親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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18話

 

 

 

 熊谷スポーツ文化公園陸上競技場。

 まだ朝の光が芝を柔らかく照らしているというのに、スタンドにはすでに、保護者や応援団の姿がちらほら。今日が一日がかりの県予選の大舞台だと、空気そのものが告げていた。

 選手たちは到着するなり、恒例のテント張りに精を出す。赤、青、緑——まるで夏フェスの会場のように、カラフルな布が並んでいく。栄明も、手慣れた一年生を中心に、ササッと二張り。中高一貫ゆえの経験値で、作業は順調そのものだ。

 一方、他校の新入生たちは、ポールを逆さに差し込んで怒鳴られたり、シートが風に飛んで阿鼻叫喚になったり。

 

「なんか、ほんとキャンプやってるみたいだね」

 

 隣で、倫が呑気に言う。龍太は「まあな」と笑った。初心者組には、そう見えるらしい。

 作業を終えると、今度は役割分担。補助員の受付に走る橋本と山下。学校の受付へゴミ袋を取りに行く根岸。倫は出場者名簿にマーカーを引いている。隅では、テーブルを広げて飲み物やバナナを並べる姿も。なんだか、合宿の炊事場のようだ。

 そんな中、龍太はふと、自分の服装の違和感に気づいた。

 

「あ、やべ。ユニ着てきちゃった」

「更衣室行くか?俺も行くけど」

 

 この後アップも控えている。なるべくユニフォームは汗で濡らしたくない。若干手遅れな気もするが、根岸が気を利かせて声をかけてきた。

 

「うーん……」

 

 正直、面倒だ。

 下はまだしも、上だけなら、ここで替えれば済む。

 

「いや、いいや。ここで脱ぐわ」

「は?お前待てっ……!」

 

 根岸の制止を無視し、Tシャツを脱ぎ、ユニフォームを脱ぎ、タオルで汗を拭って、ついでにハンディファンで冷却開始。至福のひととき……のはずだった。

 

「「「きゃっ!?」」」

 

 突如として、可憐な悲鳴の三重奏が響き渡る。ハッと顔を向けると、女子部員たちがそろいもそろって顔をトマトのように真っ赤にし、視線を明後日の方向へ泳がせていた。

 龍太が「?」と首を傾げていると——

 

「あ、アンタね! ここで脱いだらダメでしょ!」

 

 先輩の部員がすごい剣幕で迫ってくるが、途中で茹でダコのように赤くなり、謎の言語を発しながら失速していく。

 何が起きているのか、と龍太が本気で首を捻った瞬間——ゴツンッ、と後頭部に、プロレスラーのチョップ並みの衝撃が走った。

 

「いだっ!?」

「脱ぐなら更衣室! 何回言えばわかるんだ、このアホは!」

 

 鉄拳の主は、顧問の鶴田だった。

 

「いや、上着一枚くらい、ここで替えた方が効率的じゃないですか」

「お前は例外だと言ってるんだ! 周囲の被害状況を見ろ!」

 

 言われて見渡すと、女子は固まり、男子は引きつった笑み。特に女子勢は、龍太の半裸にやられて、完全に石像化していた。

 

「……男の半裸って、そんなに珍しい文化遺産でしたっけ?」

「いいから、さっさと服を着ろ! おい、貴様ら、囲め! ガードしろ!」

「「「押忍!!」」」

 

 鶴田の呆れ果てた一声で、根岸たち男子部員が、まるでSPのように龍太の周りに人壁を形成する。その光景は、さながら空港に降り立った海外スターのそれだった。

 

「……無性に更衣室行きたい」

「いいから着替えろ」

 

 ——かくして、時間はせわしなく過ぎ、八時前には100mのウォーミングアップが、始まろうとしていた。

 

 アップゾーンでは、選手たちが黙々とストレッチを繰り返し、加速走を刻む。誰もが真剣そのものだ。だが、瞳の奥に潜む微かな揺れは、隠しきれない。肩を解す指先はどこかぎこちなく、吐き出す息は、いつもより浅い。

 ここにいるのは、地区では顔を合わせなかった猛者たちばかり。地区予選を勝ち抜いた者だけが辿り着ける舞台。その事実が、場の空気を、一層重く圧し掛けていた。

 視界の端に映る、強豪校のユニフォーム。そのたびに、周囲の表情はこわばり、緊張が張り詰めていく。芝を踏み締めるスパイクの音。擦れ合うジャージの音。普段なら気にも留めない音が、やけに大きく、鼓膜を打つ。

 

 ——そんな中に、明らかに異質な空気を纏う男が、一人いた。

 

 春日部第一のエース、堂園翔真。

 赤と黒のユニフォームを纏い、背筋を伸ばして立つその姿は、喧噪から切り離されたように、静謐だった。

 昨年のインターハイ100m、200m覇者。さらにジュニアオリンピックをも制した、今大会、最大の本命。

 ただそこに立つだけで、近くの選手たちの顔つきは引き締まり、空気の密度が増す。堂園は、言葉を発さない。スタートブロックを軽く踏み鳴らし、短く息を吐く。それだけで、場の緊張は、さらに一段階、深く沈んでいく。

 

「あれが堂園って人なのかな?」

「たぶん?」

「なんだよ、龍太知らねぇのかよ」

「昨日、動画で初めて見たくらいなんで」

 

 付き添いには、関という二年の先輩と、倫が来ていた。付き添いというのは、競技者のそばで、ちょっとした世話を焼く係だ。荷物を持ったり、ドリンクを勧めたり、緊張をほぐすために話しかけたり。一人いればいいが、勉強のためにと、手の空いている一年は先輩とセットで行かされる。

 

「ま、龍太ならついてけるって」

「だと良いんですけどね」

「頑張れよ」

「はい」

 

 今日が100m。明日が400mリレーと、1600mリレー。200mは来週だ。

 とりあえず龍太は、100mでのインハイ——全国大会を目標としている。

 予選はいつも通り。

 準決勝では、組の振り分けにもよるが、できれば一着を取り、決勝のシードレーンを確保する。この二本で、走りのいいイメージを完璧に身につけ、その勢いをそのまま決勝へ持ち込む。自分なりに考えた、三本それぞれのテーマだ。

 スタートライン近くでは、招集係の声が響き、ゼッケン番号を確認する短いやり取りが続く。記録用紙をめくる音、クリップボードを叩く小さな音が、選手たちの鼓動を、さらに早める。トラックのゴムの匂いと、夏草の青い匂いが入り混じり、胸の奥まで吸い込まれた。

 観客席からは、まだ始まってもいないのに、ちらほらと声援が飛ぶ。その一つ一つが背中を押すようであり、同時に、心を揺らす重荷にもなる。

 誰もが、自分の持ちタイム、フォーム、レース展開を、頭の中で反芻している。ミスは許されない。ほんのコンマ数秒の遅れが、決勝進出の切符を失う世界だ。

 

「そういえば、龍太くん」

「ん?」

 

 倫が、視線を落としてつぶやく。

 

「ミサンガ、付けてるんだね」

「あぁ、これか」

 

 龍太は、思わず右足首に視線を落とす。

 

「貰い物?」

「まあね」

「……そっか」

 

 倫は、それ以上は何も聞かなかった。相槌にしては、ほんの少しだけ、長すぎる間があった気がしたがすぐに意識をレースに向けた。

 

 空気はすぐ、競技場の熱に戻る。

 熊谷の空は、朝からじわじわと気温を上げ始めている。照り返すトラックの赤色が、今日のレースの過酷さを、予告しているようだった。

 やがて「○組の選手、スタート位置についてください」というアナウンスが響き、選手たちの意識は、一斉に一点へと収束していく——。

 

 招集所へ向かう途中、龍太はふと、視線を正面へ向けた。

 

 そこに立っていたのは——堂園翔真だった。

 赤と黒のユニフォームが、朝の光を吸い込んで、鋭く輝く。長い手足、無駄のない筋肉のつき方、そして、微動だにしない立ち姿。ただそこにいるだけで、周囲の空気が、一段冷えたように感じる。ウォームアップ中の選手たちの視線が、知らず知らずのうちに、彼へ吸い寄せられていた。

 龍太もまた、その視線を堂園へ向けた、一人だった。

 互いの視線が、一瞬、交わる。

 その刹那、龍太の胸の奥で、勝ちたいという欲求が、鮮烈に火を噴いた。

 

「第一組、招集完了——スタート地点へ」 

 

 短く鋭い声が、グラウンドに響く。

 選手たちが整列し、ゆっくりと赤いタータンの上を踏みしめていく。スパイクの金具が規則正しく地を噛み、乾いた音が連鎖しながら、夏の熱気の中へ吸い込まれていく。

 その行進に、言葉はない。緊張ゆえの口数の少なさではない。余計な感情も、雑念も、すべてを削ぎ落とし、自分の走りだけに意識を研ぎ澄ませた者たちの、沈黙だ。

 観客席のざわめきは、すでに熱を帯びていた。

 そして——アナウンスが一人の名を告げた瞬間、その熱は、一段と膨れ上がる。

 

「第四レーン、春日部第一高校——堂園翔真」

 

 赤と黒のユニフォームが、陽光を反射して、目に焼きつく。堂園は歩くたびに、周囲の空気を密にしていくようだった。見えない圧が波紋のように広がり、同じレーンを並走する者たちの背に、じわりとのしかかっていく。

 続いて、アナウンスが龍太の名を告げる。

 

「第五レーン、栄明高校——田中龍太」

 

 その瞬間、女子生徒のものと思われる甲高い歓声が、スタンドの一角から上がった。王者に向けられる畏敬とは違う、もっと個人的で、熱を帯びた声援。

 だが、今の龍太の耳には、その声援さえも雑音にしか聞こえなかった。母親の応援すら、遠い。

 スターティングブロックを微調整し、深く息を吸い込む。肺の奥まで空気を押し込み、吐き出し、また吸う。

 

 耳に届くのは、自分の鼓動と、呼吸音だけ。

 視界の端で、堂園が軽く腰を落とし、スタート姿勢を試すのが見えた。無駄のない、流麗で鋭い動き。その一挙手一投足に、ゴールまでの数十メートルが、すでに鮮明に描かれているような確信が、宿っている。

 他に、マークすべき相手はいない。

 この男に、勝つ。

 それだけだ。

 

 ——構え。

 

 世界から、音が消えた。

 乾いた号砲が、午前の空を裂いた。

 反射的に、地を蹴る。反応は、悪くない。スパイクの先端が、タータンに暴力的なまでの楔を刻み込む。

 だが、視界の右端。赤と黒のユニフォームが、まるで別次元の物理法則で動いているかのように、すっと前へ浮き出てくる。

 

(はやっ……!)

 

 焦りが、脳髄を焼く。

 加速段階なら、負けていないはずだ。その確信が、目の前の現実によって、脆くも崩れ去っていく。追いつかなければ、という強迫観念が、龍太の身体から、冷静さを奪った。

 まだだ。

 まだトップスピードじゃない。もっと前傾を保たなければ——。

 そう頭では理解しているのに、身体は、言うことを聞かない。

 速く。

 速く前へ。

 その逸る気持ちが、最悪の形で、身体を突き動かした。

 ぐっ、と上体が、起き上がってしまう。

 それは、スプリンターにとって、自殺行為にも等しい、致命的なミスだった。エネルギーが前方ではなく、上方へと無駄に逃げていく。フォームが崩れ、脚の回転だけが、空しく空転する。

 滑らかに加速していく堂園の背中が、風そのものになって、遠のいていく。一歩、また一歩と、冷酷なまでに、差が開いていく。

 

 ——こんな、遠いはずじゃ……っ。

 

 奥歯を噛み締め、残された数十メートルに、魂ごと焼き尽くす覚悟を注ぎ込む。だが、一度崩れたリズムは、戻らない。

 たった十数秒の中に刻まれた、永遠とも思える隔絶。

 最後の一歩。

 ゴールラインへ身を投げ出すように、全身を突き出す。視界が白く明滅し、呼吸の術が奪われる。膝に手をつき、肩で必死に酸素を掻き込みながら、揺らぐ意識を、必死に繋ぎ止めた。

 タイマーなんて、見る気にもなれなかった。

 ただ、レースを終えた堂園が、侮蔑とも憐憫ともつかない視線をこちらへ向け、一言だけ、吐き捨てた。

 

「……これじゃ、高梨のほうがマシだな」

 

 その名前を出されたことに、二度と払拭できぬ屈辱と、敗北の烙印を押された気がした。

 

 ——落ち着け。

 

 たかが、アイツが期待外れと評しただけだ。惑わされる必要はない。

 

 ——楽しめ。走ることを、楽しめ。楽しめ……。

 

 頭で繰り返すほどに、握った拳が、強張っていく。

 

「すごいね、龍太君! また10秒台だよ!」

 

 倫の屈託のない声が、今はひどく、遠くに聞こえた。

 

「……あぁ」

「……どうしたの?体調悪い?」

 

 心配そうに覗き込んでくる倫の視線から逃れるように、龍太は顔を伏せた。

 

「いや、大丈夫。ちょっと休憩してくるよ」

「一緒に行くよ」

「大丈夫。一人で少し考えたいから。心配かけてごめん」

 

 すっと伸ばされた倫の手を、振り払う形になりながら、龍太はよろめくように、その場を離れた。

 その背中を、倫は、かけるべき言葉を見つけられないまま、ただ見つめることしかできなかった。その瞳に、心配とは少し違う、何か思いつめたような光が宿っていたことに、龍太は気づかない。

 

 

 

 

 ベンチに深く身を沈め、龍太は空を仰いだ。まるで水底から水面を見上げるように、青い空が、どこか遠い。

 肺の奥底に溜まった空気を、ありったけ吐き出す。胸郭が軋むほどの深呼吸に、敗北の澱を乗せて押し出そうと試みるが——それは、叶わない。

 

「まだまだ、遠いな」

 

 努力が、必ずしも勝利に結びつくわけではない。そんなありふれた現実は、とうに骨の髄まで染み込んでいる。

 だからこそ、足を止めることだけは、しなかった。ただひたすらに、前を走る幻影の背中を、追い続けてきた。

 しかし、どれだけ腕を振ろうとも、その背中は、気付けば遥か彼方へと後退していく。伸ばした指先は、残像に触れることすら叶わず、空をきって、力なく胸元へ戻る。その反復のたびに、胸の底に、冷たいものが、静かに溜まっていった。

 

 ——進んでいるはずなのに、置き去りにされていく。

 

 広い海を、たった一人で漕ぐ手漕ぎボート。オールをかくたび、船は確かに前へ進む。だが、進行方向は、背中側。己の目には、映らない。目指す岸も、その距離さえもわからぬまま、ただ無心に、漕ぎ続けるしかない。

 今の自分は、きっと、そういう状態なのだろう。

 敗北の予感から逃れるように、龍太はロッカーへ、スマートフォンを取りに戻った。

 もう一度、あの走りを見よう。思考を強制的に切り替えなければ、このまま沈んでしまう。

 幸い、この時間帯に、栄明の部員のレースはない。

 一人になれる場所を探して歩いた。

 近くの日陰に立ち止まり、画面を覗き込むと、メッセージが来てた。そこには「鹿野千夏」の名前があった。

 

『頑張れ!』

 

 簡素なメッセージに、可愛らしいキャラクターが拳を突き上げるスタンプが、一つ。

 それだけなのに、胸の奥で固まっていた何かが、ふっと緩む。

 

 ——声が、聞きたい。

 

 衝動が、理性を追い越した。

 気づけば、通話ボタンの上に、指が浮いている。こんな試合の合間に、いきなり電話なんて。

 迷惑だろうか。

 キモい、と思われないだろうか。

 逡巡。

 葛藤。

 そして、抗いがたい誘惑。

 数秒が、永遠に伸びた。そして龍太が、衝動のままに、その指を画面へ落とそうとした——まさに、その刹那。

 ユニフォームの裾を、誰かが、ちょん、と引いた。

 振り返ると、いた。

 

「龍太くん」

 

 丈の長いTシャツに、ハーフパンツという、いつものスタイル。しかし、デジタル画面の向こうにいたはずの存在が、今、現実の輪郭を持って目の前にいるという事実が、龍太の思考回路を、焼き切った。

 脳内の整理がつかない。それは、机の引き出しを片付けるのとは訳が違う。消しゴムのあった場所にクリップを、クリップのあった場所に鉛筆削りを、鉛筆削りのあった場所に消しゴムを入れる。混乱が、ただ別の形の混乱へと、変わっただけだった。

 そんな龍太の表情を見て、千夏は、くすくすと鈴を鳴らすように笑った。

 

「龍太くん、面白い顔してる」

「失礼な! ……って、こんなやりとり前にもありましたね」

「うん。龍太くんに、ナンパされた時」

「ナンパって……まあ、結果的にはそうか」

 

 軽口を叩きながらも、龍太の心は、まだ現実と非現実の狭間を彷徨っていた。だが、彼女との他愛ない会話が、強張っていた思考を、少しずつ解きほぐしていく。世界の解像度が、ようやく本来のそれに、戻りつつあった。

 

「今日は午後から試合で、少しだけ時間ができたから。応援に来ちゃった」

「あ、ああ、それで」

「うん。1本目、お疲れさま」

 

 その労いの言葉が、龍太の胸に、小さな棘のように刺さった。彼女の笑顔は、いつも通り太陽のように屈託がない。

 だからこそ、苦しかった。

 

「ありがとうございます」

 

 結果は、おそらく予選通過圏内だろう。だが、今の龍太の胸を満たしているのは、安堵とは程遠い、もっとどす黒く、重たい感情だった。

 

 ——見られた。

 

 一番見られたくない相手に、一番見せたくない自分を。

 王者への焦りから冷静さを失い、上体が起き上がるという、初心者のようなミス。エネルギーが空転し、ただ必死にもがくだけの、無様な走り。

 そのすべてを、彼女は、このスタンドのどこかで、見ていたのだろうか。

 失望されただろうか。

 心の中で「たいしたことないな」と、笑われただろうか。

 次から次へと湧き上がる自己嫌悪が、龍太の喉を締め付け、言葉を奪う。何か気の利いたことを返さなければと思うのに、頭の中は、真っ白なままだ。

 沈黙が、気まずく、場に落ちる。

 その、息の詰まるような静寂を破ったのは、千夏だった。

 

「龍太くんに、これ、渡そうと思って」

 

 千夏が差し出したのは、一本のバトン。

 何度も握ってきた、自分の手の跡が染みついたものだった。

 

「これ……」

「龍太くんの忘れ物かなって思って」

「そ、そのためだけに、わざわざ……?」

「うん。それに、龍太くんのレースも見たかったから……もしかして、迷惑だったかな?」

「い、いや、そんなことは……!」

 

 反射的に否定したが、声が上ずるのを止められなかった。

 迷惑なはずがない。

 むしろ、その逆だ。

 なのに、素直に喜べない自分がいる。

 

「——大丈夫だよ」

「え……」

 

 まるで、心の奥底で悲鳴を上げていたもう一人の自分に、直接語りかけるように。

 彼女は、もう一度、優しく言った。

「龍太くんなら、きっと大丈夫だよ!」

 

 その声音に包まれた瞬間、不思議な感覚が、胸を満たす。

 冷たい海に沈んでいた身体を、誰かがそっと引きあげ、柔らかな毛布にくるんでくれたような——そんな、ぬくもりだった。

 

 問題が消えたわけじゃない。堂園との差が縮まったわけでもない。それなのに、眼前に聳えていた分厚い壁が、ふっと取り払われ、曇天の空に光が差し込んだような心地がした。灰色に沈んでいた世界に、色鮮やかな彼女の姿だけが、浮かび上がる。

 差し出されたバトンを受け取る。

 ひんやりとした金属の感触に、彼女の指先の、微かな熱が宿っているようだった。

 

「……今日、リレーの種目、ないんですけどね」

 

 我に返ってそう告げると、彼女は「えっ!? そ、そうなの!?」と素っ頓狂な声を上げて、きょとんと目を丸くした。そのあまりにも無防備な表情に、張り詰めていた龍太の心が、一気に解け、思わず噴き出すように笑ってしまう。

 

「わ、笑わないでよ!」

「すみません、つい」

 

 彼女は、やはり猫に似ている気がした。

 弱って蹲っている時にだけ、音もなく擦り寄ってきて、温かいものをそっと置いていく。かと思えば、気まぐれにこちらの心をかき乱す。その掴みどころのなさと、不意に差し出される陽だまりのような優しさが、今の龍太には、たまらなく心地よかった。

 

「……『好き』って感情は、ホントに凄いですね」

「うん、そうだね」

 

 ——そうだよ。

 

 迷ってる場合じゃない。迷ってる時間なんて、ない。

 楽しまないと。

 人生を。

 走ることを。

 死をも怖れないほどの境地まで駆り立ててゆく、ふしぎな情熱が、湧き上がってくる。その熱を逃さないように、ぎゅっと、バトンを握り締めた。

 

「ありがとう……千夏先輩」

「えっ」

 

 千夏が、驚いて、大きく目を見開く。

 

「いま……なまえ……」

 

 龍太は、照れを隠すように、ポリポリと頬をかきながら、視線をそらした。

 

「前から名前で呼ぼうか迷ってて……でも、キッカケがなかったのと、気軽に呼べる感じでもなかったので」

「そ、そんなことないと思うけど。みんな普通に呼んでくれるし」

「あるんです」

 

 視線を、バトンに落とす。

 初めは、ただの同居人。親友の、手の届かない憧れの存在。それだけだったはずなのに——。

 

「——笑顔も、声も、何気ない仕草も。気づいた時にはもう、俺にとって、この世界の何よりも綺麗で、尊いものだったから。だから、軽々しく、名前なんて、呼べませんでした」

「えっ」

 

 どうしようもなく、好きになってしまったのだから。それは、仕方のないことだと言える。

 

「じゃあ、行ってきます。バトン、ありがとうございました」

「…………」

「先輩?」

「へっ!? あ、はい!」

「はいって……変なせんぱいっ」

 

 彼は悪戯っぽく笑って、駆け出していく。

 いつも以上に爽やかに見える、その背中が遠ざかっていくのを、千夏は、黙って見つめることしかできなかった。

 赤くなった頬に手を当てたまま、しばらく、その場から動けずに。

 

 

 

 

 スタートブロックに足をかけ、指先をトラックにつけた時、龍太の心は、不思議なほど静かに凪いでいた。

 

 ——これじゃ、高梨のほうがマシだな。

 

 堂園の容赦ない一言が、脳内で反響する。

 それは、事実だ。高梨は、天性のスプリンター。神に選ばれたとしか思えない、唯一無二の才能。自分とは違う。その言葉は、龍太が泥水の中で積み上げてきた努力という名の城を、根底から踏み潰すように、容赦なかった。どれだけ手を伸ばしても、決して追いつけない背中。努力しても無意味だと、そう言われた気がした。

 それなのに——。

 

 ——龍太くんなら、大丈夫だよ。

 

 あれほど胸の奥に渦巻いていた焦燥は、まるで嵐が過ぎ去った後の湖面のように鎮まり、そこにはただ、澄み切った感覚だけがあった。掌には、彼女から手渡されたバトンの、冷たい感触が、まだ生々しく残っているようだった。

 その記憶が、彼の精神に、確固たる錨を、下ろしていた。

 

 広大な海を、一人で漕いでいた。

 目指すべき岸辺も見えず、ただ闇雲にオールを動かす、孤独な航海。でも、その向かいの席に千夏が座り、前を見据えてくれているのなら。理想の岸でも、そうじゃない岸でも、きっと、笑っていられる。彼女がそばにいる限り、どんな未来を想像しても、その景色は、大抵が幸せだと——そう思えて、仕方なかった。

 

(……負けっぱなしじゃ、格好がつかないよな)

 

 もう一度、深い海の底へ潜るダイバーのように、肺の腑まで空気を吸い込む。その瞬間、アドレナリンとは質の違う、もっと静かで、しかし抗いがたい情熱が、彼の魂を突き動かした。

 

 ——スタートは急がなくていい。

 

 不意に、監督である鶴田の言葉が脳裏に響く。これまで、己の走りの探求に没頭するあまり、他者の助言を深く求めることのなかった龍太が、自ら教えを乞うた際に与えられた、意外なほどシンプルな一言だった。

 

 ——おまえは、急ごう急ごうとして、身体が移動していないのに、足だけ速く動かして空回りしてるんだ。堂園をよく見てみろ。あいつは、そんなにスパッと切れのいい、カミソリみたいなスタートじゃねえぞ。スローだが、一歩一歩、確実に地面を押して、重心を移動して、グッグッグッと力強く進んでいるんだ。あいつは、ゼロ速度からいきなり跳ぶようなバネはない。デカくて、重たいからな。マネをしろとは言わない。でも、よく見て、考えてみるといいさ。

 

 準決勝の組分けは、再び堂園と同じだった。数レーンを隔てて、クラウチングスタートの姿勢をとる絶対王者の姿が、不思議とスローモーションのように、鮮明に見えた。彼の筋肉の動き、呼吸、そして大地を圧するような存在感。そのすべてが、鶴田の言葉を裏付けるリアルなイメージとなって、龍太の脳内に流れ込んでくる。

 急がなくて、いい。

 

 ただ——捉えろ。

 

 用意——。

 

 世界の音が、すうっと遠のいていく。

 観客の声も、風の音も、まるで分厚い水の中にいるかのように、曖昧になる。聞こえるのは、己の心臓の鼓動と、肺が空気を求める、微かな音だけ。

 号砲が、鳴った。

 それは合図というより、世界の時間が再び動き出すための、一つのきっかけに過ぎなかった。

 一歩目。

 靴底のスパイクが、ウレタンのトラックを、牙のように深く噛む感覚。

 二歩目。

 その反発力を、今度は前へ進むためのベクトルへと、変換する。

 低い前傾姿勢を保ったまま、巨大なピストンが駆動するように、身体が力強く、押し出されていく。蹴り上げた地面から返ってくる力が、まるで無重力空間にいるかのように、その身体を軽々と、持ち上げる。

 

 ——ああ、この感覚だ。

 

 急勾配の坂道を、最適なギアで駆け上がっていく時の、あの万能感。いいぞ、このまま。このまま、身体と対話するように。

 思考は消え、純粋な感覚だけが、龍太を支配していた。

 視界の端で、王者のユニフォームが、揺れている。 

 

 ——堂園が、まだすぐそこにいる。

 

 意識の片隅で、冷静な自分が囁いた。予選の走りではない。決勝を見据え、力をセーブしているのだろう。以前の自分であれば、ここで焦り力んだかもしれない。

 だが、今は違った。

 

 ——いい加減、退けよ。そこ。

 

 思考ではなく、本能が、そう命じた。

 この一本に、全てを懸ける。

 トップスピードへ。身体中のエネルギーを解放し、最後の直線へと、躍り出る。

 ゴールラインを、駆け抜けた。

 肺が、焼ける。

 視界が、白く弾ける。

 それでも——胸を満たしたのは、疲労ではなかった。何か、新しい扉の隙間から、光が差し込んでくるような。

 そんな、確信。

 だが、それと同時に、渇望が、生まれる。

 

 ——まだだ。まだ、足りない。

 

 この走りでは、まだ、あの男の背中には届かない。

 

 

 

 

 

 

 

 県予選は、四日間——土曜から火曜までの長丁場だ。

 最終日の決勝を勝ち抜いた者だけが、インターハイへの切符を手にする。

 その初日、土曜の午前。千夏たちの一試合目が、もう間近に迫っていた。

 ロッカールームには、試合前特有の張り詰めた空気が漂っている。ベンチの木目は使い込まれて色が落ち、壁に掛けられた古びた時計が、容赦なく秒を刻む。ユニフォームの布擦れ、バスケットシューズを締め直す音、控えめな笑い声と短い会話——そのすべてが、やがて始まる試合の鼓動と、混ざり合っていた。

 膝の上でタオルを折りたたんでいた千夏の視界に、スマホの画面が、ちらりと光った。

 

 画面には——『100m予選通過しました! 次は先輩の番ですよ!』の文字。

 

 脳裏に、先ほどの彼の言葉が、声となって蘇る。

 

 ——笑顔も、声も、何気ない仕草も。気づいた時にはもう、俺にとって、この世界の何よりも綺麗で、尊いものだったから。

 その言葉を思い出すだけで、胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられ、耳の奥が、熱くなる。

 

(ありがとう、龍太くん……私も頑張るね)

 

 胸の奥に、小さな炎が灯るのを感じた。『私も頑張る!』と返信して、スマホをバッグにしまう。

 ふと、足元に置いた外履き用の袋に、視線が落ちる。

 なんとなく、袋の紐を解いて中身を見た時——そこで、小さく息を止めた。

 シューズの細い紐が、途中から、ぷつりと断たれていた。

 ほつれの繊維は、不自然に揃っている。まるで、一息に切られたかのように。その断面は、時の経過でほぐれた柔らかさではなく、どこか硬質な、刃物の通った後の感触を残していた。

 

 ——これ、誰かが。

 

 ぞくり、と、首筋に冷たいものが走る。事故じゃない。そんな確信めいた直感が、一瞬、頭をかすめた。

 けれど、千夏はすぐに、その考えを打ち消す。

 

(……引っ掛けたのかな)

 

 考えすぎだ。

こんな大事な日に、わざわざ嫌なほうへ想像を転がす必要なんてない。

 

(替えを買わなきゃ)

 

 ほんのわずかな違和感を、千夏は胸の奥に沈めたまま、袋をきゅっと、結び直す。

 今は、試合に集中しなければならない。だから、この小さな棘のような胸騒ぎは、見ないふりをした。

 

 ——それが、後にどんな意味を持つのか。この時の彼女には、まだ、知る由もない。

 

「千夏、そろそろ行こう」

 

 背後から、渚の声がかかった。

 

「うん」

 

 短く応え、袋をベンチの端に、そっと置く。

 ロッカールームの扉を押し開けると、冷えた通路の空気が肌を撫で、緊張が背筋を駆け上がった。踏み出す足音ひとつひとつが、コートの熱と、歓声へと、近づいていく。

 

 

 

 

 

 

 

 ——何かが、おかしかった。

 

 絶対王者として君臨する堂園翔真は、自らの内側に生じたその微かな不協和音の正体を、掴めずにいた。

 埼玉県の予選など、彼にとっては、北関東、そして全国の頂へと続く道の、単なる通過儀礼に過ぎない。

 敵はいない。

 その絶対的な自負は、これまでの実績が裏付けてきた客観的な事実であり、揺らぐはずのないものだった。

 それなのに、盤石であるはずの精神の湖面に、まるで小石が投げ込まれたかのような、さざ波が立っている。その正体不明の違和感が、堂園の完璧な精神統一を、僅かに乱していた。

 

 決勝のレーンに立ち、隣の男に目をやる。

 栄明高校一年、田中龍太。

 陸上専門誌の新人特集で、その顔を見た記憶がある。容姿端麗、各種スポーツで鳴らしたという経歴。スター選手特有の華やかさを纏った、注目株。一年生ながら県大会の決勝に残るのだから、相応の才覚は、あるのだろう。予選で初めて同じ組で走った時、その実力の一端に触れることを、少しだけ楽しみにしていた。

 だが、結果は、拍子抜けするほど凡庸だった。

 力任せで、荒削りな走り。

 

 ——話にならない。

 

 それが、堂園の率直な評価だった。

 しかし、準決勝で何かが変わった。

 レース中盤、勝利を確信し、決勝のためにペースを落とすことだけを考えていた堂園の耳に、すぐ後ろから、あり得ないはずの音が聞こえた気がしたのだ。

 

 それは、物理的なスパイクの音ではない。もっと根源的な、魂が地面を蹴り上げるような、気配としての「足音」。

 気のせいだ、と即座に打ち消した。

 だが、一度意識してしまったその音は、彼の記憶に、不気味な爪痕を残していった。

 準決勝の後、龍太の奇妙な行動が、目に留まった。ゴール後、彼はまるで操り人形のように、膝を曲げずに突っ張ったまま、パン、パンと、リズミカルに歩いて退場していく。

 接地の感覚を忘れないための、彼なりの反芻なのだろう。

 周囲からは、嘲笑が漏れていた。

 「気色悪い」「調子に乗ってる」。

 見下せばいい。

 自分も、その他大勢と同じように、彼の滑稽な姿を一笑に付せば、それで終わるはずだった。

 だが、できなかった。

 彼のその常軌を逸した集中力、周囲の雑音を一切遮断する没入ぶりに、堂園はむしろ、一種の畏怖に近いものを、感じていた。

 

 そして今、決勝のスタートラインに立つ田中龍太は、もはや、別人だった。予選の時に感じた軽薄なオーラは消え失せ、代わりに、内側に計り知れない熱量を凝縮させたような、静謐で異様な雰囲気を、放っている。それは、挑戦者の殺気とは違う。もっと純粋で、底が見えない、何か。その得体の知れなさが、堂園の皮膚を粟立たせた。

 

 ——何かが、おかしかった。

 

 号砲一閃。

 レースが始まる。いつも通り、堂園は完璧なスタートを切った。重戦車のような加速で他を圧倒し、勝利へのレールを突き進む。敵はいない。いるはずが、ない。

 そう確信しかけた瞬間—— 

 

「っ!?」

 

 また、あの足音が聞こえた。

 今度は、幻聴ではない。すぐ隣で、空気を切り裂く、確かな気配として。焦りが、王者の心に、初めて黒い染みのように広がった。

 近くなる。

 すぐそこまで、来ている。

 あり得ない。

 この俺が、県予選で、一年生相手に、追い詰められている。

 後半こそが、俺の領域だぞ。

 それはもはや焦りではなく、自らの聖域を侵犯されることへの、原始的な恐怖に近かった。

 ゴールラインを、ほとんど無意識に駆け抜ける。電光掲示板のタイムを確認するより先に、堂園は衝動的に、隣のレーンを振り返っていた。

 息を切らし、膝に手をつく自分とは対照的に、龍太は、ただ静かに、空を見上げていた。

 そして。

 ふっと、彼は、笑った。

 それは歓喜の雄叫びでも、安堵のため息でもない。まるで、自分自身のまだ見ぬ可能性と対話し、その邂逅を喜ぶかのような、純粋で、だからこそ常軌を逸した、笑みだった。

 堂園は、その光景に、背筋が凍るような戦慄を覚えた。無数の泡粒のようなものが、全身の皮膚を、逆撫でに走り抜けていく。

 

 ——怖い? 俺が? 

 

「ありがとう、先輩」

 

 風の音にかき消されそうな、微かな声が、聞こえた気がした。それが誰に向けられた言葉なのか。幻聴だったのかもしれない。

 だが、彼の唇は、続けてはっきりと、こう動いた。 

 

「俺、まだまだ速くなれそうです」

 

 その独白は、勝者である堂園に向けられたものではない。だが、彼のプライドの最も深い部分を、鋭利な刃物で抉るには十分すぎた。

 堂園は、咄嗟にその場から離れた。

 勝ったのは自分だ。

 タイムも、着順も、俺が一位だ。

 それなのに、この胸を焼くような敗北感はなんだ。

 

「流石だな、翔真」

 

 付き人のように帯同しているチームメイトが、労うように声をかけてくる。その無神経な一言が、堂園の中で燻っていた感情を、爆発させた。

 

「黙れ」

「えっ……」 

 

 凍り付くチームメイトを置き去りにして、彼は一人、歩き出す。

 

 ——関東では、影すら踏ませない。

 

 あの不気味な足音を、絶望の淵に、叩き落としてやる。

 堂園翔真の心の中で、初めて特定の個人に向けられた、黒く、そして熱い炎が、燃え上がった。

 

 

  

「……あいつ、化け物かよ」

 

 乾いた唇から漏れたのは、感嘆とも呆れともつかない、率直な呟きだった。三浦の視線は、まだ熱気の醒めやらぬトラックに、釘付けになっている。電光掲示板に表示されたタイムが、信じがたい事実を、突きつけていた。

 一位、堂園翔真、10秒21。二位、田中龍太、10秒45。

 一年生の時から、嫌というほど、その背中を見てきた。堂園翔真という存在が、同じ高校生というカテゴリーに属していること自体が、世界のバグであるかのような、あの絶望的なまでの速さを。特に彼の真価が発揮されるのは、レース後半。そこからさらに一段階ギアを上げ、他者の心を折るように突き放していく走りは、もはや暴力的なまでの、芸術だった。

 それなのに。今、目の前で行われた決勝レースで、絶対王者である堂園は、ゴール直前、明らかに後続を警戒していた。いや、警戒せざるを、得なかったのだ。一人の後輩、田中龍太によって。

 

「龍太くん、本当に速くなったね。堂園くんが追い上げられてるのなんて、初めて見た」

 

 いつの間にか隣に立っていた美咲が、弾んだ声で言う。三浦は、彼女の方を振り返ることもなく、フィールドを見つめたまま、応えた。

 

「あいつには、恵まれた素質がある。人がうらやむような、スプリンターの身体がある。ハードで地味な練習に耐えられる、心身がある。どのスポーツもそうだろうけど、陸上は特に、地味な努力の、気が狂うような積み重ねだからな。どこまで練習できるかってのも、才能の一部だ。あいつには、それがある」

「そうね。ずっと、頑張ってきたもんね」

「ああ。ホント、羨ましいくらいの、才能の塊だ。……どっちも化け物だよ」

 

 大げさに肩をすくめてみせるが、その瞳は熱を帯びたまま、トラックの上の二つの残像を、追い続けていた。

 ちょうどその時、フィールドの片隅で、別のドラマが終わろうとしていた。男子走り高跳びの決勝。最後の跳躍に失敗し、関東大会への出場権を逃した他校の三年生が、バーの前で崩れるように膝をつき、肩を震わせている。仲間たちが駆け寄り、その背中を叩くが、彼の嗚咽は止まらない。

 三浦は、その光景から目を逸らさなかった。

 

 ——あれは、いずれ訪れる、自分自身の姿かもしれない。

 

 そう思うと、胸の奥が冷たくなる。

 美咲は、そんな彼の横顔を、胸が締め付けられるような想いで見つめていた。

 中学一年の夏、まだ互いに幼さを残していた頃から、ずっと隣にいた。だから、知っている。彼がどれだけの時間を、痛みを、そして絶望を、このトラックに捧げてきたかを。

 いつしか龍太と親しくなり、兄貴分のように振る舞いながらも、その底知れない才能に、人知れず嫉妬し、涙を流した夜があったことを——美咲だけは、知っていた。

 

 才能は、無自覚に周囲を傷つける。

 そんなこと、身をもって知っているはずなのに。天賦の才を持たない凡人が、それでも、走ることをやめられなかった。そんな愚直で、不器用な男の横顔が、美咲の心を締め付ける。

 

「……いよいよ、あいつにも、置いていかれちまったな」

 

 自嘲気味に呟かれた言葉に、美咲は、食い気味に反論する。

 

「何言ってるの。元から、足元にも及んでないでしょ」

「うるせぇよ」 

 

 憎まれ口を叩きながらも、その声には、力がなかった。自身の100mは、準決勝で潰えた。この決勝を目の当たりにして、何かが、決定的に自分の中から削り取られていく感覚があった。飄々とした虚勢の仮面の下で、寂寥、悔恨、そして、ほんの僅かな安堵。言葉にならない感情が、彼の瞳の奥で、複雑な色合いを描いていた。

 

「……明日は、リレーでしょ?」

「ああ。俺にとって、一番関東に近い種目だ。……けど、どうだろうな」

「何よ、弱気になって」

「……そうかもな」

 

 一体、こんな時、どんな言葉をかければいいのだろう。

 美咲は、かけるべき言葉を見つけられずに、ただ、立ち尽くしていた。「頑張って」という安易な激励は、彼のプライドを傷つけるだけだろう。「気にしないで」という慰めは、彼がこれまで費やしてきた膨大な時間を、否定することになる。

 

 ふと、予選の後、龍太のそばにいた千夏の姿が、脳裏をよぎる。なんてことない会話に見えたが、あるいは彼女は、同じアスリートとして龍太の痛みを正確に理解し、彼が最も欲していた「大丈夫」という言葉を、何のてらいもなく、届けたのかもしれない。

 

 自分には、それが、できるだろうか。

 

 人生を捧げるほどの熱量で、何かに打ち込んだ経験のない自分が、彼の聖域であるトラックの上での絶望を、本当に理解できるのだろうか。わかったふりをして言葉を紡いだところで、それは空虚な音として響くだけではないか。彼を救うどころか、その孤独を、より一層深めてしまうのではないか。

 自分には、彼を救う言葉を放つ資格など、ないのかもしれない。

 そんな無力感と焦燥が、美咲の胸を、締め付ける。その葛藤を打ち破るように、不意に、声がかけられた。

 

「三浦さん、この後、少し時間ありますか?」

 

 そこに立っていたのは、先ほどまでトラックの上で異次元の走りを見せていた張本人、龍太だった。三浦は動揺を悟られまいと、慌てて心を、普段の仮面の内側へと押し込めた。

 

「おう。あるけど、どうした?」

「バトン合わせ、やりませんか。監督には、許可取ってあります」

「……正気か、お前。今日、決勝まで三本全力で走ったんだぞ?」

「正気ですよ。だからこそ、今のこの感覚、身体が覚えてるうちに、合わせたいんです。……美咲さん、少しだけ三浦さん借りますね」

「う、うん。……いいけど」

 

 有無を言わさぬ勢いで、龍太は、すっと赤いバトンを三浦に手渡した。その手には、まだレースの熱が、残っているようだった。

 

「関東、絶対に行きましょうね」

「——っ、な、なんだよ急に」

「急じゃないです。夢なんでしょ?あの青いタータンを踏むの。俺が、絶対に1番で、三浦さんにバトン渡しますから」

「——っ」

「一緒に踏みましょうよ。あの、タータン」

 

 その真っ直ぐすぎる言葉が、刃のように、三浦の心の壁を貫いた。辛うじて保っていた、諦念という名の堰を、いとも容易く、決壊させた。

 

「タイムが足りてないなんて、百も承知です。部の誰も、俺たちが全国へ行けるなんて思ってない。でも、だからいいんじゃないですか。ここで俺たちが勝ったら——最高に格好いい、ヒーローですよ」

 

 その言葉は、三浦が自分自身に、もう何年も前から言い聞かせてきたはずの、呪いのような言葉だった。

 才能がない。

 努力だけでは越えられない壁がある。そんな現実は、とっくに受け入れたつもりでいた。これで終わりだ、と。自分の陸上人生に、静かに幕を下ろす準備をしていたはずだった。

 

 それなのに。

 

 目の前の、才能に満ち溢れた後輩が、何のてらいもなく、自分がとうに捨て去ったはずの夢を、再び、突きつけてくる。

 

(やめろ。もう、期待させるな。俺はもう、終わったんだ)

 

 そう、思おうとした。

 

 ——なのに。

 

 灰の下で、とっくに消したはずの何かが、ちりっと、熱を持った。それをいとも容易く引きずり出した後輩に、どうしようもないほどの感情が、込み上げてくる。

 

「……っ、馬鹿野郎……! そんなこと、俺が一番……! 俺が一番、わかってんだよ……!」

 

 喉の奥から込み上げる熱い塊を、懸命に飲み下す。視界が、滲む。それを悟られまいと、奥歯を、強く、噛み締めた。

 

「あれ、三浦さん、もしかして泣い——いでっ!?」

「うるせぇ! とっとと、アップするぞ! 今日の感覚なら、明日は受け渡しの位置、一歩詰めるからな。覚悟しとけよ!」

「はい!」

 

 怒鳴りつけるように言い放ち、龍太の背中を叩いて、歩き出す。

 

「つーか、なんでお前が今、バトン持ってんだよ」

「これは……お守り、みたいなもんです。勝利の女神様からの、加護をもらいました」

「……なんだそのRPGゲームみたいなバフ。意味わかんねぇよ」

 

 軽口を叩き合いながら遠ざかっていく二人の後ろ姿を、美咲は、潤んだ瞳で見送っていた。

 ふと、夏の日を、思い出す。

 練習後、二人でグラウンドの隅で話していた、あの光景。

 

『俺、三浦さんみたいに、なりたいんすよ』

『やめとけって。俺みたいになったら、才能ねえなって、絶望するだけだぞ』

『それでも、走り続けてるじゃないすか。俺、そういうの、すげえ格好いいと思います』

 

 あの時と、同じだ。

 生意気で、真っ直ぐで、そしてどうしようもなく優しい後輩と、ぶっきらぼうな優しさで、それに応える、自分の恋人。

 堪えきれなくなった涙が、頬を、伝う。

 指先でそれを乱暴に拭い、美咲は、小さく呟いた。

 

「ばか……。なんで私が、泣いてるのよ」

 

 

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