親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
栄明の体育館は、いつもなら夜には静まり返る場所だった。しかし、今夜は違う。
地区予選を勝ち抜いた精鋭たちが、夜遅くまで汗を流していた。県予選に向けて、学校側が特別に許可した「夜練」の時間。強豪校だからこそ許されたこの環境で、彼らは限界を超えるために己を追い込んでいた。
体育館の中は熱気で満ちていた。床を打つバスケットボールの乾いた音、新体操のリボンが空を切る音、そしてトレーニングに励む選手たちの荒い息遣いが入り混じる。
その中でも、ひときわ目を引く存在がいた。
──蝶野雛。
新体操のフロアで、彼女は軽やかに舞っていた。
リボンが空中で滑らかに弧を描き、彼女の身体と一体となって踊る。その動きは、まるで風を纏ったかのようにしなやかで美しかった。指先まで意識された完璧なフォーム。跳躍するたびに、長い髪が宙を舞い、汗に濡れた肌がライトの光を反射する。
何度も同じ演技を繰り返し、少しでも精度を上げるために、細かい動きの調整を怠らない。彼女の視線には迷いがなかった。練習を積み重ねた者だけが持つ、絶対の自信と覚悟がそこにあった。
その横では、もう一人、目を引く存在がいた。
それが──千夏。
バスケットボールのコートで、彼女はシュート練習を繰り返していた。
ボールを構え、柔らかく膝を曲げる。そして、次の瞬間、無駄のないジャンプシュート。
ボールは美しい弧を描き、ネットに吸い込まれる。
「ナイスシュート!」
チームメイトの声に、千夏は軽く頷くと、すぐに次の動作へと移る。
──彼女の集中力は、並のものではない。
ストイックなまでに動きを確認し、シュートの成功率を高めるために微調整を繰り返す。その姿は、他の選手とはどこか違っていた。もともとポーカーフェイスな彼女だが、ボールを持つ瞬間だけは、どこか表情が引き締まる。
まるで、試合本番を想定しているかのように。
「千夏、スピード上げて」
「うん」
彼女は即座にドリブルを速め、素早くステップを踏む。滑るような動きからのジャンプシュート。再び、ボールはゴールへと吸い込まれた。
──息を呑むほどの、洗練された動き。
バスケットボールはチームスポーツだが、この瞬間だけは、まるで彼女のための舞台のようだった。
そんな千夏の姿を見つめていると、龍太の脳裏に、今日の昼間に起きた出来事が、鮮やかに蘇ってきた。
『ナツ……』
『ユメカ……』
それは、あまりにも偶然の、そして感動とは程遠い、再会だった。
彼女──木戸夢佳は、千夏を一瞥した後、すぐに、まるで睨みつけるかのように、龍太へとその視線を向けた。
『オマエ、まだナツにつきまとってるわけ?』
その一言で、龍太の記憶は、忌まわしい過去へと、強制的に引き戻される。
木戸夢佳という名前に、良い思い出など、一つもなかった。
千夏といつも一緒にいた、天才少女。その噂は、龍太の耳にも届いていた。初めて見た彼女のプレーは衝撃的で、誰もがその圧倒的な才能を認めていた。
その頃の千夏は、まだ、今ほど目立つ存在ではなかった。
それなのに、なぜか夢佳は、龍太に対して、あからさまな敵意を向けてきたのだ。
たまたま廊下ですれ違うたびに、無言の圧力をかけてくる。言葉にはならない、けれど確かに感じる、冷たい排除の気配。
そして、その中でも、最悪だったのが、あの言葉だった。
──所詮才能あったところで、上には上が居るんだよ……なぁ、結局プロになれるわけでもねぇのにそんなに必死になって、何の意味があんの?
それは、努力する者の心を、根こそぎ踏みにじるような、残酷な一言だった。
それを、彼女は、何の悪びれもなく、平然と吐き捨てたのだ。
それ以来、龍太の中で、「夢佳」という名前は、嫌悪と結びついた、ただの忌まわしい記憶でしかなかった。
だから、龍太は、自然と千夏を庇うように、一歩前に出ていた。
『そうだったとして、今のあなたに関係あるんですか?』
少しだけ、棘のある言い方だったかもしれない。
だが、それを聞いた夢佳の表情は、明らかに変わった。その瞳は、鋭い刃物のように、龍太を射抜く。今にも飛びかかってきそうなほどの剣幕で、二人の視線が、火花を散らした。
『そこまでにしよう』
その時、間に入ってきたのは、彼女の隣にいた眼鏡の青年だった。
『すみません、コイツが迷惑をかけて』
『べ、別に私は』
『い、いえ、自分こそすみません』
丁寧に頭を下げられ、龍太も慌てて会釈した。
青年は夢佳の肩に手を添え、二人はそのまま立ち去っていった。
最後まで、夢佳は千夏のことだけを見ていた。
『……ごめんね、龍太くん』
別れ際、千夏が、小さな声で呟いた。
まるで、すべてが自分のせいだとでも言うように。
そんなこと、あるはずがない。
そう言おうとして、ふと、彼女の目に宿る、深い寂しさの色に気づいた。
(……まだ、待ってるんだ)
夢佳と、もう一度心から笑い合える日を──。
『すみません、喧嘩腰になってしまって』
だから、龍太は、代わりにそう言って謝った。
言い返したい気持ちは山ほどあった。だが、今の自分が取るべき行動は、千夏のそのか細い想いを、壊さないことだと思ったからだ。
しかし、千夏は、柔らかく首を横に振った。
『ううん、あれはユメカが悪いよ』
彼女にしては、珍しいほどに、断定的な言い方だった。それが、龍太には少しだけ、嬉しかった。
だが、それでも。
彼女の胸の痛みが、消えるわけではない。
ましてや、自分の中に芽生えたこの苛立ちが、治まるはずもなかった。
「あー、くっそぉ……っ!」
太は、固く握りしめた拳を床につけ、腕立て伏せに、さらに力を込めた。
どこにもぶつけようのない、このやり場のない感情を、ただひたすらに、筋肉に叩きつけるように。
「どうしたんだよ、急にムキになって」
「……色々あってな」
「そっか」
短く返す。それ以上は語らなかった。
でも、大喜は無理に聞こうとはしなかった。
その優しさが、今は少しだけありがたかった。
「龍はさ」
「ん?」
「……雛と千夏先輩、どっちが好きなんだ?」
「んあ?」
唐突な問いに、龍太は思わず変な声を上げた。
「なんだよ急に」
「い、いや……なんとなく、さ」
大喜は、照れ隠しなのか、ポリポリと頬を掻きながら、視線を逸らした。ふと、以前、千夏にも同じような質問をされたことを思い出す。そういえば、あの時、先輩は、ヤキモチを焼いた、と言っていた。
それは、つまり……。
状況を瞬時に察した龍太は、申し訳なさそうな顔をした。
「悪かった。ちょっと今後は距離感気をつけるな」
「えっ? いや、別に龍のせいじゃないって!」
「……その、ヤキモチ、妬いたんだろ?」
「……まぁ、な」
ポリポリと頬をかく大喜に、龍太は苦笑した。
「それでもさ、やっぱ気をつけるよ。親しき仲にも礼儀ありっていうし」
「……現国0点の龍が、そんな言葉まで知ってたのか」
「おい、こら。英語だけは100点だぞ」
「それホント栄明の七不思議だよな」
クスッと大喜は小さく笑った。
そのとき、大喜の視線がふと龍太の足元へと向いた。
「あれ、龍ってミサンガつけてるんだな。意外というか、そういうのつけるタイプだっけ? 貰い物って受け取らないイメージあったんだけど」
「ん? ああ、これか」
龍太は、何気なく自分の足首を見下ろした。ミサンガは、すっかり肌に馴染んでおり、普段は特に意識することもなかった。しかし、大喜に指摘された瞬間、途端に、その存在が、やけに意識されてしまう。
「貰いものだよ」
「龍のお母さん?」
「……まぁ、そんなところ」
わざと、曖昧に答えた。本当は違う。けれど、だからといって、ここで千夏の名前を口にするのは、何となく、照れくさかったのだ。
けれど、大喜は、存外に鋭い。
龍太の声の端に滲んだ、微かな揺らぎを、見逃すような男ではなかった。
「ふーん」
それ以上は何も言わず、ただ、目を細めてミサンガをじっと見つめている。その沈黙が、どこか妙に、居心地が悪い。
「大喜はそういう願掛けっぽいことしないの?」
龍太は、空気を変えるように話題を振った。
「神社にはいくけど、特にはないな」
「ふうん、大喜も雛とお揃いでつければ?」
「は、はあ!? なんで雛とお揃い……ていうか、龍も誰かとお揃いだったり……?」
言いかけて、大喜の目が、龍太の足元から、ふと遠くを見つめた。千夏の足首にも、同じようなミサンガが巻かれていたのを、思い出したのだろうか。そして、ニヤッと、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「……“お母さんから貰った”って設定、崩れたな」
「……別に貰い物ってのは間違ってねぇよ」
ごまかしきれたかどうかは怪しいが、大喜はそれ以上、詮索しようとはしなかった。
その目が、いつの間にか、どこか真剣な色を帯びていた。
「……女の子ってさ、こういうの、好きだったりするのかな」
「ん?」
「ミサンガとか、願掛けとか。おそろいとか……。そういうの、嬉しいもんなのかなって」
不意に、声が柔らかくなる。
「雛にあげたら、喜ぶと思うぞ」
「べ、別にそういうのじゃないって」
「わかってるよ。でもさ、お互いの競技も違うし、練習場所だって離れてるだろ。時々、孤独に感じることもあるんじゃないか? 深い意味はなかったとしても、きっと、励ましになると思うぞ」
「……そう、かもな」
きっと雛も、自分と同じように、見えない不安を抱えながら、それでも懸命に、前に進もうとしている。すぐそばにいながら、言葉にできない想いを、抱えているのかもしれない。だからこそ、たった一本のミサンガでも、何かの支えになるのかもしれない、と龍太は思った。
大喜たちは、共に汗を流し、競い合い、励まし合う仲間が、すぐそばにいる。彼らは、毎日、同じ空間で練習し、互いの努力を間近で見ているのだ。その関係性が、龍太には少しだけ、羨ましく感じられた。
千夏と過ごす時間は、決して少なくはないはずだ。なのに、彼女が真剣にバスケに向き合っている姿を、自分が見られるのは、いつも限られた時間だけだった。そんな彼女が、自分にミサンガを手渡してくれた、あの日──。その想いが、ふとした瞬間に、心の支えになっていることがある。
(……きっと、そんな意図はないんだろうけどな)
それでも、「同じ方向を向いている」と思えることが、少しだけ嬉しかったりする。
「因みに告白はしないの?」
不意打ちのように龍太が問いかけると、大喜の顔が一気に赤くなった。
「うぇっ!? あ、いや、それは、その……」
ごにょごにょと口ごもった後、ぽつりと、決意を込めたように、呟いた。
「もしインハイに行けたら、しようとは思ってる」
「……おお、マジか!」
思わず、龍太が感嘆の声を漏らす。
「それは……ちゃんと気合い入れないとだな」
「ふーん、やっぱり大喜ってインハイ目指してるんだ~」
「うわっ!?」
突然後ろから割り込んできた声に、大喜が、漫画のように飛び上がった。
そこには、雛が、満面の笑みで立っていた。
「い、いつからそこに……!?」
「『しようと思ってる』あたりから、かな」
「なっ……!?」
「それで? インハイ行ったら、なにするの?」
「……べ、別に……なんでもないし……」
「ほらほら~! なになに~?」
「いたっ! ぐりぐりすんな!」
雛が大喜の頬を指で押しながら、にやにやと追及する。
龍太はそれを見て、思わず肩を揺らした。
(ま、言えるわけないよな)
そんなやり取りを眺めながら、ふと、思い出した名前を口にする。
「なぁ、2人はさ──元栄明中の女バスで、木戸夢佳先輩って知ってる?」
「名前だけなら聞いたことある」
「私もー」
やはり彼女の名前は聞き覚えがあるらしい。
「じゃあ、どこの高校行ったかまでは……?」
「……うーん、先輩たちが話してるの、聞いたような……あっ、しょうめい? みたいな……」
「しょうめい?」
龍太と大喜が首をかしげたその時、落ち着いた声が横から割って入る。
「
そこに立っていたのは、いつの間にか、匡だった。
その言葉を聞いた、瞬間──。
龍太の拳が、自然と、強く、握られていた。
胸の奥で、何かが、静かに、そして確かに、熱を帯びていくのを、彼は感じていた。
(はぁ……よりにもよって……)
扉が静かに閉まり、電車は滑るように、ゆっくりと動き出した。
車輪がレールを噛む、かすかな金属音が、心地よいリズムとなって響く。
龍太は、座席に深く腰を下ろし、窓の外へと視線を向けた。
流れゆく景色。
最初は、見慣れた、どこかのどかな町並みが続いていた。しかし、電車が進むにつれて、次第に高層ビルの硬質な影が、その風景に混じり始める。田舎特有の低い屋根が広がる住宅街から、無機質なコンクリートの建物群へと変わっていく、その境界線を越えるたびに、車窓から流れ込む空気の匂いが、わずかに変わっていくような気がした。
車内には、まだ昼前の、ゆったりとした時間が流れている。
隣の席では、イヤホンをつけた学生が、スマートフォンの画面を食い入るように見つめ、その向かいの席では、スーツ姿の男性が、大きな新聞を広げていた。
吊り革に掴まりながら、ぼんやりと窓の外を眺める人々。
都心へと向かうこの電車の中は、どこか、都会特有の、洗練された、しかしどこか冷たい空気を帯びていた。
話し声は少なく、ほとんどの乗客が、それぞれの手の中にある、何かに集中している。
スマホ、タブレット、そして、文庫本──。
誰もが、何かを抱え、どこかへ向かっている。
電車が、ガタン、と微かに揺れるたび、天井の広告が、同じリズムで揺れ、窓ガラスに映る自分の姿が、一瞬だけ、歪んで見えた。
「……もうすぐか」
小さく、誰にともなく呟いて、彼は改めて窓の外を見つめる。
遠くには、無数のビル群が、まるで巨大な墓標のように、そびえ立っていた。
都心に近づくにつれて、風景は、より一層、その都会的な様相を増していく。
線路沿いに、びっしりと並ぶ雑居ビル。その壁面を埋め尽くす、色とりどりの看板。そして、歩道橋を、まるで蟻の行列のように、絶え間なく行き交う人々──。
この街には、まだ、馴染みというには、程遠い感覚があった。
それでも、これから降り立つであろう、目的の駅のことを考えると、不思議と、緊張はなかった。
電車が、滑るようにホームへと滑り込んでいく。
窓の向こうには、都会の、目が眩むほどの雑踏が、広がっていた。
龍太は、ゆっくりと、席を立った。
改札を抜けると、目の前に広がっていたのは、寸分の狂いもなく、どこまでも整然とした街並みだった。
高層ビルが、まるで競い合うように空を遮り、道幅の広い歩道には、スーツ姿の大人たちや、自分と同じ、制服に身を包んだ学生たちが、絶え間なく行き交っている。
龍太は、スマートフォンの地図を頼りに、目的の学校へと、足を進めた。
慣れない都会の雑踏に、少しだけ戸惑いながらも、道の端を選び、流れるような人々の波に逆らうことなく、彼はただひたすらに、歩き続けた。
やがて、目的地の校門が、その姿を現した。
それは、まるで、名門大学のそれのように、荘厳で、立派な門構えだった。
校名が深く刻まれた、重厚な石碑の横には、最新式の自動開閉ゲートが設置されており、生徒たちは、慣れた手つきでカードキーをかざして、その中へと吸い込まれていく。
「……すげぇ」
思わず、小さな感嘆の声が、彼の口から漏れた。
自分が通っている学校とは、あまりにも、何もかもが違いすぎた。
門をくぐると、まず目に飛び込んできたのは、広々とした、美しい校庭だった。
人工芝が、まるでビロードのように敷き詰められたグラウンドは、完璧に整備されており、そこでランニングをしている生徒たちの足元からは、ほとんど土埃が上がっていない。
その周囲には、本格的なランニング用のトラックが設けられており、その端には、最新鋭のフィットネス器具が、ずらりと並んでいた。
「なんだよこれ……学校っていうか、スポーツ施設じゃん……」
驚きながら視線を巡らせると、グラウンドの遥か先には、全面ガラス張りの、近代的な体育館がそびえ立っている。
自動ドアの向こうに見えるのは、バスケットボールコートが、優に三面は取れるであろう、広大なアリーナ。
そして、その天井には、巨大なスクリーンが吊るされており、おそらくは、試合の様子をリアルタイムで映し出すための、最新の設備まで整っているようだった。
「マジかよ……」
これが、都内の強豪校の、日常の環境なのだ。
ふと、廊下の方へと視線を向けると、そこもまた、驚くほどに洗練された空間だった。
廊下は、どこまでも広く、その床は、鏡のように磨き上げられたウッドフロア。
まるで、高級ホテルのロビーのような、落ち着いた雰囲気が漂っている。
壁に設置された、巨大なデジタル掲示板には、時間割や、試合のスケジュールが、カラフルに映し出されていた。
そして、その隅には、生徒たちが自由に使えるカウンターが設置されており、何人かの生徒が、タブレットを操作しながら、談笑している姿も見えた。
「……次元が違うな」
設備だけで、これほどまでに差があるとは、思ってもみなかった。
自分が通っている学校とは、まるで、住んでいる世界が違うかのようだ。
そんな圧倒的な格差を前に、龍太は、しばらくの間、校門のそばに立ち尽くしていた。
(……さて、どうするか)
今日の目的は、この広大な学校のどこかにいるはずの、“ある人物”を探し出すことだ。
しかし、この広さでは、やみくもに歩き回ったところで、効率が悪いだけだろう。
とりあえずは、ここで待ちながら、様子をうかがうのが、一番賢明な策かもしれない。
そう、彼が考えを巡らせていた、その時だった。
「ねえ、もしかして……栄明高校の陸上部の、田中くん?」
不意に名前を呼ばれ、龍太は思わず、びくっと肩を揺らした。
驚いて振り向くと、そこには、ジャージ姿の女子生徒が、立っていた。すらりとした長身で、背筋が、すっと、気持ちがいいほどに伸びている。その全身から、運動部特有の、キビキビとした、快活な空気が漂っていた。スポーティーな雰囲気の彼女は、まっすぐにこちらを見つめている。
「え? あ、はい……」
龍太が戸惑いながら頷くと、彼女は「やっぱり!」と明るく笑った。
「すごい! 全中見たよ! ほんとに速かったよね!」
「いや、そんな大したことは……」
謙遜の言葉を紡ぎかけた龍太だったが、それより早く周囲の空気が変わった。
「えっ、田中って、あの田中!?」
「マジで!? 本物!?」
「え、写真よりカッコよくない? 顔ちっちゃ!」
「やば、動画撮っとこ!」
一人、また一人と、生徒たちが足を止め、龍太の周りに、あっという間に人だかりができていく。スマートフォンを構えたまま、ざわめき始める声。驚きと、純粋な好奇心が入り混じった、無数の視線。何が、どうしてこうなってしまったのか。状況が全く理解できないまま、龍太は、まるで抗いがたい濁流に飲み込まれるように、その輪の中心に、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
「好きなタイプってどんな人?」
「彼女いるんですか?」
「インスタとかやってないの?」
「笑った顔、やば……やっぱ目の前にいると違うわ……」
(な、なんだこれ!?)
目の前で、次から次へと投げかけられる質問の嵐に、まともに返すこともできず、龍太はただ、唖然とするしかなかった。
人波は、どんどん厚みを増していく。視界は遮られ、まるで酸素が薄くなっていくかのように、息苦しささえ感じ始めていた。心臓の鼓動が、妙に速くなっていく。
そして、そんな混乱の渦の中、不意に、柔らかな、落ち着いた声が、彼の耳に落ちてきた。
「……きみは」
他の誰の声とも違う、低く、穏やかな響き。
その声に、龍太は、ほとんど反射的に顔を上げた。
視線の先に立っていたのは、一人の男子生徒だった。制服の襟元は、きちんと整えられ、その知的な眼鏡の奥の瞳が、静かに、こちらを見つめている。
(……この人……どこかで……)
記憶の、奥深く。何かが、引っかかる。
すぐに、思い出した。
夢佳と、一緒に歩いていた、あの時の、男──。
そうだ、確かに、あの時の彼だ。
「よくここまで来たもんだな」
呆れたように、けれど、どこか親しみのある口調で、彼は言った。
その言葉と、その表情に、龍太の全身から、一気に、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
助かった──。
心の底から、彼は、そう思った。
電車を降り、耳をつんざくような都会の喧騒を抜けると、そこには、まるで別世界のように落ち着いた雰囲気を湛えたカフェが、ひっそりと佇んでいた。全面ガラス張りのモダンな外観に、控えめに掲げられた小さな看板。店内は、間接照明の柔らかな光に満たされ、静かに、そして心地よく、ジャズピアノの旋律が流れていた。龍太は、その場違いなほどの洗練された空間に、少しだけ戸惑いながらも、そっと足を踏み入れた。
「ここ結構お気に入りの店なんだ」
先ほど、自分を窮地から救い出してくれた男子生徒──彼は、穏やかな笑顔を浮かべながら、そう言って向かいの席に腰を下ろした。
龍太もまた、促されるままに椅子に腰を下ろしたが、まだ慣れないこの都会的な空間に、どうしても落ち着かない気分だった。
目の前の彼は、ごく自然な、さりげない仕草でカップを手に取ると、スプーンでカフェラテのきめ細やかな泡を、ゆっくりと、そして優雅に混ぜていた。
「こんなところで油を売ってていいの?」
彼はふと、くすっと笑いながら言う。
「……まぁ、気になっちゃったので」
龍太は、正直にそう答えた。
それを聞いた彼は、少しだけ驚いたように目を細め、そして「すごいね」と、感心したように小さく笑った。
「気になるのは、夢佳のことだよね?」
その、あまりにも核心を突いた問いかけに、龍太は、迷うことなく頷いた。
「……はい」
それは、たった一言の、短い答えだった。
けれど、それだけで、十分すぎるほどに、彼の想いは伝わっていた。
「そっか」
彼は、静かに微笑んだ。
その笑顔は、どこか温かく、それでいて、少しだけ切なげな色を帯びているように、龍太には見えた。
「僕も、詳しいところまでは分からないんだ。それに、それは彼女の、とてもプライベートな部分でもある。だから、僕が話せるのは、掻い摘んだことだけだ。それに、僕自身の推測も、かなり含まれることになると思う。……それでもいい?」
その問いかけに、龍太は少なからず驚いた。
(話してくれるんだ……)
ここまで、こんなにもあっさりと、「話す」と言われるとは、全く思っていなかった。もちろん、夢佳のことを知るために、ここまで来たのだ。
けれど、もっと探りを入れ、慎重に言葉を選び、時間をかけなければ、彼女に関する情報を得ることはできないだろうと、そう思っていたのだ。
「……いいんですか?」
思わず口にしていた。
「だって君は、ナツ? さんの彼氏でしょ?」
「いえ、彼氏ではないです」
即座に否定すると、彼は「え?」と少し驚いた表情を見せた。
「まぁ、片思いではあるかもしれませんけど」
龍太がそう続けると、彼は一瞬呆れたような顔をして──
「片思いって……」
と、小さく、ほとんど聞こえないほどの溜息をつくように呟き、それから、「まぁ、いいか」と、諦めたように笑った。
この人は──柔らかい笑顔をする人だ。
まるで、相手の心を、優しく包み込んでしまうような、そんな不思議な安心感を与える笑顔。
龍太は、ぼんやりと、そう思った。
「どこから話そうかな」
彼は、静かにカップを置くと、龍太の目を真っ直ぐに見た。
「まず、僕は夢佳とは付き合ってないからね?」
「──は?」
──じゃあお前誰だよ。
龍太は思わずツッコミを心のなかで入れる。
「まぁ、前置きは良いとして、そうだな、まず彼女は木戸夢佳じゃない。今は後藤夢佳。それが今の彼女の名前だよ」
龍太は一瞬、息を飲んだ。
「君ももう高校生なんだから、その意味は理解できるね?」
その言葉の重い意味を、龍太はゆっくりと時間をかけて噛み締める。
(……離婚、とか、そういうことか?)
龍太が小さく頷くと、彼は、静かに、そしてゆっくりと、語り始めた。
後藤夢佳という、一人の少女の、その知られざるストーリーを──。