親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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6話

 

 

 暗闇が倉庫を支配していた。

 冷えきった空気が、生温い湿気をまとって肌に絡みつく。コンクリートの壁に、天井から漏れたかすかな光が歪んだ影を落としていた。その影が、生き物のように、不規則に揺れている。

 

 風の音すらない。

 

 壁際に追いやられた三人の男が、手足を縛られて座っていた。逃げる術は、もうない。引きつった顔は、檻の中の獣のようだった。額の汗が頬を伝い、絞り出すような息が、静寂に混じる。

 

「な、なぁ……これ、何のつもりだよ……」

 

 一人が、震える声で呟いた。

 返事はない。

 ただ、奥から音が響いた。

 

 コン……コン……。

 

 足音だった。

 不気味なほど、一定。

 冷たい波紋が、空間に広がっていく。

 近づくたび、三人の心臓が跳ねた。

 

「……田中……だよな?」

 

 確信のない、呟きに近い声。

 返事はなく、足音が止まった。

 暗闇から現れたのは、龍太だった。

 いつもの明るさは、顔のどこにもない。冷たく虚ろな瞳で見下ろすその姿は、彼らの知る田中龍太とは、別の何かだった。

 

「お前らさ……よくも、やってくれたよな」

 

 低い声が、空気を裂く。一言ごとに、三人の心が凍っていく。

 龍太の手は、ポケットの中で何かを握っていた。その動きが、妙にゆっくりで、長い。

 

「俺にこんなことして、ただで済むと思ってんのか?」

 

 三人の体が、硬直した。

 手が、ゆっくりとポケットから抜かれる。かすかな光を受けて、それが鈍く光った。

 

(な、何だ……? 刃物……か?)

 

 何なのか、わからない。

 その曖昧さが、恐怖を際立たせる。

 

「ちょ、待てよ田中! 冗談だろ? 俺たち、ただ……」

「ただ?」

 

 声が、一段低くなった。

 一歩、また一歩。

 逃げ場を探して壁際を見回すが、どこにもない。

 

「ただの、何だ。楽しみ半分でやったって?」

「ち、違う! その……!」

「……なら、どうしてやったのか、言えよ」

 

 龍太が、ゆっくり身を屈める。その丁寧さが、かえって狂気じみていた。男たちの視線は、手元に釘付けだ。光るそれが、明かりを反射して、ゆっくり動く。

 

「吐けよ。でないと——死ぬぞ」

 

 最後の一言が、低く囁かれた。

 そして、それを、わずかに振った。

 空気を切る音。三人が、息を呑む。

 

 ——次の動きは、誰にも予測できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 幼い頃の、夏の日の記憶だった。

 蝉が一日中鳴き、陽射しが容赦なく地面を焼く午後。湿った空気が肌に絡み、砂埃が光の中で揺れている。少女は近所の公園の片隅で、ひたすらゴールへボールを投げ続けていた。

 

「えいっ……!」

 

 放ったボールは、無情にもリングをかすめて跳ね返る。額から汗。手は泥と汗でべたついている。それでも、やめなかった。何度外しても拾い上げ、また投げる。自分自身への、挑戦のように。

 

「まだやってるの?」

 

 背後の声に、肩が震えた。

 振り返る。

 そこには同じ年頃の、少年が立っていた。

 日に焼けた肌。汗で濡れた髪。明るい笑顔。

 大きな瞳が、じっとこちらを見ている。

 

「……うん」

 

 戸惑いながら、小さく頷く。

 少年が、にこりと笑った。

 

「貸してみて」

 

 差し出された手に、つい、ボールを渡してしまう。

 少年は片手でゆっくり回し、ゴールを見上げた。そして、柔らかな弧を描いて放つ。

 

「こんな感じ」

 

 ボールが、ネットを揺らした。

 

「すごい……!」

 

 思わず声が出た。少年が、得意げに笑う。

 

「コツはね、力いっぱいじゃなくて、手首をこう使うんだ」

 

 丁寧に動きを見せる。

 少女は頷き、真剣に真似た。

 もう一度、投げる。

 今度は、吸い込まれるように入った。

 

「やった!」

 

 歓声を上げる少女に、少年が手を叩く。

 

「ナイスシュート!」

 

 その笑顔が、胸に深く刻まれた。

 太陽みたいに、眩しくて、暖かい。

 憧れに似た何かが、そっと芽生える。

 

「じゃあ、次はこれかな」

 

 ボールを突いて跳び、鮮やかにレイアップを決める。

 踊るように、軽やかに。

 しかし、次の瞬間。

 その光景が、歪みはじめた。

 空が黒く染まる。蝉の声が、ふっと途切れる。少年の顔がぼやけ、輪郭が崩れていく。砂の彫刻が、風に流されるように。

 

「えっ……?」

 

 口を動かしても、声が出ない。

 

「待って! 行かないで!」

 

 伸ばした手は、虚空を掴むだけ。

 少年の姿は霞み、消えた。

 その瞬間、少女は名を叫んだ。

 

 ——龍太くん! 

 

「っ!」

 

 千夏は、はっと目を覚ました。

 時計は、七時。

 朝の光が差し込む中、布団の中で膝を抱え、小さく息を吐く。

 額に汗。

 鼓動が、早い。

 

「……夢……?」

 

 瞼を閉じれば、さっきの光景が浮かぶ。

 あの公園。あのゴール。あの、少年の笑顔。

 

「……龍太くん」

 

 呟いた名が、現実と繋がっていく。

 思考は、昨日の出来事へ飛んだ。

 倉庫で助け出したときの、彼。熱で朦朧としながら、それでも微笑もうとしていた。無理に振り絞った、あの笑顔。何度目を閉じても、離れない。

 

(今日は、ゆっくり休んでるよね……)

 

 無事に眠れたのか心配になって、布団を抜け出す。隣の部屋の前で立ち止まり、軽くノックした。

 

「龍太くん、起きてる?」

 

 返事はない。

 少し間を置いて、もう一度。

 

「……龍太くん?」

 

 やはり、寝ているのだろう。起こすのも可哀想だと、千夏は自室へ戻り、制服に着替えた。

 廊下を歩く足が、いつもより重い。昨日のことが、頭を離れない。

 リビングでは、隆盛と香織が朝食の支度をしていた。

 

「おはよう、千夏ちゃん。今日も早いね」

「おはようございます」

 

 ぎこちない笑みで席に着く。味噌汁、焼き魚。家庭の香り。それでも、胸のモヤモヤは消えない。

 箸を運ぶ。味がしない。

 

(私のせいだ……)

 

 その言葉が、何度も巡る。傷だらけの手。疲れ切った顔。それでも彼は、自分を守ろうとした。

 

(私がもっとしっかりしていれば……)

 

 ふと顔を上げると、香織がこちらを見ていた。優しく、それでいて、心配そうに。

 

「千夏ちゃん、気にしないでいいのよ」

 

 胸が、ぎゅっとなる。

 

「でも……私がいなければ、龍太くんはあんな目に……」

「それは違うわ。千夏ちゃんが悪いところなんて、ひとつもない。むしろ、千夏ちゃんがいるから、あの子はもっと頑張れるの」

 

 温かい言葉だった。それでも、罪悪感を消すには足りない。箸を置いた手が、小さく震えた。

 

「……でも、もしまた何かあったら……」

「だから、今の環境が良くないのかもしれない」

 

 突然、隆盛が低い声で言った。千夏は、顔を上げる。

 

「学校とも話したが、対応は曖昧でね。期待はできない。どう考えても、いじめに近い。だから……転校も、視野に入れようかと思ってる」

「……転校、ですか?」

 

 自分でも驚くほど、小さな声だった。意味が、すぐには飲み込めない。

 それでも、胸の奥が冷たくなっていくのだけは、はっきりわかった。

 

「まだ決定じゃない。でも、あの子が安心して暮らせる環境を作るには、選択肢の一つだと思ってる」

 

 千夏は、どうにか頷いた。割り切れない何かが、渦を巻いている。

 

(転校。龍太くんのためだって、わかってるけど)

 

 仕方ない、と思う。それでも、彼がいなくなる未来を思うと、胸が痛んだ。彼が側にいるのが当たり前だと感じていた自分に、今、気づく。

 重い空気を払うように、香織が声をかけてきた。

 

「千夏ちゃん。龍太を起こして、おかゆを食べさせてくれる? 薬も準備してあるから」

「……はい」

 

 少しだけ、ほっとした。今は、余計なことを考えるより、彼の世話をしたい。トレイを受け取り、廊下を歩く。

 扉の前で、ノックする。

 

「龍太くん、起きてる?」

 

 返事はない。

 間を置いて、もう一度。

 

「……龍太くん?」

 

 応答はなかった。

 不安が、よぎる。

 そっと、扉を開けた。

 

「お邪魔するね……」

 

 その瞬間、胸が冷えた。

 部屋に、彼がいない。

 布団は乱れたまま。机には教科書とノート。さっきまでそこにいた人が、突然消えてしまったように。

 

「……龍太くん?」

 

 呟きが、静かな部屋に吸い込まれていく。

 

(どこ……行ったの?)

 

 心の中の拭き切れぬ影が雨雲のように広がった。

 

 

 

 

 

 

 

 倉庫の一角で、男たちの苦しげな声が響いていた。

 

「ひ、ひぃ……やめろ! 本当にやめてくれ……!」

「わ、わかった! 話す! 何でも話すから、頼む……!」

 

 怯えと混乱の混じった声が、狭い空間に反響する。表情は酷く歪み、追い詰められた動物のようだった。

 

「……そうだな。話せばわかる。なら、話せばいい」

 

 低く言い放ったのは、龍太だった。暗がりをゆっくり歩む影が、不気味な迫力を放つ。

 

「おい、なんで黙ってる? 俺の質問、忘れたか?」

 

 男たちは懸命に首を振る。だが、言葉にならない。視線は、龍太の手の「何か」に釘付けだった。暗くて見えないことが、想像力を煽り、恐怖を膨らませる。

 

「な、何を……持ってるんだ……」

「これか?」

 

 龍太が、焦らすように手元を掲げた。細長い影が、鈍く光る。

 

「ま、まずい……逃げろ!」

「ぎゃあああ! 頼む! それだけは! 許してくれぇ!」

 

 絶叫に変わる。龍太は無言で、手を高く振り上げた。

 そして——

 

「くらえっ!」

 

 ふわっ——と現れたのは、白く柔らかな、羽根だった。

 

「……は?」

 

 時が、止まる。男たちは何が起きたのか理解できず、口を開けたまま固まった。

 その隙を、羽根が見逃すはずもない。

 

「ひゃっ!? ちょ、これ、は……! や、やめろ!」

「や、やばい……くすぐったい! やめろぉぉぉ!」

 

 龍太は淡々と羽根を操る。男たちは床に転げ、脇腹、首筋、足の裏を容赦なく襲う羽根に、笑いを抑えきれず悶絶した。

 

「どうだ。そろそろ白状する気になったか?」

「やめろぉぉぉぉ! ひゃはははっ! くすぐったい! やめてくれぇ!」

「ぎゃっ! そこはだめ! くすぐったいってぇぇぇ!」

 

 無表情のまま、龍太は羽根を操り続ける。その先端は、急所を的確に、執拗に攻め立てた。男たちは床を転げ回り、もはや笑いなのか苦しみなのか判別不能な悲鳴を上げる。

 

「白状するなら、今がチャンスだぞ!」

「ひゃはははは! わ、わかった! わかったから! やめてくれぇぇぇ!」

「ほぉ、本当か? 嘘をついたら、羽根攻撃が二倍になるけど?」

 

 ぴたり、と羽根が止まる。男たちは肩で息をしながら、必死で頷いた。

 

「じゃあ聞く。誰の差し金だ。正直に話せば、今日のところは見逃してやらんでもない」

「し、指示されたっていうか、廊下で、女の声が聞こえたんだ!」

「『こうすれば田中を懲らしめられる』って……つい、その気になっちまって……」

「女の声……?」

 

 龍太は眉根を寄せ、羽根を下ろして考え込む。その隙に男たちがじりじり後退しかけているのに気づかない程度には、まだ理性が残っていたらしい。

 

「……まあいい。とりあえず、お前らがやらかしたことは認めたな?」

「認める! 認めるから、もうやめてくれ!」

 

 龍太は満足げに頷き、羽根をくるりと回してポケットにしまった。

 

「よし、今回だけは許してやる。でも二度とやったら、次は三倍だからな」

「絶対やらない! やらないか……ら」

 

 一人の言葉が、途中で途切れた。

 その視線が、龍太の背後の一点で、凍りついている。

 

「……う、うしろ……!」

 

 震える声。

 怯えた瞳が捉えた何かが、男たちの恐怖の対象を、丸ごと塗り替えていく。

 龍太は、背中に広がる寒気を感じていた。気配、というより——冷たい刃先で、背骨をなぞられるような。

 

「後ろって……何が——」

 

 喉が渇く。意を決して振り向こうとした、その時。

 

 コツ……

 

 冷たい床に、足音が一つ。

 

 コツ……コツ……

 

 一定のテンポが、空気を引き裂いて響く。振り返るより先に、その音が恐怖を煽った。

 

 現れたのは——一人の少女だった。

 薄暗い光が、その姿を浮かび上がらせる。整った制服。規則正しく揺れる髪。すべてが「いつもの彼女」のはずだった。

 

 だが、その目。

 

 瞳の奥に宿るのは、底冷えするような静寂。微塵の感情も読み取れない無表情が、龍太を硬直させた。

 彼女は、空間のすべてを掌握した支配者のように歩み、龍太の前で、ぴたりと足を止めた。

 

「何してるの?」

 

 普段と変わらない、柔らかく落ち着いた声。

 なのに、その一言で、倉庫の温度が数度下がった気がした。龍太は金縛りにあったように動けない。背に、滝のような冷や汗。さっきまで羽根を振り回していた自分が、遠い昔のことに思えた。

 

「た、田中……さん……?」

 

 床を転げ回っていた男の一人が、完全に同情の色を浮かべた瞳で、恐る恐る声をかける。

 

「……ああ。わかってる」

 

 龍太は、長年の苦行を終えた求道者のように、深く頷いた。

 その悟りきった表情に、男たちは顔を見合わせ、無言で頷き合う。たった今、この倉庫で、かつてないほど固い男たちの友情が芽生えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「い、いや、その……これは、ですね。たまたま居合わせたので、正義の執行と申しますか……一種の、教育的指導とでも……」

 

 必死に言葉を繕う龍太を、千夏はただ、じっと見ていた。

 その視線は、レントゲンのように内側まで見透かしてくる。背中に、冷たい汗。

 

「龍太くん」

「は、はい……!」

 

 背骨が抜けそうな勢いで、背筋が伸びた。

 

「私の認識が正しければ、今この状況は——君が、いじめっ子たちにお仕置きをしている、ということで合ってる?」

「は、はい、そんな感じで……相違ございません!」

「そっか。じゃあ、この人たちが、龍太くんをここに閉じ込めた張本人、ということでいいんだね」

 

 声に、感情がない。

 路傍の石を見るような視線に、男たちが肩を揺らした。

 

「……どうして、あんなことをしたの?」

 

 男たちが顔を見合わせ、縮こまる。やがて観念したように、一人が小さく答えた。

 

「そ、それは……女の人の声が聞こえて……。『こうすれば田中を苦しめられる』って……」

「あ、ああっ、ホントだ! それで、つい……」

「それで、つい?」

 

 声のトーンが、半音、下がる。

 それだけで、男たちの体がさらに小さくなった。

 

「だ、だって、こいつが調子に乗ってるから……! 田中とは、付き合ってないんですよね?」

 

 逆ギレめいたその言葉に、千夏が初めて表情を動かした。

 ほんのわずかに、口の端が上がる。

 微笑みとは程遠い、絶対零度の形だった。

 

「付き合ってはいないよ。でもね——龍太くんは、私にとって、とても大切な人だから」

 

 その一言で、倉庫の温度が、また変わった。男たちは口をパクつかせるだけ。龍太も、息を呑む。

 

「お、俺は一年の頃から鹿野さんのこと——っ」

 

 一人が言いかけたが、千夏の目が冷たく光り、続きは出てこなかった。

 

「私にどんな感情を持ってようと、あんなことしていい理由にはならないよね。——許さないから。龍太くんを、傷つけたこと」

「……はい」

 

 抵抗も言い訳もない、ただの降参。男たちは、叱られた子どものように肩を落とした。

 その様子に、龍太が少し居心地悪そうに口を開く。

 

「千夏先輩に何かしたら俺も怒りますけど、今回は別に怒ってないんで。考えなしに噂に飛びついた俺も悪いんだし。だから、これに懲りたら、もう二度とやめてくださいね」

 

 自嘲が滲んでいたが、本心から責めていないのは、誰の目にも明らかだった。

 

「……ゆ、許してくれるのか? そのケガも」

 

 一人が、龍太の包帯を巻かれた手をちらりと見て、恐る恐る尋ねる。

 

「ああ、これは俺が勝手にやっただけなんで。それより、その『女の声』ってのが気になる。詳しく教えてもらえません? さすがに、お化けとかじゃないですよね?」

 

 冗談めかした口調に、男たちは一瞬目を見合わせ、重い空気の中で口を開いた。

 

「ち、違う! 昨日、廊下で確かに聞こえたんだ! 顔は見てないけど、人間の声だった!」

「今日だって、戻る気はなかったんだ! でも、『体育倉庫の監視カメラの映像を消してあげるから、念のため様子を見てこい』ってまた声がして……それで……」

「なるほどな。それで、まんまと俺と鉢合わせたわけか」

 

 軽く首を傾げ、相手の言葉を反芻する。思考が少し沈んだところで、また震える声が響いた。

 

「本当に、ごめん!」

 

 三人がそろって頭を下げる。どこか滑稽だったが、龍太は何も言わず頷き、拘束をゆっくり解いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三人の足音が遠ざかり、倉庫に、墓場のような静寂が戻った。

 龍太は壁に手をつき、全身の痛みに耐えて立ち上がろうとする。だが、アドレナリンが切れ、熱に蝕まれた体は、もう限界だった。膝が震え、視界が揺れる。

 

「……っ……」

 

 支える力を振り絞るが、足元が崩れる。

 その瞬間、背中に、温かな感触。

 

「……もう、無理しないでって言ったのに」

 

 叱責ではなかった。

 自分を責めるような、痛みを伴った囁き。振り返るまでもない。千夏の香りだ。崩れかける体を、その華奢な腕が、必死に支えていた。

 

「す、すみません」

 

 かろうじて絞り出した声に、千夏は答えない。ただ、その表情には、深い憂いがあった。

 

「龍太くん、本当に反省してる?」

 

 静かで、有無を言わせぬ響き。

 

「……してます」

「学校にいるって聞いたとき、私がどんな気持ちだったか、わかる?」

 

 声が、わずかに震えていた。

 どれほどの重荷を、背負わせてしまったのか。龍太は笑顔を作ろうとしたが、顔の筋肉さえ言うことを聞かない。

 

「は、反省してます。本当に……」

「……ふーん」

 

 まだ疑いが晴れない、とでも言いたげな相槌に、必死で頷く。

 

「ほ、ホントですって! 神に誓います!」

「じゃあ、帰ったら薬飲んで、しっかり休んでね」

「は、はい」

「治るまで、離れないからね」

「は…………えぇ」

「あ、今、少し嫌そうな顔した」

「し、してな──」

 

 図星に、反射的に首を振る。その勢いで、覚束ない体が大きくぐらついた。千夏がすかさず支え、腕に力を込める。

 

「ほら、こういうときは素直に『ありがとうございます』って言うの」

 

 悪戯っぽい顔が、すぐ近くにある。心臓が跳ねたのを悟られないよう、龍太は観念して呟いた。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 視線を逸らすと、千夏は「素直でよろしい」と満足げに笑う。

 その柔らかな声に包まれていると、さっきの、氷のように冷たい彼女が嘘のようだった。

 

「なんというか、先輩って、怒ると怖いんですね」

「何か言った?」

「いえ、なんでもありません!」

 

 慌てて否定する龍太に、千夏は耐えきれず「ふふっ」と漏らす。

 

「そんなに怖がらなくても」

「いや……マジで殺されるかと思いましたから」

「そ、そんなに? 大袈裟だよ」

 

 自覚がないらしい。この人を怒らせてはいけない——そう誓いながら、龍太は小さく息をついた。

 倉庫の冷たい空気が、ほんの少しだけ、暖かく感じられた。

 

 

 

 

 

 

 五月の朝、時計はちょうど八時を指していた。

 青く澄んだ空に、雲はわずか。柔らかな光が、若葉をきらめかせている。新緑の香りの中、倉庫の裏手に、一人の少女が佇んでいた。

 空気は清々しい。だが、少女の胸には、まるで違う温度が流れていた。冷えた怒りと、焦がすような苛立ちが渦を巻いている。

 目の前の光景が、それを煽った。倉庫の出口で、気怠げに歩く龍太に、千夏が寄り添い手を取って見守っている。朝の光が二人を包み、千夏の栗色の髪が陽に輝いていた。

 

(どうして……どうして、こうなるの?)

 

 奥歯を強く噛みしめる。完璧に練り上げたはずの計画。龍太を絶望の淵へ追い込み、千夏を孤立させる——美しくも残酷な戯曲だったはずだ。それが、なぜ。

 

 ——あ、あの、結構くっつかれると……その……色々、当たるものがあるといいますか……

 ——ふぇっ!? ご、ごめん! 全然気づかなくって……! 

 ——い、いえ……至福の一時でした。

 ——……龍太くん? 

 ——うぐっ、い、いいでしょ! 俺だって男なんです! 嫌なら離れてください! 

 ——うわ、開き直った……。そうだよね。龍太くんも男の子だもんね。

 ——だから、そう言ってますよね!? なんで離れないんすか! 

 ──は、離れたら龍太くんが倒れちゃうでしょ? 

 ──いや、だからって……

 

「ふざけないで……」

 

 まるで、アニメみたいな青春劇。小さな声だったが、棘があった。指先が震えはじめる。それでも視線は外せずただ立ち尽くした。

 

(でも……これで終わりじゃない)

 

 唇を結び、浮かびかけた涙をこらえる。計画が失敗しても、ここで諦めるわけにはいかない。二人が築こうとしているあの絆。それを見過ごすことは、できなかった。

 

「もう一度……いや、何度でも……」

 

 言い聞かせるように呟き、少女は踵を返した。

 穏やかな朝の光を浴びる木々の間を抜けていくその背に、冷たく鋭い影が、長く伸びていた。

 

(次は絶対に……私が勝つ)

 

 穏やかな景色とは裏腹に、その胸の奥で、何かが静かにくすぶり続けていた。

 

 

 

 

 

 

「はぁ、まったく、あなたって子は……」

 

 香織の深い溜息が、寝室の空気を重く震わせた。龍太は布団にくるまったまま、両親の無言の圧力を全身で受け止めている。帰宅するなり、有無を言わさずベッドに押し込まれた。心配からの優しさ、というより、怒りを理性で抑え込んでいるが故の、強制力に近い。

 

「一言の断りもなく家を飛び出して、一体どういうつもりだったの!」

「……すみませんでした」

 

 ただ、素直に繰り返す。自分がどれだけ浅はかで、心配をかけたか、痛いほどわかっている。反論の余地など、ない。

 香織は眉間の皺を少し緩め、息を吐いて椅子に腰を下ろした。そのとき、短い電子音。龍太は脇に挟んでいた体温計を取り出し、画面を覗き込む。

 

「38.8℃……俺、こんなにあったのか」

 

 他人事のような呟きに、香織が心底呆れて肩をすくめた。

 

「昨日なんて、40℃近かったのよ。よくそんな状態で外に出られたわね。感心するやら、呆れるやら……。左手だって、四針も縫ってるのに」

 

 龍太は、少し得意げな顔をする。

 

「まあ、朝はそこまでじゃなかったんだよ。日頃のトレーニングの賜物だな。左手だって、もう痛く——っいでっ!」

「……反省しなさい」

「すみません」

 

 傷口を軽く突かれ、龍太は布団の中でしゅんと縮こまった。香織はもう一度溜息をつき、肩まで布団をかけ直す。

 

「とりあえず、今日は一日安静にしてなさい。いいわね?」

「信用ねぇな」

「千夏ちゃん、信用できると思う?」

 

 唐突に振られて、隣の千夏が、くすりと笑って即答した。

 

「ふふっ、いえ、全然」

「だ、そうよ」

「……わかってるよ」

 

 渋々の返事に、香織の表情が和らぐ。だが、その空気を断つように、黙っていた隆盛が、真剣な口調で口を開いた。

 

「で、龍太」

 

 低く落ち着いた声が、部屋を引き締める。

 

「前々から話そうと思ってたんだが、ちょうどいい機会だ。お前、転校を考えてみないか」

「——転校?」

 

 突然の提案に、龍太は目を丸くした。

 

「ああ。こういうトラブルがこれ以上続くのは、父さんも母さんも心臓に悪い。学校の事なかれ主義も気に入らない。いっそ、新しい環境でやり直すのも、一つの手だと思う」

「龍くん。今の学校が辛いなら、無理して通う必要はないのよ。一から始めるのも、いい選択肢だと思うの」

 

 真剣な眼差しの両親に、龍太は布団から半身を起こすと、あっけらかんと、しかしはっきり答えた。

 

「嫌だね」

 

 部屋の空気が、一瞬で凍る。隆盛が硬直し、香織が驚きの表情を浮かべた。

 

「……は?」

「だって、俺まだ今の学校でやりたいことあるし。いきなり転校とか言われてもピンとこない。友達だっているんだよ」

 

 あまりにあっさりした答えに、両親は言葉を失った。

 

「お前……今回の件が、どれだけ重い話か、わかってるのか」

「重いとか軽いとかじゃなくて。俺にとって、今の場所が大事なんだ。自分で選んで入った学校だから。それに、どこ行ったって人間関係の問題はついて回るだろ? なら俺は、ここで戦う。……まあ、誰がどんな手で来ようが、負ける気は毛頭ないけどな」

 

 迷いも、気負いもなかった。ただ、静かな決意だけがある。その堂々とした態度に、隆盛と香織が顔を見合わせた。

 

「この子……こんなにしっかりしたこと言える子だったっけ?」

 

 香織が小声で呟く。

 

「いや、俺も驚いてる」と、隆盛も呟いた。

 

「おい、聞こえてるぞ」

 

 そのやり取りに、千夏が思わず「くすっ」と漏らす。

 

「なに笑ってるんすか」

「ごめん。あまりに堂々と『嫌だね』って言うから。……でも、龍太くんらしいなって。私、お父さんに転校の話をされたとき、すごく落ち込んで、どうしようもなかったから。だから、物怖じせずに即答できる龍太くんは、すごいなって」

「……先輩だって、結局はここにいるじゃないですか」

「うん。龍太くんが、いてくれたからね。だから、また一緒に学校へ行こうね」

「……まあ、そりゃ、同じ学校なんですから」

 

 照れ隠しにそっぽを向く龍太。その若く、不器用で、それでいて力強いやり取りを、両親はどこか懐かしいものを見る目で眺めていた。苦しみや悩みを正面から受け止め、時に蹴飛ばしながら、不格好に進んでいく。それは、自分たちがとうに忘れた輝きそのものだった。

 

「……なんだかんだで、強いわね。あの子たち」

「ああ、まったくだ」

 

 取り上げるべきではないのかもしれない。二人の意見が、静かに一致する。隆盛と香織は頷き合い、そっと寝室を後にした。

 残されたのは、千夏の優しい笑顔と——その笑顔から逃れるように窓の外を見る、龍太の、微かに赤い頬だけだった。

 

 

 

 

 

 

「……んで、なんで先輩まで休んでるんですか」

 

 布団に深く沈んだまま、龍太は隣の椅子の千夏へ視線を送った。ラフな部屋着姿で、その手には教科書が開かれている。

 

「んー、そうだなあ……。大事な同居人くんが、また勝手に脱走しないように、見張り番、かな」

 

 悪戯っぽく笑う千夏に、龍太はむっとした顔を隠さない。

 

「脱走って……俺は囚人ですか。もうしませんよ、そんなこと」

「今日は脱走したのに?」

「……それは、もう怒られたからいいじゃないですか」

 

 拗ねた子どものような物言いに、千夏が「くすっ」と漏らす。その声に、龍太はさらに機嫌を損ねたように、布団を頭まで引き上げた。

 

「……ここにいると、風邪うつりますよ」

「大丈夫。私、風邪ひいたことないから」

「なにその、免疫の塊みたいな発言」

 

 くぐもった溜息が、布団から漏れる。ふと、龍太は彼女が熱心に読み込む教科書に気づいた。

 

「……勉強熱心ですね」

「うん。今日の分やってるの」

「……すみません、俺のせいで」

 

 千夏は優しく首を振り、少し照れたように視線を落とした。そして、思い出すように口を開く。

 

「前にね、龍太くんが私のクラスの席にいてくれたこと、あったでしょ?」

「ああ……ありましたね」

「あのとき、すごく不思議な気持ちだったの。隣に龍太くんがいるだけで、いつもの教室が、全然違う場所みたいに感じられて。……だから、もし龍太くんの近くで勉強したら、あのときの気持ちがわかるのかなって」

 

 控えめな笑顔の、不意打ちの言葉。龍太の心臓が、ドクン、と跳ねた。

 

「そ、そうですか……」

 

 動揺を隠しきれない龍太に、千夏が小さく微笑んで、視線を合わせる。その穏やかな瞳に見つめられると、余計に落ち着かない。しばらくして、彼女がふっと声をかけた。

 

「眠れない?」

 

 誰のせいだ、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、適当な理由を口にする。

 

「まあ、さっき起きたばかりなので」

「そっか。じゃあ、少し聞いてもいい?」

「なんです?」

 

 表情が、柔らかいものから、少し真剣なものに変わった。龍太は向き直る。

 

「どうして、あの三人が犯人だってわかったの? それに……どうして、あんな身体で一人で学校へ?」

 

 軽い調子を装っていたが、その瞳には、確かな心配が宿っていた。

 自分のいないところで、彼女が同じ目に遭うのだけは避けたかった。だから早く解決したかった——とは言えそうになく、龍太は一瞬視線を逸らし、困ったように笑う。

 

「まあ、自分で蒔いた種ですから。自分で刈り取らないと、気が済まなかったんです」

「……それで、朝一番に?」

「はい。そしたら偶然、陸上部の連中に会って。倉庫のほうで怪しい奴らが何かしてるって、教えてくれたんです。行ってみたら、案の定でした」

 

 その語り口の自嘲を、千夏は見逃さなかった。ふっと表情を緩めると、おもむろに龍太の頬を、むにゅ、とつねる。

 

「な、なにするんすか」

「もっと頼ってくれてもいいと思うんだけどなー」

 

 優しさの中に、ほんの少し、寂しさが滲んでいた。それに気づいて、龍太は慌てて返す。

 

「す、すみません……」

 

 千夏は満足げに手を放す。その仕草も、どこか柔らかい。

 

「それにしても、気がかりなのは、謎の女の人ですよね」

「そうだね。一応、渚にも噂の出処を聞いてみたんだけど、特定はできなかったみたい。それに……」

「ん?」

「ううん、なんでもない。まあ、そう簡単にはわからないよね。でも……」

 

 千夏は言葉を切り、強い意志を宿した瞳で、龍太を見つめた。

 

「もし、また何かあったら——今度こそ、絶対に一人で抱え込まないでね」

 

 龍太は少し目を丸くして見つめ返し、わずかに頬を染めながら軽く頷いた。

 

「……わかりました」

「うん。お願い」

 

 柔らかく微笑んだ千夏が、突然、彼の右手をそっと両手で包んだ。その温かさに、体がびくりと強張る。

 

「えっ……ちょ、なにを……」

「こうしてたら、少しは寂しくないかなって。……嫌だった?」

 

 朝の光のように、温かな声が耳に届く。龍太は目を泳がせ、顔を布団に隠そうとした。だが、左手は包帯でぐるぐる巻きで動かず、身をくねらせながら、どうにか布団に潜り込む。

 

「……別に、嫌とかじゃ、ないですけど……」

 

 その様子に、千夏は思わず吹き出し、口元に手を当てて微笑む。その笑顔を見ないよう、龍太はさらに深く潜った。

 

「……先輩、一個だけ聞いていいですか」

「どうしたの?」

「その……先輩が言ってた、『大切な人』って……どういう意味、なんですか」

 

 その問いに、千夏の動きが止まった。一瞬だけ視線をそらし、頬を染めて、小さく呟く。

 

「……そ、そのままの意味だよ。龍太くんは……ほら、私にとって、大切な同居人、だから……」

 

 まるで己の心に言い聞かせるように、そう言う千夏。

 龍太が顔を見ようと布団を下ろしかける。すると千夏が慌てて引っ張り戻し、視界を奪った。

 

「い、今は見ちゃダメ!」

「なんで!?」

「なんでも! とにかく、今は見ないで!」

 

 声が裏返り、必死に抵抗するその様子に、龍太は困惑しながらも——胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。

 

 

 

 

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