親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

2 / 18
2話

 

 

 玄関の扉を開けると、四月の青白い光が世界を満たしていた。

 肌寒さをわずかに残した風が、首筋を撫でていく。龍太はゆっくりと息を吸い、吐いた。その一呼吸で、軽やかな気分が体の隅々まで行き渡る。思わず、空を仰いだ。

 雲ひとつない。春特有の柔らかな光を溶かし込んだような空が、頭上に広がっていた。世界全体が淡いヴェールに包まれ、その膜の向こうから、青がゆっくりと滲み出してくる。陽光は細かな粒となって音もなく降り、誰に気づかれることもなく地表へ積もっていく。

 頬を撫でる生温かい風が、視界の隅の光を揺らした。目には見えない鳥の群れが、木々の間をすり抜けていくような、緩やかな空気の動き。

 人生でいちばん輝かしい季節が、今まさに始まろうとしている。確信に近い予感が、胸の奥で静かに脈打っていた。

 

「千夏ちゃーん、龍くん。はい、二人分のお弁当!」

 

 玄関先で、母が満面の笑みを浮かべている。手には、布で丁寧に包まれた弁当が二つ。

 

「ありがとうございます」

「ありがとう」

 

 龍太が弁当を鞄に収めると、つい隣の千夏へ視線が動いた。彼女もまた、丁寧な手つきで弁当を受け取っている。母の屈託のない笑顔につられて、千夏の唇にも柔らかな笑みが浮かんでいた。その仕草があまりに自然で——まるで昔からここにいる家族の一員みたいで、龍太の胸はかすかにざわついた。

 

「「行ってきます」」

「はーい、行ってらっしゃい。二人とも気をつけてねー!」

 

 母の快活な声に見送られ、二人は並んで歩き出す。数歩先をいく千夏の背中を眺めていた、そのときだった。

 

「龍太くん。こっち向いて」

 

 ふいに、隣から声がかかる。

 

「なんで——っ」

 

 振り返る間もなく、生温かい風がふわりと舞った。満開の桜の甘さと、彼女の髪から漂う爽やかなシャンプー。二つの香りが溶け合い、二人の間にだけ漂う空気になる。

 距離は、ほんの一歩。息を呑むほど近くに、千夏の顔があった。彼女の白い指先は、すでに龍太の胸元へ伸びている。

 

「ネクタイ、曲がってるよ」

 

 指が、胸元に触れた。驚くほど細い指だ。シャツ越しに伝わるかすかな震えが、肌の上を走り抜ける。結び目に触れた手がそれをいったん解き、慣れない手つきで締め直していく。危なっかしい動きだった。それでも彼女は、どうにか形を整えようと、真剣な目で自分の手元を見つめている。

 

 その瞬間、視線が絡んだ。

 

 龍太は心臓が跳ねるのを感じた。

 鼓動だけがやけに大きく響き、周りの音が遠のいていく。春風めいた高揚と、落ち着かない焦り。それが自分のざわめきなのか、彼女の仕草が呼び込んだものなのか、判然としない。ただ、この一瞬だけ、世界から音が消えた気がした。

 

「うん、これでよし」

「あ、ありがとうございます」

 

 ふたたび歩き出してしばらく、龍太はふと気づいた。彼女の髪に、小さな薄紅の花びらが一枚、乗っている。

 はじめは、ただ眺めていた。風に揺れる髪と、そこに留まる桜。その無防備さが、いかにも彼女らしくて、不思議な気持ちが胸に広がる。

 

「先輩、ちょっと止まってください」

 

 ほとんど無意識に、言葉が口をついて出た。

 立ち止まった彼女の肩越しに、そっと手を伸ばす。手が頭に近づくにつれ、何かが変わってしまう予感がした。ただ花びらを取るだけの行為が、それ以上の意味を帯びてしまうような。理由は自分でもわからない。ただ、顔を寄せた瞬間、さっきと同じ香りと、風に揺れる細い髪の動きが、妙に鮮明に焼きついた。

 

「桜、乗ってました」

 

 手を引きながら言うと、彼女は少し驚いたように見上げてくる。数秒の沈黙のあと、ふっと頬がほどけた。いつも通りの笑顔のはずなのに、どこかぎこちなく、熱を帯びて見える。

 

「ありがとう」

 

 そう言った千夏の耳が、ほんのり赤く染まっていくのを、龍太は見逃さなかった。風がその囁きをさらうように、二人の間を吹き抜けていく。

 手のひらの小さな花びらを見つめ、龍太はそっと指を開いた。花びらは風に乗り、ふたたび宙へ舞い上がる。彼女の後ろ姿を追いかけるように、ひらひらと流れていった。

 このやりとりが、二人の距離を縮めたのか、それとも何も変えなかったのか。

 その答えを測るには、春の風はあまりに気まぐれで——迷い込んできた風の距離感を、龍太はまだうまく掴めずにいた。

 

 

 

 

 鹿野千夏。

 この学園で「マドンナ」といえば、迷わずその名が挙がる。

 天使のような微笑み。絹糸のように滑らかな髪。誰にでも誠実で、優しい。そして、何をしても優雅に見える、抜きん出た身体能力。そのすべてが、彼女を特別にしている。男子の憧れと羨望を一身に集め、女子からも尊敬の眼差しを向けられる。清らかで、文字通りの高嶺の花だった。

 当然、ひそかに想いを寄せる者は数知れない。親友の猪股大喜も、その一人だ。同じ空間で言葉を交わすだけで、喜びを隠しきれずにいる。だから、先日ひょんなことから連絡先を交換してこの一週間、龍太の毎日は嵐そのものだった。何度、嫉妬の的になったことか。

 どうにか生き延びはした。だが、もしそんな千夏と同じ屋根の下で暮らしていると知られたら——もはや学園中の男子から命を狙われかねない。

 考えるだけで、龍太は深い溜息をつかずにいられなかった。

 

「ほんと、どないしたもんか……」

「今日は、やけに溜息が多いな」

 

 新学期最初の体育は、恒例の体力テストだった。

 順番待ちの列。龍太が無意識にハンドボールを握りしめ、物思いに沈んでいると、背後から声がかかった。中学からの親友で、今も同じクラスの笠原匡だ。

 

「いや、ほんとに大変なのよ」

「陸上?」

「うーん、陸上っていうか、家?」

「家? 引っ越すの?」

「あー、いや、そういうんじゃなくて」

 

 言葉を濁す龍太に、匡が眉間へ深い皺を寄せる。話すべきか迷いながら、龍太がじっとその顔を見つめ続けると、匡は居心地悪そうにたじろいだ。

 

「な、なに」

「あー……実はな。鹿野千夏先輩が、今、うちにいるんだ。一緒に暮らしてる」

「——は?」

 

 投下した爆弾は、見事に炸裂した。

 匡の表情が瞬時に凍りつく。口をぽかんと開けるその顔は、三年の付き合いの中でも見た記憶がない。

 

「マジ?」

「マジ。な? わかるだろ、俺の悩み」

 

 事情を一瞬で察した匡は、心底面倒くさそうな、露骨に嫌そうな顔をした。

 

「うわ、めんどくさ」

「おい〜、そんな言い方すんなよぉ」

「やめろ、くっつくな」

「助けて〜」

「嫌だよ、面倒くさい。だいたい、何でそんなことになったの」

 

 経緯はこうだ。

 千夏の両親が海外赴任することになった。一人残る娘を案じ、当初は連れて行くつもりだったが、当の千夏が「ここでバスケを続けたい」と強く望んだ。残された道は、誰かの家に居候すること。彼女の母と龍太の母が旧知だったことから、白羽の矢が立ったのが田中家、というわけだ。

 掻い摘んで説明しながらも、龍太の中には一つ、腑に落ちない疑問が居座っていた。

 

「なんか、大喜の母さんのほうが仲よかったらしいんだけど。そんなに話したこともない、うちになったんだよなあ」

「それは確かに妙だな。普通、仲がいいほうに頼むと思う。そのほうが気も遣わないし」

「だろ?なんでなんだか」

「親に訊いたの?」

「いや、訊くの忘れてた」

 

 会話が途切れた拍子に、匡の視線がグラウンドの隅へ流れた。その先で、クラスメイトと談笑する大喜の姿。

 

「まあ、龍太の気持ちはわかるけど。言うタイミング間違えたら、確かにえらいことになるな」

「ほんとに。なんでこうなっちまったのか」

 

 包み隠さず、大喜に伝えるべきだ。頭ではわかっている。それでも、最後の一歩がどうしても踏み出せない。親友の淡い夢を、焦がれるほどの憧れを、自分の選択ひとつで無慈悲に砕いてしまうかもしれない。その恐怖が、鉛のように胸へのしかかっていた。

 

 ——そのときだった。思考の海に沈んでいた龍太の手から、ぽろりとボールがこぼれた。

 

 拾おうと屈んだ拍子に、ふと校舎を見上げる。

 グラウンドから見える二年の教室。

 その窓際に、見慣れたシルエットがあった。

 悩みの種、鹿野千夏。

 窓の向こうから、静かにグラウンドを見下ろしている。龍太が思わず視線を止めると、図ったようなタイミングで、彼女がこちらへ手を振った。

 

 驚きと戸惑いが、同時に胸へ広がる。なぜ自分に手を振るのか、まるでわからない。それでも動作があまりに自然で屈託がないものだから、龍太は条件反射でぺこりと頭を下げるしかなかった。

 返したとたん、無性に気恥ずかしくなって、すぐに視線を逸らし、背を向ける。それでも、熱い視線が背中に刺さってくる感覚があった。

 

(……視線?)

 

 振り返るな、と自分に言い聞かせ、こらえる。だが、どうにも気になって、とうとうちらりと校舎を振り返ってしまった。

 ふたたび、視線がぶつかる。

 千夏はまだ、窓の向こうからじっとこちらを見ていた。微笑むでもなく、ただ真っ直ぐな、射抜くような眼差し。見つめられて、龍太の背に妙な汗が滲んだ。

 

(な、なんでそんな目で見るんですか……)

 

 胸中でぼやきながらも、意識はすっかり千夏へ向いている。正解かどうかはわからない。それでも、何かせずにいられなかった。ぎこちなく、おずおずと手を振ってみる。すると彼女は一瞬だけ目を見開き、すぐにほころぶような笑みを浮かべて、振り返してきた。

 

 そして、ふいに何かを指差す。

 

 距離があって、何を示しているのかは判然としない。だが、おそらく自分が手にしているボールだろう。

 ボール? と首を傾げて指差すと、彼女はこくりと頷き、何かをぱくっと食べる仕草をした。

 ああ、なるほど。これを食べろと——。

 

「って、食えるか!」

 

 思わず漏れたツッコミに、彼女がくすっと笑うのが見えた。

 そのまま千夏はすっと表情を戻し、まっすぐ黒板のほうを向く。授業が進んだのだろう。そのマイペースぶりに、龍太は溜息をついた。

 

「何やらせんのよ、ほんとに……あ? なんだよ、匡」

 

 グラウンドへ向き直ると、隣の匡が、なんとも言えない視線を寄こしていた。

 

「……一応訊くけど、付き合ってる?」

「わけあるか。そんなこと言ってると、大喜にどやされるぞ」

「一緒に暮らしてるってだけでも、相当妬まれそうだけどな」

「だから悩んでんじゃねぇか!」

 

 くそー、と頭を抱えていると、当の悩みの種——大喜から声がかかった。

 

「龍、次の五十メートル一緒に走ろうぜ」

「あ、ああ、いいよ。……じゃ、匡も」

「えぇ……龍と走ると目立つんだけど」

「目立たねえって。来い」

「めんどくさい」

 

 終始、面倒くさそうな顔を崩さない匡を無理やり引っ張り、龍太は大喜の背を追った。

 歩きながら、匡が大喜に聞こえないよう、ぼそりと呟く。

 

「まあ、何か手伝えそうなことあったら言って」

「わりぃな。助かる」

 

 やはり、こいつに話したのは正解だった。

 ともあれ、大喜に事実を告げるのは、今ではない。そう結論づけた龍太は、頭の中で部屋を一つ移すように、思考を別の問題へ切り替えた。

 

 ——千夏との、距離感だ。

 

 ここ最近の暮らしの中で、龍太は彼女の人となりを少しずつ掴んできた。柔らかな笑顔、近寄りやすい雰囲気。誰もが惹かれるのも頷ける。けれど、難点もあった。

 距離が、近すぎるのだ。良くも悪くも。

 風呂上がりに平然と部屋へ入ってくる。携帯の画面を後ろから覗き込む。本人にはきっと何の意図もない、ただの無邪気さ。だが、それが龍太の心臓を容赦なく掴んで揺さぶる。

 

(別に、意識してるわけじゃない……。親友の恋を応援する立場で、そんなこと、あっていいわけがない)

 

 強く言い聞かせる。それでも、ふとした拍子に脳裏をよぎる彼女の笑顔が、その固い決意をいとも簡単に溶かしてしまうのだった。

 場所をわきまえて、もう少し距離を考えなければ。そう思っていた——のだが。

 

 

 

 

 

 

 

「同じ中身のお弁当って、なんだか不思議だね」

「……そうですね」

 

 春の柔らかな光が降りそそぐ、昼休みの屋上。龍太はいつものように西階段をのぼり、最上階の『立入禁止』の看板の下、錆びたチェーンを慣れた様子でまたいだ。建前上は禁じられているこの場所も、律儀に守る生徒は少ない。

 

 それでも中学三年の頃から、ここは龍太だけの聖域だった。

 

 告白の舞台にこっそり使われることもあるらしい。が、普段は人気もなく、心地よい静けさだけが広がっている。風の音と、遠くの鳥の声を背に、一人で弁当を広げる時間は、何ものにも代えがたい安らぎだった。

 ところが今日は、その静寂を破る柔らかな声が、隣にある。

 

 鹿野千夏。

 彼女が、そこにいた。

 

「龍太くんのお母さん、料理上手だね。すごく美味しい」

「まあ、そうですね。いつも感謝してます」

 

 千夏は隣で、母の作った卵焼きを幸せそうに頬張りながら、とりとめのない話を続けている。その横顔に気負いはない。春の日差しのように、ただ自然な笑みが浮かんでいた。

 

 彼女がこの聖域に踏み込むようになったのは、数日前から。龍太が偶然、彼女が後輩に告白されている現場を目撃してしまった、あの日だ。彼は騒ぐでも茶化すでもなく、ただ静かにその場を去った。それが逆に印象に残ったのか、以来、千夏はたびたびここへ現れるようになった。

 

(いや、でも……この光景を誰かに見られたら、どんな噂が立つか。大喜に、どう説明すれば……)

 

 龍太は胸の内で溜息をついた。

 千夏との昼食には、確かに特別な高揚がある。問題は、その物理的な近さだ。隣の肩が、触れるか触れないかの距離にある。風が運んでくる甘く爽やかな香りが、否応なく意識を刺激する。

 横目に盗み見ると、千夏は夢中で弁当を頬張っていた。無防備なその姿は、どこか小動物めいていて、庇護欲をくすぐる。母がこれを見たら「作った甲斐があったわ」と相好を崩すに違いない。だが息子としては、素直に微笑むには状況が込み入りすぎていた。

 

 しばしの無言が、心地よさと気まずさの狭間で揺れる。その奇妙な均衡を破ったのは、千夏の小さなくしゃみだった。

 

「くしゅんっ」

 

 その音に、龍太はほとんど反射でリュックを探っていた。中からブランケットを取り出し、差し出す。

 

「よかったら、使ってください」

「いいの?」

「はい。そのために持ってきたんで」

「ありがとう」

 

 彼女は少し驚いたように目を見開き、次の瞬間には、つぼみがほどけるように笑った。その温かさが春の日差しすら上回って感じられ、龍太は咄嗟に視線を逸らす。

 彼女がブランケットを膝にかける。その柔らかな仕草を見ていると、ふいに端のほうが、龍太の膝にもそっと広げられた。

 

「龍太くんも、風邪ひいちゃうから」

「——っ」

 

 言葉に詰まりながらも、その優しさを撥ねつけることはできなかった。

 

(……これだから、この人の距離感は困る)

 

 膝に乗ったブランケットの温もりを感じながら、龍太は内心で悲鳴に近い愚痴をこぼす。だが、彼女の気遣いが曇りのない純粋なものだとわかっているだけに、否定する気にはとうていなれなかった。

 

「……すみません。こっちまで気を遣ってもらって。もう掛けられちゃってますけど」

「ううん。私こそ、持ってきてくれてありがとう」

「まあ、たまたまです」

「これからは、屋上に来るとき先に言うね」

 

 千夏の声が、春風みたいに胸へ染み入る。彼女はまた、弁当に手を伸ばした。

 無言でいるのがどうにも耐えがたく、龍太が必死に話の糸口を探していた、そのとき。

 

「今日の五十メートル、速かったね」

 

 先に口火を切ったのは、千夏のほうだった。

 

「そうですか? ……って、見てたんですか」

「うん。相変わらず綺麗だなあって。タイム、何秒だったの?」

「……五秒七、くらいでした」

「うわ、すごい。一人だけ異次元の速さだったもんね」

「正式なタイマーなら、もう少し遅いと思いますけど」

 

 まるで、ずっと自分の走りを見てきたかのような口ぶりだ。それに綺麗と評されたのは、初めての経験だった。心の奥をくすぐられるような、新鮮で少し照れくさい感覚に陥るが、独特な感想ではある。

 

「龍太くんは、走るのが好きなんだね」

「そう見えました?」

「うん。一人だけ、楽しそうに走ってたから」

「まあ、なんだかんだ、走るのは好きですね」

「それで陸上始めたの?」

 

 今日の彼女は、やけに質問が多い。龍太はそう思いながら、少し考え込んだあと、静かに首を横へ振った。

 

「それもありますけど。一番は……勝ちたい相手がいたからですね」

「勝ちたい相手?」

 

 大きな瞳が、好奇心に輝く。龍太は苦笑してから、言葉を継いだ。

 

「小学校の頃、同じクラスにいたやつです。足がめちゃくちゃ速くて。どうしても、そいつに勝ちたくて」

 

 あの頃の光景が、ありありと蘇る。

 必死に追いかけた小さな背中。すぐそこにいるのに、どうしても届かない距離。あのどうしようもない悔しさと、焦がれるような憧れが、今の自分を形づくっている。

 

「先輩は、なんでバスケ始めたんです?」

 

 問い返すと、千夏は少し嬉しそうに、それでいてどこか遠くを見るように微笑んだ。

 

「私? 八歳の頃にテレビで観た試合に憧れて、かな。気づいたら毎日ボールを触ってた」

「ずいぶん単純ですね」

「うん。あの頃は色々やってみたんだけど、バスケだけは今も続いてる」

 

 八歳から毎日ボールに触れていれば、上手くなるのも道理だ。心底好きなのだろう、と龍太は改めて思った。

 ただ、八歳の彼女を想像すると、つい口角が上がってしまう。

 

「なんかあれですね……始めた頃の先輩、下手そう」

 

 千夏の動きが、ぴたりと止まった。じわじわと拗ねた顔になり、肘で龍太の脇腹をつつき始める。

 

「ひどいこと言ったね」

「ちょっ、待ってください! 冗談ですって!」

「冗談には聞こえなかったけどなあ」

 

 以前、バスケ以外のスポーツで遊ぶ機会があった。

 そのときの彼女が驚くほどのポンコツで、ギャップに面食らったものだ。この反応からして、どうやら図星らしい。 

 

「まあ、でも……努力の成果ですよね」

「……?」

「今の先輩は、誰がどう見ても上手いですし」

 

 その一言に、千夏は少し驚いたように龍太を見つめた。だがすぐに視線を伏せ、はにかむように小さく笑う。

 

「……ありがとう」

 

 そう言った声は、くすぐったそうで、それでいて龍太の胸へ優しく届いた。

 しばらく、二人の間に沈黙が流れる。

 やがて、千夏がぽつりと呟いた。

 

「昔ね——憧れてた人がいたの」

 

 その声が、ふと低く、落ち着いたものに変わる。

 龍太は少し意外そうに彼女を見た。

 

「小二からの付き合いでね。嵐みたいな子だった。でも、バスケがすごく上手くて。ボールを操る姿が、ほんとに格好よくて……追いつきたくて、必死に練習したんだ」

 

 彼女の視線は、ここにはない遠い過去を見ている。その子の姿が、今も瞼の裏に焼きついているかのように。「でも」と、纏う空気がさらに沈んだ。

 

「突然、転校しちゃって。それっきり。……今でも、バスケしてるのかな」

 

 呟いた声音には、もの悲しさが滲んでいた。

 

「……いい別れ方じゃ、なかったんですね」

 

 問うと、千夏はゆっくり頷いた。

 迷うように、膝を抱える。

 どんな別れがあったのか、龍太にはわからない。だが、彼女の言う「憧れの存在」には、奇妙なほど心当たりがあった。

 

 木戸夢佳。

 

 栄明中学で千夏とバスケをしていた、あの天才。一年でレギュラーを掴んだ、伝説的な選手だ。同じ部にいた以上、知り合いなのは当然として、まさかそこまで深い縁だったとは。

 だからだろうか。

 

「——中二の全中で四位になったとき、俺、正直腐りかけてました」

 

 自分もまた、彼女と妙な糸で結ばれているからこそ、口は自然と動いていた

 

「どれだけやっても、アイツには勝てないのかって。そんなとき、たまたまレースを観に来てた女子に言われたんです。『才能があっても、上には上がいる。どうせプロになれるわけでもないのに、そんな必死になって何の意味があるの?』って」

 

 思い出すだけで、腹の底から不快が込み上げる。龍太は知らず、語気を強めていた。

 

「ほーんと、腹立ちません? あのクソ先輩」

「……え?」

 

 千夏が、ぽかんとした顔でこちらを見ている。

 

「自分は女バスで全国行けずに負けたからって、こっちに八つ当たりですよ。頭おかしいっていうか、本気でムカつきました。文句の一つでも言ってやろうと思ったら、勝手に転校して姿くらますし。ほんと、質が悪い!」

「それって……」

 

 千夏の目が、信じられないものでも見るように、大きく見開かれていく。

 

「だから先輩」

 

 真っ直ぐに千夏を見た。

 

「俺の仇、取ってください。先輩なら、絶対あの人に勝てると思うんで」

「えっ……」

 

 口調は淡々としていたが、その言葉には、疑いようのない確信が宿っていた。あまりに自然な信頼の差し出し方に、かえって千夏の口から驚きが漏れる。

 

 同時に、その瞳が儚げに、不安そうに揺れた。

 

「……勝てるかな」

「勝てますよ。俺が保証します」

「どうして、そう思うの?」

「ん? そりゃ、あんだけ馬鹿みたいにボール触ってるんですから」

 

 千夏が思わずムッとしたようにほおを膨らませた。

 

「……バスケが好きなだけだし」

「そうですね。知ってます」

 

 千夏の努力は、誰も見ていないところで、静かに、膨大に積み上げられている。朝いちばんに体育館へ来て、練習が終わってからも一人、黙々とシュートを打ち続ける。その姿を、龍太は何度も見てきた。

 だからこそ、自然と微笑みがこぼれた。

 

 背中を押してやりたい、と心から思う。

 

「だから、負けないんですよ。先輩は誰よりバスケが好きで、誰より努力を惜しまないんだから。——好きって感情は、最強だと思います」

「——っ」

 

 正直に言えば、努力が必ず報われるとは限らない。

 まして団体競技は、一人がどれだけ抜きん出ても、それだけで勝てるほど甘くない。

 それでも——あの大人しげな外見の下には、一度こうと決めたら梃子でも動かない、石のように硬い芯がある。

 

 彼女なら、きっと、あの日の憧れを越えていける。

 

 ただ、過去を思い出させてしまったせいで、龍太の胸にもふつふつと、煮立った鍋のような苛立ちが込み上げてきた。一度火がついた口は、もう止まらない。

 

「あー、なんかあの人のこと思い出したら、本気で腹立ってきました。そもそも、なんであのタイミングであんなこと言うんですか? こっちが負けて、一番悔しいときにですよ? もうこうなったら俺、『木戸夢佳被害者の会』会長として言わせてもらいますけど、これだけじゃないんです。中一のときなんか、廊下ですれ違っただけ、しかも初対面で、『退屈って言葉が一番しっくりくる日々を送ってそうだね』ですよ!? 意味わかんないし、失礼にもほどがあるでしょ! しかも会うたび、何かしら嫌味を言ってくる。なんでそんなに嫌われてんのかもわかんないし……って、先輩? いやいやいや、そこ笑うところじゃないですって!」

 

 子供のようにぷりぷり不満をぶつける龍太に、千夏はこらえきれず吹き出した。

 

「ごめん。でも、確かに、会うたびユメカに何か言われてたよね。私も初めて会ったとき、『人生ゲームのピンみたいだね』って言われた」

「いや、そこは怒りましょうよ。笑ってないで、可愛い後輩がバカにされたんですよ? 憧れてる場合じゃなくて、俺の分までぶん殴ってきてください。ほんと、陸上やめようかってくらいダメージ食らったんですから」

「うん。任された……アハハッ、お腹痛い」

 

 ほんとに、この人の感性はよくわからない。龍太は呆れ半分で首を傾げた。ただ、その笑顔は、穏やかに流れる川面のようで、一片の曇りもない。それに、何より救われる思いがした。

 

 

 

 

 

 

 

 ボール投げ。

 

 力任せでしかなかった自分のプレーに比べ、プロの世界はあまりに鮮烈だった。とりわけ、同年代の選手がボールを意のままに操り、コートを駆け、次々と得点していくさま。それは、別次元の光景だった。

 

 初めて彼女——木戸夢佳を見たときも、そうだった。

 

 そのプレーには「障害」という概念が存在しないかのようだった。すべてを乗り越え、すべてを惹きつける、圧倒的な求心力。この子についていけば大丈夫——見る者にそう確信させる、抗いがたい存在感。千夏は、その輝きに心を奪われた。彼女のようになりたい。ただひたむきに、がむしゃらに、努力を重ねてきた。

 しかし、あの言葉が、すべてを打ち砕いた。

 

『どうでもいいよ。昔から、ユメカユメカってうるさいの、嫌いだった』

 

 親友の口から放たれた一言は、鋭い刃となって千夏の心を抉った。予想もしない角度からの、無慈悲な不意打ち。憧れ、焦がれ続けたその背中を、根こそぎ否定された感覚。自分の中で何より大切に守ってきた想いを、木っ端微塵に砕かれたのと同じだった。

 意識にぽっかりと、巨大な空白が空く。体の芯から力が抜け、心が鉛のように沈んでいく。

 

「——っ」 

 

 次の瞬間、鋭い腕が手からボールをかっさらった。コート外から飛んだ「鹿野っ!」という野太い怒声で我に返り、慌ててディフェンスに戻る。だが足がもつれ、反応が一瞬遅れた。その隙を突かれ、目の前で鮮やかな速攻を決められる。その光景が、積もり積もった焦りと悔しさを、いっそう燃え立たせた。

 肩で息をしながら自陣へ戻ると、味方の一人がボールを託してくる。手に戻ってきたその感触は、これまでにないほど重かった。

 

「ドンマイ、ナツ!攻めるよ!」

「うんっ」

 

 声には応えたものの、千夏の頭はまだ、親友の言葉で埋め尽くされていた。

 

「ナツっ、こっち!」

 

 左サイドで、仲間がサインを送る。

 千夏はボールを持つ手に力を込め、左へ鋭いパスを放った。ボールは空を切り、綺麗な弧を描いて仲間の手元へ吸い込まれる。

 受け取った仲間が小さく頷き、ドリブルで相手を抜きながら次へ繋ぐ。千夏も続こうと足を動かすが、その足は鉛を引きずるように重い。瞼の裏にちらつくのは、遥か遠くのユメカの背中。どれだけ追っても、どれだけ速めても、その距離は一向に縮まらなかった。

 

 現実という名の、出口のなさ。

 

 心が打ちのめされかけた、そのときだった。

 

 ——先輩が、俺の仇を取ってください。先輩なら、勝てると思うので。

 

 ふいに、あの少年の声が、鮮やかに蘇った。

 

「ナツっ!」 

 

 チームメイトのパスが、手に渡る。

 床を叩く乾いた音が、体育館の空気を切り裂いた。正面には、相手のディフェンス。鋭い目つき、どっしりと据わった構え。一切の隙を見せまいとする、鉄壁の存在だ。

 

 ボールを右手で軽く揺さぶり、わずかな重心の動きを探る。だが、焦りが思考を曇らせた。これまで幾度も自分を苛んできた「失敗への恐怖」という亡霊が、また心に暗い影を落としはじめる。

 

 その、刹那。 

 

 脳裏を、ある記憶が閃光のように駆け抜けた。

 

 一人の男子生徒——龍太が、ボールを片手に、圧倒的なスピードで自分を抜き去っていった、あの光景。ただ速いだけではない。その動きには、一片の迷いもなかった。最初からそのプレー以外、何も考えていなかったかのような。ゴールへ向かう未来だけを信じきった、絶対的な自信。

 

 ——だから負けないんですよ。先輩は誰よりバスケが好きで、誰より努力を惜しまないんだから。

 

 若い体を覆っていた憂いのヴェールが、薄衣の滑り落ちるように、ふっと消えた。 

 

 千夏は深く息を吸い、次の瞬間、すべての雑念を振り払った。

 ボールを一度だけ左へ揺らし、相手の反応を誘う。重心がわずかに傾いた、その隙を見逃さない。右へ、一気に加速する。床がスニーカーの鋭い摩擦音を拾った。スピードに反応しきれない相手が、瞬く間に背後へ置き去りにされる。

 

 リングが見えた瞬間、体が自然と宙を舞った。放たれたボールは、寸分の狂いもなく、美しい弧を描いてゴールへ吸い込まれていく。

 

 ——ほんと、好きって感情は最強だと思います。

 

 そうか。

 彼は、気づいていたのだ。

 いつまでも過去の憧れの影を追い、見えもしない背中を探し続けていた、そんな自分の弱さに。そしてきっと、彼自身も同じ想いを抱え、もがき、苦しんで、それを乗り越えてきたのだろう。だからこそ、あんなにも迷いなく言い切れた。

 

 ——負けるな。

 ——頑張れ。 

 

 遠回しな言葉の奥に込められていた本音が、今なら痛いほどはっきりとわかる。ばらばらだったパズルのピースが、次々とはまっていく。

 それは、彼が何度も見せてくれた、あの背中。何も恐れず、ただ前だけを見据えて走る、その姿だ。

 

 つまりは——。

 

 ——先輩なら、越えられる。

 

 そう言われた気がした。

 

「ナイスシュート!」

 

 仲間の歓声が、体育館に響き渡る。リングの揺れる音が、まだ耳の奥で鳴っていた。着地した足に、確かな力が戻ってくる。

 

(越えられるかは、まだわからない。でも——)

 

 千夏はリングを真っ直ぐ見据え、静かに、強く拳を握った。新たな覚悟が、胸の奥で確かな熱を持って芽吹いている。光の差し込む体育館で、彼女はもう一度、ボールを手に取った。

 

 ——ほら、こうやるんだよ、こう!

 

 目の奥に残る懐かしい記憶へ向けて、そっと呟く。

 

「——ほんと、変わらないね」

 

 唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。

 ふたたび、コートに立つ足へ力を込める。

 

 今度はもう、迷わない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 千夏と暮らし始めてから、龍太にはいくつかの「約束事」が課されていた。中でも重いのが、「彼女を帰り道で一人にしないこと」。母からの強い要請で、理由は明白だった。女子バスケ部の練習は、試合前ともなれば夜遅くまで及ぶ。当然、帰り道は暗くなる。その彼女を、安全に家まで送り届ける——それが龍太の役目だった。

 

 通学路の防犯水準は、かなり高い。

 主要な通りには等間隔の街灯、入り組んだ路地にもその光は行き渡る。要所には防犯カメラ。女性が一人で歩くにも、これ以上ないほど安心できる環境だ。

 それでも母は心配性なのだろう。そして龍太自身、その過保護にも思える配慮の裏にある本当の意味を、わかっていた。だから文句ひとつ言わず、その取り決めを守り続けている。

 部活が終わる頃、ポケットのスマートフォンが控えめに震えた。千夏からのメッセージ。『今日は練習が早く終わった』という、簡潔な一文。確認するなり、龍太は指定の公園へ急いだ。

 校門での待ち合わせは人目を引く。だから二人は、それを意図的に避けていた。代わりに選んだのが、学校から少し離れた、この小さな公園だ。

 春の薄明かりがまだ残る夕刻。少しでも待たせるわけにはいかない。龍太はリュックを背負い直し、住宅街の舗装路を軽快に駆けた。柔らかな夕日が、背中をそっと押してくる。

 公園の入り口が見えはじめた、そのときだった。

 

「——そこのお兄さん」

「ぬぉっ!?」

 

 ふいの声に、心臓が跳ねた。

 背後でいきなりクラクションを鳴らされたように、体が硬直する。声のしたほうを見れば、狭い路地裏から、千夏がひょっこり顔を出していた。茶のミディアムヘアが、夕暮れの風に柔らかく揺れている。

 トップスは学校指定のジャージ。チャックは少し下げられ、中の白いTシャツが覗いている。まくった袖から伸びる腕は、長い練習で火照っているのだろう。下は制服のスカートのまま。部活帰りの学生らしい、どこか微笑ましいちぐはぐさを醸し出していた。

 

「なんで、そんな狭い路地裏にいるんですか! 普通に声かけてくださいよ!」

「普通に声かけたよ?」

「いやいや、なら何でそんなとこに——」

「猫がいたから」

 

 淡々と、しかし有無を言わさぬ返答に、龍太は脱力した。どうやら、路地裏で猫と戯れていたらしい。

 

「とりあえず、帰りましょうか」

「うん。いつもありがとう」

「いえ、別に平気です」

「今日みたいに明るい日は、一人でも大丈夫だよ?」

「まあ、親との約束もありますし。……あー、でも、もし先輩が誰かと一緒に帰りたいとか、一人がいいとか、そういうのあったら言ってください。……いや、でも、一人で帰りたいって言われたら……それはそれで困るような……ストーカーみたいに後ろからこっそりついてくのも、気持ち悪いし……でも、放っとけないし……」

 

 ぶつぶつ独り言を漏らしながら歩く龍太。それを横目に、千夏はくすくす笑いをこぼした。

 

「龍太くんって、真面目だね」

「いやいや、真面目って……先輩、自分がかなり美人だって自覚あります?」

「えっ」

 

 思わぬ言葉の刃に、千夏が足を止めた。

 つられて、龍太も立ち止まる。

 

「正直、この時間ならまだしも、夜遅くに車の送り迎えもない、ボディーガードの一人もいないって、不思議なくらいですよ。他校にまでファンがいるんですから、夜道はほんと気をつけたほうがいいです」

「……う、うん」

 

 千夏は気まずそうに視線を逸らし、ふいっと顔を横へ向けた。その仕草に、龍太は首を傾げる。横を向いた表情は、うかがい知れない。しばしの沈黙ののち、彼女がふたたびこちらを向いた。頬はほんのり赤く、少しムッとしたような、子供っぽい顔をしている。

 

「龍太くんって……ひとたらし?」

「は? いやいや、待ってください。俺はただ、先輩がもっと自分を可愛いって自覚したほうがいいって、心配してるだけじゃないですか」

「……やっぱり、ひとたらし」

「えぇ……先輩のほうが、よっぽど距離感近いと思うんですけど」

 

 釈然としないまま言い返す龍太。

 だが千夏はそれ以上応じず、また前を向いて歩き出してしまった。その小さな背中に追いつくべく、龍太は肩をすくめて後を追う。

 街灯がぽつぽつと灯りはじめ、空の茜が、夜の深い青へと溶けていく。遠くの商店街のざわめきを背景に、二人の足音だけが、夕暮れの道に静かに、確かに響いていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。