親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
時計の針は朝の5時を少し回ったところだった。部屋の中は静寂に包まれ、薄いカーテン越しに見える外の景色はまだ曖昧にぼやけている。外からはわずかに鳥のさえずりが聞こえたが、それは龍太の耳にほとんど届いていなかった。
布団に横たわったまま、龍太は天井を見つめていた。頭の中には昨日の騒動の光景が何度もフラッシュバックしている。大喜への弁明、クラスメイトたちの視線、千夏のこと──すべてが絡み合い、重くのしかかってくる。
(……どうすればいいんだ)
頭の片隅で考えが堂々巡りする中、喉の奥に少しだけ違和感を覚えた。なんだかひりつくような乾燥感があり、少し咳き込む。
(……なんだ、風邪か?)
体全体にだるさも感じるも、深い溜息を吐きながら、龍太はようやく体を起こした。カーテンの隙間から覗く朝の光はどこか冷たく、部屋全体をぼんやりと照らしている。
重い足取りで窓際に向かうと、庭から微かに響いてくる音が耳に届いた。規則正しいリズムで響くバスケットボール。
カーテンを少しだけ開けると、庭でドリブルを続ける千夏の姿が目に入った。薄手のジャージ姿で、軽やかにコートを駆け回る彼女。その動きには一切の無駄がなく、まるで舞うようにボールを扱っていた。シュートを放つために高く飛び上がる姿はどこか神々しくさえ見える。
(朝の5時から練習なんて……相変わらずだな)
龍太はぼんやりとその姿を眺めながら、ふと空を見上げた。
目に入ったのはどんよりと厚い雲に覆われた空だった。
(……今日、雨かもなぁ)
湿った空気が窓越しにも感じられる。肌寒い気配が少しずつ広がる中、ポツリと雨粒が窓に落ちた。龍太はその小さな一滴を見つめながら、胸の奥でざわめきが広がるのを感じた。
(なんだろう、この嫌な感じ……)
理由もわからず、不安が胸を締め付ける。
次第に雨粒が増えていく。
窓を開けると、ひんやりとした朝の空気が顔に当たった。
「先輩! 雨降ってきてますよ!」
龍太が少し大きな声を出すと、千夏が動きを止めてボールを胸に抱えた。そのまま空を見上げ、ポツポツと顔に落ちる雨粒に気づいたようだ。
「ホントだ。気づかなかったなぁ」
千夏は柔らかく微笑んで、額に落ちた雨粒を軽く拭った。その仕草がやけに自然で、龍太の胸を静かにざわつかせた。
「ありがとう、龍太くん。そろそろ中に入ろうかな」
「それが良いと思います」
千夏はボールを拾い上げ、玄関に向かって歩き始めた。その後ろ姿はどこかしら儚げで、それでいて揺るぎない強さを秘めているようにも見える。
龍太は窓を閉めながら、もう一度曇天を見上げた。雨は徐々に強さを増し、滴が窓ガラスを叩き始めていた。
(……いや、ただの気のせいだろ。きっと)
そう自分に言い聞かせながらも、どこか胸の奥に重く沈む感覚が消えない。バッグを肩に掛けながら、龍太は小さく息を吐いた。
朝の静けさの中に響く雨音だけが、妙に耳に残った。
放課後の空は、朝のどんよりとした雲をそのまま引き継いでいた。湿っぽい空気が教室の中にまで入り込み、気分をさらに重くさせる。龍太は一日中、体調の悪さに苛まれ、結局、大喜にジャージの件を弁明するタイミングを見つけられないまま一日を終えてしまった。
(どうするんだよ、俺……このままじゃ何も解決しない)
謝罪の言葉、みっともない言い訳、そしていっそこのまま口をつぐんでしまおうかという卑劣な囁き。いくつもの思考が脳裏で明滅しては、まるで水面に落としたインクのように混ざり合い、黒く濁っていくだけだった。出口のない思考の迷路で、同じ角を何度も、何度も曲がっている。そのことに気づいていながら、別の道へ踏み出す気力すらない。
休み時間に廊下で肩が触れ合った時、昼飯の後に自販機へ向かう背中を見つけた時、幾度となく「あのさ」と口を開きかけては、その声は喉の奥で霧散した。いつもと変わらない屈託のない大喜の態度が、かえって龍太の胸に罪悪感という名の鋭い棘を深く突き刺していく。
やがて彼の思考は、完全に膠着した。固く錆びついてしまったネジのように、前へ回すことも、後ろへ戻すこともできず、ただただ無力感の只中に立ち尽くすしかなかった。
(取り敢えず部活行くか)
気怠い身体を奮起して、カバンを肩にかけながら、龍太は廊下を歩いていた。その時だった。数人の生徒が廊下の隅で何やらひそひそと話している声が耳に入る。
「聞いた? 千夏先輩が──」
「え、マジ? なんでそんなことになってんの?」
「なんかさ、あの噂が原因らしいよ」
「かわいそうだけど……ちょっと関わりたくないよな」
(千夏、先輩……?)
その名前に、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。千夏先輩。脳内で反芻されたその響きに、鈍い耳鳴りが重なる。悪い予感が背筋を駆け上るのを感じながら、龍太は無意識に彼らに歩み寄っていた。
「──先輩がどうしたって?」
我ながら驚くほど低く、掠れた声が出た。振り向いたクラスメイトたちは一瞬顔を見合わせ、探るような視線を龍太に向けた後、代表の一人が気まずそうに口を開く。
「いや、詳しくは知らないけど、なんか、千夏先輩が体育倉庫で……って噂が」
「どうもイジメっぽいって噂だぞ」
その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、龍太の内で張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。気づけば、床を蹴って駆け出していた。
「おい、田中! どこ行くんだよ!?」
「悪い、ちょっと用事思い出したっ!」
背後で誰かが叫んでいる。だが、それに答える余裕などなかった。申し訳ない、という思考の断片だけが、後方へ置き去りにされていく。廊下に己の足音だけが狂った心臓の鼓動のように反響する。千夏、倉庫、いじめ――それらの単語が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、思考を麻痺させていく。
(倉庫……体育館の裏か!?)
息を切らしながら辿り着いた体育倉庫。古びた鉄製の扉が目の前にあり、そこから微かに物音が聞こえた気がした。
「先輩!」
龍太は扉を乱暴に開け放った。
が、中は薄暗く、誰の姿も見当たらない。
人気すら感じなかった。
「……いない?」
安堵よりも先に困惑が胸を占めた、その刹那。
背中に、鈍器で殴られたような強烈な衝撃が走った。
「っ!?」
受け身も取れず、前のめりに倉庫の床へ叩きつけられる。振り返る暇も与えられず、背後で重い扉が閉まる音が響き、間髪入れずに、ガチャン、という無機質な施錠音が追い打ちをかけた。
「お、おい、なんだよこれっ!」
扉を叩きながら叫ぶが、外からの返答はない。ただ、微かに笑い声が聞こえた気がした。
(閉じ込められた……!?)
龍太の心臓は激しく鼓動し、全身から冷や汗が滲み出る。狭い空間の中で、少しずつ息苦しさを覚えながら彼は周囲を見渡した。
倉庫の中には乱雑に置かれた体育用具や古びたマットが散乱しているだけだった。外からの光は太陽光が入りにくいのか薄暗く、頼りない明かりが隙間と小さな窓から漏れるだけ。
「……くそ、なんでこんなことに……」
背中を壁に預けながら、龍太はぐったりとその場に座り込んだ。ポケットに重みを感じない。どうやら携帯は机の中に閉まったまま飛び出してしまったようだ。思わず自虐的な笑みをこぼしながら、状況を整理する。
(これ、千夏先輩をおびき出す罠だったのか? それとも俺が狙い?)
絡み合う思考は、体中の熱っぽさによってさらに混濁していく。悪寒が骨の髄まで染み渡り、意識がゆっくりと白んでいくのがわかった。
「……やべぇ……このままじゃ、本当に……」
瞼を閉じれば、浮かぶのは彼女の屈託のない笑顔。その笑顔が今どうなっているのか、確かめる術もない。無力感に奥歯を噛みしめた。
やがて、ぽつ、ぽつ、と鉄の扉を打つ音が聞こえ始める。静かに降り出した雨音だ。それはまるで、この閉ざされた空間の中で、龍太の意識を確実に闇の底へと追い詰めていく秒針のように、冷たく、そして正確に響き続けていた。
放課後の廊下は、一日の熱気が引いた後の気怠い静けさに満ちていた。窓の外に広がる空は灰色の絵の具をぶちまけたようにのっぺりと淀み、世界の彩度を一段落としている。その不穏な静けさが肌にまとわりつくようで、千夏は無意識に腕をさすった。部室へ向かう足取りが、なぜか鉛のように重い。
そんな時だった。背後から呼ばれた切羽詰まった声に、心臓が小さく跳ねる。
「千夏!」
振り返った先にいたのは、親友の渚だった。整った呼吸を必死で取り戻そうとしているその肩と、何かを告げることを躊躇うように揺れる瞳が、事の尋常ではなさを物語っていた。
「渚? どうしたの、そんなに慌てて」
「ちょっと……いい?」
普段の快活さは影を潜め、その声には耳慣れない硬質な響きが混じっていた。千夏はただ頷く。渚は一度視線を落とし、まるで棘を吐き出すかのように、慎重に言葉を紡いだ。
「……千夏、なんか変な噂流れてるみたいなんだけど」
「噂?」
その単語が持つ粘着質な響きに、千夏は無意識に眉根を寄せた。
「千夏が……いじめられてるって」
「――え?」
予想だにしなかった言葉の刃が、千夏の思考を真っ二つに切り裂いた。頭の中で何かが断線したかのような、一瞬の空白。自分の知らない物語が、自分のあずかり知らぬところで生まれ、独り歩きを始めている。その事実が、じわりと冷たい毒のように全身に広がっていく感覚があった。
「どうして、そんな話に……」
「わからない。でも、さっき廊下ですれ違った子たちが……千夏が泣いてた、って。そこから尾ひれがついたみたい」
「……私が、泣いてた?」
鸚鵡返しに呟いた言葉は、まるで他人の台詞のように響いた。泣いた記憶などない。そもそも、人前で涙を見せるような自分ではない。得体の知れない「もう一人の自分」が捏造されていく不気味さに、背筋が凍る。
「それに……田中くんが、すごい勢いでどこかに走って行ったらしくて」
「……龍太くんが?」
その名を聞いた瞬間、それまでの漠然とした不快感が、輪郭のはっきりとした不安へと変質した。心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような、鈍い痛みが走る。不可解な噂と、彼の唐突な行動。無関係であるはずの二つのピースが、脳内で不吉な形に組み合わさっていく。
「どうして、龍太くんが……?」
「わからない。ただ、何か追い詰められたような、必死な顔だったから……もしかしたら、千夏のために……」
渚が言い淀んだ言葉の先を、想像してしまった。根拠のない不安が、まるで悪魔の囁きのように現実味を帯びていく。あの不器用で、真っ直ぐすぎる彼ならば、あり得ない話ではない。喉の奥が灼けるように熱くなり、呼吸が浅くなる。
「渚、ありがとう」
千夏は短く礼を言うと、その場を駆け出した。渚が何かを言いかけたが、それを聞く余裕はなかった。心臓がドクドクと音を立て、頭の中で龍太の顔が浮かぶ。ポケットから取り出した携帯で彼の番号を呼び出すが、返ってくるのは無機質なコール音だけ。その無音の時間が、千夏の焦燥をナイフのように抉る。
(龍太くん……何をしてるの?)
廊下を走る千夏の足音が響き渡る。雨が窓ガラスを軽く叩き始め、空気はますます冷たくなっていく。周囲のざわめきも耳に入らない。ただ胸の中に渦巻く不安だけが、彼女を突き動かしていた。
(お願い……何も起きていませんように)
千夏は奥歯を強く噛みしめ、足を止めることなく走り続けた。
放課後の校舎は、部活に向かう生徒たちで活気づいていた。体育館に向かうバドミントン部の大喜と匡は、ラケットバッグを肩に掛け、軽口を叩き合いながら廊下を歩いていた。
「今日こそ針生先輩から一本もぎ取ってやる」
「そのセリフ、先週も聞いた気がするが」
「いや、マジで感覚は掴めてる。あと半歩、初動が早ければ……!」
軽口を叩きながらも、大喜の瞳には本気の光が宿っている。そのひたむきな熱量を、匡は少しばかり呆れたような、それでいて眩しいものを見るような複雑な思いで受け止めていた。友人のこの純粋な情熱が、ともすれば冷笑的になりがちな自分を、同じコートへと引き戻してくれるのだ。
その、いつもと変わらないはずだった日常の空気を切り裂くように、けたたましい靴音が廊下の向こうから急速に近づいてきた。それは単に急いでいるというレベルではない。何かに追われるような、あるいは何かを必死に追いかけているような、悲痛さすら感じさせる響きだった。二人は訝しげに顔を見合わせ、音のする方へと視線を向ける。
そこにいたのは、鹿野千夏だった。
いつも柔らかい雰囲気の彼女が、髪を乱し、肩で激しく息をしながらこちらへ向かってくる。その姿は、二人が知る「鹿野千夏」という人間のイメージからあまりにもかけ離れており、一瞬、別の誰かと見間違えたのかと錯覚するほどだった。
「千夏先輩……? どうかしたんですか」
大喜が我に返って声をかけると、千夏は二人の前でようやく足を止めた。必死に呼吸を整えようとしているが、その瞳は焦燥に濡れ、切羽詰まった色が濃く浮かんでいる。普段の彼女が纏う、凛とした静謐さはどこにもなかった。
「龍太くんが……」
千夏は息を整えながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。声はどこか震えていて、その様子がさらに緊張感を高めた。
「渚から聞いたんだけど、龍太くんが……さっきすごい勢いで、どこかに走っていったみたいなの。それに……」
一瞬言葉を詰まらせた千夏が、小さな声で続けた。
「……私がいじめられてるって噂が広まってるらしくて」
その一言で、大喜の顔から普段の快活さが消え失せ、鋭い険が刻まれた。
「なんだよそれ……っ」
それを横目で見ながら、匡も眉をひそめる。
「噂を流した者の目的は何でしょうね。悪質ないたずらか、あるいは……。だとしたら、龍太はその罠にまんまとかかった可能性がある、ということですか」
冷静な分析が、逆に事態の深刻さを際立たせる。千夏は匡の言葉に、こくりと頷いた。
「分かりました! 俺たちも探します! 匡っ」
「ああ。まずは校内を手分けして探そう」
即断だった。迷いの一切ないその言葉に、千夏の瞳が驚きに見開かれる。匡もまた、力強く頷いた。
「ありがとう」
その声には、確かに決意が宿っていた。次の瞬間、千夏は再び身を翻し、迷いなく廊下を駆け出していく。その背中を見送り、大喜と匡もまた、言葉を交わすことなく、弾かれたように後を追って走り出した。放課後の喧騒が、急速に遠ざかっていく。
重い鉄扉が閉まる音が響いた後、倉庫は完全な静寂に包まれた。外の喧騒が嘘のように遠のき、狭い空間には、ただ冷たい空気だけが漂っていた。龍太は呆然とその場に立ち尽くし、扉の方に手を伸ばすが、金属の冷たさが指先に刺さるようだった。
扉を何度も押したり引いたりしてみる。しかし、びくともしない。周囲を見回しても、薄暗い闇が彼を包み込み、床の冷たいコンクリートが足元から熱を奪っていく。
「くそっ……!」
龍太は拳を握りしめ、扉を叩いた。硬い音が響き渡るが、それ以上に反応はない。
「おい! 誰かいないのか! 助けてくれ!」
何度も扉をたたきながら、声を張り上げるたびに喉が痛む。風邪の前兆として感じていた倦怠感が、じわじわと全身を蝕み始めていた。熱が上がっているのか、額には嫌な汗が滲み、頭はぼんやりとしている。息をするたびに胸が重く感じられ、力が抜けていく。
数分が経過しただろうか。それとも、ほんの数秒だったのかもしれない。あるいは数時間か。時間の感覚が曖昧になる中、龍太はとうとう扉の前で膝をついた。肩で荒く息をしながら、頭を抱える。
「寒い……」
コンクリートの床は容赦なく冷たく、体温を奪っていく。上着を羽織っていても、背筋をせり上がってくる生きる気力を奪うような悪寒に全身が震える。
(……動かなきゃ……)
心の中で何度も自分を叱咤するが、体は言うことを聞かない。全身が鉛のように重く、頭がぐらぐらと揺れる。思考もだんだんと鈍くなり、目の前の暗闇がますます深まっていくようだった。
「先輩が……」
名前を口にするたびに、胸が締め付けられる。もし本当に、彼女がいじめられているのだとしたら──その考えが、熱に侵された彼の意識をさらに揺さぶった。
「助けないと……」
その義務感だけが、かろうじて意識を繋ぎとめる唯一の楔だった。壁に背を預けたまま、ぐったりと座り込んでいた龍太だったが、このままでは何も変わらないという焦燥に突き動かされ、再び立ち上がる。出口が塞がれているのなら、別の道を探すしかない。
その瞬間、行き詰っていた思考に一閃の光が差し込む。倉庫の奥、高い位置に小さな窓があるのを思い出した。
(あれしかない……)
窓には錠がかかっているようだが、外に通じていることは明らかだった。龍太の体のサイズ感からギリギリ通れるかは微妙だ。それでも、今は試す以外選択肢がなかった。龍太は倉庫内を探し回り、古いほうきを手に取る。
「これで……!」
何度か窓に叩きつける音が響く。固いガラスが割れるまでにかかった時間はほんの数十秒だっただろう。しかし、そのわずかな間に体力はどんどん奪われていく。
ガラスが飛び散る音と共に、小さな破片が手の甲をかすめた。鋭い痛みに反射的に顔をしかめるが、そんなことを気にしている暇はない。
「……っ、ここから出ねぇと……!」
ガラスの破片を手で払い、窓枠を掴もうとジャンプする。しかし、腕に力が入らない。次の瞬間、残された力を振り絞った手が、鋭い破片に触れてしまった。
「痛っ……!」
思わず手を放し、そのまま床に落下する。全身がコンクリートの冷たさを吸い込み、熱に浮かされていた体がさらに重くなった。
力の入らない膝はすぐに折れ、再び床に崩れ落ちた。息が荒くなる。目を閉じても、暗闇しか見えないこの空間に、強烈な無力感が襲いかかる。
「……動けよ……動いてくれよ……」
自分にそう言い聞かせながらも、力は尽きていくばかりだった。ぐったりと背中を壁に預ける。冷たい空気が肌を刺すようで、全身が震えた。
すると、暗闇だったはずの瞼の裏に、不意に鮮やかな光景が広がり始めた。
──龍太くん。
家の庭で朝バスケットボールをする彼女の姿、夕暮れ時に一緒に並んで歩いた帰り道、アイスを買いに行った夜、無邪気な笑顔、何気ない仕草。糸をたぐるように一つ一つ過去の出来事が思い浮かんでくる。どれも特別な瞬間ではないはずなのに、不思議なほど鮮明に蘇ってくる。
(なんで……こんな時に……)
彼女を特別に意識したことなど、なかったはずだ。仲間として、好ましい先輩として、彼の世界に確かに存在していた。だが、これほどまでに心を占拠されたことは一度もなかった。まるで、心の奥底にずっと仕舞い込んでいた大切な宝箱を、誰かにこじ開けられたような、甘い痛みと戸惑いが胸を締め付ける。
(俺は、ただ先輩を助けたいと思って……)
必死に否定しようとすればするほど、暗闇の中で千夏の笑顔が光を放ち、その存在感を増していく。朦朧とする意識の底で、自分でも気づかなかった感情が、熱い奔流となって膨れ上がっていくのがわかった。
(こんなところで……俺が動けないせいで、先輩が……)
その想像が、耐え難い焦燥となって彼を苛む。この現実から逃れるように、震える腕を床につき、最後の力を振り絞って立ち上がろうとする。しかし、身体は無情にも崩れ落ちた。
「……情けねぇ……」
自嘲の言葉が、静まり返った倉庫にぽつりと溶ける。
――陸上部の期待の星? 次期エース? 笑わせるな。結局、本当に大切な場面で、何一つ守れないただのクソ野郎じゃないか。
自分自身への失望が、鋭い刃となって心を抉った。
その時だった。
微かに外から音が聞こえた気がした。最初は気のせいだと思ったが、次第にそれが足音だと気づく。ぼんやりとしていた意識が一瞬で覚醒した。
「……誰か……?」
掠れた声で呟く。心臓が早鐘を打ち始める。助けが来たのかもしれない──そんな希望が胸を掠めた。
足音が近づいてくる。扉の向こうで、誰かがドアノブを回そうとする音が響いた。その音に、龍太は残された力を振り絞って叫んだ。
「ここだ! 助けてくれ!」
自分の声が、何とか届いていてほしいと祈る。その一瞬一瞬が、永遠にも感じられた。すると、扉の向こうから、確かにあの人の声が聞こえた。
「龍太くん!? 大丈夫!?」
「……ち、なつ、先輩……?」
それは紛れもなく千夏の声だった。彼女の声を聞いた途端、龍太の胸の奥に熱いものが湧き上がった。暗闇に閉じ込められていた心に、ようやく光が差し込んだように感じた。
「ちょっと待ってて! すぐカギ持ってくるから!」
数分が永遠にも感じられる時間の後、重い錠が開けられる音が響き、扉が開かれた。差し込んだスマートフォンの光が、龍太の目を眩ませる。光の中に浮かび上がったシルエットは、紛れもなく彼女だった。助けなければならないと思っていた相手に、こうして助けられるという現実が、情けなさと安堵の入り混じった複雑な感情となって胸を締め付けた。
「龍太くん、大丈夫!? 返事して!」
彼女の声は焦りと優しさが入り混じり、彼の耳に届いた。その声を聞いて、龍太は何とか体を動かそうとしたが、全身が鉛のように重く、言葉を絞り出すだけで精一杯だった。
「……すみません……先輩……俺、結局、何も……」
掠れた声がようやく漏れた。その言葉に千夏は顔を曇らせ、目の前に膝をつく。龍太の手を取った瞬間、滲む血が彼女の視界に飛び込んできた。
「血が出てる……! どうしたの、この手……!」
「……窓から、出ようと……ドジ、りました……」
無理に作った笑顔の裏には疲れが滲み出ていた。千夏は言葉を詰まらせた後、少し怒ったように言葉を紡ぐ。
「無茶しすぎだよ……それに、すごい熱……」
その声は怒っているようで、泣きそうにも聞こえた。冷え切った身体に、彼女の手の温もりと、ハンカチから香るフローラルの匂いがじわりと染み込んでいく。
「先輩は……無事、なんですか……? いじめられてるって……」
その問いに、千夏は一瞬目を見開き、そして、ふっと息を吐くように微笑んだ。それはまるで、すべての闇を払拭するような、優しく、力強い光だった。
「嘘だよ、そんなの。私は大丈夫だから、心配しないで」
その一言で、龍太の心に重くのしかかっていた最後の鉛が、すうっと溶けていくのを感じた。
「……よかった……」
心からの安堵が、彼の身体から最後の力を奪っていく。
「私のせいだね。ごめん、こんな目に遭わせて……」
「……せんぱいのせいじゃ、ない……ですよ。俺が、勝手に……助けに行ったつもりなのに。こんなにダサい、結果になっちゃって」
自虐的な言葉を遮るように、千夏が強い口調で言った。
「ダサくなんかないよ」
その真っ直ぐな瞳に射抜かれ、龍太は言葉を失う。
「私のために、一番に駆けつけようとしてくれた。それが、どれだけ嬉しかったか……。だから、絶対にダサくなんかないよ」
それは、龍太が欲しかった言葉だったのかもしれない。彼女の言葉が、傷ついた自尊心を温かく包み込む。
千夏はスマホをスクロールし、素早く誰かに連絡を取った。その間も、彼女は龍太の手をしっかりと握り続けていた。その手の温もりが、冷え切った彼の体に少しずつ命を吹き込んでいくようだった。
「本当なら龍太くんを担いでいきたかったんだけど……もう少しで助けが来るからね。だから、少しだけ頑張って」
千夏はそう言うと、彼の冷たい手を両手でしっかりと握りしめた。その温もりに包まれながら、龍太の意識は再び白んでいく。薄れゆく視界の中で、彼女の輪郭だけがやけに鮮明に見えた。心配そうに自分を見つめる、澄んだ瞳。頬に張り付いた一筋の髪。
ああ、間違いない。これは、鹿野千夏だ。
ずっと会いたかった人に、ようやく会えたような、そんな奇妙な感覚。
「……なんか、変な感覚」
「変な感覚?」
「……久しぶり、な気がします……先輩に会うの」
「――っ」
弱々しく笑う龍多に、千夏は一瞬息を詰まらせ、そして、優しさが凝縮されたような笑顔を返した。
「大丈夫。私はずっと、龍太くんの側にいるよ」
その言葉を子守唄のように聞きながら、龍太の意識は、穏やかで温かい闇の中へと、静かに沈んでいった。
千夏の視線は、ぐったりと自分の肩に寄りかかる龍太の横顔に、まるで縫い付けられたかのように動かせなかった。閉じられた瞼の下には、彼の生命力を削り取ったかのような深い隈が刻まれ、血の気を失った頬は陶器のように青白い。浅く、不規則に繰り返される呼吸だけが、かろうじて彼がまだ意識を失ってはいないことを示していた。額にびっしりと滲む汗の玉が、彼の身体が限界を超えた熱で燃えていることを雄弁に物語っている。
(こんなになるまで……たった一人で……)
千夏の心の中で、後悔と切なさが渦を巻く。それでも、彼がここにいるのは、自分を守るためだったという確信が、胸を締め付けた。
倉庫の静寂の中、彼の荒い呼吸の音が微かに響く。その音が妙に遠く感じられ、千夏の視界がぼんやりと滲んだ。ふと、彼の唇がわずかに動くのに気づく。
「……ぶじで……よかっ……た……」
か細い声が断片的に響き、その後はまた静かになった。その言葉は、千夏の心の最も柔らかな部分を容赦なく抉った。この極限状態にあってなお、彼は自分のことよりも、私の無事を願っていたのだ。震える指先で、そっと彼の頬に触れる。予想をはるかに超えたその冷たさに、思わず息を呑んだ。この氷のような冷たさは、彼がこの場所でどれほど長く、絶望的な時間を過ごしたのかを物語っていた。
「龍太くん……」
言葉にならない感情が喉を塞ぎ、名前を呼ぶのが精一杯だった。千夏は、自分の着ていたジャージをそっと脱ぎ、彼の震える身体にかけた。温もりを分け与えるように、少しでもこの冷たさから彼を守りたかった。
「もう、私のためにこんな無茶なことしないで……お願い……」
囁く声は、自分でも驚くほど震えていた。彼の無謀なまでの優しさが、今はただ痛い。額を彼の肩に押し付けると、こらえきれなかった熱い雫が、ぽつりと彼の首筋に落ちた。
その温もりに反応したのか、彼の瞼がかすかに持ち上がり、焦点の合わない瞳がゆっくりと千夏を捉えた。
「……先輩が……無事なら、それで……」
掠れた声で絞り出されたその言葉が、千夏の心の最後の防波堤を打ち砕いた。
ああ、もう駄目だ。
彼がどれほどの想いで、この言葉を口にしているのか。それを思うと、もう何も言えなかった。ただ、溢れ出す感情のままに、彼の身体をぎゅっと抱きしめる。壊れ物に触れるように、それでいて二度と離さないと誓うように。
「……ありがとう、龍太くん」
感謝と、切なさと、そして今、確かに自覚した特別な想い。そのすべてを込めた言葉が、彼に届いたかはわからない。それでも、千夏は彼の肩に額を寄せ、ただ静かにそこにいた。冷たく、死の匂いがしたはずの倉庫が、今は二人の温もりだけで満たされているような、不思議な感覚に包まれていた。
担架に乗せられた龍太がゆっくりと運び出される光景を、千夏は少し離れた場所からじっと見つめていた。倉庫の外に出ると、冷たい風が彼女の身体にまとわりついた埃と緊張を一瞬で剥ぎ取り、冷静さを取り戻させる。しかし、その冷たい風が余計に彼女の胸の奥にくすぶる怒りを鋭く研ぎ澄ませた。
目の前の担架が揺れるたび、喉の奥に何かが詰まるような感覚に襲われる。ほんの数十分前、倉庫の中で見た龍太の姿が鮮明に蘇った。冷たく硬いコンクリートの床に倒れ込み、傷だらけの手で扉を叩き続けていたはずの彼。その無念さが、あのかすれた震える声が、まるで耳の奥に刻まれているかのように繰り返される。
ふと、自分の手のひらを見る。その手には、龍太の荒れた掌の感触がまだ鮮明に残っていた。傷つき、血で汚れた手が、必死に何かを掴もうともがいていた感触。皮膚がささくれ立ち、冷えきった感触が、胸に鋭く刺さる。彼は寒さと痛み、そして孤独に耐えながら、それでも誰かを守るために動き続けた。たった一人で――私のために。
(どんな思いで……あの暗闇で……)
その想像だけで胸が締め付けられるようだった。千夏は目を閉じ、深く息を吸い込む。呼吸を整えようとしたが、押し寄せる感情は簡単に引き下がってはくれない。
「こんなひどいことを……」
低く呟いた声が、誰もいない夜の空気に溶けていく。その言葉には静かな怒りが込められていた。理由なんて関係ない。誰が何の目的であれ、結果として龍太があんな状態になった。それだけで十分だ。彼を苦しめた誰か、その顔も名前もまだわからないが、ただその存在を考えるだけで、胸の奥から湧き上がる怒りが彼女の身体を突き動かす。
――許さない。
誰が、どうしてこんな卑劣なことをしたのか。それを確かめずにはいられない。そして、それをした誰かがどんな思惑を抱えていたとしても、彼女はそれを許さないと心に誓った。
倉庫を後にして校舎に向かう千夏の足取りは、いつもの柔らかさが消え、どこか決然としたものに変わっていた。彼女の瞳には、迷いも戸惑いも一切ない。ただ、龍太を守るという強い意志だけがそこにあった。
(もう二度と、彼をこんな目に遭わせない)
風に髪が揺れ、夜の冷たい空気が彼女の頬を撫でる。静かでありながら、決して消えることのない炎が、千夏の胸の中で静かに燃え続けていた。その炎は、誰よりも温かく、そして誰よりも強く彼を守ろうと輝いていた。