親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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6話

 

 

 

 

 暗闇が支配する倉庫。その冷え切った空気は、生温い湿気を伴い、肌にまとわりついてくる。無機質なコンクリートの壁には、天井から漏れるかすかな光が歪んだ影を落としていた。それはまるで生き物のように揺れ、不規則にうごめいているように見える。風の音さえ聞こえない静寂の中、冷たい緊張が全身を締め付けてくるようだった。

 壁際に追いやられた三人の男たちは、手足を縛られ、もはや逃げる術を失っていた。恐怖に引きつった顔は、まるで狭い檻に閉じ込められた獣のようだ。額から流れる汗が頬を伝い、喉の奥から絞り出すような息遣いが静寂に混じる。

 

「な、なぁ……これって何のつもりだよ……」

 

 一人が震える声で呟いたが、返事はない。ただ、倉庫の奥から響く規則的な音が彼らの耳を撃つ。

 

 コン……コン……。

 

 足音だった。その音は不気味なまでに一定で、無機質な空間に冷たい波紋を広げていく。足音が近づくたび、三人の心臓は鼓膜を突き破るような勢いで脈打った。

 

「……田中……だよな?」

 

 もう一人が恐る恐る声を上げた。だが、その声には確信も力もなく、ほとんど呟きに近い。返事はなく、ただ足音が止まった。

 暗闇の中から現れたのは龍太だった。いつもは明るい雰囲気をまとっている彼の顔には、感情の一片も浮かんでいない。冷たく虚ろな瞳で三人を見下ろすその姿は、彼らが知っている田中龍太とは全く違う存在のように見えた。

 

「お前らさ……よくもやってくれたよな」

 

 その低い声は、冷え切った刃のようだった。一言一言が空気を切り裂き、三人の心を凍らせていく。龍太の手はポケットの中で何かを握りしめている。その動きは妙にゆっくりで、無駄に長く感じられた。ポケットに突っ込まれた手の先が、まるで暗闇そのものを操っているようにすら見える。

 

「俺にこんなことして、ただで済むと思ってるのか?」

 

 その言葉に、三人の体は硬直した。声を出そうとしても喉が引きつり、息をするのが精一杯だ。

 龍太の手がゆっくりとポケットから抜かれる。その瞬間、かすかな光を受けて、鋭く光るそれが見えた。

 

(な、何だ……? 刃物……か?)

 

 男たちの視線は、龍太が持つそれに完全に引き寄せられていた。それが何なのか分からない。その曖昧さが、彼らの恐怖を一層際立たせる。

 

「ちょ、待てよ田中! 冗談だろ? 俺たち、ただ……」

「ただ?」

 

 龍太の声が一段低く響いた。その響きには容赦のない冷たさが混じっている。一歩、また一歩と距離を詰めてくる龍太に、三人は逃げ場を探すように壁際を見回した。しかし、もちろんどこにも逃げ場などない。

 

「ただの何だ? 楽しみ半分でやったって言いたいのか?」

「ち、違う! その……!」

「……なら、どうしてこんなことをしたのか、言えよ」

 

 龍太がゆっくりと身を屈める。その動作は異様に丁寧で、逆に狂気じみた緊張感を生む。男たちの目は龍太の手元に釘付けだった。刃のように光るそれが、明かりを反射しながらゆっくりと動いている。

 

「吐けよ。でないと──死ぬぞ」

 

 最後の言葉が低く囁かれた瞬間、龍太が手に持つそれを、音を立てながらわずかに振った。空気を切るような音が鳴り響き、三人は息を呑んだ。その場で叫び出しそうな恐怖に襲われ、反射的に体を硬直させる。冷たい汗が滴り落ち、彼らの呼吸はますます乱れていった。

 その瞬間──倉庫の暗闇がさらに深まったような気がした。三人の視界が滲み、脳裏には最悪の光景が浮かび上がる。

 

 そして──次の動きは、誰も予測できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、幼い頃の夏の日の記憶だった。

 蝉の鳴き声が一日中止むことなく響き、陽射しが容赦なく地面を照らす午後。湿気を孕んだ空気が肌にまとわりつき、砂埃が陽光に揺らめいている。その中で、少女は近所の小さな公園の片隅に立ち、ひたすらバスケットボールをゴールへ向かって投げ続けていた。

 

「えいっ……!」

 

 力の限り放ったボールは、無情にもゴールリングをかすめ、地面に跳ね返る。額から汗が止めどなく流れ、手は泥と汗でべたついている。それでも彼女はやめようとしなかった。何度失敗しても、何度も何度もボールを拾い上げ、投げる。それはまるで、自分自身に対する挑戦のようだった。焦りと悔しさが、全身から滲み出ていた。

 

「まだやってるの?」

 

 突然、背後から声が響いた。少女は驚いて肩を震わせ、振り返る。そこには、彼女と同じくらいの年頃の少年が立っていた。

 日焼けした肌、汗で少し濡れた髪が風に揺れ、明るい笑顔が彼の顔を彩っている。大きな瞳には好奇心が宿り、じっと少女を見つめていた。

 

「……うん」

 

 少女は戸惑いながらも、小さく頷いた。少年はその様子を見て、にこりと笑う。

 

「貸してみて」

 

 そう言うと、少年は手を差し出した。その無邪気な笑顔に、少女はボールを差し出してしまう。

 少年はボールを手に取り、片手でゆっくりと回しながらゴールを見上げた。そして、柔らかく弧を描くようにボールを放つ。

 

「こんな感じ」

 

 ふわりと飛んだボールは、ゴールネットを揺らした。

 

「すごい……!」

 

 少女は思わず声を上げた。その表情を見た少年は、得意げに笑ってみせる。

 

「コツはね、力いっぱいじゃなくて、手首をこう使うことだよ」

 

 少年は手の動きを丁寧に見せながら説明する。少女はその言葉に頷き、真剣に彼の動きを真似した。そして再びシュートを試みる。

 今度は見事にゴールへ吸い込まれるように入った。

 

「やった!」

 

 歓声を上げる少女に、少年は軽く手を叩いて微笑む。

 

「ナイスシュート!」

 

 その瞬間、少年の笑顔が少女の胸に深く刻み込まれた。それは、太陽のように眩しくて、暖かな笑顔だった。心の奥底に灯る憧れのような感情が、そっと芽生える。

 

「じゃあ、次はこれかな」

 

 少年はボールを地面に突きながら跳び上がり、鮮やかなレイアップシュートを決めてみせる。その動きはまるで踊るように軽やかで、鮮やかだった。

 しかし、次の瞬間──その輝かしい光景が突然歪み始める。

 空が黒く染まり、蝉の声がふっと途切れる。少年の顔がぼやけ、輪郭がゆっくりと崩れていく。まるで、砂の彫刻が風に流されるように。

 

「えっ……?」

 

 少女は目を見開き、困惑したように声を漏らした。だが、口を動かそうとしても声が出ない。

 

「待って! 行かないで!」

 

 必死に手を伸ばす。けれど、その手は虚空を掴むだけで、何も届かない。少年の姿は無情にも霞み、そして完全に消えた。

 その瞬間──少女は名前を叫んだ。

 

 ──龍太くん! 

 

 

 

 

 

 

 

「っ!」

 

 千夏ははっと目を覚ました。

 時計を見ると、針は7時を指している。朝の柔らかな光が部屋に差し込む中、千夏は布団の中で膝を抱え、小さく息を吐いた。額には汗が滲み、胸の鼓動が早鐘を打っている。

 

「……夢……?」

 

 呟きながら、瞼を閉じると、先ほどの光景が鮮明に浮かび上がる。あの公園、あのゴール、そして──あの少年の笑顔。

 

「……龍太くん」

 

 呟いたその名前が現実と繋がるように、千夏の思考は昨日起きた出来事へと飛んでいった。

 倉庫で助け出した時の龍太の状態はひどいものだった。熱で意識が朦朧としているのに、それでも彼は千夏に向けて微笑もうとしていた。無理に力を振り絞った笑顔。その姿が、何度目を閉じても脳裏から離れない。

 

(きっと今日は、ゆっくり休んでるよね……)

 

 彼があの後、無事に眠れたのか心配になった千夏は布団を抜け出し、パジャマのまま扉を開けた。隣の部屋にある龍太の部屋の前で立ち止まり、軽くノックをする。

 

「龍太くん、起きてる?」

 

 しかし、返事はない。少し間を置いて、もう一度ノックする。

 

「……龍太くん?」

 

 やはり返事がない。どうやら寝ているらしい。起こすのも可哀想だと千夏は自室に戻り、制服に着替える。朝の支度を済ませ、リビングに向かった。廊下を歩く足取りはいつもより重い。昨日の出来事が頭を離れず、胸の中にはどこかざらついた感情が渦巻いている。

 リビングに入ると、龍太の父──隆盛と母──香織が朝食の準備をしていた。いつもの優しい笑顔で、ふたりは千夏に気づき声をかけてくる。

 

「おはよう、千夏ちゃん。今日も早いね」

「おはようございます」

 

 千夏は少しぎこちない笑みを浮かべて挨拶を返し、席に着いた。食卓には温かい味噌汁や焼き魚が並んでいる。ほのかな家庭の香りが心を和らげてくれるはずなのに、胸の中のモヤモヤは拭い去れなかった。

 箸を手に取り、口に運ぶ。けれど味がしない。いつもなら賑やかな朝食の時間が、今日は静まり返っているように感じられる。

 

(私のせいだ……)

 

 心の奥底で、その言葉が何度も繰り返される。昨日の龍太の姿がまぶたに焼き付いて離れない。あの傷だらけの手、疲れ切った顔、それでも彼は自分を守ろうと必死だった。

 

(私がもっとしっかりしていれば……こんなことには……)

 

 ふと顔を上げると、香織が千夏を見つめていた。その目は優 しく、しかしどこか心配そうだ。

 

「千夏ちゃん、気にしないでいいのよ」

 

 その言葉に、千夏の胸がぎゅっと締め付けられる。

 

「でも……私がいなければ、龍太くんはあんな目に……」

「それは違うわ。この件に千夏ちゃんが悪いところなんて1つもない。むしろ、千夏ちゃんがいるから、あの子はもっと頑張れるの」

 

 香織の言葉は温かく、それでも千夏の心の中の罪悪感を消し去るには十分ではなかった。箸を置いた手が、小さく震える。

 

「……でも、もしまた何かあったら……」

「だから、今の環境が良くないのかもしれない」

 

 突然、隆盛が低い声で言った。千夏は驚いて顔を上げる。

 

「今回の件で、学校とも話をしたけど、対応は曖昧でね。期待はできない。それにこれはどう考えてもいじめに近い。だから……転校も視野に入れようかと思ってる」

「……転校……ですか?」

 

 千夏の声は、自分でも驚くほど小さかった。その言葉の意味がすぐには飲み込めない。それでも、胸の奥が冷たくなっていく感覚だけははっきりとわかった。

 

「まだ決定じゃないけどね。でも、あの子が安心して生活できる環境を作るためには、選択肢の一つだと思ってる」

 

 隆盛の言葉に、千夏はどうにか頷く。しかし、心の中には割り切れない感情が渦巻いていた。

 

(転校……それが龍太くんのためだってわかってるけど……)

 

 仕方ないと思う。それでも、彼がいなくなるかもしれない未来を考えると、胸が痛んだ。昨日のことが頭を離れない分、彼が側にいることが当たり前だと感じてしまっていた自分に気づく。

 そんな重い空気を霧散するように、香織がそっと声をかけてきた。

 

「千夏ちゃん、龍太を起こしておかゆを食べさせてくれる? 薬も準備してるから」

「……はい」

 

 返事をしながら、少しほっとした。今は余計なことを考えるより、彼の世話をすることに集中したい。トレイを受け取り、廊下を歩きながら、彼の部屋に向かう。

 昨日の疲労が残っているだろう。眠りの中で、少しでも癒されていればいい。扉の前に立ち、ノックする。

 

「龍太くん、起きてる?」

 

 返事はない。少し間を置き、もう一度ノックをする。

 

「……龍太くん?」

 

 やはり応答はなかった。少し不安になり、そっと扉を開ける。

 

「お邪魔するね……」

 

 けれど、その瞬間、千夏の胸が冷たくなった。目の前に広がる部屋。そこには、龍太の姿がどこにもなかった。

 布団は乱れたまま、机には教科書やノートが置かれている。まるで、さっきまでそこにいた彼が突然消えてしまったようだった。

 

「……龍太くん?」

 

 小さく呟いた声が、静かな部屋に吸い込まれていく。

 

(どこ……行ったの?)

 

 千夏の心に、冷たい不安がじわじわと広がり始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 倉庫の一角で、男たちの苦しげな声が低く響き渡る。暗い空間には薄明かりが漏れるだけで、男たちの恐怖に歪んだ表情が照らし出されていた。

 

「ひ、ひぃ……やめろ! 本当にやめてくれ……!」

「わ、わかった! 話す! 何でも話すから、頼む……!」

 

 その声は怯えと混乱が混ざり、まるで追い詰められた動物のようだった。狭い空間に反響する声が、恐怖を一層際立たせる。

 

「……そうだな。話せば分かるよな。なら、話せばいい」

 

 低い声でそう言い放ったのは、龍太だった。暗がりの中、ゆっくりと歩み寄る彼の影は、どこか不気味で迫力がある。

 

「おい、なんで黙ってる? 俺の質問、忘れたか?」

 

 男たちは恐怖に引き攣った顔で、必死に首を横に振る。だが、言葉にならない。彼らの視線は、龍太がその手に持つ「何か」に釘付けになっていた。暗くてよく見えないことが、かえって想像力を掻き立て、恐怖を増幅させていた。

 

「な、何を……持ってるんだ……お前……」

「これか?」

 

 龍太はゆっくりと、焦らすように手元のそれを掲げてみせた。薄暗がりの中、細長い影が一瞬だけ鈍い光を反射する。

 

「ま、まずい……逃げろ!」

「ぎゃあああ! 頼む! それだけは! 許してくれぇ!」

 

 男たちの声は絶叫に変わった。龍太は無言のままその手を高く振り上げる。そして──

 

「くらえっ!」

 

 ふわっ──と音を立てて現れたのは、白く柔らかな羽だった。

 

「……は?」

 

 一瞬、時が止まる。男たちは何が起きたのか理解できず、呆然と口を開けていた。しかし、その刹那の隙を、龍太の羽根が見逃すはずもなかった。

 

「ひゃっ!? ちょ、これ、は……! や、やめろ!」

「や、やばい……くすぐったい! やめろぉぉぉ!」

 

 龍太は淡々と羽を操る。男たちは地面に倒れ込み、脇腹や首筋、足の裏などを容赦なく襲う羽に、笑いを抑えきれずに悶絶する。

 

「どうだ? そろそろ白状する気になったか?」

「やめろぉぉぉぉ! ひゃははははっ! くすぐったい! やめてくれぇ!」

「ぎゃっ! そこはだめ! くすぐったいってぇぇぇ!」

「ふはははは、おらおらっ、まだまだ続くぞ!」

 

 龍太は一切の感情を排した無表情のまま、淡々と羽根を操る。その先端は、脇腹、首筋、足の裏といった急所を的確かつ執拗に攻め立てた。男たちは床を転げ回り、もはや笑いなのか苦しみなのか判別不能な悲鳴を上げながら、必死に身を捩る。

 

「どうだ、この羽根の恐怖を味わった気分は? 白状するなら今がチャンスだぞ!」

「ひゃはははは! わ、わかった! わかったから! やめてくれぇぇぇ!」

「ほぉ、本当か? 嘘をついたら羽根攻撃が2倍になるけど?」

 

 龍太が羽根をピタリと止めると、男たちは大きく肩で息をしながら必死で頷いた。その様子に満足したように、龍太は羽根を少しだけ下ろして言った。

 

「じゃあ聞く。誰の差し金だ。正直に話せば、今日のところは見逃してやらんでもない」

「し、指示されたっていうか、なんか廊下で女の声が聞こえたんだ!」

「そうなんだ!『こうすれば田中を懲らしめられる』って……つい、その気になっちまって……」

「女の声……?」

 

 龍太は眉根を寄せ、羽根をそっと下ろして考え込む。その隙に男たちがじりじりと後退しようとしているのに気づかないほどには、まだ理性は残っていたらしい。

 

「……まあいいや、とりあえずお前らがやらかしたことは認めたな?」

「認める! 認めるからもうやめてくれ!」

 

 そう叫ぶ男たちに、龍太は満足げに頷き、羽根をくるりと回してポケットにしまい込んだ。

 

「よし、じゃあ今回だけは許してやる。でも二度と同じことをしたら、次は羽根の3倍攻撃だからな」

「絶対やらない! やらないか……ら」

 

 一人の男の言葉が、途中で途切れた。その視線は、恐怖に凍りついたまま、龍太の背後の一点に固定されている。

 

「……う、うしろ……!」

 

 囚われた男の一人が震える声で呟いた。その視線は龍太の背後に固定されている。怯えた瞳が何かを捉え、その何かが男たちの恐怖の対象を完全に塗り替えていく。

 龍太は背中にじんわり広がる寒気を感じていた。それはただの気配ではなく、確実に迫ってくる何か。冷たい刃先が背骨をなぞるような感覚に、思わず息を飲む。

 

「後ろって……何が──」

 

 喉が渇ききり、声が掠れる。意を決して振り向こうとした、その時。

 

 コツ……

 

 冷たいコンクリートの床に、一つの足音が響いた。

 

 コツ……コツ……

 

 一定のテンポで響く足音が、冷たい空気を引き裂くように倉庫中に響き渡る。振り返るより先に、その音が恐怖を煽り、心臓が嫌な鼓動を刻む。

 

 そして現れたのは──一人の少女だった。

 

 薄暗い倉庫の光が彼女の姿を浮かび上がらせる。いつも整えられた制服姿、規則正しく揺れる髪。そのすべてが「いつもの彼女」を映しているはずだった。だが、その目。

 瞳の奥に宿るのは底冷えするような静寂。そして、無表情。微塵の感情も読み取れないその顔が、龍太を完全に硬直させた。

 彼女は、この空間のすべてを掌握した支配者のように、ゆっくりと歩みを進め、龍太の目の前でぴたりと足を止めた。

 

「何してるの?」

 

 その声は、普段と変わらない、柔らかく落ち着いた響き。それなのに、その一言が発せられた瞬間、倉庫の温度が数度下がったかのように空気が重く淀んだ。龍太は、金縛りにあったように身動き一つ取れない。背中を、滝のような冷や汗が伝っていく。さっきまで羽根を振り回していた自分が、遠い昔の出来事のように思えた。

 

「た、田中……さん……?」

 

 先ほどまで床を転げ回っていた男の一人が、完全に同情の色を浮かべた瞳で、恐る恐る龍太に声をかける。

 

「……ああ。わかってる」

 

 龍太は、まるで長年の苦行を終えた求道者のように、静かに、そして深く頷いた。その悟りきった表情に、男たちは顔を見合わせ、無言で頷き合う。たった今、この倉庫で、かつてないほど固い男たちの友情が芽生えた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「い、いや、その……これは、ですね。たまたま居合わせたので、正義の執行と申しますか……一種の教育的指導、とでも言いますか……」

 

 龍太が必死に言葉を繕うが、千夏はただじっと彼を見つめるだけだった。その静かな視線は、まるでレントゲン写真のように彼の内側まで見透かしているようで、龍太は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 

「龍太くん」

「は、はい……!」

 

 龍太は背骨が抜けそうな勢いで背筋を伸ばす。

 

「私の認識が正しければ、今この状況は、君がいじめっ子たちにお仕置きをしている、ということで合ってる?」

「は、はい、そんな感じで……相違ございません!」

 

 千夏の迫力に、龍太は勢いよく頷いた。彼女の静かな声に漂う圧力は、取調室のベテラン刑事さながらだった。

 

「そっか。じゃあ、この人たちが、龍太くんをここに閉じ込めた張本人、ということでいいんだね」

 

 その声には何の感情も乗っていない。だが、路傍の石ころでも見るかのような冷たい視線を向けられ、男たちはびくりと肩を大きく揺らした。

 

「……どうして、あんなことをしたの?」

 

 千夏の問いに、男たちは顔を見合わせ、縮こまる。やがて観念したように、一人が小さな声で答えた。

 

「そ、それは……女の人の声が聞こえて……。『こうすれば田中を苦しめられる』って……」

「あ、ああっ、ホントだ! それで、つい……」

「それで、つい?」

 

 千夏の声のトーンが、半音、低くなった。それだけで、男たちの身体はさらに小さくなる。

 

「だ、だって、こいつが調子に乗ってるから……! 田中とは付き合ってないんですよね?」

 

 逆ギレにも似たその言葉に、千夏は初めて表情を動かした。ほんのわずかに、口の端を上げたのだ。だが、それは微笑みとは程遠い、絶対零度の氷のような形だった。

 

「付き合ってはいないよ。でもね、龍太くんは、私にとって――とても大切な人だから」

 

 その一言に、倉庫内の温度が一瞬にして変わる。男たちは口をパクパクと動かすだけで何も言えなくなり、龍太も息を呑んだ。

 

「お、俺は一年の頃から鹿野さんのこと──っ」

 

 一人の男が何かを言いかけたが、千夏の目が冷たく光り、彼はそれ以上言葉を続けられなかった。

 

「私にどんな感情もってようと、あんなことしていい理由にはならないよね──許さないから。龍太くんを傷つけたこと」

「……はい」

 

 男たちの一人が、小さな声で呟いた。その声には抵抗も言い訳もなく、ただの降参が込められている。彼らはがっくりとうなだれ、まるで怒られた子どもたちのように肩を落とした。

 その様子を見た龍太は、少し居心地の悪さを感じながら口を開く。

 

「千夏先輩に危害加えたら怒るけど、今回に関しては俺別に怒ってないんで。考えなしに噂に飛びついた俺も悪いんだし。だから、これに懲りたらもう二度とこんなことしないでくださいね?」

 

 その言葉には、どこか自嘲の色が滲んでいた。だが、本心から彼らを責めていないことは、その場にいる誰の目にも明らかだった。

 

「……ゆ、許してくれるのか? そのケガも」

 

 一人がちらりと龍太の包帯で巻かれた手を見ながら恐る恐る尋ねた。その視線は、さっきまでの恐怖と申し訳なさが混じったものだった。

 

「ああ、これは俺が勝手にやっただけなんで。それより、その『女の声』ってのが気になる。詳しく教えてもらえませんか? さすがにお化けとかじゃないですよね?」

 

 龍太の冗談めいた口調に、男たちは一瞬だけ目を見合わせた。そして、重たい空気の中で口を開く。

 

「ち、違う! 昨日、廊下で確かに聞こえたんだ! 顔は見てないけど、人間の声だった!」

「それに、今日だって戻ってくるつもりはなかったんだ! でも、『体育倉庫の監視カメラの映像を消してあげるから、念のため様子を見てこい』ってまた声がして……それで……」

「なるほどな。それで、まんまと俺と鉢合わせたわけか」

 

 龍太は軽く首を傾げたまま、相手の言葉を反芻するように呟いた。思考が少し深まったような表情を浮かべていると、再び男たちの震える声が響く。

 

「本当にごめん!」

 

 三人がそろって頭を下げる。その姿には、どこか滑稽さすら漂っていたが、龍太は何も言わずにうなずき、ゆっくりと手足の拘束を解いた。

 

 

 

 

 三人の足音が遠ざかり、倉庫には再び墓場のような静寂が戻ってきた。外の世界とは隔絶されたこの空間で、龍太は壁に手をつき、全身の痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がろうと試みる。しかし、アドレナリンが切れ、熱に蝕まれた身体はもはや限界だった。膝ががくがくと震え、視界がぐらりと揺れる。

 

「……っ……」

 

 苦しげに吐息を漏らしながら、体を支える力を振り絞るが、足元が危うく揺れる。次の瞬間、背中にそっと触れる温かな感触があった。

 

「……もう、無理しないでって言ったのに」

 

 それは叱責の響きではなく、自分自身を責めるかのような、痛みを伴った囁きだった。振り返るまでもない。千夏の香りだ。彼女が、崩れ落ちそうになる龍太の身体を、その華奢な腕で必死に支えていた。

 

「す、すみません」

 

 かろうじて絞り出した声に、千夏は答えなかった。ただ、その表情には深い憂いと、拭いきれない心配の色が浮かんでいる。

 

「龍太くん、本当に反省してる?」

 

 静かな、だが有無を言わせぬ響きだった。

 

「……してます」

「学校にいるって聞いた時、私がどんな気持ちだったか、わかる?」

 

 その声は、ほんのわずかに震えていた。彼女の心に、どれほどの重荷を背負わせてしまったのか。龍太は何とか笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉さえも言うことを聞かない。

 

「は、反省してます。本当に……」

「……ふーん」

 

 まだ疑いが晴れない、とでも言いたげな相槌に、龍太は必死に頷く。

 

「ほ、ホントですって! 神に誓います!」

「じゃあ、帰ったら薬飲んでしっかり休んでね?」

「は、はい」

「治るまで離れないからね?」

「は…………えぇ」

「あ、今少し嫌そうな顔した」

「し、してなーー」

 

 図星を指され、龍太は反射的に首を横に振る。その勢いで、ただでさえ覚束ない身体が大きくぐらついた。千夏はすかさず彼を支え、その腕に力を込める。

 

「ほら、こういう時は素直に『ありがとうございます』って言うの」

 

 悪戯っぽく笑う彼女の顔が、すぐ近くにある。その距離感に心臓が跳ねたのを悟られないように、龍太は観念して呟いた。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 照れくささから視線を逸らすと、千夏は「素直でよろしい」と、満足げにクスリと笑った。

その柔らかな声に包まれていると、先ほどの、氷のように冷たい彼女の姿が嘘のようだ。

 

「なんというか、先輩って怒ると怖いんですね」

「何か言った?」

「いえ、なんでもありません!」

 

 慌てて否定する龍太の姿に、千夏は耐えきれず「ふふっ」と笑い声を漏らす。

 

「……ふふっ、そんなに怖がらなくても」

「いや……マジで俺殺されるかと思いましたから」

「そ、そんなに? 大袈裟だよ」

 

 自覚がないようだが、この人を怒らせてはいけない──そう心に誓いながら、龍太は小さく息をついた。倉庫の冷たい空気が、ほんの少しだけ暖かく感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 5月の爽やかな朝、時計の針はちょうど8時を指していた。青く澄んだ空には、ふわりと浮かぶ雲が数えるほどしかない。太陽の光は柔らかで、木々の若葉をきらきらと輝かせている。新緑の香りが漂う中、倉庫の裏手に一人の少女が佇んでいた。

 空気には穏やかな清々しさが満ちていたが、その少女の心には、全く違う温度が流れていた。冷え冷えとした怒りと、胸を焦がすような苛立ちが渦巻いている。

 目の前の光景がその感情をさらに煽った。倉庫の出口では、気怠げに龍太が歩くのを、千夏が寄り添うように手を取って見守っている。朝の光が二人を柔らかく包み込み、千夏の栗色の髪が陽光を受けて輝いて見えた。

 

(どうして……どうしてこんなふうになるの?)

 

 奥歯を強く、強く噛みしめる。自分が完璧に練り上げたはずの計画。それは、龍太を心身ともに絶望の淵に追い込み、千夏を孤立させるための、美しくも残酷な戯曲だったはずだ。それがなぜ――。

 

 ──あ、あの、結構くっつかれると……その……色々と当たるものがあるといいますか……

 ──ふぇっ!? ご、ごめん! 全然気づかなくって……! 

 ──い、いえ……至福の一時でした。

 ──……龍太くん? 

 ──うぐっ、い、良いでしょ! 俺だって男なんです! 

 ──うわ、開き直った……。ふふ、そうだよね。龍太くんも男の子だもんね。

 ──だからそう言ってますよね!? なんで離れないんすか!

 

「ふざけないで……」

 

 まるでアニメのような青春劇が繰り広げられてる。ほんの小さな声だったが、その言葉には鋭い棘が込められていた。指先が震え始めるのを止められない。それでも視線を外すことができず、ただその場に立ち尽くした。

 

(でも……これで終わりじゃない)

 

 唇を引き結び、目に浮かびそうになった涙を必死にこらえる。自分の計画が失敗に終わったとしても、ここで諦めるわけにはいかない。二人が築こうとしているあの強い絆──それを見過ごすことは、彼女にはできなかった。

 

「もう一度……いや、何度でも……」

 

 自分に言い聞かせるように呟くと、少女は踵を返し、校舎の方へと歩き出した。穏やかな朝の光を浴びる木々の間を抜けるその背中には、どこか冷たく鋭い影が伸びていた。

 

(次は絶対に……私が勝つ)

 

 穏やかな朝の景色とは裏腹に、彼女の胸の奥では、熱く燃え上がる何かが静かにくすぶり続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ、まったく、あなたって子は……」

 

 母である香織の深いため息が、静まり返った寝室の空気を重く震わせた。龍太は布団にくるまったまま、両親からの無言の圧力を全身で受け止めている。帰宅するや否や、有無を言わさずベッドに押し込まれた。それは心配からくる優しさというよりも、怒りをどうにか理性で抑え込んでいるが故の、強制力に近かった。

 

「一言の断りもなく家を飛び出して、一体どういうつもりだったの!」

「……すみませんでした」

 

 龍太は、ただ素直に謝罪の言葉を繰り返した。自分がどれだけ浅はかで、周りに心配をかけたかは痛いほどわかっている。反論の余地など、どこにもなかった。

 香織は眉間に刻まれた皺を少しだけ緩め、深く息を吐きながら椅子に腰を下ろした。その時、短い電子音が響く。龍太は脇に挟んでいた体温計を取り出し、液晶画面を覗き込んだ。

 

「38.8℃……俺、こんなに熱あったのか」

 

 まるで他人事のような呟きに、香織は心底呆れたように肩をすくめる。

 

「昨日なんて40℃近かったのよ。よくそんな状態で外に出られたわね。感心するやら、呆れるやら……。左手だって、4針も縫ってるっていうのに」

 

 その言葉に、龍太は少しだけ得意げな表情を浮かべた。

 

「まあ、朝はそこまでじゃなかったんだよ。日頃のトレーニングの賜物だな。左手だってもう痛く――っいでっ!」

「……反省しなさい」

「すみません」

 

 香織に傷口を軽く突かれ、龍太は布団の中にしゅんと縮こまった。母はもう一度ため息をつくと、彼の肩まで布団をしっかりとかけ直す。

 

「とりあえず、今日は一日安静にしてなさい。いいわね?」

「信用ねぇな」

「千夏ちゃん、信用できると思う?」

 

 唐突に話を振られ、隣で静かに座っていた千夏は、くすりと微笑みながら即答した。

 

「ふふっ、いえ、全然」

「だ、そうよ」

「……わかってるよ」

 

 渋々といった龍太の返事に、香織の表情がわずかに和らぐ。だが、その空気を断ち切るように、それまで黙っていた父、隆盛が真剣な口調で口を開いた。

 

「で、龍太」

 

 隆盛の低く落ち着いた声が、部屋の空気を引き締める。

 

「前々から話そうと思っていたんだが、ちょうどいい機会だ。お前、転校を考えてみないか?」

「――転校?」

 

 あまりに突然の提案に、龍太は目を丸くした。

 

「そうだ。今回のようなトラブルがこれ以上続くのは、正直、父さんも母さんも心臓に悪い。それに、学校側の事なかれ主義な態度も気に入らない。いっそ、新しい環境でやり直すのも一つの手だと思うんだ」

「龍くん。今の学校が辛いなら、無理して通う必要はないのよ。新しい環境で、また一から始めるのもいい選択肢だと思うの」

 

 真剣な眼差しで語りかける両親に対し、龍太は布団から上半身を起こすと、あっけらかんとした声で、しかしはっきりと答えた。

 

「嫌だね」

 

 その言葉が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせる。隆盛は一瞬硬直し、香織は驚きの表情を浮かべた。

 

「……は?」

「だって、俺まだ今の学校でやりたいことあるし。いきなり転校とか言われてもピンとこないし。友達だっているんだよ」

 

 あまりにもあっさりした龍太の答えに、両親は完全に言葉を失った。二人は困惑と驚きの表情を隠せない。

 

「お前……今回の件がどれだけ重い話か、わかっているのか?」

「重いとか軽いとかじゃなくて、俺にとって、今の場所が大事なんだ。自分で選んで入った学校だから。それに、どこへ行ったって人間関係の問題なんてついて回るだろ? なら俺は、ここで戦う。……まあ、誰がどんな手で来ようが、負ける気なんて毛頭ないけどな」

 

 その言葉には、一切の迷いも気負いもなかった。ただ、静かな決意だけがそこにあった。その堂々とした態度に、隆盛と香織は顔を見合わせる。

 

「この子……こんなにしっかりしたこと言える子だったっけ?」

 

 香織が小声で呟く。

 「いや、俺も驚いてる」と隆盛も呟く。

 

「おい、聞こえてるぞ」

 

 そんなやり取りを聞いていた千夏は、思わず「くすっ」と笑い声を漏らした。

 

「なに笑ってるんすか」

「ごめんね。あまりにも堂々と『嫌だね』って言うから。……でも、龍太くんらしいなって。私はお父さんに転校の話をされた時、すごく落ち込んで、どうしようもなかったから。だから、物怖じせずに即答できる龍太くんは、すごいなって思ったの」

「……先輩だって、結局はここにいるじゃないですか」

「うん。龍太くんが、いてくれたからね。だから、また一緒に学校へ行こうね」

「……まあ、そりゃ、同じ学校なんですから」

 

 照れ隠しのようにそっぽを向く龍太。その若く、不器用で、それでいて力強い二人のやり取りを、両親はどこか懐かしいものを見るような目で見つめていた。苦しみや悩みを真正面から受け止め、時には蹴飛ばしながら、不格好に進んでいく。それは、自分たちがとうに忘れてしまった、青春という名の輝きそのものだった。

 

「……なんだかんだで、強いわね。あの子たち」

「ああ、まったくだ」

 

 取り上げるべきではないのかもしれない。二人の意見が、静かに一致した。隆盛と香織はそっと頷き合うと、静かに寝室を後にする。

 部屋には、千夏の優しい笑顔と、その笑顔から逃れるように窓の外を見つめる、龍太の微かに赤く染まった頬だけが残されていた。

 

 

 

 

 

 

「……んで、なんで先輩まで休んでるんですか」

 

 龍太は布団に深く身を沈めたまま、ベッドの隣の椅子に腰かけている千夏にちらりと視線を送った。彼女はラフな部屋着姿で、その手には教科書が開かれている。

 

「んー、そうだなあ……。大事な同居人くんが、また勝手に脱走しないように、見張り番、かな」

 

 悪戯っぽく笑う千夏に、龍太はむっとした表情を隠さない。

 

「脱走って……俺は囚人か何かですか。もうしませんよ、そんなこと」

「今日は脱走したのに?」

「……それは、もう怒られたからいいじゃないですか」

 

 拗ねた子供のような物言いに、千夏は「くすっ」と堪えきれずに笑い声を漏らす。その楽しそうな声に、龍太はさらに機嫌を損ねたように、布団を頭まで引き上げた。

 

「……ここにいると、風邪うつりますよ」

「大丈夫。私風邪ひいたことないから」

「なにその免疫の塊みたいな発言」

 

 呆れたため息が、布団の中からくぐもって響く。ふと、龍太は千夏が熱心に読み込んでいる教科書に気づき、意外そうな声を漏らした。

 

「……勉強熱心ですね」

「うん。今日の分の内容やってるの」

「す、すみません」

「……すみません、俺のせいで」

 

 千夏は優しく首を振った後、少しだけ照れたように視線を落とした。そして、思い出すようにふっと口を開く。

 

「前にね、龍太くんが私のクラスの席にいてくれたこと、あったでしょ?」

「ああ……ありましたね」

「あの時、すごく不思議な気持ちだったの。隣に龍太くんがいるだけで、いつもと同じ教室が、全然違う場所みたいに感じられて。……だから、もし龍太くんの近くで勉強したら、あの時の気持ちがわかるのかなって、ちょっと思ったりして」

 

 控えめな笑顔で紡がれる、あまりにも不意打ちの告白。龍太の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。

 

「そ、そうですか……」

 

 動揺を隠しきれない龍太に、千夏は小さく微笑みを浮かべて視線を合わせた。その穏やかな瞳に見つめられると、余計に心が落ち着かなくなる。しばらくして、彼女がふっと声をかける。

 

「眠れない?」

 

 誰のせいだ、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、適当な理由を口にする。

 

「まあ、さっき起きたばかりなので」

「そっか。じゃあ少し、聞いても良い?」

「なんです?」

 

 千夏の表情が柔らかいものから少し真剣なものへと変わった。その変化に気づき、龍太は彼女に向き直る。

 

「どうして、あの三人が犯人だってわかったの? それに……どうして、あんな身体で、一人で学校へ?」

 

 千夏の声には軽い調子を装った問いかけだったが、その瞳には確かな興味と心配が宿っていた。

 自分のいないところで彼女が同じ目に遭うのだけは避けたかった。だから早期解決を望んだのだが、龍太はそう言えそうになく、一瞬だけ視線を逸らし、少し困ったように笑みを浮かべた。

 

「まあ、自分で蒔いた種ですから。自分で刈り取らないと、気が済まなかったんです」

「……それで、朝一番に?」

「はい。そしたら偶然、陸上部の連中に会って。倉庫の方で怪しい奴らが何かしてるって教えてくれたんです。行ってみたら、案の定でした」

 

 その語り口に含まれた自嘲の色を、千夏は見逃さなかった。ふっと表情を緩めると、彼女はおもむろに龍太の頬を、むにゅ、とつねった。

 

「な、なにするんすか」

「もっと頼ってくれてもいいと思うだけどなー」

 

 その声には、優しさの中に、ほんの少しだけ寂しさの色が滲んでいた。そのことに気づいた龍太は、慌てて言葉を返す。

 

「す、すみません……」

 

 千夏は満足したようにふっと手を放したが、その仕草もどこか柔らかいものだった。

 

「それにしても、気がかりなのは謎の女の人の存在ですよね」

「そうだね。一応、渚とかにも噂の出処とか聞いてみたんだけど、特定はできなかったみたい。それに……」

「ん?」

「ううん、なんでもない。まあ、そう簡単にはわからないよね。でも……」

 

 千夏は言葉を切ると、強い意志を宿した瞳で龍太を見つめた。

 

「もし、また何かあったら、今度こそ、絶対に一人で抱え込まないでね」

 

 その言葉に、龍太は少しだけ目を丸くして千夏を見つめ返した。そして、わずかに頬を赤く染めながらも軽く頷いた。

 

「……わかりました」

「うん。お願い」

 

 柔らかく微笑んだ千夏は、突然、彼の右手をそっと両手で包み込んだ。その温かな感触に、龍太の身体がびくりと強張る。

 

「えっ……ちょ、なにを……」

「こうしてたら、少しは寂しくないかなって思っただけ。……嫌だった?」

 

 彼女の柔らかな声が、まるで朝の光のように温かく彼の耳に届いた。龍太は思わず目を泳がせながら、顔を布団に隠そうとする。しかし、左手は包帯でぐるぐる巻きにされているため自由に動かず、身体をくねらせながら何とか布団の中に潜り込んだ。

 

「……別に、嫌とかじゃ、ないですけど……」

 

 千夏はその様子に思わず小さく吹き出し、口元に手を当てて微笑む。その笑顔を見ないように龍太はさらに深く布団に潜り込む。

 

「……先輩、一個だけ聞いてもいいですか」

「どうしたの?」

「その……先輩が言ってた、『大切な人』って……どういう意味、なんですか」

 

 その問いに千夏の動きが止まった。彼女は一瞬だけ視線をそらし、頬を赤く染めながら小さな声で呟く。

 

「……そ、そのままの意味だよ。龍太くんは……ほら、私にとって、大切な……同居人、だから……」

 

 その言葉を聞いた龍太は、思わず千夏の顔を見ようと布団を下ろしかけた。しかし、千夏は慌ててその布団を引っ張り戻し、龍太の視界を奪う。

 

「ちょっ、なんですか!」

「い、今は見ちゃダメ!」

「なんで!?」

「なんでも! とにかく、今は見ないで!」

 

 声が裏返り、必死に抵抗するその様子に、龍天は困惑しながらも、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

 

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