現実から遠ざかっていった。

 

 

 

 

 どれほどの時間が、流れただろう。

 戻ってきた時、龍太はベンチにもたれ、静かな寝息を立てていた。沈む太陽の最後の光が、無防備な横顔に、柔らかな陰影を落としている。日中の緊張から解放された子供のように、穏やかな寝顔だった。

 彼の指先は、二人で選んだストラップを、宝物のように握っている。青いイルカが、夕闇に溶ける寸前の光を捉えて、はかなくきらめいた。その姿が妙に幼く、愛おしくて、千夏の唇から、自然と笑みがこぼれる。

 

(……待たせちゃったよね)

 

 申し訳なさと、彼が怒っていないことへの安堵が、混じり合う。本当は、もっと早く戻るはずだった。けれど、今日の一つ一つが、あまりに鮮烈で。心を整理するのに、思った以上の時間が必要だったのだ。

 

「……ふふっ」

 

 寝顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。この感情に、どんな名前をつければいいのだろう。言葉にしようとするほど、輪郭が曖昧になる。それでも、一つだけ、確かなことがある。

 

 ——愛おしい。

 

 その想いに導かれるように、千夏はそっと隣に腰を下ろした。ほんの一瞬ためらってから、眠る彼の頭を、自分の膝へと導く。

 

「今日は、誘ってくれて、ありがとう」

 

 誰に聞かせるでもなく、囁いて、髪を撫でた。少し硬くて、でも柔らかな感触。ゆるく跳ねた前髪に触れると、くすぐったいような、切ないような気持ちが込み上げる。

 

 きっかけが両親の言葉だったとしても、彼自身が「誘おう」と思ってくれたことが、何より嬉しかった。だから自分も、今日のために服を選び、何度も鏡の前で悩み、普段は行かない少し高めの美容院の扉までくぐった。思い返すと、少し恥ずかしい。でも、それくらいには、浮かれていたのだ。

 夕焼けの最後の光が、祝福のように二人を包む。このまま時間が止まればいいのに、と本気で思った。

 

(……忘れたくないな、この時間)

 

 そっとスマホを取り出し、カメラを構える。

 カシャリ、と小さな音。画面には、膝の上で眠る龍太と、その髪に触れる自分の指先が映っていた。それを見つめ、千夏は静かに微笑む。

 

 ——しかし、その瞬間だった。

 

「……おれは……すき、です……」

 

 ほとんど音にならない、掠れた寝言。

 その言葉が耳に届いた瞬間、千夏の指が、止まった。

 

「え……?」

 

 一瞬、何が起こったのか、理解できなかった。静かな空間に響いたのは、自分の心臓が跳ねる音だけ。

 でも、確かに、聞こえた。

 

 どんな夢の続きなのだろう。

 誰に向けた言葉なのだろう。

 わからない。

 わかるはずがない。

 けれど、その問いが浮かぶより先に、千夏の胸は、期待と不安で張り裂けそうになっていた。

 

(……もしかして)

 

 息を呑み、視線を落とす。眠る彼の髪を、もう一度、今度は確かめるように、そっとすくった。

 

 ——きっと、ただの夢の中の話かもしれない。

 

 本当のところは、わからない。ただの、甘い思い違いかもしれない。

 でも、それでも——

 

「私も……」

 

 その先は、今はまだ、言葉にできない。いつか、この想いを真正面から伝えられる日が来るのだろうか。それとも、このまま胸の奥にしまい込むのだろうか。千夏には、まだ、わからなかった。

 今はただ、この奇跡のような瞬間に、身を委ねていたい。

 風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと囁く。このベンチだけが、世界の時間から切り離されたように、穏やかな静寂が二人を包んでいた。

 

「——」

 

 夜明け前の淡い光のように儚く紡がれたその言葉は、けれど確かに、千夏の胸の奥で、消えない星のように輝きはじめた。

 今はまだ届かなくていい。

 いつかこの想いが溢れ出ることを選んだ日に、ちゃんと彼の心に届けば。

 それでいいから。

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