親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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16話

 

 

 

 県予選まで、あと三日。

 体育館の空気は、張り詰めた弦のように、ぴんと張りつめていた。

 午後の柔らかな陽光が高窓から差し込み、磨き上げられた床を、淡く照らす。いつもなら部活帰りの喧騒に満ちている時間も、今この瞬間だけは、時が止まったような、不思議な静寂に包まれていた。

 誰もが、息を呑んで、マットの中央に立つ一人の少女に、視線を奪われている。

 

 ——蝶野雛。

 

 中高一貫のこの学園で、今年、高校に上がったばかりの一年生。

 しかし、彼女はすでに、他の誰とも比較できない領域で、"完成"されていた。

 全国中学校体育大会——全中で、4位。

 その肩書きは、彼女の才能を説明するには、あまりに不十分だった。言葉が持つ以上の存在感を、その華奢な身体の内に、秘めている。

 リボンを手にする指先に、迷いの色は、微塵もない。

 身体の芯から、深く、静かに吸い込んだ息を、そっと吐き出す——と同時に、音楽が流れ始めた。

 

 ——一拍。

 

 その刹那、雛の身体は、完全に音とひとつになった。

 ふわりと宙を舞ったリボンが、それ自体、意志を持った生き物のように、空間を泳ぎ始める。風に逆らうことなく、それでいて確かな軌跡を描きながら、彼女の周囲を、鮮やかに彩っていく。

 その中心にいる雛は、ただ美しいだけではなかった。

 柔らかく開かれた腕。たおやかに、しかし力強く反った背中。爪先の一点だけで、完璧なバランスを保ち続ける身体。一つ一つの所作が、極限まで研ぎ澄まされている。

 だが、それは"鍛え上げられた"という言葉では足りない。まるで、生を受けた瞬間から、そうあるべくして"選ばれた"かのように、その全てが、あまりに自然で、洗練されていた。

 観る者を魅了するとは、きっと、こういうことを言うのだろう。

 体育館の誰もが、呼吸さえ忘れ、ただ立ち尽くしていた。

 そこにいるのは、確かに、いつも教室で笑っている、同じ学年の"雛"だったはずだ。なのに——今、目の前で舞う彼女は、まるで別人に見えた。

 幼さと、成熟の、その狭間でしか放てない、危ういまでの美しさ。

 それは、これまで歩んできた年月のすべてと、誰にも見せず静かに積み重ねてきた努力の、総体だった。

 技術だけでもない。身体能力だけでもない。

 彼女は、その感情のすべてで、踊っていた。

 喜びも、悔しさも、そしておそらくは、誰にも言えない孤独さえも。そのすべてが、一本のリボンに、溶け込んでいるかのようだった。

 視線の一つひとつに、意味が宿り、指先の微かな震えにさえ、物語が秘められている。

 やがて、音楽がクライマックスを迎え、ラストのポーズが決まる。

 跳躍の余韻を残したまま、彼女の身体が、ぴたりと、止まった。

 リボンが描いた最後の円が、ゆっくりと、床に落ちていく。 

 

 静寂。

 

 体育館そのものが、息をのんでいるかのようだった。

 その数秒後——張り詰めていた空気が、一変した。割れるような拍手が、波のように、次から次へと響き始める。

 雛は、少しだけ照れたように、はにかんで頭を下げた。

 けれど、そこにいた誰もが、知っていた。今の演技が、到底「高校一年生」のものではないことを。彼女は、舞台の光を浴びるために生まれてきたような存在なのだと。

 "圧倒的"という言葉以外に、表しようのない美だった。

 

(最近、調子がいいかもしれない)

 

 ふと、そんな言葉が浮かぶ。

 演技を終えた雛は、肩でひとつ、息をつく。じんわりと背中を伝う汗が、この数ヶ月の練習の濃さを、物語っていた。けれど、不快ではない。むしろ、心地よい疲労感が、確かな手応えとともに、彼女を満たしている。

 

 ——その時だった。

 

「ブラボー! すばらしいわ、蝶野さん!」

 

 体育館に、ひときわ大きな拍手が響き渡った。

 振り返ると、新体操部の顧問が、大げさなくらいの身振りで、満面の笑みで拍手を送っている。その目は輝き、今にも飛び跳ねんばかりの勢いだった。

 

「あっ、ありがとうございます!」

 

 雛は驚きながらも、即座に笑顔で返す。けれど、その声は、自分でも気づかぬうちに、ほんのわずかに、上ずっていた。

 

 ——悪くない感触。技のキレも、リズムの感覚も、今日は確かに、自分のものだった。

 手応えがある。だからこそ、顧問の言葉も、素直に嬉しいはずだった。

 

 ……けれど。 

 

「さすがは、蝶野弘彦さんの娘さんだわ! あなたの演技なら、ベスト3どころか、インハイ優勝だって狙えるわよ!」

 

 その一言で、胸の奥に、何かが、ふっと、重く沈んだ。

 笑顔を崩さぬまま、「はいっ」と返事をする。その裏で、心の奥底に、得体の知れない何かが、ざわざわと広がっていく。

 

 ——さすがは、蝶野弘彦の娘。

 ——インハイ優勝。

 ——全中4位の、実力。

 

「頑張って当然」。「結果を出して当然」。そう言われているような気がした。

 期待。名前。実績。

 褒められたはずなのに、じわじわと、胸の内側が冷たくなる。

 

(私は……そんな、すごい人間じゃないのに)

 

 一瞬、呼吸が浅くなる。

 目の前の光景が、少しだけ、遠のいていく。

 だが、その不安を振り払うように、雛は強く瞬きをして、無理やり、口角をもう一度持ち上げた。

 ふと、視線を斜めに向ければ、隣のコートが見えた。バドミントン部の練習が、まだ続いている。一瞬のタイミングで、大喜が、力強いスマッシュを打ち込んだのが目に入った。迷いのない、まっすぐな動き。

 

(……大喜も、頑張ってるんだ)

 

 雛の中に、静かに、何かが灯る。

 こういうとき、いつもなら、大喜とふざけて軽口を叩いて、緊張を笑いに変えたくなる。でも、大喜だって今は、戦っている最中だ。なら、自分も、甘えちゃいけない。

 

(私も……ひとりで、頑張らないと)

 

 意識して、ゆっくり息を吸う。何も考えず、ただ呼吸だけに集中する。

 それでも——顧問の、さっきの言葉が、どうしても、頭から離れない。

 

(……"蝶野弘彦の娘"って、何?)

(私は、"私"として、見てもらえないの?)

 

 床に映る自分の影を、じっと見つめながら、雛は、小さく爪を立てるように、手のひらを握りしめた。

 

 ——気にしてないふりをしても、本当は、怖い。

 

 もし、実力が足りなかったら。もし、結果を出せなかったら。その時、自分は、何と言われるのだろう。"あの人の娘なのに"と、囁かれるのかもしれない。そして何より怖いのは——そんな自分に、自分自身が、一番、がっかりしてしまうことだった。 

 

 ——でも。

 

 顧問の前でも、チームメイトの前でも、誰の前でも。そんな弱さは、絶対に、見せるわけにはいかない。

 たとえ心がどれだけ揺れていても、演技の時だけは、完璧でいたい。

 他の誰でもない、自分自身が、自分の"完璧"を、一番強く、望んでいるのだから。

 

(……大丈夫。私は、できる)

 

 気持ちを切り替えようと、雛は無意識に、リズムを取るように、通路を歩き始めた。

 

 顧問の言葉が——「さすが蝶野弘彦さんの娘さんだわ」——まだ、頭の中で繰り返される。全中4位の実績。インハイ優勝への期待。そして、偉大な父の名声。それらすべてが、重い鎖のように、彼女の心に絡みついていた。

 

(私は、私のままで……)

 

 そう、思いかけた、その瞬間だった。

 

「きゃっ!」

 

 横から勢いよく飛び出してきた生徒と、身体がぶつかった。

 視界が、ぐるりと揺れる。足元が、ふわりと浮いたような、奇妙な感覚。

 ——そして、衝撃。

 

「いった……」

 

 尻もちをついた腰の痛みよりも先に、右足首に、鋭い違和感が走った。ズキン、と身体の中心に染みわたる、鈍痛。一瞬、呼吸が、止まった。

 

(まさか……足首?)

 

 右足を庇うように、恐る恐る体を起こし、そっと、その場所に手を伸ばす。

 触れた瞬間、そこに確かにある"痛み"が、残酷な現実を、容赦なく突きつけてきた。

 

(やだ、嘘でしょ……)

 

 思考が、一気に崩れていく。

 これまで積み重ねてきた、練習の日々。誰かが注いでくれた、期待と、信頼と、誇り。

 全部、全部、自分のせいで、失ってしまう気がした。

 

「大丈夫ですか?」

 

 ぶつかってきた生徒が、声をかけてくる。けれど、雛の耳には、届かなかった。

 周囲の音も、視界も、ぐにゃりと歪んでいく。自分がどこにいて、何をしているのかさえ、分からない。世界から、置いて行かれたような孤独。まっくらな海でおぼれ、息ができず、暗やみに溶け込んでしまいそうだった。

 その瞬間——

 

「雛っ!」

 

 その声だけが、真っ直ぐに、心の奥へ飛び込んできた。

 顔を、上げる。

 駆け寄ってくるのは、大喜だった。その瞳の奥に浮かぶのは、驚きと、不安と、そして、真剣な焦りの色。その姿が、ぼんやりとしていた雛の視界を、少しずつ、現実へと引き戻していく。

 

「大丈夫か? 足、どうした……?」

「……足首、ちょっと……」

 

 声にならないほど掠れた囁き。だが、大喜はすぐに膝をつき、雛の隣にしゃがんだ。

 

「立てるか?」

 

 雛は、小さく——けれど確かに、首を横に振った。

 痛みも、あった。だが、それ以上に、こんなにも脆い自分の弱さが、情けなかった。みんな、頑張っている。自分だって、その期待に応えたいと、心から思っていたのに。

 けれど、そんな感情を、今は、言葉にすることすらできない。

 

「……肩、貸すから。ゆっくりでいいから」

 

 大喜はそう言って、自然に、自分の肩を差し出した。

 雛は少しだけ迷った末に、そっと、その肩に手を添える。

 温かい。

 人のぬくもりが、こんなにも沁みるものだとは、思わなかった。

 

「ありがと……」

「気にすんな。大丈夫だから」

 

 短くて、ぶっきらぼうで、でも、とても頼りになる声だった。それが今の雛には、何よりも、心強かった。

 ゆっくりと立ち上がり、大喜の肩に体重を預けながら、二人は体育館を後にする。歩幅を合わせて進むその道が、ほんの少しだけ、雛の重たい胸の内を、軽くしてくれた気がした。

 いつだって彼は、こうして助けてくれる。まるで、物語の中の王子様のように、颯爽と。

 あの時だって——。

 

 

 

 夕暮れの空に、遠くから聞こえる祭囃子が、淡く滲んでいた。

 提灯の柔らかな光が、ぽつぽつと灯り始める頃。雛はようやく部活を終え、息を切らして、会場へたどり着いた。

 急いで着替えただけのラフな格好で、境内へ駆け込む。すでにそこは、色とりどりの浴衣の人々で賑わい、現実から切り離されたような、非日常の空気に包まれていた。

 

(うわ……すごい人……)

 

 それでも、雛の心は、子供のように浮き立っていた。

 夏祭りは、物心ついた頃から、ずっと好きだった。浴衣に、お面。金魚すくいに、ソースの香ばしい匂いのたこ焼き。そして、なによりも——毎年、この特別な夜にだけ現れる、あの屋台の、りんご飴。

 赤くて、つやつや輝いて、甘くて、少しだけ酸っぱい、あの味。

 

「絶対食べるって、決めてたのに!」

 

 気合いを入れて走ってきたのは、それが目当てだったからだ。

 だが——

 

「ごめんね、お姉ちゃん。りんご飴、もう終わっちゃったんだよ」

 

 屋台の前に並んだ時、店主のその言葉は、頭上から落ちてきた雷のように、雛の頭に、ごう、と響き渡った。

 目の前で、最後の一本が、自分ではない誰かの手に渡っていく。それを、ただ呆然と、見つめるしかない。足元から、力が抜けていく。

 

「え……うそ……」

 

 がっくりと肩を落とし、その場に立ち尽くす。

 他にも、美味しそうな屋台はたくさんある。けれど、そういうことではないのだ。今日は、一日頑張った部活のご褒美として、ずっと、ずっと楽しみにしていた、あのりんご飴が、どうしても、欲しかったのだ。

 

(遅くなった私が悪いんだけど……でも、悔しい……)

 

 俯いたまま動けずにいると、不意に、目の前に、何かが、すっと差し出された。

 

「——ほい」

 

 聞き覚えのある声。顔を上げると、見覚えのある横顔があった。

 猪俣大喜。同じクラスの男子。部活も違うし、特別仲がいいわけでもない。話したことも、ほんの数回。

 でも今、その彼が手にしていたのは——赤くつやめく、りんご飴だった。

 

「え……?」

 

 目を瞬かせる雛に、大喜は、特に表情も変えず、ごく自然に言った。

 

「買い出し頼まれてたから、ついでに取っといた。最後の一本だったし」

 

 その、あまりにも何気ない言葉が、なぜだか、心の奥の、一番柔らかい場所を、強く突いた。

 

「……でも、なんで私に?」

「そりゃ、教室であんな顔してたらな」

「え?」

「めっちゃ、りんご飴の話してたろ。部活終わったら絶対買うって。『死ぬほど食べたい』って」

「し、死ぬほどとか言ってないし……!」

「言ってたぞ? ヨダレ垂れそうな顔で」

「垂れてないからっ!」

 

 顔が、一気に熱くなる。心臓の鼓動が、うるさいほど、耳の奥で鳴って、うまく呼吸ができない。

 大喜は、そんな雛を見て、くすっと、悪戯っぽく笑うと、手にしたりんご飴を、そっと彼女の手の中に乗せた。

 

「せっかくの夏祭りだしな。楽しもうぜ」

「……うん」

 

 ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど、小さく、か細かった。

 でも、手の中の、りんご飴の、ずっしりとした重みが、心の奥に、ぽっと、温かい明かりを、灯してくれた気がした。

 大喜は、特に何を言うでもなく、人混みの中へ歩いていく。その広い背中が、なぜだか、ほんの少しだけ、頼もしく見えた。

 雛は、しばらくその背中を見送った後、そっと、手の中のりんご飴を見つめた。夕暮れの空の下、赤く染まった飴が、提灯の光を反射して、きらきらと輝いていた。

 

(……なんなの、もう)

 

 気がつけば、頬が、ゆるんでいた。

 

 その日からだった。

 

 大喜のことが、少しだけ、気になるようになったのは。

 授業中、ふと視線が合うだけで、胸が大きく跳ねて。名前を呼ばれるたび、なぜだか、耳が熱くなる。彼のことを考える時間が、少しずつ、少しずつ、増えていった。 

 

 ——あの夏の、一本のりんご飴。

 

 それが、雛にとっての、「好き」という感情の、始まりだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 保健室の窓から差し込む午後の陽光が、薄いカーテン越しに、やわらかく、静かに、室内を照らしていた。

 白いシーツの上に座る雛の足首には、氷のうが、その存在を主張するように、きつく巻かれている。

 保健室の先生は、その前にしゃがみ込み、慎重な手つきで患部を押しながら、落ち着いた声で言った。

 

「青痣くらいで、熱も持ってないわね。骨にも、異常はなさそうよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、雛は、ぽかんとした。

 

「……え?」

 

 あれほどの、身体の芯まで響く、鋭い衝撃だったのに。何かが、決定的に壊れてしまったのだと、そう、思ったのに。

 

「本当に?」

 

 隣にいた大喜もまた、信じられないというように、目を丸くして訊ねた。

 先生は、にこりと笑い、こくりと頷く。

 

「本当よ。大会前で、少し神経質になっていただけかもしれないわね。まぁ、痛みが引いても、しばらくは無理しないこと。今日は湿布を貼って、安静にしてなさい」

 

 そう言うと、手際よく処置を終え、立ち上がってカルテを手に取った。

 

「部活はお休み。しっかり休むのも、アスリートの大事な仕事よ」

 

 にこやかに言い残し、先生は部屋を後にする。

 扉が、カチリ、と小さな音を立てて閉まった。その音だけが、静まり返った空気の中に、ぽつんと響く。

 雛と大喜、二人きりの、保健室。

 長い沈黙が流れた後——

 

「な、なんだろう……ちょっと、拍子抜けっていうか……」

 

 雛は、恥ずかしそうに笑ってしまった。

 心の中で、あれほど大きく膨らんでいた"もしも"が、ふっと、軽くなっていく。それは、紛れもなく良いことのはずなのに、なぜだか、身体の芯から、力が抜けていくような感覚だった。

 

「人騒がせめ」

「う、うるさい!」

 

 雛の視線が、自分の足首へと、落ちる。

 

「期待されるのが……怖いって思うとき、あるの」

「……うん」

「"蝶野弘彦の娘"とか、"全中4位"とか。色んなものが、肩に重くのしかかってくる。期待されるのは、ありがたいし、応えたいって気持ちも、本当にあるの。でも、それが全部、自分じゃないみたいに、遠くに感じちゃう瞬間が、あるから」

 

 言葉にしているうちに、胸の奥にしまい込んでいた感情が、次から次へと、溢れ出してくる。

 普段は、誰にも、決して見せない、弱さ。本音をこぼすこと自体に、どこか罪悪感のようなものを感じていた。それなのに、今、大喜の前では、不思議と、素直に紡ぐことができた。

 

「今日も、思っちゃった。もしこれで本当に怪我してたら、みんなをがっかりさせちゃうって。応援してくれた人の顔が、頭の中に、いっぱい浮かんできて……」

 

 そこまで言って、雛は、ふと唇を強く噛んだ。声が、微かにかすれる。喉の奥が、熱くなる。

 それでも、大喜は何も言わない。ただ、静かに、雛の瞳を、まっすぐに見つめていた。

 その瞳に宿るのは、驚きでも、哀れみでもなかった。ただ、静かで、あたたかい、肯定の光。何も言わずとも、「大丈夫だよ」と、全てを包み込んでくれるような、そのまなざしに、雛は救われる思いだった。

 

「……みんな、頑張ってるから。大喜も、インハイ目指してるって言ってたし。だから、私も頑張らないとって……ひとりでも、頑張れるんだけど……」

 

 苦笑のような、泣き笑いのような声が、唇からこぼれ落ちる。

 そう言いながら、心のどこかで、ずっと自分を突き放していたことにも、彼女は気づいていた。

 本当は、誰かの支えが、ずっと、ほしかったのだ。

 その姿は、紛れもなく、どこにでもいる、ごく普通の女子高生だった。彼女が吐露した、抱えきれないほどのプレッシャー。それは、大喜には到底、計り知れないものだろう。

 ならば、せめて——。

 

「雛」 

 

 柔らかく、その名を呼ぶ声が、胸の奥に、じんわりと染み込んでいく。

 大喜が、そっとポケットに手を伸ばす。取り出したのは、小さな、色鮮やかなミサンガだった。

 

「……はい、これ」

 

 細く、丁寧に編み込まれた糸が、午後の光を浴びて、わずかにきらめく。薄いピンクと白、そこにほんの少し混じった金色が、雛の目に、優しく、鮮やかに映った。

 

「これ……」

「雛に、って。前から、渡そうと思ってたんだ」 

 

 不意を突かれた雛の声が、少しだけ、震える。

 

「……どう、して?」

「お守り、みたいなもん。……いや、おまじない、かな」

 

 そう言って、大喜は、どこか照れたように笑った。

 

「雛が頑張ってるの、俺もちゃんと、見てるから。プレッシャーで押し潰されそうになったとき……ちゃんと見てる人間がいるんだって思えたら、少しは、楽になるんじゃないかと思って」

 

 ——ちゃんと、見てる。

 

 その言葉が。"蝶野弘彦の娘"でも、"全中4位"でもない、ただの「雛」を見ていると、そう言ってくれたことが。

 さっきまで、あんなに重かった鎖を、するりと、ほどいていく。

 雛の指先が、そっと、ミサンガに触れた。

 震える手。だけど、その震えは、もう、怯えから来るものではない。溢れ出しそうな感情を、必死に押しとどめている、その証だった。

 

「……ありがとう」

 

 ほとんど、息のような、か細い声。けれど、その想いは、確かに、大喜に届いていた。

 雛は、そっと顔を伏せると、受け取ったミサンガを、大切な宝物のように、胸元でぎゅっと握りしめた。あれほど、触れられるだけで飛び上がりそうなほど、孤独と悲しみで敏感になっていた皮膚が、温かい膜で、優しく包まれた気がした。

 

(……ずるいよ)

 

 こんなにも弱っているときに、そんな、優しい眼差しを向けられたら。必死に張り巡らせていた心の堤防が、いとも簡単に、決壊してしまうじゃないか。

 

「たいき」

 

 その声には、いつもの軽やかさは、なかった。低く、少しだけ艶を帯びた、甘い蜜が沁みこんだような、声。

 

 そして——目が、合った。

 

 戸惑いながらも、いつもの、あの澄んだ眼差し。すべてを、ただ静かに受け入れてくれるような、この上なく優しい瞳に。

 堪えきれなくなった心の奥底から、一筋の熱い想いが、流れ出す。言葉となって、唇から、溢れていく。

 雛は、どこか吹っ切れたように、晴れやかな笑みを浮かべた。そして、その笑顔に乗せて、ずっと胸の奥に秘めてきた、大切な想いを、告げた。 

 

「——好き」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その一言は、保健室の空気そのものを震わせるように、静かに——しかし、確かな熱を持って、放たれた。

 ふわりと柔らかな音が耳を打つよりも先に、その言葉の意味が、大喜の胸の奥深くへと、じんわり染みこんでいく。音としてではなく、想いとして。

 

「え……?」

 

 漏れた息に、自分でも分かるほど、戸惑いの色が滲んでいた。

 意味は、もちろん理解しているはずなのに、実感が、追いついてこない。目の前の彼女が、今、何を言ったのか。頭では分かっているはずなのに、どこか、遠い夢の中の出来事のようだった。

 けれど、雛は、ゆっくりと続けた。

 

「大喜の、そういう優しいところ……すごい、好き」

 

 その笑顔は、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも、眩しかった。ただ見ているだけで、胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。照れくさそうに笑う雛の頬が、少しずつ、夕陽の色に染まっていく。

 

「他にも、あるよ。いつも一生懸命で、まっすぐで、諦めないで、頑張るところ。そういう大喜が、私は……すごく、好き」

 

 どこまでも飾り気のない、素直な言葉だった。真っ直ぐで、触れたら壊れてしまいそうなくらい、繊細で。

 けれど、その言葉は確かに——心の深い場所に、温かい灯火をともしていく。雛が、これまで一人で積み重ねてきた想いが、大喜の中に、ゆっくりと、温かく、広がっていく。

 

「だからね、大喜。私は……」

 

 途中で、一旦言葉を切ると、雛はわずかに目を伏せた。その頬は、もう夕陽のせいだけではない、彼女自身の内側から発する熱で、鮮やかな朱色に染まっていた。

 

「……」

 

 大喜は、小さく深呼吸をして、彼女の次の言葉を、ただ静かに待った。今は、それ以外のことが、できそうになかった。

 少し、上目遣いになった雛と、目が合う。

 

「私は、親友じゃなくて……一人の女の子として、大喜の彼女に、なりたい」

 

 雛とは、もう三年以上、同じクラスで、常に身近な存在として過ごしてきた。色々な表情や仕草を、知っているつもりだった。

 それなのに、今、目の前にいる彼女は、そのどれとも違う、全く知らない雛だった。どこから、どう見ても、恋をする女の子の顔をしていた。

 ずっと、すぐ近くにいたはずなのに。今の彼女は、どこか遠い存在のようで、でも、それ以上に、今まで見たことのないくらい、綺麗だった。

 

「い、いつから……その」

 

 ようやく絞り出した。ぎこちなく、でも、確かめずにはいられなかった。

 

「……りんご飴の時から、気になってたよ」

 

 その瞬間、胸が、きゅう、と締めつけられた。

 あの夏祭り——屋台の照明の下で、赤く光るりんご飴を、照れくさそうに差し出した自分を見て。彼女の気持ちは、もう、あの時から、芽生えていたというのか。

 

「あ、あの時から?」

「うん……」

 

 俯いた雛の声は、少し震えていた。

 

「ホントはね、予選も近いし、今こんなこと言ったら、大喜の迷惑になるって思ってた。言わないつもりだったの。でも……やっぱり、大喜に優しくされちゃうと、どうしても……思っちゃうの」

 

 顔を上げた雛の笑顔は、どこか困ったようで、けれど、確かに、温かくて——

 

「好きって」

 

 その言葉が、真っ直ぐに、大喜の胸に突き刺さった。

 雛の"好き"には、彼女がこれまで、一人で抑えてきた時間の分だけの、切ないほどの想いが、詰まっていた。自分のことよりも、相手のことを考えて、必死に押し殺して、それでも、やっぱり溢れてしまった、純粋な感情。

 それを、今、真正面から、ぶつけてくれた。

 

(……ずっと、そんな風に、思ってくれてたんだ)

 

 何も知らずに、のんきに過ごしていた自分が、情けなかった。「親友」という言葉の裏に隠されていた、彼女の本当の気持ちに、気づこうともしなかった自分が、恥ずかしかった。

 だからこそ、今、ここで、ちゃんと向き合わなければならない——そう、思った。

 音には出さずに、大喜は、長い時間をかけて、ゆっくりと息を吐いた。

 答えは、もう、とっくに決まっていた。決まっていたのだ。

 頭の中に、伝えたい想いと、言葉は、鮮明に思い浮かんでいる。あとは、それを、口に出すだけだ。

 息を、吸おうとした、その瞬間だった。

 

「急にごめんね! 別に、今すぐ返事は要らな——」

「——ミサンガ」

 

 大喜が、彼女の言葉を遮る。

 

「……好きじゃなきゃ、ミサンガなんて、渡さないって」

「——えっ」 

 

 それは、とても不器用で、ぎこちない言葉だった。でも、それ以上に、どこまでも真っ直ぐで、正直な言葉だった。

 気づけば、雛の瞳が、うっすらと潤んでいた。涙は、零れそうで、けれど、必死に、踏みとどまっている。そんな潤んだ瞳で、じっと、大喜を見つめる。

 そして、それを隠すように、少しだけ、悪戯っぽく微笑んで——

「な、なになに〜? 聞こえなーい」

「だ、だからっ」

 

 顔が熱くなるのを感じながらも、大喜は、しっかりと彼女の瞳を見つめ返した。真正面から、その瞳の中に、飛び込んでいくように。

 

「俺も、雛が、好きだ」

「〜〜っ!」

 

 今度は、雛の方が、言葉を失う番だった。頬が、一気に火照り、思わず俯いてしまう。

 夕陽が差し込む保健室は、どこか世界から切り離されたみたいで。音も、空気も、ただ二人の呼吸だけでできているかのようだった。

 黙り込んでしまった彼女と、己の想いをさらけ出した羞恥で、どうにかなってしまいそうだった。途方に暮れていると、雛が、ぽつりと呟いた。

 

「……かい」

「え?」

「……もう一回……もう一回、聞きたい」

 

 上目遣いで、ほのかに潤んだ瞳を向けながら、雛が、甘ったるい香りの沁みこんだような声を出した。あどけなさと、真剣さが混じり合ったその声に、大喜の胸が、また大きく、高く鳴る。

 

「……そ、その顔は、ズルいだろ……」

 

 そう呟きながらも、彼は、彼女から視線を逸らさなかった。大きく、息を吸って、もう一度、はっきりと。

 

「……雛が、好きだよ」

 

 今度は、静かに、でも、確かに。

 その言葉を聞いた雛は、ふわりと、花が咲くように笑って——次の瞬間、大喜の首元に、舞うように飛び込んできた。

 

「たいきっ!」

 

 柔らかな頬が、首筋にすり寄る。その温かい体温と、ほんのり香るシャンプーの匂いに、大喜の全神経が、過敏に反応した。

 

「うわっ、ちょ、急すぎだって……!」

「今だけ……」

 

 困惑しながらも、彼は、その華奢な身体を、そっと抱きしめ返した。その腕に、ほんの少しだけ、力がこもる。

 

「……今だけは、ちょっと甘えてもいい? ちゃんと、元に戻るから」

 

 その囁きに、微かな震えを感じた。嬉しさと、不安と、そして何かを振り払おうとするような、繊細な心の揺れが、混じり合っているような気がした。

 

「……別に、無理に戻らなくていいって」

「……うん」

 

 そっと背中に手を添え、大喜は、抱きしめ返す。

 こんなにも、華奢で、小さい、彼女に。

 ゆっくりと、語りかけるように、呟いた。

 

「その……たくさん、待たせてごめん」

「……っ、ううん」

「たくさん、傷つけてごめん」

「……そんなの、全部、嬉しいに、変わったよ」

 

 お互いの温もりを確かめるように、しばらくして、大喜は、少しだけ体を離した。その動きに応えるように、雛が、ゆっくりと顔を上げる。

 目と目が、合った。

 近い。

 いつの間にか、互いの呼吸の音までが、重なり合っていた。唇が、触れてしまいそうなほどの、距離。

 どちらともなく、言葉を失っていた。

 ふと、雛が、小さく笑う。

 

「……たいき、顔、真っ赤だよ?」

「……雛もだろ」

 

 けれど、そのまま、お互いに、視線を逸らすことはなかった。二人の視線が、甘く、絡み合う。

 心の奥で、何かが、静かに、合図を送る。今なら、伝えられる。今なら、触れられる。そう確信できるほどに、空気は、優しく満ちていた。

 

「たいき」 

 

 雛が、名前を呼んだ。

 もう、軽口も、照れ隠しも、なかった。ゆっくりと、二人の距離が、消えていく。何かを壊さぬように、慎重に。

 互いの睫毛が、そっと、伏せられた。

 

 

 

 

 

 

 

 窓の外で、誰かの自転車のベルが、遠く、鳴った。

 気づけば、保健室は、すっかり夕陽の色に沈んでいる。白いシーツも、薄いカーテンも、二人の影も、何もかもが、橙に溶けていた。

 どちらからともなく離れたあとも、しばらく、二人は何も言えなかった。言葉にした途端、この熱が、どこかへ逃げてしまう気がして。

 先に口を開いたのは、雛だった。

 

「……髪に、リボンの跡、ついてる」

「……今、それ言う?」

「だって、他に言うこと見つかんないんだもん」

 

 小さく、笑い合う。

 その頬は、もう、夕陽のせいには、できないくらい——赤かった。

 雛が、胸元のミサンガを、そっと握る。さっきまで、あんなに重かったはずの肩が、不思議と、軽い。

 明日になれば、また"蝶野弘彦の娘"に戻るのかもしれない。期待も、重圧も、消えてなくなるわけじゃない。

 でも。

 

 ——ちゃんと、見てる人間がいる。

 

 それだけで、もう一度、あのマットの真ん中に、立てる気がした。

 

「……ねえ、大喜」

「ん?」

「予選、絶対勝とうね。お互い」

 

 差し出された小指に、大喜は、ほんの少しだけ笑って、自分のそれを絡めた。

 夕焼けが、二人の指先を静かに照らしていた。

 

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