親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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4話

 

 

 

 女性と、一つ屋根の下で暮らす。

 そんな状況を誰かに話せば、きっと「夢みたいだな」と、羨望混じりの溜息が返ってくるだろう。

 ましてや、その「女性」が年上で、優しくて気遣いのできる、ほぼ完璧な人間——鹿野千夏だとしたら、なおさらだ。彼女がいるだけで、家の空気はふわりと明るくなる。誰かがいてくれるという安心感は、龍太の心を温かく包んでくれた。

 だが、それは同時に、過酷な現実を意味してもいた。自分の弱点や、恥ずかしい部分が、すべて彼女の目にさらされる、ということだ。

 ふとした瞬間に、言い知れぬ不安が襲ってくる。朝、起きたとき、ボサボサの寝癖頭を見られていないか。リビングのソファにだらしなく寝転がった姿が、不意に視界へ入ってしまっていないか。自分の家だったはずの場所が、いつの間にか「他人の目」を意識せざるを得ない、緊張をはらんだ空間へと、静かに変わっていく。

 

 そして、何より恐れていたのが、「予期せぬ鉢合わせ」という名の悲劇だった。

 

 ここは自分の家だ、という油断。

 それこそが最大の敵だ。異性と暮らす以上、常に細心の注意を払わねばならない。何かの拍子に、うっかりバスルームの扉を開けてしまったら——その瞬間に広がるのは、想像を超えた禁断の光景。築き上げてきた平穏が、音を立てて崩れていく。そんな悪夢が一度でも起きれば、この奇妙な同居生活は、たちまち息苦しいものへ変わってしまうだろう。

 

 「それ」は、ある夜、あまりにも突然に起きた。

 

 部活帰りの汗を流そうと、龍太は脱衣所のドアに、何の疑いもなく手をかけた。彼にとっては、日常の延長線上にある、ごく当たり前の習慣だったはずだ。

 だが次の瞬間、そのささやかな平穏は、ガラスのように砕け散った。

 

「えっ……?」

 

 視界に飛び込んできたのは、湯気の向こうに霞む、千夏の後ろ姿だった。濡れた髪から立ちのぼる湯気。体に巻かれた一枚のバスタオル。普段の清楚な雰囲気とはまるで違う、無防備で柔らかな輪郭が、目に焼きついた。

 千夏が、驚いた顔で振り返る。その瞬間、龍太の心臓は、鳥籠で暴れる鳥のように跳ね上がった。全身が、石になったように固まる。

 

「ちょっ、まっ、すみませんっ!」

 

 我に返るなりドアを閉め、その場にへたり込む。耳まで真っ赤で、手のひらはじっとり汗ばんでいた。自分のあまりの愚かさに、頭を抱えたくなる。

 

「…………やって、しまった……」

 

 これ以上ない、致命的な失態だった。相手がただの知り合いなら、まだ救いようもあったかもしれない。だが、相手はあの鹿野千夏だ。学校中の誰もが憧れるマドンナで、完璧な先輩。その彼女に、こんな無様で取り返しのつかない大失態を演じてしまった。

 

「とりあえず、謝らないと!」

 

 震える体に鞭打ち、龍太は脱衣所の前に正座した。ドアの向こうから、かすかに衣擦れの音が聞こえてくる。その微かな音だけで頭が真っ白になり、心臓の鼓動が耳の奥で狂ったように鳴った。

「ほ、ホントに、すみませんでしたっ!!」

 

 床に額をこすりつける勢いで、深く、深く土下座する。声は情けなく震え、顔からは血の気が引いていた。

 ドアの向こうで、一瞬の沈黙。やがて聞こえてきたのは、驚くほど穏やかな声だった。

 

「えっと……龍太くん、大丈夫だから。そんなに謝らないで?」

 

 驚きよりも、龍太を気遣う優しさが滲んでいる。その穏やかさに、しかし彼の動揺はかえって加速した。

 

「い、いや、先輩、俺が悪いんです。本当にごめんなさい! 生きててすみません!」

 

 すると、千夏が小さく吹き出す気配がした。その笑い声が、張り詰めていた緊張をほんの少し緩める。

 

「そんなに自分を責めないで。私も、鍵かけ忘れちゃったし……。それに、急いでたから先に使っちゃって、こっちこそごめんね?」

 

 申し訳なさそうに言って、千夏はドアをほんの少しだけ開けた。隙間から顔だけを覗かせるその姿は、どこまでも穏やかだ。

 

「で、でも……俺が——」

「ねえ、龍太くん」

 

 ふわりと、微笑む。その笑顔には、人の心を安心させる不思議な力があった。

 

「お互い悪かった、ってことにしよう。ね?」

 

 しばらく考え込んだあと、龍太は小さく頷いた。顔にはまだ緊張が残っていたが、その穏やかな声が、こわばった心を少しずつほどいていった。

 

 

 

 

 

 時刻は、夜の九時を過ぎていた。

 

 春の夜は、昼間の温もりを残しながらも、肌寒い風を運んでくる。薄い雲が、満天の星をほんのり朧げにしていた。等間隔に並ぶ街灯が、昼の喧騒など嘘のように、橙色の光を点々と連ね、路面を優しく照らしている。光の届かないところでは、木々の影が風に揺れ、不規則な模様を描いていた。

 田中龍太と鹿野千夏は、そんな夜道を肩を並べて歩いていた。だが、二人の間には、どこかぎこちない空気が漂っている。一段落したかに思えた脱衣所の一件は、あまりに突拍子もなかったぶん、まだ微妙な距離を残していた。

 その沈黙を破るように、千夏がふいに口を開く。

 

「ところで……龍太くん」

「はい?」

「さっき、どこまで見たの?」

 

 その一言が、龍太を再び絶望の淵へ突き落とした。

 頭の中で、先ほどの光景が鮮烈に蘇る。すらりと伸びた手足、湯気に濡れた肌、そして——。

 

「違うんです! 見てないです! 全然見てないです!」

 

 声は情けなく上ずり、龍太は慌てふためいた。その必死さに、千夏は口元を懸命に押さえながらも、込み上げる笑いを堪えきれずにいる。

 

「そうなんだ。……でも、顔真っ赤だよ?」

「そ、それはっ! 今日はやけに暑いというか、風呂上がりのせいで……いや、本当に、その……」

 

 焦るほど、言葉は意味をなさず空回りしていく。とうとう堪えきれず、千夏が声を上げて笑い出した。その明るい笑い声に少し救われる一方で、自ら墓穴を掘っているという絶望感に、龍太は観念して項垂れる。

 

「……もう、殺してください」

「そんな大袈裟なこと言わないでよ」

 

 ほんのり赤く染まった顔で、千夏は悪戯っぽく笑った。その笑みには、彼を元気づけるような優しさがある。

 

「それにしても……こういうのって、ドラマみたいだね」

「いやいや、俺にとってはただのホラーですから」

「ふふっ、そう?」

 

 柔らかな笑顔を見るたび、龍太の心臓はまた不規則なリズムを刻みはじめる。彼女の無邪気な表情と穏やかな声は、どんな厳しい説教よりも、よほど効くのかもしれない。

 

 やがて、前方にコンビニの明かりが見えてきた。静かな店内から漏れる光が、夜道を歩く二人を出迎える。自動ドアが滑るように開くと、ひんやりとした冷気が流れ出してきた。夜の街と店内とを隔てるその一歩は、世界をくっきり二分する境界線のようだった。

 冷凍ケースに並ぶ色とりどりのアイスが、千夏のテンションをさらに引き上げる。

 

「どれにしようかなー」

 

 真剣な表情でガラス扉を開け、立ちのぼる冷気に肩をすくめながら、手を伸ばしては戻す。心から選択を楽しんでいる様子だ。宝石箱を前にした少女みたいだな、とその横顔を見て、龍太は思わず笑みをこぼした。

 

「そんなに真剣に選ぶもんですか?」

「うん、普段はあまり食べないから」

 

 くるりと振り返り、少し照れくさそうに言う。バスケの対決のときもそうだったが、やはり体のことを第一に考えているのだろう。だからこそ、たまのご褒美は慎重に、真剣に選びたいのだ。そう解釈しながら、龍太は別の段へそっと手を伸ばし、パキッと二つに割れるタイプの、チョココーティングのバニラバーを取った。さっきから千夏が、その包装をじっと見ていたのに気づいていた。

 

「あ、それおいしそうだよね」

「そうですね」

 

 その言葉に、千夏の目がほんの少し期待の光を帯びた気がする。龍太は込み上げる笑いを必死に堪えた。彼女の分かりやすさが、微笑ましくて仕方ない。

 

「うーん、私は……これにする」

 

 結局、彼女が選んだのは、ごくシンプルなチョコバーだった。あれだけ迷った挙句にそれか、と上がりかけた口角をこらえ、会計を済ませて、二人はまた夜道へ出る。

 数歩歩いて立ち止まると、龍太は手にしたバーの包装を開けた。パキッ、という小気味よい音が、夜の静寂に心地よく響く。

 

「先輩、どうぞ」

「えっ……いいの?」

「俺一人じゃ食べきれないですし。たまにはこういうチートデイも、ありだと思うんで」

 

 照れ隠しにぶっきらぼうに言うと、千夏は頬を染めながら受け取った。

 

「ありがとう、龍太くん」

 

 その声には、感謝と、隠しきれない嬉しさが混じっている。龍太はなぜか、妙にそわそわした。もらったアイスを愛おしげに眺め、千夏がふと顔を上げる。

 

「龍太くんって、ちょっとキザだよね」

「えっ、どこがですか?」

 

 突然の言葉に、思わず言い返す。千夏は小さく笑い、悪戯っぽい光を瞳に宿して、じっと見つめてきた。

 

「私が欲しかったもの、選んでくれたから……かな。それとも、さっきのことのお詫び?」

「い、いや、それとこれは関係ないですから!」

「ふふっ、本当かな?」

 

 クスクス笑う千夏に、龍太の顔はますます熱くなる。心の奥まで見透かされているようで、もう言い返す言葉も見つからない。

 

「顔真っ赤だよ」

「誰のせいだっ!」

「私?」

 

 心底不思議そうに、無邪気に首を傾げてみせる。その仕草があまりに愛らしくて——

 

「だっ、あー、もうっ」

 

 龍太は勢いよくアイスにかじりつくことで、この気まずさから逃れようとした。その姿に、千夏は声を立てて楽しそうに笑う。会心の笑顔は、どこまでも無邪気で、まるで少女のようだった。

 

 その無防備さに、龍太の胸でまたざわめきが起こる。

 ましてや、あの湯上りの姿を思い出してしまっては、もう平常心ではいられない。こんなことを繰り返していたら、いつか本当に心臓が持たなくなる。

 

 明日はどうか、何事も起きませんように。

 そう願いながら、龍太は夜空を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 高校という閉じた空間で生まれる噂は、疾風のごとく伝わり、その過程で奇妙な歪みを帯びていく。誰かが「ちょっと聞いてよ」と秘密めかして囁けば、その言葉は次の瞬間には廊下を駆け抜け、昼休みには校内の隅々まで届いてしまう。

 厄介なのは、噂が広がる途中で、まるで生き物のように成長することだ。様々な憶測で味付けされ、ときに全く別の物語へと変貌する。発端がいかに些細な「ただの出来事」であっても、やがて「大事件」へ化けてしまうのは、高校の噂という伝播の魔法のせいだった。

 

 その日も、その魔法が前触れなく校内を席巻した。

 

 発端は、二年のある教室で目撃された、一つの「重大事件」。

 春の日差しが暖かく降りそそぐ教室。窓際の千夏の隣に、一年の田中龍太が腰掛けている。二人が、ただ仲睦まじく話している。その何気ない光景を見た誰かが、些細な好奇心から口にした一言——。

 

『ねぇ、千夏先輩が、一年の田中龍太と話してたよ!』

 

 それこそが、のちに校内を揺るがす、すべての噂の出発点だった。

 鹿野千夏といえば、言わずと知れたバスケ部の絶対的エース。学校中の憧れの的だ。一方の龍太も、陸上部の期待のホープ。全国大会に出場し、雑誌に名が載るほどの実力者である。二人とも、この学園で一目置かれる特別な存在だった。

 そんな二人が、笑顔で楽しそうに話していた。それだけで、噂の火種としては十分すぎた。

 初めは「話していた」という事実だったものが、次の休み時間には「親しげに話していた」に変わり、昼休みには、いつの間にか「付き合っている」という揺るぎない結論へ到達していた。

 高校生というのは、ときに驚くべき速さで結論を導き出す生き物だ。とりわけ、それが恋愛という甘美な話題ともなれば、彼らの熱意と想像力に、もはや底はない。

 

『千夏先輩と田中くんって、お似合いじゃない?』

『だよね! 美男美女だし、完璧!』

『これもう、公式カップルってことでいいよね!』

『やっぱり、この間の連絡先交換には続きがあったんだ!』

 

 もはや事実かどうかなど、関係ない。重要なのは、その噂がどれだけ人をわくわくさせ、日常に彩りを与えてくれるか、ただそれだけだ。

 そして、その甘美な噂を真に受けたクラスメイトたちが、一斉に龍太へ詰め寄った。

 

「あのな、付き合ってるわけないだろ? そもそも俺が、千夏先輩と付き合えるわけがない」

 

 教室の隅で机を叩きながら、龍太は必死に否定する。だがクラスメイトたちは、揃いも揃って疑念に満ちたジト目を向けるばかりだ。

 

「いや、お前に関しては、そのルックスだけで十分説得力ねぇんだよ、クソイケメンが!」

「それも、めっちゃ優しい笑顔で話してたらしいぞ!? あの千夏先輩が!」

「田中、どう説明すんだよ、この国民的スキャンダルを!」

「だから違うんだって!」

 

 龍太は焦りのあまり頭を抱えた。どんなに的確な反論を考えても、出口のない迷路に迷い込んだような、絶望的な気分になる。

 必死の弁解も虚しく、教室は冷やかしと好奇の嵐に包まれていた。これ以上どう潔白を証明すればいいのか、と天を仰いだ、そのときだった。

 ポケットのスマートフォンが、ぶ、と短く震えた。

 

「おいおい、もしかして、噂の千夏先輩からだったりして?」

「ば、ばか、ちげーよ!」

「どうだかなぁ。この間、LINE交換したんだろ?」

「くっ、羨ましいっ。やっぱり世の中、顔なのか!?」

 

 騒がしい野次馬から視線を外し、龍太はこっそりメッセージを確認する。そこに映し出されていたのは、彼の不安を決定的な絶望へ変える、あまりに残酷な一文だった。

 

 ——私のジャージ、間違って持って行ってない?

 

 もう何年も忘れていた「絶望」という感情が、両手を大きく広げ、龍太へゆっくりと近づいてくる。

 

「終わった……完全に終わった……」

 

 その場で凍りついたまま、龍太は動けなくなった。顔は引き攣り、額から滝のような冷や汗が流れる。

 

(なんで、今、こんなタイミングで……!?)

 

 とにかく、まずは事実確認だ。机の下へバッグを引き寄せ、周囲に気づかれぬよう、こっそり中を覗き込む。そして目に飛び込んできたのは——鮮やかなブルーの生地に、『鹿野』と白糸で刺繍された、見慣れないジャージだった。

 

(これかぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!)

 

 思わず手が震える。頭の中で警報がけたたましく鳴り、心臓は暴れ馬のように胸を蹴り続ける。バレてはいないかと恐る恐る顔を上げると、隣の席の生徒が、怪訝そうにこちらを見ていた。

 

「田中、お前、さっきから何やってんだ?」

「な、何でもない! 本当に、何でもないから!」

 

 だが、そのあまりに挙動不審な態度が、かえって疑惑を煽った。

 

「……怪しい。おい、ちょっと見せてみろよ」

「ば、さわんじゃねえ!」

「ほらほら、何をそんなに隠してんだ! 中身見せろって!」

「さてはラブレターか? いやいや、このご時世、もしかしてエロ本か!?」

「待て待て、お前ら。もしかして、それって……千夏先輩のジャージとかじゃね?」

 

(どんな推理力だよ!)

 

 心の中で、龍太は全力でツッコんだ。しかし現実は無情だ。彼の叫びなどお構いなしに、クラスメイトたちの目が、獲物を狙うハンターのそれへギラリと変わる。

 

「違うって! 話を聞け!」

「話せば話すほど、怪しいんだよなぁ〜?」

「いいから、さっさと見せろよ、ほら!」

 

 獲物の匂いを嗅ぎつけた狼の群れのように、じりじりと距離を詰めてくる。追い詰められた龍太は、カバンをさらに強く抱きしめ、必死に抵抗した。

 

「やめろよ! 龍が嫌がってるだろ」

 

 そのときだった。

 龍太を守るように二人の間へ割って入ったのは、怒気をあらわにした大喜だった。

 

「で、でもよ」

「龍は、嘘をつくような奴じゃない。さっきから、付き合ってないって言ってるだろ。それとも何だ、少し話したくらいで、付き合ってることになるのか?」

「そ、それはそうだけど……」

 

 大喜の言葉に、教室の空気が一瞬、納得したように和らいだ。

 

(助かった……さすが大喜、ナイスだ!)

 

「だから言っただろ? 俺は付き合ってなんか——」

「——お、おい、田中っ」

 

 安堵の息を吐きかけた龍太の言葉を、一人のクラスメイトが遮る。その視線は、信じられないものを見つけたかのように、龍太のバッグへ釘付けになっていた。

 

 つられて、龍太もその視線を追う。

 

 自分のバッグの、わずかに開いたチャックの隙間。そこへ視線が吸い寄せられた、その瞬間。

 

 「あ」と、小さな声が漏れた。

 

「……それ……千夏先輩のジャージじゃね?」

「…………」

 

 龍太は、自分でも出したことのないスピードでチャックを閉め、バッグを両手で固く抱きしめた。 

 

 だが、もう誰も彼の言葉に耳を貸さない。

 

 教室の生徒たちが、獲物を追い詰める捕獲チームのように、ゆっくりと龍太を囲みはじめた。

 

 終わった……。俺の、人生が……。

 

 抗いようのない終末感が、夕闇のように胸へ沈み込んでいく。世のあらゆる不幸を一人で背負ったかのように、舌は固くこわばり、もはや言葉も出ない。

 もう、だめだ。そう観念しかけた、その瞬間だった。

 教室に、その音が、一条の雷鳴のごとく響き渡った。

 

「——龍太くん」

 

 鋭い指向性を持ったその声は、たった一人の男へ、一直線に飛んでいく。誰もが、声の発信源と、その行き着く先を見て、そして時を止めた。話していた口を閉じる者、シャーペンを落とす者、傾けたペットボトルからオレンジジュースを机に盛大にぶちまける者。

 天を引き裂く雷鳴に貫かれたように、龍太は束の間、自分の目も耳も、この世界そのものも信じられないという顔で固まっていた。だが、クラスメイト全員の瞳が一斉に自分へ向いた瞬間、視界に鮮やかな色彩が戻る。

 

「!!!!!!」

 

 声なき絶叫、とは、まさにこのことだろう。

 龍太は、不可視のカタパルトから射出されたように、その場から緊急発進し、雷鳴の発生源へと一足飛びに飛んだ。

 

「ななななななななな何で先輩がここにいるんですっ!!!??」

 

 泡を吹いて卒倒しかねないほど顔面を蒼白にしながら、千夏に詰め寄る。

 

「ごめんね、もしかして、お邪魔だった? 一応、いつもの屋上に来てほしいってLINEしたんだけど、既読にならなかったから」

「ま、マジすか? い、いや、お邪魔と言うかですね……」

 

 教室の空気を敏感に察してそう尋ねる千夏に、龍太は返す言葉が見つからない。恐る恐る振り返れば、そこには羨望と嫉妬の入り混じった、複雑な感情に駆られるクラスメイトたちの姿があった。

 もはや、彼らは同じクラスの仲間と言えるのだろうか。慈悲を乞いたくなる気持ちのまま、龍太の口から乾いた笑みが漏れた。

 

「こ、これはその……あははははは……逃げますっ」

「あ、二人して逃げたぞ! 追え!」

 

 龍太は咄嗟に千夏の手を取り、バッグを抱えたまま教室を飛び出した。背後から、怒号と地響きのような足音が追いかけてくる。その勢いは、もはや尋常ではない。

 

「逃げんな、田中ァァァ!」

「千夏先輩と手ぇ握って、どこ行く気だぁぁあああああ!!!!」

 

 廊下を全力疾走しながら、龍太は心の中で呟いた。

 

(勘弁してくれ……!)

 

 

 

 

 屋上の重い鉄扉を勢いよく開け放つと、ひんやりとした春の風が、火照った二人の頬を撫でた。その瞬間、龍太は少しだけ、息苦しい現実から解放された気がした。背後の怒号も、突き刺さる非難の視線も、この風が洗い流してくれるのではないか。そんな淡い期待を抱く。

 

「とりあえず……助かった……」

 

 息を切らして扉を押さえ、背中で支えるように座り込む。一方の千夏は涼しい顔で屋上の端へ歩み寄り、手すりに寄りかかって心地よさそうに風を受けていた。その後ろ姿に、龍太は思わず目を奪われる。

 千夏の髪が、風を受けて絹のように揺れる。その佇まいには非現実的なまでの美しさがあって、つい先ほどの地獄のような修羅場が、嘘のように思えてきた。

 

「すみません、巻き込んじゃって……」

 

 額の汗を拭いながら、か細い声で呟く。千夏はゆっくり振り返り、柔らかく微笑んだ。

 

「ううん、大丈夫だよ。それより、結構大変だったね」

 

 その表情には咎める色など微塵もなく、むしろ優しさが漂っている。胸を重く支配していた罪悪感が、少しだけ溶けていくのを感じた。

 

「いや、本当に……死ぬかと思いましたよ」

 

 苦笑しながら、龍太はバッグから例のジャージを取り出し、差し出した。

 

「とりあえず、これ。すみません、間違えて持っちゃって」

 

 千夏は受け取り、ふと微笑む。その瞳には、どこか楽しげな色が宿っていた。

 

「ありがと。でも、どうしてあんなに必死だったの?」

「千夏先輩のジャージ持ってるのが、バレたからです」

「それだけで?」

「いや、それだけって……あの状況の恐ろしさ、見てましたよね!? あれだけで、十分すぎるんです! まだLINE交換のほうが、よっぽどマシでした!」

「そういえば、あのときも龍太くん、走ってたね」

 

 こらえきれないように、千夏がくすっと笑う。その屈託のなさに、龍太は何とも言えない複雑な気持ちになった。安堵と、羞恥と、胸の奥で芽生える妙な温かさが、心をざわめかせる。

 だが、その穏やかな空気を破ったのは、彼女のあまりに何気ない一言だった。

 

「とりあえず、次、体育だから、着替えちゃうね」

「あー、そうですね、そろそろ着替え……ん? は?」

 

 頭の中が、白く溶け落ちるような衝撃だった。

 

「いやいやいやいや! 何言ってるんですか!」

 

 焦る龍太に、千夏は気にする様子もなく、さらりと返す。

 

「大丈夫。運動部女子は、どこでも着替えられるように鍛えてるから」

「いや、そういう問題じゃないですよね!?えっ? もしかして、俺の常識のほうがおかしいんですか——!?」

 

 慌てて背を向け、両手で顔を覆う。背後から聞こえてくる衣擦れの音が、妙に生々しく耳に響いた。その音だけで顔が燃えるように熱くなり、手のひらの向こうに何かが見えてしまうような錯覚に陥る。 

 

(なんでもう脱ぎ始めたの! 頼むからっ、頼むから早く着替え終わってくれっ……!)

 

 切実な祈りも虚しく、ただ悶々とした時間が流れていく。そのときだった。階段のほうから、複数の駆け上がってくる足音。

 まるで、悪魔の足音だ。嫌な予感が背筋を凍らせる。

 

(まだ追ってたのかよ!!!)

 

 龍太は咄嗟にドアノブを握り、渾身の力で押さえつけた。

 

「あれ、開かねぇぞ」

「おい、まさか田中か!?開けろ!」

 

 ドア越しの怒号に、胃が縮む。

 向こう側では、男子生徒たちが勢いよくドアを押しているらしい。ガタガタと、古い扉が悲鳴のような軋みを上げた。

 

「だ、ダメに決まってるだろ!」

「やっぱりか!! なんでだよ!」

「なんでって…………」

 

 言葉に詰まる。

 千夏先輩が今まさに後ろで着替えているなんて、どうして言えるだろう。しかしこの状況で、ほかにどんな代替案が浮かぶというのか。仕方なく、しどろもどろになりながら、一つの可能性に賭けることにした。案外、正直に話せば、彼らも大人しく引き下がるかもしれない。

 

「せ、先輩が……な、生着替え中なんだ……」

「はっ? はぁあああああ!?」

 

 一瞬、屋上全体が嘘のように静まり返った。

 そして、次の瞬間。

 怒号が、爆発した。先ほどとは比べ物にならない力で、ドアノブが激しく回される。

 

「お、お前っ、何着替え独占してんだよぉぉおお!!!!」

「見てんじゃねえだろうな!?」

「み、見るわけな——」

 

 否定しかけた瞬間、昨夜の脱衣所が、鮮明に脳裏をよぎった。濡れた髪から滴る水滴、柔らかな体のライン、上気した薄紅の肌——。

 

(こんなときに、思い出すな! いや、こんなときだからこそ思い出すのか!? とにかく、忘れろ!!!)

 

 顔が真っ赤に染まっていくのを感じた、その瞬間。ドアの向こうから、さらに鋭い声が飛んできた。

 

「おい、なんで何も言わねぇんだよ!!!!」

「テメェ、マジで見てたなぁ!?」

「みっ、見てないって言ってるだろっ!!!」

「じゃあ、なんで一瞬黙り込んだんだよ!!??」

「一人で独占してんじゃねぇよ!!」

「う、うるせぇな!! あんな綺麗なもん、他の奴らに見せられるわけねぇだろ!! 即死するぞ!!」

 

 つい、言ってしまった。

 そこにどんな感情が乗っていたのか。どんな想いが込められていたのか。そのときの龍太には、自分でもよく分からなかった。だが、少なくとも今この場所で、彼女の着替えを、彼女の尊厳を守りたいという気持ちだけは、確かだった。

 ぴたり、と時間が止まる。

 

 春の風が屋上を吹き抜ける音だけが、やけに大きく聞こえた。

 

「おい、今、なんつった!?」

「やっぱり、見てたんだな!!」

「変態! お前、絶対に許さねぇぇぇ!!」

 

(やばい……。言葉、間違えた……。終わった……)

 

 全身から力が抜けていく中、それでも龍太は、ドアノブから手を離さなかった。

 

 不意に、裾を、くいくいと軽く引っ張られる。

 

 振り返ると、ジャージに着替え終えた千夏が立っていた。

 頬はまだ赤く、熱を持ったように染まっている。いつもは落ち着き払った彼女が、これほど羞恥でいっぱいになっているのを見て、龍太はようやく、自分が何を口走ったのかを自覚した。

 

「い、今のは言葉の綾と言うかですね……!」

「———」

 

 恥ずかしそうにぽそりと呟かれた言葉に、龍太は思わず天を仰ぐ。

 

(……どっちがだよ)

 

 

  

 春の柔らかな陽光が窓越しに差し込む体育館に、ボールが小気味よいリズムで床を弾く音が響いていた。千夏はコートを軽やかに駆け、仲間からのパスを受ける。その一連の動きには一切の無駄がなく、彼女の存在そのものが、チームのリズムを生み出しているかのようだった。

 いつもなら、このときの千夏は、試合中と変わらず真剣そのものだ。ポーカーフェイスを崩さず、淡々と、確実にプレーへ集中している。だが、今日は違った。その頬には、普段は見られないわずかな赤みが差し、どこか浮ついた空気を漂わせている。

 

 ——あ、あんな綺麗なもん他の人に見せられるわけねぇだろ!! 

 

 不意に、あのときの龍太の言葉が、鮮やかに蘇る。

 その一言が何度も頭の中を巡り、消せないメロディのように耳の奥で鳴り続けていた。そのたびに心臓が大きく跳ね、手のひらにじわりと汗が滲む。

 

(……集中、しないと……!)

 

 必死に自分を叱咤する。だが、回りはじめた思考の歯車は、そう簡単に止まらない。ほんの一瞬の迷いが、プレーに微妙な、しかし確実な狂いを生む。仲間へのパスが、わずかに逸れた。慌てて体勢を立て直し、どうにか軌道を修正する。その様子に、いち早く気づいた渚が、心配そうに声をかけてきた。

 

「千夏、大丈夫?なんか今日、変じゃない?」

「う、ううん。全然平気だよ?」

 

 内面の動揺を悟られまいと、ことさら力強く首を振る。しかし、その必死さが、かえって不自然さを際立たせた。渚は怪訝そうに小首を傾げる。

 

「でも顔赤いよ?もしかして、熱があるんじゃない?」

「う、運動してるからじゃない? ほら、汗とか、かいてるから……」

 

 自分でも苦しい言い訳だと感じながら、それでも必死に否定を重ねる。だが渚はまだ納得しない様子で、じっと顔を見つめてくる。

 

「……ほんとに?」

「うん」

 

 どうにかごまかせただろうか。そう思った、まさにそのとき。渚が、ふと思い出したように、全く別の角度から話題を切り込んできた。

 

「そういえばさ、例の同居のことだけど……」

「っ!?」 

 

 その一言で、千夏の動きが完全に止まった。ボールを抱えたまま、その場で硬直する。スローモーションの一コマのようだった。

 

「どう?親戚の人とうまくいってるの?」

「……えっと……うん」

 

 何気ない問いに、千夏は顔を真っ赤にして俯いてしまう。声も蚊の鳴くように小さく、誰が見ても明らかに挙動不審だった。渚はその反応を見て、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「もしかして、親戚の家に、イケメンでもいた?」

「そ、そんなこと、ない……ことも、ないけど……でも、何もないし!」

「うえっ!?マジで?どんな人っ!?好きになっちゃった!?」

「べ、別に、何もないよ!」

 

 慌てて否定するが、言葉とは裏腹に、耳まで真っ赤に染まっている。あまりに分かりやすい反応が可愛らしくて、渚はもう笑いをこらえきれない。

 

「まぁまぁ、あんまり深くは聞かないけどさ〜。でも、ふーん、なんか気になるよね?千夏って、そんくらいの距離感じゃないと、恋愛とかしなそうだし」

「も、もう! 試合、終わっちゃうよ! 集中しよう!」

「あ、逃げた」

 

 千夏は逃げるようにドリブルを再開した。だが、背中に突き刺さる渚の視線が痛いほど意識され、いたたまれない。

 授業が終わり、千夏は体育館の隅で水を飲み、ようやく一息ついた。タオルで汗を拭いながら、自分の胸の内を静かに見つめる。

 

(……なんで、私、こんなに意識しちゃってるんだろう)

 

 考えるほど、この奇妙な感情の正体が分からなくなる。普段ならもっと堂々としていられるのに、今日に限って、どうしても落ち着かない。

 

(……私、あのときなんで……)

 

 彼は、どこまで、何を見たのだろう。

 あのとき咄嗟に「平気だ」とは言ったものの、見られたかもしれないという恥ずかしさが、今になってじわじわ込み上げてくる。

 いや、それ以上に——。

 

(なんで、私、嬉しいって思っちゃったんだろう……。これじゃ、まるで私のほうが……)

 

 龍太のあの言葉が、いつまでも心に残って離れない理由。その答えが何なのか。分かっているようで、分かりたくない自分が、確かにそこにいた。

 千夏は大切なものを守るように、ボールをぎゅっと抱きしめて俯くと、両手で熱くなった頬を覆う。

 

「千夏、早く片付けしないと!」

 

 渚の声に、はっとして顔を上げる。その表情には、まだうっすら赤みが残っていた。慌てて、深呼吸を一つ。

 

(……予選まで時間がない。集中しないと……)

 

 そう強く言い聞かせ、千夏はボールを抱えてゆっくり歩き出す。だが胸の奥で、小さく、しかし確かに燃えはじめた感情の火は、春風のようにひっそりと、それでいて消えることなく、そこに在り続けていた。 

 

(……こんな気持ち、どうすればいいのかな)

 

 体育館の窓から差す光が、千夏の背中を優しく照らす。その中で彼女は、誰にも聞こえないほど小さな声で、そっと呟いた。

 

「……ちゃんと同居人、しないと」

 

 

 

 

 

 校庭を茜に染める夕陽が、木々の隙間から細長く差し込み、二人の影をアスファルトに伸ばしていた。柔らかな風が、名残惜しそうに頬を撫でていく。そんな中、大喜の声が、ぽつりと静寂へ落ちた。

 

「なぁ、雛」

「ん?」

「龍ってさ……千夏先輩のこと、好きなのかな」

 

 その問いに、雛の足が、一瞬、ぴたりと止まった。

 普段の快活さからは想像もつかないほど低く、不安げで頼りない声だった。そっと目を向けると、大喜は燃えるような夕陽の向こうを、ぼんやり見つめている。その横顔には、隠しようのない戸惑いと切なさが滲んでいた。

 

 雛の胸が、ぎゅっと締めつけられる。

 彼がなぜそんなにも千夏を気にするのか、その理由を、痛いほど知っているからこそ。

 

「なんで?」

 

 自分でも驚くくらい、甲高い声が出てしまった。内心の動揺を悟られまいと慌てて視線を逸らすが、心の中は嵐のように荒れていた。

 

「だってさ……今日の、あれ。龍のバッグの中に、千夏先輩のジャージが入ってたんだぞ」

 

 子供のように小さく肩を落とし、ぼそりと呟く。その無防備な仕草に、雛は喉元まで突き上げてきた何かを、必死に飲み込んだ。

 

(そんな顔、しないでよ……)

 

「それこそ、何か理由があるんじゃない? 龍が千夏先輩のこと好きだなんて……私は、全然ピンとこないけど」

 

 無理に軽いトーンで返しながらも、内心では心臓が警鐘のようにうるさく鳴っている。何か、彼を安心させられる言葉を。その一心で言葉を紡ぐが、それが正解なのか、彼女自身にも分からなかった。

 

「でもさ、あのときの龍……なんか焦ってたよな」

「そりゃあの状況なら誰だって焦るって……まあ、もし二人が付き合ってるなら、お似合いではあるかもね」

 

 わざと軽薄な調子で言ってみせた。

 しかし、その言葉の棘は、皮肉にも自分自身の胸へ深く突き刺さる。大喜の横顔が、わずかに、しかし確実に暗くなったのを見て、雛の胸はまた、きりきりと痛んだ。

 

「……そうかもな」

 

 頼りなく、力なく笑う。その笑顔があまりに痛々しくて、雛はほとんど無意識のうちに体を動かしていた。

 

「えいっ!」

 

 不意に膝カックンを食らった大喜が、よろけながら振り返る。

 

「何すんだよ!」

「暗い顔してると、雛様の運気が下がるでしょ。大喜だって、インターハイ行けなくなっちゃうよ!」

「運気って……お前なぁ」

 

 不満げに眉をひそめながらも、その顔に、ようやくいつもの笑みが戻った。その変化に、雛は心の底から安堵し、そっと胸を撫で下ろす。

 

「ほら、さっさと商店街行くよ! 今日は、大喜が荷物持ちだからね?」

「はい? 聞いてないぞ!」

「今決めたの! ほら、感謝してついてきて!」

 

 ふんっ、と得意げに胸を張る雛に、大喜はとうとう苦笑を漏らした。そして、ほとんど吐息のような声で、ぽつりと呟く。

 

「……ありがとう、雛」

 

 その不意打ちの言葉に、雛の心臓が、一気に跳ね上がった。胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。顔が赤く染まっていくのが分かる。けれど、彼にだけはこの気持ちを悟られたくなくて、雛は素っ気なく、くるりと背を向けた。

 

「ほ、ほら、早く行くよ!」

「おう」

 

 少しだけ遅れて、大喜が歩き出す。その足音が、雛の背中に、どこか心地よく響いていた。夕陽に照らされた商店街へ向かう二人の姿が、寄り添うように伸びた影とともに、ゆっくりと遠ざかっていく。

 

 

 

 

 

 ふと、校舎裏の角を曲がると、数人の生徒の声が微かに耳に届いた。少女は足を止め、気づかれないよう物陰に身を隠す。

 

「田中ってさ、なんか調子乗ってね?」

「だよなぁ。千夏先輩と付き合ってるとかさ、マジウケる」

「てか、ジャージの話もヤバくね?あれ完全に狙ってんじゃん」

「ホントだよ。ま、イケメンだから許されると思ってんじゃね?」

 

 聞き捨てならない言葉が続くたび、少女の中で感情がぐるぐると蠢いた。彼らの声には、明確な嫉妬と悪意が滲んでいる。それが龍太に向けられていると気づいた瞬間、彼女の胸に、奇妙な感情が芽生えた。

 

(田中くんに………?)

 

 それは、怒りではなかった。むしろ、口元に暗い笑みが浮かぶ。

 

(悪意……ね。使えるかもしれない)

 

 心の中で、小さな声が囁く。嫉妬と独占欲に歪んだその声が、少女をさらなる深みへと誘う。

 

 風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。

 その背中はどこか影を背負い、歩む道に静かな陰を落としていった。校舎に響く夕暮れの鐘が、まるで何かの始まりを告げるように、不気味に鳴っていた。

 

 

 

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