親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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16話

 

 

 

 県予選まで、あと三日。

 体育館の空気は、張り詰めた弦のように、ぴんと張りつめていた。

 午後の柔らかな陽光が高窓から差し込み、磨き上げられた木の床を淡く照らし出す。いつもならば部活帰りの生徒たちの喧騒に満ちているはずのこの時間も、今この瞬間だけは、まるで時が止まったかのように、不思議な静寂に包まれていた。

 誰もが、息を呑んで、マットの中央に立つ一人の少女に、その視線を奪われていた。

 

 ──蝶野雛。

 

 中高一貫であるこの学園で、今年、高校に進学したばかりの一年生。

 しかし、彼女はすでに、他の誰とも比較のできない領域で“完成”されていた。

 全国中学校体育大会、通称「全中」で4位。

 その肩書きは、彼女の才能を説明するにはあまりにも不十分だった。彼女は、その言葉が持つ以上の存在感を、その華奢な身体の内に秘めていた。

 リボンを手にするその指先に、迷いの色は微塵もない。

 身体の芯から、深く、静かに吸い込んだ息を、そっと吐き出すと同時に、音楽が流れ始めた。

 

 ──一拍。

 

 その刹那、雛の身体は、完全に音とひとつになった。

 ふわりと宙を舞ったリボンは、まるでそれ自体が意志を持った生き物のように、空間を自在に泳ぎ始める。風の流れに逆らうことなく、それでいて確かな軌跡を描き出しながら、彼女の周囲を鮮やかに彩っていく。

 その中心にいる雛は、ただ美しいだけではなかった。

 柔らかく、しなやかに開かれた腕。たおやかに、しかし力強く反った背中。そして、爪先の一点のみで、完璧なバランスを保ち続ける身体。

 彼女の一つ一つの所作が、極限まで研ぎ澄まされていた。

 だが、それは単に“鍛え上げられた”という言葉では表現しきれない。まるで、この世に生を受けた瞬間から、そうあるべくして“選ばれた”存在であるかのように、その全てがあまりにも自然で、洗練されていたのだ。

 観る者を魅了するとは、きっとこういうことを言うのだろう。

 体育館にいる誰もが、呼吸をすることさえ忘れ、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 そこにいるのは、確かに、いつも教室で笑っている、同じ学年の“雛”だったはずだ。それなのに──今、目の前で舞う彼女は、まるで別人のように見えた。

 幼さと、成熟の、その狭間でしか放つことのできない、危ういまでの美しさ。

 それは、彼女がこれまで歩んできた年月のすべてと、誰にも見せることなく、静かに積み重ねてきた努力の総体だった。

 技術だけでもない。身体能力だけでもない。

 彼女は、その感情のすべてで、踊っていた。

 喜びも、悔しさも、そしておそらくは、誰にも言えない孤独さえも。そのすべてが、一本のリボンに溶け込んでいるかのようだった。

 視線の一つひとつに、確かな意味が宿り、指先の微かな震えにさえ、物語が秘められていた。

 やがて、音楽がクライマックスを迎え、ラストのポーズが決まる。

 跳躍の余韻をその身に残したまま、彼女の身体が、ぴたりと、静かに止まった。

 リボンが描いた最後の円が、ゆっくりと床に落ちていく。

 

 静寂。

 

 まるで体育館そのものが、息をのんでいるかのようだった。

その数秒後、張り詰めていた空気が一変した。割れるような拍手が、波のように、次から次へと響き始める。

 雛は、少しだけ照れたように、はにかんで頭を下げた。

 けれど、そこにいた誰もが知っていた。

 今の演技が、到底「高校一年生」のものではないということを。

 彼女は、もはや、舞台の光を浴びるために生まれてきたような存在なのだと。

 それは、“圧倒的”という言葉以外に、表しようのないほどの、絶対的な美だった。

 

(最近、調子がいいかもしれない)

 

 ふと、そんな言葉が心の中に浮かんだ。

 演技を終えた雛は、肩でひとつ息をつく。じんわりと背中を伝う汗が、この数ヶ月間の練習の濃密さを物語っていた。けれど、それは決して不快なものではない。むしろ、心地よい疲労感が、身体の芯に残る確かな手応えと共に、彼女を満たしていた。

 

 ──その時だった。

 

「ブラボー! すばらしいわ、蝶野さん!」

 

 体育館に、ひときわ大きな拍手が響き渡った。

 思わず振り返ると、新体操部の顧問が、大げさなくらいの身振りで、満面の笑みで拍手を送っている。その目はキラキラと輝き、今にも飛び跳ねんばかりの勢いだった。

 

「あっ、ありがとうございます!」

 

 雛は少し驚きながらも、即座に笑顔で返した。けれど、その声は、自分でも気づかぬうちに、ほんのわずかに上ずっていた。

 

 ──悪くない感触。技のキレもリズムの感覚も、今日は確かに自分のものだった。

 

 手応えがある。だからこそ、顧問の言葉も素直に嬉しいはずだった。

 

 ……けれど。

 

「さすがは、蝶野弘彦さんの娘さんだわ! あなたの演技なら、ベスト3どころか、インハイ優勝だって狙えるわよ!」

 

 その一言で、胸の奥に、何かがふっと、重く沈んだ。

 笑顔を崩さぬまま、「はいっ」と返事をしながらも、雛の心の奥底で、得体の知れない何かが、ざわざわと広がっていく。

 

 ──さすがは、蝶野弘彦の娘。

 ──インハイ優勝。

 ──全中4位の実力。

 

「頑張って当然」「結果を出して当然」──そう言われているような気がした。

 期待。名前。実績。

 褒められたはずなのに、じわじわと胸の内側が冷たくなる。

 

(私は……そんなすごい人間じゃないのに)

 

 一瞬、呼吸が浅くなるのを感じた。目の前の光景が、少しだけ遠のいていく。

 だが、その不安を振り払うように、雛は強く瞬きをして、無理やり口角をもう一度持ち上げた。

 ふと、視線を斜めに向ければ、隣のコートが見えた。

 バドミントン部の練習が、まだ続いている。

 一瞬のタイミングで、大喜が、力強いスマッシュを打ち込んだのが目に入った。迷いのない、力強い動きだった。

 

(……大喜も、頑張ってるんだ)

 

 雛の中に、静かに何かが灯る。

 こういうとき、大喜とふざけて軽口を叩いて、緊張を笑いに変えたくなる。

 でも、大喜も今は戦ってる最中だ。なら自分だって、甘えちゃいけない。

 

(私も……ひとりで頑張らないと)

 

 意識して、ゆっくりと息を吸う。

 何も考えず、ただ呼吸だけに集中してみる。

 それでも──顧問の言葉が、さっきの言葉が、どうしても頭から離れない。

 

(……“蝶野弘彦の娘”って、何?)

 

(私は、“私”として見てもらえないの?)

 

 体育館の床に映る自分の影を、じっと見つめながら、雛は小さく爪を立てるようにして、手のひらを強く握りしめた。

 

 ──気にしてないふりをしても、本当は怖い。

 

 もし、実力が足りなかったら。

 もし、結果を出せなかったら。

 その時、自分は、周りから何と言われるのだろう。

 “あの人の娘なのに”と、囁かれるのかもしれない。そして、何よりも怖いのは、そんな自分に、自分自身が一番、がっかりしてしまうかもしれないということだった。

 

 ──でも。

 

 顧問の前でも、チームメイトの前でも、誰の前でも、そんな弱さは絶対に見せるわけにはいかない。

 たとえ、心がどれだけ揺れていても、演技の時は、完璧でいたい。

 他の誰でもない、自分自身が、自分の“完璧”を、一番強く望んでいるのだから。

 

(……大丈夫。私は、できる)

 

 気持ちを切り替えようと、雛は無意識にリズムを取るように、体育館の通路を歩き始めた。

 顧問の言葉──「さすが蝶野弘彦さんの娘さんだわ」──が、まだ頭の中で何度も繰り返される。全中4位という過去の実績、インハイ優勝への期待、そして偉大な父の名声。それらすべてが、重い鎖のように、彼女の心に絡みついていた。

 

(私は、私のままで……)

 

 そう、思いかけた、その瞬間だった。

 

「きゃっ!」

 

 横から勢いよく飛び出してきた生徒と、身体がぶつかった。

 視界が、ぐるりと大きく揺れる。足元が、ふわりと浮いたような、奇妙な感覚。

 

 ──そして、衝撃。

 

「いった……」

 

 尻もちをついた腰の痛みよりも先に、右足首に鋭い違和感が走った。

 ズキン、と身体の中心に染みわたるような鈍痛。

 一瞬、呼吸が止まった。

 

(まさか……足首?)

 

 右足を庇うようにして、恐る恐る体を起こし、そっとその場所に手を伸ばす。

 触れた瞬間、そこに確かにある“痛み”が、残酷な現実を、容赦なく彼女に突きつけてきた。

 

(やだ、嘘でしょ……)

 

 思考が一気に崩れていく。

 これまで積み重ねてきた練習の日々。

 誰かが注いでくれた期待と、信頼と、誇り。

 

 全部、全部、自分のせいで失ってしまう気がした。

 

「大丈夫ですか?」

 

 ぶつかってきた生徒が声をかけてくる。

 けれど、雛の耳には届かなかった。

 周囲の音も、視界も、ぐにゃりと歪んでいく。

 自分がどこにいて、何をしているのかさえ分からない。

 まるで、世界から置いて行かれたような孤独。

 まっくらな海でおぼれ、息ができなくなり、暗やみに溶け込んでしまいそうだった。

 

 その瞬間──

 

「雛っ!」

 

 その声だけが、真っ直ぐに、心の奥に飛び込んできた。

 顔を上げる。

 駆け寄ってくるのは、大喜だった。

 その瞳の奥に浮かぶのは、驚きと、不安と、そして真剣な焦りの色。

 の姿が、ぼんやりとしていた雛の視界を、少しずつ、現実へと引き戻していく。

 

「大丈夫か? 足、どうした……?」

「……足首、ちょっと……」

 

 声にならないほど掠れた囁きだったが、大喜はすぐに膝をつき、雛の隣にしゃがんだ。

 

「立てるか?」

 

 雛は小さく──けれど確かに、首を横に振った。

 

 痛みもあった。だが、それ以上に、こんなにも脆い自分の弱さが、情けなかった。

 みんな、頑張っている。自分だって、その期待に応えたいと、心から思っていたのに。

 けれど、そんな感情を、今は言葉にすることすらできなかった。

 

「……肩、貸すから。ゆっくりでいいから」

 

 大喜はそう言って、自然に自分の肩を差し出した。

 雛は少しだけ迷った末に、そっとその肩に手を添えた。

 温かい。

 人のぬくもりが、こんなにも沁みるものだとは思わなかった。

 

「ありがと……」

「気にすんな。大丈夫だから」

 

 大喜の声は、短くて、ぶっきらぼうで、でも、とても頼りになった。

 それが今の雛には、何よりも心強かった。

 ゆっくりと立ち上がり、大喜の肩に体重を預けながら、二人は体育館を後にする。

 歩幅を合わせながら進むその道が、ほんの少しだけ、雛の重たい胸の内を、軽くしてくれたような気がした。

 いつだって彼は、こうして助けてくれる。まるで、物語の中の王子様のように、颯爽と。

 

 あの時だって……。

 

 

 

 

 夕暮れの空に、遠くから聞こえてくる祭囃子の音が、淡く滲んでいた。

 提灯の柔らかな光がぽつぽつと灯り始める頃、雛はようやく部活を終え、息を切らしながら会場へとたどり着いた。

 急いで着替えただけのラフな格好で、境内へと駆け込むように足を踏み入れる。すでにそこは、色とりどりの浴衣を身にまとった人々で賑わい、現実から切り離されたかのような、どこか非日常の空気に包まれていた。

 

(うわ……すごい人……)

 

 それでも、雛の心は、子供のように浮き立っていた。

 夏祭りは、物心ついた頃から、ずっと好きだった。

 浴衣にお面、金魚すくいに、ソースの香ばしい匂いが漂うたこ焼き。そして、なによりも──毎年、この特別な夜にだけ現れる、あの屋台の、りんご飴。

 赤くて、つやつやと輝いていて、甘くて、少しだけ酸っぱい、あの味。

 

「絶対食べるって決めてたのに!」

 

 気合いを入れて走ってきたのは、それが目当てだったからだ。

 

 だが──

 

「ごめんね、お姉ちゃん。りんご飴、もう終わっちゃったんだよ」

 

 屋台の前に並んでいた時、店主のその言葉は、まるで頭上から落ちてきた雷のように、雛の頭の中に、ごう、と響き渡った。

 目の前で、最後の一本が、自分ではない誰かの手に渡っていくのを、ただ呆然と見つめるしかない。足元から、力が抜けていくような感覚に襲われる。

 

「え……うそ……」

 

 がっくりと肩を落とし、雛はその場に立ち尽くした。

 他にも、美味しそうな屋台はたくさんある。けれど、そういうことではないのだ。

 今日は、一日中頑張った部活のご褒美として、ずっと、ずっと楽しみにしていた、あの“りんご飴”が、どうしても欲しかったのだ。

 

(遅くなった私が悪いんだけど……でも、悔しい……)

 

 俯いたまま動けずにいると、不意に、目の前に何かが、すっと差し出された。

 

「──ほい」

 

 聞き覚えのある声とともに、目の前にすっと差し出された何かがある。

 顔を上げると、そこには、見覚えのある横顔があった。

 

 猪俣大喜。

 同じクラスの男子。

 部活も違うし、特別仲がいいわけでもない。

 話したことも、ほんの数回くらい。

 でも今、その彼が手にしていたのは──赤くつやめく、りんご飴だった。

 

「え……?」

 

 目を瞬かせる雛に、大喜は特に表情を変えることもなく、ごく自然な口調で言った。

 

「買い出し頼まれてたから、ついでに取っといた。最後の一本だったし」

 

 その、あまりにも何気ない言葉が、なぜだか、心の奥の一番柔らかい場所を、強く突いた。

 

「……でも、なんで私に?」

「そりゃ、教室であんな顔してたらな」

「え?」

「めっちゃ、りんご飴の話してたろ。部活終わったら絶対買うって。『死ぬほど食べたい』って」

「し、死ぬほどとか言ってないし……!」

「言ってたぞ? ヨダレ垂れそうな顔で」

「垂れてないからっ!」

 

 顔が、一気に熱くなるのが分かった。

 心臓の鼓動が、うるさいほどに、耳の奥で鳴り響き、うまく呼吸ができない。

 大喜は、そんな雛の様子を見て、くすっと、悪戯っぽく笑うと、手にしたりんご飴を、そっと彼女の手の中に乗せた。

 

「せっかくの夏祭りだしな。楽しもうぜ」

「……うん」

 

 ようやく絞り出したその言葉は、自分でも驚くほど、小さく、か細かった。

 でも、手の中にある、りんご飴の、ずっしりとした重みが、心の奥に、ぽっと、温かい明かりを灯してくれたような気がした。

 大喜は、そのまま特に何を言うでもなく、人混みの中へと歩いていく。

 その広い背中が、なぜだか、ほんの少しだけ、頼もしく見えた。

 雛は、しばらくその背中を見送った後、そっと、手の中のりんご飴を見つめた。

 夕暮れの空の下、赤く染まった飴が、提灯の光を反射して、きらきらと輝いていた。

 

(……なんなの、もう)

 

 気がつけば、頬がゆるんでいた。

 

 その日からだった。

 大喜のことが、少しだけ、気になるようになったのは。

 授業中に、ふと視線が合うだけで、胸が大きく跳ねて、名前を呼ばれるたびに、なぜだか、耳が熱くなる。

 彼のことを、考える時間が、少しずつ、少しずつ、増えていった。

 

 ──あの夏の、一本のりんご飴。

 それが、雛にとっての、「好き」という感情の、始まりだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 保健室の窓から差し込む午後の陽光が、薄いカーテン越しに、やわらかく、そして静かに室内を照らし出していた。

 白いシーツの上に座る雛の足首には、氷のうが、その存在を主張するかのように、きつく巻かれている。

 保健室の先生は、その前にしゃがみ込み、慎重な手つきで患部を指で押しながら、落ち着いた声で言った。

 

「青痣くらいで、熱も持ってないわね。骨にも、異常はなさそうよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、雛はぽかんとした表情を浮かべた。

 

「……え?」

 

 あれほどの、身体の芯まで響き渡るような、鋭い衝撃だったのに。

 何かが、決定的に壊れてしまったのだと、そう思ったのに。

 

「本当に?」

 

 隣にいた大喜もまた、信じられないというように、目を丸くして訊ねた。

 先生は、にこりと優しく笑いながら、こくりと頷いた。

 

「本当よ。大会前で、少し神経質になっていただけかもしれないわね。まぁ、痛みが引いたとしても、しばらくは無理しないこと。今日は湿布を貼って、安静にしてなさい」

 

 そう言うと、先生は手際よく処置を終え、立ち上がってカルテのようなものを手に取った。

 

「部活はお休み。しっかり休むのも、アスリートの大事な仕事よ」

 

 にこやかにそう言い残して、先生は部屋を後にした。

 扉が、カチリ、と小さな音を立てて閉まる。その音だけが、静まり返った空気の中に、ぽつんと響き渡った。

 雛と大喜、二人きりになった保健室。

 一拍の、長い沈黙が流れた後──

 

「な、なんだろう……ちょっと拍子抜けっていうか……」

 

 雛は思わず、恥ずかしそうに笑ってしまった。

 心の中で、あれほどまでに大きく膨らんでいた“もしも”という不安が、ふっと軽くなっていく。それは、紛れもなく、良いことのはずなのに、なぜだか身体の芯から力が抜けていくような、そんな不思議な感覚だった。

 

「人騒がせめ」

「う、うるさい!」

 

 雛の視線は、自分の足首へと落ちていた。

 

「期待されるのが……怖いって思うとき、あるの」

「……うん」

「“蝶野弘彦の娘”とか、“全中4位”とか、色んなものが、肩に重くのしかかってくるの。期待されるのは、もちろんありがたいし、それに応えたいっていう気持ちも、本当にある。でも、それが全部、自分じゃないみたいに、遠くに感じちゃう瞬間があるから」

 

 言葉にしているうちに、胸の奥底にしまい込んでいた感情が、次から次へと溢れ出してくる。

 普段は、誰にも、決して見せることのない、弱さ。

 本音をこぼすこと自体に、どこか罪悪感のようなものを感じていた。

 それなのに、今、大喜の前では、不思議と、素直に言葉を紡ぐことができた。

 

「今日も思っちゃった。もしこれで本当に怪我してたら、みんなにがっかりさせちゃうって。応援してくれた人の顔、頭の中にいっぱい浮かんできて……」

 

 そこまで言って、雛はふと唇を強く噛んだ。声が、微かにかすれる。喉の奥が、熱くなっていくのが分かる。それでも、大喜は何も言わない。ただ、静かに、雛の瞳をまっすぐに見つめていた。

 その瞳に宿っているのは、驚きでも、哀れみでもなかった。ただ、静かで、あたたかい、肯定の光。

 何も言わずとも、「大丈夫だよ」と、全てを包み込んでくれるかのような、その優しいまなざしに、雛は救われるような思いだった。

 

「……みんな、頑張ってるから。大喜もインハイ目指してるって言ってたし。だから、私も頑張らないとって……1人だって、頑張れるんだけど……」

 

 苦笑のような、泣き笑いのような声が、彼女の唇からこぼれ落ちる。

 そう言いながら、心のどこかで、ずっと自分を突き放していたことにも、彼女は気づいていた。

 本当は、誰かの支えが、ずっと、ほしかったのだ。

 その姿は、紛れもなく、どこにでもいる、ごく普通の女子高生だった。

 彼女が吐露した、その抱えきれないほどのプレッシャーは、大喜には到底計り知れないものだろう。

 ならば、せめて──。

 

「雛」

 

 柔らかく、その名前を呼ぶ声が、胸の奥に、じんわりと染み込んでいく。

 目の前の大喜が、そっとポケットに手を伸ばす。そして、取り出したのは、小さな、色鮮やかなミサンガだった。

 

「……はい、これ」

 

 細く、丁寧に編み込まれた糸が、午後の光を浴びて、わずかにきらめいて見える。

 薄いピンクと白、そして、そこにほんの少しだけ混じった金色が、雛の目に、優しく、そして鮮やかに映った。

 

「これ……」

「雛に、って。前から渡そうと思ってたんだ」

 

 不意を突かれた雛の声が、少しだけ震える。

 

「……どう、して?」

「お守り、みたいなもん。……いや、おまじない、かな」

 

 そう言って大喜は、どこか照れたように笑った。

 

「雛が、頑張ってるの、俺もちゃんと見てるから。プレッシャーで押し潰されそうになったとき、自分のこと、ちゃんと見てる人間がいるんだって思えたら……少しは、楽になるんじゃないかと思って」

 

 その言葉に導かれるように、雛の指先が、そっとミサンガに触れた。

 震える手。

 だけど、その震えは、もはや怯えから来るものではない。溢れ出しそうになる感情を、必死に押しとどめている、その証だった。

 

「……ありがとう」

 

 それは、ほとんど息のような、か細い声だった。けれど、その想いは、確かに大喜の心に届いていた。

 雛は、そっと顔を伏せると、受け取ったばかりのミサンガを、まるで大切な宝物のように、胸元でぎゅっと握りしめた。あれほど、触れられるだけで飛び上がってしまいそうなほど、孤独と悲しみで敏感になっていた皮膚が、温かい膜で、優しく包まれたような気がした。

 

(……ずるいよ)

 

 こんなにも弱っているときに、そんな、あまりにも優しい眼差しを向けられたら。必死で、頑張って張り巡らせていた心の堤防が、いとも簡単に決壊してしまうじゃないか。

 

「たいき」

 

 その声には、いつもの彼女らしい、軽やかさはなかった。低く、少しだけ艶を帯びた、甘い蜜が沁みこんだような、そんな声。

 

 そして──目が合った。

 

 戸惑いながらも、いつもの、あの澄んだ彼の眼差し。すべてを、ただ静かに受け入れてくれるような、この上なく優しい瞳に。

 堪えきれなくなった心の奥底から、一筋の熱い想いが流れ出し、言葉となって、彼女の唇から溢れていく。

 雛は、どこか吹っ切れたように、晴れやかな笑みを浮かべた。そして、その素敵な笑顔に乗せて、これまでずっと、胸の奥に秘めてきた、とても大切な想いを、告げた。

 

「──好き」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その一言は、まるで保健室の空気そのものを、震わせるかのように、静かに──しかし、確かな熱を持って、放たれた。

 ふわりと柔らかな音が、耳を打つよりも先に、その言葉の意味が、大喜の胸の奥深くへと、じんわりと染みこんでいく。音としてではなく、想いとして。

 

「え……?」

 

 思わず漏れた息に、自分でも分かるほど、戸惑いの色が滲んでいた。

 言葉の意味は、もちろん理解しているはずなのに、実感が、まるで追いついてこない。  

 目の前の彼女が、今、何を言ったのか。頭では分かっているはずなのに、どこか、遠い夢の中の出来事のように感じられた。

 けれど、雛は、ゆっくりと続けた。

 

「大喜の、そういう優しいところ……すごい、好き」

 

 その笑顔は、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも、眩しかった。

 ただ見ているだけで、胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。照れくさそうに笑う雛の頬が、少しずつ、夕陽の色に染まっていくのが分かる。

 

「他にも、あるよ。いつも、一生懸命で、まっすぐで、諦めないで、頑張るところ。そういう大喜が、私は……すごく、好き」

 

 それは、どこまでも飾り気のない、素直な言葉だった。

 真っ直ぐで、触れたら壊れてしまいそうなくらい、繊細で。

 けれど、その言葉は確かに──心の深い場所に、温かい灯火をともしていく。雛が、これまで一人で積み重ねてきたであろう想いが、大喜の中に、ゆっくりと、そして温かく広がっていく。

 

「だからね、大喜。私は……」

 

 途中で、一旦言葉を切ると、雛はわずかに目を伏せた。その頬は、もう夕陽のせいだけではない、彼女自身の内側から発する熱によって、鮮やかな朱色に染まっていた。

 

「……」

 

 大喜は、小さく深呼吸をして、彼女の次の言葉を、ただ静かに待った。今は、それ以外のことが、できそうになかった。

 少し、上目遣いになった雛と、目が合う。

 

「私は、親友じゃなくて……一人の女の子として、大喜の彼女に、なりたい」

 

 雛とは、もう3年以上も、同じクラスで、常に身近な存在として過ごしてきた。彼女の、色々な表情や仕草を、知っているつもりだった。それなのに、今、大喜の目の前にいる彼女は、そのどれとも違う、全く知らない雛だった。どこから、どう見ても、恋をする女の子の顔をしていた。

 ずっと、すぐ近くにいたはずなのに、今の彼女は、どこか遠い存在のようで、でも、それ以上に、今まで見たことのないくらい、綺麗だった。

 

「い、いつから……その」

 

 ようやく絞り出した答え。ぎこちなく、でも確かめずにはいられなかった。

 

「……りんご飴の時から、気になってたよ」

 

 その瞬間、胸が、きゅう、と締めつけられた。

 あの夏祭り──屋台の照明の下で、赤く光るりんご飴を、照れくさそうに差し出してくれた自分を見て、彼女の気持ちは、もうあの時から、芽生えていたというのか。

 

「あ、あの時から?」

「うん……」

 

 俯いた雛の声は、少し震えていた。

 

「ホントはね、予選も近いし、今こんなこと言ったら大喜の迷惑になるって思ってた。言わないつもりだったの。でも……やっぱり、大喜に優しくされちゃうと、どうしても……思っちゃうの」

 

 顔を上げた雛の笑顔は、どこか困ったようで、けれど確かに温かくて──

 

「好きって」

 

 その言葉が、真っ直ぐに、大喜の胸に突き刺さった。

 雛の“好き”には、彼女がこれまで、一人で抑えてきた時間の分だけの、切ないほどの想いが詰まっていた。自分のことよりも、相手のことを考えて、必死に押し殺して、それでも、やっぱり溢れてしまった、純粋な感情。

 それを、今、真正面から、ぶつけてくれた。

 

(……ずっと、そんな風に思ってくれてたんだ)

 

 何も知らずに、のんきに過ごしていた自分が、情けなかった。

 「親友」という言葉の裏に隠されていた、彼女の本当の気持ちに、気づこうともしなかった自分が、恥ずかしかった。

 だからこそ、今、ここで、ちゃんと向き合わなければならない──そう、思った。

 音には出さずに、大喜は、長い時間をかけて、ゆっくりと息を吐いた。答えは、もうとっくに決まっていた。決まっていたのだ。

 頭の中に、伝えたい想いと、言葉は、鮮明に思い浮かんでいた。

 あとは、それを、口に出すだけだ。

 息を、吸おうとした、その瞬間だった。

 

「急にごめんね! 別に、今すぐ返事は要らな──」

「──ミサンガ」

 

 大喜が彼女の言葉を遮る。

 

「……好きじゃなきゃ、ミサンガなんて渡さないって」

「――えっ」

 

 それは、とても不器用で、ぎこちない言葉だった。

 でも、それ以上に、どこまでも真っ直ぐで、正直な言葉だった。

 気づけば、雛の瞳が、うっすらと潤んでいた。涙は、零れそうで、けれど、必死に、その場で踏みとどまっている。そんな潤んだ瞳で、じっと大喜を見つめる。

 そして、それを隠すように、少しだけ、悪戯っぽく微笑んで──

 

「な、なになに〜? 聞こえなーい」

「だ、だからっ」

 

 思わず顔が熱くなるのを感じながらも、大喜は、しっかりと彼女の瞳を見つめ返した。

 真正面から、その瞳の中に、飛び込んでいくように。

 

「俺も、雛が、好きだ」

「~~っ!」

 

 今度は、雛の方が、言葉を失う番だった。

 頬が、一気に火照り、思わず俯いてしまう。

 夕陽が差し込む保健室は、どこか世界から切り離されたみたいで。

 音も、空気も、ただ二人の呼吸だけでできているかのようだった。黙り込んでしまった彼女と、己の想いをさらけ出してしまった羞恥で、どうにかなってしまいそうだった。どうしようもなく、途方に暮れていると、雛が、ぽつりと呟いた。

 

「……かい」

「え?」

「……もう一回……もう一回聞きたい。……だめ?」

 

 上目遣いで、ほのかに潤んだ瞳を向けながら、雛が、甘ったるい香りが沁みこんだような声を出した。あどけなさと、真剣さが混じり合ったその声に、大喜の胸が、また大きく、高く鳴った。

 

「……そ、その顔はズルいだろ……」

 

 そう呟きながらも、彼は、彼女から視線を逸らさなかった。

 大きく、息を吸って、もう一度、はっきりと。

 

「……雛が、好きだよ」

 

 今度は、静かに、でも、確かに。

 その言葉を聞いた雛は、ふわりと、花が咲くように笑って──次の瞬間、大喜の首元に、舞うように飛び込んできた。

 

「たいきっ!」

 

 柔らかな頬が、首筋にすり寄ってくる。その温かい体温と、ほんのりと香るシャンプーの匂いに、大喜の全神経が、過敏に反応する。

 

「うわっ、ちょ、急すぎだって……!」

「今だけ……」

 

 困惑しながらも、彼は、その華奢な身体を、そっと、抱きしめ返した。その腕に、ほんの少しだけ力がこもった。

 

「……今だけは、ちょっと甘えてもいい? ちゃんと元に戻るから」

 

 その囁きに、どこか微かな震えを感じた。嬉しさと、不安と、そして何かを振り払おうとするような、そんな繊細な心の揺れが、混じり合っているような気がした。

 

「……別に、無理に戻らなくていいって」

「……うん」

 

 そっと背中に手を添え、大喜は、抱きしめ返す。

 こんなにも、華奢で、小さい、彼女に。

 大喜は、ゆっくりと語りかけるように、呟いた。

 

「その……たくさん待たせてごめん」

「……っ、ううん」

「たくさん傷つけてごめん」

「……そんなの、全部嬉しいに変わったよ」

 

 お互いの温もりを確かめるように、しばらくして、大喜は少しだけ体を離した。その動きに応えるように、雛が、ゆっくりと顔を上げる。

 目と目が、合った。

 近い。

 いつの間にか、互いの呼吸の音までが、重なり合っていた。

 唇が、触れてしまいそうなほどの、距離。

 どちらともなく、言葉を失っていた。

 ふと、雛が、小さく笑う。

 

「……たいき、顔、真っ赤だよ?」

「……雛もだろ」

 

 けれど、そのまま、お互いに視線を逸らすことはなかった。

 二人の視線が、甘く、絡み合う。

 心の奥で、何かが、静かに合図を送る。

 今なら、伝えられる。今なら、触れられる。

 そう、確信できるほどに、空気は優しく、満ちていた。

 

「たいき」

 

 雛が、甘い声で、つぶやいた。

 ゆっくりと、二人の顔が、近づいていく。

 何かを、壊してしまわぬように、慎重に、確かめるように。

 そして──。

 

「……んっ」

 

 ふたりの唇が、甘い蜜で濡れるように、そっと重なった。

 それは、どこまでも柔らかくて、どこまでも、温かくて。

 心が、ふわりと、ほどけていくような、そんなキスだった。

 長くもなく、短くもなく。

 けれど、これまでの、すべての想いが、そこに詰まっていた。

 潤んだ唇を離すと、雛が、照れくさそうに目を伏せながら、小さく、呟いた。

 

「……少し、恥ずかしいね」

「た、確かに」

「ふふっ、好きだよ、大喜」

 

 そう言って、はにかむように微笑む彼女が、あまりにも美しく、幻想的で。大喜は、思わず息を呑んだ。

 きっと、これから先、何度この夕焼けの色を見ても、その度に思い出すだろう。

 オレンジ色に染まった、あの日の保健室と、彼女の笑顔と、そして、そっと触れた、はじめてのキスのことを。

 

 

 

 

 

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