親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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12話

 

 

 

 トラックの上を、スパイクの音が響く。まだ朝の空気がわずかに冷たさを残す中、龍太はスターティングブロックの前に立ち、深く息を吸い込んだ。

 陸上の県予選まで、あとわずか。

 四継(4×100mリレー)のタイムを42秒台に乗せなければ、上の舞台は見えてこない。だが、現実は厳しかった。

 龍太の高校のベストタイムは43秒台。42秒台をちらほら出すチームが県内にいくつも存在する中で、この壁を越えなければ全国の舞台には到底届かない。

 その中でも、佐知川のリレーは有名だった。短距離の個々のタイムは特別速いわけではない。100mで県トップの選手が揃っているわけでもない。だが、彼らはリレーに関しては圧倒的に強かった。

 

 その理由は、彼らのバトンパスの精度にあった。

 

 リレーにおいて、100mの個々の速さが全てではない。バトンの受け渡しの技術、走る勢いをそのまま次の走者へと繋げるスムーズなパス、それらが噛み合って初めてタイムが削れる。バトンを渡すたびに速度が落ちるようでは、どんなに速い選手がいても意味がない。

 佐知川のリレーは、バトンがまるで空気のように受け渡されていた。接地のタイミング、加速のポイント、手の角度、全てが計算し尽くされ、無駄のない流れが生まれていた。バトンを受けるとき、加速が完了しているため、まるで走者が減速せずにスムーズに前へと進んでいく。

 それが、彼らが42秒台を安定して出せる理由だった。

 対して、自分たちはどうか。

 龍太は、自分のチームのバトンパスを頭の中で振り返る。

 決して悪くはない。練習も積んでいる。だが、それでも何かが足りない。

 バトンの受け渡しで、一瞬の 「間」 が生まれてしまう。その間に、わずかに加速が削がれ、ほんの一歩分の遅れが生じる。その「ほんの一歩」が、積み重なると0.5秒の差となり、そしてその0.5秒が42秒台への壁となる。

 

「……やっぱり、バトンか」

 

 龍太は呟いた。

 タイムを縮めるには、単純なスピードアップでは間に合わない。バトンパスの精度をもっと高めるしかない。

 佐知川のような、極限まで無駄を削ぎ落とした流れるようなバトンパス。

 しかし、それは口で言うほど簡単ではなかった。

 実際、バトンの受け渡しをミスすれば、最悪の場合レースは終わる。県予選のような大舞台で、それをやってしまえば取り返しがつかない。だからこそ、チームとしての信頼が必要になる。

 

「おい、龍」

 

 背後から声がかかった。振り返ると、次に渡す三浦が汗を拭いながら歩いてきた。

 

「そろそろ、バトン練習するか」

「はい、お願いします」

 

 龍太はスタート地点へと向かう。

 このバトンがスムーズに渡せれば、42秒台は見えてくる。

 まだ、その世界には手が届いていない。でも、届かせなければならない。

 龍太は、スパイクの紐を締め直した。

 目の前には、限界の壁がそびえている。

 その壁を超えるために、龍太は再び走り出した。

 

 そして、バトン、バトン、バトン。渡すだけでも、そんなに簡単じゃない。ポンと置くような渡し方はいけなくて、受け手の手の平に押しつけるように水平に押し込むように渡す。渡す時には腕をしっかり伸ばす。バトンを離すタイミングも難しく速すぎても遅すぎてもダメだ。相手が確かにバトンをつかんだという引っ張られるような感覚があったら、すぐに離す。

 一番肝心なのは、三浦との呼吸を合わせることだ。受け渡しのタイミングをつかむために、ゆっくりしたペースから始める。バトンジョグだ。ジョギングしながら声を掛けてバトンを渡す。相手との距離の取り方をこれでつかむ。この距離は大きく取ったほうがタイムは縮まるけど、あまり遠い位置で渡そうとすると失敗する。慣れてきたら、次はスピードを上げて、六、七割の力で走りながらパスするバトン流しを練習する。

 ショートというバトンの練習は、2mくらいの間隔をあけて同時にスタートして加速し、トップスピードになったところで、後ろの走者が大声で合図してバトンの受け渡しをする。龍太が「ハイッ」と声を出して、三浦の腕がバトンを受けるために上がってから、バトンを渡す。三浦より先に龍太が腕を上げてはいけない。追いつけなくなる。龍太が先にバトンを持った腕を伸ばして振るのをやめると、こっちが先に減速してしまう。疲労状態で、トップスピードで腕を伸ばすのは、中々むずかしい動きだ。「ハイッ」の合図から三浦の腕が後ろに伸びて数歩走る──そのスピードダウンの瞬間を逃さないこと。

 バトンパスをやり終わるのは、だいたいバトンゾーンの真ん中から後半になる。その位置を想定し、次走者がスタートを切る目安となるのがチェックマークだ。次走者のスタート位置のブルーラインから逆方向に歩測して白いテープを貼る。龍太がそのテープのマークを越えると、三浦がスタートする。

 練習は26足でやっている。試合の日は、それぞれの調子や天候の影響などで、1足か半足くらいずらすことがあるらしい。このチェックマークの見極めは、慣れたてはいても、油断はできない。

 スタンディング・スタートの構えで肩越しに見て、見極めながら出る。このタイミングが、いつも同じでないといけない。遅かったり早かったりするとバトンはうまく渡らない。三浦は、きっちりと同じタイミングでスタートする。スタート反応はフラットレースと同じで早い。そのぶん、1足ほどチェックマークの距離を縮めてある。本番と同じ400mを走ってバトンをつなぎタイムをとる。休憩を入れて三回はやる。ベストが43秒4で、42秒台はかなり遠く、三浦が悔しがってタータンを蹴りつける。

 

「チクショーッ。俺、足引っ張ってんな。ダメだよなあ、12秒台の選手がいちゃさ」

 

 悔しさにタータンを蹴りつける三浦の背中を、龍太はただ見つめる。彼の焦りは、チーム全体の焦りだ。

 

「そんなことないですよ。俺が少し減速しちゃったんで、もう一回やりましょう」

「おう」

「──その前に、皆さん休憩されたらどうですか?」

 

 龍太と三浦が再び練習を再開しようとした時、呆れたようにふわりと女の肉声が響いた。

 振り返ると、同じ陸部の神谷倫が居た。

 

「お、倫ちゃんじゃん。なになに、俺に会いに来たの?」

 

 浮足立った三浦が、思わず冗談っぽく絡みに行く。

 一年生ながらに陸部の中で彼女は容姿はかなり整っている。そんな女の子が、女性らしい香りを纏いながら近づけば、浮足立つのも無理はない。

 だが、彼女自身は壁を作るようにきっぱりと笑顔で返した。

 

「いえ、先生にもう休憩を入れろと言われただけです」

「うわぁ、凍傷になっちゃうなこりゃ」

 

 冗談交じりに三浦は肩をすくめてみせると、そのまま休憩しに向かった。龍太も彼らに続いて水分補給に行こうとすると、倫はすっと龍太が飲んでいたペットボトルとタオルを差し出してくる。

 

「田中くんもお疲れ様。はい、これ」

「ん? あ、ああ、ありがとう」

 

 わざわざ持ってきてくれたことに少し驚きながら、礼を言ってペットボトルのキャップを開ける。喉を潤した瞬間、倫がぽつりと呟いた。

 

「やっぱり田中君は凄いね」

「なにが?」

「先輩たちに負けないくらい足が速いし、練習熱心だから」

「うーん、俺なんてまだまだだよ。課題はいっぱいあるし」

「……器が大きいんだね」

「ん? 何か言った?」

 

 小さな声量に聞き返すと、彼女は「なんでもない」と首を横に振る。その横顔を、龍太は不思議な気持ちで見つめた。

 

「神谷さんも休憩中?」

「うん。根岸くんに教わりながら基礎練を丁度終えて、先生に言われてリレー見てたんだ」

「ああ、なるほど」

 

 龍太も最初の頃はよくリレーの練習を見とけと言われてた時期がある。彼女も龍太が見た範囲だが、運動神経は良さそうだし、何れは四継も視野に入っているのだろう。

 

「やっぱり練習ってきついけど、タイムが縮むと楽しいね」

「まぁ、そのタイム縮めるのが苦労するんだけどね。たかがレイコンマ1秒で勝負がついたりするし」

「そうだね」

 

 くすっと倫は小さく笑った。そして、ふと真剣な眼差しで龍太を見つめた。

 

「そういえば、龍太くん。私のことは倫でいいよ」

「……急に?」

「ううん、前から言おうと思ってて。というより、田中くんには呼んでほしい、かな」

 

 どこか照れたような笑顔に、龍太は戸惑いつつも、「わかった」と頷いた。

 

「じゃあ、私も……龍太くんって呼んでも良い?」

「ああ、いいよ」

「やった! ありがとう、龍太くん」

 

 嬉しそうに笑う彼女の顔に、龍太は彼女が部の男子たちの間で人気がある理由を改めて理解する。だが、その完璧な笑顔の裏にある、時折見せる鋭い瞳には、まだ慣れることができなかった。

 

「それよりさ──」

 

 倫が少し声を落とし、探るように問いかけた。

 

「今日、練習前何か悩んでなかった?」

「えっ」

 

 鋭い指摘に、内心ぎくりとする。まさか、そんなところまで見られていたとは。

 

「悩んでるなら相談に乗るよ?」

 

 心配そうな瞳が、まっすぐに龍太を射抜く。その距離感に、龍太は無意識に一歩後ずさりたくなる衝動を覚えた。

 

「まぁ……いろいろ、な」

「そっか」

 

 彼女に話せる内容ではない。そう判断し、言葉を濁すと、倫はそれ以上追及しなかった。

だが、次に彼女の口から放たれた言葉に、龍太の周りの空気が一瞬凍りついた気がした。

 

「それってさ──鹿野千夏先輩のこと?」

 

 なぜ、その名前が。驚きを悟られまいと必死に表情を取り繕う。

 

「……まあ、いろいろと」

「ふうん」

 

 短く返されたその声は、静かだったが、ほんの少しだけ温度が下がっていたように感じた。

いたたまれなくなって、龍太は立ち上がった。

 

「そろそろ休憩終わりにするよ。先輩たちのところ、戻るな」

「……うん。がんばってね」

 

 倫は微笑んだまま見送ってくれた。その表情には、何も貼りついていないようで──けれど、どこか裏があるような、そんな予感も残した。

 トラックの中央へ戻りながら、龍太はふと時計に目をやる。

 

 ──今日は午前で練習が終わる。

 

 午後はトラックの補修工事で使用不可になるため、自由時間になるのだ。

 

(午後、どうしようか……あ、飲み物買いに行かないと)

 

 

 

 

 

 

 

 

 トラックの喧騒から離れた校舎の影は、コンクリートの照り返しを和らげ、ひんやりとした静寂を提供していた。自動販売機の低いうなりだけが、その静けさに微かなリズムを刻んでいる。

 

(……意外と遠いんだよなぁ)

 

 そんなことを考えながら、龍太は財布から小銭を取り出し、スポーツドリンクのボタンを押した。ガコン、と重たい音を立てて缶が落ちてくるのを待つ間、ぼんやりと空を見上げる。六月の青空は高く澄み渡り、吹き抜ける風には心なしか秋の気配さえ混じっているようだった。

 その風が、今朝の出来事を龍太の心に運び込んできた。

 

 ──あの視線は、ヤキモチだったりするのか? 

 

 雛と他愛ないやり取りをしていた自分に向けられた、千夏と大喜の視線。特に千夏のそれは、今までとは明らかに違う、何か質量を伴ったもののように感じられたのだ。

 そんなことを考えていた時──

 

「んっ!?」

 

 膝の裏に、ふわりとした、しかし確かな衝撃。咄嗟に足を踏んしめて体勢を立て直す。振り返ると、そこには何とも言えない表情を浮かべた千夏が立っていた。雛ならば、もっと遠慮なく、全力で体当たりしてくるだろう。だが、今のは──触れるか触れないかの、あまりにも優しい奇襲だった。

 

「せ、先輩?」

 

 名を呼ぶと、彼女は悪戯が成功した子供のように、くすりと笑った。

 

「何やってるんですか」

「……龍太くん見つけたから、つい」

「ついって……普通に声かけてくださいよ!」

「ふふっ、ごめん」

 

 思わず漏れたため息には、呆れよりも温かい感情が混じっていた。

落ちてきた缶を拾い上げ、プルタブを開ける。冷たい液体が喉を潤すのと、隣で同じようにカタン、と音がしたのはほぼ同時だった。彼女も同じスポーツドリンクを買っていたらしい。その事実に少しだけ心が浮き立つ。

 だが、千夏はそれを飲むでもなく、両手でペットボトルを包み込んだまま、じっとそのラベルを見つめている。その横顔に、先ほどの快活さはない。

 

「龍太くんはさ……」

「?」

 

 そっと顔を上げて、まっすぐ龍太を見る。その瞳には、ほんのわずかな迷いが混じっていた。

 

「……蝶野さんのこと、気になってたりする?」

 

 あまりにも唐突で、あまりにも予想外の質問だった。龍太は飲みかけたドリンクを危うく吹き出しそうになり、慌てて嚥下する。激しく咳き込みながら、なんとか声を絞り出した。

 

「い、いやいやいや! 気になってないですけどっ」

 

 自分でも驚くほど、声が大きくなっていた。

 けれどそれは、あまりにも突然の質問に、うまく呼吸を整える余裕すらなかったからだ。

 

(なんだよ、今の質問……なんで、そんなことを……)

 

 思わず彼女の顔を覗き込むと、千夏は黙ったまま、じっとこちらを見ていた。

 目が合う。その瞬間、龍太の胸がきゅっと縮まるような感覚に襲われた。

 

 けれど──

 

「そっか」

 

 その表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 目元が柔らかくなり、唇の端がごくわずかに上がる。

 それは、確かに「安堵」だった。

 

(……ホッと、したんだ)

 

 その事実に気づいた途端、龍太の胸の奥で、今まで抑えられていた何かが弾けた。

 確かめたい。

 その安堵の理由を。

 

「もしかして……ヤキモチ妬いてくれました?」

 

 軽口を装った、しかし全身全霊を込めた問いだった。今、この場で、彼女の心のほんの一欠片でも手に入れることができるのなら。

 千夏の長い睫毛が、風に揺れてふるえる。時が止まったかのような沈黙が、二人の間に落ちた。

 そして、静かに。

 

「……うん」

 

 その一言が、あまりに静かで、あまりに真っすぐだったから。心臓が、鼓膜のすぐ近くで鳴ったような気がした。

 

「えっ……ええっ?」

「龍太くんが聞いてきたんだよ?」

 

 ふっと微笑んだ彼女の顔は、夕陽の色を映したかのように赤く染まっていた。その表情に、また胸が激しく鳴る。嬉しいのか、焦っているのか、自分でもわからない感情の奔流の中で、龍太が言葉を探していると──

 

「千夏ー!」

 

 遠くから誰かが彼女を呼ぶ声が響いた。

 千夏が反射的に振り向き、「じゃあ、私は行くね」と軽やかに踵を返す。

 その瞬間。

 龍太は、ほとんど無意識に、彼女の左腕を掴んでいた。

 

「……え?」

 

 振り返った千夏の瞳が、驚きに見開かれる。彼自身も、自分の衝動的な行動に驚いていた。理由はない。ただ、行かせたくなかった。このまま、この曖昧な空気の中で彼女を失いたくなかった。

 

「龍太くん……?」

 

 その問いに、喉が乾く。

 何を言えばいい?

 何を伝えたい?

 

「……えっと、その」

「……うん」

 

 言いたいことは、本当は一つしかない。けれど、その言葉はあまりにも重く、簡単には口にできない。焦りと混乱の中で、彼の口から飛び出したのは、自分でも呆れるほど間の抜けた誘いだった。

 

「……えっと、今日のお昼にばあちゃん家行くんで……またシャワーでも浴びに行きませんか?」

 

 言いながら、自分がどれだけ回りくどくて、要領の悪いことを言っているのかを実感する。

 本当は違う。言いたいのは、そんなことじゃない。

 だが、彼女がバスケをしてる風景を思い浮かべた瞬間、心にブレーキがかってしまう。千夏は一瞬だけ目を丸くしてから──ゆっくりと、やわらかく微笑んだ。

 

「……うん、いいよ」

 

 その一言に、龍太は救われたような気持ちになった。

 伝えられない想いが、ほんの少しだけ通じたような気がした。

 それでも、自分の奥底に沈む“伝えたいのに言えない気持ち”はまだ、胸の内でくすぶり続けていた。

 

 

 

 

 

 

「どこ行ってたの、千夏。もうすぐ練習始まっちゃうよ?」

 

 体育館の入り口で声をかけられ、千夏は弾んでいた心を現実に引き戻された。少し息を切らしながら振り返ると、そこには呆れたような、それでいて心配そうな顔をした渚が立っている。

 

「ごめん、飲み物買ってた!」

「……でも、近くの自販機にはいなかったよ? 私もちょうどそこで買ってたし」

 

 渚の言葉に、千夏の心臓が小さく跳ねた。

 

「あ、えっと……いつものやつが売り切れてて……だから、校舎の方まで行ってたの」

 

 言い訳は、自分でもわかるほどぎこちなかった。平静を装おうとすればするほど、言葉の端々が不自然に上滑りしていく。渚の目が、探るようにすっと細められたのを、千夏は気づかないふりはできなかった。

 

「……それで遅くなったんだ」

「う、うん」

 

 千夏はぎこちなく笑った。渚がそれ以上追及する素振りを見せなかったことで、内心ほっと胸を撫でおろす。

 

 だが──

 

「……それで」

 

 唐突に渚が言う。

 

「ん?」

「なんでそんなに、嬉しそうなの?」

 

 千夏の足が、まるで床に縫い付けられたかのようにぴたりと止まった。

 

「え……?」

「いや、顔。なんかすっごいニヤけてる」

 

 反射的に両手で頬を押さえる。確かに、心の奥がふわふわと温かい雲の上にいるように浮ついている自覚はあった。けれど、それがそんなにも分かりやすく表情に出ていたとは。

 

「そ……そうかな? そんなこと……ない……はず……」

「ふ〜ん? ちょっといいことでもあった?」

「う、うん……まぁ、ちょっとだけ」

 

 そのぎこちない肯定に、渚は「ほほ〜う」と意味ありげな笑みを深くした。

 

「もしかして、彼氏とチューでもしてきたんじゃない?」

「えっっっ!?」

 

 千夏は飛び跳ねるようにして大声を上げた。慌てて口元を押さえるが、すでに声はしっかり響いていた。

 

「ち、違うからっ! べ、べつに龍太くんは彼氏とかじゃ──」

「……私は“誰と”なんて一言も言ってないんだけどなぁ?」

 

 涼しい顔で切り返され、千夏は完全に言葉を失った。見透かされている。その事実が、足元から崩れ落ちていくような感覚をもたらした。

 

「……渚のいじわる」

「自爆したのはアンタでしょ」

 

 渚は肩をすくめながら苦笑した。けれどそのあと、ふと真顔になる。周囲を軽く確認し、人目がないのを見計らってから、少し声を落として尋ねてきた。

 

「ねぇ、千夏」

「……なに?」

「……一緒に住んでるのって、もしかして……田中くんの家だったりする?」

 

 その問いは、静かだったが、千夏の心臓を直接鷲掴みにするような鋭さを持っていた。驚きに見開かれた瞳が、何も言えずに親友の顔を見つめ返す。やがて、観念したように、ほんの少しだけ頷いた。

 

「……うん」

「そっか」

 

 渚の声に、驚きはなかった。ただ、今まで点と点だったものが一本の線で繋がったかのような、深い納得があった。

 

「……それで、あんなに距離が近かったのね。なんとなく、そうじゃないかなって思ってたけど……」

「うん……黙っててごめんね」

「ううん、事情があるのは分かってる。変な意味で言ってるんじゃないから……でもさ、大丈夫? その、いろいろ……」

 

 心配げな言葉に、千夏は柔らかく笑った。

 

「うん。龍太くんの家族の人たちも凄い良くしてくれるから」

「ならいいけど……」

 

 渚はほんの少しだけ目を細めて、それから、まっすぐに千夏を見つめた。

 

「……じゃあ、それで彼と一緒にいる時間が増えて、好きになったのか」

 

 今度は真っ直ぐ過ぎる問いに、千夏はまたもや固まってしまった。

 

「べ、べつに、そういうんじゃ……!」

「はいはい、続きはまた今度ね〜」

 

 タイミングよく、先輩の声が体育館の奥から飛んできた。

 

「そろそろ休憩終わるよー」

「はーい!」

 

 渚は手を振って返事をすると、千夏を振り返り、悪戯っぽく笑う。

 

「逃げられたと思わないでよ?」

「えっ、今ので終わりじゃないの?」

「当たり前でしょ。気になるに決まってるじゃん」

「……渚、やっぱり面白がってるよね」

「もちろん。こういうの大好物だから」

「もちろんなんだ」

 

 ふたりの笑い声が、体育館へと続く廊下に軽やかに響く。バッシュの音、ボールが跳ねる乾いた音。日常の音が戻ってくる中で、千夏の胸にはまだ、ほんのりと温かな余韻が確かに残っていた。

 ──ただ、彼のことが気になったのは、同じ屋根の下で暮らすようになったからじゃない。

 もっとずっと前。彼がまだ、誰の目にも留まらない、ただの無名な選手だった頃。

それは、幼い日の記憶と、そして、春の訪れを待つ、まだ風の冷たいあの季節のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春の風は、まだ冬の名残を微かに含んで、肌を刺すように冷たかった。けれど、そのひやりとした感触よりも、千夏の胸の奥に広がる焦燥感の方が、よほど冷たく感じられた。

春休み──中学二年になる、その直前のこと。栄明中学の体育館は、季節に似合わない熱気に満ちていた。県内屈指の強豪とされるバスケ部の練習は、想像を絶するほどに厳しく、甘えや手加減といった言葉が存在しない世界だった。

 

 そしてその日、千夏は何もかもうまくいかなかった。

パスは味方の数センチ先を虚しく通り過ぎ、ドリブルは意思とは無関係に何度もスティールされる。思考と身体が完全に乖離し、焦れば焦るほど、自分の身体だけが重い枷をはめられたように動かなくなる。コートの上で、自分だけが異物のように浮いている。そんな絶望的な感覚に、何度も襲われた。

 

 ──バスケ、向いてないのかな。

 

 心の奥に、そんな思いがひっそりと芽を出す。 気づけば、試合の終盤にはもう、自分の存在がコートに必要なのかすら分からなくなっていた。

 

 チームメイトが引き上げた後も、千夏は一人、体育館に残った。無心でボールを手に取り、ひたすらシュートを打ち続ける。だが、何本打っても、ボールがリングを通過するあの心地よい感触は戻ってこなかった。

 

(……こんなんじゃダメだ。ユメカにだって、追いつけない)

 

 ユメカ──隣を並んで走りたいと願った存在。けれど現実は、その背中がどんどん遠ざかり、やがて霞んで見えなくなるほど、残酷なまでに開いていた。どれだけ走っても、どれだけ汗を流しても、自分だけが置いていかれている。その悔しさが、喉の奥を熱く焼いた。

 

 そのとき──背後から足音が近づいてきた。

 

「そろそろ閉めるよ」

 

 警備員の穏やかな声に、千夏ははっと我に返った。いつの間にか、外はすっかり薄闇に包まれている。

 

「すみません、すぐ出ます」

 

 慌てて頭を下げ、体育館を後にする。額に貼りついた髪を指先で払いながら、無意識に校庭へと足を向けていた。

 その時だった。静まり返った空気の中に、一定のリズムを刻む音が紛れ込んでいるのに気づいた。

 

 ザッ……ザッ……ザッ……。

 

 誰かが走っている。その規則正しい足音は、まるで夕暮れの静寂そのものに溶け込んでいるようだった。

 足を止め、暗がりの向こうに目を凝らす。街灯の光が届かないグラウンドの奥に、一人の男子生徒のシルエットが見えた。その顔には見覚えがあった。朝練の時も、ずっとグラウンドを走っていた子だ。

 

(……まだ、走ってたの……?)

 

 驚きに、千夏はその場に立ち尽くした。

彼は、誰かと競っているわけではない。コーチが見ているわけでも、タイムを測っているわけでもない。ただ黙々と、自分のペースで走り続けている。

その横顔が、ふと見えた。

 

 ──笑っていた。

 

(……楽しそう)

 

 それは、無理に作った笑顔ではなかった。ただ純粋に、「走っている」という行為そのものを全身で楽しんでいる、そんな表情だった。

 その瞬間、千夏の脳裏に、小学生の頃の自分が鮮やかに蘇った。夕暮れの校庭で、誰に言われるでもなく、ただひたすらにシュートを打ち続けていた、あの頃の自分

 

 ──ただ、好きだから。

 ──ただ、楽しかったから。

 

(……私も、あの頃は……)

 

 胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。心の隅に追いやっていた、一番大切な気持ちが、静かに目を覚ましていく。

 今の自分はどうだろう。勝ちたい。上手くなりたい。褒められたい。そんな気持ちばかりが先行して、いつの間にか「好き」という原点を見失っていたのかもしれない。

 でも、悔しくても、諦めたくなかったのは。苦しくても、毎日コートに立ち続けたのは。

 

(……好きだから、だったんだ)

 

 勝敗が全ての世界で、「好き」だけでは生き残れない。けれど、その「好き」という気持ちがあるからこそ、人は何度でも立ち上がれるのだ。その原点を、彼の黙々と走り続ける背中が、静かに、しかし力強く思い出させてくれた。

 

「……ありがとう」

 

 誰にも届かない小さな呟きは、けれど確かに千夏の心に深く響いた。

その日を境に、彼女の目に映る世界は、少しだけ色を変えた。焦る日も、泣きたくなる日もある。それでも、また一歩を踏み出す強さを、彼女は取り戻した。

 

 ──好きだから、私は走る。あの日、彼がそうしていたように。

 

 

 

 

 

 

 

 

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