親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
昼休憩が始まると、龍太と千夏は自然な流れで学校を後にした。二人が向かう先は、龍太の祖父母の家。学校から歩いて数分の距離にあるその家は、龍太にとって馴染み深い場所だった。
理由は単純だった。朝練で流した汗が乾き始める、あの不快な感覚のまま午後の授業を迎えるのが、龍太にはどうにも耐え難かったのだ。特に週末の練習ともなれば、ここで一度汗を流すことは、彼にとって心身をリセットするための重要な儀式となっていた。
そして、いつからか、千夏もその儀式に同行するようになっていた。
最初はただの興味だったのかもしれない。だが、彼女がふと「いいなぁ」と羨むように呟いたのを聞いてしまった以上、龍太に彼女を誘わないという選択肢はなかった。元来、清潔感を大切にする彼女にとって、想像以上に汗をかくバスケの練習の後、さっぱりできる場所があるというのは、願ってもないことだったのだろう。
本日もまた、彼の不甲斐ない誘いを快く受け入れてくれた彼女と共に歩を進めると、やがて重厚な門構えが目の前に現れた。
そこは、まるで時が止まったかのような静謐な空間だった。龍太の祖父母の家は、現代の住宅街の中にあって、そこだけが時代劇のセットのように古風な佇まいを保っている。磨き上げられた石畳、どっしりと構える黒塗りの木造門、そして白壁に黒い梁が美しいコントラストを描く瓦屋根の母屋。手入れの行き届いた庭では、松の緑と苔の深い翠が、初夏の陽光を浴びてしっとりと輝いていた。
「改めてみると、本当に立派なお家だね」
千夏が感嘆の声を漏らす。その横顔は、初めて訪れた美術館で心を奪われた子供のように、素直な驚きと好奇心に満ちていた。
「そうですかね? 俺はもう、見慣れちゃいましたけど」
「龍太くんの家も立派だもんね」
彼女の言う通り、龍太の実家もそれなりの広さがある。友人たちからはいつも驚かれるが、彼自身にその自覚はあまりない。
「……まぁ、そういう家系なんで」
少し照れくさそうに言葉を濁す龍太の横で、千夏がくすりと笑った。その笑顔が、なぜか少しだけ誇らしげに見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
ちょうどその時、玄関の引き戸が、からりと心地よい音を立てて開いた。
「いらっしゃい、龍太。それに……千夏ちゃんも」
柔らかな声音が、その場の空気をふわりと解きほぐす。姿を現したのは、品の良い和服に身を包んだ龍太の祖母だった。落ち着いた物腰、優雅な立ち居振る舞い。その一つ一つが、長い年月を重ねてきた者だけが纏える、穏やかな品格を物語っていた。
千夏はすっと背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。
「お世話になります」
いつものように、礼儀正しい挨拶。
龍太は、そんな千夏の横顔を盗み見る。
彼女がこうして自分の日常の一部に馴染んでいることが、どこかくすぐったく、けれど心地よくもあった。
「いいのよ、そんなにかしこまらないで。ゆっくりしていって頂戴」
祖母は柔らかく微笑み、千夏を家の中へと招き入れる。千夏は少し照れたように微笑み返した。
(……なんだろ、この感じ)
特別なことは何もない。それでも、この穏やかな空気が、龍太の心をじんわりと満たしていく。祖母が千夏を気に入っていること、そして千夏もまた、この家の雰囲気を心地よく感じていること。それは、言葉にしなくても十分に伝わってきた。
「さ、2人とも上がって」
龍太は慣れた様子で靴を脱ぎ、縁側へと続く廊下へ進む。
千夏も彼に倣って靴を脱ぎ、そっと木の床を踏んだ。
足元に広がる板の間は磨き込まれ、艶やかな光を放っている。
家全体がどこか落ち着いた空気に包まれていて、都会の喧騒とは無縁の静寂が漂っていた。
「先輩から先に使って下さい」
「ありがとう」
千夏を風呂場へと案内し、龍太は一人、茶の間へと向かった。
そこではすでに祖父母が座っており、湯呑みに冷たいお茶が注がれていた。夏の初めを思わせる涼やかな硝子の器に、氷がカラリと音を立てる。
「相変わらずいい子ねぇ」
「ああ、あんなに綺麗で品のある姿は昔の母さんそっくりだ。今も変わらず綺麗だがな」
「相変わらずお上手ねぇ」
祖母は小さく笑い、茶をすする。
祖父は新聞をめくりながら、しみじみとした口調で言う。
「言っとくが、お世辞ではないぞ?」
「ええ、それはもう、鬱陶しいくらいに存じておりますよ」
「なあ、その“鬱陶しい”ってのは余計じゃないか? 俺、傷つくぞ?」
「はいはい、ごめんなさい」
その穏やかなやり取りは、長年連れ添った夫婦だけが醸し出すことのできる、温かい空気感に満ちていた。龍太は、そんな二人を眺めながら、自分の湯呑みに口をつけた。
その時だった。祖母の視線が、ふと真っ直ぐに龍太を射抜いた。
「それで、龍太」
「ん?」
「千夏ちゃんとその後はどうなったの?」
思わず、飲んでいたお茶を吹きそうになる。
「っ……げほっ、な、何をいきなり……!」
祖母はくすくすと笑う。その顔には、何か確信めいたものが宿っていた。
龍太の慌てっぷりが、何よりの答えになっているのだろう。
「その様子だと、まだ片思い中といったところかしらねぇ」
「なんだ、意気地のない。まだ伝えてないのか」
「……うるさいなぁ」
祖父の言葉が追い打ちをかける。龍太は頬を膨らませるが、的を射た指摘に反論の言葉も浮かばない。
「あんなに可愛らしい子ですもの。あまり悠長にしてると、誰かに取られちゃうわよ?」
「……わかってるよそんくらい」
わかっている。
彼女がどれほど魅力的で、そして自分がどれほど臆病か。
「……わかってるけど……先輩の邪魔はしたくないんだよ」
脳裏には懸命にバスケをする彼女の姿が思い浮かぶ。ぽつりと零れた本音に、祖母はそっと目を細めた。
「……そういうこと。自分の気持より、千夏ちゃんの未来を守りたいのね」
「……まぁ、な」
「なら少し安心したわ。てっきり、恥ずかしくて気持ちを伝えられないだけかと思っていたけれど……」
祖父が新聞を折りたたみながら、ふっと笑った。
「まぁ、想いってのは、伝えなきゃ、それは想ってないのと同じなんだ。特に恋なんてのは、いつ状況が変わるか分からん。本当に好きな子を逃したら、一生後悔することになるぞ」
祖母も、優しく、しかし力強い眼差しで続ける。
「そうそう。あなたの思慮深いところは素敵だけれど、ちゃんと好きなら好きって伝えなさい」
「……ああ」
祖母の諭すような声。
確かに、伝えなければ何も始まらない。
そのことは、龍太自身が一番よく分かっている。
「まぁ、あまり年寄りが説教臭くなっては可愛い孫に嫌われてしまうわね。龍太をからかうのはこのくらいにしましょうか」
「そうだな」
「からかってたのかよ……」
祖母は笑いながら、「冗談よ」とお茶をすする。
ちょうどその時、ふすまが静かに開いた。
「お待たせしました」
千夏が戻ってきた。
軽く束ねられた髪の隙間から覗くうなじに、一瞬、龍太の視線が止まる。
その自然体な仕草が、どこか妙に色っぽく見えて、息を呑んだ。
「ふふっ、可愛らしいわねぇ」
祖母が目を細め、嬉しそうに千夏を迎える。
千夏は少し照れたように笑いながら、座布団に腰を下ろした。
「龍太くん、先にありがとね」
「いえ、じゃあ俺、次行ってきます」
少しでもこの気恥ずかしい空気から逃れたくて、そそくさと風呂場へと向かった。
特に湯に長く浸かることもなく、汗を流す程度で風呂を済ませた龍太は、タオルで髪を拭きながら茶の間へと足を向けた。
さっぱりとした体に、少し冷えた空気が心地よくまとわりつく。
廊下を歩くうち、ふと微かに声が聞こえてきた。
祖母と、千夏の声。
(……話してる?)
自然と、足音が消える。何かを探るような、しかし聞いてはいけないという自制心がせめぎ合う中で、龍太は茶の間の手前、襖の影にそっと身を潜めた。
「……でも、私は──お世話になっているのに──なんだか図々しい気がして。それに──邪魔はしたくないなって思ってしまうんです」
千夏の声だった。その響きには、普段の快活さの奥に隠された、繊細な迷いやためらいが滲んでいた。言葉の端々に、自らを律しようとする硬さが感じられる。
(……邪魔? 何の話だ?)
分からない。けれど、なぜか息が詰まりそうになる。
胸の内でざわつく何かが、ひたひたと広がっていく。
「なんというか……あなたたち、そっくりねぇ」
くすっと笑う祖母の声が続く。
「えっ?」
千夏の戸惑った声が重なる。
「龍太もね、千夏ちゃんの未来を案じていたわ」
胸の奥が急激に熱くなるのを感じる。
(ばあちゃん、余計なこと言わなくていいから……!)
思わず襖に手をかけそうになるのを、必死で堪える。だが、祖母の声は静かに、しかし確かな温もりを帯びて続いていく。
「千夏ちゃん」
「?」
「これはね、私が生きてきた中で感じたことだから、もし心に引っかからなかったら、聞き流してしまっても構わないのだけれど」
祖母の声は、まるで織物のように柔らかく、そして重みがあった。
「誰かを特別に思うということは、その人の未来を奪うことじゃなくて、“一緒に未来を見よう”って、そう願うことじゃないかしら」
その一言が、部屋の空気を、そして龍太の心を、すっと浄化していくようだった。襖の向こうから、千夏が小さく息を呑んだ気配が伝わってくる。
──未来を、一緒に見よう。
その言葉が、静かに、けれど確かに心に染み込んでいく。
「人はね、一人では思っているほど遠くには行けないものよ」
「……」
「でも、誰かと一緒なら、どこまでも行ける。お互いが支え合えるなら、きっともっと遠くへ、もっと素敵な未来へ辿り着けるわ」
それは、祖母の人生の中で、きっと何度も噛みしめてきた実感なのだろう。そのひと言ひと言が、絵空事ではなく、確かな重みを持っていた。
「それにね──」
一拍おいて、祖母は少し笑うような声色で言葉をつないだ。
「まだまだ千夏ちゃんは若いんだから。時には、根拠のない自信や勢いに任せて飛び込んでみることも大事なのよ?」
「……根拠のない自信や勢い」
千夏が、ぽつりと呟く。
迷いと希望が交差するような声色だった。
祖母そんな彼女に優しく言う。
「きっと千夏ちゃんがその選択をした時、何かしら誰かにとやかく言われることもあるでしょう。でもね、振り返らずに、後悔のないように進みなさい。あなた達は、間違ってることをしてるわけでも、正しいことをしてるわけでもないのだから」
懐かしむように、ふっと笑うような息遣いが、襖の向こうから伝わってきた。
「──あなた達はただ、青春……してるだけでしょう?」
「まったく、あの子ったら……本当に素直じゃないんだから」
障子が静かに閉まる音が遠ざかる中、祖母はそっと湯呑みに口をつけた。温かな茶の香りをゆっくりと吸い込み、ふう、と小さく息を吐く。頬に浮かぶ微笑みには、呆れと愛しさがほどよく混ざっている。
向かいの座卓で新聞を広げていた祖父が、ページをめくる手を止めた。目線は紙面のまま、ぼそりとひと言。
「……どっちも、だな」
祖母はくすりと笑い、茶碗をそっと受け皿に戻した。
「ふふ、確かにね。龍太も千夏ちゃんも、ほんと、似たもの同士。真面目で、不器用で……でも、誰より優しい」
そう言って視線を縁側の向こうへ移す。午後の柔らかな陽射しが庭の緑を照らしていた。手入れの行き届いた苔が光を受けてしっとりと輝き、風が松の枝をそっと揺らしている。
「でもね……あれだけお互いのこと、ちゃんと想ってるんですもの。大丈夫。きっと乗り越えられるわ」
そう言う祖母の声は、優しくて静かで、どこか祈るようだった。
祖父は新聞を畳み、のんびりと湯呑みに手を伸ばす。ひと口飲んでから、ガラス越しに空を見上げた。
「……まぁ、あのバカが余計なことで悩みすぎなきゃな」
呆れたように言いながらも、その声には温もりがあった。ずっとそばで見てきた者にしか出せない、優しさと情の入り混じった言い方だった。
「千夏ちゃんの方が、腹を決めるのは早いかもな。お前に似てるからな」
そう言われて、祖母はくすっと笑った後、少し目を伏せた。
「……そうかしら。でも千夏ちゃんは、駆け落ちなんてしないと思うけど」
思い出すようにぽつりとこぼれたその言葉に、祖母はしばらく沈黙したのち、そっと頷いた。
「……そうね。そんな気がするわ」
口に出すには少し切ない。でも、信じたい未来がある。そんな思いが、祖母の表情に滲んでいた。
「何も起きなきゃいいけどね」
静かに言った祖母に、祖父が顔を向ける。
「……心配か」
「ええ。千夏ちゃんのこともあるけど、龍太も……あの子、平気な顔して、苦しいことをなかなか言わないから」
祖父はふう、と短く息を吐き、自身の過去を振り返るように呟いた。
「男ってのはな、弱さを見せるのが下手なもんだ。口じゃ言えなくても、態度でなんとかしようとする。それがかえって不器用なことになるけど……それでも、誰かを思ってる証拠でもある」
そう言って湯呑みを手にしたまま、祖父は外の景色へ目をやる。
「だから、見守ってやろう。ちゃんと受け止めてくれる人が、もうあの子のそばにいるんだ。だったら大丈夫さ」
祖母は黙ってその言葉を聞いていたが、やがてふっと微笑んだ。
「……そうね」
風がふわりと部屋の中に流れ込んでくる。草木の匂いとともに、どこか懐かしい静けさを連れてくるようだった。
祖母の視線は、ゆっくりと縁側の先へと向かう。
その目には、やわらかな光が宿っていた。まるで、まだ見ぬ誰かの幸せを、そっと祈っているかのように。
「……頑張ってね、龍太」
その呟きは、ごく小さく──けれど確かに、心からのエールだった。
祖父母の家を後にして、龍太と千夏は並んで学校への道を歩いていた。
特別な会話があるわけではない。けれど、その沈黙には妙な居心地の良さがあった。
歩く速度も、呼吸のリズムも、互いに合わせようとしたわけじゃないのに、いつの間にかぴたりと重なっていた。
龍太は、先ほど祖母が口にした言葉を思い出していた。
──“未来を一緒に見ようって、そう願うことじゃないかしら”。
──あなた達はただ、青春してるだけでしょう?
その言葉の重みを、今も心の中で反芻している。
すぐに答えが出るようなものではない。
でも、それでも。
今こうして千夏が隣にいて、何も言わずにただ歩いてくれていることが──愛おしかった。
ふと視線を横に向けると、千夏は少しうつむきながら歩いていた。長い睫毛が影を落とし、その眼差しは静かに地面を見つめている。いつものように凛としているはずの彼女が、どこか思案するような面持ちで歩いている姿は、どこか儚くて、繊細だった。
(……先輩も、考えてるのか。ばあちゃんの言葉)
何か話しかけるべきか。
いや、このままでもいいのかもしれない──そう思いかけて、それでも胸の奥に湧きあがってくる想いを、龍太は静かに言葉にした。
「……先輩」
それは小さな声だったが、彼の中ではっきりと形になった決意の響きを持っていた。千夏がゆっくりと顔を上げる。その大きな瞳が自分を捉えた瞬間、龍太の心臓がきゅっと縮こまるのを感じた。穏やかながらも、その奥には何か得体の知れない感情が揺らめいている。
「ん?」
その柔らかな声に、龍太はほんの一瞬、息を呑んだ。言葉を選びながら、ゆっくりと問いかける。
「……さっき、ばあちゃんと何話してたんですか?」
少し迷いながらも、龍太は問いかけた。
詮索するつもりではなかった。ただ、知りたかった。
彼女が、何を想い、何を感じていたのか──その一端でも触れたかった。
千夏は、一瞬驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと笑った。
「んー……未来の話、かな」
その声は柔らかくて、でもどこか照れくさそうだった。ほんの少し、頬が赤くなっているようにも見える。
「未来の話……ですか?」
龍太がその言葉を反芻するように繰り返すと、千夏は小さく頷いた。髪を耳にかけながら、ちらりと彼の横顔を盗み見る。その横目には、ほんの少しの躊躇と、それを押し切るような決意があった。
「龍太くん」
名前を呼ばれただけなのに、なぜか心が大きく波打つ。その声音は、静かだけれど確かに真剣だった。足が自然と止まる。千夏も、同じように歩みを止める。
「予選が終わったら、話したいことが──」
その言葉がすべてを紡ぎきる前に、千夏の声がふっと途切れた。まるで風が凪いだかのように、二人の間の空気が一変する。ひどく嫌な予感が、龍太の背筋を冷たく撫でた。
恐る恐る彼女の視線の先を追うと──龍太は息を呑んだ。
──そして、息を呑んだ。
道路を挟んだ向こう側に、一人の少女が歩いていた。
髪は以前よりもずっと長くなり、腰あたりまで伸びた黒髪が、風にふわりと揺れる。その隣には、見慣れない男子の姿。
「……ユメカ」
思わず漏れたその名に、龍太自身もはっとする。
そして、その声が届いたかのように、彼女がぴたりと足を止める。ゆっくりと、顔がこちらを向いた。
鋭く切れた目元。
それでもどこか寂しげな、無表情に近いまなざし。
その目が、真っ直ぐに千夏を捉える。
一瞬の沈黙。
たった数秒のはずなのに、時が止まったように感じられる。
そして、彼女の唇が動いた。
「……ナツ」
声は聞こえなかった。けれど、その口の動きだけで分かった。
確かにそう、彼女は千夏の名を呼んだ。
道路一本分の距離。
それだけなのに、まるで埋められない時間の隔たりのように思えた。
(なんで……アンタがここに)
例え彼女と合うことはなくても、どこかで会うタイミングはあったのだ。でも、それが“今”である必要があっただろうか。
そんな戸惑いが、龍太の胸を締めつける。
龍太は静かに拳を握った。
何かが、静かに動き出そうとしていた。
過去と現在と──そして、まだ見ぬ未来と。