親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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13話

 

 

 

 

 昼休憩が始まると、龍太と千夏は、自然な流れで学校を後にした。向かう先は、龍太の祖父母の家。歩いて数分のその家は、龍太にとって、馴染み深い場所だった。

 理由は単純だ。朝練で流した汗が乾きはじめる、あの不快さのまま午後を迎えるのが、どうにも我慢ならない。週末の練習ともなれば、ここで一度汗を流すのは、心身をリセットするための、ちょっとした儀式だった。

 そして、いつからか、千夏もその儀式に同行するようになっていた。

 

 きっかけは、些細な一言。

 彼女がふと「いいなぁ」と零したのを、聞いてしまった。それだけだ。清潔感を大切にする彼女にとって、想像以上に汗をかくバスケのあと、さっぱりできる場所があるのは、願ってもないことだったのだろう。

 本日もまた、不甲斐ない誘いを快く受け入れてくれた彼女と歩を進めると、やがて重厚な門構えが現れた。

 

 そこだけ、時が止まっていた。

 

 現代の住宅街の中で、その一画だけが、時代劇のセットのように古風な佇まいを保っている。磨き上げられた石畳。どっしり構える黒塗りの木造門。白壁に黒い梁が美しいコントラストを描く、瓦屋根の母屋。手入れの行き届いた庭で、松の緑と苔の翠が、初夏の陽光を浴びて、しっとり輝いていた。

 

「改めてみると、本当に立派なお家だね」

 

 千夏が、感嘆を漏らす。その横顔は、初めての美術館で立ち尽くす子供のように、素直な驚きに満ちていた。

 

「そうですかね? 俺はもう、見慣れちゃいましたけど」

「龍太くんの家も立派だもんね」

 

 実家もそれなりの広さがある。友人には驚かれるが、彼自身に自覚はあまりない。

 

「……まぁ、そういう家系なんで」

 

 照れくさそうに濁す横で、千夏がくすりと笑った。その笑みが、なぜか少し誇らしげに見えるのは、きっと、気のせいではない。

 ちょうどその時、玄関の引き戸が、からりと心地よい音を立てて開いた。

 

「いらっしゃい、龍太。それに……千夏ちゃんも」

 

 柔らかな声が、その場の空気をふわりとほどく。品の良い和服に身を包んだ、龍太の祖母だった。落ち着いた物腰。優雅な所作。その一つ一つが、長い歳月を重ねた者だけが纏う、穏やかな品格を物語っている。

 千夏は、すっと背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。

 

「お世話になります」

 

 いつもの、礼儀正しい挨拶。

 龍太は、その横顔を盗み見る。彼女が自分の日常に馴染んでいることが、くすぐったく、けれど心地よかった。

 

「いいのよ、そんなにかしこまらないで。ゆっくりしていって頂戴」

 

 祖母は柔らかく微笑み、千夏を招き入れる。千夏も、照れたように微笑み返した。

 

(……なんだろ、この感じ)

 

 特別なことは、何もない。それでも、この穏やかな空気が、龍太の内側をじんわりと満たしていく。祖母が千夏を気に入っていること。千夏もまた、この家を心地よく感じていること。言葉にせずとも、十分に伝わってきた。

 

「さ、二人とも上がって」

 

 慣れた様子で靴を脱ぎ、廊下を進む。千夏も倣って、そっと木の床を踏んだ。磨き込まれた板の間が、艶やかな光を放つ。家全体が、都会の喧騒とは無縁の静寂に包まれていた。

 

「先輩から先に使って下さい」

「ありがとう」

 

 千夏を風呂場へ案内し、龍太は一人、茶の間へ向かう。

 そこにはすでに祖父母が座り、湯呑みに冷たいお茶が注がれていた。涼やかな硝子の器の中で、氷がカラリと鳴る。

 

「相変わらず、いい子ねぇ」

「ああ。あんなに綺麗で品のある姿は、昔の母さんそっくりだ。……今も変わらず、綺麗だがな」

「相変わらず、お上手ねぇ」

 

 祖母が小さく笑い、茶をすする。祖父は新聞をめくりながら、しみじみと言う。

 

「言っとくが、お世辞ではないぞ?」

「ええ。それはもう、鬱陶しいくらいに存じておりますよ」

「なあ、その"鬱陶しい"ってのは余計じゃないか? 俺、傷つくぞ」

「はいはい、ごめんなさい」

 

 長年連れ添った夫婦だけが醸せる、温かい応酬。龍太は二人を眺めながら、湯呑みに口をつけた。

 その時だった。

 祖母の視線が、ふと、真っ直ぐに龍太を射抜く。

 

「それで、龍太」

「ん」

「千夏ちゃんと、その後はどうなったの?」

 

 お茶を、吹きそうになった。

 

「っ……げほっ、な、何をいきなり……!」

 

 祖母が、くすくす笑う。その顔に、確信めいたものが宿っていた。慌てっぷりが、何よりの答えになっているのだろう。

 

「その様子だと、まだ片思い中といったところかしらねぇ」

「なんだ、意気地のない。まだ伝えてないのか」

「……うるさいなぁ」

 

 祖父の追い打ち。頬を膨らませるが、的を射た指摘に、反論が浮かばない。

 

「あんなに可愛らしい子ですもの。悠長にしてると、誰かに取られちゃうわよ?」

「……わかってるよ、そんくらい」

 

 わかっている。彼女がどれほど魅力的で、そして、自分がどれほど臆病か。

 

「……わかってるけど。先輩の邪魔は、したくないんだよ」

 

 脳裏に、懸命にボールを追う彼女が浮かぶ。ぽつりと零れた本音に、祖母はそっと目を細めた。

 

「……そういうこと。自分の気持ちより、千夏ちゃんの未来を守りたいのね」

「……まぁ、な」

「なら、少し安心したわ。てっきり、恥ずかしくて伝えられないだけかと思っていたけれど」

 

 祖父が新聞を折りたたみ、ふっと笑う。

 

「まぁ、想いってのは、伝えなきゃ、想ってないのと同じなんだ。恋なんてのは、いつ状況が変わるか分からん。本当に好きな子を逃したら——一生、後悔するぞ」

 

 祖母も、優しく、けれど力強い眼差しで続ける。

 

「そうそう。あなたの思慮深いところは素敵だけれど。ちゃんと好きなら好きって伝えなさい」

「……ああ」

 

 伝えなければ、何も始まらない。それは、龍太自身が、一番よく分かっている。

 

「まぁ、年寄りが説教臭くなっては、可愛い孫に嫌われてしまうわね。からかうのは、このくらいにしましょうか」

「そうだな」

「からかってたのかよ……」

 

 祖母は笑って「冗談よ」と茶をすする。

 ちょうどその時、ふすまが、静かに開いた。

 

「お待たせしました」

 

 千夏が、戻ってきた。

 軽く束ねた髪の隙間から覗く、うなじ。

 そこに、龍太の視線が、一瞬、止まる。

 その何気ない仕草が、どこか妙に色っぽく見えて——息を、呑んだ。

 

「ふふっ、可愛らしいわねぇ」

 

 祖母が目を細め、嬉しそうに迎える。千夏は照れたように笑い、座布団に腰を下ろした。

 

「龍太くん、先にありがとね」

「いえ、じゃあ俺、次行ってきます」

 

 少しでもこの気恥ずかしさから逃れたくて、そそくさと風呂場へ向かった。

 

 

 

 

 

 長く浸かることもなく、汗を流す程度で済ませた龍太は、タオルで髪を拭きながら、茶の間へ足を向けた。

 さっぱりした体に、少し冷えた空気が心地よい。

 廊下を歩くうち、ふと、微かな声が聞こえてきた。

 祖母と、千夏の声。

 

(……話してる?)

 

 自然と、足音が消える。探りたい気持ちと、聞いてはいけないという自制が、せめぎ合う。龍太は襖の影に、そっと身を潜めた。

 

「……でも、私は——お世話になっているのに——なんだか図々しい気がして。それに——邪魔は、したくないなって、思ってしまうんです」

 

 千夏の声だった。普段の快活さの奥に、繊細な迷いが滲んでいる。言葉の端々に、自らを律する硬さがあった。

 

(……邪魔? 何の話だ?)

 

 分からない。けれど、なぜか、息が詰まる。胸の内のざわつきが、ひたひたと広がっていく。

 

「なんだか……あなたたち、よく似ているのねえ」

 

 くすっと笑う、祖母の声。

 

「えっ?」

 

 千夏の、戸惑った声が重なる。

 

「あの子もね、同じことを気にしていたわ。あなたとそっくり、同じ顔で」

 

 一瞬どきりとして、龍太は息を詰めた。

 

(ばあちゃん、余計なこと言わなくていいから……!)

 

 襖に手をかけそうになるのを、必死で堪える。だが、祖母の声は静かに、続いていく。

 

「ねえ、千夏ちゃん。一つだけ、意地悪を言ってもいいかしら」 

 

 その声は、織物のように柔らかい。けれど、芯のところに、隠しきれない鋭さがあった。

 

「あなたの言う『邪魔をしたくない』というのはね……それは本当に、お相手のためなのかしら」

「……え」

 

 千夏の、息を呑む気配。

 

「邪魔になるかどうかを決めるのは、あなたではないでしょう。それは、お相手が決めることよ。先回りして、相手の答えを奪ってしまうのはね……優しさのふりをした、いちばん身勝手なことなのよ」

 

 襖の影で、龍太の指が、止まった。

 

 ——身勝手。

 

 その文字が、なぜだか、自分の胸のいちばん柔らかいところに刺さる。千夏が誰の話をしているのか、それは分からない。分からないのに——先輩の邪魔はしたくない。そう繰り返してきた自分の言葉と、彼女の声が、どうしようもなく、重なって聞こえた。

 

「……本気でその先を目指してて。……そんな人のそばで、私がこの気持ちを抱えたまま、平気な顔して居続けられるのかなって。意識して、目で追って……その落ち着かなさが、いつか、邪魔になっちゃったらって。そう思うと……怖くなります」

 

 しばらく、祖母は何も言わなかった。

 否定されると思っていたのだろう。次の言葉を待つ千夏の、息を詰める気配が、襖越しに伝わってくる。

 

「……ええ。千夏ちゃんの言うことは、間違っていないわ」

 

 返ってきたのは、思いがけず、穏やかな肯定だった。

 

「誰かを大切に思えば、心はその分、どうしたって乱れるもの。よいことばかりでは、ないのよ。負けた日には慰めたくなるし、こちらを見てくれない日には、寂しくもなる。……そういうものを全部抱えて走るのは、確かに、身軽ではないわねえ。それなら、初めから持たなければいい。荷物は、軽いほうがいい」

 

 千夏が、小さく息を呑んだのが分かった。たぶん、痛いところを言い当てられて。

 湯呑みを置く、かすかな音。

 

「あなた、もう……気づいてしまっているのでしょう。蓋をしようとしても、心が、ひとりでにそちらを向いてしまうこと」

「……っ」

 

 否定の言葉は、返ってこなかった。

 襖の影で、龍太の指先が、わずかに震えた。

 

 ——心が、ひとりでにそちらを向く。

 

 先輩には、想っている相手がいる。その事実だけが、やけにくっきりと、胸に残った。一瞬、自分の顔が脳裏をよぎる。けれど龍太は、慌ててその考えを振り払った。

 

 いや、まさか。自惚れるな。先輩ほどの人が想う相手なんて——それこそ、星の数ほどいるに決まってる。きっと、自分の知らない誰かだ。 

 

 そう、言い聞かせる。 

 

 ——けれど。

 

 一度そう思ってしまうと、今度は別の問いが、頭から離れなくなった。

 

(……じゃあ、誰なんだ)

 

 先輩が、心をひとりでに向けてしまう相手。同じバスケ部の誰かだろうか。それとも、自分の知らない、どこかのクラスの男子か。普段一緒にいる顔を、片っ端から思い浮かべては、どれもしっくりこなくて、消していく。

 分かるはずもない。分かったところで、どうなるものでもない。

 なのに——その「誰か」の顔が見えないことが、こんなにも、胸の奥をざらつかせるなんて。

 鼓動だけが、勝手に、うるさかった。

 

「気持ちというのはね、厄介なものでね。蓋をしたところで、消えてはくれないの。見ないふりをして走るのと、ちゃんと胸に抱えて走るのと……どちらが、足を取られるかしらね」

「……それは」

「見ないふりのほうが、ずっと重いのよ。心の隅でずっと、気になって、気になって。……そちらのほうが、よほど、集中を奪うものですよ」

 

 千夏は、何も言えないようだった。

 反論できないのではない。たぶん、図星すぎて、言葉が追いつかないのだ。

 

 ——見ないふりのほうが、ずっと重い。

 

 襖の影で、龍太は、動けずにいた。それは千夏に向けられた言葉のはずなのに、まるで、自分が言い当てられたようだった。

 先輩の邪魔はしたくない。夢を追う背中を、引っ張りたくない。そう繰り返して、何度も、あと一歩を飲み込んできたのは——他の誰でもない、自分だ。

 

 相手の夢を言い訳にして、ただ、断られるのが怖かっただけ。自分の臆病を、優しさという綺麗な布で、くるんでいただけ。

 千夏が誰を想っていようと、それとは関係なく。少なくとも自分の気持ちからは、もう、目を逸らせそうになかった。

 

「だからね、千夏ちゃん」

 

 懐かしむように、ふっと笑う息遣いが、襖の向こうから伝わってくる。

 

「怖がらなくて、いいのよ。昔の人は、四十にして惑わず、なんて言うけれど……惑うことを知らない人に、惑わない日は来ないの。さんざん惑った人だけが、いつか、まっすぐ進めるようになるのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まったく……あの子ったら。本当に、素直じゃないこと」

 

 障子の閉まる音が遠ざかる中、祖母はそっと湯呑みに口をつけた。茶の香りをゆっくり吸い込み、ふう、と息を吐く。頬の微笑みに、呆れと愛しさが、ほどよく混ざっていた。

 向かいで新聞を広げていた祖父が、めくる手を止める。目線は紙面のまま、ぼそりと。

 

「……どっちも、だな」

 

 祖母はくすりと笑い、茶碗を受け皿に戻した。

 

「ふふ、本当にね。龍太も千夏ちゃんも、似たもの同士。真面目で、不器用で……でも、誰より優しいこと」

 

 視線を、縁側の向こうへ移す。午後の柔らかな陽射しが、庭を照らしていた。苔が光を受けて輝き、風が松の枝を、そっと揺らす。

 

「でもね……あれだけお互いを想い合っているんですもの。大丈夫。きっと、乗り越えられるわ」

 

 その声は、優しくて、静かで、どこか祈るようだった。

 祖父は新聞を畳み、のんびり湯呑みに手を伸ばす。ひと口飲んで、ガラス越しに空を見上げた。

 

「……まぁ、あのバカが、余計なことで悩みすぎなきゃな」

 

 呆れたように言いながらも、その声には、温もりがある。ずっとそばで見てきた者にしか出せない、情の入り混じった言い方だった。 

 

「千夏ちゃんの方が、腹を決めるのは早いかもな。……お前に似てるからな」

 

 そう言われ、祖母はくすっと笑った後、少し、目を伏せた。

 

「……そうかしら。でも千夏ちゃんは、駆け落ちなんて、しない子だと思うけれど」

 

 ぽつりとこぼれたその言葉に、祖母はしばらく沈黙し、そっと頷く。

 

「……そうね。そんな気が、するわ」

 

 口に出すには、少し切ない。でも、信じたい未来がある。そんな思いが、表情に滲んでいた。

 

「何事もなければ、いいのだけれどね」

 

 静かに言った祖母に、祖父が顔を向ける。

 

「……心配か」

「ええ。千夏ちゃんのこともあるけれど、龍太も……あの子、平気な顔をして、苦しいことを、なかなか口にしない子だから」

 

 祖父はふう、と短く息を吐き、過去を振り返るように呟いた。

 

「男ってのはな。弱さを見せるのが、下手なもんだ。口じゃ言えなくても、態度でなんとかしようとする。それがかえって不器用なことになるけど……でもそれは、誰かを思ってる証拠でもある」

 

 湯呑みを手にしたまま、外の景色へ目をやる。

 

「だから、見守ってやろう。ちゃんと受け止めてくれる人が、もうあの子のそばに、いるんだ。だったら——大丈夫さ」

 

 祖母は黙って聞いていたが、やがて、ふっと微笑んだ。

 

「……そうね」

 

 風がふわりと、部屋に流れ込む。草木の匂いとともに、懐かしい静けさを連れて。

 祖母の視線が、ゆっくりと縁側の先へ向かう。その目に、やわらかな光が宿っていた。まるで、まだ見ぬ誰かの幸せを、そっと祈るように。

 

「……頑張ってね、龍太」

 

 その呟きは、ごく小さく——けれど確かに、心からのエールだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祖父母の家を後にして、龍太と千夏は、並んで学校への道を歩いていた。

 特別な会話があるわけではない。けれど、その沈黙には、妙な居心地の良さがあった。歩く速度も、呼吸のリズムも、合わせたわけじゃないのに、いつの間にか、ぴたりと重なっている。

 龍太は、先ほど襖の向こうで聞いた言葉を、思い出していた。

 

 ——見ないふりのほうが、ずっと重いのよ。

 

 その一言が、今も胸の奥でくすぶっている。あれは千夏に向けられた言葉のはずなのに、自分のことを言い当てられた気がして、まだ熱が引かない。すぐに答えが出るものではない。でも、それでも。

 

 ふと横を見ると、千夏は真っ直ぐ前を向いて歩いていた。視線は遠くの一点に据えられているのに、その奥は、ここではないどこかを見ているようだった。いつもは凛としている彼女が、こうして何かを思いつめる横顔は、どこか儚くて、繊細だった。

 

(……先輩も、考えてるのか。ばあちゃんの言葉)

 

 何か話しかけるべきか。いや、このままでもいいのかもしれない——そう思いかけて、それでも胸に湧きあがる想いを、龍太は静かに言葉にした。 

 

「……先輩」

 

 小さな声だったが、その中に、はっきりと形になった決意の響きがあった。

 千夏が、ゆっくりこちらを向く。その大きな瞳が自分を捉えた瞬間、心臓がきゅっと縮こまった。穏やかな、けれどその奥に、何か得体の知れないものが揺らめいている。

 

「ん?」

 

 その柔らかな声に、龍太は一瞬、息を呑む。言葉を選びながら、ゆっくりと。

 

「……さっき、ばあちゃんと、何話してたんですか?」

 

 詮索するつもりではなかった。ただ、知りたかった。彼女が何を想い、何を感じていたのか——その一端でも、触れたかった。

 千夏は、一瞬驚いたように瞬いて、それから、ふっと笑った。

「んー……未来の話、かな」

 

 その声は柔らかくて、でも、どこか照れくさそうだった。ほんの少し、頬が赤い。

 

「未来の話……ですか?」

 

 反芻するように繰り返すと、千夏は小さく頷く。髪を耳にかけながら、ちらりと、彼の横顔を盗み見た。その横目に、ほんの少しの躊躇と、それを押し切る決意があった。

 

「龍太くん」

 

 名を呼ばれただけなのに、なぜか、心が大きく波打つ。その声音は、静かだけれど、確かに真剣だった。足が、自然と止まる。千夏も、同じように歩みを止めた。

 

「予選が終わったら、話したいことが——」

 

 その言葉が、すべてを紡ぎきる前に。

 千夏の声が、ふっと、途切れた。

 風が凪いだように、二人の間の空気が、一変する。

 ひどく嫌な予感が、龍太の背筋を、冷たく撫でた。

 恐る恐る、彼女の視線の先を追う。

 

 ——そして、息を呑んだ。

 

 道路を挟んだ向こう側に、一人の少女が歩いていた。

 髪は以前よりずっと長く、腰あたりまで伸びた黒髪が、風にふわりと揺れる。その隣には、見慣れない男子の姿。

 

「……ユメカ」

 

 漏れたその名に、龍太自身も、はっとする。

 そして、その声が届いたかのように、彼女が、ぴたりと足を止めた。ゆっくりと、顔がこちらを向く。

 鋭く切れた目元。それでもどこか寂しげな、無表情に近いまなざし。

 その目が、真っ直ぐに、千夏を捉えた。

 一瞬の、沈黙。

 たった数秒のはずなのに、時が止まったように感じられる。

 そして、彼女の唇が、動いた。

 

「……ナツ」

 

 声は、聞こえなかった。

 けれど、その口の動きだけで、分かった。

 確かにそう、彼女は千夏の名を呼んだ。

 道路一本分の距離。それだけなのに、まるで、埋められない時間の隔たりのように思えた。

 

(なんで……アンタが、ここに)

 

 いつか、どこかで会うタイミングは、あったのだ。でも、それが"今"である必要が、あっただろうか。

 戸惑いが、龍太の胸を締めつける。

 龍太は、静かに、拳を握った。

 何かが、動き出そうとしていた。

 過去と、現在と——そして、まだ見ぬ、未来と。

 

 

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