親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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14話

 

 

 栄明の体育館は、いつもなら夜には静まり返る場所だった。しかし、今夜は違う。

 地区予選を勝ち抜いた精鋭たちが、夜遅くまで汗を流していた。県予選に向けて、学校側が特別に許可した「夜練」の時間。強豪校だからこそ許されたこの環境で、彼らは限界を超えるために己を追い込んでいた。

 体育館の中は熱気で満ちていた。床を打つバスケットボールの乾いた音、新体操のリボンが空を切る音、そしてトレーニングに励む選手たちの荒い息遣いが入り混じる。

 その中でも、ひときわ目を引く存在がいた。

 

 ──蝶野雛。

 

 新体操のフロアで、彼女は軽やかに舞っていた。

 リボンが空中で滑らかに弧を描き、彼女の身体と一体となって踊る。その動きは、まるで風を纏ったかのようにしなやかで美しかった。指先まで意識された完璧なフォーム。跳躍するたびに、長い髪が宙を舞い、汗に濡れた肌がライトの光を反射する。

 何度も同じ演技を繰り返し、少しでも精度を上げるために、細かい動きの調整を怠らない。彼女の視線には迷いがなかった。練習を積み重ねた者だけが持つ、絶対の自信と覚悟がそこにあった。

 その横では、もう一人、目を引く存在がいた。

 それが──千夏。

 バスケットボールのコートで、彼女はシュート練習を繰り返していた。

 ボールを構え、柔らかく膝を曲げる。そして、次の瞬間、無駄のないジャンプシュート。

 ボールは美しい弧を描き、ネットに吸い込まれる。

 

「ナイスシュート!」

 

 チームメイトの声に、千夏は軽く頷くと、すぐに次の動作へと移る。

 

 ──彼女の集中力は、並のものではない。

 

 ストイックなまでに動きを確認し、シュートの成功率を高めるために微調整を繰り返す。その姿は、他の選手とはどこか違っていた。もともとポーカーフェイスな彼女だが、ボールを持つ瞬間だけは、どこか表情が引き締まる。

 

 まるで、試合本番を想定しているかのように。

 

「千夏、スピード上げて」

「うん」

 

 彼女は即座にドリブルを速め、素早くステップを踏む。滑るような動きからのジャンプシュート。再び、ボールはゴールへと吸い込まれた。

 

 ──息を呑むほどの、洗練された動き。

 

 バスケットボールはチームスポーツだが、この瞬間だけは、まるで彼女のための舞台のようだった。

 そんな千夏の姿を見つめていると、龍太の脳裏に、今日の昼間に起きた出来事が、鮮やかに蘇ってきた。

 

『ナツ……』

『ユメカ……』

 

 それは、あまりにも偶然の、そして感動とは程遠い、再会だった。

 彼女──木戸夢佳は、千夏を一瞥した後、すぐに、まるで睨みつけるかのように、龍太へとその視線を向けた。

 

『オマエ、まだナツにつきまとってるわけ?』

 

 その一言で、龍太の記憶は、忌まわしい過去へと、強制的に引き戻される。

 木戸夢佳という名前に、良い思い出など、一つもなかった。

 千夏といつも一緒にいた、天才少女。その噂は、龍太の耳にも届いていた。初めて見た彼女のプレーは衝撃的で、誰もがその圧倒的な才能を認めていた。

 その頃の千夏は、まだ、今ほど目立つ存在ではなかった。

 それなのに、なぜか夢佳は、龍太に対して、あからさまな敵意を向けてきたのだ。

 たまたま廊下ですれ違うたびに、無言の圧力をかけてくる。言葉にはならない、けれど確かに感じる、冷たい排除の気配。

 そして、その中でも、最悪だったのが、あの言葉だった。

 

 ──所詮才能あったところで、上には上が居るんだよ……なぁ、結局プロになれるわけでもねぇのにそんなに必死になって、何の意味があんの? 

 

 それは、努力する者の心を、根こそぎ踏みにじるような、残酷な一言だった。

 それを、彼女は、何の悪びれもなく、平然と吐き捨てたのだ。

 それ以来、龍太の中で、「夢佳」という名前は、嫌悪と結びついた、ただの忌まわしい記憶でしかなかった。

 だから、龍太は、自然と千夏を庇うように、一歩前に出ていた。

 

『そうだったとして、今のあなたに関係あるんですか?』

 

 少しだけ、棘のある言い方だったかもしれない。

 だが、それを聞いた夢佳の表情は、明らかに変わった。その瞳は、鋭い刃物のように、龍太を射抜く。今にも飛びかかってきそうなほどの剣幕で、二人の視線が、火花を散らした。

 

『そこまでにしよう』

 

 その時、間に入ってきたのは、彼女の隣にいた眼鏡の青年だった。

 

『すみません、コイツが迷惑をかけて』

『べ、別に私は』

『い、いえ、自分こそすみません』

 

 丁寧に頭を下げられ、龍太も慌てて会釈した。

 青年は夢佳の肩に手を添え、二人はそのまま立ち去っていった。

 最後まで、夢佳は千夏のことだけを見ていた。

 

『……ごめんね、龍太くん』

 

 別れ際、千夏が、小さな声で呟いた。

 まるで、すべてが自分のせいだとでも言うように。

 そんなこと、あるはずがない。

 そう言おうとして、ふと、彼女の目に宿る、深い寂しさの色に気づいた。

 

(……まだ、待ってるんだ)

 

 夢佳と、もう一度心から笑い合える日を──。

 

『すみません、喧嘩腰になってしまって』

 

 だから、龍太は、代わりにそう言って謝った。

 言い返したい気持ちは山ほどあった。だが、今の自分が取るべき行動は、千夏のそのか細い想いを、壊さないことだと思ったからだ。

 しかし、千夏は、柔らかく首を横に振った。

 

『ううん、あれはユメカが悪いよ』

 

 彼女にしては、珍しいほどに、断定的な言い方だった。それが、龍太には少しだけ、嬉しかった。

 だが、それでも。

 彼女の胸の痛みが、消えるわけではない。

 ましてや、自分の中に芽生えたこの苛立ちが、治まるはずもなかった。

 

「あー、くっそぉ……っ!」

 

 太は、固く握りしめた拳を床につけ、腕立て伏せに、さらに力を込めた。

 どこにもぶつけようのない、このやり場のない感情を、ただひたすらに、筋肉に叩きつけるように。

 

「どうしたんだよ、急にムキになって」

「……色々あってな」

「そっか」

 

 短く返す。それ以上は語らなかった。

 でも、大喜は無理に聞こうとはしなかった。

 その優しさが、今は少しだけありがたかった。

 

「龍はさ」

「ん?」

「……雛と千夏先輩、どっちが好きなんだ?」

「んあ?」

 

 唐突な問いに、龍太は思わず変な声を上げた。

 

「なんだよ急に」

「い、いや……なんとなく、さ」

 

 大喜は、照れ隠しなのか、ポリポリと頬を掻きながら、視線を逸らした。ふと、以前、千夏にも同じような質問をされたことを思い出す。そういえば、あの時、先輩は、ヤキモチを焼いた、と言っていた。

 それは、つまり……。

 状況を瞬時に察した龍太は、申し訳なさそうな顔をした。

 

「悪かった。ちょっと今後は距離感気をつけるな」

「えっ? いや、別に龍のせいじゃないって!」

「……その、ヤキモチ、妬いたんだろ?」

「……まぁ、な」

 

 ポリポリと頬をかく大喜に、龍太は苦笑した。

 

「それでもさ、やっぱ気をつけるよ。親しき仲にも礼儀ありっていうし」

「……現国0点の龍が、そんな言葉まで知ってたのか」

「おい、こら。英語だけは100点だぞ」

「それホント栄明の七不思議だよな」

 

 クスッと大喜は小さく笑った。

 そのとき、大喜の視線がふと龍太の足元へと向いた。

 

「あれ、龍ってミサンガつけてるんだな。意外というか、そういうのつけるタイプだっけ? 貰い物って受け取らないイメージあったんだけど」

「ん? ああ、これか」

 

 龍太は、何気なく自分の足首を見下ろした。ミサンガは、すっかり肌に馴染んでおり、普段は特に意識することもなかった。しかし、大喜に指摘された瞬間、途端に、その存在が、やけに意識されてしまう。

 

「貰いものだよ」

「龍のお母さん?」

「……まぁ、そんなところ」

 

 わざと、曖昧に答えた。本当は違う。けれど、だからといって、ここで千夏の名前を口にするのは、何となく、照れくさかったのだ。

 けれど、大喜は、存外に鋭い。

 龍太の声の端に滲んだ、微かな揺らぎを、見逃すような男ではなかった。

 

「ふーん」

 

 それ以上は何も言わず、ただ、目を細めてミサンガをじっと見つめている。その沈黙が、どこか妙に、居心地が悪い。

 

「大喜はそういう願掛けっぽいことしないの?」

 

 龍太は、空気を変えるように話題を振った。

 

「神社にはいくけど、特にはないな」

「ふうん、大喜も雛とお揃いでつければ?」

「は、はあ!? なんで雛とお揃い……ていうか、龍も誰かとお揃いだったり……?」

 

 言いかけて、大喜の目が、龍太の足元から、ふと遠くを見つめた。千夏の足首にも、同じようなミサンガが巻かれていたのを、思い出したのだろうか。そして、ニヤッと、悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「……“お母さんから貰った”って設定、崩れたな」

「……別に貰い物ってのは間違ってねぇよ」

 

 ごまかしきれたかどうかは怪しいが、大喜はそれ以上、詮索しようとはしなかった。

 その目が、いつの間にか、どこか真剣な色を帯びていた。

 

「……女の子ってさ、こういうの、好きだったりするのかな」

「ん?」

「ミサンガとか、願掛けとか。おそろいとか……。そういうの、嬉しいもんなのかなって」

 

 不意に、声が柔らかくなる。

 

「雛にあげたら、喜ぶと思うぞ」

「べ、別にそういうのじゃないって」

「わかってるよ。でもさ、お互いの競技も違うし、練習場所だって離れてるだろ。時々、孤独に感じることもあるんじゃないか? 深い意味はなかったとしても、きっと、励ましになると思うぞ」

「……そう、かもな」

 

 きっと雛も、自分と同じように、見えない不安を抱えながら、それでも懸命に、前に進もうとしている。すぐそばにいながら、言葉にできない想いを、抱えているのかもしれない。だからこそ、たった一本のミサンガでも、何かの支えになるのかもしれない、と龍太は思った。

 大喜たちは、共に汗を流し、競い合い、励まし合う仲間が、すぐそばにいる。彼らは、毎日、同じ空間で練習し、互いの努力を間近で見ているのだ。その関係性が、龍太には少しだけ、羨ましく感じられた。

 千夏と過ごす時間は、決して少なくはないはずだ。なのに、彼女が真剣にバスケに向き合っている姿を、自分が見られるのは、いつも限られた時間だけだった。そんな彼女が、自分にミサンガを手渡してくれた、あの日──。その想いが、ふとした瞬間に、心の支えになっていることがある。

 

(……きっと、そんな意図はないんだろうけどな)

 

 それでも、「同じ方向を向いている」と思えることが、少しだけ嬉しかったりする。

 

「因みに告白はしないの?」

 

 不意打ちのように龍太が問いかけると、大喜の顔が一気に赤くなった。

 

「うぇっ!? あ、いや、それは、その……」

 

 ごにょごにょと口ごもった後、ぽつりと、決意を込めたように、呟いた。

 

「もしインハイに行けたら、しようとは思ってる」

「……おお、マジか!」

 

 思わず、龍太が感嘆の声を漏らす。

 

「それは……ちゃんと気合い入れないとだな」

「ふーん、やっぱり大喜ってインハイ目指してるんだ~」

「うわっ!?」

 

 突然後ろから割り込んできた声に、大喜が、漫画のように飛び上がった。

 そこには、雛が、満面の笑みで立っていた。  

 

「い、いつからそこに……!?」

「『しようと思ってる』あたりから、かな」

「なっ……!?」

「それで? インハイ行ったら、なにするの?」

「……べ、別に……なんでもないし……」

「ほらほら~! なになに~?」

「いたっ! ぐりぐりすんな!」

 

 雛が大喜の頬を指で押しながら、にやにやと追及する。

 龍太はそれを見て、思わず肩を揺らした。

 

(ま、言えるわけないよな)

 

 そんなやり取りを眺めながら、ふと、思い出した名前を口にする。

 

「なぁ、2人はさ──元栄明中の女バスで、木戸夢佳先輩って知ってる?」

「名前だけなら聞いたことある」

「私もー」

 

 やはり彼女の名前は聞き覚えがあるらしい。

 

「じゃあ、どこの高校行ったかまでは……?」

「……うーん、先輩たちが話してるの、聞いたような……あっ、しょうめい? みたいな……」

「しょうめい?」

 

 龍太と大喜が首をかしげたその時、落ち着いた声が横から割って入る。

 

彩昌高校(さいしょうこうこう)じゃない?」

 

 そこに立っていたのは、いつの間にか、匡だった。

 その言葉を聞いた、瞬間──。

 龍太の拳が、自然と、強く、握られていた。

 胸の奥で、何かが、静かに、そして確かに、熱を帯びていくのを、彼は感じていた。

 

(はぁ……よりにもよって……)

 

 

 

 

 

 

 扉が静かに閉まり、電車は滑るように、ゆっくりと動き出した。

 車輪がレールを噛む、かすかな金属音が、心地よいリズムとなって響く。

 龍太は、座席に深く腰を下ろし、窓の外へと視線を向けた。

 流れゆく景色。

 最初は、見慣れた、どこかのどかな町並みが続いていた。しかし、電車が進むにつれて、次第に高層ビルの硬質な影が、その風景に混じり始める。田舎特有の低い屋根が広がる住宅街から、無機質なコンクリートの建物群へと変わっていく、その境界線を越えるたびに、車窓から流れ込む空気の匂いが、わずかに変わっていくような気がした。

 車内には、まだ昼前の、ゆったりとした時間が流れている。

 隣の席では、イヤホンをつけた学生が、スマートフォンの画面を食い入るように見つめ、その向かいの席では、スーツ姿の男性が、大きな新聞を広げていた。

 吊り革に掴まりながら、ぼんやりと窓の外を眺める人々。

 都心へと向かうこの電車の中は、どこか、都会特有の、洗練された、しかしどこか冷たい空気を帯びていた。

 話し声は少なく、ほとんどの乗客が、それぞれの手の中にある、何かに集中している。

スマホ、タブレット、そして、文庫本──。

 誰もが、何かを抱え、どこかへ向かっている。

 電車が、ガタン、と微かに揺れるたび、天井の広告が、同じリズムで揺れ、窓ガラスに映る自分の姿が、一瞬だけ、歪んで見えた。

 

「……もうすぐか」

 

 小さく、誰にともなく呟いて、彼は改めて窓の外を見つめる。

 遠くには、無数のビル群が、まるで巨大な墓標のように、そびえ立っていた。

 都心に近づくにつれて、風景は、より一層、その都会的な様相を増していく。

 線路沿いに、びっしりと並ぶ雑居ビル。その壁面を埋め尽くす、色とりどりの看板。そして、歩道橋を、まるで蟻の行列のように、絶え間なく行き交う人々──。

 この街には、まだ、馴染みというには、程遠い感覚があった。

 それでも、これから降り立つであろう、目的の駅のことを考えると、不思議と、緊張はなかった。

 電車が、滑るようにホームへと滑り込んでいく。

 窓の向こうには、都会の、目が眩むほどの雑踏が、広がっていた。

 龍太は、ゆっくりと、席を立った。

 

 改札を抜けると、目の前に広がっていたのは、寸分の狂いもなく、どこまでも整然とした街並みだった。

 高層ビルが、まるで競い合うように空を遮り、道幅の広い歩道には、スーツ姿の大人たちや、自分と同じ、制服に身を包んだ学生たちが、絶え間なく行き交っている。

 龍太は、スマートフォンの地図を頼りに、目的の学校へと、足を進めた。

慣れない都会の雑踏に、少しだけ戸惑いながらも、道の端を選び、流れるような人々の波に逆らうことなく、彼はただひたすらに、歩き続けた。

 やがて、目的地の校門が、その姿を現した。

 それは、まるで、名門大学のそれのように、荘厳で、立派な門構えだった。

 校名が深く刻まれた、重厚な石碑の横には、最新式の自動開閉ゲートが設置されており、生徒たちは、慣れた手つきでカードキーをかざして、その中へと吸い込まれていく。

 

「……すげぇ」

 

 思わず、小さな感嘆の声が、彼の口から漏れた。

 自分が通っている学校とは、あまりにも、何もかもが違いすぎた。

 門をくぐると、まず目に飛び込んできたのは、広々とした、美しい校庭だった。

 人工芝が、まるでビロードのように敷き詰められたグラウンドは、完璧に整備されており、そこでランニングをしている生徒たちの足元からは、ほとんど土埃が上がっていない。

 その周囲には、本格的なランニング用のトラックが設けられており、その端には、最新鋭のフィットネス器具が、ずらりと並んでいた。

 

「なんだよこれ……学校っていうか、スポーツ施設じゃん……」

 

 驚きながら視線を巡らせると、グラウンドの遥か先には、全面ガラス張りの、近代的な体育館がそびえ立っている。

 自動ドアの向こうに見えるのは、バスケットボールコートが、優に三面は取れるであろう、広大なアリーナ。

 そして、その天井には、巨大なスクリーンが吊るされており、おそらくは、試合の様子をリアルタイムで映し出すための、最新の設備まで整っているようだった。

 

「マジかよ……」

 

 これが、都内の強豪校の、日常の環境なのだ。

 ふと、廊下の方へと視線を向けると、そこもまた、驚くほどに洗練された空間だった。

 廊下は、どこまでも広く、その床は、鏡のように磨き上げられたウッドフロア。

まるで、高級ホテルのロビーのような、落ち着いた雰囲気が漂っている。

 壁に設置された、巨大なデジタル掲示板には、時間割や、試合のスケジュールが、カラフルに映し出されていた。

 そして、その隅には、生徒たちが自由に使えるカウンターが設置されており、何人かの生徒が、タブレットを操作しながら、談笑している姿も見えた。

 

「……次元が違うな」

 

 設備だけで、これほどまでに差があるとは、思ってもみなかった。

 自分が通っている学校とは、まるで、住んでいる世界が違うかのようだ。

 そんな圧倒的な格差を前に、龍太は、しばらくの間、校門のそばに立ち尽くしていた。

 

(……さて、どうするか)

 

 今日の目的は、この広大な学校のどこかにいるはずの、“ある人物”を探し出すことだ。

 しかし、この広さでは、やみくもに歩き回ったところで、効率が悪いだけだろう。

 とりあえずは、ここで待ちながら、様子をうかがうのが、一番賢明な策かもしれない。

 そう、彼が考えを巡らせていた、その時だった。

 

「ねえ、もしかして……栄明高校の陸上部の、田中くん?」

 

 不意に名前を呼ばれ、龍太は思わず、びくっと肩を揺らした。

 驚いて振り向くと、そこには、ジャージ姿の女子生徒が、立っていた。すらりとした長身で、背筋が、すっと、気持ちがいいほどに伸びている。その全身から、運動部特有の、キビキビとした、快活な空気が漂っていた。スポーティーな雰囲気の彼女は、まっすぐにこちらを見つめている。

 

「え? あ、はい……」

 

 龍太が戸惑いながら頷くと、彼女は「やっぱり!」と明るく笑った。

 

「すごい! 全中見たよ! ほんとに速かったよね!」

「いや、そんな大したことは……」

 

 謙遜の言葉を紡ぎかけた龍太だったが、それより早く周囲の空気が変わった。

 

「えっ、田中って、あの田中!?」

「マジで!? 本物!?」

「え、写真よりカッコよくない? 顔ちっちゃ!」

「やば、動画撮っとこ!」

 

 一人、また一人と、生徒たちが足を止め、龍太の周りに、あっという間に人だかりができていく。スマートフォンを構えたまま、ざわめき始める声。驚きと、純粋な好奇心が入り混じった、無数の視線。何が、どうしてこうなってしまったのか。状況が全く理解できないまま、龍太は、まるで抗いがたい濁流に飲み込まれるように、その輪の中心に、ただ、呆然と立ち尽くしていた。

 

「好きなタイプってどんな人?」

「彼女いるんですか?」

「インスタとかやってないの?」

「笑った顔、やば……やっぱ目の前にいると違うわ……」

 

(な、なんだこれ!?)

 

 目の前で、次から次へと投げかけられる質問の嵐に、まともに返すこともできず、龍太はただ、唖然とするしかなかった。

 人波は、どんどん厚みを増していく。視界は遮られ、まるで酸素が薄くなっていくかのように、息苦しささえ感じ始めていた。心臓の鼓動が、妙に速くなっていく。

 そして、そんな混乱の渦の中、不意に、柔らかな、落ち着いた声が、彼の耳に落ちてきた。

 

「……きみは」

 

 他の誰の声とも違う、低く、穏やかな響き。

 その声に、龍太は、ほとんど反射的に顔を上げた。

 視線の先に立っていたのは、一人の男子生徒だった。制服の襟元は、きちんと整えられ、その知的な眼鏡の奥の瞳が、静かに、こちらを見つめている。

 

(……この人……どこかで……)

 

 記憶の、奥深く。何かが、引っかかる。

 すぐに、思い出した。

 夢佳と、一緒に歩いていた、あの時の、男──。

 そうだ、確かに、あの時の彼だ。

 

「よくここまで来たもんだな」

 

 呆れたように、けれど、どこか親しみのある口調で、彼は言った。

 その言葉と、その表情に、龍太の全身から、一気に、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。

 助かった──。

 心の底から、彼は、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 電車を降り、耳をつんざくような都会の喧騒を抜けると、そこには、まるで別世界のように落ち着いた雰囲気を湛えたカフェが、ひっそりと佇んでいた。全面ガラス張りのモダンな外観に、控えめに掲げられた小さな看板。店内は、間接照明の柔らかな光に満たされ、静かに、そして心地よく、ジャズピアノの旋律が流れていた。龍太は、その場違いなほどの洗練された空間に、少しだけ戸惑いながらも、そっと足を踏み入れた。

 

「ここ結構お気に入りの店なんだ」

 

 先ほど、自分を窮地から救い出してくれた男子生徒──彼は、穏やかな笑顔を浮かべながら、そう言って向かいの席に腰を下ろした。

 龍太もまた、促されるままに椅子に腰を下ろしたが、まだ慣れないこの都会的な空間に、どうしても落ち着かない気分だった。

 目の前の彼は、ごく自然な、さりげない仕草でカップを手に取ると、スプーンでカフェラテのきめ細やかな泡を、ゆっくりと、そして優雅に混ぜていた。

 

「こんなところで油を売ってていいの?」

 

 彼はふと、くすっと笑いながら言う。

 

「……まぁ、気になっちゃったので」

 

 龍太は、正直にそう答えた。

 それを聞いた彼は、少しだけ驚いたように目を細め、そして「すごいね」と、感心したように小さく笑った。

 

「気になるのは、夢佳のことだよね?」

 

 その、あまりにも核心を突いた問いかけに、龍太は、迷うことなく頷いた。

 

「……はい」

 

 それは、たった一言の、短い答えだった。

 けれど、それだけで、十分すぎるほどに、彼の想いは伝わっていた。

 

「そっか」

 

 彼は、静かに微笑んだ。

 その笑顔は、どこか温かく、それでいて、少しだけ切なげな色を帯びているように、龍太には見えた。

 

「僕も、詳しいところまでは分からないんだ。それに、それは彼女の、とてもプライベートな部分でもある。だから、僕が話せるのは、掻い摘んだことだけだ。それに、僕自身の推測も、かなり含まれることになると思う。……それでもいい?」

 

 その問いかけに、龍太は少なからず驚いた。

 

(話してくれるんだ……)

 

 ここまで、こんなにもあっさりと、「話す」と言われるとは、全く思っていなかった。もちろん、夢佳のことを知るために、ここまで来たのだ。

 けれど、もっと探りを入れ、慎重に言葉を選び、時間をかけなければ、彼女に関する情報を得ることはできないだろうと、そう思っていたのだ。

 

「……いいんですか?」

 

 思わず口にしていた。

 

「だって君は、ナツ? さんの彼氏でしょ?」

「いえ、彼氏ではないです」

 

 即座に否定すると、彼は「え?」と少し驚いた表情を見せた。

 

「まぁ、片思いではあるかもしれませんけど」

 

 龍太がそう続けると、彼は一瞬呆れたような顔をして──

 

「片思いって……」

 

 と、小さく、ほとんど聞こえないほどの溜息をつくように呟き、それから、「まぁ、いいか」と、諦めたように笑った。

 この人は──柔らかい笑顔をする人だ。

 まるで、相手の心を、優しく包み込んでしまうような、そんな不思議な安心感を与える笑顔。

 龍太は、ぼんやりと、そう思った。

 

「どこから話そうかな」

 

 彼は、静かにカップを置くと、龍太の目を真っ直ぐに見た。

 

「まず、僕は夢佳とは付き合ってないからね?」

「──は?」

 

 ──じゃあお前誰だよ。

 

 龍太は思わずツッコミを心のなかで入れる。

 

「まぁ、前置きは良いとして、そうだな、まず彼女は木戸夢佳じゃない。今は後藤夢佳。それが今の彼女の名前だよ」

 

 龍太は一瞬、息を飲んだ。

 

「君ももう高校生なんだから、その意味は理解できるね?」

 

 その言葉の重い意味を、龍太はゆっくりと時間をかけて噛み締める。

 

(……離婚、とか、そういうことか?)

 

 龍太が小さく頷くと、彼は、静かに、そしてゆっくりと、語り始めた。

 後藤夢佳という、一人の少女の、その知られざるストーリーを──。

 

 

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