親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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18話

 

 

 

 熊谷スポーツ文化公園陸上競技場。

 まだ朝の光が芝を柔らかく照らしているというのに、スタンドにはすでに保護者や応援団の姿がちらほら。今日が一日かけて行われる県予選の大舞台だと、空気が告げている。

 選手たちは到着するなり、恒例のテント張りに精を出す。赤や青や緑と、まるで夏フェス会場のようにカラフルな布が並んでいく。龍太たち栄明も、手慣れた一年生を中心にササッと二張り。中高一貫ゆえ経験豊富、作業は順調そのものだ。一方で他校の新入生たちは、ポールを逆さに差し込んで怒鳴られたり、シートが風に飛んで阿鼻叫喚になったり。

 

「なんか、ほんとキャンプやってるみたいだね」

 

 隣の倫が呑気に言う。龍太は「まあな」と笑った。初心者組にはそう見えるらしい。

 作業を終えると、今度は役割分担。補助員の受付に走る橋本と山下、学校の受付へゴミ袋を取りに行く根岸。倫は出場者名簿にマーカーを引いている。隅ではテーブルを広げ、飲み物やバナナを並べる姿もあった。なんだか合宿の炊事場のようだ。

 

 そんな中、龍太はふと自分の服装の違和感に気づいた。

 

「あ、やべ。ユニ着てきちゃった」

「更衣室行くか? 俺も行くけど」

 

 この後アップも控えているため、なるべくユニフォームは濡らしたくない。若干手遅れかもしれないが、根岸が気を聞かせて声をかけてくる。

 

「うーん……」

 

 正直、面倒だ。下はまだしも、上だけならここで替えれば済む。

 

「いや、いいや。ここで脱ぐわ」

「は? お前待てっ……!」

 

 根岸の制止を無視し、Tシャツを脱ぎ、ユニフォームを脱ぎ、タオルで汗を拭ってついでにハンディファンで冷却開始。至福のひととき……のはずだった。

 

「「「きゃっ!?」」」

 

 突如として、可憐な悲鳴の三重奏が響き渡る。ハッと顔を向けると、女子部員たちがそろいもそろって顔をトマトのように真っ赤にし、視線を明後日の方向に泳がせていた。

龍太が「?」と首を傾げていると、

 

「あ、アンタね! ここで脱いだらダメでしょ!」

 

 先輩の部員がすごい剣幕で迫ってくるが、途中で茹でダコのように赤くなり、謎の言語を発しながら失速していく。何が起きているのか、と龍太が本気で首を捻った瞬間――ゴツンッ、と後頭部にプロレスラーのチョップ並みの衝撃が走った。

 

「いだっ!?」

「脱ぐなら更衣室! 何回言えばわかるんだ、このアホは!」

 

 鉄拳の主は顧問の鶴田だった。

 

「いや、上着一枚くらい、ここで替えた方が効率的じゃないですか」

「お前は例外だと言ってるんだ! 周囲の被害状況を見ろ!」

 

 言われて見渡すと、女子は固まり、男子は引きつった笑み。特に女子勢は龍太の半裸にやられて石像化していた。

 

「……男の半裸って、そんなに珍しい文化遺産でしたっけ?」

「いいから、さっさと服を着ろ! おい、貴様ら、囲め! ガードしろ!」

「「「押忍!!」」」

 

 鶴田の呆れ果てた一声で、根岸たち男子部員が、まるでSPのように龍太の周りに人壁を形成する。その光景は、さながら空港に降り立った海外スターのそれであった。

 

「……無性に更衣室行きたい」

「いいから着替えろ」

 

 ──かくして時間はせわしなく過ぎ、八時前には100mのウォーミングアップが始まろうとしていた。

 

 アップゾーンでは、選手たちが黙々とストレッチを繰り返し、加速走を刻む。誰もが真剣そのものだ。だが、瞳の奥に潜む微かな揺れは隠しきれない。肩を解す指先はどこかぎこちなく、吐き出す息はいつもより浅い。

 ここにいるのは、地区では顔を合わせなかった猛者たちばかりだ。

 地区予選を勝ち抜いた者のみが辿り着ける舞台。

 その事実が、場の空気を一層重く圧し掛けていた。

 視界の端に映る強豪校のユニフォーム。そのたびに、周囲の表情はこわばり、緊張が張り詰めていく。

 芝を踏み締めるスパイクの音。擦れ合うジャージの布の音。普段なら気にも留めない音が、やけに大きく鼓膜を打つ。

 

 ──そんな中に、明らかに異質な空気を纏う男が一人いた。

 

 春日部第一のエース、堂園翔真。

 赤と黒のユニフォームを纏い、背筋を伸ばして立つその姿は、喧噪から切り離されたように静謐である。

 昨年のインターハイ100m、200m覇者。さらにジュニアオリンピックをも制した、今大会最大の本命。

 ただそこに立つだけで、近くの選手たちの顔つきは引き締まり、空気の密度が増す。

 堂園は言葉を発さない。スタートブロックを軽く踏み鳴らし、短く息を吐く。

 それだけで、場の緊張はさらに一段階、深く沈んでいく。

 

「あれが堂園って人なのかな?」

「たぶん?」

「なんだよ、龍太知らねぇのかよ」

「昨日動画で初めて見たくらいなんで」

 

 付き添いには、関という2年の先輩と凛が来ていた。付き添いというのは、競技者のそばにいて、ちょっとした世話を焼く係だ。荷物を持ったり、ドリンクを勧めたり、緊張をほぐすために話しかけたりする。一人いればいいが、勉強のためということで手の空いている一年生は先輩とセットで行かされる。

 

「ま、龍太ならついてけるって」

「だと良いんですけどね」

「頑張れよ」

「はい」

 

 今日が100m。明日が400mリレー、1600mリレー。200mは来週だ。

 とりあえず龍太は、100mでのインハイを目標としている。いわゆる全国大会だ。

 予選ではいつも通り。準決勝では、組の振り分けにもよるが、できれば1着になり、決勝のシードレーンを確保すること。この2本で走りのいいイメージを完璧に身につけ、そのイメージと勢いをそのまま持って決勝で勝負すること。自分なりに考えた、3本のそれぞれのテーマだ。

 

 スタートライン近くでは、招集係の声が響き、ゼッケン番号を確認する短いやり取りが続く。

 記録用紙をめくる音や、クリップボードを叩く小さな音が、選手たちの鼓動をさらに早める。

 競技場特有の、トラックのゴムの匂いと夏草の青い匂いが入り混じり、胸の奥まで吸い込まれる。

 

 観客席からは、まだ始まってもいないのにちらほらと声援が飛ぶ。その一つ一つが背中を押すようであり、同時に心を揺らす重荷にもなる。

 誰もが自分の持ちタイム、フォーム、レース展開を頭の中で反芻している。

 ミスは許されない。

 ほんのコンマ数秒の遅れが、決勝進出の切符を失う世界だ。

 

「そういえば、龍太くん」

「ん?」

 

 凛が視線を落としてつぶやく。

 

「ミサンガ、付けてるんだね」

「あぁ、これか」

 

 龍太は思わず右足首に視線を落とす。

 

「貰い物?」

「まあね」

「……そっか」

 

 凛はそれ以上何も聞かず、空気はすぐ競技場の熱に戻った。

 熊谷の空は、朝からじわじわと気温を上げ始めている。

 照り返すトラックの赤色が、今日のレースの過酷さを予告しているようだった。

 やがて「〇組の選手、スタート位置についてください」というアナウンスが響き、選手たちの意識は一斉に一点へと収束していく──。

 

 龍太は、招集所へ向かう途中、ふと視線を正面に向けた。

 そこに立っていたのは──堂園翔真だった。

 赤と黒のユニフォームが、朝の光を吸い込んで鋭く輝く。

 長い手足、無駄のない筋肉のつき方、そして微動だにしない立ち姿。

 ただそこにいるだけで、周囲の空気が一段冷えたように感じる。

 ウォームアップ中の選手たちの視線が、知らず知らずのうちに彼へ吸い寄せられていた。

 

 龍太もまた、その視線を堂園に向けた一人だった。

 だが、彼の存在感もまた、この場の空気を揺らすに足るものがある。

 嘆声の整った顔立ち──切れ長の目と通った鼻筋は、遠目にも印象的で、無言でも周囲の視線を引き寄せる。中学時代には全中で四位に入った実績を誇り、その走力は今も磨かれ続けている。

 さらに、180センチを超える均整の取れた長身と無駄のない筋肉は、モデルを思わせるほどの洗練を漂わせ、立っているだけで場の輪郭を少し変えてしまう。

 

 ただ──

 堂園翔真の圧は、その龍太をも黙らせる何かを持っていた。

 全国の頂点を知る者だけが纏う静かな覇気。

 互いの視線が一瞬交わったとき、龍太の胸の奥で、勝ちたいという欲求が鮮烈に火を噴いた。

 

 

 

 

 

 

「第一組、招集完了──スタート地点へ」

 

 短く鋭い声がグラウンドに響く。

 選手たちが整列し、ゆっくりと赤いタータンの上を踏みしめていく。スパイクの金具が規則正しく地を噛み、乾いた音が連鎖しながら、夏の熱気の中に吸い込まれていく。

 その行進に、言葉はない。

 緊張ゆえの口数の少なさではない。

 余計な感情も雑念も、すべてを削ぎ落とし、自分の走りだけに意識を研ぎ澄ませた者たちの沈黙だ。

 観客席のざわめきは、すでに熱を帯びていた。

 そして──アナウンスが一人の名を告げた瞬間、その熱は一段と膨れ上がる。

 

「第四レーン、春日部第一高校──堂園翔真」

 

 赤と黒のユニフォームが、陽光を反射して目に焼きつく。

 堂園は歩くたびに、周囲の空気を密にしていくようだった。まるで見えない圧が波紋のように広がり、同じレーンを並走する者たちの背にじわりとのしかかっていく。

 

 続いて、アナウンスが龍太の名を告げる。

 

「第五レーン、栄明高校──田中龍太」

 

 その瞬間、女子生徒のものと思われる甲高い歓声が、スタンドの一角から上がった。それは王者に向けられる畏敬の念とは違う、もっと個人的で、熱を帯びた声援。だが、今の龍太の耳には、その声援さえもが雑音にしか聞こえなかった。母親の応援すらも。

 スターティングブロックを微調整し、深く息を吸い込む。肺の奥まで空気を押し込み、吐き出し、また吸う。耳に届くのは、自分の鼓動と呼吸音だけ。

 視界の端で、堂園が軽く腰を落とし、スタート姿勢を試すのが見えた。無駄のない、流麗で鋭い動き。その一挙手一投足に、ゴールまでの数十メートルがすでに鮮明に描かれているような確信が宿っている。

 他にマークすべき相手はいない。

 この男に、勝つ。それだけだ。

 

 ──構え。

 

 世界から、音が消えた。

 

 乾いた号砲が午前の空を裂いた。

 

 反射的に地を蹴る。反応は悪くない。スパイクの先端がタータンに暴力的なまでの契約を刻み込む。

だが、視界の右端、赤と黒のユニフォームは、まるで別次元の物理法則で動いているかのように、すっと前へ浮き出てくる。

 

(はやっ……!)

 

 焦りが、脳髄を焼く。

 加速段階なら負けていないはずだ。その確信が、目の前の現実によって脆くも崩れ去っていく。

 追いつかなければ、という強迫観念が、龍太の身体から冷静さを奪った。

 まだだ。

 まだトップスピードじゃない。もっと前傾を保たなければ。

 そう頭では理解しているのに、身体は言うことを聞かない。

 速く、速く前へ。

 その逸る気持ちが、最悪の形で身体を突き動かした。

 ぐっ、と上体が起き上がってしまう。

 それはスプリンターにとって自殺行為にも等しい、致命的なミスだった。エネルギーが前方ではなく、上方へと無駄に逃げていく。フォームが崩れ、脚の回転だけが空しく空転する。

 滑らかに加速していく堂園の背中が、風そのものになって遠のいていく。

 一歩、また一歩と、冷酷なまでに差が開いていく。

 

 ――こんな遠いはずじゃ……っ

 

 奥歯を噛み締め、残された数十メートルに魂ごと焼き尽くす覚悟を注ぎ込むが、一度崩れたリズムは戻らない。    

 たった十数秒の中に刻まれた、永遠とも思える隔絶。

 最後の一歩。ゴールラインへ身を投げ出すように、全身を突き出す。

 視界が白く明滅し、呼吸の術が奪われる。膝に手をつき、肩で必死に酸素を掻き込みながら、揺らぐ意識を必死に繋ぎ止めた。

 タイマーなんて、見る気にもなれなかった。

 ただ、レースを終えた堂園が、侮蔑とも憐憫ともつかない視線をこちらに向け、一言だけ、吐き捨てた

 

「……これじゃ、高梨のほうがマシだな」

 

 吐き捨てられたような言葉に、二度と払拭できぬ屈辱と敗北の烙印を押された気がした。

 落ち着け。

 たかがアイツが期待しただけだ。

 惑わせられる必要はない。

 案じろ。

 走ることを楽しめ。

 楽しめ……。

 

 頭で繰り返すほどに、握った拳が強張っていく。

 

「すごいね、龍太君! また10秒台だよ!」

 

 倫の屈託のない声が、今はひどく遠くに聞こえた。

 

「……あぁ」

「……どうしたの? 体調悪い?」

 

 心配そうに覗き込んでくる倫の視線から逃れるように、龍太は顔を伏せた。

 

「いや、大丈夫。ちょっと休憩してくるよ」

「一緒に行くよ」

「大丈夫。一人で少し、考えたいから。心配かけてごめん」

 

 すっと伸ばされた倫の手を振り払う形になりながら、龍太はよろめくようにその場を離れた。その背中を、倫は、かけるべき言葉を見つけられないまま、ただ見つめることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 ベンチに深く身を沈め、龍太は空を仰いだ。まるで水底から水面を見上げるように、青い空がどこか遠い。

 肺の奥底に溜まった空気を、ありったけ吐き出す。胸郭が軋むほどの深呼吸に、敗北の澱を乗せて押し出そうと試みるが、それは叶わない。

 

「まだまだ、遠いな」

 

 努力が必ずしも勝利に結びつくわけではない。

 そんなありふれた現実は、とうに骨の髄まで染み込んでいる。

 だからこそ、足を止めることだけはしなかった。ただひたすらに、前を走る幻影の背中を追い続けてきた。

 しかし、どれだけ必死に腕を振ろうとも、その背中は気付けば遥か彼方の水平線へと後退していく。伸ばした指先は、その残像に触れることすら叶わず、掴んだ空虚さと共に力なく胸元へ戻る。その反復のたびに、心の底に鉛色の冷水が静かに満ちていき、やがて臓腑を浸し、心臓そのものを鈍く圧迫するのだ。

進んでいるはずなのに、世界から置き去りにされていく感覚。自分が走っているのは果たして正しい道なのか、それとも知らぬ間に奈落へと続く逸れた路地を全力疾走しているのか──確信など、どこにもない。ただ「止まるな」という焦燥だけが、精神と肉体を同時に削り取っていく。

 

 ふと、脳裏に広大な水面をたった一人で進む、手漕ぎボートの幻影が浮かんだ。オールをかくたび、船は確かに前へ進む。だが、進行方向は背中側、己の目には映らない。目指すべき岸辺も、その距離さえもわからぬまま、ただひたすらに、無心に漕ぎ続けるしかない。そんな、出口のない労働にも似ていた。

 

 敗北の予感という名の亡霊から逃れるように、龍太はロッカーに置いたスマートフォンを取りに戻った。

 もう一度、あの走りを見よう。

 思考を強制的に切り替えなければ、このまま沈んでしまう。

 幸い、この時間帯に栄明の部員のレースはない。一人になれる場所を探して歩いていると、不意にポケットの中でデバイスが震えた。

 近くの日陰に立ち止まり画面を覗き込むと、そこには「鹿野千夏」の名前があった。

 

『頑張れ!』

 

 簡素なメッセージに、可愛らしいキャラクターが拳を突き上げるスタンプが一つ。

 それだけなのに、胸の奥で固まっていた何かが、ふっと緩む。衝動的に、通話ボタンを押しそうになる指を、すんでのところで押しとどめた。

 頭を振り、雑念を払おうとした瞬間、彼女から与えられた「お守り」の存在を思い出す。

 

「確か……」

 

 ホーム画面から、千夏に「困ったときに役に立つから」とインストールされたAIチャットアプリを起動する。半信半疑のまま、祈るような気持ちで、震える指で文字を打ち込んだ。

 

『好きな人と、今すぐ話したいんですけど、いきなり電話は変でしょうか?』

 

 数秒の間を置いて、滑らかな文章が画面に表示される。

 

『素晴らしいご質問ですね。「好きな人にいきなり電話をかけたい」という衝動は、とても自然な感情です。しかし同時に、「これは迷惑ではないだろうか?」という不安がよぎるのも、相手を大切に想っている証拠と言えるでしょう』

 

 驚くほど人間味のある、寄り添うようなテキスト。感心しながら読み進めると、普段から頻繁に連絡を取り合う関係性であれば、不意の電話も決して不自然ではない、との見解が示されていた。

 

『不自然じゃないかもしれないけど、キモいって思われませんか?』

『勿論です。良ければ、会話の糸口も教えましょうか?』

 

 ご丁寧に『最近の部活はどう?』といった、会話の糸口まで提案してくれている。

 

「いや、だからといって、電話は……」

 

 逡巡。葛藤。そして、抗いがたい誘惑。

 数秒が永遠に伸びたかのように感じた後、龍太は衝動のままに画面の緑のアイコンへ指を伸ばしかけた。──その、まさに刹那。ユニフォームの裾を、誰かが、ちょん、と引いた。

 振り返ると、そこに彼女がいた。

 

「龍太くん」

 

 丈の長いTシャツにハーフパンツという、いつものスタイル。しかし、デジタル画面の向こうにいたはずの存在が、今、現実の輪郭を持って目の前にいるという事実が、龍太の思考回路を焼き切った。

 脳内の整理がつかない。それは机の引き出しを片付けるのとは訳が違う。消しゴムのあった場所にペーパークリップを、ペーパークリップのあった場所に鉛筆削りを、鉛筆削りのあった場所に消しゴムを入れる。混乱が、ただ別の形の混乱へと変わっただけだった。

 そんな龍太の表情を見て、千夏はくすくすと鈴を鳴らすように笑った。

 

「龍太くん、面白い顔してる」

「失礼な! ってこんなやりとり前にもありましたね」

「うん。龍太くんにナンパされた時」

「ナンパって……まあ、結果的には、そうか」

 

 軽口を叩きながらも、龍太の心はまだ現実と非現実の狭間を彷徨っていた。だが、彼女との他愛ない会話が、強張っていた思考を少しずつ解きほぐしていく。世界の解像度が、ようやく本来のそれに戻りつつあった。

 

「今日は午後から試合で、少しだけ時間ができたから。応援に来ちゃった」

「あ、ああ、それで」

「うん。1本目、お疲れさま」

 

 その労いの言葉が、龍太の胸に小さな棘のように刺さった。彼女の笑顔はいつも通り、太陽のように屈託がない。だからこそ、苦しかった。

 

「ありがとうございます」

 

 結果は、おそらく予選通過圏内だろう。だが、今の龍太の胸を満たしているのは、安堵とは程遠い、もっとどす黒く、重たい感情だった。

 

 ――見られた。

 

 一番見られたくない相手に、一番見せたくない自分を。

 王者への焦りから冷静さを失い、上体が起き上がるという、初心者のようなミス。エネルギーが空転し、ただ必死にもがくだけの無様な走り。

 そのすべてを、彼女はこのスタンドのどこかで、見ていたのだろうか。

 失望されただろうか。

 心の中で「たいしたことないな」と、笑われただろうか。

 次から次へと湧き上がる自己嫌悪が、龍太の喉を締め付け、言葉を奪う。何か気の利いたことを返さなければと思うのに、頭の中は真っ白なままだ。沈黙が、気まずく場に落ちる。

 その、息の詰まるような静寂を破ったのは、千夏だった。

 

「龍太くんにこれ、渡そうと思って」

 

 千夏が差し出したのは一本のバトン。

 何度も握ってきた、自分の手の跡が染みついたものだった。

 

「これ……」

「龍太くんの忘れ物かなって思って」

「そ、そのためだけに、わざわざ……?」

「うん。それに、龍太くんのレースも見たかったから……もしかして、迷惑だったかな?」

「い、いや、そんなことは……!」

 

 反射的に否定したが、声が上ずるのを止められなかった。迷惑なはずがない。むしろ、その逆だ。なのに、素直に喜べない自分がいる。

 

「──大丈夫だよ」

「え……」

 

 まるで、心の奥底で悲鳴を上げていたもう一人の自分に直接語りかけるように。

 彼女は、もう一度、優しく言った。

 

「龍太くんなら、きっと大丈夫だよ!」

 

 その声音に包まれた瞬間、不思議な感覚が胸を満たす。

 冷たい海に沈んでいた身体を、誰かがそっと引きあげ、柔らかな毛布にくるんでくれたような──そんなぬくもりだった。

 問題が消えたわけじゃない。堂園との差が縮まったわけでもない。それなのに、眼前に聳えていた分厚い壁がふっと取り払われ、曇天の空に光が差し込んだような心地がした。灰色に沈んでいた世界に、色鮮やかな彼女の姿だけが浮かび上がる。

 差し出されたバトンを受け取る。ひんやりとした金属の感触に、彼女の指先の微かな熱が宿っているようだった。

 

「……今日、リレーの種目、ないんですけどね」

 

 我に返ってそう告げると、彼女は「えっ!? そ、そうなの!?」と素っ頓狂な声を上げて、きょとんと目を丸くした。そのあまりにも無防備な表情に、張り詰めていた龍太の心が一気に解け、思わず噴き出すように笑ってしまった。

 

「わ、笑わないでよ!」

「すみません、つい」

 

 彼女は、やはり猫に似ている気がした。

 こちらが弱り、蹲っている時にだけ、音もなく擦り寄ってきて、温かい言葉をそっと置いていく。かと思えば、すぐに気まぐれな素振りを見せて、こちらの心をかき乱す。追いかければ逃げてしまいそうで、けれど放っておけば、また向こうからやって来る。

 その掴みどころのない距離感と、不意に差し出される陽だまりのような優しさが、今の龍太には、たまらなく心地よかった。

 

「……『好き』って感情は、ホントに、凄いですね」

「うん、そうだね」

 

 そうだよ。

 迷ってる場合じゃない。

 迷ってる時間なんてない。

 楽しまないと。

 人生を。

 走ることを。

 

 死をも怖れないほどの境地まで駆り立ててゆく、ふしぎな情熱が湧き上がってくる。

 その熱を逃さないように、ぎゅっとバトンを握り締めた。

  

「ありがとう……千夏先輩」

「えっ」

 

 千夏が、驚いて大きく目を見開く。

 

「いま……なまえ……」

 

 龍太は、照れを隠すようにポリポリと頬をかきながら視線をそらした。

 

「前から名前で呼ぼうか迷ってて……でもキッカケがなかったのと、気軽に呼べる感じでもなかったので」

「そ、そんなことないと思うけど。みんな普通に呼んでくれるし」

「あるんです」

 

 視線をバトンに落とす。

 初めはただの同居人。

 親友の、手の届かない憧れの存在。

 それだけだったはずなのに――。

 

「――笑顔も、声も、何気ない仕草も。気づいた時にはもう、俺にとって、この世界の何よりも綺麗で、尊いものだったから。軽々しく、名前なんて呼べませんでした」

「えっ」

 

 どうしようもなく好きになってしまったのだから。

 それは仕方のないことだと言える。

 

「じゃあ、行ってきます。バトンありがとうございました」

「…………」

「先輩?」

「へっ!? あ、はい!」

「はいって……変な先輩っ!」

 

 彼は悪戯っぽく笑って駆け出していく。

 いつも以上に爽やかな光景に見える彼の背中が遠ざかっていくのを、千夏は黙って見つめることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スタートブロックに足をかけ、指先をトラックにつけた時、龍太の心は不思議なほど静かに凪いでいた。

 

 ──これじゃ、高梨のほうがマシだな

 

 堂園の容赦ない一言が、脳内で反響する。

 それは事実だ。高梨は天性のスプリンター。

 神に選ばれたとしか思えない、唯一無二の才能。

 自分とは違う。

 その言葉は、龍太が泥水の中で積み上げてきた努力という名の城を、根底から踏み潰すように容赦なかった。どれだけ手を伸ばしても、決して追いつけない背中。

 努力しても無意味だと、そう言われた気がした。

 

 それなのに──。

 

 ──龍太くんなら、大丈夫だよ。

 

 あれほど胸の奥に渦巻いていた焦燥は、まるで嵐が過ぎ去った後の湖面のように鎮まり、そこにはただ、澄み切った感覚だけがあった。掌には、彼女から手渡されたバトンの冷たい感触が、まだ生々しく残っているようだった。その記憶が、彼の精神に確固たる錨を下ろしていた。

 

 広大な海を一人で漕いでいた。目指すべき岸辺も見えず、ただ闇雲にオールを動かす孤独な航海。

 でも、その向かいの席に千夏が座り、前を見据えてくれているのなら。理想の岸でも、そうじゃない岸でも、きっと笑っていられる。彼女がそばにいる限り、未来を想像すれば、大抵の景色は大体が幸せだと、そう思えて仕方なかった。

 

(……負けっぱなしじゃ、格好がつかないよな)

 

 もう一度、深い海の底へ潜るダイバーのように、肺の腑まで空気を吸い込む。

 その瞬間、アドレナリンとは質の違う、もっと静かで、しかし抗いがたい情熱が、彼の魂を突き動かした。それは、死さえも超越した高みへと精神を駆り立てていく、不思議な力だった。

 

 ──スタートは急がなくてもいい。

 

 不意に、監督である鶴田の言葉が脳裏に響く。これまで、己の走りの探求に没頭するあまり、他者の助言を深く求めることのなかった龍太が、自ら教えを乞うた際に与えられた、意外なほどシンプルな一言だった。

 

 ──おまえは急ごう急ごうとして身体が移動していないのに足だけ速く動かして空回りしてるんだ。同園をよく見てみろ。あいつは、そんなにスパッと切れのいいカミソリ・スタートじゃねえぞ。スローだが一歩一歩確実に地面を押して重心を移動してグッグッグッと力強く進んでいるんだ。それでいいんだ。同園はゼロ・スピードからいきなり跳ぶようなバネはない。デカくて重たいからな。同園のマネをしろとは言わないよ。でも、よく見て考えてみるといいさ。

 

 準決勝の組分けは、再び堂園と同じだった。数レーンを隔てて クラウチングスタート の姿勢をとる絶対王者の姿が、不思議とスローモーションのように鮮明に見えた。彼の筋肉の動き、呼吸、そして大地を圧するような存在感。そのすべてが、鶴田の言葉を裏付けるリアルなイメージとなって龍太の脳内に流れ込んでくる。

 

 急がなくていい。

 

 ただ――捉えろ。

 

 

 用意──。

 

 世界の音が、すうっと遠のいていく。観客の声も、風の音も、まるで分厚い水の中にいるかのように曖昧になる。聞こえるのは、己の心臓の鼓動と、肺が空気を求める微かな音だけ。

 号砲が鳴った。

 それは合図というより、世界の時間が再び動き出すための、一つのきっかけに過ぎなかった。

 一歩目。靴底のスパイクが、ウレタンのトラックを牙のように深く噛む感覚。

 二歩目。その反発力を、今度は前へ進むためのベクトルへと変換する。

 低い前傾姿勢を保ったまま、巨大なピストンが駆動するように、身体が力強く押し出されていく。蹴り上げた地面から返ってくる力が、まるで無重力空間にいるかのように、その巨体を軽々と持ち上げる。ああ、この感覚だ。急勾配の坂道を、最適なギアで駆け上がっていく時の、あの万能感。いいぞ、このまま、このまま、身体と対話するように。

 思考は消え、純粋な感覚だけが龍太を支配していた。

 視界の端で、王者のユニフォームが揺れている。

 

 ――堂園が、まだ、すぐそこにいる。

 

 意識の片隅で、冷静な自分が囁いた。予選の走りではない。決勝を見据え、力をセーブしているのだろう。以前の自分であれば、ここで焦り、力んだかもしれない。

 だが、今は違った。

 

 ――いい加減退けよ、そこ。

 

 思考ではなく、本能がそう命じた。

 この一本に全てを懸ける。

 トップスピードへ。身体中のエネルギーを解放し、最後の直線へと躍り出る。

 ゴールラインを駆け抜けた瞬間、肺が焼け付くような痛みと共に、かつて味わったことのない種類の発光するような高揚感が、龍太の全身を駆け巡った。それは疲労という陳腐な言葉では表現できない、何か新しい世界の扉をこじ開けた者だけが感じうる、啓示にも似た確信だ。

 

 だが、それと同時に、渇望が生まれる。

 いや、もっとだ。まだ足りない。

 この走りでは、まだあの男の背中には、届かない

 

 

 

 

 

 

 

 

 県予選は四日間──土曜から火曜までの長丁場だ。

 最終日の決勝を勝ち抜いた者だけが、インターハイへの切符を手にする。

 その初日、土曜の午前。千夏たちの一試合目が、もう間近に迫っていた。

 ロッカールームには、試合前特有の張り詰めた空気が漂っている。

 ベンチの木目は使い込まれて色が落ち、壁に掛けられた古びた時計が、容赦なく秒を刻む。

 ユニフォームの布擦れ、バスケットシューズを締め直す音、控えめな笑い声と短い会話──そのすべてが、やがて始まる試合の鼓動と混ざり合っていた。

 

 膝の上でタオルを折りたたんでいた千夏の視界に、スマホの画面がちらりと光った。

 画面には──『100m予選通過しました! 次は先輩の番ですよ!』の文字。

 

 脳裏に、先ほどの彼の言葉が、声となって蘇る。

 

 ――笑顔も、声も、何気ない仕草も。気づいた時にはもう、俺にとって、この世界の何よりも綺麗で、尊いものだったから。

 

 その言葉を思い出すだけで、胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられ、耳の奥が熱くなる。

 

(ありがとう、龍太くん……私も頑張るね)

 

 胸の奥に、小さな炎が灯るのを感じた。『私も頑張る!』と返信してスマホをバックにしまう。

 

 ふと足元に置いた外履き用の袋に視線が落ちる。

 なんとなく袋の紐を解いて中身を見た時──そこで小さく息を止めた。

 

 靴の細い紐は、途中からぷつりと断たれていた。

 ほつれの繊維は不自然に揃っていて、まるで一息に切られたかのようだ。

 その端は、時の経過でほぐれた柔らかさではなく、どこか硬質な感触を残している。

 

(……替えを買わなきゃ)

 

 ほんのわずかな違和感を、千夏は胸の奥に沈めたまま、袋をきゅっと結び直す。

 

「千夏、そろそろ行こう」

 

 背後から渚の声がかかった。

 

「うん」

 

 短く応え、袋をベンチの端にそっと置く。

 ロッカールームの扉を押し開けると、冷えた通路の空気が肌を撫で、緊張が背筋を駆け上がった。

 踏み出す足音ひとつひとつが、コートの熱と歓声へと近づいていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──何かがおかしかった。

 

 絶対王者として君臨する堂園翔真は、自らの内側に生じたその微かな不協和音の正体を、掴めずにいた。埼玉県の予選など、彼にとっては北関東、そして全国の頂へと続く道の、単なる通過儀礼に過ぎない。敵はいない。その絶対的な自負は、これまでの実績が裏付けてきた客観的な事実であり、揺らぐはずのないものだった。それなのに、盤石であるはずの精神の湖面に、まるで小石が投げ込まれたかのようなさざ波が立っている。その正体不明の違和感が、堂園の完璧な精神統一を僅かに乱していた。

 

 決勝のレーンに立ち、隣の男に目をやる。

 

 栄明高校一年、田中龍太。陸上専門誌の新人特集でその顔を見た記憶がある。容姿端麗、各種スポーツで鳴らしたという経歴。スター選手特有の華やかさを纏った、注目株。一年生ながら県大会の決勝に残るのだから、相応の才覚はあるのだろう。予選で初めて同じ組で走った時、その実力の一端に触れることを少しだけ楽しみにしていた。

 だが、結果は拍子抜けするほど凡庸だった。力任せで、荒削りな走り。

 話にならない。

 それが堂園の率直な評価だった。

 

 しかし、準決勝で何かが変わった。

 レース中盤、勝利を確信し、決勝のためにペースを落とすことだけを考えていた堂園の耳に、すぐ後ろから、あり得ないはずの音が聞こえた気がしたのだ。

 それは物理的なスパイクの音ではない。もっと根源的な、魂が地面を蹴り上げるような気配としての「足音」。

 気のせいだ、と即座に打ち消した。

 だが一度意識してしまったその音は、彼の記憶に不気味な爪痕を残していった。

 

 準決勝の後、龍太の奇妙な行動が目に留まった。ゴール後、彼はまるで操り人形のように、膝を曲げずに突っ張ったまま、パン、パンとリズミカルに歩いて退場していく。接地時の感覚を忘れないための、彼なりの反芻なのだろう。周囲からは嘲笑が漏れていた。「気色悪い」「調子に乗ってる」。見下せばいい。自分もその他大勢と同じように、彼の滑稽な姿を一笑に付せば、それで終わるはずだった。

だが、できなかった。彼のその常軌を逸した集中力、周囲の雑音を一切遮断する没入ぶりに、堂園はむしろ一種の畏怖に近いものを感じていた。

 

 そして今、決勝のスタートラインに立つ田中龍太は、もはや別人だった。予選の時に感じた軽薄なオーラは消え失せ、代わりに、内側に計り知れない熱量を凝縮させたような、静謐で異様な雰囲気を放っている。それは挑戦者の殺気とは違う。もっと純粋で、底が見えない何か。その得体の知れなさが、堂園の皮膚を粟立たせた。

 

 ──何かがおかしかった。

 

 号砲一閃。

 レースが始まる。いつも通り、堂園は完璧なスタートを切った。重戦車のような加速で他を圧倒し、勝利へのレールを突き進む。敵はいない、いるはずがない。

 そう確信しかけた瞬間――

 

「っ!?」

 

 また、あの足音が聞こえた。

 今度は幻聴ではない。すぐ隣で、空気を切り裂く確かな気配として。焦りが、王者の心に初めて黒い染みのように広がった。

 近くなる。

 すぐそこまで来ている。

 あり得ない。

 この俺が、県予選で、一年生相手に、追い詰められている。

 追い上げられている。

 後半こそが、俺の領域だぞ。

 それはもはや焦りではなく、自らの聖域を侵犯されることへの、原始的な恐怖に近かった。

 ゴールラインを、ほとんど無意識に駆け抜ける。

 電光掲示板のタイムを確認するより先に、堂園は衝動的に隣のレーンを振り返っていた。

 息を切らし、膝に手をつく自分とは対照的に、龍太は、ただ静かに空を見上げていた。

 

 そして。

 ふっと、彼は笑った。

 それは歓喜の雄叫びでも、安堵のため息でもない。

 まるで、自分自身のまだ見ぬ可能性と対話し、その邂逅を喜ぶかのような、純粋で、だからこそ常軌を逸した笑みだった。堂園は、その光景に背筋が凍るような戦慄を覚えた。無数のソーダの泡粒のようなものが、全身の皮膚を逆撫でに走り抜けている。

 

 怖い?

 俺が?

 

「ありがとう、先輩」

 

 風の音にかき消されそうな、微かな声が聞こえた気がした。それは誰に向けられた言葉なのか。幻聴だったのかもしれない。だが、彼の唇は、続けてはっきりとこう動いた。

 

「俺、まだまだ速くなれそうです」

 

 その独白は、勝者である堂園に向けられたものではない。だが、彼のプライドの最も深い部分を、鋭利な刃物で抉るには十分すぎた。

 堂園は、咄嗟にその場から離れた。

 勝ったのは自分だ。

 タイムも、着順も、俺が一位だ。

 それなのに、この胸を焼くような敗北感はなんだ。

 脳の毛細血管が線香花火のようにぷつぷつと破裂していくようだった。

 

「流石だな、翔真」

 

 付き人のように帯同しているチームメイトが、労うように声をかけてくる。その無神経な一言が、堂園の中で燻っていた感情を爆発させた。

 

「黙れ」

「えっ……」

 

 凍り付くチームメイトを置き去りにして、彼は一人歩き出す。

 関東では、影すら踏ませない。

 あの不気味な足音を、絶望の淵に叩き落としてやる。

 堂園翔真の心の中で、初めて特定の個人に向けられた、黒く、そして熱い炎が燃え上がった。

 

 

 

 

 

 

 

「……あいつ、化け物かよ」

 

 乾いた唇から漏れたのは、感嘆とも呆れともつかない、率直な呟きだった。三浦の視線は、まだ熱気の醒めやらぬトラックに釘付けになっている。電光掲示板に表示されたタイムが、信じがたい事実を突きつけていた。

 一位、堂園翔真、10秒42。二位、田中龍太、10秒53。

 一年生の時から、嫌というほどその背中を見てきた。堂園翔真という存在が、同じ高校生というカテゴリーに属していること自体が世界のバグであるかのような、あの絶望的なまでの速さを。特に彼の真価が発揮されるのはレース後半。そこからさらに一段階ギアを上げ、他者の心を折るように突き放していく走りは、もはや暴力的なまでの芸術だった。

 それなのに。今、目の前で行われた決勝レースで、絶対王者である堂園は、ゴール直前、明らかに後続を警戒していた。いや、警戒せざるを得なかったのだ。一人の後輩、田中龍太によって。

 

「龍太くん、本当に速くなったね。同園くんが追い上げられてるのなんて、初めて見た」

 

 いつの間にか隣に立っていた美咲が、弾んだ声で言う。三浦は彼女の方を振り返ることもなく、フィールドを見つめたまま応えた。

 

「あいつには恵まれた素質がある。人がうらやむようなスプリンターの身体がある。ハードで地味な練習に耐えられる心身がある。どのスポーツもそうだろうけど、陸上は特に地味な努力の気が狂うような積み重ねだからな。どこまで練習できるかってのも才能の一部。あいつには、それがある」

「そうね、ずっと頑張ってきたもんね」

「ああ、ホント羨ましいくらいの才能の塊。どっちも化け物だ」

 

 大げさに肩をすくめてみせるが、その瞳は熱を帯びたまま、トラックの上の二つの残像を追い続けていた。

 ちょうどその時、フィールドの片隅で、別のドラマが終わろうとしていた。男子走り高跳びの決勝。最後の跳躍に失敗し、関東大会への出場権を逃した他校の三年生が、バーの前で崩れるように膝をつき、肩を震わせている。仲間たちが駆け寄り、その背中を叩くが、彼の嗚咽は止まらない。三浦は、その光景から目を逸らさなかった。あれは、いずれ訪れる自分自身の姿かもしれない。そう思うと、胸の奥が冷たくなる。

 

 美咲は、そんな彼の横顔を、胸が締め付けられるような想いで見つめていた。

 

 中学1年の夏、まだ互いに幼さを残していた頃から、ずっと隣にいた。

 だから知っている。

 彼がどれだけの時間を、痛みを、そして絶望を、このトラックに捧げてきたかを。

 いつしか龍太と親しくなり、兄貴分のように振る舞いながらも、その底知れない才能に、人知れず嫉妬し、涙を流した夜があったことを、美咲だけは知っていた。

 才能は無自覚に周囲を傷つける。

 そんなこと身をもって知ってるはずなのに、天賦の才を持たない凡人が、それでも走ることをやめられなかった。そんな愚直で、不器用な男の横顔が、美咲の心を締め付ける。

 

「……いよいよ、あいつにも置いていかれちまったな」

 

 自嘲気味に呟かれた言葉に、美咲は食い気味に反論する。

 

「何言ってるの。元から足元にも及んでないでしょ」

「うるせぇよ」

 

 憎まれ口を叩きながらも、その声には力がなかった。自身の100mは、準決勝で潰えた。この決勝レースを目の当たりにして、何かが、決定的に自分の中から削り取られていく感覚があった。飄々とした虚勢の仮面の下で、寂寥、悔恨、そしてほんの僅かな安堵。言葉にならない感情が、彼の瞳の奥で複雑な色合いを描いていた。

 

「……明日は、リレーでしょ?」

「ああ。俺にとって、一番関東に近い種目だ。……けど、どうだろうな」

「何よ、弱気になって」

「……そうかもな」

 

 一体、こんな時、どんな言葉をかければいいのだろう。

 美咲は、かけるべき言葉を見つけられずに、ただ立ち尽くしていた。

 「頑張って」という安易な激励は、彼のプライドを傷つけるだけだろう。「気にしないで」という慰めは、彼のこれまで費やしてきた膨大な時間を否定することになる。

 

 ふと、予選の後、龍太のそばにいた千夏の姿が脳裏をよぎる。

 なんてことない会話に見えたが、あるいは彼女は、同じアスリートとして龍太の痛みを正確に理解し、彼が最も欲していた「大丈夫」という言葉を、何のてらいもなく届けたのかもしれない。

 自分には、それができるだろうか。

 人生を捧げるほどの熱量で何かに打ち込んだ経験のない自分が、彼の聖域であるトラックの上での絶望を、本当に理解できるのだろうか。わかったふりをして言葉を紡いだところで、それは空虚な音として響くだけではないか。彼を救うどころか、その孤独をより一層深めてしまうのではないか。

 自分には、彼を救う言霊を放つ資格など、ないのかもしれない。

 そんな無力感と焦燥が、美咲の胸を締め付ける。その葛藤を打ち破るように、不意に声がかけられた。

 

「三浦さん、この後、少し時間ありますか?」

 

 そこに立っていたのは、先ほどまでトラックの上で異次元の走りを見せていた張本人、龍太だった。三浦は動揺を悟られまいと、慌てて心を普段の仮面の内側へと押し込めた。

 

「おう。あるけど、どうした?」

「バトン合わせ、やりませんか。監督には許可取ってあります」

「……正気か、お前。今日、決勝まで三本全力で走ったんだぞ?」

「正気ですよ。だからこそ、今のこの感覚、身体が覚えてるうちにアンタと合わせたいんです。……美咲さん、少しだけ、三浦さん借りますね」

「う、うん。……いいけど」

 

 有無を言わさぬ勢いで、龍太はすっと赤いバトンを三浦に手渡した。その手には、まだレースの熱が残っているようだった。

 

「関東、絶対に行きましょうね」

「──っ、な、なんだよ急に」

「急じゃないです。俺は、あんたに返しきれないくらい恩がある。……夢なんでしょ? あの青いタータンを踏むの。俺が、絶対に1番で三浦さんにバトン渡しますから」

「──っ」

「一緒に踏みましょうよ、あのタータン」

 

 その真っ直ぐすぎる言葉が、刃のように三浦の心の壁を貫いた。三浦が辛うじて保っていた、諦念という名の堰を、いとも容易く決壊させた。

 

「タイムが足りてないなんて、百も承知です。部の誰も、俺たちが全国へ行けるなんて思ってない。でも、だからいいんじゃないですか。ここで俺たちが勝ったら、最高に格好いいヒーローですよ」

 

 その言葉は、三浦が自分自身に、もう何年も前から言い聞かせてきたはずの、呪いのような言葉だった。

 才能がない。努力だけでは越えられない壁がある。そんな現実は、とっくに受け入れたつもりでいた。これで終わりだ、と。自分の陸上人生に、静かに幕を下ろす準備をしていたはずだった。

 それなのに。

 目の前の、才能に満ち溢れた後輩が、何のてらいもなく、自分がとうに捨て去ったはずの夢を、再び目の前に突きつけてくる。

 

(やめろ)

 

 心の中で、叫んでいた。

 

(もう、期待させるようなことを言うな。俺はもう、終わったんだ)

 

 だが、心の奥底、諦念という名の分厚い灰の下で、まだ消えずに燻っていた小さな火種が、龍太の言葉という風を受けて、再び熱を帯びていくのを感じてしまう。

 もし、こいつとなら。

 この、常識も限界も知らない、馬鹿で真っ直ぐな後輩となら、あるいは。

 そんな、あり得ないはずの奇跡を、一瞬でも夢見てしまった自分に、腹が立った。そして、それをいとも容易く引きずり出した龍太に、どうしようもないほどの感情が込み上げてきた。

 

「……っ、馬か野郎……! そんなこと、俺が一番……! 俺が一番、わかってんだよ……!」

 

 喉の奥から込み上げてくる熱い塊を、懸命に飲み下す。視界が滲み、目の前の後輩の顔が歪む。それを悟られまいと、奥歯を強く、強く噛み締めた。

 

「あれ、三浦さん、もしかして泣い──いでっ!?」

「うるせぇ! とっととアップするぞ! 今日の感覚なら、明日は受け渡しの位置、一歩詰めるからな。覚悟しとけよ!」

「はい!」

 

 怒鳴りつけるように言い放ち、龍太の背中を叩いて歩き出す。

 

「つーか、なんでお前が今バトン持ってんだよ」

「これは……お守り、みたいなもんです。勝利の女神様からの加護をもらいました」

「……意味わかんねぇよ」

 

 軽口を叩き合いながら遠ざかっていく二人の後ろ姿を、美咲は潤んだ瞳で見送っていた。

 ふと、夏の日を思い出す。

 練習後、二人でグラウンドの隅で話していた、あの光景。

 

『俺、三浦さんみたいになりたいんすよ』

『やめとけって。俺みたいになったら、才能ねえなって絶望するだけだぞ』

『それでも、走り続けてるじゃないすか。俺、そういうの、すげえ格好いいと思います』

 

 あの時と同じだ。生意気で、真っ直ぐで、そしてどうしようもなく優しい後輩と、ぶっきらぼうな優しさでそれに応える、自分の恋人。

 堪えきれなくなった涙が、頬を伝う。

 指先でそれを乱暴に拭い、小さく呟いた。

 

「ばか……。なんで私が、泣いてるのよ」

 

 

 

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