親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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3話

 

 

 

「位置について」

 

 声がかかった。

 ざわついたスタンドがすっと静まり、競技場は100m決勝のレース直前の独特の心身が切れるような鋭い重い沈黙に飲みこまれた。風までがぴたりと止まったようで、何もかもが静止して凍りつく。 ブロックに足をかけ、スタートラインに手をついて、前を見た。

 

 俺のレーン。

 5レーン。

 俺の道。

 俺の行く道。

 俺の走る道。

 まっすぐな道。

 100m。

 

 スプリントの夢の道。赤いタータンの走路が、午後の日差しに光って見えた。俺の走る一本のレーンだけが、そこだけ俺には光って見えた。まっすぐに、まぶしく、胸に刺さるほど美しく。 すべてを忘れた。 あの光る一本の赤い走路しか見えない。

 

「用意」

 

 号砲で飛び出して、光る走路を走った。俺の行く道を走った。ただ、ひたすらまっすぐ走る100m、この道が、何より好きだ。身体が飛ぶようなこのスピードが好きだ。俺の身体が感じる風が、俺の身体が巻き起こす風が、俺の身体が切り裂く風が好きだ。俺はスプリントのランナーだ。他のものは何もいらない。この身体とこの走路があればいい。 走路の先にゴールがある。左に仲間の背中が見えた。右にライバルの肩が見えた。ほとんど並んで走っている。背中が近づく。ぐんぐん近づく。追いつきたい。身体がバラバラになりそうだ。手と足がバラバラにならないように頑張る。頑張る。踏んば──

 

 ──所詮才能あったところで、上には上が居るんだよ……なぁ、結局プロになれるわけでもねぇのにそんなに必死になって、何の意味があんの? 

 

 意味はあると。

 そう答えを見いだせなかったから、あの時負けたのだろうか──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝の空気は、まだガラスのように澄んでいた。ひんやりとした静けさが、部屋の隅々まで満たしている。カーテンの隙間から差す薄明かりに龍太が目を覚ますと、どこからか、規則正しく刻まれる音が聞こえてきた。

 

 バン、バン、シュッ。

 

 ボールがリングに弾かれ、ときおりネットを鳴らす、乾いた音。まだ夜も明けきらぬ早朝だというのに、この音の主が誰かは、考えるまでもなかった。

 

「相変わらずだな……」

 

 呟いて一つ伸びをし、龍太は布団の中で目をこすった。半分眠ったままの意識が、そのリズムに引かれるようにして覚めていく。カーテンを開けると、庭のバスケットゴールと、その下で軽やかにボールを操る千夏の姿が飛び込んできた。

 

 春の柔らかな風に髪をなびかせ、額に汗を光らせる。その一つひとつの動きには、朝焼けそのもののような生命力が満ちていた。時計を見れば、針はまだ五時を少し回ったところ。最近の彼女は、何かに取り憑かれたようにバスケへ打ち込んでいる。

 

「朝っぱらから、頑張りますね」

 

 ベランダから声をかけると、千夏はぴたりと動きを止め、振り返った。額に張りついた髪をかき上げ、屈託なく笑う。

 

「おはよう、龍太くん。起こしちゃった?」

「いや、別に。でも最近、ずっと五時起きですよね。やけに気合入ってますけど、予選まではまだ日にち、ありますよね」

 

 六月のカレンダーに記された赤い丸が、脳裏に浮かぶ。その日に向けての練習だとはわかっている。だが、これほど彼女を駆り立てるものが、ただの生真面目さだけではないことも、龍太は感じ取っていた。

 

「まあね。でも、可愛い後輩の仇を取りたいから」

「……覚えてたんですか」

「うん。あの言葉で、もっと上を目指せるかもって思えたから。だから、ありがとう。龍太くんのおかげで、もっとバスケが好きになれた。ほんと……好きって気持ちは、最強だね」

 

 その言葉と、あまりに澄んだ笑顔に、龍太は思わず視線を外した。胸の奥で、心臓が大きく跳ねる。慌てて息を整え、平静を装った。彼女のこんな無防備な笑みを、真正面から受け止めたのは初めてかもしれない。見つめ続ければ、心臓のほうが先に音を上げそうだった。

 そんな内心の動揺を知ってか知らずか、千夏はふたたびリングへ向き直る。その瞳には、さっきまでの柔らかな光とは違う、研ぎ澄まされた輝きが宿っていた。ドリブルから、軽やかなステップでリングへ突き進む。流れるようなその姿に、龍太はしばし見惚れた。と、彼女の視線が、またこちらへ向く。

 

「龍太くんも、少しやる?」

「イヤですよ」

「えー、いいじゃん。少しだけ」

 

 じーっと期待を込めたような眼差しを向けてくる。

 根負けしたように、小さくため息を吐いた。

 

「……また拗ねないでくださいよ?」

「す、拗ねてないもん!」

 

 子供のように言い返す千夏に呆れつつ、龍太はベランダを離れようとした。が、その背に、慌てたような声が投げかけられる。

 

「や、やっぱり、やめとこうかな」

「えっ。そ、そうですか?」

「う、うん。なんか、ごめんね」

「いえ、俺は大丈夫ですけど……」

 

 歯切れの悪い物言いに、龍太は首を傾げた。視線を戻すと、彼女の頬がうっすら赤い。気まずそうに目を逸らすその仕草で、ふと、彼女がまだ汗をかいていることを思い出す。

 

「俺は別に気にしませんよ? っていうか、先輩いつもいい匂——ぬおっ!」

 

 突然、オレンジ色の塊が顔面めがけて飛んできた。咄嗟に受け止めると、バスケットボールだ。

 

「ちょ、何するんですか!」

 

 投げた張本人は、顔を真っ赤にしたままそっぽを向き、小さな声で抗議する。

 

「……えっち」

「は!? いやいや、俺、何もしてないでしょ!?」

 

 意味がわからない、とボールを投げ返すと、千夏は胸元でしっかり受け止め、ふいにそれで顔を隠してしまった。

 

「…………龍太くんのほうこそ、いつもいい匂いするもん」

「なんか言いました?」

「な、なんでもない」

 

 軽くドリブルしながら、千夏は無言で美しいレイアップを決めた。相変わらず、滑らかで鮮やか。まるで、内に秘めた感情がそのまま動きになったかのようだった。

 そのとき、家の中からエプロン姿の女性——龍太の母、香織が現れた。庭の光景を目にして、嬉しそうに、どこか面白がるように笑う。

 

「ウフフ、青春してるわねぇ」

「……あっ、いえ、アレはその」

「大丈夫。私にしか聞こえてないもの」

「……は、はい」

 

 おどけてウインクしてみせる香織に、よほど恥ずかしかったのか、千夏は耳まで赤くしている。その可憐さに、香織は思わず目尻を下げた。

 

「ごめんなさいね、龍くんったらデリカシーないから」

「い、いえ」

「お詫びと言ってはなんだけど——私と、どう?」

「えっ。香織さんと、ですか?」

「こう見えて私、結構うまいのよ?」

 

 戸惑いながらも、千夏はボールを胸に抱えたまま頷いた。

 

「お願いします!」

 

 香織は満足げに微笑むと、エプロンをさっと外し、ゴール下に立つ。その光景を見下ろしながら、龍太は頭を抱えた。

 

(また始まったよ……この人、ほんと好きだよな)

 

 こうして、香織と千夏の早朝のワン・オン・ワンが始まった。

 朝陽が少しずつ色を濃くしていくなか、リングを挟んだ二つのシルエットが、くっきりと浮かび上がる。千夏は軽やかなドリブルで間合いを測っていた。香織の動きを隅々まで捉えようと集中しているが、その目には緊張の色が混じる。やがて、スピードに乗った鋭い切り返しから左サイドを駆け抜け、ボールをリングへ放った。

 

「……えっ?」

 

 あっさり抜かれた香織が、一瞬、驚きの表情を浮かべる。観ていた龍太も、そのスピードに目を見張った。以前より、格段に速い。しかも、その動きの質がどことなく自分のそれに似ていることに気づき、息を呑む。

 

「なるほど。龍くんの影響ってわけね。でも、まだまだよ。いくわよ!」

 

 ニヤリと笑った香織がボールを受け取り、軽く回しながら独特のリズムでステップを踏みはじめる。ゆっくり近づいてくるかと思えば、次の瞬間には目で追うのがやっとの鋭いフェイントで左右へ揺さぶってくる。その動きは、ストリートの選手のように自由で、大胆不敵だった。

 

「すごい……っ」

 

 ボールは香織の手の中で生き物のように動き回り、千夏は完全に翻弄されていた。手元で小刻みに回すクロスオーバー、素早く膝下をくぐるレッグスルー、流れるように続くバックドリブル。一連の動作がすべて滑らかに繋がり、ひとつのリズムを生んでいる。

 

「速さだけじゃないの。大事なのは、間よ、千夏ちゃん!」

 

 香織が、ふっと動きを止めた。千夏がそれに合わせて反応しようとした、まさにその瞬間、次の一手が繰り出される。体の一部が完全に静止することで生まれる、予測のつかない「間」。その静寂が、かえって次の爆発を予感させ、千夏の集中を一瞬で乱した。

 隙を突き、香織はリング下へ滑り込むと、右手で軽やかにレイアップを放つ。ボールは綺麗な弧を描いてリングへ吸い込まれ、ネットが静かに鳴った。

 

「はい、次は千夏ちゃんね」

 

 千夏はボールを受け取り、今度こそ、とドリブルを開始する。だが香織は微笑みながら足を広げ、どっしりと構えた。右へ、左へとフェイントを重ねても、その重心は微動だにしない。

 

「そろそろ本気、出しちゃおうかな?」

 

 そう言った瞬間、香織の動きがさらに鋭くなった。千夏がリングを目指してドライブをかけると、香織は完璧なタイミングでサイドステップを刻む。まるで、千夏の次の行動がすべて見えているかのような予測力だった。

 

(速い……読まれてる!?)

 

 内側へ切り込もうとした刹那、香織の手がボールを軽く叩き、瞬時に奪い返す。そのまま全身を使った力強いドライブで、リング下へ突進した。

 必死にブロックを試みる千夏。だが香織は軽々と跳び、片手でボールを支えたまま、空中でしなやかに体をひねる。放たれたボールはバックボードに軽く当たり、寸分の狂いもなくリングへ収まった。

 

「これが、経験の差かしらねぇ」

 

 リングの揺れる音を背に、香織は満足げに笑う。まだまだ動けるわね、とでも言いたげに。千夏は膝に手をつき、荒い息を整えながら、悔しそうに眉を寄せた。

 

「……すごいです。でも、次は負けません」

 

 その目には、もう次の挑戦への炎が灯っている。香織は、その意気込みを見て楽しそうに目を細めた。

 

「いいわね、その気持ち。でもね、千夏ちゃん。速さだけじゃ勝てない。リズムと、間の取り方を覚えること。それが相手を崩す鍵なの。がむしゃらに突っ込むだけじゃ、すぐ読まれちゃう。もっと自由に、ボールと体で対話してごらん」

「はいっ!」

 

 力強く頷きながら、千夏はボールをぎゅっと抱きしめる。その姿は真剣そのもので、まるで人生を懸けた勝負のようだった。

 二人をベランダから眺めながら、龍太はただ肩をすくめるしかなかった。

 

(ほんと、容赦ないな……)

 

 母の香織は、ただの「バスケ好きな主婦」ではない。現役時代に全国優勝の経歴を持ち、さらにストリートバスケの本場アメリカで腕を磨いてきた、生粋のプレイヤーだ。

 その卓越したスタイルと指導力は、現役の監督すら凌ぐだろう。これほどバスケに打ち込める環境が、彼女がこの家を選んだ理由の一つなのかもしれない。

 視線の先では、千夏がふたたびボールを持ち直し、闘志をみなぎらせている。その負けん気に龍太が感心していると、いつの間にか隣に立っていた父が、ぽつりと呟いた。

 

「千夏ちゃんも香織も、ほんと負けず嫌いだな」

「どっから、あんなエネルギー湧いてくるんだか……」

 

 龍太は肩をすくめて応じる。

 

「お前がバスケをやらなかったからだろうな。自分の娘に教えるみたいに、熱が入っちまってる。まあ、後で千夏ちゃんのフォローでもしてやれ」

「はいはい」

「お前が野球をやってくれてりゃ、俺も熱が入ったんだがなぁ。どうだ、週末にでもキャッチボール」

「でたよ。はいはい」

 

 適当に返しながら、龍太は踵を返して自室へ向かった。クローゼットからランニングウェアを取り出し、慣れた手つきで着替える。

 

「走りに行くのか」

「ああ。俺も負けてられないしな」

 

 父の言葉を背に部屋を出ようとして、龍太はふと立ち止まった。

 

「そういえばさ。何で先輩、うちに住むことになったんだ?」

「うん? それは彼女のご両親が——」

「いや、そうじゃなくて。母さんと先輩のお母さんって、年も離れてるし、OB同士でも接点はほとんどないだろ? なのに、大事な娘を預けるって、なんか変じゃないか?」

 

 父は少し間を置いて、静かに答えた。

 

「それは、千夏ちゃん本人に訊くのが一番いい。お前にとって、答えの埋まらないパズルがあるなら——最後のピースは、きっと彼女が持ってる」

「はあ? なんだよ、それ……」

 

 肩を落としながら、龍太はシューズを手に取る。気を取り直して部屋を出ようとしたところで、ふたたび呼び止められた。

 

「龍太」

「ん?」

「千夏ちゃんはな。お前のレース、何度も応援に来てくれてたんだぞ」

「……え?」

 

 一瞬、時間が止まった気がした。

 

 龍太は、その言葉を頭の中で何度も繰り返した。

 信じられない思いで、その場に立ち尽くす。自分の知らないところで、彼女は何を思って、自分の走る姿を見ていたのだろう。

 その問いが、胸の奥をくすぐるような、抗いがたい期待となって、龍太の心を静かに侵しはじめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中高一貫のスポーツ強豪校、栄明学園。

 その広大なグラウンドは、県内でも指折りの規模を誇る。中心に据えられた赤いタータンのトラックは、競技者を迎えるステージのように堂々と構え、周囲にはハンドボール、テニス、野球の専用コートが整然と並ぶ。秩序ある都市の縮図、とでも言いたくなる眺めだった。

 朝日を浴びたグラウンドでは、すでに部員たちがトラックを駆け、種目ごとのアップを始めている。ここに集うのは皆、陸上に情熱を注ぐ精鋭たちだ。部員は二十七名。男子二十、女子七で、マネージャーはいない。短距離・跳躍、中長距離、投擲の三ブロックに分かれ、その区分は朝練にも色濃く表れている。

 かつて栄明学園陸上部は、全国大会の常連として名を馳せていた。その歴史は、部室に並ぶ賞状やトロフィーが物語っている。だが栄光は十年以上前から翳りはじめ、今では「中堅」と呼ばれることも少なくない。

 そんな中、昨年から再び注目を集めたのが、一年の田中龍太と、二人の先輩だった。龍太は全中四位の実績を持つ、瞬発力と持久力を兼ね備えた短距離のエース。その走りは、競技場に一陣の風を起こす。彼らの活躍に触発され、部員たちはまた闘志を燃やしはじめていた。

 

「よぉ、龍太。今日は随分、気合入ってない?」

 

 軽くジョグをしていると、並んで話しかけてきたのは、同学年の色黒の男——根岸だった。猿に似ている。いや、猿というよりネアンデルタール人か。額がやけに張り出して、目はくぼみ、頭蓋骨の標本を思い出させる。

 

「そう?」

「なんつーか、迫力ある」

「なんだそれ。……まあ、もう少しで予選だからな」

「ふーん。やっぱ、打倒・高梨?」

 

 その名に、龍太の表情が一瞬、引き締まった。

 

「まあな」

「おー、いいねぇ! ライバル、燃えますなー!」

 

 軽口にも動じず、龍太は淡々とトラックを駆け続ける。脳裏には、真剣勝負の舞台で高梨を抜き去る光景が、はっきりと描かれていた。

 アップを終えたところで、部長の号令がかかる。三年の投擲、円盤と砲丸の実力者だ。マッチョな猛者というより、眼鏡をかけた親しみやすい人柄。そして朝練には珍しく、顧問もぶらりと現れた。鶴田。外部顧問で三十三歳独身、たいていの生徒からは「鶴ちゃん」と呼ばれている。鳥の巣みたいにぼさぼさの天然パーマ、いつも眠そうな垂れ目。この部のOBらしいが、元陸上選手にはとても見えない。

 鶴田は、選手を一人ずつぐるりと見渡した。

 

「よし、アップ終わったな。とりあえず、熊谷目指して今日も頑張れよ」

 

 入部したての生徒が何人か、疑問符を浮かべる。それを察した鶴田が補足した。

 

「ああ、熊谷競技場な。そこが西地区の予選会場だ。いいか、おまえら、地区はちゃんと抜けろよ。後がつまんねえからな。全種目で県に行くぞー。気合入れてけー」

 

 当人はちっとも気合の入っていない顔で、声だけはなぜか大きい。「はい」「おお」と先輩たちが返す。

 

「念のため説明しとくと、インターハイ——総体とも呼ぶがな、高校陸上最大のイベントだ。総体予選は三段階ある。まず各地区の予選、次が県。県でベスト六に残ると関東大会へ進める。関東は南北に分かれてて、埼玉は群馬、栃木、茨城と一緒の北関東だ。この北関東大会が、インターハイの最終予選になる。ここで決勝まで勝ち上がって六位以内に入れば、晴れて全国——インターハイ出場が決まる。ここ十年、うちのインターハイ選手は、まだ二人だけだ。デカい夢だが、おまえらにも目指してほしい。だがまずは一歩ずつ、一つひとつの大会、一つひとつのレースで、持てる力をきっちり出して勝っていくことだ」

 

 そして、各ブロックに分かれての練習に入る。

 今度の地区大会、一年は各種目三人の選手枠に入る力があっても、高体連や試合の登録が済んでいなければ出られない。実力はあるのに、登録が間に合わず出場できない者もいる。つまり一年でインターハイ路線の試合に出るのは、中学からやっていて早めに入部を決めた、相当な実力者に限られる。

 むろん龍太もその一人で、百、二百、リレーに出る予定だ。とはいえ朝練はどちらかと言えば基礎練が中心なので、新入部員と同じメニューをこなすことにした。

 トラックの内側で、ハードル・ウォーク。ハードルを五台ほぼくっつけて並べ、横向きにまたぎ越していく。走るための正しいフォームを作る基礎で、体の軸を鍛えるトレーニングだ。この〝軸を作る〟というのがとにかく重要らしく、頭から足まで、体の真ん中にまっすぐな軸を意識しながらフォームを整え、筋肉を鍛える。理論はおいおい教えるから、まずは体で覚えろ——それが鶴田の方針だった。

 手本を見せろと指名された龍太が、バレリーナのようにポンポンと軽やかにやってのけると、初めて挑む生徒から感嘆の声が上がった。続いて見様見真似で数人が試すなり、さっそく鶴田の檄が飛ぶ。

 

「背筋伸ばして! 前を見ろ。下を見ると背中が曲がるからな。まっすぐだ。まっすぐのイメージをしっかり持て。それじゃ反りすぎだ。後ろに反ってもダメだぞ。脚全体を突っ張って、その上に腰を乗せる感じだ! 足で地面を押して、返ってくる力で次へ行け」

 

 両方向、ステップ付きで、何度も何度も体に叩き込む。膝がだるくなってきた者が、ちらほら檄を飛ばされていた。

 

「田中くん、ちょっとコツ教えてもらってもいい?」

 

 その声は柔らかく、どこか涼しげだった。龍太は額の汗を拭いながら振り向く。目に入ったのは、肩にかかるほどの黒髪ストレートの少女。さらりと揺れる髪が清楚な雰囲気を纏いながら、その存在感には妙な重みがあった。

 

「神谷……さん、だよね?」

 

 記憶を手繰り寄せて答えると、彼女はうっすら微笑んだ。どこか物足りなさを感じさせるのは、切れ長の瞳のせいだろうか。ダークブラウンの瞳は、音のない湖面のように静かで深い。その奥に、何か底知れないものを潜ませている気がした。

 

(……なんだ、この感じ)

 

 胸の奥で、かすかな違和感が広がる。視線が絡んだ瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れた。ほんの一瞬。すぐに、何事もなかったような平静へ戻る。

 

「うん、神谷で合ってる。えっと、あのステップ、どうも上手くいかなくて……」

 

 彼女が指したのは、さっき鶴田が繰り返し注意していたステップだった。両足で地面を押して反発を使う、一見シンプルな動き。だが実際にやると、地味に難しい。体全体のタイミングが鍵になる技術だ。

 

「そっか。じゃあ、一緒にやってみるか」

 

 言葉を選びながら返し、龍太はさりげなく距離を取るように立ち位置を調整した。だが、それが気に障ったのか、切れ長の瞳が一瞬だけ鋭さを帯びる。

 

(……見られてる?)

 

 行動を見透かされているような感覚に、背筋を冷たいものが走った。だが彼女はすぐに微笑み直し、何事もなかったように頷く。

 

「うん、ありがとう」

 

 穏やかな声で、含まれる余韻に毒気のかけらもない。それがかえって、龍太の違和感を膨らませた。彼は軽く息を吸い、頭をリセットするように手を一度振る。

 

「まずは足の位置からかな。地面を押す感じで、ストン、ストンって、力を抜きながら……」

 

 実際に動きながら説明する。ステップの音がフロアにリズムよく響き、それに合わせて彼女もぎこちなく動き出した。

 

「こんな感じでいいの?」

「うーん、もう少し重心を意識して。あと、膝の使い方もポイントかな。反動を活かして……」

 

 言いながら観察すると、その動きは思ったより滑らかだった。いや、むしろ驚くほど正確だ。初挑戦のはずのステップを、彼女はもう何度も練習してきたかのようにこなしている。

 

(……なんだ、普通にできてるじゃん)

 

 つい、口元に苦笑が浮かぶ。手本など要らないほどだ。だが次の瞬間、彼女がじっと龍太を見つめてきた。

 

「田中くんって、やっぱり上手いね」

「えっ」

 

 不意打ちに、龍太は動きを止めてしまう。その間も、彼女の視線は揺るがず彼を捉えたままだ。瞳の奥に、さっき感じた底知れぬものが、また覗いている気がした。

 

(……なんだろう、この感じ)

 

 不安と、奇妙な興味。その狭間で揺れたが、口にもできず、龍太は視線を逸らした。

 

「いや、俺なんてまだまだだよ。鶴田先生にしごかれてるし……」

 

 照れ隠しに苦笑すると、神谷はまた、あの穏やかな微笑みを返してくる。その笑顔の裏に何が隠れているのか、龍太には知るすべもなかった。

 

 

 

 

 

 

 朝の教室は、窓から射し込む柔らかな光に満ち、机の上に淡い影を落としている。始業前のざわめきが心地よいBGMのように空間を包み、鞄を開ける音や、弾むような談笑が静かに響いていた。

 

「へぇ、それで基礎練やりすぎて、バテてるんだ」

 

 蝶野雛の、明るく澄んだ声が、机に突っ伏した龍太の耳へ飛び込んでくる。顔を上げずとも、トレードマークのお団子ヘアが楽しげに揺れる様子が目に浮かぶ。その瞳にはきっと、新しいおもちゃを見つけた子供のような好奇心と、悪戯っぽい光が宿っているのだろう。

 

「……うるせぇよ」

 

 伏せたまま、誰にともなく呟く。だが、口元には隠しきれない苦笑があった。

 

「相変わらず頑張ってるねぇ。さすが全中四位、気迫が違いますな、旦那」

「そりゃ、お前も一緒だろうが」

 

 雛は新体操部のエースで、全国大会でも常に好成績を収める実力者だ。父親が元体操の日本代表という華々しい背景を持ちながら、それを鼻にかけることなく、いつも教室の中心で太陽のように笑っている。その笑顔に、周囲の男子が密かに視線を送るのも無理はない、と龍太は思う。

 二人の掛け合いに、割って入るように大喜が熱っぽく語り出した。

「いいなぁ。俺も今年はインターハイ行きたい」

「今のままじゃ無理じゃない? 一年でインハイなんて、これまでの歴史でも数人くらいだよ」

「そうだけど、目指す分には自由だろ?」

 

 隣の匡の的確すぎる指摘にも、大喜の闘志は微塵も揺らがない。その純粋な情熱に、雛は楽しそうに口元を緩め、わざと軽口を放つ。

 

「相変わらずバド好きだねぇ。バドバカ?」

「それ、悪口だろ」

「褒めてるって、バドバカ大喜」

「全然褒められてる気がしないんだけど」

 

 不満げに眉を寄せる大喜に、雛が声を立てて笑う。そんな何気ないやり取りを、龍太はいつものように少し離れて眺めていた。彼の学校生活は、この三人——雛、大喜、匡とともにある。全員が中学からの内部進学者で、気心の知れた仲間だ。

 クラスの大半が内部生だから、高校デビューの気負いもなく、新たに友人関係を築く苦労も少ない。陸上に集中できるこの環境は、龍太にとって何よりありがたかった。

 大喜と雛が軽口を叩き合い、それを冷静な匡が諌め、龍太がぼんやり眺める。この変わらない日常が、ずっと続けばいい。心からそう思う。

 もっとも、最近加わった一つの変数が、その日常に小さな波紋を広げていることにも、彼は気づいていた。

 

(大喜には、いつ言えばいいのやら……)

 

 そんなことを考えていると、唐突に名を呼ばれた。気怠げに振り返ると、同じ陸上部の根岸が、小さなノートを手に立っている。

 

「根岸?」

「これさ、剛毅さんに届けてくれない?」

 

 剛毅とは、一つ上の先輩、周防剛毅のことだろう。だが、差し出されたノートの表紙には、マジックででかでかと【剛毅ノート】とある。あまりに安直なネーミングに、龍太は思わず眉をひそめた。

 

「これ、剛毅さんのノートでさ、トレーニング方法とか色々書き込んでるんだよ。部室に置きっぱだったから、今すぐ届けてくんない?」

「いや、放課後でいいじゃん」

「それがよ、授業中にこれ書いてんのよ、あの人。だから今すぐ頼む」

「はぁ? いや、根岸が行けよ」

「いやぁ、上級生のクラスってなんか苦手でさ。んじゃ、頼むよ」

「ちょ、お前——行っちまったよ」

 

 嵐のように言い残し、根岸は廊下へ消えていく。手元に残されたノートを見つめ、龍太は深い溜息をついた。

 

「剛毅さんって、あの周防剛毅さん?」

 

 雛の問いに、龍太は鷹揚に頷く。

 部の違う彼女ですら知っているほど、インターハイ出場選手である彼の名は通っている。龍太は頭の中で教室の配置を思い浮かべ、彼の居場所を割り出した。

 

「二年B組か」

「二年B組って、もしかして——」

 

 ふと閃いたように、雛の瞳が好奇心でキラキラと輝きを増した。

 

「鹿野千夏先輩のとこだよね!? そういえば、連絡先交換したあと、どうなったのー?」

 

 絶賛、毎日顔を合わせてます——なんて。親友の大喜がいるこの場所で、死んでも口にできるはずがない。

 

「どうもこうもないわ。大喜のほうこそ、どうだったんだ」

「えっ? 俺?」

 

 思わぬ矛先に、大喜が目を瞬かせる。

 

「そりゃそうだろ。俺が苦労してゲットしたんだから」

「なんで大喜?」

 

 あたふたと口ごもり、何やらゴニョゴニョ呟く様子から、何の進展もないことは明らかだった。雛は意味ありげな視線を龍太と大喜の間で往復させたが、詳しい説明はいずれ本人がするだろうと判断し、龍太は席を立った。

 廊下を歩きながら、後で親睦会でも企画するか、と考える。そうすれば、少しは二人の距離も縮まるかもしれない。

 

 その瞬間、ふと自分の思考に気づき、龍太の足が止まった。

 

 なぜ自分が、そんなことを考えているのか。落ち着かない奇妙な感覚に襲われながらも、それを振り払うようにまた歩き出し、階段を上った。

 

 二年の教室にたどり着くと、幸い、扉が少しだけ開いていた。中から漏れる談笑が廊下の喧騒に溶けていて、これなら悪目立ちもしないだろう、と安堵の息を漏らす。控えめに「失礼します」と声をかけ、そっと足を踏み入れた。

 窓際に目をやると、剛毅が静かに本を読んでいる。その斜め左。春の柔らかな陽だまりの中で、千夏が友人たちと笑顔で語らっていた。日差しが髪をやわらかく照らし、その光景はまるで一枚の肖像画のように、完璧な美しさで切り取られている。

 その千夏が、ふと気づいたようにこちらを向いた。視線が絡み、瞳がわずかに見開かれる。驚きの表情は、次の瞬間、柔らかな微笑みへ変わった。あまりに無防備なその笑みに、龍太の心臓が、とくん、と軽く跳ねる。どうにか会釈を返し、剛毅の席へ歩を進めた。

 だが、こちらを迎えた剛毅の気さくな笑顔を見た瞬間、強烈に嫌な予感がした。

 

「おお、龍太! 何してんだ?」

「ちょっ……!」

 

 案の定、剛毅の屈託ない声が、教室中に朗々と響き渡る。その瞬間、教室じゅうの視線が一斉に龍太へ突き刺さった。思わず肩をすぼめる。根岸がこの役目を押しつけてきた理由が、今なら痛いほどわかった。深々と溜息をつき、龍太はノートを差し出す。

 

「これ、部室にあったらしいんで、届けに来ました」

「おっ、サンキュー! 助かったわ。ほら、そこ健吾の席だ。座れよ」

「いや、俺はこれで……」

「まぁまぁ、いいから座んなって」

 

 強引な誘いを断りきれず、龍太は仕方なくその後ろの席に腰を下ろした。針生健吾の席だというから、後で怒られたら全部剛毅のせいにしよう、と心の中で密かに決める。

 

「いやぁ、助かったわ。これないと授業中、暇なんだよなぁ」

「何を堂々とサボタージュ宣言してるんすか」

「あー、今日の分、書かないと」

「えっ、ちょっと!」

 

 呆れる龍太を完全に無視し、剛毅はノートの世界へ没頭していく。置いてけぼりにされた龍太は、ただ呆然とするしかなかった。

 

(……もう帰っていいよな、これ)

 

 周囲から注がれる好奇の視線に、居心地の悪さが募る。下級生が上級生の教室に紛れ込んでいる、というだけで目立つのに、ましてやそれが自分となればなおさらだ。

 

 もう用は済んだのだから帰ろう——そう思った矢先、今朝の過剰な練習がたたったのか、抗いがたい睡魔が襲ってきた。漏れたあくびを隠す気力もなく、春の穏やかな空気に、緊張の糸がゆるゆると緩んでいく。

 

「朝練、大変だったんだね」

 

 ふいに、柔らかな声がすぐそばで聞こえた。

 顔を上げると、いつの間にか千夏が隣の席からこちらを見ている。少し傾けた顔に、風に揺れるような穏やかな笑みが浮かんでいた。

 

「まぁ、自業自得ですけどね。少しやりすぎました」

 

 自嘲気味に笑うと、千夏もくすりと笑みをこぼす。

 

「お疲れさま。でも、あんまり頑張りすぎちゃダメだよ?」

「ありがとうございます」

 

 あくびを噛み殺しながら、まだぼんやりした頭で龍太は言った。

 

「この席、俺の席と同じ場所なんで、なんだか落ち着いちゃいますね」

「そうなんだ」

 

 千夏は少し驚いたように目を瞬かせると、机に腕を乗せ、龍太と同じように突っ伏した。

 自然と、向かい合う形になる。

 澄んだ瞳が、じっとこちらを捉えていた。その真っ直ぐな視線は、本人がその破壊力を心得ているのではと疑いたくなるほど、強い引力を帯びている。

 

「な、なんすか」

「もし同じ学年だったら、お隣さんだね」

 

 千夏が、ぽつりと呟く。

 

 ——もし、同じ学年だったら。

 

 想像したこともない光景が、一瞬、鮮やかに脳裏を駆けた。

 

 もし、自分の隣の席に、毎日こんなに美しい彼女が座っていたら——いや。確実に落ち着かない。毎日こんな至近距離で話しかけられ、からかわれでもしたら、授業どころではなくなるに決まっている。

 

「……それはなんというか、俺がいじめられそうですね」

 

 現実離れした妄想を振り払うように、龍太は冗談めかした。すると千夏は、クスクスと悪戯っぽく笑う。

 

「そんなこと言うと……授業中、龍太くんが指されても、答え見せてあげないよ?」

「いや、お代官様それは勘弁を……って、なんで聞いてない前提なんですか! ちゃんと、しっかり、真面目に聞いてますって」

「へぇ……さっきの授業、何やったの?」

「…………歴史?」

「…………」

「…………はいはい、どーせ不良生徒ですよーだ」

 

 じーっと見つめられ、居た堪れず根負けして吐露すると、千夏は声を立てて笑い出した。その笑顔がまた彼女自身の輝きを増すようで、龍太は思わず視線を泳がせる。

 

 きっと彼女は、真面目に授業を受けているのだろう。

 推薦を狙えるほど成績が優秀だと聞いたことがある。

 改めて、この人に弱点はないのか、と疑いたくなった。せめて、動物性愛のような特殊な性癖でもあれば、人間味があって面白いのだが——と、不思議なことを考えながら視線を戻すと、また澄んだ瞳と目が合う。

 不意打ちに、心臓が跳ねた。

 

「な、なんでこっち見てるんです」

「……龍太くんが、こっち見てるから?」

 

 返事は、あまりにあっけらかんとしていた。その屈託のなさに呆気に取られたのか、龍太はなぜか、自然と彼女の瞳を見つめ返していた。

 

 沈黙が、二人のあいだに降りる。

 

 風の音さえ遠く感じるほど、世界は静まっていた。

 

 まるで、時間だけが二人を残して、静かに通り過ぎていったかのように。

 

 ふいに、千夏の頬がほんのり赤らんだ。春の光の中でそれが一層愛らしく見えてしまい、耐えきれず、龍太はまた目を逸らす。

 

「あ、逸らした。龍太くんの負け」

「なんで勝負になってるんですか……」

 

 恥ずかしさを紛らわせるように、龍太は机に突っ伏した。だが、胸の中で鳴り騒ぐこのざわめきは、いっこうに消えてくれない。

 龍太には、彼女と暮らすにあたって、心に決めたことがあった。

 

 ——彼女を、決して「可愛い」と思ってはならない。

 ——彼女に、決して好意を持ってはならない。

 

 理由は、至極単純だ。

 親友の恋を応援する立場で、そんな邪な感情は、断じてあってはならないものだから。

 しかし、その頑なな決意を露ほども知らない彼女は、ロマンスという名の爆弾を、無邪気に、平然と投げ込んでくる。それを毎度、真正面から受け止める龍太の理性は、もはやガリガリと削られる一方だった。

 

 ほんと、勘弁してくれ。

 胸中で、悲鳴に近い嘆息を漏らす。

 そのとき、ふと、父の言葉が鮮やかに蘇った。

 

 ——千夏ちゃんはな。お前のレース、何度も応援に来てくれてたんだぞ。

 

「あの、先輩って」

「?」

 

 龍太は顔を上げ、千夏を見た。

 

「俺のレース、見に来てくれてたんですね。知りませんでした」

 

 その言葉に、千夏は少し目を見開いたあと、すぐにいつもの柔らかな笑みへ戻る。だが、その視線はどこか遠くを見るように、わずかに揺れていた。

 

「もしかして、香織さんから聞いた?」

「いえ、父さんから聞きました。どうして——」

 

 ——自分のレースを、見に来てくれたんですか。

 

 そこに、彼女が田中家へ来た本当の理由が隠れている気がした。それを解き明かせるかもしれない、という淡い期待を胸に、龍太は彼女の瞳を真っ直ぐ見つめる。

 答えを、待った。

 その真剣な眼差しから、彼女は何を悟ったのか。

 何を、感じ取ったのか。

 千夏は、悪戯っぽく微笑んだ。

 

「——ないしょ」

「えぇ……なんすか、それ」

 

 あまりに掴みどころのない答えに、今度こそ力尽きたように、龍太は睡魔へ身を委ねたのだった。

 

 

 

 

「寝ちゃった」

 

 しばらくして、龍太の口から小さな寝息が立ちはじめた。そのあどけない寝顔を、千夏は慈しむような瞳で静かに見つめている。朝からハードな練習をこなし、さっきは玄関で倒れ込むように横たわっていた彼の姿が、脳裏に蘇った。心身ともに、相当な疲れが溜まっているのだろう。

 ふと、すぐそばで、自分のものではない声が響く。

 

「——で、この一年、ここで寝かせとく気か? 俺の席なんだけど」

 

 呆れたような、それでいてどこか面白がる声色で、針生健吾が眠る龍太を見下ろしていた。千夏が、くすっと笑って顔を上げる。

 

「あ、帰ってきた」

「そりゃ俺の席だからな。……コイツ、陸部の田中か」

「うん。周防くんの忘れ物を届けに来てくれて、そのまま寝ちゃった」

「いや、だとしても普通、俺の席で寝るか?」

「そうだね。龍太くんって、面白いよね」

「面白いって……」

 

 可笑しそうに小声で笑い、千夏はまた好奇心に満ちた顔で龍太の横顔を見つめる。その様子に、健吾は内心、稲妻に打たれたような驚きを覚えていた。

 

 健吾の知る鹿野千夏は、誰にでも分け隔てなく接する、親しみやすい少女だ。その人柄は春風のように心地よく、だからこそ彼は、良き隣人として、親しい友人になれた。困っている人間がいれば、ごく自然に手を差し伸べる。そのさりげない優しさに惹かれる者は、後を絶たない。

 ただ、彼女は自分の内面を語るのがあまり得意ではないのか、その素顔は常に柔らかなヴェールに包まれている。

 何を考え、何を感じているのか。誰よりも彼女と親しいという自負のある健吾でさえ、そのポーカーフェイスの奥を読み解くのは容易ではなかった。

 

 だが、今、目の前にいる彼女は違う。

 

 普段の快活な笑顔とも、コートで見せる勝気な表情とも異なる、どこか柔らかく、儚げな空気を纏っている。眠る後輩を見つめるその瞳は普段より格段に優しく、本人すら気づいていないであろう静かな愛おしさが、その眼差しから滲み出ていた。

 

 眠る龍太の唇が、かすかに動く。

 その些細な動きに反応して、彼女の口元もまた、自然と柔らかく弧を描いた。誰かに見られたら、きっと恥ずかしさのあまり隠してしまうに違いない——あまりに無防備で、特別な種類の表情だった。

 

 健吾はふっと息を吐き、見てはいけないものを見てしまったかのように、そっと視線を逸らす。

 そういえば、龍太に連絡先を教えたときの彼女も、妙にあっさりしていた。あのときは少し驚いただけだったが、こうして二人が並ぶ姿を目の当たりにすると、不思議なほど腑に落ちるものがある。

 

「なあ。ちーってさ」

「んー?」

「……いや、なんでもない」

 

 上機嫌な彼女に何かを言いかけて、健吾は結局、口をつぐんだ。千夏は不思議そうに首を傾げているが、自分の中に芽生えつつある感情の正体には、まだ気づく様子もない。

 ならば、今は黙っているのが得策だろう。そう判断し、健吾は視線を、だらしなく眠る後輩——田中龍太へと戻した。

 

 彼の名は、校内にとどまらず、陸上競技の世界でも広く知られている。中学時代に全国大会で四位に輝き、その功績は数多くの陸上雑誌や特集記事を賑わせた。写真で見た者の多くが「漫画のヒーローみたいだ」と漏らす。切れ長の目元、通った鼻筋、程よく引き締まった輪郭。どの角度から見ても、非の打ちどころのない、彫刻のような顔立ちだ。

 

 だが、彼の真の魅力は容姿だけにとどまらない。長身がフィールドを駆け抜ける姿は、まさに一陣の風。スタートの一歩目で他を引き離し、最後までペースを乱さないその美しいフォームは、見る者の心を掴んで離さない。鋭い集中力と圧倒的な爆発力が融け合った走りは、誰もが「本物の天才」と讃えるにふさわしかった。それだけのポテンシャルを持ちながら、決して驕らない謙虚さが、彼の人間性を一層際立たせている。千夏同様、男女問わず学内に密かなファンが多いのも、当然と言えた。

 

 二人とも、本物の実力を持ちながら、それをひけらかすことなく、ごく自然体で日々を過ごしている。その共通点こそが、互いに余計な気を遣わずにいられる、心地よい安心感を生んでいるのかもしれない。

 二人が並んで歩く姿を想像すれば、それはきっと、絵になる光景だろう。

 

 さぞお似合いだろうな、と健吾は思う。

 

 だが、今はまず、この無防備な後輩をどうにかしなければならない。当人たちは気づいていないだろうが、この二人がそろうと、教室に入った瞬間の空気の色が変わるほど目立つのだ。そして周囲から寄せられる、羨望と嫉妬の入り混じった視線を、健吾は肌で感じていた。

 冷静に状況を分析した結果、健吾はそっと握り拳を作ってみせた。

 

「とりあえず、ゲンコツでもして起こすか」

「それは可哀想だよ」

「あのな、これじゃ俺、授業受けられないんだぞ。ちーは、どっちの味方なんだ」

「……龍太くん?」

「おま……」

「冗談だよ。どうしよっか」

 

 クスクス笑う千夏に、健吾は溜息をついた。

 

「自覚があるんだか、ないんだか……。とりあえず、マジで起こすぞ」

「せめて保健室とかに連れてってあげようよ。私、動けるし」

「いや、ちーがコイツを担いでいくのは、さすがにどうなんだ。というか、なんでそんな発想になる」

 

 苦笑しながら、健吾は龍太の頭を軽く小突いた。

 

「——なんつーか。これ、花恋が知ったら驚くだろうな」

 

 この二人の関係は、これからどう変わっていくのだろう。

 そんなことをぼんやり考えながら、健吾はふたたび、あどけない寝息を立てる後輩を見下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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