親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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17話

 

 

 

 

 

 県大会初戦を翌日に控えた朝。

 いつもと同じように目を覚ますと、窓の外はもう夏の光で満ちていた。六月後半の朝の空気はすでに蒸し気味で、肌にうっすらと汗が張りつく。

 軽く伸びをして、まずはシャワーを浴びに浴室へ向かう。冷たすぎない水温で汗を洗い流すと、心なしか身体が軽くなったような気がした。

 タオルで頭を拭き、上半身の水滴をざっと拭っていると──

 

「おお、いい身体になったじゃないか」

 

 背後で、何の前触れもなく引き戸が開き、父が仁王立ちになっていた。

 驚きよりも先に、その品定めするような言葉が、妙に耳に残る。

 

「……そう?」

「ああ。腹筋、見事に割れてきたな。良いシックスパックだ」

 

 言われて、龍太は無意識に己の腹部へと視線を落とす。

 毎日の走り込みと、地味な補強運動の賜物。腹部には綺麗に割れた六つの筋が浮かび、肩から腕にかけても、スプリンターらしい、無駄のない筋肉のラインが走っている。浅黒く焼けた肌が、その陰影をより深く見せていた

 

「俺も負けてられんな」

「いや、何と張り合ってんだよ……あと、脱ぐな。絶対に脱ぐなよ?」

「それは脱げと言ってるようなもんだろっ」

 

 龍太の悲痛な制止も虚しく、父はバサリと効果音でもつきそうな勢いでTシャツを脱ぎ捨てた。

 そこに現れたのは、四十路を越えた男のそれとは到底思えない、分厚い胸板と、丸太のように隆起した上腕二頭筋。龍太のものよりもさらに深く刻まれた腹筋の溝を、浴室の湿気が艶めかしく光らせている。

 龍太はふと、母が遠い目をして語っていた自慢話を思い出す。

 ──そうだ、この親父は元プロ野球選手。それも、一時代を築いたとんでもない怪物だった筈だ。

 確か──

 

「さすがは元サンカンオー? だっけ?」

「……お前、それ意味わかって言ってる?」

「わからん」

 

 父が思わずよろける。

 

「おいおい……首位打者、本塁打王、打点王のことだって前に教えただろうが。自分で言うのもなんだが、結構な偉業なんだぞ?  自分で言うのもなんだがな!」

「なんで二回も言うんだよ……ああ、だからリビングに、あのよくわからん金色の盾みたいなのがゴロゴロしてるのか」

「よくわからんて……。この間、千夏ちゃんにも『すごいんですね!』って目を輝かせて言われたが、絶対にあの子もわかってなかったな……」

 

 「故障がなければなぁ」と名残惜しげに言い残し、父は部屋を出ていった。

 やかましいのがいなくなって、龍太はようやく腰にタオルを掛け直す。着替えに取りかかろうとした、その時──

 

「きゃっ……!」

 

 背後から、子猫が喉を鳴らすような、小さな悲鳴。振り返ると、そこには、顔を林檎のように真っ赤にした千夏が、固まっていた。

 

「……ご、ごめん、使ってたんだね」

 

 どうやら寝間着姿のまま、洗面台を使いに来たらしい。

 

「すみません、どうぞ」

「う、ううん。次使うから平気だよ!」

「いや、すぐ退くので大丈夫です。というより、先輩、顔赤くないですか?」

「だ、大丈夫だよ……?」

「大丈夫って……」

 

 明らかに視線が、龍太の身体と壁の間を行ったり来たりと激しく泳いでいる。その挙動不審な様子に首を傾げると、彼女は頬を染めたまま、蚊の鳴くような声で言った。

 

「その……あまり慣れてないから」

 

 言われて初めて、自分が上半身裸のままであることを思い出す。そういえば、彼女はまだこういう状況に免疫がないのかもしれない。平気で男子の前で着替えるくせに、と内心で思いつつ、その初心な反応が面白くて、ちょっとした悪戯心が芽生えた。

 

「すぐ着替えるんで、後ろ向いててください」

「……うん」

 

 素直にくるりと背を向ける千夏。その無防備な後ろ姿に苦笑しながら、龍太は着替えるふりをして、少し間を置いてから声をかけた。

 

「お待たせしました。もう、こっち向いても大丈夫ですよ」

「はやいね。流石男の──っ!?」

 

 振り返った瞬間、視界に飛び込んできたのは、相変わらず半裸の龍太。

 千夏は光の速さで再び反対方向を向き直る。その完璧なリアクションに、龍太の口元から、つい笑みがこぼれる。

 

「……先輩って、かわいいですね」

「かわっ……やっぱり龍太くんは人たらしだと思う」

「先輩がピュアすぎるんですよ。夏にプールとか行ったらどうするんですか。男なんてみんな上半身裸ですし」

「そ、それはそうかもしれないけど…………その……」

「その?」

 

 千夏は耳まで赤くし、言葉を飲み込んだ。

 

「さ、先リビング行くねっ!」

 

 バタバタと駆け出していく千夏の背中を見送り、龍太はふと自分の体を見下ろす。

 

「…………なんだったんだ、一体」

 

 

 

 

 

 

 

 

 日課のランニングコースを、その日は少しだけ変えて、大喜の家まで足を延ばした。玄関前で軽く声をかけると、「おう!」と、寝ぼけ眼とは程遠い、朝からやけに張りのある声が返ってくる。

 

「おはよ!」

「はよー」

 

 軽口を交わしながら、二人は並んで走り出す。

 自然と呼吸のペースが合い、アスファルトを蹴る二対の足音だけが、まだ眠りから覚めきらない住宅街に小気味よく響いていた。街路樹の葉の間からこぼれる木漏れ日が、動く二人の身体の上で、忙しなく明滅を繰り返す。そんな、いつもと変わらない朝のはずだった。住宅街を抜け、川沿いの道に出たころ、大喜がふと、妙に真面目な顔をして、ぽつりと呟いた。

 

「……俺、雛と付き合うことになった」

 

 その言葉は、不意打ちというよりは、まるでパズルの最後のピースがはまるかのように、妙にすんなりと龍太の心に収まった。

 

「そうか」

「えっ、もっと驚きのリアクションとかなく?」

「そりゃねぇだろ。もともと仲良かったし、雛の気持ちも知ってたからな」

「……そっか」

 

 大喜は、照れを隠すように口元を緩め、どこか誇らしげに前を向いた。その横顔に、龍太はふと、純粋な好奇心から尋ねてみたくなった。

 

「なぁ、聞いても良い?」

「うん?」

「雛のさ、どーいうところ好きになったの?」

「っ!? な、なんだよいきなり!」

「いきなり急展開になったのはそっちだろ。以前は先輩だったじゃん。雛から猛アタックされたとか?」

「それは……」

 

 大喜は、すぐには答えなかった。言葉を選ぶように、視線を川面の先へと投げる。

 朝の光が水面を白く照らし、二人の影をアスファルトの上に長く、色濃く伸ばしていた。影はぴたりと並んでいるのに、不思議と大喜の影だけが、少しだけ先を行っているように見えた。

 

「千夏先輩ってさ……俺にとって“遠くの灯り”みたいだったんだよ」

「遠くの灯り?」

「インハイ目指して凄い努力家で……見てると自分も頑張ろうって思えるけど、でも、届かないって、心のどこかで分かってたから」

 

 龍太は無言で相槌を打つ。大喜の声には、悔しさも未練もなかった。ただ、静かで、穏やかな諦観が滲んでいる。それは、単なる失恋という言葉では片付けられない、もっと長い時間をかけて、自分の中で丁寧に整理し、納得した感情の色だった。

 

「でも、雛は違くてさ」

 

 その声は、先ほどよりも少しだけ温度を上げて、柔らかくなる。

 

「いつも“隣”にいてくれるんだよ。練習でぶっ倒れても、試合でミスしても、横に来て『大丈夫だよ』って笑ってくれる。そういう、当たり前みたいな距離感が、俺にはちょうど良かったのかなって。そういうところに、いつの間にか惹かれてたんだと思う」

 

 なるほど──と龍太は思う。

 “憧れ”は自分を前に進ませるけど、そこに触れた時の温度は、案外わからない。“恋”は手を伸ばした先で、その温度をちゃんと返してくれる。それが雛なんだろう。

 

「まさか、龍より先に彼女ができる日が来るとはなあ」

「彼女ができた途端、煽りスキルまで身につけてんじゃねえよ」

「いやー、人生何があるかわからんな。散々龍には負けっぱなしだったし」

「うわ、こいつ本気で腹立つな」

 

 大喜は、子供のように笑って、少しだけペースを上げた。

「ま、雛を幸せにしてやれよ」と軽く肩を叩いてやると、「なんでしてもらう前提なんだよ」と、満更でもない様子の小言が返ってきた。

 

 ──おめでとう、二人とも。

 

 一瞬感じた、自分だけが少しだけ世界から置いていかれたような感覚。それを、朝の風の中にそっと手放す。再び、二対の足音だけが、静かな住宅街へと戻っていった。

 朝日が、まるで祝福するように二人の背中を押し、その影は並んだまま、未来へと向かって、どこまでも長く伸びていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休みの校舎一階、いつもの食堂。

 長年使い込まれた木製のテーブルはところどころ艶が薄れ、角は丸く削れていた。脚の緩んだ丸椅子は、座るたびに微かに軋み、まるで古い校舎の呼吸音のようだ。

 壁際に貼られたメニュー表は色褪せ、「カレーライス」「焼きそば」「うどん」──文字と一緒に並ぶ写真も時代遅れの色調をしている。カウンター奥からは揚げ物の油の香りが漂い、湯気に混じって味噌汁の匂いが鼻をくすぐる。ざらついた換気扇が低く唸り、トレイの上で茶碗やコップが乾いた音を立て、友人同士の笑い声や箸が器に触れる小さな音が、昼のざわめきを織り成していた。

 

「ふーん、あいつら付き合ったんだ」

 

 向かいでも横でもなく、すぐ隣。根岸がカツ丼を頬張りながら、感情のこもらない声を漏らす。興味があるのかないのか判別できない、その絶妙な温度。

 

「もともと、距離感のバグってる二人だったから今更感あるな」

「そう? 俺はいつもあいつらといたから、わかんねぇな」

 

「ふうん」と、再び素っ気ない相槌。カツ丼の衣を噛み砕く音が、彼の無関心を代弁しているようだった。どうやら本気で他人の恋路には興味がないらしい。

 

「で、お前はどうなんだよ。例の女神さまとは」

「……女神さま?」

「ほら、あそこ」

 

 根岸が顎で示した先では、鹿野千夏が女子バスケ部の仲間とテーブルを囲んでいた。まるで彼女の周囲だけ、世界の解像度が一段階上がったかのように、その存在は抜きん出て美しい。わずかに頬を染め、白米を口元へ運ぶ。そんなありふれた所作ですら、一つの完成された芸術のように誰かの心を奪う。

 

「お前の代名詞だろ、鹿野千夏先輩は」

「……ツッコミたい箇所が多すぎるが、まず『どうって』何がだ」

「決まってる。色恋沙汰だよ」

「イロコイザタ?」

「──つまり、お前ら、もうとっくに一線越えてるんじゃないのかってこと。ネギが訊きたいのは」

 

 茶化すような声が、背後から会話に割り込んできた。いつの間にか向かいの席に陣取った三浦が、悪戯っぽく口の端を上げる。

 

「ここだけの話、こいつ、この間デートしたらしいぜ」

「はあ!? マジかよ! あの女神さまと!?」

「ちょっ!?」

「ああ。しかもだ……手を繋いで、膝枕までしてもらったと」

「三浦さん……っ!」

「マジすか!? え、それで付き合ってな──ぬぐっ!?」

「いちいち声がでかい!」

 

 慌てて根岸の口を掌で塞ぐ。三浦は面白そうに肩をすくめ、「だろ?」と根岸に目配せした。

 

「俺もそれを聞いて呆れてるところだ」

「お前、男としての機能大丈夫か? 何の反応もなしか?」

「あのな、公の場で反応したら、それこそ社会的に終わるだろうが……」

「そりゃそうだが。でもよ、結局のところ好きなんだろ? そこまでされて」

 

 サバの味噌煮を頬張りながら、龍太はわざと視線を外す。

 

「そりゃ……まぁ」

「コクんねぇの?」

 

 やけに核心を突いてくる。大喜の時には、こんな踏み込んだことは聞いてこなかったくせに。

 一瞬、言葉を探し──それでも、覚悟を決めて口にした。

 

「…………県予選が終わったら、玉砕覚悟で言おうと思ってる」

 

 大喜と雛が付き合い始めたという事実が、臆病な俺の背中を静かに押していた。

 その決意を聞いて、三浦は「そっか」とだけ応え、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「じゃあ、明日の大会、気合入れねえとな」

 

 不意に、根岸がスマートフォンを取り出し、その画面をこちらへ向けた。

 

「去年のインハイ決勝、100m男子だ」

 

 映し出されたのは、赤と黒のユニフォームを纏った春日部第一の選手。画面越しにすら伝わる、研ぎ澄まされたオーラに息を呑む。スタートの所作。ブロックの配置、地面についた指先の緊張、肩と腰のライン、完璧に計算された足の角度。号砲一閃。地面を掴み、爆発的な推進力へと変換していく一連の動作は、洗練された獣のそれだった。

 

「はっや……」

 

 ぐんぐん後続を引き離していく規格外の加速に、思わず龍太から感嘆の声が漏れた。

 

「明日のお前のライバルだ」

「ライバル?」

「堂園翔真。知らねぇのか?」

 

 根岸の呆れ声の代わりに、三浦が淡々と補足する。

 

「前年度インハイ100m、200m優勝者。ジュニアオリンピックでも優勝してる。今大会の大本命だ」

「……マジですか?」

「まじまじ。同じ埼玉だし、お前がぶつかる相手だ」

「いや、ライバルって……次元が違いすぎますよ」

 

 ライバル──その言葉の重みに、俺は無意識に眉を寄せていた。インハイの頂点に立つ男と、自分が同じトラックで競う姿は、まだ靄のかかった未来のようだ。

 

「いずれ、だよ。お前にはそれだけの力がある。明日は全力でぶつかってこい」

「いや、なんで他人事なんですか。三浦さんも走るでしょ?」

「俺は地区を突破できただけで御の字だ。明日はおまけみたいなもん。まあ、これが最後のレースになるだろうな」

 

 平然と笑いながら、彼はうどんを啜る。その笑顔の裏に、諦念とも覚悟ともつかない微かな影がよぎったのを、龍太は見逃さなかった。

 しかし、追及することはしない。

 ふと、三浦は思い出したように鞄から分厚い過去問題集を取り出した。

 

「これ、読める?」

「赤本……ですか?」

「そ。俺も受験生だしな。お前、英語得意だったろ?」

「まぁ、それなりに」

「えっ、龍太ってアホじゃねえの? これ国立のやつだぞ……一年で解けるわけねぇと思うんだけど」

「見なきゃ分からんが、たぶん?」

「嘘だろお前……俺の仲間じゃねぇのか?」

「誰がお前の仲間だ」

 

 問題を覗き込み、ごく自然に解法の糸口を説明している自分の声が、どこか遠くに聞こえた。胸の奥に、ずしりとした重たい感覚が沈んでいく。

 そうだ、この人は三年生で、今年で引退なんだ。

 

 ──三浦さん、いなくなるんだ。

 

 その事実が、突如として冷たい輪郭を伴って胸に突き刺さる。

 そして同時に、千夏もまた、いずれはこの場所から、自分の世界から去っていくのかもしれない。そんな予感が、言葉にならないまま、午後の光が差し込む食堂の片隅で、静かに澱のように溜まっていった。

 

 

 

 

 

 

 午後の授業の合間を告げる、気怠いチャイムが鳴り響く。

 教室を満たしていた緊張の糸が緩み、安堵のため息にも似たざわめきがさざ波のように広がった。千夏は、歴史の教科書の角を指先でなぞってからそっと閉じ、どこへ向けるでもなく視線を窓の外へと逃がした。

 どこまでも澄んだ青い空に、刷毛で引いたような薄い雲が一筋、時の流れを可視化するように、ゆるやかに漂っている。窓越しの陽光は柔らかく、すでに夏の気配を色濃く含んでいるというのに、教室の空気だけは、なぜか微かな熱を帯びて淀んでいた。

 

 ──いや、違う。熱は、外からではなく、中から生まれている。

 

 そのことに気づいた瞬間、千夏は空気の密度が変わるのを感じた。

 ひそやかな囁きが、まるで伝言ゲームのように前方の席から後方へと伝播してくる。それは単なる雑談のざわめきではなく、廊下にスターでも現れたかのような、微熱を帯びた高揚感を含んでいた。

 

 千夏は何気なく視線を入り口に向けた。

 そこには、剛毅と並んで談笑しながら教室に入ってくる龍太の姿があった。

 軽く笑みを浮かべながら、手に持ったノートを剛毅に手渡している。

 その光景に、千夏はふと既視感を覚えた。きっとまた、彼のノートを届けに来たのだろう。何度か見たことのある、変わらないやり取り。

 

 ──それなのに。

 

 まるで磁石に吸い寄せられるように、彼の周りに数人の女子生徒が小さな渦を作る。

 そのうちの一人が、計算された仕草で髪を耳にかけながら、甘い響きを乗せた声で言った。

 

「明日、頑張ってね!」

「ありがとうございます」

 

 声は明るく、笑顔も柔らかい。

 その中には、純粋な応援の気持ちもあるだろう。

 けれど──千夏には、もっと別のものが透けて見えた。

 ほんのわずかに、頬を赤らめる仕草。目元の輝き。声のトーンの微妙な上昇。

 そういう、異性として意識しているサインを、彼女は敏感に感じ取ってしまう。

 

 胸の奥が、きゅ、と小さく締めつけられる。

 理由は分かっていた。

 嫉妬──その一言で片付けられる感情だ。

 

「早くしないと、取られちゃうんじゃないか?」

 

 すぐ隣で針生の声がした。

 いたずらっぽい調子のその一言に、千夏はムッとした顔をする。

 

「……意地悪言う」

 

 罰が悪くて、再び視線を窓の外へ戻す。

 遠くのグラウンドでは、サッカー部がまだ練習を続けているらしく、ボールを蹴る乾いた音と、小さな歓声が、夏の風に乗って微かに届いてきた。

 

(人気なのは良いこと……だよね)

 

 そう、自分に言い聞かせる。

 まるで、そう信じなければならないとでも言うように。

 しかし、どんなに遠くの景色に意識を集中させようとしても、視界の端には、他の誰かと談笑する彼の後ろ姿が、焼き付いた残像のように、いつまでも消えずにちらついていた。

 

 

 

 

 

 

 県予選という頂へ続く道は、なにも個人種目のそれだけが険しいわけではない。

 龍太の心を最も重く占めていたのは──リレーという、四人の魂を一本のバトンに託す競技だった。

 北関東大会への切符を賭けた領域は、我々のような凡百のチームにとっては、まさに茨の道だ。昨年の進出ボーダーラインは、400mリレーが「42秒79」。対して、我々栄明のベストは「43秒00」。

 数字の上では、瞬きにも満たない僅かな差。

 しかし、トラックの上でこのコンマ数秒が意味するのは、絶望的なまでの隔絶だ。0.01秒を削るために、季節が一つ巡ることもある。陸上とは、祈りにも似た反復の果てにのみ、微かな光明が見える世界なのだ。

 

 

 残された時間はもうわずか。

 今からできることと言えば、コンディションの微調整とバトンの精度くらいだ。

 ドーピングでもしない限り、いきなり足は速くならない。陸上は、うんざりするほど細かい積み重ねの世界だ──それは龍太が中学三年間を費やして痛感した事実だった。

 

 だから、勝負を分けるのはバトン。

 監督の鶴田も、そこを強調していた。

 

『正直、この期間じゃ純粋なスピード差は詰まらん。けどな……前走者がもうひと踏ん張りゾーンに飛び込む。次走者が一歩でも長く加速区間を引っ張る。スムーズに渡せれば、互いの加速で0.1秒、いや区間によっては0.2秒は縮まる。三つ合わされば0.6秒近く詰まる。そうなりゃ関東だって見えてくる』

 

 その言葉を胸に、この一週間はリレー漬けだった。

 出場メンバー全員が強豪校の映像を見まくり、特に龍太は佐知川高校のバトンワークを繰り返し再生しては、前後の走者の歩幅とタイミングを合わせる練習ばかりしていた。

 家にもバトンを持ち帰り、何となく触りながら過ごす日々。

 四六時中──いや、眠っているときですら手に握っているんじゃないかというほどだった。

 その様子を見た千夏には、「新しいお友達ができたみたいだね」と言って笑っていたが。

 

「はいっ」

 

 チェックマークを超え、三浦が爆発的にスタートする。後ろにまっすぐ高く伸ばされた腕。その掌に、龍太の魂が乗り移ったかのようにバトンが吸い込まれていく。遠ざかっていく三浦の背中。自分を陰ながら支え続けてくれた、頼もしい背中。その背中が、もうすぐ見えなくなる。この瞬間が、龍太は好きだったりする。

 

「三浦さん!」

 

 気づけば、声になっていた。

 アンカーがゴールし、タイムが表示される。またしても、ベストには届かない。完璧ではないにせよ、バトンは綺麗に繋がった。

 だからこそ、悔しさが募る。

 その行き場のない焦燥を振り払うように、龍太は鶴田に声をかけた。

 

「もうちょい接地のタイミング見てもらってもいいですか? 個人でいいんで」

「お前ホント体力お化けだな」

 

 鶴田の指示で、150mを3本、それを3セットこなすインターバル走が始まった。

 

「おいっ、膝っ! 膝を伸ばせ、龍太!」

 

 グラウンドに響く声。

 疲労で接地時に膝が沈んでいるのは自分でも分かる。

 股関節あたりを意識して走り続けると、少しずつスピードが落ちていくのが嫌でも分かった。

 スプリントは、腰を高く保ったまま滑らかに進ませるのが理想だ。

 だが自分は、何本か走れば腰がじわじわと下がっていく──それが自分の個人的な課題。

 

 ぐっと落ちる。

 負ける。

 悔しい。

 堪える。

 

 脳内で無意味な単語が明滅する。全国の舞台で戦う者たちの走りは、こんな甘えを許さない。もっと鋭く、もっとしなやかに、地面を捉えた瞬間、その反発力を寸分のロスもなく前方への推進力に変えるのだ。

 

「おーし、次は軽く流してみろ」

 

 スタートラインに立つ。

 これまで龍太が理想としてきたのは、スタートからの爆発的な加速で勝負を決める、前半型の走りだった。憧れた"彼"が、一瞬で他を置き去りにする、陣風のようなスプリンターだったからだ。

 スマートフォンの検索窓に『高梨 陸上』と打ち込めば、今でも全中大会のアーカイブ映像がヒットする。再生ボタンを押せば、何度見ても心を奪われる。鋭敏なリアクション、誰よりも低く飛び出し、絹を裂くような滑らかさで加速していく。彼はレースというものを、常に最初の50メートルで終わらせていた。

 その残像に焦がれ、彼を模倣すれば速くなれると信じていた。それは決して間違いではなかった。現に中学最後の年には、全国で4位にまで上り詰めたのだから。

 しかし、彼と自分とでは、天賦の才が違う。

 反応速度、飛び出しの鋭さ、そして何より、あの重力を無視したかのような異次元のバネが、自分にはない。自分の身体もそれなりのバネは有していると自負しているが、彼のそれとは質が違う。もっと重く、地面に根を張るような力だ。瞬発力という一点においては、到底彼の領域には及ばない。

 

 ならば──。

 

 龍太は、先ほど見た堂園翔真の走りを脳内で再生する。

 高梨のような、視界から倏然と消える加速はない。だが、一歩一歩が大地を確実に捉え、巨大なトルクを生み出しながら進む様は、今の自分にとって、より現実的な指針となるはずだ。

 彼のスプリントフォームを、自身の身体に上書きしていく。

 イメージを、肉体に刻み込む。

 

 もっと速く。

 もっと、仲間を先へ、前へと押し出す走りを。

 自分がコンマ1秒でも削れば、チームの見る景色は劇的に変わるかもしれない。その微かな可能性が、焦燥と共に胸の奥で渦を巻いていた。

 

 気づけば、グラウンドから人の気配が消えていた。

 最後に一本軽く流し、トラック脇の芝生に腰を下ろす。吸い込む空気は、昼間の乾いたそれとは違い、土とゴムの匂いを濃密に含んだ湿気を帯びていた。

 見上げれば、空の朱色は静かにその彩度を落とし、深い群青の底から一番星が瞬き始めている。遠くから渡る夜風が、練習で火照った肌を優しく撫で、熱を奪っていく。

 

「……横に来て『大丈夫だよ』って笑ってくれる……ね」

 

 親友、大喜の言葉を不意に思い出す。無性に、彼女の声が聞きたくなった。

 だが千夏は、今頃まだ体育館でボールを追っているだろう。そういえば昨夜、練習の合間に差し入れのカステラを頬張る姿が、小動物のようで愛らしかったな、と──そんなことを思いながら、龍太はしばらく、遠い一番星を眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 体育館の奥、ホワイトボードの前。

 夜の湿った空気が、じっとりと肌に絡みつく。梅雨明け間もない熱が、雨上がりの湿気と混じり合い、床板に沈み、壁に染み、古びた蛍光灯の白い光をぼんやりと滲ませていた。

 

 その中で、監督の声だけが、妙に乾いて響いた。

 

「……以上が、県大会初戦のスタメンだ」

 

 淡々と告げられるその声は、無機質な刃物のように冷たく、背筋の奥をじわりと冷やしていく。名前がひとつずつ読み上げられ、そのたびに短く「はい」と返る声が重なる。淡々とした儀式のような光景。しかしその一声ごとに、南野彩の胸の奥の温度は、確実に削られていった。

 

 六人目。七人目──呼ばれない。

 気配で悟る。ああ、これで終わりだ。

 

「じゃあ、練習始めるぞ」

 

 まるで、読み終えた本の一ページを捲るような、あまりにも軽い仕草で、その宣告は終わった。心に辛うじて張っていた薄い膜が、音もなく裂ける。声も、涙も出ない。ただ、胸の奥で、何かが静かに崩落していく音だけが、確かに響いていた。

 

 ──やっぱり、か。

 

 覚悟はしていた。千夏がスタメンなのは当然だ。誰よりもストイックで、中心に立つにふさわしい選手。文句なんて言えるはずもない。

 ……それでも、どこかで「最後くらいは」と願っていた自分がいた。

 

 三年の夏。人生で、たった一度きりの、最後の夏。

 夜明け前の朝練で流した汗も、帰り道でアスファルトに擦りむいた膝の痛みも、一人で堪えた夜の涙も、一体、何のためだったというのか。答えの出ない問いが、胸の奥でじりじりと燻り始める。納得などできるはずがない。けれど、それを口にする資格が、自分にはない。

 

 夜。県大会前、最後の夜練習。

 出番がまったくないわけじゃない。ベンチに座る以上、可能性は残っている。だから身体だけは整えておく──その程度の義務感で、体育館に来た。

 

 参加は任意。人は少ない。湿った空気が漂う中、千夏は当然のようにいた。迷いも淀みもなく、黙々とシュートを打ち続けている。

 

 同じ空間にいるだけで、胸が締めつけられる。何も悪くない彼女に嫉妬を抱く自分が、嫌でたまらなかった。

 

 一時間半ほどして、残る人数はさらに減る。もうチームすら組めない。

 本当は最後まで残りたかった。けれど、このまま彼女を見続ければ、自分の中の何かが完全に崩れてしまいそうで──。

 

 彩は逃げるように体育館の扉へ向かった。汗に濡れたTシャツが背中に張りつき、不快なほど重い。

 

 ──その時だった。

 

 バン、と乾いた衝撃音。体育館の床に叩きつけられるボールの音が、湿った空気を裂いた。

 反射的に振り返る。

 

 照明の中心に、彼がいた。田中龍太。

 無駄のない動きでボールを捌き、床を踏み、バスケと向き合っている。背筋はまっすぐで、動きに一片の淀みもない。

 

 ──変わらない。目を奪う人。

 

 その圧倒的なまでの容姿も、天賦の運動神経も、人を惹きつける柔らかな人柄も。まるで、誰かが作り上げた物語の登場人物のように、すべてを持っている人。数えるほどしか言葉を交わしたことがないのに、いつの間にか、その姿を視線で追うようになっていた。別に話したいわけじゃない。ただ、遠くから見ているだけでよかった。その輝きを、記憶に静かに焼き付けるだけで、心は満たされていた。

 

 ──はずだった。

 

「ちょ、先輩っ、ムキになりすぎだって!」

 

 楽しそうな龍太の声が重なる。自然と、視線がそちらへ吸い寄せられた。

 小柄な影が、跳ねるように彼へと近づいていく。

 

 千夏だ。

 

 ボールを高く掲げる龍太。それを奪おうと、両手を大きく伸ばし、子猫のようにじゃれつく千夏。まるで、そこだけが別の光に照らされているかのような、二人だけの世界。

 

「こんなに身長差あるんだから、諦めてくださいって」

 

 くしゃりと唇を歪め、悪戯っぽく笑った龍太が、自然な仕草で千夏の頭をぽんぽんする。

 その手つきはあまりにも柔らかく、ためらいなど一片もない。

 見ているだけで、胸の奥がきゅっと詰まる。

 

 千夏は最初こそ驚いたように目を丸くしていたが、次の瞬間、堪えきれないとでも言うように、ふわりと頬を緩ませた。薄紅色の花が咲き、その色が瞬く間に両頬へと広がっていく。彼はそれを、慈しむような眼差しで見下ろしていた。特別な意味など、ないのかもしれない。けれど、あの視線と手のひらの温度は、千夏だけに注がれているのだと、誰の目にも明らかだった。

 

 ──あんなふうに見つめられて、あんなふうに触られて。惹かれないはずがない。

 

 龍太の手が離れると、千夏はほんの一瞬、名残惜しそうに視線を伏せた。

 その仕草のすべてが、二人のあいだに芽吹いた“特別”の輪郭を、容赦なく浮かび上がらせる。

 

 ──なんて、幸せそうな時間だろう。

 

 羨望は、いつしかどす黒い悔しさへと変質していた。

 自分が、ずっと焦がれ、触れたいと願っていた場所。そこに、彼女はあまりにも自然に立っている。まるで初めから、その席は彼女のために用意されていたのだと言わんばかりに。

 無意識に唇を噛みしめる。鉄の味が、じわりと口の中に広がった。

 

 

「取りあえず……あんまり無闇にジャンプしない方が良い気がしますけど」

「えっ? あっ、ご、ごめん汗臭い!?」

「違いますって!」

「? じゃあ、どうして?」

「いや……なんというか……先輩ってやっぱり着痩せするタイプな──っ!?」

「りゅ、龍太くんっ!」

「じゃ、ジャンプする先輩が悪いでしょ!!」

「す、スケベな龍太くんが悪いです!」

「このっ!」

「あ、トラベリング!」

 

 軽口が飛び交い、じゃれ合う声が体育館の空気を弾ませる。笑い声の粒が床を転がり、互いの距離をより鮮やかに描き出していく。

 その光景は、二人の世界の輪郭を、残酷なまでにくっきりと示していた。

 

 ──私には、その輪の中へ入る入口すら見えない。

 最初から、この物語に私の役は用意されていなかったかのように。

 

「…………なんで、あの子なのよ……」

 

 零れた声は、体育館の暗がりに吸い込まれていく。誰にも届かない。届かせたくもない。

 

 ──自分よりバスケが上手くて。

 自分より可愛くて。

 自分より、彼に似合っていて。

 

 だけど、それだけで「彼の隣にふさわしい」と、誰が決めたの。

 

 耳の奥で、何かが囁いた。

 それは、彼女自身が心の最も暗い、見ないふりをしてきた場所で、ずっと育ててきた感情そのものが、初めて言葉の形をとったかのような響きだった。 

 

 ──消えちゃえばいいのに。

 

 彩は、その光景から目を逸らすように、背を向けた。

 体育館の重い扉を押し開けると、夜の生温い空気が、待っていたかのように彼女を包み込む。

 帰り道は、街灯が途切れ途切れに闇を照らす、人気のない路地だった。

 古い街灯が一つ、頼りなげに瞬き、彼女の影を長く、歪に引き伸ばしている。虫の鳴く声だけが、湿った闇に響いていた。

 その時だった。

 

 ──なら壊しちゃえばいいじゃん。あんな現実。

 

 風の音に混じって、誰かの声が聞こえたような気がした。

 それは、すぐ耳元で、まるで冷たい息を吹きかけながら囁かれたかのような、あまりにも生々しい響きだった。

 

「──えっ」

 

 恐怖で身体が凍りつくはずだった。

 なのに、不思議と、その声はすんなりと心に落ちてきた。

 まるで、ずっと欲しかった言葉を与えられたかのように。ずっと探していた答えを、ようやく見つけたかのように。

 誰の声だったのか。

 振り返っても、そこにはただ、濃い闇が広がっているだけ。

 それでも、その声は確かにそこに在った。

 そして、今も彼女の内で、優しく、甘く、響き続けている。

 彩は、闇の中で、ゆっくりと口元を綻ばせた。

 

「壊しちゃえば……あの人は、私だけのものになる」

 

 

 

 

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