親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
むし暑さが、地面にへばりつくように残る夏の午後。
夏霞がぼんやりと空に漂い、息をひそめたように町全体を包んでいた。じっとり湿った空気の中、遠くから蝉の声が、途切れることなく響いている。まるで夏そのものが、しがみつくようにそこにあった。
目の前には、小さな公園のバスケットゴール。
そして、その下に、一人の少女がいた。
肩にかかるほどのミディアムヘア。小さな手で、何度も何度も、シュートに挑んでいる。まだ幼さの残る、可愛らしい少女だった。
しかし——ゴールまで、届かない。
ボールはリングに触れることもなく、コンクリートに弾かれ、転がっていく。
それでも、少女は諦めなかった。
汗を拭うこともせず、小さな手で拾い上げ、また同じ動作を繰り返す。息を整え、膝を曲げ、腕を伸ばし、精一杯の力で放る。
空を切ったボールは、またしても届かず、地面に落ちた。
けれど、立ち止まらない。
芯に、冷たい鉄の棒みたいな意志を埋めて。
拾って、投げて。拾って、投げて。
その姿が、龍太の目に焼きついた。
——がんばれ。
心の中で、そう思ったつもりだった。だけど、気づけば、声になっていた。
「……がんばれ!」
「——っ!?」
少女が、驚いてこちらを振り向く。
その瞬間——目が、合った。
真っ直ぐで純粋なその瞳に、龍太は、確かな既視感を覚えた。
途端に、景色がゆらぎ、夏の陽光が、白く溶けていく——。
気がつくと、薄暗い空間にいた。
古びた木の床に、無数の傷。歩くたび、わずかに軋む。空気はやや湿っぽく、閉じ込められたような匂いが、鼻の奥をくすぐった。何とも言えない懐かしさが、そこに漂っている。
壁際の棚には、空気の抜けたボールが雑多に積まれ、埃をかぶって横たわっていた。ロープ、コーン、古びたマット。重ねられたマットには、時間の重みが、そのまま染み込んでいる。
天井近くの小窓から差すのは、わずかな光。それが埃とともに宙を漂い、時間が止まったような静寂を映していた。
誰もいないはずの、器具庫。
だが、今は確かに、"気配"がある。
微かな香りが、鼻先をかすめた。
それだけで、龍太の記憶が、ふっと刺激される。
——けれど、身体が動かない。
仰向けのまま、全身が重力に縛られているようだった。手も足も動かせず、喉の奥に、言葉だけが引っかかる。考えるより先に、ただ"ここにいる"ことを、受け入れるしかなかった。
そして——目の前に、彼女がいた。
千夏が、すぐそこにいた。
無言で、龍太を見下ろしている。静かに、ゆっくりと髪を耳にかける。その仕草が、なぜだか、いつもより艶っぽい。睫毛の陰から覗く瞳は深く、底の見えない湖面のように澄んでいた。
喉が、渇いた。
心臓が、妙にうるさい。
「……そんな顔、するんだ」
囁くような声が、静寂を震わせる。優しく、けれど逃れられない、密やかさ。何か言わなければと思うのに、喉の奥で言葉が絡まって、出てこない。視線さえ、彼女の引力から逃れられなかった。
千夏の指先が、そっと頬に触れる。なぞった軌跡が、じんわりと熱を帯びていく。
「ふふっ……」
笑った。
その、かすかな笑みひとつに、鼓動がまた跳ねる。
千夏の身体が、ゆっくりと傾いた。覆いかぶさるように、近づいてくる。
髪がさらりと流れ落ち、香りが鼻先を掠めた。柔らかくて、甘くて、でもどこか爽やかな——いつも家で嗅いでいる香り。けれど今は、息の合間に混ざるほど、近い。
気がつけば、視線が、彼女の胸元に吸い寄せられていた。
第一ボタンが、外れている。緩んだ襟の隙間から、うっすら汗ばんだ肌が覗いた。喉元が動き、布地が揺れるたび、一瞬、その奥がちらつく。
「……そんなに固くならなくてもいいのに」
低く、甘い声が、耳の奥に忍び込む。動けない。繰り返す言い訳を、彼女は見透かしているようだった。
唇が、少しずつ、近づいてくる。唇の輪郭。まつ毛の影。吐息の温度。すべてが、もうすぐ触れる距離だった。
「もう……いいよね」
その言葉が、内側を熱く揺さぶる。彼女の手が、胸元に触れた。小さな手から伝わる、確かな体温。
「……りゅうたくん」
女というものを丸出しにしたような、滑らかな声の旋律。柔らかな唇が、今にも触れそうな距離まで——
その瞬間。
ぱちん、と。
龍太の意識が、弾け飛んだ。
「っ!?」
息を呑み、目を見開く。
天井が、見えた。白くて平坦な、見慣れた自室の天井。
夢だ。
夢だった。
思わず、布団の中を確認する。異常なし。安堵する一方で、全身に、変な汗が浮いていた。
(……何やってんだ、俺)
重なるように残る、夢の残滓。やけにリアルだった香りと、感触。罪悪感にも似た気まずさが、胸の内で渦を巻く。
亀になりたい、とふと思った。頑丈な甲羅に首ごと隠して、そのまま海の底に沈んでしまいたい。
「……とにかく、起きるか……」
ぼそりと呟いて、ぎこちなく布団を跳ね除ける。ランニングウェアに袖を通し、寝ぼけ眼をこすりながら、扉に手をかけ——
「——うぉっ!?」
廊下の隅。
そこに、当たり前のように、千夏がちょこんと座り込んでいた。
「おはよう」
夢の中の妖艶な姿とはまるで違う、いつもの穏やかな笑顔。そのギャップに、龍太の混乱は頂点に達した。
「お、おはようございます……ってそうじゃなくて、こんなところで何してるんですか!?」
動悸が、止まらない。さっきの夢のせいで、まともに目を合わせられない。千夏は、その慌てように、クスッと笑って立ち上がった。白い半袖Tシャツに半ズボン。いつものバスケの格好だ。
「龍太くんが、そろそろ起きてくる頃かなーって」
「いやいや、だからって」
こんな風に部屋の前で待つものだろうか。その疑問が顔に出ていたのか、千夏がふわりと微笑む。
「今日は何となく、一番に龍太くんに、おはようって言いたかったの」
……。
脳が、一瞬、停止する。
(……な、なんだよ、それ……)
意味を考えるより先に、心が反応してしまう。ずるい。そんな顔で、そんなことを言われたら、直視できるわけがない。
「龍太くん、これから走りに行くんだよね?」
「そ、そうですけど」
「私もついて行っていい?」
「えっ」
予想外の提案に、素っ頓狂な声が出た。
「でも、先輩バスケやんなくていいんですか?」
千夏は「んー」と考える素振りのあと、悪戯っぽく微笑む。
「たまには、違う運動してみようかなって。ほら、バスケもコート走る体力いるし」
その笑顔を見た瞬間、龍太の中で、何かがふっと軽くなった。もう、考えるのはやめよう。
「……じゃあ、行きますか」
「うん。じゃあ、はい」
そう言って、彼女がすっと細い手を差し出した。
「?」
「握手」
意図は、わからない。だが、彼女はただ、穏やかに微笑んでいる。龍太は、引き寄せられるように、おずおずとその手を取った。
——あの日、繋いだ手の記憶が、指先に蘇る。
その柔らかさと、少しの温度。
それが、また、心を揺らすのだった。
「——ってなわけで、八つ当たりじゃないけど、千夏先輩も一緒に走るからよろしく」
「は?はぁぁっ!?」
「朝っぱらから煩いぞ」
開口一番、耳をつんざく大声に、龍太は眉をひそめた。
驚きと戸惑いの入り混じった顔の大喜が、信じられないものでも見たように、龍太の後ろを見る。その視線の先には、のんびり髪を耳にかけながら、穏やかに笑う千夏がいた。
「おはよう、大喜くん」
「お、おはようございます……って、え!?なんで!?なんで先輩がここに!?」
目をまん丸にする大喜に、千夏は笑顔のまま返す。
「私も一応、朝練仲間だし。たまには一緒に走ってみようかなーって。よろしくね、大喜くん」
「えぇぇぇ……!!?」
無理もなかった。男二人、黙々と走るのが常だったこの時間に、彼女がいる。その事実だけで、いつもの風景が、まるで別の色彩を帯びていた。
だが、今の龍太に、その新鮮さを味わう余裕は、微塵もない。
——今朝の夢のせいで、千夏に、妙にぎこちなくなっている。
頭の芯が痺れるような感覚が、まだ残っていた。起き抜けに焼き付いた残像は、時間とともに薄れるどころか、むしろ輪郭を鮮明にしていく。
(……なんであんな夢、見たんだ俺……)
耳元の甘い声。
ふと見えた、白い鎖骨。すぐそこまで近づいた、唇の柔らかさ。そのひとつひとつが、本人を前にすると、残酷なまでにリアルな映像となって、脳裏で再生される。
「龍太くん?」
不意に名を呼ばれ、肩がびくりと跳ねた。何気ない呼びかけにすら、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走る。平静を装いたいのに、意識するほど身体は正直に反応し、もはや顔をまともに見ることさえできない。
(……ダメだ、意識すんな。落ち着け)
言い聞かせるが、意識するほど、空回りする。
「よ、よーし! 準備運動するかー!」
無理やり明るく声を張り、身体を伸ばして取り繕う。ぎこちなく腕を回しながら、横目で千夏を見ると——
ストレッチしながら、彼女は、ちらちらとこちらを見ていた。
(やばい……バレてるかもしれない……)
青ざめながらも、打開する術はない。このままでは、ただの挙動不審な後輩だ。焦りに駆られた龍太は、ほとんど衝動的に叫んだ。
「——よーい、スタート!!」
「えっ!? ちょっ、待てよ!」
「急に!?」
大喜と千夏の声が重なるのを背中で聞きながら、龍太は力強く地面を蹴った。
走れ。
今は、走れ。
身体を酷使すれば、この厄介な思考も、どこかへ消えてくれるはずだ。
朝の空気が頬を打つ。足裏から、地面の感触が伝わる。自分の呼吸音だけがリズムを刻む中、背後から「まってー!」と駆け寄る声が追いかけてくる。
——千夏の声だ。
(……ダメだ。これじゃ、煩悩は抜けねぇ)
心のどこかで、諦めにも似た笑いがこぼれそうになる。
そう思いながらも、龍太は走り続けた。
息を弾ませながら——ほんの少しだけ、後ろから聞こえる声に、嬉しさを感じてしまっている自分に、気づきながら。
「……おい、地面に同化するなよ」
学校までのランニングを終えた途端、大喜は糸の切れた操り人形のように、アスファルトへ崩れ落ちた。肩で激しく息をして、顔を上げる気力さえないようだ。
「……お前、いきなり全力で飛ばすなよ……。本気で……死ぬかと思った……」
這いつくばったまま、恨みがましい視線を向けてくる。
「いやいや、毎回お前が言ってることだろ。ほら、立てって」
軽口を叩きながらも、龍太はごく自然に手を差し伸べていた。
その隣で、千夏が真っ白なタオルで、額の汗をそっと拭う。その仕草ひとつで、彼女の周りだけが、喧騒から切り離されたように涼やかに見えた。呼吸はわずかに弾んでいるが、表情は穏やかで、乱れひとつない。
「龍太くん、相変わらず速いね」
「いやいや、大喜が勝手にバテてるだけですよ」
ニヤリと冗談めかすと、大喜がなおさら顔をしかめる。
「……まだ、針生先輩とのダッシュのほうが、マシかも」
「フフッ、いつも大喜くんは最後、地面と仲良しだったもんね」
クスクス笑いながら、千夏が疲れ果てた大喜を見下ろす。龍太も思わず肩をすくめた。
休憩を終えると、それぞれの部活へ向かう時間になる。
龍太はいつものように陸上部の朝練へ向かおうとして、ふと足を止めた。
気づけば、千夏と大喜の背中を、目で追っていた。
——久しぶりに、二人の朝練、見てみようかな。
気まぐれのような、けれどどこか確かな気持ちで、龍太は彼らの練習場所へ向かう。
体育館のドアを静かに押し開けると、冷たい空気とともに、ボールがフロアを叩く軽快な音が響いてきた。
千夏の姿が、目に入る。
ただひたすらに、シュートを繰り返していた。軽やかなステップ。無駄のないフォーム。放たれたボールは美しい弧を描き、リングに吸い込まれるように、ネットを揺らす。
一方、大喜は鏡の前で、黙々とスマッシュのフォームを確認していた。ラケットを握る手の力。空気を切り裂く、鋭いスイング音。その表情は、鏡の中の自分自身と対話するように、真剣だ。
——見慣れたはずの、光景。
千夏は、大喜の憧れだった。
その想いを知っていたからこそ、龍太は親友として、二人を応援してきた。
それなのに——今、大喜の視線の中に、かつてのような熱はない。ただひたすらに、己の鍛錬に没頭している。その姿が、以前とは、明らかに違って見えた。
(……あいつは、もう前に進んでるんだろうな)
それに比べて、自分はどうだ。
千夏への想いを、自覚してしまった。けれど、その一歩が踏み出せない。この想いが、彼女の未来に影を落とすのではないか。もし拒絶されたら、この心地よい関係は、どうなってしまうのか。答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると巡る。
「なーにしてんのー!」
背後から弾ける声に、思考の渦から引き戻された。
「ぬぉっ!?」
膝裏に衝撃。体勢を崩しかけ、何とか堪える。振り返ると、にししっと得意げに笑う、雛がいた。いたずらが成功した子供のような顔だ。
「油断してると危ないぞー」
「……お前なぁ。急に膝カックンするなって。心臓に悪い」
「龍がぼーっとしてるからじゃない?」
「……まぁ、否定はしない」
実際、今朝からずっと上の空だった自覚はある。
「やれやれ、そんなんじゃインハイいけないぞー」
「インハイ関係ねぇだろ」
呆れながらも、龍太はどこかほっとしていた。こうやって何気ない会話ができることが、少しだけ心を軽くする。
「何か考え事?」
「いや、単純に二人とも頑張ってるなーって思っただけだ」
「二人とも大会前じゃなくても熱心だからねぇ」
まるで他人事のように言う雛。龍太からすれば、彼女もその一人なのだが。
「それより、雛来るの早くね?まだ午前練まで一時間半以上あるぞ?」
「大喜たちがいると思ったから、ちょっとだけ早起きしたの!」
その声には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。ふと、雛がいたずらっぽく顔を寄せてくる。
「それよりさ——」
耳を貸せと手招きされ、身を屈めると、ひそひそ声で尋ねられた。
「どうだったの?先輩とのデート」
「な、なんだよ急に」
「えー、だってどうなったか気になるじゃん。一応、焚き付けちゃったわけだし。それで、うまくいった!?」
目を輝かせて詰め寄る雛に、龍太は小さく溜息をついた。
「まぁ、楽しかったよ……先輩も楽しかったって言ってくれたし」
その言葉を聞いた瞬間、雛の顔がぱぁっと明るくなる。
「良かったじゃん! 鈍感男もようやく進歩したね!」
「いてっ、叩くなっての!」
バシバシと背中を叩かれ、龍太は身を縮めた。それでも、どこかくすぐったいような、嬉しい気持ちが湧いてくる。
「まぁ、ありがとな。助かった」
「いいってことよ。龍とは長い付き合いなんだから、この雛様に任せときなさいって」
「急に姉御肌感出してくるんじゃねぇよ」
けれど、本音を言えば、龍太は本当に感謝していた。だからこそ、今度は自分が、彼女の背中を押す番だと思った。
「じゃあ、次は雛の番だな。背中、押してやるよ」
「へっ?」
間抜けな声を漏らす雛に、龍太はにやりと笑う。
「今すぐ大喜に告ってこい」
「えぇぇ!? なんで私だけ難易度跳ね上がってるのよ!!」
「いや、お前らはもう夫婦みたいなもんじゃん。ほら、よく言うだろ、当たって挫けろって」
「砕けろよ! というよりどのみち振られて終わってるじゃない! 応援してるしてないどっちなのよ!」
「でも、好きなんだろ? 大喜のこと」
その一言に、雛の勢いが、ぴたりと止まった。
頬がほんのり染まり、声が小さくなる。
「そ、それとこれとは話が違うし……」
そう言いながら、ぽつりと呟いた。
「……大喜が私のこと、好きなのかも分かんないし」
その声は、普段の彼女からは想像もつかないほど、弱々しかった。
「なんだよ、いつになく弱気じゃんか」
「べ、別にいつも強気ってわけじゃない! うぅ〜、なんで私が大喜なんかに……後でパンチしてやる」
「そうだな。でっかいの、かましてやれよ」
その言葉に、雛は小さく笑った。
——そんな、ささいなやり取りの最中だった。
龍太は、ふと、背中に突き刺さるような視線を感じ、反射的にそちらを向いた。
そこには、ボールを両手で持ったまま、こちらをじっと見つめる、千夏の姿があった。
「……っ!」
息が、詰まる。
その視線は、鋭くも、怒っているわけでもない。ただ、静かな水面のように凪いでいて、底が見えない。その静けさが、逆に、龍太の心をざわめかせた。
焦って隣の雛に助けを求めると、彼女も驚いたように固まっている。だが、その視線は、別の方向を向いていた。
その先には——大喜がいた。
鏡の前で素振りをしていたはずの彼が、こちらを見ていたのだ。目が合ったのも束の間、大喜は気まずそうに、すぐ目を逸らした。
千夏は、変わらず、こちらを見つめている。その瞳の奥にある感情は、龍太には読み取れない。
(な、なんなんだ、この空気……)
居心地の悪さに、龍太は喉をゴクリと鳴らした。
原因は、わからない。けれど、何かしら——自分が知らない何かが、この場に漂っているような気がしてならなかった。
——俺、なんかしたか……?