親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
五月の朝、透き通る青空が頭上に広がり、新緑がそよ風に揺れる。その爽やかな空気の中、龍太と大喜はいつもとは違う道を軽くジョギングしていた。熱が下がったとは言え病み上がりな龍太のペースに合わせる形で。
道端の草木は太陽の光を浴びて輝き、遠くから聞こえる小鳥のさえずりが二人の沈黙を優しく包み込んでいる。いつもは軽口を叩き合う二人だが、今日は特に言葉数が少なかった。
足音だけがリズムを刻む中、大喜が時折ちらちらと龍太の様子を伺う。その視線を感じながらも、龍太は視線を逸らし、無意識にペットボトルを握る手に力を込める。
(話さなきゃ……。でも、なんて切り出せばいいんだ……)
胸の奥に、湿った雑巾のような罪悪感が絡みついている。目の前を行く友の背中を見るたび、その重さは増していく。彼が、鹿野千夏に特別な感情を抱いていることを知っているからこそ、真実を告げる言葉が喉の奥でつかえていた。
「なあ、大喜」
勇気を振り絞って発した声は、どこか探るような、不安げな響きを帯びていた。
「……千夏先輩のことだろ?」
大喜が振り返ることなく、さらりとそう言った瞬間、龍太の鼓動が大きく跳ねた。まるで心の奥底を見透かされたようで、足元がぐらつきそうになる。
「な……なんで、わかるんだよ」
「そりゃわかるだろ。この前のジャージの件はさすがに変だって」
「あ……だよな」
自嘲気味に笑う龍太に、大喜は横目で視線を投げる。その顔には、複雑そうな表情が浮かんでいたが、どこか納得したようでもあった。
「じゃあ、やっぱり──」
「──ああ。俺の家に住んでるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、大喜の足音がぴたりと止まる。横目で見れば、彼の顔には驚愕が広がり、言葉を失ったように呆然としている。
「…………はい?」
しばらくの沈黙の後、ようやく搾り出した声が、普段の大喜らしからぬ戸惑いを露わにしていた。
「だから、その……千夏先輩が、俺の家に居候してるんだよ」
龍太が付け加えるように説明すると、大喜の表情はますます変化していく。最初は理解できていない困惑の色、次に驚き、そして──
「はぁぁぁぁあああっ!?」
突如として放たれた叫び声が、静かな朝の空気を突き破る。近くの電線に止まっていた鳥が慌てて飛び立ち、二人を一瞥して遠ざかっていった。
「お、おい、声でかいって!」
「いやいやいや! でかくなるだろ、普通! どういうことだよそれ! なんで千夏先輩が龍の家に!?」
パニック状態の大喜を前に、龍太はもう立っていられなかった。その場に崩れ落ち、地面に額を擦り付ける勢いで深々と頭を下げる。
「ごめん! 本当にごめん! 隠してて悪かった!」
「いやいや、ちょっと待てって!」
大喜は慌てて龍太の肩を掴み、無理やりその身体を引き起こした。
「龍っ、土下座とかやめろって!」
「でも……大喜が、千夏先輩に憧れてるの知ってたから……言えなくて……」
龍太の声は消え入りそうだった。それでも、正直に話せたことで肩の力が少しだけ抜けた気がした。大喜は一度深く息を吸い込み、ふっと笑った。
「……まあ、そりゃあ……言いづらいわな」
「……うん。ごめん」
続けざまに事の経緯を彼に説明する。千夏が家に住み始めてから約一ケ月半、ようやくその事情を大喜に打ち明けた。しばらくの間、沈黙が流れる。遠くから風に乗って木々のざわめきが聞こえる中、大喜は視線を少し遠くに向けて何かを考えているようだった。そして、やがて龍太の方へ顔を向け、柔らかな笑みを浮かべた。
「でもさ、言ってくれてありがとう」
「え……?」
「龍が、ちゃんと打ち明けてくれたこと、嬉しいよ。まあ、正直、めちゃくちゃショックだけどな。ていうか、死ぬほど羨ましいわ、ちくしょう!」
その言葉には、確かに嫉妬と悔しさが滲んでいた。だがそれ以上に、友を気遣う真っ直ぐな優しさが、龍太の胸に温かく沁みた。
「……本当に、いいのか?」
「いいも悪いも、俺がどうこうできる話じゃないだろ。それに……」
大喜はそう言うと、軽く笑って再び走り出した。
「お前が相手なら、まあ、仕方ないかなって思うしかねえだろ」
その背中を追いかけながら、龍太の胸には、感謝とも申し訳なさともつかない、言い尽くせない感情がまだ渦巻いていた。朝日は、そんな二人の影を、長く、そして寄り添うように地面に伸ばしていた。
朝の体育館には、シャトルがラケットに弾かれる鋭い音が響き渡っていた。その音には、いつもとは違う緊張感が滲み、どこか切迫した雰囲気が漂っている。床を叩くスニーカーの音さえ、普段の軽やかさとは異なり、重さを感じさせた。
コート上では、大喜と、主将である針生健吾のラリーが続いていた。針生の、機械のように正確無比なショットに対し、大喜は獣のような瞬発力で食らいついていく。その動きは常軌を逸しており、見る者を圧倒するほどの気迫に満ちている。だが、その姿には、彼の持ち味であるはずの「しなやかさ」が決定的に欠けていた。
「……大喜、なんか変」
ネット際で練習を見守っていた雛が、ぽつりと呟いた。その視線は、鬼気迫る表情でシャトルを追う大喜に釘付けになっている。普段の彼ならば、どんな厳しいラリーの中にも、遊び心やゲームを楽しむ余裕が垣間見える。だが、今日の彼は、ただひたすらに、何かを振り払うかのようにラケットを振っているだけだった。
隣に立つ匡は、黙ってその光景を見つめている。彼の冷静な視線の奥には、この異様な状況の本質をすでに見抜いているかのような、鋭い光が宿っていた。
「ねえ、匡くん。大喜、どうしちゃったんだろう……」
雛の声には、隠しきれない不安が滲む。匡は答えず、ただ大喜の動きを追い続ける。針生のスマッシュに、大喜は身体を投げ出すようにして飛びついた。
「匡くんってば」
再び促され、匡はようやく口を開いた。しかし、その声にはどこか余韻があった。
「さぁな。大会が近いから、気合いが入ってるんじゃない?」
匡の言葉は淡々としているが、それはどこか意図的だった。彼の瞳には、すでに大喜が何に突き動かされているのか、薄々理解している確信が宿っていた。しかし、それを口にすることはなかった。
「でも、いつもの大喜と、全然違う……」
得できないように、雛は首を傾げる。彼女の目には、容赦ないショットを浴びながらも、がむしゃらにシャトルを追い続ける友の背中が、いつもよりずっと小さく、そして孤独に映っていた。
「本当に大会のせいなの?」
匡は微かに笑みを浮かべ、わずかに肩をすくめた。どこか乾いたその仕草に、雛は違和感を覚えたが、それ以上問い詰めることはしなかった。
「多分ね。いつものように本気でぶつかってるだけじゃない?」
その声には、何かを悟った者の冷静さと、触れてはならない領域を守ろうとする優しさが込められていた。しかし、それを聞いた雛の胸の中に生まれた不安は、消えることはなかった。
「でも……」
雛は言いかけて、言葉を飲み込んだ。大喜が、またシャトルを叩きつける。その一打に込められた情熱は本物だ。だが、その根源にあるものが、純粋な闘争心だけではないことを、彼女もまた、感じ始めていた。
匡は、もう何も言わなかった。ただ、静かにコートを見つめ続けている。自分の内で下した結論を、彼女に告げるつもりはなかった。それが、今の自分にできる、唯一のことだと信じていたからだ。
「針生先輩も本気になってきてるね」
匡が話題を変えるように、穏やかな声でそう言った。雛は一瞬、彼の横顔を見たが、すぐに視線を戻した。
「……そうだね」
その言葉はどこか上の空だったが、匡はそれ以上何も言わなかった。体育館にはシャトルの音だけが響き渡り、その音が二人の間に漂う微妙な空気を埋めていた。
「大喜……」
雛の小さな呟きは、誰にも届くことはなかった。ただ、その瞳には、いつもと違う大喜の姿が深く刻まれていく。匡は、静かにその背中を見守り続ける彼女の横顔を見つめ、心の中でそっと何かを呟いていた。
学校側の「メンタルケア」という名目での配慮により、龍太は一週間以上、学校から遠ざかっていた。高熱で意識が朦朧としていた時間を含めれば、それはまるで別世界での出来事のようだ。久しぶりに見る教室のドアが、やけに重く、そして遠く感じられる。
意を決してドアを開けると、教室内のざわめきが一瞬にして凝固し、次の瞬間、すべての視線が槍のように突き刺さってきた。普段の喧騒とは質の違う、好奇心と、どこか値踏みするような熱気。その異様な空気に、龍太は思わず足を止めた。
「おーい! 龍太じゃん! やっと来たな!」
真っ先に声を上げたのは吉田だった。その明るい声を皮切りに、クラスメイトたちが次々と集まってきた。
「お帰り田中くん!」
「龍太、心配したぞ!」
「体調大丈夫なの!?」
「手縫ったって聞いたぞ!」
矢継ぎ早に浴びせられる質問の嵐に、龍太は苦笑を浮かべるしかなかった。
「いやいや、みんな落ち着けって。大したことじゃないから」
「ふーん……まあ、無事ならいいけどさ」
吉田が潔く引き下がり、他のクラスメイトたちも一旦収まる。だが、それでもちらほらと気にする視線が感じられる。
(みんな心配してくれるのはありがたいけど……話せないんだよな)
学校側から、事の詳細は口止めされている龍太はため息をつきながら席に腰を下ろした。窓から差し込む柔らかな光が、少しだけ心を落ち着けてくれる。隣の吉田が小声で囁いてきた。
「なあ、お前、絶対なんかヤバい目に遭ってるだろ? お前も担架で運ばれたって聞いたしよ。平気かよ?」
「大丈夫だって。もう解決したからさ」
龍太は軽く笑ってかわしたが、吉田は納得していないようだった。それも無理はない。あの倉庫での出来事──突如として閉じ込められた、あの恐怖の時間は、未だに霧のような謎に包まれている。
実行犯たちは一応の謝罪をし、学校側から厳重注意という形で決着がついた。しかし、その背景には龍太の意向が大きく関わっていた。彼らが本当に反省していること、そして事件を大ごとにしたくないという彼自身の思いが、学校の判断に影響を与えたのだ。
だが、未解決のまま残された大きな謎があった。実行犯たちを唆した「女の声」──その正体は、今も掴めていない。彼らの口ぶりからも、誰かが背後で糸を引いていたのは確実だった。
(女の声……一体何者なんだ?)
考え込むうちに、無意識に包帯の巻かれた左手に触れていた。視界の隅に、親友である大喜の背中が映る。彼がどれだけ千夏に憧れているかを知っていた。だからこそ、自分は良かれと思って行動したのだ。千夏との連絡先を交換したのも、すべては彼の背中を押すためだった。
そのはずだった。
なのに、今、自分の心の中にあるのは、大喜への罪悪感と、千夏の笑顔を思い出すたびに疼く、この甘い痛みだ。彼女の何気ない仕草や言葉が、静かに、だが確実に心の領域を侵食してくる。それが、友情とは違う、特別な感情に変わりつつあることに、気づきたくなかった。
(大喜のためだったはずなのに……なんでこんな気持ちになってるんだよ)
罪悪感が胸の奥に突き刺さる。それを紛らわそうと窓の外を見つめると、五月の風が新緑を優しく揺らしていた。深くため息をつき、少し目を閉じる。
そんな時だった。隣の吉田がひょいと身を乗り出して言う。
「そういえば、お前休んでて知らないと思うけど、今日先輩方と合同交流会があるぞ」
「……なにそれ?」
龍太が顔を上げた、その瞬間。教室の賑わいが、また一段、ボリュームを上げた。
これが、止まっていた彼の日常を再び動かし始めるための、ほんの小さな第一歩であることを、龍太はまだ知らなかった。
五月の爽やかな陽光が体育館の窓から差し込む。その中で、運動部の生徒たちが「先輩方と交流会」と称したイベントに集まっていた。雑多な音が反響する広い空間には、上下級生が混じり合い、それぞれの部活ごとにグループを作って談笑している。このイベントは単なるスポーツの場を超え、学年や競技の垣根を越えた「絆作り」を目的としており、コミュニケーションの促進、スキルや経験の共有など学校生活全体をより充実させるための一環と言えるだろう。
その喧騒の中心から少し離れた場所に、ひときわ目を引く存在がいた。
鹿野千夏──。
まるで彼女の周りだけ、スポットライトが当たっているかのようだ。何気ないジャージ姿でさえ、彼女が纏うとどこか洗練された雰囲気を帯びる。その柔らかな笑顔は、見る者の心を武装解除させ、声をかけた男子たちが一様に顔を赤らめては、肩を落として戻ってくる。その一連の流れを、龍太は少し離れた場所から、どこか他人事のように眺めていた。
(ホント人気者よな……)
男子たちの何人かが勇気を出して彼女に話しかけるものの、肩を落として戻ってくる姿が見える。その理由は明らかだ。この交流会で彼女と同じチームになれなかったという失望感に違いない。特にバドミントンのダブルスでは、男女でペアを組む可能性がある。もし千夏とペアになれたら、まさに宝くじに当たったかのような幸福感を味わえるだろう。
千夏は今、女子バスケ部の仲間たちと談笑している。聞き役に回り、愛らしく首を傾げるその仕草一つ一つが、彼女の周囲に温かな空気を作り出していく。
「相変わらずの人気だな」
隣で、匡が感心したような、それでいてどこか乾いた口調で呟いた。
「だな」
彼女の周囲に自然と人が集まり、楽しげな笑い声が次々に生まれる。それを横目で眺める龍太に、匡がふとボソリと漏らす。
「大喜に、話したんだな」
唐突なその言葉に、龍太の肩がわずかに動く。
「……よくわかったな」
「今朝の練習、空回りしてたから。何かを振り払おうとしてるみたいだった」
「……そっか」
匡の淡々とした言葉に、龍太は小さく息を吐いた。何かを吐き出したかったのかもしれないが、言葉にはならなかった。それを察したように匡が言葉を続けた。
「まあ、でも、仕方のないタイミングだったと思う。あのままじゃ龍はマドンナのジャージ泥棒だから」
「いや、それはそうなんだけどさ」
「気にしなくていいと思う。龍は何も悪くないよ」
その言葉には無駄な装飾がなく、それがかえって龍太の心に染み入った。
匡の視線が自然と体育館の隅に向けられる。その先には、大喜と雛が話している姿があった。雛が何か冗談を言ったのだろう。大喜が肩をすくめながらも笑っている。その様子を眺めながら、匡が淡々と言葉を紡ぐ。
「多分蝶野さん、大喜のこと好きだと思う」
「えっ……マジで!?」
驚きで声を上げた龍太は、慌てて口元を押さえた。匡は相変わらずの落ち着きで頷く。
「確証はないけど」
「……なら、俺、結構複雑なことしちゃったんじゃないか?」
「どうだろう。その気持ちに気づいたのは最近だと思うし」
「そうなのか」
匡の言葉に、龍太は曖昧に頷くことしかできない。大喜と雛の姿を見つめていると、匡が静かに、哲学的な問いを投げかけた。
「憧れと恋って何が違うんだろうな」
「……随分哲学的な話だな」
その問いに、龍太は自然と匡の顔を覗き込む。
「実際、大喜の感情がどっちなのかは分からないけど、遠くから見て『すごいな』『綺麗だな』って感動して、それで終わるのなら、それは憧れてるだけなのかもね」
「憧れ……ね。なら、恋は?」
「さあ。一緒にいて楽しいとか、安心するとか側に居たいって思うことなんじゃない?」
「……匡って」
その言葉の奥に、何か深い思いが込められているように感じ、龍太は思わず息を呑んだ。だが、その問いの答えを考える前に、開始を告げるアナウンスが体育館に響き渡った。
それを聞き出そうとして、アナウンスに遮られる。どうやら開始の合図らしい。
この交流会では、生徒たちに個々のレベルや希望を考慮して割り当てられた「競技スケジュール」が記載された紙が配られる仕組みになっていた。この紙には、1日を通して参加する複数の種目と、それぞれの時間帯や場所が記載されている。運営側が事前にアンケートや部活動の経験を参考に、初心者と経験者がバランスよく混ざるように調整している。例えば、「第1セッション:ミニサッカー(校庭)」「第2セッション:バドミントン(第二体育館)」というように、一人一人異なる競技の組み合わせが与えられるのだ。
紙は体育館入り口でスタッフから配られ、受け取った生徒たちはそれを見て、自分がどの競技に参加するのか確認する。運営側が全員の種目参加バランスを調整しているため、生徒たちは一人で複数の競技を体験しながら、さまざまな仲間と新しい交流を楽しめる。
「匡何番?」
「『42』……あ、一緒のチームだな」
「そうみたいだな。というより、龍。ちゃんとアンケート答えたの?」
「いや、適当」
「……はぁ、なんか、龍居るだけで目立ちそうなんだけど」
「何で嫌そうなんだよ、てか、そんなことねえだろ」
外の競技行く者たちは次々と体育館を後にする。ふと感じた視線に顔を上げると、千夏がこちらを見ている。その視線に一瞬たじろぐ。千夏は唇を動かして「な・ん・ば・ん」と問いかけてくる。その仕草に、龍太は小さく「17」と指で伝える。すると千夏の顔がぱっと明るくなり、笑顔が花開くように広がった。
あまりにもそれは、現実を超越した圧倒的に美しい世界だった。龍太は思わず目をそらしてしまった。隣から匡の声が静かに響く。
「……やっぱり付き合ってる?」
「付き合ってねえって!」
龍太の抗議をよそに、体育館には次第に熱気が立ち込めていく。それぞれの思いを胸に、交流会は新たなステージへと進んでいった。
体育館の空気はいつもより和やかで、どこか穏やかだった。バスケットボールの弾む音が響き、声を掛け合う選手たちの様子が、試合というより一つのイベントのような雰囲気を作り出していた。いつもの鋭い動きや競技特有の張り詰めた緊張感はなく、どこかほっとする空気が流れていた。
試合前の説明で、ルールが発表される。経験者はシュート回数が3回まで、しかも未経験者からのパスを受けたときのみ得点が認められる。それを聞いた瞬間、会場の隅々で驚きと笑いが広がる。部員たちは一様に苦笑いを浮かべながらも、すぐにその意図を理解していた。この交流戦は、誰もが主役になれる舞台であり、経験者が輝くだけの試合ではないのだ。
千夏は何度かボールを受け取りながら、視線を周囲に向けた。未経験者たちが必死にボールを追いかける姿に、自然と微笑みがこぼれる。
試合が始まり、プレイが進む。経験者たちは積極的にパスを回し、未経験者が活躍できるように全力でサポートしていた。千夏も自分がプレーするたびにボールを未経験者に預け、その動きをフォローする。彼女が軽やかに動くたび、チーム全体に安心感と一体感が広がっていくのが感じられた。
途中、千夏は皆の出場機会を考慮し、自らベンチに下がる。彼女の隣には、病み上がりを理由に控えに回っている龍太が座っていた。二人は特に言葉を交わすこともなく、コートの様子を見つめていたが、その間にも場面ごとに感じる温かさが伝わってきた。
試合が進むにつれ、未経験者たちのプレイが明らかに成長していくのが分かった。最初はおずおずとしていた動きが徐々に力強さを増し、声も自然と大きくなっていく。その変化を目にした千夏は、小さく拍手を送りながら、柔らかな笑顔を浮かべる。
「みんな楽しそうだね」
千夏がぽつりと呟く。その声に、隣で同じくコートを見ていた龍太が頷いた。
「そうですね。先輩も楽しそうでしたよ」
「うん。勝ちにこだわるのも大事だけど、こうやって、みんなで一つのボールを繋いでいくのも、素敵だよね」
その言葉には、彼女らしい、誰をも否定しない優しさが滲んでいた。龍太は、その横顔を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「そうですね。皆予選で切羽詰まってるでしょうし、良い息抜きになりますね」
「ホントにね」
その時、未経験者の一人がシュートを決めた。観戦していた者の歓声と拍手に包まれ、千夏もその場で立ち上がって拍手を送る。
「さて、と。俺も、そろそろ行きますか」
龍太が不意に立ち上がると、千夏は驚いたように彼を見上げた。
「体調は大丈夫?」
「問題ないです。先輩はどうしますか? まだ出れる時間ありますけど」
「うん! 一緒に出たい!」
即答する彼女の、あまりにも眩しい笑顔に、龍太は一瞬、目を逸らした。胸の奥が、甘く、そして苦しくざわめく。その感情の正体に気づかないふりをしながら、彼はコートへと足を踏み入れた。
試合が再開され、初心者の一人がボールを受け取る。だが、どうすればよいのか迷い、足を止めてしまった。焦りながら目を泳がせるその姿に、相手ディフェンダーが徐々に迫っていく。
「ここだよ!」
千夏の明るい声が響く。彼女は自信に満ちた笑顔で手を挙げ、初心者を安心させる。その声に促されるように、ボールが彼女の方へ飛んだ。千夏は軽快な動きでキャッチし、すぐに周囲の状況を確認する。彼女の視線は一瞬で龍太を捉えた。
千夏は龍太の右手側に向け、柔らかいパスを送り出す。龍太は片手で正確にボールを受け取ると、軽くドリブルを始めた。しかし、すぐに相手ディフェンダーが彼の前に立ちはだかる。龍太は焦る様子もなく、一瞬視線を未経験者の方へと向ける。
龍太が頷き、初心者の一人が戸惑いながらも前に動き出す。その動きを見た龍太は、片手で優しくパスを送る。ボールは少しふらついたものの、初心者はなんとかキャッチし、すぐに千夏に向けてボールを返した。
千夏はそのボールを片手で受け取り、軽快なステップでディフェンダーをかわしていく。その動きには一切の無駄がなく、観客から感嘆の声が漏れる。彼女が前進するたびに相手のディフェンスは混乱し、次第にスペースが生まれていく。
そして、龍太はそのタイミングを見逃さなかった。彼女の動きに呼応するように、空いたスペースに向かって走り出す。その動きに気づいた千夏は、すぐさま視線を龍太に送り、スムーズにパスを放った。龍太は右手一本でそのボールをキャッチすると、間髪入れずシュートの体勢に入る。
(……なるほどねっ)
追い込まれたその瞬間、龍太の意識は極限まで研ぎ澄まされていた。彼は、シュートを打つのではなく、誰もいないはずのスペースへと、ボールをふわりと放り投げた。
そこには、まるで予見していたかのように、千夏が走り込んでいた。ボールを掴み、美しいフォームでジャンプする。だが、彼女にはもうシュートを打つ権利がない。
「千夏もうシュート打てないんじゃ──」
相手チームの渚が呟く。その疑念が彼女の中で確信に変わるよりも先に、近くで風が吹いた。
弧を描いたボールはリングを目指さずバックボードへ向かった。ボールが跳ね返る。その意図が理解できない観客のざわめきが広がる中、千夏は静かに確信していた。
(――きっと、そこにいる)
根拠のない自信だった。
けれど、それが彼女の中で揺らぐことはなかった。
あえてその感覚を言葉にするように、彼女は声を上げる。名を呼んだ。柔らかく澄んだ音叉の音色を。
──龍太くん!
その声が響いた瞬間、龍太はすでに跳躍していた。跳ね返ったボールを片手で掴み、そのままリングへ豪快に叩き込む。ドン、と響く音が体育館全体に広がり、それと同時に見ていた者達から割れんばかりの歓声が湧き上がった。
着地した龍太の視線の先には、満面の笑みで手を挙げる千夏の姿があった。その笑顔に引き寄せられるように、龍太もまた、小さく手を挙げて応える。
「……ちょっと、人使い荒すぎません?」
「ごめん、きつかった?」
「冗談です。ナイスパス、流石ですね」
「ふふっ、こんな無茶なパスに応えてくれるの、龍太くんくらいだよ」
「そんな事ないと思いますけどね」
そのまま笑顔でハイタッチする。二人の間には言葉のいらない信頼が漂っていた。
そんな姿を見た渚は、懐かしさで胸がいっぱいになり、微かに口元を緩める。
「全く……妬けるじゃんか。というより、アレはもう経験者扱いでしょ」
初心者を巻き込みながらも、息ぴったりな連携を見せる二人。その姿は、観客たちに驚きと感動を与えると同時に、試合の熱気をさらに高めていった。
学校全体が活気に満ちたその日、校内はまるで祭りのような賑わいを見せていた。上級生と下級生が互いに交わる交流戦の舞台となるのは、体育館だけにとどまらなかった。生徒たちの声が響く広い校庭、そして他の施設も使いながら、学校全体がイベントの熱気に包まれていた。
まず、メイン会場である第一体育館は、バスケの試合専用に使われていた。広々としたフロアには仮設の観覧席が設けられ、試合を待つ生徒たちが次々と集まる。ハーフコートが二面に分けられ、それぞれで上級生と下級生が混じったチームが短い試合を繰り広げていた。10分間という制限時間内に全力を尽くす姿に、観客から自然と声援が上がる。
一方、第二体育館ではバドミントンや卓球が進行していた。こちらも交流戦の一環として、上級生と下級生がペアを組んで対戦形式を採用。激しいラリーが続く卓球台の周りでは、観戦者たちが息を飲んで見守り、ラケットがシャトルを捉える乾いた音が体育館に響き渡る。
校庭ではさらに多彩なプログラムが展開されていた。簡易ゴールが設置され、屋外バスケやミニサッカーが進行中だ。空の下で体を動かす生徒たちは、風に吹かれながらも真剣そのもの。時折聞こえる歓声と笑い声が、心地よい青空に溶け込んでいく。
しかし、交流戦はスポーツだけに限らない。教室では文化系の活動も行われていた。クイズ大会やディスカッションを通じて、日頃話す機会の少ない上級生と下級生が言葉を交わし、互いに新たな一面を発見している。参加者たちは、真剣に考えながらもリラックスした雰囲気の中で楽しんでいた。
その一室で、蝶野雛と猪股大喜は真剣な表情で頭を抱えていた。目の前のクイズボードが、二人の頭を容赦なく悩ませている。
「……全然わかんない」
「……同じく」
雛が深いため息をつけば、大喜も続けるように肩を落とす。周囲から「頑張れよ!」という声援が飛ぶが、二人にはそれどころではない様子だ。
「これじゃ授業と変わらないじゃん!」
耳の後ろで二つにまとめた髪を揺らし、蝶野雛は顔を上げて叫んだ。
「同感……はぁ、体育館行きたい」
「あー、バドもあるもんね。さすが、バドバカ」
「バカつけなくても良いだろ」
「えー、なかったらただの『バド』じゃん」
あはは、と雛は笑う。その笑顔に、大喜も少しだけ気持ちが軽くなる。けれど、その顔がふと曇る瞬間を、雛は見逃さなかった。
「ねぇ、大喜」
「ん?」
「……龍太と、何かあったでしょ」
「えっ……いや、別に何も」
「嘘。顔に書いてある。朝からずっと、心ここにあらずって感じだし、今日は龍太と全然話してないよね?」
鋭く指摘され、大喜は返事に詰まった。雛がじっと見つめる視線に耐えきれず、大喜は小声で話し始めた。
「……千夏先輩と龍、今一緒に住んでるんだって」
「えっ!? そ、それって……同棲!?」
驚きのあまり声が大きくなり、教室の他の生徒がちらりと視線を向ける。慌てて雛が「ごめんなさい」と手を振って誤魔化した後、大喜は首を横に振った。
「いや、そういうんじゃないらしい。先輩の家の事情で、ただの居候だって。付き合ってるとか、そういうのは絶対にないって言ってた」
「……そっか」
雛は頷きながらも、胸の奥でざわめく感情を押し殺すようにボードへ視線を戻した。その横で、大喜はぽつりと言葉を漏らす。
「この間、龍があんなことになった時さ……誰よりも必死だったの、千夏先輩だったんだ。あの時の先輩の顔、忘れられない。付き合ってないって言ってたけど……少なくとも、千夏先輩は、龍のこと、めちゃくちゃ大切に思ってるよ」
大喜の声には、悔しさと劣等感が混じっていた。それが、雛の胸に少しずつ重く響く。
「やっぱり龍って凄いよな。器用で、スポーツも何でもできて、雑誌に載るくらい有名で、その上で驕らない。好かれるのが良く分かるよ。ホント、2人はお似合いだよな」
雛は思わず大喜を見つめる。その横顔に映る影が、彼の抱える感情の重さを物語っているようだっ。雛は自分でも気づかないうちに、唇を開いていた。
「でも、大喜だって、すごいよ」
その声は静かだったが、確かな意志が込められていた。大喜が、驚いたように顔を上げる
「私、ちゃんと見てる。インターハイに行くために、誰よりも遅くまで自主練して、どんなにきつくても絶対に諦めない。それって、誰にでもできることじゃない。本当にすごいことだよ」
言葉を聞いた大喜の目が見開かれる。彼女の視線はぶれることなく、まっすぐに彼を捉えていた。雛はもう一度深く息を吸い込むと、続けた。
「大喜は、いつだって真っすぐで、努力家で、優しくて……。大喜には、大喜だけの良さがあるんだから、もっと自信を持ちなよ! 私からしたら、龍なんかに負けないくらい…………か、か、カッコいいって、思う、から……っ!」
その言葉が教室の静けさを一瞬切り裂く。自分で言ったことの意味に気づいた雛は、顔をぱっと紅葉よりも赤く染め上げた。
「ちょ、コッチ見るな!」
「いや、理不尽だろ!? って、叩くな!」
頬を染めたままクイズボードで大喜を叩く雛と、照れ臭そうにそれを受け止める大喜。
「こ、この雛様が認めてるんだから、ちょっとは堂々としてればいいの! わかった!?」
「……おう」
気恥ずかしくなった雛は「早く問題解くよ!」とボードを持ち上げる。隣で忙しないその仕草に、大喜は思わず小さく笑った。
「……ありがとな、雛。なんか、元気出た」
「べ、別にお礼なんて……」
「まさかりんご飴でヨダレ垂らしてた雛に褒められる日が来るなんてな」
「い、いつまで覚えてるのよそれ! あれは忘れて!」
「いやだ、絶対に忘れない。女子のあんな顔、初めて見たし」
「この、このっ!」
さらにボードを叩こうとする雛を制しようとする大喜。その微笑ましいやり取りに、周囲の生徒たちからもクスクスと笑い声が漏れる。
『そこの2人、イチャイチャしてないで早く問題解いて下さい』
突然飛び込んできた声に、二人は同時にビクリと肩を震わせた。そして、顔を真っ赤に染めたまま、慌ててクイズボードに向き直る。
体育館の中が一段落し、時計の針が昼休憩を告げる頃、体育館から校庭にかけての風景がゆるやかに変わり始めた。試合の熱気に包まれていた体育館も、今は少しひんやりした空気が心地よく、プレイを終えた生徒たちが徐々にお弁当や購買で買ったパンを手に集まり始めている。
校庭の大きな木の下では、上級生と下級生が混じり合い、シートを広げて輪になって座る姿があちこちで見られた。交流会という名目ながら、すでに親しい者同士で固まるグループもあれば、今回のイベントで新たに知り合った者同士がぎこちない笑顔を浮かべながら言葉を交わす様子もあった。
しかし、そんな中で、龍太は一人いつも通りの屋上を目指していた。
階段を登り屋上の扉を開けると、ぽかぽかと暖かい春の日差しが全身を包み込む。柔らかな風が髪を撫で、遠くで響く鳥のさえずりが聞こえた。龍太は一歩踏み出し、深く息を吸い込む。
(やっぱりここが一番落ち着くな)
深く息を吸い込み、強張っていた肩の力が抜けた、その瞬間。背後からかけられた声に、龍太の心臓が文字通り飛び跳ねた。
「屋上は、気持ちがいいね」
「ぬおぉぉおおおっ!?」
悲鳴に近い声を上げながら振り返ると、春風に栗色の髪を遊ばせ、鹿野千夏がそこに立っていた。ラフなジャージ姿でさえ、彼女が纏うと、まるで映画のワンシーンのように優雅に見える。
「い、いつからいたんですか!?」
「んー、途中からかな。階段を上る龍太くんの後ろ姿が見えたから、つい、ついてきちゃった」
「なら声かけてくださいよ!」
龍太の抗議に、千夏はきょとんとした表情を浮かべ、そして「ふふっ」と花が綻ぶように笑った。その無邪気な笑顔に、彼の苛立ちは一瞬にして霧散していく。
「……こんなところで油売ってていいんですか」
女バスの仲間たちと昼食を共にしなくていいのか──そんな含みのある問いに、千夏は軽く首を振る。
「みんなには、友達と食べるからって言ってあるよ」
「……そうですか」
自分が選ばれた特別感を感じてしまい、慌てて心を説き伏せた。
「一緒に、食べてもいい?」
「……ついてきておいて、今更じゃないですか」
「ふふっ、ありがとう」
千夏はいつもの定位置に腰を下ろすと、隣のスペースを、ぽん、と軽く叩いてみせた。その何気ない仕草に、龍太は心臓が妙な音を立てるのを感じながら、少しだけ間を空けて隣に腰を下ろす。
互いに弁当箱を広げ、小さく手を合わせる。千夏の手作りの卵焼きを口に運ぶと、優しい出汁の味がじんわりと広がった。
ふと、隣からの強い視線を感じて顔を上げる。千夏が、にこにこと、ただひたすらにこちらを見つめていた。
「な、なんですか?」
「ううん。相変わらず同じ中身だなーって」
「そりゃまあ……」
目線が弁当ではなくこちらに向けられている気がして、龍太はわざとらしく視線をそらした。そんな龍太の態度に、千夏はくすくすと笑う。
「今日ね、すごく楽しみにしてたんだ」
「交流会ですか?」
「うん。それもあるけど、龍太くんが久しぶりに登校できるから、一緒にバスケできたらいいなーって思ってたの」
「俺はすっかり忘れてましたけどね」
瞬間、千夏はぷくっと頬を膨らませ、少し拗ねたようなまなざしを投げてくる。
「昨日、晩御飯の時に、ちゃんと言った気がするんだけどなあ」
「あ、いや、冗談ですって。ちゃんと覚えてましたよ」
龍太は思わず冷や汗をかいた。じーと千夏の視線が飛んでくる。
「ホントかな?」
「……す、すみません、忘れてました」
「ふふっ、冗談だよ」
彼女のからかうような笑顔に安堵しながらも、龍太の心は晴れない。大喜への罪悪感、事件の謎、そして、この目の前にいる彼女に対して抱く、名前のつけられない感情。それらが渦となって、胸の奥で重く渦巻いていた。
「あっという間だったね」
「バスケですか?」
「うん。欲を言えば龍太くんともう少しバスケしたかったな」
「家でできるじゃないですか……というよりここ最近自宅待機命じられて、殆ど一緒にバスケしてる気がしますけど」
「それはそうだけど……学校って、特別じゃない?」
千夏はそう言いながら、ふっと視線を遠くに向けた。その横顔は、どこか儚げに見える。
「龍太くん」
「?」
「たくさん思い出、作ろうね」
彼女の声は柔らかく、けれどどこか遠くを見つめているようだった。驚いたように顔を上げた龍太の視線は、まっすぐに前を見つめる千夏の横顔を捉えた。その表情は穏やかで、少しだけ寂しげだった。
「……そう、ですね」
龍太はなんとか返事をしたものの、自分の声がどこか遠く感じた。千夏は小さく微笑み、風にそっと溶けるような空気を纏ったまま、視線を先へと戻した。
彼女の言葉が残した余韻に、龍太の心はそっと引き寄せられていくようだった。
(思い出……1年、違うもんな)
体育館の隅、明るいコートの喧騒から少し離れたその場所で、蝶野雛は膝を抱え、顔をうずめていた。耳元まで真っ赤になった顔を隠すように、膝小僧に額を押し付けている。遠くから聞こえるバスケットボールの弾む音や、観客たちの歓声が心地よいはずなのに、今の彼女にとってはまるで別世界の出来事のようだ。
(なんであんなこと言っちゃったの!?)
頭の中では、たった今の自分の言葉が何度も繰り返される。「龍なんかに負けなくらいか……か、かカッコいいと思うからっ!」──その一言が鮮明に蘇るたび、胸がキューっと縮こまるようだった。雛は両手で頭を抱え込み、膝をぎゅっと引き寄せる。
「もぉー……私のバカバカ!」
小さな声で自分を責めるが、言葉を飲み込むたびに心拍数が上がる。あの時の大喜の驚いた顔が脳裏に浮かんで、余計に恥ずかしくなる。顔から火が出そうな思いに、雛は足元をパタパタと動かしながら、ひたすら羞恥心と格闘していた。
(絶対、からかわれる……もう体育館のど真ん中なんて歩けない!)
彼女の耳には、コートでプレイを続ける大喜の声が遠くから聞こえてきた。それだけで胸が高鳴り、再び顔が熱くなる。意識しないようにしようと思うほど、彼の笑顔や真剣な横顔が頭に浮かんでしまう。
「うぅ……」
とうとう雛は小さくうめき声を上げてしまう。体育館の隅で小さく縮こまる彼女の様子を、周囲の生徒は気にも留めず、交流戦の熱気に夢中だ。
その時、雛の前にスニーカーがぴたりと止まった。顔をうずめていた彼女がゆっくりと顔を上げると、ショートカットの女子生徒──羽場優奈が不思議そうに首を傾げながら立っていた。新体操部の3年で雛の先輩にあたる人物だ。
「何してるの? こんな隅っこで」
「……なんでもないです」
咄嗟に顔を背けるが、優奈はそんな雛の抵抗などお構いなしとばかりに、その隣にひょいと腰を下ろした。その仕草には、すべてを悟っているかのような、悪戯っぽい余裕が漂っている。
「さっきのクイズ大会、近くに居たから見てたよ」
「っ!」
その一言に雛の身体が硬直する。顔が一瞬で熱くなり、膝に隠れるように頭を埋めた。
「いやー、まさか、白昼堂々、愛の告白が飛び出すとはね。青春って感じで、お姉さんは胸が熱くなっちゃったよ」
「ち、違います! そんなこと言ってません!」
雛は慌てて顔を上げ、手をバタバタさせる。だが、優奈はそんな雛をからかうようにニヤリと笑った。
「まぁまぁ、あんだけ楽しそうだったし、結果オーライじゃない?」
「……まぁ、そうですけど」
消え入りそうな声でそう呟くと、優奈は不意にポケットから小さな紙を取り出した。
「はい、これ」
「……え?」
差し出されたのは、組み合わせ番号が書かれた紙。雛はそれを受け取りながら、首を傾げた。
「これって……」
「次のバドミントン、私、猪股くんとペアみたいなんだけど。……良かったら、代わってあげる」
「えっ!? なんでですか!?」
驚いて声を上げる雛に、優奈はさらりと答える。
「だって、そっちのほうが面白そうでしょ? 雛も猪股くんも、あんなに楽しそうだったし。こっちも気持ちよく譲れるってもんよ」
「そ、そんな理由で……」
雛は困惑しつつも、紙に書かれた数字をじっと見つめた。これが本当に優奈の言う「譲り」なのだと実感し、胸の中で小さな不安と喜びが交差する。
「ほら、せっかくだから、愛、育んでおいでなさいな」
「っ!」
優奈が悪戯っぽく笑いながらそう言うと、雛は瞬時に顔を赤らめた。手元の紙を慌てて隠し、何か言い返そうとするが、うまく言葉が出てこない。
「そ、そんなこと言わないでください! そ、そういうんじゃ……」
「はいはい、そういうんじゃないね。でもさ、どう見ても楽しそうだったよ。だから素直に受け取っときな」
優奈は立ち上がり、軽く手を振ると体育館の中央へと戻っていった。その背中を見送りながら、雛はそっと紙を握りしめる。
「もう……先輩、からかいすぎですよ」
ぽつりと呟いたその声は、喧騒の中に溶けて消えていった。紙を大事そうにポケットにしまい、雛はそっと体育館の中央に向けて歩き出した。その胸の中には、かすかな期待と、まだ消えない恥ずかしさが入り混じっていた。
広々とした校庭では、交流会としてのミニサッカーの試合が行われていた。普段はバスケ部のエースとしてコートを駆ける千夏も、この日は軽い気持ちでその輪に加わっていた。……はずなのだが。
「千夏! 前、前! あ、もう行っちゃったよ!」
「あ、う、うん……ごめん!」
仲間の声に慌てて返事をするものの、動きはどこか散漫だ。ボールを追う足取りは軽快さを欠き、視線も時折宙を漂っている。いつもなら誰よりも俊敏に反応する彼女のプレーに違和感を覚えた仲間たちが、ちらりと視線を交わす。
そんな中、バスケ部で同じく参加していた渚が、タイムの間を見計らって千夏に近づいてきた。
「ねえ、千夏。今日はどうしたの? なんか変だよ」
「え、そ、そんなことないよ! いつも通りだよ?」
千夏は無理に笑顔を作って首を横に振るが、その表情は硬く、説得力に欠けている。渚は、じとーっとした目つきで彼女を見つめ、腕を組んだ。
「その『いつも通り』が、全然いつも通りじゃないって言ってんの。……さては、何かあったでしょ?」
「な、なんでもないってば! 本当に!」
千夏の声は、どこか焦りが滲んでいた。渚はその反応を見て、意地悪そうに笑みを浮かべる。
「あー、はいはい。さては、彼のことでしょ?」
「えっ、ち、違う! 別に龍太くんは、何にも関係ないから!」
顔を真っ赤にして、全力で否定する。その、あまりにも分かりやすい反応に、渚は確信を得たように深く頷いた。
「……ふーん。私、まだ名前出してないんだけど?」
「そ、それは……その……」
渚は面白がるように千夏の肩を軽く叩くと、もう一歩踏み込む。
「で? 何があったの?」
「別に……大したことじゃないよ。ただ、最近なんだか悩んでるみたいで。多分、大喜くんとのことなのかなって」
千夏は少し俯きながら、ぽつりと呟いた。その言葉には微かな不安が滲んでいる。
「大喜くんって、あの真面目そうなバドミントン部の子?」
「うん。いつも朝練、二人一緒にしてるんだけど……最近、二人の間の空気が、少しだけ、ぎこちない気がして」
「ふーん、それで千夏はどうしてんの? 助け舟とか出したりしてるの?」
「ううん、何も……」
「見守るだけ、ねえ。……それってさ、結構、寂しくない?」
渚のストレートな問いに、千夏は微かに笑った。それは、肯定とも否定とも取れない、曖昧な笑みだった。
「……少しだけ、ね。でも、龍太くんは、きっと自分で解決できる人だから。早く、いつもの二人に戻るといいなって、思うだけで」
その健気すぎる言葉に、渚は深いため息をつく。
「いやいや、あんた、聖母か何か? まあ、それで上の空だったわけね。……なんというか、あのバスケ馬鹿だった千夏が、こうも分かりやすく恋する乙女になるなんてねえ」
「……えっ!?」
その瞬間、千夏の顔に恥じらいの色が溢れる。声を上げて否定しようとするが、うまく言葉が出てこない。
「な、何言ってんの渚! 全然違うから!」
「はいはい、そのセリフ、もう聞き飽きましたー」
渚が笑いながら言ったその瞬間、タイミング悪くボールが千夏の足元に転がってきた。反射的に蹴り出したそのボールは──見事に自陣のゴールへ。
「……え?」
「えええーっ!? 千夏っ!?」
呆然と立ち尽くす千夏と、爆笑する渚。そして周りの選手たちも、笑いを堪えられず声を上げた。渚はお腹を抱えながら、千夏の肩をバンバンと叩く。
「千夏、これだからアンタは可愛いんだよ!」
「も、もう! 渚、笑わないでよ!」
千夏は顔を真っ赤にしながら抗議するが、その姿さえも微笑ましく、渚の笑いは止まらなかった。
タイムが終わりに近づき、渚は息を整えながらポケットから何かを取り出す。
「あー、ついでにこれ渡しとくね」
「え? なにこれ?」
千夏が手渡された小さな紙片には、「68」という数字が書かれている。意図が分からず首を傾げる千夏に、渚はニヤリと笑って答えた。
「次のバドミントンの組み合わせ。あんたのクイズ大会のやつと、交換ね」
「え、でも、バドミントンってダブルスでしょ? 知らない人だと、緊張するし……」
「相っ変わらずの人見知りね。大丈夫。お相手は、あんたの王子様だから」
「えっ」
「私はバド苦手だから、千夏の代わりにお勉強してくるわ。だから、千夏は、思う存分、愛を育んできなさいな」
渚はからかうようにウインクしてみせる。千夏は「もーっ!」と抗議の声を上げるが、手渡された紙をぎゅっと握りしめた。
「……ありがとう、渚」
「頑張んなよ! 何かあったらいつでも話聞くからさ!」
渚の言葉に、千夏は小さく頷いた。その瞳には、次のステージへの期待とほんの少しの緊張が映っているのだった。
交流戦は最高潮の盛り上がりを見せていた。体育館の中は生徒たちの笑い声や歓声であふれ、どのコートも熱気に包まれている。その中でも、ひと際注目を集めるコートがあった。
陸上部のエース・龍太、女子バスケ部のエース・千夏、新体操部のエース・雛、そしてバドミントン部の次期エース(?)・大喜。各部活のスターが集結したこの試合は、生徒たちの間で「夢のペア対決」と呼ばれ、自然と人だかりができていた。
「……ってか、なんでお前らが組んでんだよ」
コートを挟んで対峙する一年コンビに、龍太が少し眉を寄せながら疑問を口にする。
大喜が苦笑しながら肩をすくめて答えた。
「俺のペアだった羽場先輩が体調崩しちゃって、雛が代役になったらしい」
羽場先輩──新体操部の三年生であり、上級生と下級生がペアを組む交流戦の本来のルールに基づけば、大喜のパートナーだったはずの人物だ。その交代劇に納得したように龍太が軽く頷くと、雛が自信満々の笑みを浮かべてラケットを構えた。
「そーいうこと! だから大喜、絶対勝つよ!」
「おう」
その弾むような声に、大喜もまた、覚悟を決め直したようにラケットを握り直す。
「だそうですよ、先輩」
「うん、負けられないね」
龍太の軽口に、千夏も柔らかな笑顔で応える。だが、その瞳には、どこか慣れない競技への緊張が滲んでいた。龍太は、そんな彼女の様子を、思わずじっと見つめてしまう。
「……ど、どうしたの?」
「いえ……先輩、本当にバドミントン、できるんですか?」
「むっ……! 今、ちょっと馬鹿にしたでしょ?」
「滅相もございません! ただ、純粋な興味で……」
「こう見えても、運動神経には自信あるんだから!」
千夏はぷくっと頬を膨らませ、ラケットを構え直す。その仕草の愛らしさに、龍太は思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。
「いくよー」
試合開始の合図とともに千夏がシャトルを構えた。彼女は真剣そのものの表情でラケットを握り、シャトルを軽く上に投げる。
「っ」
振り抜いたラケットは空を切り、シャトルは……そのまま地面へポトリ。
一瞬、静まり返る体育館。慌てて千夏は再びシャトルを拾い上げ、構え直す。そして、同じように投げて振り抜くが──今度もシャトルはラケットをかすりもせず無情に床へ。
観客から温かい眼差しが飛んでくるのを自覚したのか、千夏の頬が紅潮する。
「や、やっぱり先輩って不器用ですね」
龍太が吹き出しながら言うと、千夏は頬を膨らませて抗議する。
「さ、サーブだけ苦手なの!」
本来なら相手へのポイントとなるが、未経験者はサーブでの相手へのポイント加算はなく、何度でもチャレンジできる。
龍太は少し彼女に近づきながら、優しく伝えた。
「左手は、動かさなくていいんです。ただ、落とすだけ。ラケットを、シャトルに当てにいくイメージで」
「う、うん……やってみる」
言われた通りに修正した千夏のラケットが、ついにシャトルを捉える。弧を描くように空中を飛ぶその姿に、千夏の顔がぱっと明るくなった。
「おおっ!」
自分の成功に目を輝かせる千夏に、龍太は「よかったですね」と微笑みを浮かべつつも、コートの反対側に視線を向ける。その瞬間、大喜が勢いよくラケットを振り抜き、シャトルをスマッシュで叩き込んできた。
「お、おまっ!?」
龍太は間一髪でシャトルを拾い返すが、その返球は甘く、雛の元へと飛んでいく。
「雛!」
「う、うん!」
雛は落下地点にしっかりと入るが、タイミングがわずかに遅れ、ラケットは空を切る。そして、遅れてシャトルが彼女の頭にコツンと軽く当たった。
「あいたっ」
シャトルがそのまま床に落ちる。雛は照れ笑いを浮かべるが、隣の大喜は我慢できずに吹き出してしまった。
「ひ、雛、ちゃんとボール見ないとダメだろ」
「つ、次はちゃんと当てるんだから!」
「分かったから背中叩くな!」
そのやり取りに、龍太と千夏も顔を見合わせ、つい笑い声を漏らしてしまった。
ラリーが続くにつれ、大喜のスマッシュは一層鋭さを増し、龍太はそれを拾い返すのに全神経を集中させていた。観客たちの歓声も徐々に熱を帯び、試合はまさに最高潮へと達していた。
「ナイス、大喜!」
「すごい、龍太くん」
観客からも自然と声援が飛び交い、会場の熱気は最高潮に。龍太と大喜のラリーは、笑い声と真剣な応酬が入り混じり、会場全体を飲み込んでいった。
「さすがだな……」
大喜はラリーを続けながら、心の中で龍太を称賛した。どれだけ強力なショットを叩き込んでも、彼は食らいつき、正確に返球してくる。その俊敏さ、鋭い洞察力──大喜には、それが自分と龍太の圧倒的な差に思えた。
彼女の隣には、誰もが認める「ふさわしい存在」が立っている。その現実に押し潰されそうになる。
それでも、顔を上げて踏み出すしかないんだと、わかってる。
でも考えれば考えるほどに、憂鬱で絶望的な気分が胃の底から頭まで広がっていく気がした。
憧れと劣等感が交錯し、大好きなはずのバドミントンへの集中力が散漫になる。視界がぼやけ、シャトルを追う目が曖昧になる。
ああ……何やったって俺にはもう。
運命論者のように半ば諦めを心にのせ身体が硬直する。
その時だった。
──大喜っ! 頑張れ!
隣から響いたその声が、迷いや葛藤を断ち切る刃のように大喜の心に突き刺さる。閉ざされていた視界が一気に開け、空中で舞うシャトルだけが見える。まるでそれが自分に向かって導かれているように感じた。
──私からしたら……龍なんかに負けなくらいか……か、かカッコいいと思うからっ!
今まで頭の中で拘っていた疑問だの、迷いだの、驚ろきだの、後悔などというものが、みるみるうちにスースーと頭の中から蒸発して行った。
「──っ」
地面を力強く蹴り、全身で跳ね上がる。ラケットを振り抜く感触が手に伝わり、その先に放たれたシャトルは鋭い直線を描いて龍太のコートに突き刺さった。
「ナイスショット!」
観客からの歓声と拍手が一斉に響き渡る。その中で、雛の声がひときわ大喜の耳に届いた。
「やったね、大喜!」
雛が弾けるような笑顔で言う。その姿に、大喜は不意に目を逸らした。自分の名前を呼び、隣に立ってくれる存在──それは憧れではなく、今確かにここにいる彼女なのかもしれない。
満たされることのなかった、そしてこれからも永遠に満たされることのないであろう少年期の憧憬は、大喜の中でゆっくりと薄れていく気がした。
「ありがとう……雛」
大喜は小さく呟きながら、もう一度ラケットを握り直した。その手にあるのは、どこか新しい決意と、隣にいる彼女への感謝だった。
千夏は、肩にかけたバッグを揺らしながら部室へと向かっていた。交流会の余韻を感じつつ、足取りはどこか軽やかだ。夕方の柔らかな日差しが校舎の壁を橙色に染め、心地よい風が汗をかいた肌を撫でていく。
「楽しかったな……」
ぽつりと呟きながら、千夏は今日の出来事を思い返していた。未経験者たちが一生懸命プレーする姿、チームメイトと交わした笑顔。そして──龍太とのあの連携。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じ、思わず唇が緩む。
部室の前に差し掛かると、視界の端に動くものが映った。体育館の入口がわずかに開き、その隙間から人影が入り込むのが見えた。誰かと思い足を止めると、その姿に見覚えがあった。
「……大喜くんと龍太くん?」
思わず、その影に引き寄せられるように、足が体育館へと向かう。壁際に身を寄せ、息を殺して中を覗き込むと、フロアの真ん中に座り込む二人の姿があった。
夕陽が長く伸びた影を作り出し、広大な体育館は、まるで二人だけの聖域のようだった。
大喜が、身振り手振りを交えて何かを熱心に話している。それに、龍太が静かに頷き、時折、柔らかな笑みを浮かべていた。その穏やかな光景に、千夏は自分が侵してはならない領域に足を踏み入れてしまったような、そんな感覚に陥った。
体育館の静寂に溶け込むように、二人の声の断片が、微かに耳に届いてくる。
「……れてただけなのかもしれないって今なら思う」
「……そっか」
龍太の声は、驚くほど優しく、そして深く、友の告白を受け止めていた。その短いやり取りだけで、二人の間にあったわだかまりが、雪解け水のように静かに消えていったのだと、千夏は直感的に理解した。
(……良かった。二人とも、ようやく元に戻ったんだ)
ずっと胸につかえていた小骨が、すっと取り除かれたような、安堵感。凍てついていた心が、春の日差しを浴びて、ゆっくりと溶けていくような感覚だった。
ふと、遠い記憶が蘇る。
――ナツはさ、バスケのことになると、いつもそうだよな。
かつての親友と交わした、何気ない会話。もう二度と戻らない、あの時間。
自分にも、もう一度、あんな風に笑い合える日が来るのだろうか。
(……邪魔、しない方がいいよね)
そう思いながら、千夏はそっと扉の影から離れようとした時。
「何してるんですか?」
背後からの突然の声に、千夏は驚き、思わず息を飲んだ。
「──っ!?」
雷に打たれたように振り返ると、そこには、大きな瞳を不思議そうに瞬かせながら、雛が立っていた。
「え、えっと、これは……その……」
千夏は焦り、手元で小さくバッグを握りしめる。見られたくない場面を覗き見してしまったような後ろめたさが胸を締め付けた。だが、雛はそんな千夏の動揺など意にも介さず、すっと体育館の中を覗き込んだ。
「ん? あれ、大喜と龍?」
「う、うん。なんか二人で話してるみたいで……」
千夏の説明に、雛はしばらく体育館の中を見つめていたが、やがて、ふっと花が咲くように微笑んだ。
「なるほど……。そっか、ちゃんと、仲直りできたんだ」
「うん。そうだね」
その穢れのない笑顔に、千夏の緊張も自然と解けていく。ほっとした空気が、二人の間に流れた。その柔らかな沈黙を破ったのは、雛からの、あまりにもストレートな一言だった。
「千夏先輩って……もしかして、龍太のこと好きなんですか?」
「えっ!?」
その問いは、千夏の心の最も柔らかな部分を、的確に、そして容赦なく射抜いた。
「べ、別にそういうわけじゃ……」
そう否定しながらも、千夏の耳元まで赤くなっているのは明らかだった。雛の視線に耐えきれず、つい目を伏せてしまう。
「気には……なってるよ?」
最後は、蚊の鳴くような声だった。それでも、雛にはっきりと聞こえたらしい。彼女は、まるで自分のことのように、嬉しそうに頷いた。
「ふふっ、やっぱりそうですよね」
雛の微笑みに、千夏は恥ずかしさのあまり頬を膨らませた。
「ちょ、蝶野さんは? 大喜くんのこと」
自分だけが質問されるのは不公平だと思い、反射的に話題を振り返す。その問いに、今度は雛が顔を赤らめた。
「ま、まぁ、その……ちゃんと仲直りできたか心配で」
視線を泳がせ、しどろもどろになるその姿に、千夏は思わずくすっと笑ってしまう
「ふふっ、そっか。……同じ、だね」
「……はい」
二人の間に静かな共感が流れる。お互いの心の中にある感情を少しずつ言葉にすることで、そこに生まれる温かさは共通のものだった。
体育館から聞こえる龍太と大喜の声が再び耳に入る。
「雛となんかあったの?」
その言葉に、雛の肩が、びくりと小さく跳ねた。
「えっ……?」
耳に届いた声に雛は緊張し、無意識に拳を握りしめる。
「な、なんだよ、急に」
「いや、さっきのお前の様子見てたらさ。そういうのって、大抵、別の誰かの存在が影響してたりするもんだろ。……大喜、お前、もしかして雛のこと、好きになったか?」
龍太の、あまりにも直球な一言。その言葉が、体育館の静寂に鋭く突き刺さる。大喜の顔が、みるみるうちに夕陽の色よりも赤く染まっていくのを、千夏と雛は息を呑んで見つめていた。
(ちょっと、何言ってるのよ……!)
雛の心臓が早鐘のように鳴り響く。
「べ、別にそういうわけじゃ……ただ」
「ただ?」
「ただ……?」
好奇心には、抗えない。雛は、扉に張り付くようにして、必死に耳を澄ませた。
「……カッコいいって、言われたら……さ。そりゃ、意識、するだろ……」
「ほぉ〜? いつ言われたんだよ、そんなこと。で? 意識しちゃった、と?」
「……まあ、ちょっと、は……。あの時の雛の顔が、なんか、忘れられないっていうか……ドキッ、としたっていうか……」
自分の言葉の破壊力に気づいたのか、大喜はそれ以上、言葉を続けられなかった。得意げに笑う龍太とは対照的に、体育館の外では、雛が目を丸くして固まっている。
(ちょっと……え、えぇ……!?)
胸が、ドクンドクンと音を立てる。顔に集まる熱を、どうすることもできない。そして、話題の矛先は、思いもよらぬ方向へと飛んだ。
「そんなこと言ってるけど、龍だって千夏先輩のことどうなんだよ?」
「えっ、俺?」
突然話を振られた龍太は戸惑ったように眉を寄せる。
「一緒に住んでるんだろ? なんか思うことないのか? その、可愛い、とかさ」
今度は、千夏の心臓が大きく跳ねた。聞いてはいけない。そう思うのに、耳は正直に、彼の言葉を待っていた。
「そりゃ、まぁ……毎日のようには思うけどさ」
「──っ!」
(えっ…………!?)
今度は千夏が絶句した。心臓が暴れそうなくらいに鼓動を速める。
「いや、そりゃそうだろ。学園のマドンナと一緒に暮らしてんだぞ……正直、耐えるのに必死だって」
「龍がそんなこと言うなんて珍しいな」
軽く笑いながらも、大喜の声にはどこか意外そうな色が滲んでいた。しかし、千夏にとっては、それどころではない。龍太の言葉一つ一つが、心に直接投げ込まれる爆弾のようだった。
(た、耐えるって……どういう……)
顔が一気に熱くなる。自分でも頬が赤く染まっているのがわかるほどだった。
「いや、そうなるって。お前、仮に雛と一緒に住んでみろよ」
「な、なんで雛が出てくるんだよ!」
「……今想像した?」
「してないって!」
「ほんとか?」
「ほんとだって!」
龍太がじっと大喜の顔を覗き込む。
そして、ふっと笑みを浮かべると、低い声でぼそりと呟いた。
「まぁ、ふとした時にさ、いつもとは違う距離感で側にいられてみろよ。心臓が持たないって……特に風呂上がりとかさ」
「ぶっ!」
大喜が思わず吹き出した。
「お前、さらっと何言ってんだよ!」
「いや、マジで。あの色香に充てられて、俺よく耐えてるなって自分を褒めたいくらいだぞ?」
「……まぁ、否定はできないけどさ……」
ぼそぼそと呟きながら、大喜はどこか納得したような顔をする。龍太はそんな大喜ににやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「ん? 風呂上がりの雛想像した?」
「だ、だからしてないって!」
「顔真っ赤だぞ」
「いちいち煽るな!」
あまりにも赤裸々な男子トークに、千夏と雛は、もう、消えてなくなりたいほどの羞恥心に襲われていた。
「でもホントさ、皆の言ってたことがようやくわかった気がするよ」
ふと、龍太の声のトーンが変わった。
「ん?」
「いや、なに……見た目もそうだけどさ……あの人、すげぇキレイだよな、中身が」
「……お前、よくそんなこと、ストレートに言えるな」
「だって、事実だろ? バスケに真っ直ぐで、誰にでも優しくて、ちゃんと周りが見えてて。……そりゃ、モテるよな」
その、何の飾り気もない、真っ直ぐな言葉。大喜でさえ照れくさそうにしているのに、千夏の心臓は、もう、爆発寸前だった。
「でもさ、龍がこんな風に異性に悩むなんて、本当に珍しいよな」
「……うるせえよ。しょうがないだろ、あんなことされたら。この間だって……」
「この間?」
龍太は少し言い淀んだ後、ぼそりと呟く。
「熱出した時は、ずっと手を握っててくれたり……助けてくれた時は、抱きしめられたり……。不意に思い出すと、頭、パンクしそうになるんだよ」
「はあ!? それ、どういう状況だよ!」
大喜の驚きの声が響き、千夏は耐えきれず背を向けた。
「せ、先輩……。すごい、大胆、なんですね……」
「〜〜〜っ!」
その一言が決定打となったのか、しゃがみ込んでしまう彼女に、同性である雛も思わず可愛いと思った。
夕暮れ時。千夏と龍太は、いつもの公園で落ち合い、家路についていた。橙色と紫色が混じり合った空の下、長く伸びた二人の影が、まるで遠慮するかのように、一定の距離を保って揺れている。普段なら軽口を叩き合っているはずの時間が、今日は、妙に重たい沈黙に支配されていた。
千夏は、俯き加減に歩きながら、バッグの肩紐をぎゅっと握りしめている。体育館で、偶然、耳にしてしまった彼の本音。それが、何度も、何度も、頭の中で反響する。「耐えるのに必死だ」「すげえ、綺麗だよな、中身が」。その言葉を思い出すたびに、耳の奥がじんわりと熱を帯び、彼の顔をまともに見ることができない。
一方の龍太も、隣を歩く千夏の、そのあまりにも不自然な様子に戸惑っていた。いつもは太陽のように明るい彼女が、今日はまるで薄氷の上にいるかのように、脆く、そして静かだ。何か怒らせるようなことをしてしまっただろうか。そんな焦燥感が、彼の口を重くさせていた。
じりじりと、沈黙が二人の間の空気を締め付けていく。
(……なんだよ、これ。めちゃくちゃ気まずいぞ……)
何度も喉元まで声が出かかるものの、肝心なところで飲み込んでしまう龍太。怒らせてしまったのか、焦燥感を抱えながら、意を決して口を開こうとしたその瞬間──。
袖口に、小さな、だが確かな力がかかった。
「……先輩?」
驚いて足を止めた龍太が横を見ると、千夏が控えめに自分の袖を掴んでいた。彼女は顔を伏せたまま、ぽつりと小さな声で言葉を紡ぐ。
「龍太くんとの思い出……最後にもう一個だけ、作っても、いいかな?」
その声は、夕暮れの風に溶けてしまいそうなほど、か細く、そして儚かった。顔を上げた彼女の瞳は、不安と、そしてそれ以上の期待に濡れて、潤んでいる。上目遣いで見つめるその表情は、龍太が今まで見たことのない、あまりにも無防備な彼女の姿だった。
夕陽が、その白い頬を、熟した果実のように赤く染めている。彼女の言葉が、不思議なほど甘く、そして切なく、彼の鼓膜を震わせた。
「……どこか、寄っていきますか」
ややあって、龍太がそう答えると、千夏の表情が、まるで魔法が解けたかのように、ぱっと輝いた。その、あまりにも無垢で、眩しい笑顔に、龍太の心臓は、大きく、そして確かに、音を立てた。
「うん! どこへ行こうかな」
その弾むような声と共に、二人の間に漂っていたぎこちない空気は、嘘のように消え去っていた。軽やかに歩き出す千夏の後ろ姿を追いかけながら、龍太は、小さく、そして幸せなため息をついた。
(……やっぱり、この人には、敵わない)
夕陽が、二人の影をさらに長く伸ばしていく。並んで歩くその二つの影は、いつの間にか、その距離を少しだけ、縮めているように見えた。