親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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3話

 

 

 

「位置について」

 

 声がかかった。

 ざわついたスタンドがすっと静まり、競技場は100m決勝のレース直前の独特の心身が切れるような鋭い重い沈黙に飲みこまれた。風までがぴたりと止まったようで、何もかもが静止して凍りつく。 ブロックに足をかけ、スタートラインに手をついて、前を見た。

 

 俺のレーン。

 5レーン。

 俺の道。

 俺の行く道。

 俺の走る道。

 まっすぐな道。

 100m。

 

 スプリントの夢の道。赤いタータンの走路が、午後の日差しに光って見えた。俺の走る一本のレーンだけが、そこだけ俺には光って見えた。まっすぐに、まぶしく、胸に刺さるほど美しく。 すべてを忘れた。 あの光る一本の赤い走路しか見えない。

 

「用意」

 

 号砲で飛び出して、光る走路を走った。俺の行く道を走った。ただ、ひたすらまっすぐ走る100m、この道が、何より好きだ。身体が飛ぶようなこのスピードが好きだ。俺の身体が感じる風が、俺の身体が巻き起こす風が、俺の身体が切り裂く風が好きだ。俺はスプリントのランナーだ。他のものは何もいらない。この身体とこの走路があればいい。 走路の先にゴールがある。左に仲間の背中が見えた。右にライバルの肩が見えた。ほとんど並んで走っている。背中が近づく。ぐんぐん近づく。追いつきたい。身体がバラバラになりそうだ。手と足がバラバラにならないように頑張る。頑張る。踏んば──

 

 ──所詮才能あったところで、上には上が居るんだよ……なぁ、結局プロになれるわけでもねぇのにそんなに必死になって、何の意味があんの? 

 

 意味はあると。

 そう答えを見いだせなかったから、あの時負けたのだろうか──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝の空気はまだガラスのように透明で、ひんやりとした静けさが部屋全体を包み込んでいた。カーテンの隙間から差し込む薄明かりに龍太が目を覚ますと、どこからか微かに、しかし規則正しいリズムを刻む音が聞こえてきた。

 

 バン、バン、シュッ。

 

 バスケットボールがリングに弾かれ、時折ネットを揺らす、乾いた音。まだ夜も明けきらぬ早朝だというのに、この音の主が誰であるかは、龍太にはすぐに分かった。

 

「相変わらずだな……」

 

 小さく呟き、一つ伸びをすると、龍太は布団の中でぼんやりと目をこすった。半分眠ったままの意識が、そのリズミカルな音に導かれるようにして、ゆっくりと覚醒していく。カーテンを開けると、視界に飛び込んできたのは、自宅の庭に設置されたバスケットゴールと、その下で軽やかにボールを操る千夏の姿だった。

 春の柔らかな風に髪をなびかせ、額には玉の汗を光らせる。彼女の一つ一つの動きには、まるで朝焼けそのもののような、鮮烈な生命力が満ち溢れていた。時計に目をやると、針はまだ朝の五時を少し回ったところだ。最近の彼女は、明らかに何かに取り憑かれたように、バスケットボールに打ち込んでいる。

 

「朝っぱらから頑張りますね」

 

 ベランダから声をかけると、千夏はぴたりと動きを止め、振り返った。額に張り付いた髪を手でかき上げながら、彼女は屈託のない笑顔を見せた。

 

「おはよう、龍太くん。起こしちゃった?」

「いや、別に。でも、最近ずっと5時には起きてますよね。ずいぶん気合入ってるみたいですけど、まだ予選まで日にち、ありますよね?」

 

 龍太の脳裏に、六月のカレンダーに記された赤い丸が浮かび上がる。その日に向けての練習であることは分かっている。だが、これほどまでに彼女を駆り立てるものが、単に彼女の生真面目な性格だけではないことも、彼は感じ取っていた。

 

「まぁね。でも、可愛い後輩の仇を取りたいから」

「……覚えてたんですか」

「うん。あの言葉で、私、もっと上を目指せるかもしれないって思えたから。だから、ありがとう、龍太くん。龍太くんのおかげで、もっとバスケが好きになれた。ホント……好きって気持ちは、最強だね」

 

 その言葉と、あまりにも純粋な笑顔に、龍太は思わず視線を逸らした。胸の奥で、心臓が大きく跳ねるのを感じる。慌てて深呼吸をして、どうにか平静を装う。彼女のこんなにも無防備な笑顔を、真正面から受け止めてしまったのは、初めてかもしれない。直視し続ければ、自分の心臓がもたないような気がした。

 そんな龍太の内心の動揺を知ってか知らずか、千夏は再びリングへと向き直る。その瞳には、先ほどまでの柔らかな光とは違う、真剣な輝きが宿っていた。

 ボールをドリブルしながら、軽やかなステップでリングへと突き進んでいく。その流れるような姿に、龍太はしばし見惚れていた。ふと、彼女の視線が、再びこちらへと向けられた。

 

「龍太くんも少しやる?」

「イヤですよ」

「えー、良いじゃん。少しだけ」

「……はぁ、また拗ねないでくださいよ?」

「す、拗ねてないもん!」

 

 子供のように言い返してくる千夏に、龍太は呆れつつも、ベランダを離れようとした。しかし、その背中に、慌てたような彼女の声が投げかけられた。

 

「や、やっぱり辞めとこうかな」

「えっ、そ、そうですか?」

「う、うん。なんかごめんね」

「いえ、俺は大丈夫ですけど……」

 

 どこか歯切れの悪いその物言いに、龍太は首を傾げる。再び彼女に視線を戻すと、その頬がうっすらと赤く染まっていることに気がついた。気まずそうに目を逸らすその仕草を見て、ふと、彼女がまだ汗をかいていることを思い出した。

 

「俺は別に気にしませんよ? というより先輩いつもいいにお──ぬおっ!」

 

 突然、オレンジ色の塊が顔面めがけて飛んできた。咄嗟に両手で受け止めると、それはバスケットボールだった。龍太は驚きのあまり、声を上げる。

 

「ちょ、何するんですか!」

 

 ボールを投げた張本人である千夏は、顔を真っ赤に染めたままそっぽを向き、小さな声で抗議の言葉を呟いた。

 

「……えっち」

「は!? いやいや、俺何もしてないでしょ!?」

 

 意味が分からない、と龍太がボールを投げ返すと、千夏はそれを胸元でしっかりと受け止めた。そして、ふいに、そのボールで顔を隠してしまった。

 

「…………龍太くんの方こそ、いつもいい匂いするもん」

「なんか言いました?」

「な、なんでもない」

 

 ボールを軽くドリブルしながら、千夏は無言で美しいレイアップシュートを決めた。その動きは相変わらず滑らかで鮮やかで、まるで彼女の内に秘めた感情そのものを表現しているかのようだった。

 その時、家の中からエプロン姿の女性──龍太の母親である香織が現れた。庭での光景を目にした彼女は、嬉しそうに、そしてどこか面白そうに笑みを浮かべた。

 

「ウフフ、青春してるわねぇ」

「……あっ、いえ、アレはその」

「大丈夫。私にしか聞こえてないもの」

「……は、はい」

 

 おどけてウインクしてみせる香織だが、余程恥ずかしかったのか、千夏は赤面した可憐きわまる女の顔になっていた。香織は思わず温かい眼差しを向けた。

 

「ごめんなさいね、龍くんったらデリカシーないから」

「い、いえ」

「それの代わりと言ってはなんだけど、私とどう?」

「えっ、香織さんとですか?」

「こう見えても、私、結構上手いのよ?」

 

 少し戸惑いながらも、千夏はボールを胸に抱えたまま頷いた。

 

「お願いします!」

 

 香織は満足そうに微笑むと、身につけていたエプロンをさっと外し、ゴールの下に立った。その光景をベランダから見下ろしながら、龍太は頭を抱えた。

 

(また始まったよ……この人、ほんと好きだよな)

 

 こうして、香織と千夏の、早朝のワン・オン・ワンが始まった。

 朝陽が少しずつその色を濃くしていく中、庭のリングを挟んだ二人のシルエットが、鮮烈に浮かび上がる。千夏は軽やかなドリブルで香織との間合いを測っている。その視線は、香織の動きを隅々まで捉えようと集中しているが、どこか緊張の色が混じっている。そして、スピードに乗った鋭い切り返しから、左サイドを駆け抜け、ボールをリングへと放った。

 

「……えっ?」

 

 あっさりと抜かれた香織は、一瞬、驚きの表情を浮かべた。観戦していた龍太も、そのスピードに目を見張る。以前よりも、格段に彼女の動きが速くなっている。そして、その動きの質が、どことなく自分のそれに似ていることに気づき、彼は息を呑んだ。

 

「なるほど。龍くんの影響を受けてるってわけね。でも、まだまだよ。いくわよ!」

 

 ニヤリと笑った香織はボールを受け取ると、軽くボールを回しながら、独特のリズムでステップを踏み始めた。ゆっくりとした動きで近づいてくるかと思えば、次の瞬間には、目で追うのがやっとの鋭いフェイントで左右に揺さぶってくる。その動きは、まるでストリートバスケの選手のように自由で、大胆不敵だった。

 

「すごい……っ」

 

 ボールは香織の手の中で、まるで生きているかのように自在に動き回り、千夏はその動きに完全に翻弄されていた。手元でボールを小刻みに回転させるクロスオーバー、素早く膝下をくぐるレッグスルー、そして流れるように続くバックドリブル。それら一連の動作が全て滑らかに繋がり、美しいリズムを生み出していた。

 

「速さだけじゃないの。大事なのは、間よ、千夏ちゃん!」

 

 香織が、一瞬、ぴたりと動きを止めた。千夏がその動きに合わせて反応しようとした、まさにその瞬間、次の動きが繰り出された。体の一部が完全に静止することで生まれる、予測不能の「間」。香織の静寂が、逆に次の瞬間の爆発的な動きを予感させ、千夏の集中力を一瞬にして乱した。

 その隙を突き、香織はリング下へと滑り込むと、右手で軽やかなレイアップシュートを放つ。ボールは綺麗な弧を描きながらリングへと吸い込まれ、ネットが静かに揺れる音が響いた。

 

「はい、次は千夏ちゃんね」

 

 千夏はボールを受け取り、今度こそはとリベンジを誓い、再びドリブルを開始した。しかし、香織は軽く微笑みながらも、足を少し広げ、どっしりとしたディフェンスの姿勢を取っている。右へ、左へと千夏はフェイントを繰り返すが、彼女の重心は微動だにしない。

 

「そろそろ本気出しちゃうわよ?」

 

 そう言った瞬間、香織の動きがさらに鋭さを増した。千夏がリングを目指してドライブをかけると、香織はそれに合わせて完璧なタイミングでサイドステップを刻む。その動きには、まるで千夏の未来の行動がすべて見えているかのような、驚異的な予測力が備わっていた。

 

(速い……いや、読まれてる!?)

 

 千夏が内側へと切り込もうとした瞬間、香織の手がボールを軽く叩き、瞬時にそれを奪い返した。そのまま彼女は、全身を使った力強いドライブでリング下へと突進する。

 リングの近くで、千夏が必死にブロックを試みるが、香織は軽々とジャンプし、片手でボールを支えたまま、空中でしなやかに体をひねった。次の瞬間、彼女の手から放たれたボールはバックボードに軽く当たり、正確無比にリングへと吸い込まれていった。

 

「これが経験の差かしらねぇ」

 

 リングの揺れる音を背に、まだまだ動けるわね、と香織は満足そうに微笑む。千夏は膝に手をつき、荒い息を整えながら、悔しそうに眉をひそめた。

 

「……すごいです。でも、次は負けません」 

 

 千夏の目には、すでに次の挑戦への炎が宿っている。香織はその意気込みを見て、楽しそうに目を細めた。

 

「いいわね、その気持ち。でもね、千夏ちゃん。速さだけじゃ勝てないわよ。リズムと間の取り方を覚えること。それが、相手を崩すための鍵なの。ただがむしゃらに突っ込むだけじゃ、すぐに読まれてしまう。もっと自由に、ボールと身体で対話してみなさい」

「はいっ!」

 

 香織の言葉に、千夏は力強く頷きながら、ボールをぎゅっと抱きしめた。その姿は真剣そのもので、まるでこれが人生を懸けた勝負であるかのようだった。

 そんな二人の様子を、ベランダから眺めていた龍太は、ただ肩をすくめることしかできなかった。

 

(ほんと、容赦ないな……)

 

 彼の母親、香織は、ただの「バスケ好きな主婦」ではない。彼女は現役時代、全国大会で優勝した経歴を持ち、さらにストリートバスケの本場であるアメリカでその技術を磨いてきたという、生粋のプレイヤーなのだ。その卓越したプレイスタイルと指導力は、現役の監督をも凌ぐほどのものだろう。

 これほどまでにバスケットボールに打ち込める環境が、彼女がこの家を選んだ理由の一つなのかもしれない。

 龍太の視線の先では、千夏が再びボールを持ち直し、闘志をみなぎらせて挑む構えを見せていた。その負けん気の強さに龍太が感心していると、ふと、いつの間にか隣に立っていた父親が、ぽつりと呟いた。

 

「千夏ちゃんも香織も、ほんと負けず嫌いだよな」

「どっからあんなエネルギーが湧いてくるんだか……」

 

 龍太は肩をすくめながら応じた

 

「お前がバスケをやらなかったからだろうな。まるで自分の娘に教えるように、熱が入っちまってるんだ。まぁ、お前が後で、千夏ちゃんのフォローでもしてやれ」

「はいはい」

「お前が野球をやってくれてたら、俺も熱が入ったかもしれんがなぁ。どうだ、週末にでもキャッチボール、やらないか?」

「でたよ。はいはい」

 

 適当に返事をしながら、龍太は踵を返し、ベランダから自室へと向かった。クローゼットからランニング用のウェアを取り出し、慣れた手つきで着替えを始める。

 

「走りに行くのか?」

「ああ。俺も負けてられないしな」

 

 父の言葉を背に部屋を出ようとしたところで、龍太は立ち止まった。

 

「そういえばさ、何で先輩はこの家に住むことになったんだ?」

「うん? それは彼女のご両親が──」

「いや、そうじゃなくてさ。母さんと先輩のお母さんって、年も離れてるし、OB同士でも接点はほとんどないだろ? なのに、大事な娘を預けるのって、何か変じゃないか?」

 

 父親は、少しだけ間を置いて、静かに答えた。

 

「それは、千夏ちゃん自身に聞くのが一番いい。お前にとって、理由が分からないパズルのピースがあるなら、その最後のピースは、きっと彼女が持っているはずだ」

「はあ? なんだよそれ……」

 

 龍太は肩を落としながらシューズを手に取る。気分を切り替えようと部屋を出ようとしたとき、父親に呼び止められた。

 

「龍太」

「ん?」

「千夏ちゃんはな、お前のレース、何度も応援しに来てくれてたんだよ」

「……え?」

 

 一瞬、時間が止まったかのような感覚に襲われた。

 龍太は、父のその言葉を、頭の中で何度も、何度も繰り返した。

 信じられないような気持ちで、彼はその場に立ち尽くす。

 自分の知らないところで、彼女は、何を思って、自分の走る姿を見ていたのだろうか。

 その答えが、どこか胸の奥をくすぐるような、不思議な、そして抗いがたい期待となって、龍太の心を支配し始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中高一貫のスポーツ強豪校である栄明学園。その広大なグラウンドは、県内でも指折りの規模を誇る。その中心に位置する赤いタータンのトラックは、まるで競技者たちを歓迎するステージのように堂々と構えていた。その周囲には、ハンドボール、テニス、野球それぞれの専用コートが整然と配置され、まるで秩序ある都市の縮図のようだ。

 朝日に照らされたグラウンドでは、すでに部員たちがトラックを駆け抜け、各種目ごとのウォーミングアップを開始していた。ここに集まる者たちは皆、陸上に情熱を注ぐ精鋭たちだ。部員数は27名、男子20人に対して女子7人という構成で、マネージャーはいない。部は短距離・跳躍ブロック、中長距離ブロック、投擲ブロックの3つに分かれ、朝練にもその区分が色濃く表れている。

 かつて、栄明学園陸上部は全国大会常連校として名を馳せていた。その歴史は部室に飾られた賞状やトロフィーが物語っている。だが、10年以上前からその栄光は次第に影を潜め、今では「中堅」と呼ばれることも少なくない。

 そんな中、昨年から再び注目を集めたのが、1年生の田中龍太と2人の先輩の存在だった。龍太は全中4位の実績を持ち、圧倒的な瞬発力と持久力を兼ね備えた短距離のエース。その走りは、競技場に一陣の風を起こすかのようだ。彼らの活躍に触発され、部員たちは再び闘志を燃やし始めている。

 

 

「よぉ、龍太。今日は随分と気合入ってない?」

 

 軽くトラックをジョグをしていた時に並ぶようにして話しかけてきたのは、同じ学年の猿に似た色黒の男──根岸だった。いや、猿というよりネアンデルタール人か? 額がやけに張り出していて、目がくぼんでいて、頭蓋骨標本を思い出させる。

 

「そう?」

「なんつーか、迫力ある」

「なんだそれ──まあ、もう少しで予選だからな」

「ふーん。やっぱ打倒高梨?」

 

 その名を聞いて、龍太の表情が一瞬だけ引き締まる。

 

「まあな」

「おー、いいねぇ! ライバル燃えますなー!」

 

 根岸の軽口にも動じず、龍太はトラックを淡々と駆け続けた。彼の脳裏には、真剣勝負の舞台で高梨を抜き去るイメージがはっきりと浮かんでいた。

 アップを終えたところで、部長の号令で集合がかかる。彼は三年の投擲で、円盤や砲丸投げの実力者だ。マッチョな猛者というより眼鏡をかけた親しみやすい人。そして、朝練では珍しく顧問の先生がぶらりと現れる。鶴田は外部顧問で三十三歳独身、たいていの生徒からは「鶴ちゃん」と呼ばれている。鳥の巣みたいな天然パーマの髪がぼさぼさで、いつも眠そうな垂れ目で、ここの部のOBだけど、元陸上選手にはぜんぜん見えない。

 鶴田はぐるりと選手一人一人を見渡した。

 

「よし、アップ終わったな。取り敢えず熊谷目指して今日も頑張れよ」

 

 チラホラと入部したての生徒が疑問を浮かべる様子を理解した鶴田は補足説明をした。

 

「ああ、熊谷競技場があって、そこが西地区の予選会場な。いいか、おまえら、頑張って地区は抜けろよ。後がつまんねえからな。全種目で県に行くぞー。気合入れてけー」

 

 彼自身はあんまり気合が入ってなさそうな顔で、声だけはなぜかデカい。「はい」とか「おお」とか先輩たちが応える。

 

「念のために説明しておくと、インターハイってのは、総体とも呼ぶがな、高校陸上最大のイベントだ。総体予選は、三つの大会がある。まず、各地区の予選があって、次が県だ。県でベスト6に残ると関東大会に進める。関東は南と北に分かれていて、埼玉は、群馬、栃木、茨城が一緒の北関東になる。この北関東大会が、インターハイの最終予選になる。ここで決勝まで勝ち上がって、6位以内に入ると、全国大会のインターハイ出場が決まるってわけだ。ここ十年、インターハイ選手は、まだ二人しかいない。デカい夢だが、おまえらも目指してほしい。だが、まず、一歩一歩、一つひとつの大会、一つひとつのレースで、持てる力をきちんと出して勝っていくことだ」

 

 そして各ブロックに分かれた練習に入る。今度の試合──インターハイ予選の地区大会、一年は各種目三人の選手枠に入る力があっても、高体連や試合の登録が済んでいないと出られない。実力はOKだけど登録が間に合わなくて出られない人もいる。つまり、一年でインターハイ路線(インターハイの予選と本選)の試合に出るのは、中学からやっていて早目に入部を決めた、かなりの実力者に限られることになる。

 無論、龍太もその1人で、100、200、リレーに出る予定だが、朝練はどちらかと言うと基礎練を行っているために、新入部員と同じメニューをこなすことにした。

 トラックの内側で、ハードル・ウォークというのをやる。ハードルを5台ほぼくっつけた状態で並べ、横向きにまたぎ越していく。これは、走るための正しいフォーム作りの基礎みたいなもので、身体の軸を作るトレーニング。なんでも、この〝軸を作る〟というのがすごく重要らしくて、頭から足まで身体の真ん中にまっすぐな軸を意識してフォームを作ったり筋肉を鍛えたりする。理論的なことはおいおい教えるからとにかくまず身体で覚えて行くのが鶴田の指導方針。

 まず手本を見せろ、と指名された龍太がポンポンとバレリーナのように軽やかにやってのけると、新しくチャレンジする人から感嘆の声が上がる。その後、見様見真似で数人の生徒が行うも、早速彼から激が飛んだ。

 

「背筋を伸ばして! 前を見るんだぞ。下を見ると背中が曲がるからな。まっすぐだ。まっすぐのイメージをしっかり持って。それじゃ、そっくり返りすぎだ。後ろに反ってもダメだぞ。脚全体を突っ張って、その上に腰を乗せる感じだ! 足で地面を押して、返ってくる力で次へ行け」

 

 両方向、ステップ付きで両方向、何度も何度も体に叩き込む。いいかげん膝がだるくなってきた人たちがチラホラと鶴田に激を飛ばされる。

 

「田中くん、少しコツ教えてもらっても良い?」

 

 その声は柔らかく、どこか涼しげだった。龍太は額に浮かんだ汗を軽く拭いながら振り向く。目に入ったのは、肩にかかるほどの黒髪ストレートの少女。黒髪がさらりと揺れるたび、清楚な雰囲気をまといながらも、その存在感には妙な重みがあった。

 

「神谷……さん、だよね?」

 

 記憶を手繰り寄せながらそう答えると、彼女はうっすらと微笑んだ。その笑顔がどこか物足りなさを感じさせるのは、彼女の切れ長の瞳のせいだろうか。そのダークブラウンの瞳はまるで無音の湖面のように静かで深い。そして、その奥に何か底知れないものを隠しているようにも見えた。

 

(……なんだ、この感じ)

 

 胸の奥で微かな違和感が広がる。視線を絡めた瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れるのが見えた。それは、ほんの一瞬。すぐに何事もなかったように平静を装った顔に戻る。

 

「うん、神谷で合ってる。えっと、あのステップ、どうも上手くいかなくて……」

 

 彼女が指したのは、さっきまで鶴田が繰り返し注意していたステップ練習だった。両足で地面を押して反発力を利用する、一見シンプルに思える動き。しかし、実際にやってみると地味に難しい。身体全体を使ったタイミングが鍵となる技術だ。

 

「そっか。じゃあ、一緒にやってみるか」

 

 龍太は言葉を選びながら返し、少しだけ距離をとるように立ち位置を調整した。だが、その行動が彼女には気に障ったのか、切れ長の瞳がほんの一瞬だけ鋭さを帯びる。

 

(……見られてる?)

 

 龍太は自分の行動を見透かされているような感覚に襲われた。背筋に冷たいものが走る。だが、彼女はすぐに微笑み直し、まるで何事もなかったかのように頷いた。

 

「うん、ありがとう」

 

 彼女の声は穏やかで、そこに含まれる余韻には毒気のようなものが微塵も感じられない。それが逆に、龍太の違和感を増幅させた。

 彼は軽く息を吸い込み、自分の頭をリセットするように一度手を振る。

 

「まずは足の位置からかな。地面を押す感じで、ストン、ストンって力を抜きながら……」

 

 龍太は実際に動きながら説明を始めた。ステップを踏む音が体育館のフロアにリズムよく響く。そのリズムに合わせて、彼女もぎこちなく動き出す。

 

「こんな感じでいいの?」

「うーん、もう少し体の重心を意識してみて。あと、膝の使い方もポイントかな。反動を活かして……」

 

 言いながら彼女を観察してみると、その動きは思ったより滑らかだ。いや、むしろ驚くほど正確だと言える。初めて挑戦するはずのステップを、彼女はまるで既に何度も練習してきたかのようにこなしていた。

 

(……なんだ、普通にできてるじゃん)

 

 思わず口元に苦笑を浮かべる。自分が見本を見せる必要すらないほどだ。だが、次の瞬間、彼女が龍太をじっと見つめてきた。

 

「田中くんって、やっぱり上手いね」

「えっ?」

 

 不意打ちの言葉に、龍太は思わず動きを止めてしまった。その間にも、彼女の視線は揺らがず彼を捉えたままだ。その瞳の奥には、先ほど感じた底知れぬものが再び覗いているような気がする。

 

(……なんだろう、この感じ)

 

 龍太は胸の中に渦巻く不安と奇妙な興味の狭間で揺れていた。だが、それを口にすることもできず、彼女の視線から目をそらしてしまう。

 

「いや、俺なんてまだまだだよ。鶴田先生にしごかれてるし……」

 

 照れ隠しに苦笑しながら言うと、神谷はまたあの穏やかな微笑みを浮かべた。その笑顔の裏に何が隠されているのか、龍太には到底知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 朝の教室は、窓から射し込む柔らかな光に満たされ、机の上には淡い影が落ちていた。始業前のざわめきが心地よいBGMのように空間を包み、生徒たちがカバンを開く音や、弾むような談笑が静かに響いている。

 

「へぇ、それで基礎練やり過ぎてバテてるんだ?」

 

 蝶野雛の明るく澄んだ声が、机に突っ伏していた龍太の耳に飛び込んできた。顔を上げずとも、彼女のトレードマークであるお団子ヘアが楽しそうに揺れている様子が目に浮かぶ。その瞳には、きっと新しいおもちゃを見つけた子供のような、純粋な好奇心と悪戯っぽい光が宿っているのだろう。

 

「……うるせぇよ」

 

 龍太は顔を伏せたまま、誰にともなく呟いた。だが、その口元には隠しきれない苦笑が浮かんでいた。

 

「相変わらず頑張ってるんだねぇ。やっぱり全中4位の気迫は違いますな、旦那」

「そりゃお前も一緒だろうが」

 

 雛は新体操部のエースとして、全国大会でも常に好成績を収める実力者だ。父親が元体操日本代表という華々しい背景を持ちながらも、それを鼻にかけることなく、常に教室の中心で太陽のように笑っている。彼女の柔らかな笑顔に、周囲の男子生徒たちが密かに視線を送るのも無理はないと龍太は思う。

 その二人の掛け合いに、割って入るように大喜が熱っぽく語り出した。

 

「良いなぁ、俺も今年はインターハイ行きたい」

「今のままじゃ無理じゃない? 1年でインハイなんて、今までの歴史でも数人程度しかいないし」

「そうだけど、目指す分にはいいだろ?」

 

 隣に座る匡の的確すぎる指摘にも、大喜の闘志は微塵も揺らぐことがない。その純粋なまでの情熱に、雛は楽しそうに口元を緩め、わざと軽口を叩いた。

 

「相変わらずバド好きだねぇ。バドバカ?」

「それ悪口だろ」

「褒めてるって、バドバカ大喜」

「全然褒められてる気がしないんだけどな」

 

 不満げに眉を寄せる大喜の様子に、雛が声を立てて笑う。そんな何気ない日常のやり取りを、龍太はいつものように少し離れた場所から眺めていた。龍太の学校生活は、この三人、雛、大喜、そして匡と共にあった。全員が中学からの内部進学者であり、気心の知れた仲間だ。

 このクラスの大半が内部生で構成されているため、高校デビューという気負いもなく、友人関係を新たに構築する苦労も少ない。そのおかげで陸上に集中できる環境は、龍太にとって何よりもありがたかった。

 大喜と雛が軽口を叩き合い、それを冷静な匡が諌め、龍太がぼんやりと眺める。この変わらない日常が、ずっと続けばいい。心からそう思う。

 もっとも、最近加わった一つの変数が、その日常に微かな波紋を広げていることにも、彼は気づいていた。

 

(大喜にはいつ言えばいいのやら……)

 

 そんなことを考えていると、唐突に名前を呼ばれた。気怠げに振り返ると、同じ陸上部の根岸が、小さなノートを手に立っていた。

 

「根岸?」

「これさ、剛毅さんに届けてくれない?」

 

 剛毅とは、一つ上の先輩である周防剛毅のことだろう。しかし、根岸が差し出すノートの表紙には、マジックで大きく【剛毅ノート】と書かれている。そのあまりにも安直なネーミングに、龍太は思わず眉をひそめた。

 

「これ、剛毅さんのノートでさ、あの人ここにトレーニング方法とか色々書き込んでるんだよ。部室に置きっぱなしだったから、今すぐ届けてくれない?」

「いや、放課後で良いじゃん」

「それがよ、授業中にこれ書いてんのよあの人。だから今すぐ頼む」

「はぁ? いや、根岸いけよ」

「いやぁ、上級生のクラスってなんか苦手なのよねぇ。んじゃ、頼むよ」

「ちょ、お前──行っちまったよ」

 

 嵐のように言い残し、根岸は廊下へと消えていく。手元に残されたノートを見つめ、龍太は深いため息をついた。

 

「剛毅さんって、あの周防剛毅さん?」

 

 雛の問いに、龍太は鷹揚に頷いた。部の違う彼女でさえ知っているほど、インターハイ出場選手である彼の知名度は高い。龍太は頭の中で教室の配置図を思い浮かべ、彼の居場所を特定する。

 

「2年B組か」

「2年B組って、もしかして──」

 

 ふと何かに閃いたように、雛の瞳が好奇心にキラキラと輝きを増した。

 

「鹿野千夏先輩のところだよね!? そういえば、連絡先交換した後どうなったのー?」

 

 絶賛、毎日顔を合わせてます、なんて。親友の大喜がいるこの場所で、死んでも口にできるはずがなかった。

 

「どうもこうもないわ。大喜の方こそ、どうだったんだ?」

「えっ? 俺?」

 

 思わぬ矛先に、大喜は目を瞬かせた。

 

「そりゃそうだろ。俺が苦労してゲットしたんだから」

「何で大喜?」 

 

 あたふたと口ごもり、何かをゴニョゴニョと呟く大喜の様子から、何も進展がないことは明らかだった。雛が意味ありげな視線を龍太と大喜の間で往復させるが、詳しい説明は本人がいずれするだろうと判断し、龍太は席を立った。

廊下を歩きながら、後で親睦会でも企画すれば良いか、と考える。そうすれば、少しは二人の距離も縮まるかもしれない。

 その瞬間、ふと自分の思考に気づき、龍太の足が止まった。なぜ自分が、そんなことを考えているのか。ソワソワとした奇妙な感覚に襲われながらも、彼はそれを振り払うように再び歩き出し、階段を上った。

 

 2年生の教室にたどり着くと、幸いにも扉が少しだけ開いていた。中から漏れ聞こえる談笑の声が廊下の喧騒に溶け込み、これなら自分が悪目立ちすることもないだろうと、龍太は安堵の息を漏らす。控えめに「失礼します」と声をかけ、そっと教室へと足を踏み入れた。

 窓際に目をやると、剛毅が静かに本を読んでいるのが見えた。そして、その斜め左。春の柔らかな陽だまりの中で、千夏が友人たちと笑顔で語らっている。日差しが彼女の髪をやわらかく照らし、その光景はまるで、一枚の肖像画のように完璧な美しさで切り取られていた。

 その千夏が、ふと何かに気づいたようにこちらを向く。不意に視線が絡み合い、彼女の瞳がわずかに大きく見開かれた。驚きの表情は、次の瞬間には柔らかな微笑みへと変わる。そのあまりにも無防備な笑顔に、龍太の心臓が、とくん、と軽く跳ねた。何とか会釈を返し、彼は剛毅の席へと歩みを進める。

 だが、そんな龍太を迎えた剛毅の気さくな笑顔を見た瞬間、彼は強烈な嫌な予感を覚えた。

 

「おお、龍太! 何してんだ?」

「ちょっ……!」

 

 案の定、剛毅の屈託のない声が、教室中に朗々と響き渡った。その瞬間、教室全体の視線が一斉に龍太へと突き刺さる。彼は思わず肩をすぼめた。根岸がこの役目を押し付けてきた理由が、今なら痛いほど分かる。深々とため息をつきながら、龍太は手に持っていたノートを剛毅に手渡した。

 

「これ、部室にあったらしいんで、届けに来ました」

「おっ、サンキュー! 助かったわ。ほら、そこ健吾の席だ。座れよ」

「いや、俺はこれで……」

「まぁまぁ、いいから座んなって」

 

 剛毅の強引な誘いを断りきれず、龍太は仕方なくその後ろの席に腰を下ろした。針生健吾の席だということは、後で怒られたらすべて剛毅のせいにしてしまおうと、彼は心の中で密かに決意した。

 

「いやぁ、助かったわ。これないと授業中暇なんだよなぁ」

「何堂々とサボタージュ宣言してるんすか」

「あー、今日の分、書かないと」

「えっ、ちょっと!」

 

 呆れる龍太を完全に無視して、剛毅はノートの世界に没頭し始める。完全に置いてけぼりにされた龍太は、ただ呆然とするしかなかった。

 

(……もう帰っていいよなこれ)

 

 周囲の生徒たちから注がれる好奇の視線に、龍太は居心地の悪さを感じていた。やはり、下級生が上級生の教室に紛れ込んでいるという状況は、どうしたって目立ってしまう。ましてや、それが龍太であればなおさらだ。

 もう用は済んだのだから帰ろうか、と考えたが、今朝の過剰な練習がたたったのか、抗いがたい睡魔が彼を襲う。思わず漏れたあくびを隠すこともせず、春の穏やかな空気に、彼の緊張の糸がゆっくりと緩んでいった。

 

「朝練、大変だったんだね」

 

 ふいに、柔らかな声がすぐそばから聞こえた。顔を上げると、いつの間にか千夏が隣の席からこちらを見ていた。ほんのり傾けられた顔、風に揺れるような穏やかな笑みが、彼女の唇に浮かんでいる。

 

「まぁ、自業自得ですけどね。少しやり過ぎました」

 

 龍太は自嘲気味に笑った。それを聞いた千夏も、くすりと小さく笑みをこぼす。

 

「お疲れ様。でも、あまり頑張りすぎちゃダメだよ?」

「ありがとうございます」

 

 ふと漏れたあくびを隠しながら、龍太はまだ少しぼんやりとした頭で言った。

 

「この席、俺の席と同じ場所なんで、なんだか落ち着いちゃいますね」

「そうなんだ」

 

 千夏は少し驚いたように目を瞬かせた後、机に腕を乗せ、龍太と同じように突っ伏した。自然と、向かい合うような形になる。彼女の澄んだ瞳が、じっと龍太を捉えていた。そのあまりにも真っ直ぐな視線は、彼女自身がその破壊的な効果を心得ているのではないかと疑いたくなるほど、強力な引力を持っていた。

 

「な、なんすか」

「もし同じ学年だったら、お隣さんだね」

 

 千夏がぽつりと呟く。

 

 ──もし、同じ学年だったら。

 

 想像したこともない光景が、一瞬、龍太の脳裏を鮮やかに駆け巡った。

 もし、自分の隣の席に、毎日こんなにも美しい彼女が座っていたら──。

 いや、確実に落ち着かない。毎日、こんな至近距離で話しかけられ、からかわれでもしたら、絶対に授業どころではなくなってしまうだろう。

 

「……それはなんというか、俺がいじめられそうですね」

 

 そんな現実離れした妄想を振り払うように、龍太は冗談めかして言った。すると、千夏はクスクスと、悪戯っぽく笑った。

 

「そんな事言うと……授業中に龍太くんが指されたら答え見せてあげないよ?」

「いや、お代官様それは勘弁を……ってなんで聞いてない前提なんですか! ちゃんとしっかりと真面目に聞いてますって」

「へぇ……さっきの授業は何やったの?」 

「…………歴史?」

「…………」

「…………どーせ不良生徒ですよーだ」

 

 じーっと見つめられ、居た堪れなくなった龍太が根負けしてそう吐露すると、千夏は声を立てて笑い始めた。その笑顔が、また彼女自身の輝きを一層増すようで、龍太は思わず視線を泳がせた。

 きっと彼女は、真面目に授業を受けているのだろう。推薦を狙えるほどに、成績はかなり優秀だと聞いたことがある。

 改めて、この人に弱点はないのだろうかと疑いたくなる。せめて動物性愛のような特殊な性癖でもあれば、人間味があって面白いのだが。

 不思議とそんなことを考えながら視線を戻すと、彼女の澄んだ瞳と、再び目が合った。

 不意打ちに、心臓が大きく跳ねる。

 

「な、何でこっち見てるんです」

「……龍太くんがこっちみてるから?」

 

 彼女の答えは、あまりにもあっけらかんとしていた。

 その屈託のなさに呆気に取られたのか、龍太はなぜか、自然と彼女の瞳を見つめ返していた。

 

 沈黙が、ふたりのあいだに降りた。

 

 風の音さえ遠く感じるほど、世界は静まり返っていた。まるで、時間だけが二人を残して、静かに通り過ぎていったかのようだった。

 ふいに、千夏の頬がほんのりと赤らんだ。春の光の中で、それが一層愛らしく見えてしまい、耐え切れなくなった龍太は、また視線を逸らした。

 

「あ、逸らした。龍太くんの負け」

「なんで勝負になってるんですか……」

 

 恥ずかしさを紛らわせるように、龍太は机に突っ伏した。だが、胸の中で鳴り響く、この騒がしいざわめきが消えることはなかった。

 

 龍太は、彼女と共に暮らす際、心に決めたことがあった。

 

 ──彼女のことを、決して「可愛い」と思ってはならない。

 ──彼女に対して、決して好意を持ってはならない。

 

 理由は、至極単純だ。親友の恋を応援する手前、そんな邪な感情は、断じてあってはならないものだからだ。

 しかし、そんな彼の頑なな決意を露ほども知らない彼女は、無邪気にロマンスという名の爆弾を、平然と投げ込んでくる。それを毎度、真正面から受け止める龍太の理性は、もはやガリガリと削られていく一方だった。

 

 本当に、勘弁してくれ。

 

 心中で、彼は悲鳴に近い嘆息を漏らした。

 そんな時、ふと、頭の中で父の言葉が鮮やかに蘇った。

 

 ──千夏ちゃんはな、お前のレース、何度も応援しに来てくれてるんだぞ? 

 

「あの、先輩って」

「?」

 

 龍太は顔を上げて、千夏を見た。

 

「俺のレース見に来てくれてたんですね。知りませんでした」

 

 その言葉に、千夏は少しだけ目を見開いた後、すぐにいつもの柔らかな笑顔に戻った。だが、その視線はどこか遠くを見つめるように、わずかに揺れていた。

 

「もしかして、香織さんから聞いた?」

「いえ、父さんから聞きました。どうして──」

 

 ──自分のレースを見に来てくれたんですか。

 

 そこに、彼女が田中家に来た本当の理由が隠されているような気がした。それを解き明かすことができるかもしれないという、淡い期待を胸に、龍太は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。

 答えを、待った。

 そんな龍太の真剣な眼差しを見て、彼女は何を悟ったのか。

 何を、感じ取ったのか。

 彼女は、悪戯っぽく微笑んだ。

 

「──ないしょ」

「えぇ……なんすかそれ」

 

 その、あまりにも掴みどころのない答えに、今度こそ力尽きたように、龍太は睡魔にその身を委ねたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「寝ちゃった」

 

 しばらくして、龍太の口から小さな寝息が立ち始めた。そのあどけない寝顔を、千夏は慈しむような優しい瞳で静かに見つめている。朝からハードな練習をこなし、先ほどは玄関で倒れ込むようにして横たわっていた彼の姿が、脳裏に蘇る。おそらく、心身ともに相当な疲労が溜まっているのだろう。

 ふと、彼の近くで、自分のものではない声が響いた。

 

「──で、この一年、ここで寝かせとく気か? 俺の席なんだけど」

 

 呆れたような、しかしどこか面白がるような声色で、針生健吾が眠る龍太を見下ろしていた。

 千夏がクスッと小さく笑いながら顔を上げる。

 

「あ、帰ってきた」

「そりゃ俺の席だからな。……コイツは、陸部の田中か」

「うん。周防くんの忘れ物を届けに来てくれたみたいで、そのまま寝ちゃった」

「いや、だとしても普通、それで俺の席で寝るか?」

「そうだね。龍太くんって面白いよね」

「面白いって……」

 

 可笑しそうに小声で笑う千夏は、再び好奇心に満ちた顔で龍太の横顔を見つめている。健吾はそんな彼女の様子に、内心、稲妻が走るような迅速な驚愕を覚えていた。

 健吾の知る鹿野千夏は、誰にでも分け隔てなく接する親しみやすい少女だ。その人柄は春風のように心地よく、だからこそ彼は、彼女と良き隣人であり、親しい友人となることができた。困っている人間がいれば、ごく自然に手を差し伸べる姿は日常茶飯事で、そのさりげない優しさに惹かれる者は後を絶たない。

 しかし、彼女は自分の内面を語るのがあまり得意ではないのか、その素顔は常に柔らかなヴェールに包まれている。何を考え、何を感じているのか。周囲の誰よりも彼女と親しいという自負のある健吾でさえも、そのポーカーフェイスの奥底を読み解くことは容易ではなかった。

 だが、今、目の前にいる彼女は違った。

 普段の快活な笑顔とも、コート上で見せる勝気な表情とも異なる、どこか柔らかく、儚げな雰囲気をその身に纏っている。目の前の後輩を見つめるその大きな瞳は、普段よりも格段に優しい光を帯びており、彼女自身も気づいていないであろう静かな愛おしさが、その眼差しから滲み出ていた。

 眠る龍太の唇が微かに動く。その些細な動きに反応して、彼女の口元もまた、自然と柔らかく弧を描いた。それは、誰かに見られたら、きっと恥ずかしさのあまり隠してしまうに違いない、あまりにも無防備で、特別な種類の表情だった。

健吾はふっと息を吐き、まるで見てはいけないものを見てしまったかのように、そっと視線を逸らした。

 そういえば、龍太に連絡先を教えた時の彼女も、妙にあっさりとしていた。

 あの時は少し驚いただけだったが、こうして二人が並んでいる姿を目の当たりにすると、不思議なほど腑に落ちるものがあった。

 

「なあ。ちーってさ」

「んー?」

「……いや、なんでもない」

 

 上機嫌な彼女に何かを言いかけて、健吾は結局口をつぐんだ。千夏は不思議そうに首を傾げているが、彼女の中に芽生えつつある感情の正体に、まだ気づく様子はない。ならば、今は黙っているのが得策だろう。健吾はそう判断し、視線をだらしなく眠る後輩──田中龍太へと戻した。

 彼の名前は、この校内に留まらず、陸上競技の世界でも広く知れ渡っている。中学時代には全国大会で四位に輝き、その功績は数多くの陸上雑誌や特集記事で華々しく取り上げられた。その姿を写真で見た者は、ほとんどが「漫画のヒーローみたいだ」と感嘆の声を漏らす。切れ長の目元、通った鼻筋、程よく引き締まった輪郭。どの角度から見ても非の打ち所がない、まるで彫刻のような顔立ちだ。

 しかし、彼の真の魅力は、その容姿だけにとどまらない。長身の彼がフィールドを駆け抜ける姿は、まさに一陣の風そのもの。スタートの一歩目で他者を引き離し、最後まで一切ペースを乱さないその美しいフォームは、見る者の心を惹きつけて離さないのだ。鋭い集中力と圧倒的な爆発力が融合した彼の走りは、誰もが「本物の天才」と讃えるにふさわしい。そして、それだけのポテンシャルを持ちながら、決して驕ることのない謙虚な姿勢が、彼の人間性をより一層際立たせていた。千夏同様、学内で男女問わず密かなファンが多いのも、当然のことと言えた。

 彼らは二人とも、「本物の実力」を持ちながら、それをひけらかすことなく、ごく自然体で日常を過ごしている。その共通点こそが、互いに対して変に気を遣う必要のない、心地よい安心感を生み出しているのかもしれない。

 二人が並んで歩く姿を想像すれば、それはきっと絵になる光景だろう。さぞかしお似合いだろうな、と健吾は思う。だが、今はまず、この無防備な後輩を何とかしなければならない。

 当人たちは気づいていないだろうが、この二人の存在は、教室に入った瞬間の空気の色を変えるほどに、かなり目立っているのだ。そして、その周囲から寄せられる羨望や嫉妬が入り混じった視線を、健吾は肌で感じていた。

 冷静に状況を分析した結果、健吾はそっと握り拳を作ってみせた。

 

「取り敢えず、ゲンコツでもして起こすか」

「それは可哀想だよ」

「あのな、これじゃ俺授業受けられないんだぞ? ちーはどっちの味方なんだ」

「……龍太くん?」

「おま……」

「冗談だよ。どうしよっか」

 

 冗談っぽくクスクスと笑う千夏だが、健吾はため息を吐いた。

 

「自覚があるんだか無いんだか……。取り敢えず、マジで起こすぞ」

「せめて保健室とかに連れてってあげようよ。私、動けるし」

「いや、ちーがコイツを担いでいくのは流石にどうなんだ。というか、なんでそんな発想になるんだよ」

 

 健吾は苦笑しながら、龍太の頭を軽く小突いた。

 

「──なんつーか、これ花恋が知ったら驚くだろうな」

 

 この二人の関係は、これからどう変わっていくのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えながら、健吾は再び、まだあどけない寝息を立てる後輩を見下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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