親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
トラックの上を、スパイクの音が響く。
朝の空気がまだ冷たさを残す中、龍太はスターティングブロックの前で、深く息を吸い込んだ。
陸上の県予選まで、あとわずか。
四継のタイムを42秒台に乗せなければ、上の舞台は見えてこない。だが、現実は厳しかった。
龍太の高校のベストは、43秒台。42秒台をちらほら出すチームが県内にいくつもある中で、この壁を越えなければ、全国には到底届かない。
中でも、佐知川のリレーは有名だった。短距離の個々のタイムが、特別速いわけではない。100mで県トップが揃っているわけでもない。だが、リレーに関しては、圧倒的に強かった。
その理由は、バトンパスの精度にある。
リレーは、個々の速さが全てではない。受け渡しの技術、走る勢いをそのまま次へ繋ぐスムーズなパス。それが噛み合って初めて、タイムが削れる。渡すたびに速度が落ちるようでは、どんなに速い選手がいても意味がない。
佐知川のバトンは、まるで空気のように受け渡されていた。接地のタイミング、加速のポイント、手の角度。すべてが計算し尽くされ、走者が減速せず、滑らかに前へ進んでいく。
それが、彼らが42秒台を安定して出せる理由だった。
対して、自分たちはどうだろう。
龍太は、自分のチームのパスを頭の中で振り返る。決して悪くはない。練習も積んでいる。だが、何かが足りない。
受け渡しで、一瞬の「間」が生まれる。その間に、わずかに加速が削がれ、ほんの一歩分の遅れが生じる。その「ほんの一歩」が積み重なれば、0.5秒の差になる。そしてその0.5秒が、42秒台への壁だった。
「……やっぱり、バトンか」
呟く。タイムを縮めるには、単純なスピードアップでは間に合わない。パスの精度を、もっと高めるしかない。
佐知川のような、極限まで無駄を削いだ、流れるようなバトン。
しかし、それは口で言うほど簡単ではなかった。ミスをすれば、最悪、レースは終わる。県予選のような大舞台でそれをやれば、取り返しがつかない。だからこそ、チームとしての信頼が要る。
「おい、龍」
背後から声。振り返ると、次に渡す三浦が、汗を拭いながら歩いてきた。
「そろそろ、バトン練習するか」
「はい、お願いします」
スタート地点へ向かう。このバトンがスムーズに渡れば、42秒台は見えてくる。まだ、その世界には手が届いていない。でも、届かせなければ。
スパイクの紐を、締め直す。
目の前には、限界の壁がそびえている。
それを超えるために、龍太は再び走り出した。
バトン。
バトン。
バトン。
渡すだけでも、簡単じゃない。ポンと置くような渡し方ではいけない。受け手の手のひらに、水平に押し込むように渡す。腕はしっかり伸ばす。離すタイミングも難しく、速すぎても遅すぎてもダメだ。確かに掴んだという、引っ張られる感覚があったら、すぐに離す。
一番肝心なのは、三浦との呼吸を合わせること。ゆっくりしたペースから始める、バトンジョグ。ジョギングしながら声を掛けて渡し、距離の取り方を掴む。距離は大きく取ったほうがタイムは縮まるが、遠すぎると失敗する。慣れたら、六、七割の力で走りながら渡す、バトン流し。
ショートという練習は、二メートルほど間隔をあけて同時にスタートし、トップスピードに達したところで、後ろの走者が大声で合図して受け渡す。龍太が「ハイッ」と声を出し、三浦の腕が上がってから、渡す。三浦より先に腕を上げてはいけない。追いつけなくなる。先に伸ばして振るのをやめると、こちらが減速してしまう。疲労状態で、トップスピードのまま腕を伸ばすのは、なかなか難しい。「ハイッ」の合図から三浦の腕が伸びて数歩——そのスピードダウンの瞬間を、逃さないこと。
パスが終わるのは、だいたいバトンゾーンの真ん中から後半。その位置を想定し、次走者のスタートの目安となるのが、チェックマークだ。ブルーラインから逆方向に歩測して、白いテープを貼る。龍太がそのマークを越えると、三浦がスタートする。
練習は、26足でやっている。本番は、調子や天候で、一足か半足ずらすこともあるらしい。この見極めは、慣れていても油断できない。
肩越しに見て、見極めながら出る。このタイミングが、いつも同じでなければならない。遅くても早くても、うまく渡らない。三浦は、きっちり同じタイミングでスタートする。反応はフラットレースと同じで早い。そのぶん、一足ほどマークを縮めてある。
本番と同じ400mを走り、タイムをとる。休憩を入れて、三回。
ベストが、43秒4。
42秒台は、かなり遠かった。
三浦が、悔しがってタータンを蹴りつける。
「チクショーッ。俺、足引っ張ってんな。ダメだよなあ、12秒台の選手がいちゃさ」
その背中を、龍太はただ見つめた。彼の焦りは、チーム全体の焦りだ。
「そんなことないですよ。俺が少し減速しちゃったんで、もう一回やりましょう」
「おう」
「——その前に、皆さん休憩されたらどうですか?」
再開しようとした時、呆れたような女の声が、ふわりと響いた。
振り返ると、同じ陸部の神谷倫がいた。
「お、倫ちゃんじゃん。なになに、俺に会いに来たの?」
浮足立った三浦が、冗談っぽく絡みにいく。一年ながら、彼女は容姿がかなり整っている。女性らしい香りを纏った子が近づけば、浮足立つのも無理はない。
だが、当人は、壁を作るようにきっぱりと笑顔で返した。
「いえ、先生にもう休憩を入れろと言われただけです」
「うわぁ、凍傷になっちゃうなこりゃ」
肩をすくめ、三浦は休憩へ向かう。龍太も続こうとすると、倫がすっと、彼の飲んでいたペットボトルとタオルを差し出してきた。
「田中くんもお疲れ様。はい、これ」
「ん? あ、ああ、ありがとう」
わざわざ持ってきてくれたことに少し驚きつつ、礼を言ってキャップを開ける。喉を潤した瞬間、倫がぽつりと呟いた。
「やっぱり田中君は凄いね」
「なにが?」
「先輩たちに負けないくらい足が速いし、練習熱心だから」
「うーん、俺なんてまだまだだよ。課題はいっぱいあるし」
「……器が大きいんだね」
「ん? 何か言った?」
小さな声に聞き返すと、彼女は「なんでもない」と首を振る。その横顔を、龍太は不思議な気持ちで見つめた。
「神谷さんも休憩中?」
「うん。根岸くんに教わりながら基礎練終えて、先生に言われてリレー見てたんだ」
「ああ、なるほど」
龍太も最初の頃は、よくリレーを見とけと言われた。彼女も運動神経は良さそうだし、いずれは四継も視野に入っているのだろう。
「やっぱり練習ってきついけど、タイムが縮むと楽しいね」
「まぁ、そのタイム縮めるのが苦労するんだけどね。たかがレイコンマ一秒で、勝負がついたりするし」
「そうだね」
くすっと、倫が笑う。そして、ふと真剣な眼差しで龍太を見つめた。
「そういえば、龍太くん。私のことは、倫でいいよ」
「……急に?」
「ううん、前から言おうと思ってて。というより、田中くんには呼んでほしい、かな」
照れたような笑顔に、龍太は戸惑いつつ「わかった」と頷く。
「じゃあ、私も……龍太くんって呼んでも良い?」
「ああ、いいよ」
「やった! ありがとう、龍太くん」
嬉しそうに笑う。部の男子たちの間で人気がある理由を、龍太は改めて理解した。
だが、その完璧な笑顔の裏に、時折覗く鋭い瞳には、まだ慣れることができない。
「それよりさ——」
倫が声を落とし、探るように問いかけた。
「今日、練習前、何か悩んでなかった?」
「えっ」
鋭い指摘に、内心ぎくりとする。まさか、そんなところまで見られていたとは。
「悩んでるなら、相談に乗るよ?」
心配そうな瞳が、まっすぐ射抜いてくる。その距離感に、龍太は無意識に、一歩後ずさりたくなった。
「まぁ……いろいろ、な」
「そっか」
彼女に話せる内容ではない。言葉を濁すと、倫はそれ以上追及しなかった。だが、次の一言に、龍太の周りの空気が、一瞬、凍りついた気がした。
「それってさ——鹿野千夏先輩のこと?」
なぜ、その名前が。
驚きを悟られまいと、必死に表情を取り繕う。
「……まあ、いろいろと」
「ふうん」
短く返されたその声は、静かだったが、ほんの少しだけ、温度が下がっていた気がした。
いたたまれなくなって、龍太は立ち上がる。
「そろそろ休憩終わりにするよ。先輩たちのところ、戻るな」
「……うん。がんばってね」
倫は微笑んだまま、見送ってくれた。その表情には、何も貼りついていないようで——けれど、どこか裏があるような、そんな予感も残した。
トラックへ戻りながら、ふと時計に目をやる。
——今日は午前で、練習が終わる。
午後はトラックの補修工事で使えないため、自由時間になるのだ。
(午後、どうしようか……あ、飲み物買いに行かないと)
トラックの喧騒から離れた校舎の影は、コンクリートの照り返しを和らげ、ひんやりとした静寂を提供していた。自販機の低いうなりだけが、その静けさに微かなリズムを刻んでいる。
(……意外と遠いんだよなぁ)
そんなことを考えながら、龍太は小銭を入れ、スポーツドリンクのボタンを押す。ガコン、と重い音を立てて缶が落ちるのを待つ間、ぼんやり空を見上げた。六月の青空は高く澄み渡り、吹き抜ける風には、心なしか涼やかな気配さえ混じっている。
その風が、今朝の出来事を、心に運び込んできた。
——あの視線は、ヤキモチだったりするのか?
雛と他愛ないやり取りをしていた自分に向けられた、千夏と大喜の視線。特に千夏のそれは、今までとは明らかに違う、何か質量を伴ったもののように感じられたのだ。
そんなことを考えていた時——
「んっ!?」
膝の裏に、ふわりとした、しかし確かな衝撃。咄嗟に足を踏んばって、体勢を立て直す。振り返ると、何とも言えない表情の千夏が立っていた。
雛なら、もっと遠慮なく全力で体当たりしてくる。だが、今のは——触れるか触れないかの、あまりにも優しい奇襲だった。
「せ、先輩?」
名を呼ぶと、彼女は悪戯が成功した子供のように、くすりと笑う。
「何やってるんですか」
「……龍太くん見つけたから、つい」
「ついって……普通に声かけてくださいよ!」
「ふふっ、ごめん」
漏れた溜息には、呆れよりも温かい感情が混じっていた。
落ちてきた缶を拾い、プルタブを開ける。冷たい液体が喉を潤すのと、隣で同じようにカタン、と音がしたのは、ほぼ同時だった。彼女も同じスポーツドリンクを買っていたらしい。その事実に、少しだけ心が浮き立つ。
だが、千夏はそれを飲むでもなく、両手でペットボトルを包んだまま、じっとラベルを見つめている。その横顔に、先ほどの快活さはない。
「龍太くんはさ……」
「?」
そっと顔を上げ、まっすぐ龍太を見る。その瞳に、ほんのわずかな迷いが混じっていた。
「……蝶野さんのこと、気になってたりする?」
あまりにも唐突で、予想外の質問だった。龍太は飲みかけを危うく吹き出しそうになり、慌てて嚥下する。激しく咳き込みながら、なんとか声を絞り出した。
「い、いやいやいや! 気になってないですけどっ」
自分でも驚くほど、声が大きくなっていた。突然の質問に、呼吸を整える余裕すらなかったからだ。
(なんだよ、今の質問……なんで、そんなことを……)
思わず顔を覗き込むと、千夏は黙ったまま、じっとこちらを見ていた。
目が、合う。その瞬間、胸がきゅっと縮まる。
けれど——
「そっか」
その表情が、ほんの少しだけ、緩んだ。
目元が柔らかくなり、唇の端が、ごくわずかに上がる。
それは、確かに「安堵」だった。
(……ホッと、したんだ)
その事実に気づいた途端、龍太の胸の奥で、抑えていた何かが弾けた。
確かめたい。
その安堵の、理由を。
「もしかして……ヤキモチ妬いてくれました?」
軽口を装った、しかし全身全霊を込めた問いだった。今、この場で、彼女の心のほんの一欠片でも手に入れられるのなら。
千夏の長い睫毛が、風に揺れてふるえる。時が止まったような沈黙が、二人の間に落ちた。
そして、静かに。
「……うん」
その一言が、あまりに静かで、あまりに真っすぐだったから。
心臓が、鼓膜のすぐ近くで鳴ったような気がした。
「えっ……ええっ?」
「龍太くんが聞いてきたんだよ?」
ふっと微笑んだ顔は、赤く染まっていた。その表情に、また胸が激しく鳴る。嬉しいのか、焦っているのか、自分でもわからない感情の奔流の中で、言葉を探していると——
「千夏ー!」
遠くから、誰かが彼女を呼ぶ声が響いた。
千夏が反射的に振り向き、「じゃあ、私は行くね」と軽やかに踵を返す。
その瞬間。
龍太は、ほとんど無意識に、彼女の左腕を掴んでいた。
「……え?」
振り返った千夏の瞳が、驚きに見開かれる。彼自身も、自分の衝動的な行動に驚いていた。理由はない。ただ、行かせたくなかった。この曖昧な空気の中で、彼女を失いたくなかった。
「龍太くん……?」
その問いに、喉が乾く。
何を言えばいい。
何を、伝えたい。
「……えっと、その」
言いたいことは、本当は一つしかない。けれど、その言葉はあまりに重く、簡単には口にできない。焦りと混乱の中、口から飛び出したのは、自分でも呆れるほど間の抜けた誘いだった。
「……えっと、今日のお昼にばあちゃん家行くんで……またシャワーでも浴びに行きませんか?」
言いながら、自分がどれだけ回りくどく、要領が悪いかを実感する。
本当は、違う。
言いたいのは、そんなことじゃない。
だが、彼女がバスケをしている風景を思い浮かべた瞬間、心にブレーキがかかる。
千夏は一瞬、目を丸くして——それから、ゆっくりと、やわらかく微笑んだ。
「……うん、いいよ」
その一言に、龍太は救われたような気持ちになった。
伝えられない想いが、ほんの少しだけ、通じた気がした。
それでも、奥底に沈む気持ちは、まだ、胸の内でくすぶり続けていた。
「どこ行ってたの、千夏。もうすぐ練習始まっちゃうよ?」
体育館の入り口で声をかけられ、千夏は弾んでいた心を、現実に引き戻された。少し息を切らして振り返ると、呆れたような、それでいて心配そうな顔の渚が立っている。
「ごめん、飲み物買ってた!」
「……でも、近くの自販機にはいなかったよ? 私もちょうどそこで買ってたし」
その言葉に、千夏の心臓が小さく跳ねた。
「あ、えっと……いつものやつが売り切れてて……だから、校舎の方まで」
言い訳は、自分でもわかるほどぎこちなかった。平静を装うほど、言葉の端々が、不自然に上滑りする。渚の目が、探るようにすっと細められたのを、気づかないふりはできなかった。
「……それで遅くなったんだ」
「う、うん」
ぎこちなく、小さく頷く。渚がそれ以上追及しなかったことに、内心ほっと胸を撫でおろした。
だが——
「……それで」
唐突に、渚が言う。
「なんでそんなに、嬉しそうなの?」
千夏の足が、床に縫い付けられたように、ぴたりと止まった。
「え……?」
「いや、顔。なんかすっごいニヤけてる」
反射的に両手で頬を押さえる。心の奥がふわふわと浮ついている自覚はあった。けれど、それがそんなにも分かりやすく表情に出ていたとは。
「そ……そうかな? そんなこと……ない……はず……」
「ふ〜ん? ちょっといいことでもあった?」
「……ちょっとだけ?」
ぎこちない肯定に、渚が「ほほ〜う」と意味ありげに笑みを深めた。
「もしかして、彼氏とチューでもしてきたんじゃない?」
「えっっっ!?」
飛び跳ねるように大声を上げる。慌てて口元を押さえるが、もう遅い。
「ち、違うからっ! べ、べつに龍太くんは彼氏とかじゃ——」
「……私は"誰と"なんて、一言も言ってないんだけどなぁ」
涼しい顔で切り返され、千夏は完全に言葉を失った。
見透かされている。その事実が、足元から崩れ落ちていくような感覚をもたらす。
「……渚のいじわる」
「自爆したのはアンタでしょ」
渚は肩をすくめて苦笑した。けれどそのあと、ふと真顔になる。周囲を確認し、人目がないのを見計らって、少し声を落とした。
「ねぇ、千夏」
「……なに?」
「……一緒に住んでるのって、もしかして……田中くんの家だったりする?」
その問いは、静かだったが、千夏の心臓を直接鷲掴みにするような鋭さを持っていた。見開かれた瞳が、何も言えずに親友を見つめ返す。やがて、観念したように、ほんの少しだけ頷いた。
「……うん」
「そっか」
渚の声に、驚きはなかった。ただ、点と点が一本の線で繋がったような、深い納得があった。
「……それで、あんなに距離が近かったのね。なんとなく、そうじゃないかなって思ってたけど」
「うん……黙っててごめんね」
「ううん、事情があるのは分かってる。変な意味で言ってるんじゃないから……でもさ、大丈夫?その、いろいろ……」
心配げな言葉に、千夏は柔らかく笑った。
「うん。龍太くんの家族の人たちも、凄く良くしてくれるから」
「ならいいけど……」
渚はほんの少し目を細め、それから、まっすぐ千夏を見つめた。
「……じゃあ、それで彼と一緒にいる時間が増えて、好きになったのか」
今度は真っ直ぐ過ぎる問いに、千夏はまたもや固まってしまう。
「べ、べつに、そういうんじゃ……!」
「はいはい、続きはまた今度ね〜」
タイミングよく、先輩の声が体育館の奥から飛んできた。
「そろそろ休憩終わるよー」
「はーい!」
渚は手を振って返事をすると、千夏を振り返り、悪戯っぽく笑う。
「逃げられたと思わないでよ?」
「えっ、今ので終わりじゃないの?」
「当たり前でしょ。気になるに決まってるじゃん」
「……渚、やっぱり面白がってるよね」
「もちろん。こういうの大好物だから」
「もちろんなんだ」
二人の笑い声が、体育館へと続く廊下に軽やかに響く。バッシュの音。ボールが跳ねる、乾いた音。日常の音が戻ってくる中で、千夏の胸には、まだ、ほんのりと温かな余韻が残っていた。
——ただ、彼のことが気になったのは、同じ屋根の下で暮らすようになったから、じゃない。
もっとずっと前。
彼がまだ、誰の目にも留まらない、ただの無名な選手だった頃。それは、幼い日の記憶と、そして、春の訪れを待つ、まだ風の冷たいあの季節のことだった。
春の風は、まだ冬の名残を含んで、肌を刺すように冷たかった。けれど、そのひやりとした感触よりも、千夏の胸に広がる焦燥のほうが、よほど冷たかった。
春休み——中学二年になる、その直前。栄明中学の体育館は、季節に似合わない熱気に満ちていた。県内屈指の強豪とされるバスケ部の練習は、想像を絶するほど厳しく、甘えや手加減という言葉が、存在しない世界だった。
そしてその日、千夏は何もかも、うまくいかなかった。
パスは味方の数センチ先を虚しく通り過ぎ、ドリブルは意思とは無関係に何度もスティールされる。思考と身体が完全に乖離し、焦るほど、自分の身体だけが、重い枷をはめられたように動かなくなる。コートの上で、自分だけが、異物のように浮いている。そんな絶望に、何度も襲われた。
——バスケ、向いてないのかな。
心の奥に、そんな思いが、ひっそりと芽を出す。気づけば終盤には、自分の存在がコートに必要なのかすら、分からなくなっていた。
チームメイトが引き上げたあとも、千夏は一人、体育館に残った。無心でボールを手に取り、ひたすらシュートを打ち続ける。だが、何本打っても、リングを通過する、あの心地よい感触は戻ってこなかった。
(……こんなんじゃダメだ。ユメカにだって、追いつけない)
ユメカ——隣を並んで走りたいと願った存在。けれど現実は、その背中がどんどん遠ざかり、やがて霞んで見えなくなるほど、残酷に開いていた。どれだけ走っても、どれだけ汗を流しても、自分だけが置いていかれている。その悔しさが、喉の奥を熱く焼いた。
そのとき——背後から、足音が近づいてきた。
「そろそろ閉めるよ」
警備員の穏やかな声に、はっと我に返る。いつの間にか、外はすっかり薄闇に包まれていた。
「すみません、すぐ出ます」
慌てて頭を下げ、体育館を後にする。額に貼りついた髪を払いながら、無意識に、校庭へと足を向けていた。
その時だった。
静まり返った空気の中に、一定のリズムを刻む音が、紛れ込んでいるのに気づいた。
ザッ……ザッ……ザッ……。
誰かが、走っている。
その規則正しい足音は、夕暮れの静寂そのものに溶け込んでいるようだった。
足を止め、暗がりの向こうに目を凝らす。街灯の届かないグラウンドの奥に、一人の男子生徒のシルエットが見えた。その顔には、見覚えがあった。朝練の時も、ずっとグラウンドを走っていた子だ。
(……まだ、走ってたの……?)
驚きに、千夏はその場に立ち尽くした。
彼は、誰かと競っているわけではない。コーチが見ているわけでも、タイムを測っているわけでもない。ただ黙々と、自分のペースで走り続けている。
その横顔が、ふと見えた。
——笑っていた。
(……楽しそう)
無理に作った笑顔ではなかった。ただ純粋に、「走っている」という行為そのものを、全身で楽しんでいる、そんな表情だった。
その瞬間、千夏の脳裏に、小学生の頃の自分が、鮮やかに蘇った。夕暮れの校庭で、誰に言われるでもなく、ただひたすらにシュートを打ち続けていた、あの頃の自分。
——ただ、好きだから。
——ただ、楽しかったから。
(……私も、あの頃は)
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。心の隅に追いやっていた、一番大切な気持ちが、静かに目を覚ましていく。
今の自分は、どうだろう。勝ちたい。上手くなりたい。褒められたい。そんな気持ちばかりが先行して、いつの間にか「好き」という原点を、見失っていたのかもしれない。
でも、悔しくても、諦めたくなかったのは。苦しくても、毎日コートに立ち続けたのは。
(……好きだから、だったんだ)
勝敗が全ての世界で、「好き」だけでは生き残れない。けれど、その「好き」があるからこそ、人は何度でも立ち上がれる。その原点を、彼の黙々と走り続ける背中が、静かに、しかし力強く、思い出させてくれた。
「……ありがとう」
誰にも届かない小さな呟きは、けれど確かに、千夏の心に深く響いた。
その日を境に、彼女の目に映る世界は、少しだけ色を変えた。焦る日も、泣きたくなる日もある。それでも、また一歩を踏み出す強さを、彼女は取り戻した。
——好きだから、私は走る。
あの日、彼がそうしていたように。