親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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5話

 

 

 

 時計の針は、五時を少し回っていた。

 薄いカーテン越しの景色は、まだぼやけている。鳥のさえずりが、どこか遠い。

 布団に横たわったまま、龍太は天井を見ていた。昨日の騒動が、瞼の裏で何度も巻き戻る。大喜への弁明。クラスメイトの視線。千夏のこと。

 

(……どうすればいいんだ)

 

 喉の奥が、ひりついた。軽く咳き込む。

 

(……風邪か)

 

 体が重い。

 深い息をひとつ吐いて、ようやく起き上がった。カーテンの隙間から差す光は、冷たかった。

 重い足で窓際へ向かうと、庭から音が届いた。

 

 バン、バン、シュッ。

 

 カーテンを少し開ける。ドリブルを続ける千夏がいた。薄手のジャージ。軽やかに駆け、跳ぶ。シュートのために伸び上がる体は、神々しくさえ見えた。

 

(五時から練習か。相変わらずだな)

 

 ふと、空を見上げる。

 厚い雲が、低く垂れていた。

 

(……雨かもな)

 

 湿った空気が、窓越しに伝わる。ポツリ、と一滴がガラスを打った。

 その一滴を、しばらく見ていた。

 

(……なんだろう)

 

 理由は、わからなかった。

 雨粒が、増えていく。窓を開けると、冷たい空気が顔に当たった。

 

「先輩! 雨、降ってきてますよ!」

 

 千夏が手を止め、ボールを胸に抱く。空を見上げ、頬の雫に気づいたようだった。

 

「ホントだ。気づかなかったなぁ」

 

 額を拭うその仕草が、やけに自然で。龍太は、目を逸らした。

 

「そろそろ中に入ろうかな。ありがとう、龍太くん」

「それが、いいと思います」

 

 ボールを拾い、千夏が玄関へ歩いていく。その背中が、なぜか少しだけ、遠く見えた。

 窓を閉める。雨は、強くなっていた。

 

(……気のせいだ。きっと)

 

 バッグを肩にかける。

 雨音だけが、やけに耳に残った。

 

 

 

 

 

 

 放課後の空も、朝の雲をそのまま引きずっていた。

 結局、その日も言えなかった。大喜にジャージのことを切り出すタイミングを、一日かけて、ついに見つけられなかった。

 廊下で肩が触れたとき。自販機へ向かう背中を見つけたとき。

「あのさ」——そこまでは何度も出た。

 

 続きが、出なかった。

 大喜は、いつも通りだった。屈託なく笑い、軽口を叩く。その変わらなさが、いちばん刺さる。

 

(……部活、行くか)

 

 カバンを肩にかけ、廊下を歩く。そのときだった。

 隅で、数人がひそひそと話している。

 

「聞いた?千夏先輩が——」

「え、マジ?なんで?」

「あの噂が原因らしいよ」

「かわいそうだけど……関わりたくないよな」

 

 足が、止まった。

 

(千夏、先輩……?)

 

 耳の奥で、鈍い音が鳴る。

 気づけば、彼らに歩み寄っていた。

 

「——先輩が、どうしたって?」

 

 自分でも驚くほど、低い声だった。

 クラスメイトたちが顔を見合わせる。探るような目。やがて一人が、気まずそうに口を開いた。

 

「いや、詳しくは知らないけど。千夏先輩が、体育倉庫で……って」

「イジメっぽいって、噂だぞ」

 

 その瞬間、何かが切れた。

 

「おい、田中! どこ行くんだよ!?」

「悪い、用事思い出した!」

 

 返事になっていない返事を背に、床を蹴る。廊下に、自分の足音だけが響いた。千夏。倉庫。いじめ。三つの単語が頭の中で潰れ合い、思考を塗り潰していく。

 

(倉庫……体育館裏か!?)

 

 息を切らして、辿り着く。古びた鉄扉。

 中から、物音が聞こえた気がした。

 

「先輩!」

 

 扉を、開け放つ。

 薄暗い。誰もいない。

 気配すら、ない。

 

「……いない?」

 

 安堵より先に、困惑が来た。

 その、刹那。

 背中に、衝撃。

 

「っ!?」

 

 受け身も取れず、床へ叩きつけられる。振り返る間もなく、扉が閉まった。

 ガチャン。

 施錠の音が、やけにくっきりと響いた。

 

「お、おい、なんだよこれっ!」

 

 叩いても、返事はない。

 ただ、微かに——笑い声が、聞こえた気がした。

 

(閉じ込められた……?)

 

 冷や汗が、背を伝う。

 狭い空間。

 乱雑な体育用具。

 古いマット。

 光は、小窓から漏れるだけ。

 

「……くそ」

 

 壁に背を預け、座り込む。ポケットが、軽い。携帯は机の中だ。飛び出すときに、置いてきた。

 乾いた笑いが、漏れる。

 

(これ、先輩をおびき出す罠か? それとも、狙いは俺か)

 

 熱で、思考が濁っていく。

 悪寒が、骨まで届く。

 意識が、白んでいく。

 

「……やべぇ……このままじゃ……」

 

 瞼を閉じれば、彼女の笑顔。その笑顔が今どうなっているのか、確かめる術はない。

 ぽつ、ぽつ、と鉄扉が鳴りはじめた。

 雨だ。

 その音は、秒針のように規則正しく、龍太の意識を底へ底へと運んでいった。

 

 

 

 

 

 

   

 放課後の廊下は、熱気の引いたあとの気怠さに満ちていた。窓の外の空は、灰色を一面に塗り潰したように淀んでいる。千夏は、無意識に腕をさすった。

 部室へ向かう足が、なぜか重い。

 

「千夏!」 

 

 背後の声に、心臓が跳ねた。

 振り返れば、渚だった。肩で息をしている。揺れる瞳が、それだけで、ただ事ではないと告げていた。

 

「渚? どうしたの、そんなに慌てて」

「ちょっと……いい?」

 

 普段の快活さがない。耳慣れない硬さが、声に混じっていた。千夏は、黙って頷く。渚は一度視線を落とし、それから、慎重に言葉を選んだ。

 

「……千夏の変な噂が流れてるみたいで」

「噂?」

「千夏が……いじめられてる、って」

「——え?」

 

 頭の中で、何かが断線した。

 自分の知らない物語が、自分のいないところで生まれ、勝手に歩き出している。冷たい毒が、じわりと回るような感覚。

 

「どうして、そんな話に……」

「わからない。でも、廊下ですれ違った子たちが……千夏が泣いてた、って」

「……私が、泣いてた?」

 

 他人の台詞のようだった。泣いた記憶などない。人前で涙を見せる自分でもない。知らない「もう一人の自分」が捏造されていく。

 

「それに……田中くんが、すごい勢いで、どこかに走って行ったらしくて」

「……龍太くんが?」

 

 その名で、漠然とした不快が、はっきりした形を取った。

 噂と、彼の行動。無関係なはずの二つが、頭の中で、嫌な形に組み合わさっていく。

 

「どうして、龍太くんが……」

「わからない。ただ、追い詰められたみたいな、必死な顔だったって。もしかしたら、千夏のために……」

 

 言い淀んだ先を、想像してしまった。

 

「渚、ありがとう」

 

 短く言って、駆け出した。渚が何か言いかけたが、聞いていられなかった。携帯を取り出し、彼の番号を呼ぶ。

 

 コール音。

 コール音。

 

 その無音が、焦りを抉る。

 

(龍太くん。何をしてるの)

 

 雨が、窓を叩きはじめた。

 

(お願い。何も起きていませんように)

 

 奥歯を噛んで、千夏は走り続けた。

 

 

 

 

 

 

「今日こそ、針生先輩から一本もぎ取ってやる」

「そのセリフ、先週も聞いたぞ」

「いや、マジで掴めてる。あと半歩、初動が早ければ……!」

 

 ラケットバッグを担いだ大喜と匡が、軽口を叩きながら廊下を歩く。大喜の目には、本気の光がある。呆れつつ、それを少し眩しく思いながら、匡は隣を歩いていた。

 その日常を切り裂くように、けたたましい靴音が近づいてきた。

 急いでいる、というのとは違う。何かに追われるような、あるいは、何かを必死に追うような。二人は顔を見合わせ、音のほうを向く。

 鹿野千夏だった。

 髪を乱し、肩で息をしている。二人の知る「鹿野千夏」とは、あまりにかけ離れていた。

 

「千夏先輩……?どうかしたんですか」

 

 大喜の声に、千夏がようやく足を止める。瞳に、焦りが濡れていた。

 

「龍太くんが……」

 

 息を継ぎ、途切れ途切れに。

 

「すごい勢いで、どこかに走っていったって。それに……」

 

 一瞬、詰まる。

 

「……私がいじめられてる、って噂が、広まってるらしくて」

 

 大喜の顔から、快活さが消えた。

 

「なんだよ、それ……っ」

 

 匡が、眉をひそめる。

 

「噂を流した奴の目的は、何でしょうね。いたずらか、あるいは……。だとしたら、龍太はその罠に、かかった可能性があるってことですかね」

 

 冷静な分析が、かえって事の重さを際立たせた。千夏が、こくりと頷く。

 

「分かりました。俺たちも探します。匡っ」

「ああ。手分けしよう」

 

 迷いがなかった。その即断に、千夏の目が見開かれる。

 

「ありがとう」

 

 声に、決意があった。千夏が身を翻す。その背を追って、二人も走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後の喧騒が、遠ざかっていく。

 鉄扉が閉まったあと、倉庫は、完全に静かだった。

 外の音が、嘘のように遠い。冷たい空気だけが、そこにある。龍太は扉に手を伸ばした。金属の冷たさが、指に刺さる。

 押す。引く。びくともしない。

 

「くそっ……!」

 

 拳で、叩く。硬い音だけが返ってくる。

 

「おい! 誰かいないのか! 助けてくれ!」

 

 叩くたび、声を張るたび、喉が痛む。倦怠感が、全身に回りはじめていた。額に汗。頭が、ぼんやりする。

 数分か。数秒か。数時間か。

 時間の輪郭が溶けていく中、龍太はとうとう膝をついた。

 

「寒い……」

 

 コンクリートが、容赦なく熱を吸う。上着越しに、悪寒がせり上がってくる。

 

(……動かなきゃ)

 

 体が、言うことを聞かない。鉛のように重い。

 

「先輩が……」

 

 名を呼ぶたび、胸が締まる。もし、本当にいじめられているのなら。その想像が、熱に侵された頭を、さらに揺さぶった。

 

「助けないと……」

 

 その一念だけが、意識を繋ぐ楔だった。壁に手をつき、立ち上がる。

 倉庫の奥、高い位置に、小さな窓があった。

 

(あれしかない)

 

 錠はかかっているが、外には通じている。体格的に、通れるかは微妙だ。それでも、ほかに手はない。古いほうきを掴む。

 

「これで……!」

 

 何度か、叩きつける。ガラスが割れるまで、数十秒。そのわずかな間に、力が抜けていく。

 砕けた破片が、手の甲をかすめた。痛い。だが、構っていられない。

 

「……っ、出ねぇと……!」

 

 破片を払い、窓枠を掴もうと跳ぶ。腕に、力が入らない。

 残った力を振り絞った手が、破片に触れた。

 

「痛っ……!」

 

 手を放す。床に落ちる。冷たさが、また体を重くした。

 膝が折れる。崩れ落ちる。息が、荒い。

 

「……動けよ……動いてくれよ……」

 

 力は、尽きていくばかりだった。背を壁に預ける。全身が、震えた。

 暗いはずの瞼の裏に、ふいに、光景が広がった。

 

 ——龍太くん。

 

 庭でボールをつく姿。夕暮れの帰り道。アイスを買った夜。笑顔。何気ない仕草。

 どれも、特別な瞬間ではない。なのに、なぜか鮮明だった。

 

(なんで……こんなときに)

 

 特別に意識したことなどなかったはずだ。好ましい先輩。親友の憧れ。ただ、それだけの。

 なのに、今は。

 

(俺は、ただ先輩を、助けたいだけで……)

 

 否定しようとするほど、暗闇の中で、彼女の笑顔が光を増していく。

 

(俺が動けないせいで、先輩が……)

 

 その想像が、何より苦しかった。震える腕で、また立とうとするも、体は崩れ落ちた。

 

「……情けねぇ」

 

 自嘲が、静寂に溶ける。

 

 ——次期エース?笑わせるな。

 ——肝心なときに、何ひとつ守れない。

 

 刃が、心を抉った。

 そのときだった。

 外から音。

 最初は、気のせいだと思った。だが、近づいてくる。足音だ。

 意識が一瞬で覚めた。

 

「……誰か……?」

 

 掠れた声。心臓が、早鐘を打つ。

 ドアノブを回す音。

 龍太は、残った力を振り絞った。

 

「ここだ! 助けてくれ!」

 

 その一瞬が、永遠に感じられた。

 そして、扉の向こうから。

 

「龍太くん!? 大丈夫!?」

「……ち、なつ、先輩……?」

 

 紛れもなく、彼女の声だった。

 胸の奥に、熱が灯る。

 閉ざされていた心に、光が差した。

 

「待ってて! すぐカギ持ってくる!」

 

 永遠のような数分のあと、錠が開いた。

 差し込む光が、目を眩ませる。その中のシルエットは、まぎれもなく、彼女だった。

 助けるはずだった相手に、助けられている。情けなさと安堵が、同時に胸を締めた。

 

「龍太くん、返事して!」

 

 膝をつき、彼女が手を取る。その視界に、滲む血が飛び込んだ。

 

「血が……! どうしたの、この手!」

「……窓から、出ようと……ドジ、りました」

 

 無理に作った笑みの裏に、疲れが透けた。千夏が、少し怒ったように言う。

 

「無茶しすぎだよ……それに、すごい熱……」

 

 怒っているようで、泣きそうにも聞こえた。

 冷えた体に、手の温もりと、ハンカチの香りが染み込んでくる。

 

「先輩は……無事、なんですか……?いじめられてるって……」

 

 千夏が、一瞬、目を見開く。それから、ふっと息を吐くように笑った。

 

「嘘だよ、そんなの。私は大丈夫」

 

 最後の鉛が、すうっと溶けた。

 

「……よかった」

 

 安堵が、残った力まで奪っていく。

 

「私のせいだね。ごめん、こんな目に……」

「……先輩のせいじゃ、ない……ですよ。俺が、勝手に……助けに行ったつもりが。こんな、ダサい結果に……」

 

 その自虐を、彼女が遮った。

 

「ダサくなんかない」

 

 真っ直ぐな瞳に、言葉を失う。

 

「私のために、一番に駆けつけてくれた。それが、どれだけ嬉しかったか」

 

 ——だから、絶対にダサくなんかない。

 

 それは、龍太がいちばん欲しかった言葉だったのかもしれない。

 千夏がスマホを操作し、どこかへ連絡する。その間も、手は離さなかった。冷えた手に、少しずつ、熱が戻っていく。

 

「本当は、担いでいきたいんだけど。もう少しで助けが来るから。あと少しだけ、頑張って」

 

 両手で、手を包まれる。

 その温もりの中で、意識が、また白んでいった。

 薄れる視界に、彼女の輪郭だけが、鮮明だった。澄んだ瞳。頬に張りついた、一筋の髪。

 

 ああ。

 これは、鹿野千夏だ。

 ずっと会いたかった人に、ようやく会えたような——そんな、奇妙な感覚。

 

「……なんか、変な感覚」

「?」

「……久しぶり、な気がします。先輩に、会うの」

「——っ」

 

 弱々しく笑う龍太に、千夏が一瞬、息を詰める。それから、優しさだけでできたような笑みを返した。

 

「大丈夫だよ。私はずっと、龍太くんの側にいるよ」

 

 その言葉を、子守唄のように。

 龍太の意識は、温かい闇へと、沈んでいった。

 

 

 

 

 

 千夏の視線は、肩に寄りかかる横顔から、動かせなかった。

 閉じた瞼の下の、深い隈。陶器のように青白い頬。浅く、不規則な呼吸だけが、彼がまだここにいることを示している。額の汗の玉が、限界を超えた熱を物語っていた。

 

(こんなになるまで。たった一人で)

 

 倉庫の静けさに、荒い呼吸が、微かに響く。

 ふと、唇が動いた。

 

「……ぶじで……よかっ……た……」

 

 か細い声が途切れ、また静かになる。

 この期に及んで、彼は、自分のことより私を。

 震える指で、頬に触れた。

 

 ——冷たい。

 

 予想を、はるかに超えていた。この冷たさが、彼がここで過ごした時間の長さだった。

 

「龍太くん……」

 

 名を呼ぶので、精一杯だった。千夏は自分のジャージを脱ぎ、震える体にかける。少しでも、この冷たさから守りたかった。

 

「もう、私のために、こんな無茶しないで……お願い……」

 

 声が、震えた。

 額を肩に押しつける。

 こらえきれなかった雫が、ぽつりと、彼の首筋に落ちた。

 それに反応したように、瞼がかすかに持ち上がる。焦点の合わない瞳が、ゆっくりと千夏を捉えた。

 

「……先輩が……無事なら、それで……」

 

 最後の防波堤が、崩れた。

 ああ、もう、駄目だ。

 どれほどの想いで、彼がそれを言っているのか。それを思うと、何も言えなくなる。

 溢れるまま、その体を抱きしめた。壊れ物に触れるように。それでいて、二度と離さないと誓うように。

 

「……ありがとう、龍太くん」

 

 感謝と、切なさと、今、確かに自覚した想い。

 そのすべてが届いたかは、わからない。

 それでも千夏は、ただ、そこにいた。

 死の匂いすらしたはずの倉庫が、今は、二人の温もりだけで満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 担架の龍太が、運び出されていく。

 少し離れて、千夏はそれを見ていた。

 倉庫の外へ出ると、冷たい風が、まとわりついた埃を剥ぎ取った。冷静さが、戻ってくる。

 だが、その同じ風が——胸の奥のものを、研ぎ澄ました。

 担架が揺れるたび、喉の奥が詰まる。傷だらけの手で扉を叩き続けていたであろう、彼。あのかすれた声が、耳の奥で繰り返される。

 

 ふと、自分の手のひらを見た。

 

 そこには、まだ、彼の掌の感触が残っている。ささくれ立った、冷えきった皮膚。何かを掴もうともがいた、その感触。

 寒さと、痛みと、孤独。それに耐えながら、彼は動き続けた。

 たった一人で。私のために。

 

(どんな思いで。あの暗闇で)

 

 目を閉じ、深く息を吸う。だが、押し寄せるものは、引いてくれない。

 

「こんなひどいこと……」

 

 呟きが、夜に溶ける。

 理由なんて、関係ない。誰が、何のためにやったのであれ、結果として龍太はあの状態になった。それで、十分だった。

 

 ——許さない。

 

 顔も、名前もまだわからない。

 それでも。

 倉庫を後にする足取りから、いつもの柔らかさは消えていた。瞳に、迷いはない。ただ、彼を守るという一点だけがそこにあった。

 

(もう二度と、こんな目には遭わせない)

 

 風が、髪を揺らす。

 静かで、それでいて、消えない炎が、千夏の胸で燃えていた。

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