親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
女性と、一つ屋根の下で暮らす。
そんな状況を誰かに話せば、きっと誰もが「夢みたいだな」と、羨望の混じった溜息を漏らすだろう。
ましてや、その「女性」が自分よりも年上で、優しくて気遣いのできる、完璧な人間──鹿野千夏だったとしたら、なおさらだ。彼女の存在は、まるで柔らかな陽だまりのように周囲を照らし出し、見る者すべての視線を惹きつけてやまない。そんな彼女が、自分の家に住んでいる。それは、常識的に考えれば到底あり得ない、奇跡のような状況だった。
いや、むしろ信じたくない、と龍太は思う。なぜならそれは、無意識のうちに「自分の弱点や恥ずかしい部分が、すべて彼女の目にさらけ出される」という、過酷な現実を意味するからだ。
もちろん、彼女と共に過ごす日々は、決して悪いことばかりではない。彼女の気配がそこにあるだけで、家の中の空気がふわりと明るくなる。何よりも、この家に誰かがいてくれるという安心感は、龍太の心を温かく包み込んでくれた。
しかし、その一方で、彼はふとした瞬間に、言い知れぬ不安に襲われるのだ。
例えば、朝、目を覚ました時。自分のボサボサに乱れた寝癖頭を、彼女に見られてはいないだろうか、と。あるいは、リビングでだらしなくソファに寝転がっている無防備な自分の姿が、不意に彼女の視界に入ってしまったのではないか、と。
自分の家だったはずの場所が、いつの間にか「他人の目」を意識せざるを得ない、緊張感をはらんだ空間へと、静かに変貌を遂げていく。
そして、その中でも龍太が最も恐れていたのが、「予期せぬ鉢合わせ」という名の悲劇だった。
ここは自分の家だ、という油断。それこそが、最大の敵だ。異性と共に暮らす以上、常に細心の注意を払わなければならない。何かの拍子に、うっかりバスルームの扉を開けてしまった、その瞬間──そこに広がるのは、きっと自分の想像を遥かに超えた、禁断の光景。
その一瞬で、これまで築き上げてきた平穏な日常が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かる。そんな悪夢のような「事件」が、もし一度でも起きてしまえば、この奇妙な同居生活は、一気に息苦しい緊張感を伴うものへと変わってしまうだろう。
「それ」は、ある夜、あまりにも突然に、そして唐突に起きた。
部活帰りの汗をさっぱりと洗い流そうと、龍太は脱衣所のドアに、何の疑いもなく手をかけた。それは、彼にとって日常の延長線上にある、ごくごく当たり前の、習慣的な行為だったはずだ。
だが、次の瞬間、彼のささやかな平穏は、ガラスのように粉々に砕け散った。
「えっ……?」
龍太の視界に飛び込んできたのは、湯気の向こうに霞む、千夏の後ろ姿だった。湯上りの濡れた髪から立ち上る湯気、そして身体に巻かれた一枚のバスタオル。普段の清楚な雰囲気とは全く異なる、無防備で、柔らかな曲線を描くその姿が、彼の目に焼き付いた。
千夏が、驚いた表情で振り返る。その瞬間、龍太の心臓は、まるで鳥籠の中で暴れる鳥のように、激しく跳ね上がった。全身が、石になったかのように硬直する。
「ちょっ、まっ、すみませんっ!」
我に返った龍太は、慌てて脱衣所のドアを閉め、その場にへたり込んだ。耳まで真っ赤に染まり、手のひらはじっとりと汗で濡れている。自分の行動の、あまりの愚かさに、頭を抱えたくなった。
「…………やって、しまった……」
これ以上ないほどの、致命的な失態だった。相手がただの知り合いならば、まだ救いようがあったかもしれない。だが、相手は、あの鹿野千夏なのだ。学校中の誰もが憧れるマドンナであり、完璧な先輩。その彼女に対して、こんなにも無様な、そして取り返しのつかない大失態を演じてしまった。
「とりあえず謝らないと!」
震える身体に鞭打ち、龍太は決意を固めると、脱衣所の前に正座した。ドアの向こうからは、かすかに衣擦れの音が聞こえてくる。その微かな音だけで、龍太の頭は真っ白になり、心臓の鼓動が耳の奥で狂ったように鳴り響いた。
「ほ、ホントに、すみませんでしたっ!!」
龍太は、頭を床にこすりつけるような勢いで、深く、深く土下座をした。声は情けないほどに震え、顔からは血の気が引いていた。
ドアの向こうで、一瞬の沈黙が流れた。そして、やがて聞こえてきたのは、驚くほどに穏やかな、千夏の声だった。
「えっと……龍太くん、大丈夫だから、そんなに謝らないで?」
その声には、驚きよりも、むしろ龍太を気遣うような優しさが滲んでいた。その穏やかなトーンに、彼の動揺は、しかし、さらに加速する。
「い、いや、先輩、俺が悪いんです 本当にごめんなさい! 生きててすみません!」
すると、千夏が少しだけクスリと笑ったような気配がした。その小さな笑い声が、張り詰めていた龍太の緊張を、ほんの少しだけ和らげてくれた。
「そんなに自分を責めないで。私も、鍵、かけ忘れちゃったし……。それに、私の方こそ、急いでたから、先に使っちゃってごめんね?」
申し訳なさそうにそう言うと、千夏は脱衣所のドアを、ほんの少しだけ開けた。そこから顔だけを覗かせるその姿は、どこまでも穏やかで、優しかった。
「で、でも……俺が──」
「ねえ、龍太くん」
千夏が、ふわりと微笑んだ。その笑顔には、まるで魔法のように、人の心を安心させる不思議な力があった。
「お互い悪かったってことにしよう。ね?」
千夏の提案に、龍太はしばらく考え込んだ後、小さく頷いた。彼の顔にはまだ緊張の色が残っていたが、千夏の穏やかな声がその心を少しずつ解きほぐしていった。
時刻は、夜の9時を過ぎたあたりだった。
春の夜は、昼間の柔らかな温かさをその身に纏いながらも、どこか肌寒い、心地よい風を運んでくる。夜空には薄い雲がかかり、満天の星々の輝きを、ほんのりと朧げにしていた。等間隔で並ぶ街灯の列は、昼間の喧騒がまるで嘘であったかのように、穏やかな静寂に包まれている。橙色の光が点々と連なり、アスファルトの路面を優しく照らし出していた。その光が届かない場所では、木々の影が風に揺れ、不規則な模様を描き出している。
田中龍太と鹿野千夏は、そんな夜道を、肩を並べて歩いていた。だが、二人の間には、どこかぎこちない空気が漂っている。一段落ついたかに思われた、あの脱衣所での一件。しかし、あまりにも突拍子のない出来事であったが故に、その余波はまだ、二人の間に微妙な距離感を生み出していた。
その静かな沈黙を、破るように、千夏がふいに口を開いた。
「ところで……龍太くん」
「はい?」
「さっき、どこまで見たの?」
その一言が、再び龍太を絶望の淵へと突き落とした。
彼の頭の中には、一瞬のうちに、先ほどの光景が鮮烈なフラッシュバックとなって蘇る。
スラリと伸びた長い手足、湯気に濡れた健康的な肌、そして──。
「違うんです! 見てないです! 全然見てないです!」
声は情けないほどに上ずり、龍太は慌てふためいた。その必死な様子を見た千夏は、口元を懸命に抑えながらも、込み上げてくる笑いを堪えきれていない。
「そうなんだ。……でも、顔赤いよ?」
「そ、それはっ! 今日は、やけに暑いというか、風呂上がりのせいで……いや、本当に、その……」
焦れば焦るほど、言葉は意味をなさず空回りしていく。そんな龍太の姿に、千夏はとうとう堪えきれなくなり、声を上げて笑い出した。その明るい笑い声に、龍太は少しだけ救われるような気持ちになる反面、自ら墓穴を掘り進めているという絶望的な感覚に襲われ、観念したように項垂れた。
「……もう、殺してください」
「そんな大袈裟なこと言わないでよ」
千夏は、ほんのりと赤く染まった顔で、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔には、どこか彼を元気づけるような、不思議な優しさが宿っていた。
「それにしても……こういうのって、ドラマみたいだね」
「いやいや、俺にとってはただのホラーですから」
「ふふっ、そう?」
彼女の柔らかな笑顔を目にするたび、龍太の心臓は、再び不規則なリズムを刻み始める。彼女の無邪気な表情と、穏やかな声は、龍太にとって、どんな厳しい説教よりも、遥かに効果的なのかもしれない。
やがて、前方にコンビニの明かりが見えてきた。昼間の喧騒とは打って変わって、静かな店内から漏れる光が、夜道を歩く二人を優しく出迎える。自動ドアのセンサーが反応し、滑るように扉が開くと、中からはほんのりとした冷気が流れ出してきた。夜の街とコンビニの店内とを隔てるその一歩は、まるで世界をくっきりと二分する境界線のようだった。
冷凍ケースの前にずらりと並んだ色とりどりのアイスクリームが、千夏のテンションをさらに引き上げる。
「どれにしようかなー」
千夏は真剣な表情で冷凍庫と向き合い、ガラス扉を開けた。立ち上る冷気に小さく肩をすくめながら、手を伸ばしては戻し、心からその選択を楽しんでいる様子だ。その姿はまるで、きらびやかな宝石箱を前に、目を輝かせている少女のようだった。そんな彼女の無邪気な横顔に、龍太は思わず笑みをこぼした。
「そんなに真剣に選ぶもんですか?」
「うん、普段はあまり食べないから」
千夏はくるりと振り返り、少し照れくさそうに言った。バスケットボールの対決の時もそうだったが、彼女はやはり自分の身体のことを第一に考えているのだろう。だからこそ、たまに許されるご褒美は、慎重に、そして真剣に選びたいのだ。龍太はそう解釈すると、冷凍庫の別の段にそっと手を伸ばした。そして、パキッと二つに分けられるタイプの、チョココーティングされたバニラアイスバーを手に取った。先ほどから、千夏がその包装をじっと見つめていることに、彼は気づいていたのだ。
「あ、それおいしそうだよね」
「そうですね」
その言葉に、千夏の目が、ほんの少しだけ期待の光を宿したような気がした。
龍太は内心で、込み上げてくる笑いを必死に堪える。彼女のその分かりやすさが、微笑ましくて仕方なかった。
「うーん、私は……これにする」
結局、彼女が選んだのは、ごくシンプルなチョコアイスバーだった。
あれだけ迷った挙句にそれか、と、またしても彼の口角が上がりそうになるのをぐっとこらえ、会計を済ませると、二人は再び夜の道へと出た。
店から数歩歩いたところで立ち止まった龍太は、手にしたアイスバーの包装を開ける。パキッという小気味のよい音が、夜の静寂の中に心地よく響き渡った。
「先輩、どうぞ」
「えっ……いいの?」
「俺一人では食べきれないですし、たまにはこんなチートデイもありだと思うので」
照れ隠しに龍太がぶっきらぼうに言うと、千夏は少し頬を染めながらアイスを受け取った。
「ありがとう、龍太くん」
その声には、感謝と、そして隠しきれない嬉しさが混じり合っていて、龍太は妙にそわそわとした気持ちになってしまった。彼からもらったアイスを愛おしそうに眺めながら、千夏はふと顔を上げた。
「龍太くんって、ちょっとキザだよね」
「えっ、どこがですか?」
突然の言葉に、彼は思わず言い返す。千夏は小さな笑みを浮かべながら、悪戯っぽい光を宿した瞳で、じっと彼を見つめた。
「私が欲しかったものを選んでくれたから……かな。それとも、さっきのことでのお詫び?」
「い、いや、それとこれは別に関係ないですから!」
「ふふっ、本当かな?」
クスクスと笑う千夏に、龍太の顔はますます熱を帯びていく。まるで彼女が、自分の心の奥底まですべて見透かしているようで、彼はもう言い返す言葉すら見つけられなかった。
「顔真っ赤だよ?」
「誰のせいだっ!」
「私?」
千夏は、心底不思議そうに、無邪気に首をかしげてみせる。その仕草が、あまりにも愛らしくて、
「だっ、あー、もうっ」
龍太は、勢いよくアイスにかじりつくことで、どうにかこの気まずい状況から逃れようとした。そんな彼の姿に、千夏は声を立てて、楽しそうに笑った。
その会心の笑顔は、どこまでも無邪気で、まるで少女のようだった。
その無防備な様子に、龍太の心の中で、再びざわめきが起こる。ましてや、彼女のあの湯上りの姿を思い出してしまっては、もう平常心ではいられない。
またこんなことを繰り返していては、自分の心臓が、いつか本当に持たなくなってしまうかもしれない。
明日はどうか、何事も起こりませんように。
そう願いながら夜空を見上げる、龍太だった。
高校という閉鎖された空間で生まれる噂話は、疾風のごとき速さで伝播し、その過程で奇妙な歪みを帯びていくという特徴がある。誰かが「ちょっと聞いてよ」と、秘密めかした声色で囁けば、その言葉は次の瞬間には廊下を駆け抜け、昼休みを迎える頃には、校内の隅々にまで到達してしまうのだ。
それだけならまだしも、厄介なことに、噂は広がる過程で、あたかも生命体であるかのように成長し、様々な憶測で味付けされ、時には全く異なる形の物語へと変貌を遂げる。発端となった話が、いかに些細な「ただの出来事」であったとしても、それがやがて「大事件」へと変貌を遂げてしまうのは、高校の噂という名の、抗いがたい伝播の魔法のせいだった。
その日もまた、そんな魔法が、何の前触れもなく校内を席巻していた。
発端は、二年生のある教室で、誰かが目撃した、一つの「重大事件」だった。
春の日差しが、暖かく教室に降り注いでいた。窓際に座る千夏の隣に、一年生の田中龍太が腰掛けている。二人が、ただ仲睦まじく話している。その何気ない光景を目にした誰かが、ほんの些細な好奇心から口にした一言──。
『ねぇ、千夏先輩が、一年の田中龍太と話してたよ!』
──それこそが、後に校内を揺るがすことになる、すべての噂の出発点だった。
鹿野千夏と言えば、言わずと知れたバスケットボール部の絶対的エース。学校中の憧れの的であり、学年を問わず、彼女の話題が尽きることはない。一方の龍太もまた、陸上部の期待のホープだ。全国大会に出場し、その名が雑誌に掲載されるほどの実力者である。
二人ともが、この学園内で一目置かれる特別な存在であることは、誰もが知るところだった。
そんな二人が、楽しそうに笑顔で話している──。
ただそれだけで、噂の火種としては、あまりにも十分すぎたのだ。
初めは、単なる「話していた」という事実だったはずのものが、次の休み時間には、尾ひれがついて「親しげに話していた」に変わり、そして昼休みを迎える頃には、いつの間にか「付き合っている」という、揺るぎない結論へと到達していた。
高校生というのは、時として驚くべき速さで、物事の結論を導き出す生き物である。特に、それが恋愛という甘美な話題である場合、彼らの熱意と想像力には、もはや底というものが存在しない。
『千夏先輩と田中くんって、お似合いじゃない?』
『だよね! 美男美女だし、完璧!』
『これ、もう公式カップルってことでいいよね!』
『やっぱり、この間の連絡先交換には、続きがあったんだね!』
もはや、そこに事実かどうかなんて、関係ない。重要なのは、その噂がどれだけ人の心をわくわくさせ、日常に彩りを与えてくれるか、ただそれだけなのだ。
そして、その甘美な噂を真に受けたクラスメイトたちは、一斉に龍太へと詰め寄った。
「あのな、付き合ってるわけないだろ? そもそも俺が千夏先輩と付き合えるわけない」
龍太は教室の隅で机を叩きながら、必死にその事実無根の噂を否定する。だが、クラスメイトたちは、揃いも揃って、疑念に満ちたジト目で彼を見つめているだけだった。
「いや、お前に関しては、そのルックスだけで十分説得力ねぇんだよ、クソイケメンが!」
「それも、めっちゃ優しい笑顔で話してたらしいぞ!? あの千夏先輩が!」
「田中、どう説明するんだよ、この国民的スキャンダルを!」
「だから違うんだって!」
龍太は焦りのあまり、頭を抱えた。どんなに的確な反論を考えようとしても、まるで出口のない迷路に迷い込んだかのような、絶望的な気分に陥ってしまう。
彼の必死の弁解も虚しく、教室内は冷やかしと好奇心の嵐に包まれていた。天を仰ぎ、これ以上どうやって身の潔白を証明すればいいのかと頭を悩ませていた、その時だった。
ポケットの中のスマートフォンが、ぶ、と短く振動した。
「おいおい、もしかして、噂の千夏先輩からだったりして?」
「ば、ばか、ちげーよ!」
「どうだかなぁ。この間LINE交換したんだろ?」
「くっ、羨ましいっ やっぱり、世の中、顔なのか!?」
騒がしい野次馬たちから視線を外し、龍太はこっそりとメッセージの内容を確認する。そこに映し出されていたのは、彼の不安を、決定的な絶望へと変える、あまりにも残酷な一文だった。
──私のジャージ、間違って持って行ってない?
もう何年も忘れていた、「絶望」という名の感情が、両手を大きく広げて、龍太へとゆっくりと近づいてきた。
「終わった……完全に終わった……」
その場で凍りついたまま、龍太は動けなくなった。顔は引き攣り、額からは滝のような冷や汗が流れる。
(なんで、今、こんなタイミングで……!?)
とにかく、まずは事実確認をしなければ。龍太は机の下へとバッグを引き寄せ、周囲に気づかれぬよう、こっそりとその中を覗き込んだ。そして、彼の目に飛び込んできたのは──鮮やかなブルーの生地に、『鹿野』と白糸で刺繍された、見慣れないジャージだった。
(これかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!)
思わず手が震える。頭の中ではけたたましく警報が鳴り響き、心臓はまるで暴れ馬のように、胸の中で激しく暴れ出している。周囲にバレてはいないかと、恐る恐る顔を上げると、隣の席の生徒が、怪訝そうな表情でこちらを見つめていた。
「田中、お前、さっきから何やってんだ?」
「な、何でもない! 本当に、何でもないから!」
だが、そのあまりにも挙動不審な態度が、かえって周囲の疑惑を煽る結果となってしまった。
「……怪しい。おい、ちょっと見せてみろよ」
「ば、さわんじゃねえ!」
「ほらほら、何をそんなに隠してんだよ! 中身を見せろって!」
「さてはラブレターか? いやいや、このご時世、もしかしてエロ本か!?」
「待て待て、お前ら。もしかして、それって……千夏先輩のジャージとかじゃね?」
(どんな推理力だよ!)
心の中で、龍太は全力でツッコミを入れた。しかし、現実はあまりにも無情だ。彼の心の叫びなどお構いなしに、クラスメイトたちの瞳が、獲物を狙うハンターのそれへと、ギラリと変わった。
「違うって! 話を聞け!」
「話せば話すほど、怪しいんだよなぁ~?」
「いいから、さっさと見せろよ、ほら!」
彼らはまるで、獲物の匂いを嗅ぎつけた狼の群れのように、じりじりと龍太との距離を詰めてくる。追い詰められた龍太は、カバンをさらに強く抱きしめ、必死の抵抗を試みた。
「やめろよ! 龍が嫌がってるだろ」
その時だった。龍太を守るように、二人の間に割って入ったのは、怒気をあらわにした大喜の姿だった。
「で、でもよ」
「龍は、嘘をつくような奴じゃない。さっきから、付き合ってないって言ってるだろ。それとも何だ、少し話したくらいで、2人が付き合ってるってことになるのか?」
「そ、それはそうだけど……」
大喜のその言葉に、教室内の空気が、一瞬だけ納得したかのように和らいだ。
(助かった……さすが大喜、ナイスだ!)
「だから言っただろ? 俺は付き合ってなんか──」
「──お、おい、田中っ」
安堵の息を吐きかけた龍太の言葉を、一人のクラスメイトが遮った。その視線は、まるで信じられないものを見つけたかのように、龍太のバッグに釘付けになっている。
思わず、龍太もその視線を追った。
そして、自分のバッグの、わずかに開いたチャックの隙間に、視線が吸い寄せられた、その時だった。
「あ」と、彼の口から、小さな声が漏れた。
「……それ……千夏先輩のジャージじゃね?」
「…………」
龍太は、自分でも出したことのないようなスピードでチャックを閉め、バッグを両手で固く抱きしめた。
しかし、こうなってはもう、誰も彼の言葉に耳を貸そうとはしない。教室内の生徒たちが、まるで獲物を追い詰める捕獲チームのように、ゆっくりと龍太を囲み始めた。
終わった……。俺の、人生が……。
抗いようもない終末感が、暗い夕闇のように、彼の胸に深く沈み込んでいく。世の中のあらゆる不幸に、たった一人で見舞われたかのように、舌は固くこわばり、もはや言葉を発することすらできない。
もう、だめだ。そう観念しようとした、その瞬間だった。
教室にその音は、一条の雷鳴の如く響き渡る。
「──龍太くん」
鋭い指向性を持ったその声は、たった一人の男に向かって、一直線に飛んでゆく。誰もが、その声の発信源と、その声が向かう先を見つめ、そして、その瞬間に、己の時を止めてしまった。ある生徒は話していた口を閉じ、ある生徒は手にしていたシャーペンを落とし、またある生徒は、傾けたペットボトルから、オレンジジュースを盛大に机の上にぶちまけていた。
まるで天を引き裂く雷鳴に貫かれたかのように、龍太は、束の間、自分の目と耳、いや、この世界そのものが信じられないといった顔つきで、茫然と固まっていた。だが、クラスメイト全員の瞳が、一斉に自分へと向けられた瞬間、彼の視界に、鮮やかな色彩が、再び蘇った。
「!!!!!!」
声なき絶叫、とは、まさにこのことであろう。
龍太は、まるで不可視のカタパルトから射出されたかのように、その場から緊急発進すると、雷鳴の発生源へと、一足飛びに飛翔した。
「ななななななななな何で先輩がここにいるんです!!!??」
龍太は泡を吹いて卒倒しかねないほど顔面を蒼白にしながら千夏に詰め寄る。
「ごめんね、もしかして、お邪魔だった? 一応、いつもの屋上に来てほしいってLINEしたんだけど、既読にならなかったから」
「ま、マジすか? い、いや、お邪魔と言うかですね……」
教室の空気を敏感に感じ取ってそう尋ねる千夏に、龍太は返す言葉が見つからない。恐る恐る振り返れば、そこには憎悪と羨望と嫉妬に満ちた、複雑な感情に駆られるクラスメイトたちの姿があった。
もはや、彼らは同じクラスの仲間と言えるのだろうか。龍太は、思わず慈悲を乞いたくなるような気持ちになった。そして、乾いた笑みが、彼の口から漏れた。
「こ、これはその……あははははは……逃げますっ」
「あ、2人して逃げたぞ! 追え!」
龍太は、咄嗟に千夏の手を取り、バッグを抱えたまま教室を飛び出した。背後からは、怒号と、地響きのような重い足音が追いかけてくる。クラスメイトたちの勢いは、もはや尋常ではなかった。
「逃げんな、田中ァァァ!」
「千夏先輩と手ぇ握って、どこ行く気だぁぁあああああ!!!!!」
廊下を全力疾走しながら、龍太は心の中で呟く。
(勘弁してくれ……!)
屋上の重い鉄扉を勢いよく開け放つと、ひんやりとした春の風が、火照った二人の頬を優しく撫でた。その瞬間、龍太はほんの少しだけ、息苦しい現実から解放されたような気がした。背後から迫りくるクラスメイトたちの怒号も、突き刺さるような非難の視線も、すべてこの風が洗い流してくれるのではないか。そんな、淡い期待を抱いた。
「とりあえず……助かった……」
龍太は息を切らしながら扉を押さえ、そのまま背中で支えるようにして座り込んだ。一方、千夏は涼しげな顔で屋上の端へと歩み寄り、手すりに寄りかかって心地よさそうに風を受けている。その後ろ姿に、龍太は思わず目を奪われた。
千夏の髪が、風を受けて絹のようにしなやかに揺れる。それはまるで、何か映画のワンシーンのようだった。彼女の佇まいには、どこか非現実的なまでの美しさがあり、つい先ほどまでの、あの地獄のような修羅場が、まるで嘘であったかのように思えてくる。
「すみません、巻き込んじゃって……」
龍太は額の汗を拭いながら、か細い声で呟いた。千夏はゆっくりと振り返り、柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「ううん、大丈夫だよ。それより、結構大変だったね」
その言葉に、龍太は少しだけ顔を上げた。彼女の表情には、彼を咎めるような色は微塵もなく、むしろ、ほんのりとした優しさが漂っている。その一瞬、彼の胸の内を重く支配していた罪悪感が、少しだけ溶けていくのを感じた。
「いや、本当に……死ぬかと思いましたよ」
苦笑しながら、彼はバッグの中から例のジャージを取り出し、千夏へと差し出した。
「取り敢えず、これ。すみません、間違えて持ってちゃって」
千夏はそれを受け取ると、ふと微笑んだ。その瞳には、どこか楽しげな色が宿っていた。
「ありがと。でも、どうしてあんなに必死になってたの?」
「千夏先輩のジャージ持ってるのがバレたからです」
「それだけで?」
「いや、それだけって……あの状況の恐ろしさ、見てましたよね!? あれだけで、十分すぎるんです! まだLINE交換の方が、よっぽどマシでしたよ!」
「そういえば、あの時も龍太くん、走ってたね」
千夏は、こらえきれないというように、くすっと笑った。その屈託のない笑顔に、龍太は何とも言えない、複雑な気持ちになる。安堵と、羞恥と、そして胸の奥で芽生える、妙な温かさが、彼の心をざわめかせていた。
だが、その穏やかな空気を打ち破ったのは、彼女の、あまりにも何気ない一言だった。
「取り敢えず、次、体育だから、着替えちゃうね」
「あー、そうですね、そろそろ着替え……ん? は?」
頭の中が白く溶け落ちるような衝撃だった。
「いやいやいやいや! 何言ってるんですか!」
焦る龍太に対し、千夏は特に気にする様子もなく、さらりと言葉を返す。
「大丈夫、運動部女子はどこでも着替えられるように鍛えてるから」
「いや、そういう問題じゃないですよね!? えっ? もしかして、俺の常識がおかしいんですか──!?」
龍太は、慌てて彼女に背を向け、両手で顔を覆った。背後から聞こえてくる、衣擦れの音。それが、妙に生々しく、彼の耳に響いてくる。その音だけで、顔が燃えるように熱くなり、視界を遮っているはずの手のひらの向こうに、何かが見えてしまうような錯覚に陥った。
(なんでもう脱ぎ始めたの! 頼むからっ、頼むから早く着替え終わってくれっ……!)
そんな彼の切実な祈りも虚しく、ただただ悶々とした時間が流れていく。その時だった。階段の方から、複数の駆け上がってくる足音が聞こえてきた。
まるで、悪魔の足音だ。嫌な予感が、背筋を凍らせる。
(まだ追ってたのかよ!!!)
龍太は咄嗟にドアノブを握り、渾身の力でそれを押さえつけた。
「あれ、開かねぇぞ」
「おい、まさか田中か!? 開けろ!」
ドア越しの怒号に、龍太は胃が縮む思いだった。向こう側では、どうやら男子生徒たちが、勢いよくドアを押しているらしい。ガタガタと、古い扉が悲鳴のような軋みを上げる音が、耳元で不気味に響いた。
「だ、ダメに決まってるだろ!」
「やっぱりか!! なんでだよ!」
「なんでって…………」
言葉を詰まらせる。千夏先輩が、今まさにこの後ろで着替えているなんて、どうして簡単に言えるだろうか。しかし、この状況で、他にどんな代替案が思い浮かぶというのだ。
仕方なく、彼はしどろもどろになりながらも、一つの可能性に賭けることにした。
案外、正直に話した方が、彼らも大人しく引き下がってくれるかもしれない。
「せ、先輩が……な、生着替え中なんだ……」
「はっ? はぁあああああ!?」
一瞬、屋上全体が、嘘のように静まり返った。
そして、次の瞬間。
怒号が、爆発した。先ほどとは比べ物にならないほどの力で、ドアノブが激しく回される。
「お、お前っ、何着替え独占してんだよぉぉおお!!!!」
「見てんじゃねえだろうな!?」
「み、見るわけな──」
龍太は必死に否定しようとしたが、その瞬間、昨日の脱衣所での出来事が、鮮明に脳裏をよぎった。
濡れた髪から滴る水滴、柔らかな身体のライン、そして、上気した薄紅色の肌……。
(こんな時に、思い出すな! いや、こんな時だからこそ、思い出すのか!? とにかく、忘れろ!!!)
顔が真っ赤に染まっていくのを感じた、その瞬間だった。ドアの向こうから、さらに鋭い声が飛んできた。
「おい、なんで何も言わねぇんだよ!!!!」
「テメェ、マジで見てたなぁ!?」
「みっ、見てないって言ってるだろっ!!!」
「じゃあ、なんで一瞬黙り込んだんだよ!!??」
「一人で独占してんじゃねぇよ!!」
「う、うるせぇな!! あんな綺麗なもん、他の奴らに見せられるわけねぇだろ!! 即死するぞ!!」
つい、言ってしまった。
そこに、どんな感情が乗っていたのか。どんな想いが込められていたのか。その時の龍太には、自分でもよく分からなかった。だが、少なくとも、今この場所で、彼女の着替えを、彼女の尊厳を、守りたいという気持ちだけは、確かだった。
ぴたり、と時間が止まった。
春の風が、屋上を静かに吹き抜けていく音だけが、やけに大きく聞こえる。
「おい、今、なんつった!?」
「やっぱり、見てたんだな!!」
「変態! お前、絶対に許さねぇぇぇ!!」
(やばい……。言葉、間違えた……。終わった……)
全身から力が抜けていく中、それでも龍太は、ドアノブから手を離さなかった。
不意に、裾を、くいくいと軽く引っ張られた。
振り返ると、そこにはジャージ姿に着替え終えた千夏が、立っていた。彼女の頬は、まだ赤いまま、熱を持ったように染まっている。いつもは落ち着き払った彼女が、これほどまでに羞恥心でいっぱいになっているのを見て、龍太は自分が何を口走ってしまったのかを、ようやく自覚した。
「い、今のは言葉の綾と言うかですね……!」
「────」
恥ずかしそうにぽそりと呟かれた言葉に、龍太は思わず天を仰ぐ。
(……どっちがだよ)
春の柔らかな陽光が窓越しに差し込む体育館の中、バスケットボールが小気味よいリズムを刻みながら、床を跳ね返す音が響いていた。千夏はコートを軽やかに駆け抜け、仲間からのパスを受け取る。その一連の動きには一切の無駄がなく、彼女の存在そのものが、チーム全体のリズムを作り出しているかのようだった。
いつもなら、この時の千夏の表情は、試合中のそれと変わらない、真剣そのもののはずだった。ポーカーフェイスを崩さず、淡々と、しかし確実にプレーに集中している。だが、今日の彼女は、どこか違っていた。その頬には、普段は見られない、わずかな赤みが差し、全体的にどこか浮ついた雰囲気を漂わせていた。
──あ、あんな綺麗なもん他の人に見せられるわけねぇだろ!!
不意に、あの時の龍太の言葉が、脳裏に鮮やかに蘇る。
その一言が、何度も、何度も頭の中を巡り、まるで消すことのできないメロディのように、耳の奥で鳴り響いていた。その度に、心臓が大きく跳ね上がり、手のひらにじわりと汗が滲む。
( ……集中、しないと……!)
心の中で、必死に自分を叱咤する。だが、一度回り始めた思考の歯車は、そう簡単には止まってくれない。ほんの一瞬の心の迷いが、プレーに、微妙な、しかし確実な狂いを生じさせる。仲間へのパスが、わずかに逸れた。慌てて体勢を立て直し、何とか軌道を修正する。その様子に、いち早く気づいた渚が、心配そうな声をかけてきた。
「千夏、大丈夫? なんか今日、変じゃない?」
「う、ううん。全然平気だよ?」
千夏は、自分の内面の動揺を悟られまいと、ことさらに力強く首を振った。しかし、その必死さが、かえって不自然さを際立たせてしまう。渚は、怪訝そうな表情で、小首を傾げた。
「でも顔赤いよ? もしかして熱があるんじゃない?」
「う、運動してるからじゃない? ほら、汗とか、かいてるから……」
自分でも、あまりにも苦しい言い訳だと感じながら、それでも必死に否定の言葉を重ねる千夏。だが、渚はまだ納得していない様子で、じっと彼女の顔を見つめている。
「……ほんとに?」
「うん」
何とかごまかせただろうか。そう思った、まさにその時だった。渚が、ふと思い出したように、全く別の角度から話題を切り込んできた。
「そういえばさ、例の同居のことだけどさ……」
「っ!?」
その一言で、千夏の動きが、完全に止まった。バスケットボールを抱えたまま、その場で硬直する。その姿は、まるでスローモーション映像の一コマのようだった。
「どう? 親戚の人とうまくいってるの?」
「……えっと……うん」
友達からの何気ない問いかけに、千夏は顔を真っ赤に染めながら、俯いてしまった。声も、蚊の鳴くように小さく、その様子は、誰が見ても明らかに挙動不審だった。渚は、そんな彼女の反応を見て、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「もしかして、親戚の家に、イケメンでもいた?」
「そ、そんなこと、ない……ことも、ないけど……でも、何もないし!」
「うえっ!? マジで? どんな人っ!? 好きになっちゃった!?」
「べ、別に、何もないよ!」
慌てて否定する千夏だったが、その言葉とは裏腹に、耳まで真っ赤に染まっている。そのあまりにも分かりやすい反応が可愛らしくて、友達はもう笑いをこらえきれない。
「まぁまぁ、あまり深くは聞かないけどさ~。でも、ふーん、なんか、気になるよね? 千夏って、そんくらいの距離感じゃないと、恋愛とかしなそうだし」
「も、もう! 試合、終わっちゃうよ! 集中しよう!」
「あ、逃げた」
千夏は、まるで逃げるように、ドリブルを再開した。しかし、背中に突き刺さる渚の視線が、痛いほどに意識され、いたたまれない気持ちになってしまう。
授業が終わり、千夏は体育館の隅で水を飲みながら、ようやく一息ついた。タオルで汗を拭いながら、彼女はふと、自分の胸の中を静かに見つめる。
(……なんで、私、こんなに意識しちゃってるんだろう)
考えれば考えるほど、自分の中に生まれた、この奇妙な感情の正体が分からなくなる。普段の自分なら、もっと堂々としていられるはずなのに、今日に限って、どうしても気持ちが落ち着かないのだ。
(……私、あの時なんで……)
一体、彼は、どこまで、何を見たのだろうか。
あの時、咄嗟に「平気だ」とは言ったものの、見られたかもしれないという恥ずかしさが、今になって、じわじわと込み上げてくる。
いや、それ以上に──。
(なんで、私、嬉しいって思っちゃったんだろう……。これじゃ、まるで私の方が……)
龍太の、あの言葉が、いつまでも心に残って離れない理由。
その答えが、何なのか。分かっているようで、分かりたくない自分が、確かに、そこにいた。
千夏は、まるで大切なものを守るかのように、バスケットボールをぎゅっと抱きしめて俯くと、両手で、熱くなった頬を覆った。
「千夏、早く片付けしないと!」
渚の声に、はっとして顔を上げる。その表情には、まだうっすらと赤みが残っていた。千夏は慌てて深呼吸を一つする。
(……予選まで時間がない。集中しないと……)
そう自分に強く言い聞かせながら、千夏はボールを抱えて、ゆっくりと歩き出した。しかし、その胸の奥で、小さく、しかし確かに燃え始めた感情の炎は、春の風のように、ひっそりと、だが消えることなく、そこに存在し続けていた。
(……こんな気持ち、どうすればいいのかな)
千夏の背中を、体育館の窓から差し込む光が、優しく照らしていた。その中で、彼女は、誰にも聞こえないほどの小さな声で、そっと呟いた。
「……ちゃんと同居人、しないと」
校庭を茜色に染め上げる夕陽が、木々の隙間から細長く差し込み、二人の影をアスファルトの上に伸ばしていた。柔らかな風が、名残惜しそうに頬を撫でていく。そんな中、大喜の声が、ぽつりと静寂の中に落ちた。
「なぁ、雛」
「ん?」
「龍ってさ……千夏先輩のこと、好きなのかな」
その問いかけに、雛の足が、一瞬だけ、ぴたりと止まった。彼の声は、普段の快活さからは想像もつかないほど低く、どこか不安げで、頼りなく響いていた。雛がそっと彼に目を向けると、大喜は燃えるような夕陽の向こうを、ぼんやりと見つめている。その横顔には、隠しようのない戸惑いと、切なさが深く滲み出ていた。
雛の胸が、ぎゅっと、痛いほどに締め付けられる。彼が、なぜそんなにも千夏のことを気にするのか、その理由を、痛いほどに知っているからこそ。
「えっ?」
分でも驚くくらい、甲高い声が出てしまった。内心の動揺を悟られまいと、慌てて視線を逸らすが、心の中は嵐のように荒れ狂っていた。
「だってさ……今日の、あれ。龍のバッグの中に、千夏先輩のジャージが入ってたんだぞ」
彼は、子供のように小さく肩を落としながら、ぼそりと呟いた。そのあまりにも無防備な仕草に、雛は喉元まで突き上げてきた何かを、必死の思いで飲み込んだ。
(そんな顔、しないでよ……)
「それこそ、何か理由があるんじゃない? 龍が、千夏先輩のこと好きだなんて……私は、全然ピンとこないけど」
無理に、ことさらに軽いトーンで返しながらも、内心では、警鐘のように心臓がうるさく鳴り響いていた。何か、彼を安心させられる言葉を。ただその一心で言葉を紡ぐが、それが正解なのかどうか、彼女自身にも分からなかった。
「でもさ、あの時の龍……なんか焦ってたよな」
「そりゃあの状況なら誰だって焦るって……まあ、もし二人が付き合ってるなら、お似合いではあるかもねぇ」
わざと、軽薄な調子で言ってみせた言葉。しかし、その言葉の棘は、皮肉にも自分自身の胸にも、深く突き刺さっていた。大喜の横顔が、わずかに、しかし確実に暗くなったのを目の当たりにして、雛の胸は、またしてもきりきりと痛んだ。
「……そうかもな」
頼りなく、力なく笑う大喜。その笑顔が、あまりにも痛々しくて、雛はほとんど無意識のうちに、身体を動かしていた。
「えいっ!」
不意に膝カックンを食らった大喜が、よろけながら振り返る。
「何すんだよ!」
「暗い顔してると、雛様の運気が下がるでしょ? 大喜だって、インターハイ、行けなくなっちゃうよ?」
「運気って……お前なぁ」
不満げに眉をひそめながらも、彼の顔に、ようやくいつものような、微かな笑みが戻った。その変化に、雛は心の底から安堵し、そっと胸を撫で下ろした。
「ほら、さっさと商店街行くよ! 今日は、大喜が荷物持ちだからね?」
「はい? 聞いてないけど?」
「今決めたの! ほら、感謝してついてきて!」
ふんっ、と得意げに胸を張る雛の姿に、大喜はとうとう苦笑を漏らした。そして、小さな、ほとんど吐息のような声で、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう、雛」
その、あまりにも不意打ちの言葉に、雛の心臓が、一気に、大きく跳ね上がった。胸の奥が、じんわりと、熱を帯びていくのが分かる。顔が、赤く染まっていくのが分かる。けれど、彼にだけは、この気持ちを悟られたくなくて、雛は素っ気なく、くるりと背を向けた。
「ほ、ほら、早く行くよ! 」
「おう」
少しだけ遅れて、大喜が歩き出す。その足音が、雛の背中に、どこか心地よく響いていた。夕陽に照らされた商店街へと向かう二人の姿が、寄り添うように伸びた影とともに、ゆっくりと、遠ざかっていく。
ふと、校舎裏の角を曲がると、数人の生徒たちの声が微かに耳に届いた。少女は足を止め、気づかれないよう物陰に身を隠す。
「田中ってさ、なんか調子乗ってね?」
「だよなぁ。千夏先輩と付き合ってるとかさ、マジウケる」
「てかジャージの話もヤバくね? あれ完全に狙ってんじゃん」
「ホントだよ。ま、イケメンだから許されると思ってんじゃね?」
聞き捨てならない言葉が続くたびに、少女の中で感情がぐるぐると蠢く。彼らの言葉には、明確な嫉妬と悪意が滲んでいた。それが龍太に向けられているのだと気づいた瞬間、彼女の胸に奇妙な感情が芽生えた。
(田中くんに……悪意を向ける人がいる……?)
それは怒りではなかった。むしろ、暗い笑みが口元に浮かぶ。
(悪意……ね。使えるかもしれない)
心の中で小さな声が囁く。嫉妬と独占欲に歪んだその声が、少女をさらなる深みへと誘う。
風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。その背中はどこか影を背負い、歩む道に静かに陰を落としていく。校舎に響く夕焼けの鐘が、まるで何かの始まりを告げるように不気味に響いていた。