親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
千夏と初めて出会ったのは、小二の時だった。 その頃、すでにミニバスのチームに所属していた夢佳は、周りより抜きん出てバスケが上手かった。
後からチームに入ってきた千夏は基本的なドリブルもシュートもままならず、そんな千夏を他の子はいないところで笑った。けれど夢佳は、そういう雰囲気に同調する気になれず、ちょっとうんざりしていた。確かに千夏は下手かもしれないが、上から目線でそう評する子たちより、はるかにたくさん練習していることに、夢佳は気づいていたからだ。 実際、結果はそう時間がかからないうちに、明らかとなった。 コーチから『期待している』と声をかけられ、ユニフォームをもらったのは千夏の方だった。それでもまだ千夏を悪く言うチームメイトに対し、夢佳は言い放った。 『愚痴ってないで練習すればいいじゃん』 今まで夢佳は自分より優れたチームメイトに出会ったことはなかったが、千夏の練習への熱意は、初めてすごいと思えた。
『あの努力できる力には、憧れるけどね』
それはフォローで口にした評価ではなく、夢佳の本心から出た言葉だった。
千夏は誰よりもバスケが好きだった。
最初の頃、一向に成功しないシュートに見かねて教えると、目をキラキラさせて尋ねた。
『こうって、どうやるの!?』
人見知りで、どこかぼんやりとした性格と思っていたが、バスケのことになると千夏は夢佳がたじろぐほど積極的だった。呼ばれ方が『夢佳ちゃん』から、『ユメカ』に変わる頃には、すっかり仲よくなっていた。
その頃を懐かしく思い出す。
バスケが好き──その気持ちの強さが共通点で、絆だった。
「……だった、のにな」
夢佳は少し考えて、大通りから逸れた。どこに続いているのかわからなかったが、普段通らない道へ入っていく。 車通りが少なくなると、辺りは途端に静かになった。街路樹が風に吹かれて、乾いた音を立てる。どこからか、子供の笑い声が聞こえてきた。 夕陽が、家の屋根や電柱を照らす。 夢佳は一本道を曲がっただけで、来たことのない土地を歩いているような気分がした。
すると、突き当たりに公園が現れる。
何となくベンチを探して歩いていた夢佳の耳に、ダン、ダン、と聞き慣れた音が届いた。
「っ!」
思わず、音のする方へ振り返った。 そこには屋外用のバスケコートが作られていた。
「あ……」
支柱に設置されたゴールの下、少女が二人遊んでいた。一人が打ったシュートは、リングに当たることなく綺麗にゴールネットを揺らす。
(へぇ、けっこう上手いじゃん)
眺めていた夢佳は、そばにベンチを見つけて腰を下ろした。 少し見ていれば、少女たちの動きは遊びでやっているわけではなく、きちんと指導を受けているものだとわかった。
「…………」
ベンチに座った夢佳の耳に、ボールの弾む音が届く。その音は自然と、部活の風景を呼び起こした。
(もう『最強』じゃ、ない……)
中学に入ってからの練習は、これまでとは格段にレベルが違った。対戦する学校も圧倒的に強くなり、思うようにプレーできなくなっていった。 一年の間はそれでもまだ、千夏やチームのメンバーとともに活躍できた。栄明中学のユニフォームを着て出場した新人大会、夢佳たちは他校を破り優勝を勝ち取った。
この勢いのまま、自分たちの世代はインターハイに行くと思ってた。だが、栄光は一瞬だった。 周りは自分より上手い選手ばかりで、今までのバスケは通用しない。練習でも、もっと高いテクニックや連携が求められ、最後まで走り抜く体力でさえ足りないと痛感させられた。 今までバスケで躓いたことのなかった夢佳にとって、それは初めて経験する挫折だった。 そんなきつい練習の合間でも、息を切らして隣を見ると、同じように疲れ果てながらも千夏の目には強い光が宿っていた。 上手くいかない時もめげず、むしろ壁にぶつかるたびに、その課題とまっすぐに向き合い前を目指す。汗を拭ってまた走り出す千夏の姿は、それを楽しんでいるようでさえあった。
千夏はきっとずっと初めから、逆境の中でバスケをしてきた。対して自分はどうだ。 才能に驕っていなかったと本当に言えるだろうか。 練習で、手を抜いたことはなかったか。 バスケの、楽しいところだけを、好きだと思っていたのではないか。
気づけば毎日、そんなことを考えていたような気がする。
バスケが上手い自分が、バスケが心から好きな自分が、夢佳のアイデンティティだった。最大の自己肯定。その気持ちを原動力に走ってきたけれど、夢佳は、バスケに対する自分の感情が、もう今までとは違ってしまっていることに気づいてしまった。
だから、バスケに対する情熱を失った。
けれど、千夏は違った。辛さや悔しさから逃げ出さず、次の試合を見据えていた。悔し涙を流して一人練習する千夏の姿は、眩しかった。 その姿に夢佳は悟った。
彼女とは、もう肩を並べてバスケはできないのだと。
(ナツ……)
もう前みたいに、バスケに対してひたむきになれない。 だから中学の部活を引退するとそのまま、バスケ部を去った。誰にも、千夏にも、何の相談もしなかった。できるわけがなかった。 自分は、逃げ出したのだ。
夢佳は自分を嘲笑う。もうきつい練習をしなくてもいい、震えを隠して試合に出なくてもいい。そう思った途端、情けないほど安堵していたが、その気持ちはほんのひと時だけだった。 後には、大事なものを失った、空っぽの自分だけだった。
それをズルズルと引きずったまま、結局今の今まできてしまったのだ。
──ユメカ。
夢佳は溜息をついて、ベンチから立ち上がった。 その時、コートからボールが弾んで転がってきた。
「あっ、すみません!」
パスを取り損ねた少女が声を発する。夢佳は転がっていたボールを目で追い、一瞬の躊躇の後、手を伸ばした。指先が慣れた仕草で、その曲線を掬い上げる。 最後にバスケットボールに触れてから、一体どれくらい経ったのだろう。
少女たちのボールは使い込まれているが、空気はしっかりと入っていて硬い。夢佳はその手触りと重さに目を細めた。 少女たちは無言でボールを持つ夢佳の姿に、少しだけ怯む。
「あの……」
夢佳は両手でボールを持ち直すと、少女たちを見て、それからその先のゴールリングへ視線を向けた。
夢佳はボールを構える。額の前へ掲げると、腕は滑らかに動く。
(このシュートが入ったら……)
心の中で続きを唱えると、夢佳はゆっくりとボールを放った。ボールは放物線を描きながら、ゴールに向かっていく──だが、ボールはリングに弾かれ、落ちた。
(……これで良いんだよ)
思わず冷笑が漏れる。
夢佳は公園の出入り口へ戻っていく。ボールの音が再び後ろから響き始めた。それもだんだんと遠ざかっていく。 夢佳は一度だけ、足を止めてバスケコートの方を振り返った。
ボールを追いかけシュートを打つ少女二人の姿は、かつての自分たちに重なり合った。バスケが好きで、夢中になっていたあの頃。
(楽しかったな……)
夢佳は、胸の中でぽつりと呟く。
あんなに、楽しかったのにな、と。
「……っ」
夢佳は視界を遮るように、前髪をくしゃりと片手で乱す。ローファーで地面を蹴るように歩き出す。
自分はもう、バスケをやめると決めたのだ。情けない姿を、ずっと憧れてくれていた親友に知られたくない。自分のせいで、前を進んでいく千夏の邪魔をしたくない。
(あの時本当は、『キライだった』なんて、言いたかったわけじゃない)
夢佳は痛みを堪えるように奥歯を嚙み締める。 部活をやめる時、クラスメイトに千夏のことを尋ねられ、思わず投げやりな言葉が口をついた。
『どうでもいいよ。昔からユメカユメカって……キライだった』
最後の言葉が口からこぼれ落ちたのと、退部の話を聞いた千夏が教室に飛び込んできたのは、ほとんど同時だった。 あの時、言葉もなく立ち尽くす千夏の姿が蘇る。 これでよかったんだ、と夢佳は千夏と口を利かなくなってから言い聞かせていた。千夏には、バスケの熱が冷めた親友のことなんて忘れて、前に進んでいってほしい。千夏ならきっと今のチームメイトとともに、インターハイへ行く夢を叶えるだろう。 それでも、こうやってふいに楽しかった頃を思い出すと、もう『ごめん』も『ありがとう』も言えない現実が夢佳の胸に迫った。
(……会いたくなかったよ、ナツ)
夢佳はもう一度前髪へ手を伸ばす。髪の下を乱暴にこすった後、ポケットに突っ込んだ。公園を去り、駅に向かって歩き出す。 地平にかろうじて赤く残っていた太陽が沈み、帰り道は夕闇に沈んでいく。 もうボールの弾む音は聞こえてこなかった。
「──両親のこと、部活のこと。きっと夢佳は……悩んだ末に、この学校を選んだんだと思う」
その言葉は穏やかだったが、どこか慎重さを含んでいた。まるで、言葉一つひとつを丁寧に選びながら口にしているような声音だった。そして最後に、どこか照れくさそうに眼鏡の奥の目を細めて、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。
「……まあ、あくまで僕の憶測だけどね」
その表情を見て、龍太は思わず感心していた。たった数年、もしかしたらもっと短い時間しか一緒に過ごしていないかもしれないのに──
それでも彼は、夢佳という人間を、ちゃんと見ていた。
──肩を並べてバスケができない。
あの一言に込められた夢佳の苦しみと悔しさ、言葉にはならなかった弱さや後悔まで、まるで手のひらですくい上げるように、丁寧に汲み取っているように思えた。
(……この人は、本当に、あの人のことを大事に思ってる)
龍太は自然と背筋を伸ばしていた。自分よりもずっと夢佳の近くにいた彼に対する敬意。そして、彼女と向き合おうとする自分自身への覚悟が、胸の奥で静かに火を灯していた。
「それで……最初にも言ったけど、僕は夢佳の彼氏じゃないからさ。あまり深く踏み込んだ話までは知らない。それを踏まえて──君は、この話を聞いてどうする?」
テーブル越しの問いかけは、柔らかさを含みながらも、どこか龍太を試すような鋭さもあった。
龍太は、手元のマグカップを見下ろす。もう冷めかけたココアが、微かに揺れている。
甘くて、優しい香り。その裏側で、自分の心には別の感情が滲んでいた。
バスケを離れた理由。その影に潜んでいたであろう、挫折。家庭への不安。どうにもならない自分自身への悔しさ。
(……少し、似てるのかもしれない)
自分もかつて、天才と呼ばれ、期待という重荷の中で足を取られたことがあった。
何をやっても「当たり前」と言われる中で、自分を見失いかけたあの時──
もし、ほんの少し状況が違っていたら。家庭に不和があったら。自分も、夢佳のようにバスケを手放していたかもしれない。 似ているから、彼女は自分を避けたのだろうか。
だけど、似ているからこそ──届く言葉もあると、どこかで信じていた。いや、龍太にできるのは、ただ“場”を作ること。それだけで十分だ。
「……伝えたいことが、一つだけあります。だから、後藤先輩に会いたいです」
龍太の声は低く、しかし揺るぎがなかった。
「……会ったら、ぶん殴られるかもしれないよ?」
眼鏡の奥の目が冗談めかして細められる。
龍太は小さく肩をすくめた。
「別にいいですよ。その時は、こっちも殴り返しますから」
「……えっ?」
ぽかんとする彼に、龍太は小さく笑う。
「俺じゃないですよ? もちろん、親友が、です」
「……親友、か」
男はその言葉を、噛み締めるように繰り返した。
静かに──でもどこか嬉しそうに。
「それで、今……彼女がどこにいるか、わかりますか?」
龍太の問いに、彼はしばらく考えるように目線を泳がせたあと──
「うーん……たぶん、あの公園かな。よく一人でボーっとしてるって聞く。でも、今日もいるかどうかは保証できない」
「構いません。場所を教えてください」
彼が個別チャットで送ってくれたのは、地元でも知る人の少ない、小さな公園の名前だった。
龍太は迷いのない動作で立ち上がった。
「……なんというか、一個下って、こんなにもキラキラした“青春”に見えるもんなんだな」
スマホ画面を見つめながら、彼がふと漏らした一言。その声には、少しの寂しさと、淡い憧れがにじんでいた。
「青春って……先輩って意外とロマンチスト?」
「どうだろうね」
「まぁ、どっちにしろ、好きな人のために頑張りたいって思う気持は先輩も同じでしょ?」
「えっ……?」
思わず顔を上げると、龍太はまっすぐ彼の目を見て言った。
「好きなんですよね? 後藤先輩のこと」
その言葉に、彼は目を伏せたまま、ほんのわずかに唇を歪めた。
「……どうだろうね」
はぐらかすような返事だったが、龍太は確信していた。
この人は、確かに夢佳を大切に思っている。
だからこそ、彼女の過去に無遠慮には踏み込まない。
その姿勢が、少しだけ龍太に似ている気がして、不思議な共鳴が胸の奥に残った。
「とにかく、今日その公園に行ってみます」
「……ああ。何かあったら、いつでも連絡して」
「ありがとうございます」
深く一礼し、龍太は店を後にした。
扉を開けた瞬間、夏の日差しがまっすぐに降り注いでくる。
胸の奥に残った言葉が、静かに背中を押していた。
──そして、夢佳に、ようやく再会できたのは──その二日後のことだった。