親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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11話

 

 

 むし暑さが地面にへばりつくように残る夏の午後。夏霞がぼんやりと空に漂い、息をひそめたように町全体を包んでいた。じっとりと湿った空気の中、遠くから蝉の声が途切れることなく響いている。まるで夏そのものが、しがみつくようにそこにあった。

 目の前には、小さな公園のバスケットゴール。

 そして、その下には、一人の少女がいた。

 肩にかかるほどのミディアムヘア。小さな手で、何度も何度もバスケットボールをシュートしようと挑んでいた。まだ幼さの残る、可愛らしい雰囲気の少女だった。

 

 しかし──ゴールまで届かない。

 

 ボールはリングに触れることもなく、コンクリートの上に弾かれ、転がっていく。

 それでも、少女は諦めなかった。

 汗を拭うこともせず、小さな手でボールを拾い上げ、また同じ動作を繰り返す。

 息を整え、膝を曲げ、腕を伸ばし、精一杯の力を込めてボールを放る。

 しかし、空を切ったボールは、またしてもゴールに届かず、地面に落ちた。

 けれど、少女は立ち止まらなかった。

 芯に冷たい鉄の棒みたいな意志を埋めて。

 拾って、投げて、拾って、投げて。

 その姿が、龍太の目に焼きついた。

 

 ──がんばれ。

 

 心の中でそう思ったつもりだった。だけど、気づけば声になっていた。

 

「……がんばれ!」

「──っ!?」

 

 少女が驚いてこちらを振り向いた、その瞬間──目が合う。その真っ直ぐで純粋な瞳に、龍太は確かな既視感を覚えた。途端に、景色がゆらぎ、夏の陽光が白く溶けていく。

 

 瞬間、景色が、ゆらぎ、光が溶けていく──。

 

 気がつくと、ぼんやりとした薄暗い空間にいた。

 古びた木製の床には、長年の使用によって刻まれた傷が無数に走っている。歩くたび、わずかに軋む音が耳に届いた。空気はやや湿っぽく、閉じ込められたような匂いが鼻の奥をくすぐる。何とも言えない懐かしさが、そこには漂っていた。

 壁際の棚には、空気の抜けたバスケットボールやサッカーボールが雑多に積まれ、かつての活躍を物語るように、埃をかぶって静かに横たわっている。ロープやコーン、古びたマット、ラインテープの束が棚の隅に寄せられ、重ねられたマットには時間の重みがそのまま染み込んでいた。

 天井近くにある小さな窓から差し込むのは、ごくわずかな光。その光が埃とともに宙を漂い、まるで時間が止まったような静寂を映し出していた。

 誰もいないはずの器具庫の中。だが、今は確かに“気配”がある。

 微かな香りが、鼻先をかすめる。 それだけで、龍太の記憶がふっと刺激された。

 

 ──けれど、身体が動かない。

 

 仰向けになったまま、まるで体全体が重力に縛られているようだった。手も足も動かせず、喉の奥に言葉だけが引っかかる。考えるよりも先に、ただ“ここにいる”ことを受け入れるしかなかった。

 そして──目の前には、彼女がいた。

 

 千夏が、すぐそこにいた。

 彼女は無言で龍太を見下ろしていた。静かに、ゆっくりと髪を耳にかけるその仕草が、なぜだかいつもより艶っぽく感じられた。睫毛の陰から覗く瞳は深く、まるで底の見えない湖面のように澄んでいる。

 喉が、渇いた。心臓が妙にうるさく鳴っている。

 

「……そんな顔、するんだ」

 

 囁くような声が、静寂を震わせる。優しく、けれど逃れられない密やかさ。何か言わなければと思うのに、喉の奥で言葉が絡まって出てこない。視線さえ、彼女の引力から逃れられなかった。千夏の指先が、そっと龍太の頬に触れた。その指がなぞった軌跡が、じんわりと熱を帯びていく。

 

「ふふっ……」

 

 彼女が笑った。

 かすかな、その笑みひとつに、鼓動がまた跳ね上がる。

 千夏の身体が、ゆっくりと傾いた。龍太の上に、覆いかぶさるように近づいてくる。

 髪がさらりと肩から流れ落ち、その香りが鼻先を掠めた。柔らかくて甘くて、でもどこか爽やかな──いつも家で嗅いでいる香り。けれど今は、その香りがすぐそばで、息の合間に混ざるほど近い。

 気がつけば、視線が彼女の胸元に吸い寄せられていた。

 制服の第一ボタンが外されていて、わずかに緩んだ襟の隙間から、うっすらと汗ばんだ肌が覗く。喉元がわずかに動き、柔らかな布地が揺れるたび、ほんの一瞬、その奥の肌がちらついた。

 

「……そんなに固くならなくてもいいのに」

 

 低く、甘い声が耳の奥に忍び込んでくる。動けない。思考の中で繰り返す言い訳を、彼女は見透かしているようだった。

 彼女の唇が、少しずつ、近づいてくる。唇の輪郭、まつ毛の影、吐息の温度……全てが、もうすぐ触れる距離だった。

 

「もう……いいよね」

 

 その言葉が、龍太の内側を熱く揺さぶる。その時、彼女の手が龍太の胸元に触れた。その小さな手から伝わる確かな体温。

 

「……りゅうたくん」

 

 女というものを丸出しにしたような滑らかな肉声の旋律と共に、柔らかな唇が、今にも触れそうな距離まで近づく──

 その瞬間──ぱちん、と。

 

 龍太の意識が弾け飛んだ。

 

「っ!?」

 

 息を呑んで、目を見開く。 天井が見えた。白くて平坦な、見慣れた自室の天井。

 

 夢だ。夢だった。

 

 思わず、布団の中を確認する。異常なし。 それに安堵する一方で、全身に変な汗が浮いていた。

 

(……何やってんだ、俺)

 

 重なるように残る夢の残滓と、やけにリアルだった香りや感触。罪悪感にも似た気まずさが、胸の内を渦巻いていく。

 亀になりたい、とふと思った。亀になって、頑丈な甲羅の中に首ごと隠し、そのまま永遠に海の底に沈んでしまいたい、と。

 

「……とにかく、起きるか……」

 

 ぼそりと呟いて、ぎこちない動きで布団を跳ね除ける。

 ランニングウェアに袖を通し、寝ぼけ眼をこすりながら、扉に手をかけ──

 

「──うぉっ!?」

 

 廊下の隅。そこに、まるで当たり前のように、千夏がちょこんと座り込んでいた。

 

「おはよう」

 

 夢の中の妖艶な姿とはまるで違う、いつもの穏やかで優しい笑顔。そのギャップに、龍太の混乱は頂点に達した。

 

「お、おはようございます……ってそうじゃなくて、こんなところで何してるんですか!?」

 

 心臓の動悸が止まらない。 さっきの夢のせいで、まともに目が合わせられない。千夏は、そんな彼の慌てようにクスッと笑いながら、スッと立ち上がった。通気性の良さそうな白の半袖Tシャツに半ズボンは、いつもの彼女のバスケをする格好だ。

 

「龍太くんがそろそろ起きてくる頃かなーって思って」

「いやいや、だからって」

 

 こんな風に部屋の前で待つものだろうか。その疑問が顔に出ていたのか、千夏がふわりと微笑んだ。

 

「今日は何となく、一番に龍太くんにおはようって言いたかったの」

 

 ……。

 脳が、一瞬、停止する。

 

(……な、なんだよそれ……)

 

 意味を考えるよりも先に、心が反応してしまう。ずるい。そんな顔で、そんなことを言われたら、直視できるわけがない。

 

「龍太くん、これから走りに行くんだよね?」

「そ、そうですけど」

「私もついて行っていい?」

「えっ」

 

 予想外の提案に、思わず素っ頓狂な声が出た。

 

「でも、先輩バスケやんなくていいんですか?」

 

 千夏は「んー」と少し考える素振りを見せた後、悪戯っぽく微笑んだ。

 

「たまには、違う運動してみようかなって。ほら、バスケもコートの中走る体力必要だし」

 

 その笑顔を見た瞬間、龍太の中で何かがふっと軽くなった。もう、考えるのはやめよう。

 

「……じゃあ、行きますか」

「うん。じゃあ、はい」

「?」

 

 そう言って、彼女がすっと細い手を差し出した。

 

「?」

「握手」

 

 その意図は分からない。だが、彼女はただ穏やかに微笑んでいるだけだ。龍太は、まるで引き寄せられるように、おずおずとその手を取った。

 

 ──あの日、繋いだ手の記憶が、指先に蘇る。

 

 その柔らかさと、少しの温度。

 それが、また心を揺らすのだった。

 

 

 

 

 

 

「──ってなわけで、八つ当たりじゃないけど、千夏先輩も一緒に走るからよろしく」

「は? はぁぁっ!?」

「朝っぱらから煩いぞ」

 

 開口一番、耳をつんざくような大声に、龍太は眉をひそめる。

 驚きと戸惑いが入り混じった表情の大喜が、信じられないものでも見たかのように龍太の後ろを見つめる。その視線の先には、のんびりと髪を耳にかけながら、穏やかに笑う千夏がいる。

 

「おはよう、大喜くん」

「お、おはようございます……って、え!? なんで!? なんで先輩がここに!?」

 

 目をまん丸にしてオーバーリアクションをする大喜に、千夏は笑顔のまま言葉を返した。

 

「私も一応、朝練仲間だし。たまには一緒に走ってみようかなーって思って。よろしくね、大喜くん」

「えぇぇぇ……!!?」

 

 大喜の反応も無理はなかった。男二人、黙々と走るのが常だったこの時間に、彼女がいる。その事実だけで、いつもの風景は全く別の色彩を帯びていた。だが、今の龍太に、その新鮮さを味わう余裕は微塵もなかった。

 

 ──今朝の夢のせいで、千夏に妙にぎこちなくなってしまっている。

 

 頭の芯が痺れるような感覚が、まだ残っている。起き抜けの頭に焼き付いた夢の残像は、時間の経過と共に薄れるどころか、むしろ輪郭を鮮明にしていた。

 

(……なんであんな夢、見たんだ俺……)

 

 耳元で囁かれた甘い声、ふと見えてしまった白い鎖骨、そして、すぐそこまで近づいてきた唇の柔らかな感触──。そのひとつひとつが、千夏本人を前にすると、残酷なまでにリアルな映像となって脳裏で再生されるのだ。

 

「龍太くん?」

 

 不意に名を呼ばれ、龍太の肩がびくりと跳ねた。何気ない呼びかけにすら、心臓が鷲掴みにされたかのような衝撃が走る。平静を装いたいのに、意識すればするほど身体は正直に反応し、もはや彼女の顔をまともに見ることさえできなかった。

 

(……ダメだ、意識すんな。落ち着け……)

 

 自分に言い聞かせるが、意識すればするほど空回りする。

 

「よ、よーし! 準備運動するかー!」

 

 無理やり明るく声を張り、身体を伸ばしながらその場を取り繕う。ぎこちない動きで腕を回しながら、横目で千夏を見ると──

 ストレッチしながら、彼女はちらちらとこちらを見ていた。

 

(やばい……バレてるかもしれない……)

 

 内心で青ざめながらも、この状況を打開する術はない。このままでは、ただの挙動不審な後輩だ。焦燥感に駆られた龍太は、ほとんど衝動的に叫んだ。

 

「──よーい、スタート!!」

「えっ!? ちょっ、待てよ!」

「急に!?」

 

 大喜と千夏の声が重なるのを背中で聞きながら、龍太は力強く地面を蹴った。

 

 走れ。今は走れ。

 身体を酷使すれば、この厄介な思考もどこかへ消え去ってくれるはずだ。

 

 朝の空気が頬を打ち、地面の感触が足裏から伝わる。

 自分の呼吸音だけがリズムを刻むなか、背後から「まってー!」と駆け寄る声が追いかけてくる。

 

 ──千夏の声だ。

 

(……ダメだ。これじゃ、煩悩は抜けねぇ……)

 

 心のどこかで、諦めにも似た笑いがこぼれそうになった。

 そう思いながらも、龍太は走り続けた。

 息を弾ませながら、ほんの少しだけ、後ろから聞こえる声に嬉しさを感じてしまっている自分に気づきながら──。

 

 

 

 

 

「……おい、地面に同化するなよ」

 

 学校までのランニングを終えた途端、大喜はまるで糸が切れた操り人形のようにアスファルトへと崩れ落ちた。肩で激しく息をしながら、顔を上げる気力さえ残っていないようだ。

 

「……お前、いきなり全力で飛ばすなよ……。本気で……死ぬかと思った……」

 

 地面に這いつくばったまま、恨みがましい視線を龍太に向ける。

 

「いやいや、毎回お前が言ってることだろ。ほら、立てって」

 

 軽口を叩きながらも、龍太はごく自然に手を差し伸べていた。その隣で、千夏が首にかけた真っ白なタオルで、額の汗をそっと拭う。その仕草ひとつで、彼女の周りだけが喧騒から切り離されたように涼やかに見えた。呼吸はわずかに弾んでいるが、その表情は穏やかで、乱れひとつない。

 

「龍太くん、相変わらず速いね」

「いやいや、大喜が勝手にバテてるだけですよ」

 

 ニヤリと口元を上げて冗談めかして言うと、大喜がなおさら顔をしかめた。

 

「……まだ、針生先輩とのダッシュのほうが、マシかも」

「フフッ、いつも大喜くんは最後、地面と仲良しだったもんね」

 

 千夏はクスクスと笑いながら、疲れ果てた大喜を見下ろしていた。龍太も思わず肩をすくめる。

 しばしの休憩を終えると、それぞれの部活へと向かう時間になった。

 龍太はいつものように陸上部の朝練へ向かおうとしたが、ふと足を止める。

 気づけば、千夏と大喜の背中を目で追っていた。

 彼らはそれぞれ、自分の競技へ向かう。

 

 ──久しぶりに、2人の朝練見てみようかな。

 

 気まぐれのような、けれどどこか確かな気持ちを抱えながら、龍太は彼らの練習場所へと向かった。

 体育館のドアを静かに押し開けると、冷たい空気とともに、バスケットボールがフロアを叩く軽快な音が響いてきた。

 

 千夏の姿が目に入る。

 

 千夏は、ただひたすらにシュートを繰り返していた。軽やかなステップ、無駄のないフォーム。放たれたボールは美しい弧を描き、まるでリングに吸い込まれるようにネットを揺らす。一方、大喜は鏡の前で黙々とスマッシュのフォームを確認していた。ラケットを握る手に込められた力、空気を切り裂く鋭いスイング音。その表情は、鏡の中の自分自身と対話するかのように真剣だ。

 

 ──見慣れたはずの光景。

 

 千夏は、大喜の憧れだった。その想いを知っていたからこそ、龍太は親友として二人を応援してきた。

 それなのに──今、大喜の視線の中に、かつてのような熱はない。ただひたすらに、己の鍛錬に没頭している。その姿が、以前の彼とは明らかに違って見えた。

 

(……あいつは、もう前に進んでるんだろうな)

 

 それに比べて、自分はどうだ? 

 千夏への想いを自覚してしまった。けれど、その一歩が踏み出せない。この想いが、彼女の未来に影を落とすのではないか。もし拒絶されたら、この心地よい関係はどうなってしまうのか。答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると巡る。

 

「なーにしてんのー!」

 

 背後から弾けるような声に、思考の渦から引き戻された。

 

「ぬぉっ!?」

 

 いきなり膝裏に衝撃が走り、龍太は体勢を崩しそうになりながらも何とか堪える。振り返ると、にししっと得意げに笑う雛の姿があった。

 口元に手を当てながら、まるでいたずらが成功した子どものような顔をしている。

 

「油断してると危ないぞー」

「……お前なぁ。急に膝カックンするなって。心臓に悪い……」

「龍がぼーっとしてるからじゃない?」

「……まぁ、否定はしない」

 

 実際、今朝からずっと上の空だった自覚はある。

 

「やれやれ、そんなんじゃインハイいけないぞー?」

「インハイ関係ねぇだろ」

 

 呆れながらも、龍太はどこかほっとするような気分だった。こうやって何気ない会話ができることが、少しだけ心を軽くする。

 

「何か考え事?」

「いや、単純に2人とも頑張ってるなーって思っただけだ」

「2人とも大会前じゃなくても熱心だからねぇ」

 

 まるで他人事のように言う雛。

 龍太からすれば、彼女もその一人なのだが。

 

「それより、雛来るの早くね? まだ午前練まで1時間半以上はあるぞ?」

「大喜たちがいると思ったから、ちょっとだけ早起きしたの!」

 

 その声には、隠しきれない嬉しそうな響きがあった。ふと、雛がいたずらっぽく顔を寄せてくる。

 

「それよりさ──」

 

 耳を貸せと手招きされ、龍太が身を屈めると、ひそひそ声で尋ねられた。

 

「どうだったの? 先輩とのデート」

「な、なんだよ急に」

「えー、だってあれからどうなったか気になるじゃん。一応焚き付けちゃったわけだし。それで、うまくいった!?」

 

 目を輝かせながら詰め寄ってくる雛に、龍太は小さくため息をついた。

 

「まぁ、楽しかったよ……先輩も楽しかったって言ってくれたし」

 

 その言葉を聞いた瞬間、雛の顔がぱぁっと明るくなる。

 

「良かったじゃん! 鈍感男もようやく進歩したね!」

「いてっ、叩くなっての!」

 

 バシバシと背中を叩かれ、龍太は思わず身を縮めた。

 それでも、どこかくすぐったいような、嬉しい気持ちが湧いてくる。

 

「まぁ、ありがとな。助かった」

「いいってことよ。龍とは長い付き合いなんだから、この雛様に任せときなさいって」

「急に姉御肌感出してくるんじゃねぇよ」

 

 けれど、本音を言えば、龍太は本当に感謝していた。だからこそ、今度は自分が彼女の背中を押す番だと思った。

 

「じゃあ、次は雛の番だな。背中、押してやるよ」

「へっ?」

 

 間抜けな声を漏らす雛に、龍太はにやりと笑う。

 

「今すぐ大喜に告ってこい」

「えぇぇ!? なんで私だけ難易度跳ね上がってるのよ!!」

「いや、お前らはもう夫婦みたいなもんじゃん。ほら、よく言うだろ、当たって挫けろって」

「砕けろよ! というよりどのみち振られて終わってるじゃない! 応援してるしてないどっちなのよ!」

「でも、好きなんだろ? 大喜のこと」

 

 その一言に、雛の勢いがぴたりと止まった。頬がほんのり染まり、声が小さくなる。

 

「そ、それとこれとは話が違うし……」

 

 そう言いながら、ぽつりと呟いた。

 

「……大喜が私のこと、好きなのかも分かんないし」

 

 その声は、普段の彼女からは想像もつかないほど、弱々しかった。

 

「なんだよ、いつになく弱気じゃんか」

「べ、別にいつも強気ってわけじゃない! うぅ〜、なんで私が大喜なんかに……後でパンチしてやる」

「そうだな。でっかいの、かましてやれよ」

 

 その言葉に、雛は小さく笑った。

 

 ──そんなささいなやり取りの最中だった。

 

 龍太は、ふと背中に突き刺さるような視線を感じ、反射的にそちらを向いた。

 そこには、ボールを両手で持ちながらこちらをじっと見つめる千夏の姿があった。

 

「……っ!」

 

 思わず息が詰まる。その視線は鋭くも、怒っているわけでもない。ただ、静かな水面のように凪いでいて、その底が見えない。その静けさが、逆に龍太の心をざわめかせた。

焦って隣の雛に助けを求めるように視線を移すと、彼女も驚いたように固まっていた。だが、彼女の視線は、別の方向を向いている。その先には──大喜がいた。

鏡の前で素振りをしていたはずの彼が、こちらを見ていたのだ。目が合ったのも束の間、大喜は気まずそうにすぐに目を逸らした。

 千夏は、変わらずこちらを見つめている。その瞳の奥にある感情は、龍太には読み取れない。

 

(な、なんなんだ、この空気……)

 

 居心地の悪さに、龍太は喉をゴクリと鳴らした。

 原因はわからない。けれど、何かしら──自分が知らない何かが、この場に漂っているような気がしてならなかった。

 

 ──俺、なんかしたか……? 

 

 

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