親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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7話

 

 

 

 五月の朝。

 透き通る青空が広がり、新緑がそよ風に揺れていた。

 その爽やかな空気の中、龍太と大喜は、いつもとは違う道を軽くジョギングしていた。熱は下がったとはいえ、病み上がりの龍太に、大喜がペースを合わせる形で。

 道端の草木が陽を浴びて輝き、遠くの小鳥のさえずりが、二人の沈黙を優しく包む。いつもなら軽口を叩き合うのに、今日は言葉が少ない。

 足音だけがリズムを刻む。大喜が、時折ちらちらと様子を伺ってくる。その視線を感じながら、龍太は目を逸らし、無意識にペットボトルを握る手に力を込めた。

 

(話さなきゃ……。でも、なんて切り出せば……)

 

 胸の奥に、湿った雑巾のような罪悪感が絡みついている。前を行く友の背中を見るたび、その重さが増していく。彼が千夏に特別な感情を抱いていると知っているからこそ、真実が喉の奥でつかえていた。 

 

「なあ、大喜」

「千夏先輩のことだろ?」

 

 振り返ることもなく、さらりと言われて、龍太の鼓動が跳ねた。心の奥を見透かされたようで、足元がぐらつく。

 

「な……なんで、わかるんだよ」

「そりゃわかるだろ。この前のジャージの件は、さすがに変だって」

「あ……だよな」

 

 自嘲気味に笑う龍太に、大喜が横目を投げる。複雑そうな、それでいてどこか納得したような顔だった。

 

「じゃあ、やっぱり——」

「——ああ。俺の家に住んでるんだ」

「…………はい?」

 

 大喜の足音が、ぴたりと止まった。

 横目に見れば、驚愕が顔に広がり、言葉を失っている。

 

「だから、その……千夏先輩が、俺の家に居候してるんだよ」

 

 付け加えるように説明すると、大喜の表情が次々と移り変わる。困惑、驚き、そして——

 

「はぁぁぁぁあああっ!?」

 

 叫び声が、静かな朝の空気を突き破った。電線の鳥が慌てて飛び立ち、二人を一瞥して遠ざかる。

 

「お、おい、声でかいって!」

「いやいやいや! でかくなるだろ! どういうことだよ! なんで千夏先輩が龍の家に!?」

 

 パニックの大喜を前に、龍太はもう立っていられなかった。その場に崩れ、地面に額をこすりつける勢いで頭を下げる。

 

「ごめん! 本当にごめん! 隠してて悪かった!」

「いやいや、ちょっと待てって!」

 

 慌てて肩を掴み、無理やり引き起こす。

 

「龍っ、土下座とかやめろって!」

「でも……大喜が、千夏先輩に憧れてるの、知ってたから……言えなくて……」

 

 消え入りそうな声。それでも、話せたことで、肩の力が少し抜けた気がした。

 大喜は一度、深く息を吸い込む。

 それから、ふっと笑った。

 

「……まあ、そりゃあ……言いづらいよな」

「……うん。ごめん」

 

 続けて、経緯を打ち明ける。千夏が住みはじめて、約一ヶ月半。ようやく事情を伝えた。

 しばらく、沈黙が流れる。風に乗った木々のざわめきの中、大喜は遠くを見て何かを考えていた。やがて龍太のほうを向き、柔らかく笑う。

 

「でもさ。言ってくれて、ありがとう」

「え……?」

「ちゃんと打ち明けてくれたこと、嬉しいよ。まあ、正直、めちゃくちゃショックだけどな。……ていうか、死ぬほど羨ましいわ、ちくしょう!」

 

 嫉妬と悔しさが、確かに滲んでいた。だがそれ以上に、友を気遣う真っ直ぐな優しさが、龍太の胸に温かく沁みる。

 

「……本当に、いいのか?」

「いいも悪いも、俺がどうこうできる話じゃないだろ」

 

 そう言って、大喜は軽く笑い、また走り出した。

 その背を追いながら、龍太の胸には、感謝とも申し訳なさともつかない感情が、まだ渦巻いていた。

 朝日が、二人の影を、長く、寄り添うように伸ばしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 朝の体育館に、シャトルを弾く鋭い音が響いていた。

 その音に、いつもと違う緊張が滲んでいる。床を叩くスニーカーの音さえ、普段の軽やかさを欠いて重い。

 コートでは、大喜と針生健吾のラリーが続いていた。機械のように正確な針生のショットに、大喜は獣のような瞬発力で食らいついていく。常軌を逸した気迫だった。

 だが、その動きには——彼の持ち味のはずの「しなやかさ」が、決定的に欠けていた。

 

「……大喜、なんか変」

 

 ネット際で見守っていた雛が、ぽつりと呟く。鬼気迫る表情でシャトルを追う大喜に、視線が釘付けだ。いつもの彼なら、厳しいラリーの中にも遊び心が覗く。今日は、ただ何かを振り払うように、ラケットを振っているだけだった。

 

 隣の匡は、黙って見ている。その瞳の奥に、状況の本質を見抜いたような鋭い光があった。

 

「ねえ、匡くん。大喜、どうしちゃったんだろう……」

 

 不安の滲む声に、匡は答えない。針生のスマッシュに、大喜が身を投げ出すように飛びつく。

 

「匡くんってば」

 

 促されて、ようやく口を開いた。だが、その声には、どこか含みがあった。

 

「さぁな。大会が近いから、気合いが入ってるんじゃない?」

 

 淡々と。けれど、意図的に。匡の瞳には、大喜が何に突き動かされているのか、もう薄々わかっている確信があった。それを、口にはしない。

 

「でも、いつもの大喜と、全然違う……」

 

 納得できないように、雛が首を傾げる。容赦ないショットを浴びながらシャトルを追う友の背中が、いつもよりずっと小さく、孤独に映っていた。

 

「本当に、大会のせいなの?」

 

 匡は微かに笑み、わずかに肩をすくめた。どこか乾いたその仕草に、雛は違和感を覚える。それでも、問い詰めはしなかった。

 

「多分ね。いつものように、本気でぶつかってるだけじゃない?」

 

 その声には、何かを悟った者の冷静さと、踏み込んではならない領域を守ろうとする優しさがあった。

 

「でも……」

 

 言いかけて、雛は飲み込む。

 大喜が、またシャトルを叩きつけた。その一打の情熱は本物だ。だが、根にあるものが純粋な闘争心だけではないことを、彼女もまた、感じはじめていた。

 匡は、もう何も言わなかった。ただ、静かにコートを見つめている。自分の内で出した結論を、彼女に告げるつもりはなかった。それが、今の自分にできる唯一のことだと信じていたから。

 

「針生先輩も、本気になってきたね」

 

 話題を変えるように、穏やかに言う。雛は一瞬その横顔を見て、すぐ視線を戻した。

 

「……そうだね」

 

 上の空の返事に、匡はそれ以上、何も言わない。シャトルの音だけが、二人の間に漂う微妙な空気を埋めていく。

 

「大喜……」

 

 その小さな呟きは、誰にも届かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 メンタルケアという名目の配慮で、龍太は一週間以上、学校を離れていた。高熱で朦朧としていた時間まで含めれば、まるで別世界の出来事のようだ。久しぶりに見る教室のドアが、やけに重く、遠く感じる。

 意を決して開ける。

 ざわめきが、一瞬で凝固した。

 次の瞬間、すべての視線が、槍のように突き刺さってくる。普段の喧騒とは質の違う、好奇と、値踏みするような熱気。龍太は思わず足を止めた。

 

「おーい! 龍太じゃん! やっと来たな!」

 

 真っ先に声を上げたのは吉田だった。それを皮切りに、クラスメイトが次々集まってくる。

 

「お帰り田中くん!」

「龍太、心配したぞ!」

「体調大丈夫なの!?」

「手、縫ったって聞いたぞ!」

 

 質問の嵐に、龍太は苦笑するしかない。

 

「いやいや、落ち着けって。大したことじゃないから」

「ふーん……まあ、無事ならいいけどさ」

 

 吉田が引き下がり、ひとまず収まる。それでも、ちらほらと気にする視線は残った。

 

(心配してくれるのはありがたいけど……話せないんだよな)

 

 事の詳細は、学校から口止めされている。溜息をついて、席に座った。窓からの光が、少しだけ心を落ち着ける。隣の吉田が、小声で囁いてきた。

 

「なあ、お前、絶対なんかヤバい目に遭ってるだろ? 担架で運ばれたって聞いたぞ。平気かよ?」

「大丈夫だって。もう解決したからさ」

 

 軽く笑ってかわすが、吉田は納得していない。無理もない。あの倉庫の出来事は、未だ霧の中だ。

 実行犯は謝罪し、学校は厳重注意で決着させた。その背景には、龍太の意向もあった。彼らが本当に反省していること、大ごとにしたくないという思いが、判断に影響した。

 だが、未解決の謎が残っている。実行犯を唆した女の声。その正体は、今も掴めていない。誰かが背後で糸を引いていたのは、確実だった。

 

(女の声……一体、何者なんだ)

 

 無意識に、包帯の左手に触れる。視界の隅に、大喜の背中が映った。彼がどれだけ千夏に憧れているか、知っていた。だから、良かれと思って動いた。連絡先の交換も、すべては彼の背中を押すためだった。

 

 そのはずだった。

 

 なのに、今、心にあるのは——大喜への罪悪感と、千夏の笑顔を思い出すたびに疼く、この甘い痛みだ。彼女の何気ない仕草や言葉が、静かに、確実に、心の領域を侵していく。それが友情とは違う何かに変わりつつあることに、気づきたくなかった。

 

(大喜のためだったはずなのに……なんで、こんな気持ちになってるんだよ)

 

 罪悪感が、胸を刺す。紛らわそうと窓の外を見ると、五月の風が新緑を揺らしていた。深く息を吐き、目を閉じる。

 そのとき、吉田がひょいと身を乗り出した。

 

「そういえば、お前休んでて知らないだろ。今日、先輩方と合同交流会があるぞ」

「……なにそれ?」

 

 龍太が顔を上げた瞬間、教室の賑わいが、また一段、上がった。これが、止まっていた日常を再び動かす第一歩だとは、龍太はまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 五月の陽光が、体育館の窓から差し込む。

 運動部の生徒たちが、先輩方と交流会と称したイベントに集まっていた。広い空間に音が反響し、上下級生が部活ごとに固まって談笑している。学年や競技の垣根を越えた「絆作り」が目的だという。

 その中心から少し離れた場所に、ひときわ目を引く存在がいた。

 

 鹿野千夏。

 

 彼女の周りだけ、スポットライトが当たっているようだ。何気ないジャージ姿でさえ、洗練されて見える。その柔らかな笑みは見る者の心を武装解除し、声をかけた男子たちが、一様に顔を赤らめて肩を落として戻ってくる。その一連を、龍太は少し離れて、他人事のように眺めていた。

 

(ほんと、人気者よな……)

 

 理由は明らかだ。

 彼女と同じチームになれなかった、という失望。特にバドミントンのダブルスでは、男女ペアの可能性がある。千夏とペアになれたら、宝くじに当たったようなものだろう。

 当の千夏は、バスケ部の仲間と談笑していた。聞き役に回り、愛らしく首を傾げる。その仕草の一つひとつが、周囲に温かな空気を生んでいく。

 

「相変わらずの人気だな」

 

 隣で、匡が感心したような、それでいて乾いた口調で呟いた。

 

「だな」

 

 人が自然と集まり、笑い声が生まれる。それを横目に眺める龍太へ、匡がふと漏らした。

 

「大喜に、話したんだな」

 

 唐突な言葉に、龍太の肩がわずかに動く。

 

「……よくわかったな」

「今朝の練習、空回りしてたから。何かを振り払おうとしてるみたいだった」

「……そっか」

 

 淡々とした言葉に、龍太は小さく息を吐いた。何か吐き出したかったのかもしれないが、言葉にはならない。それを察したように、匡が続けた。

 

「まあ、仕方のないタイミングだったと思う。あのままじゃ、龍はマドンナのジャージ泥棒だから」

「いや、それはそうなんだけどさ」

「気にしなくていい。龍は、何も悪くないよ」

 

 無駄な装飾のないその言葉が、かえって染みた。

 匡の視線が、体育館の隅へ向く。その先で、大喜と雛が話していた。雛が冗談を言ったのだろう、大喜が肩をすくめて笑っている。それを眺めながら、匡が淡々と紡ぐ。

 

「多分、蝶野さん、大喜のこと好きだと思う」

「えっ……マジで!?」

 

 声を上げて、慌てて口を押さえる。匡は相変わらず落ち着いている。

 

「確証はないけど」

「……なら俺、結構複雑なことしちゃったんじゃないか?」

「どうだろう。その気持ちに気づいたのは、最近だと思うし」

「そうなのか」

 

 曖昧に頷くことしかできない。大喜と雛を見つめていると、匡が静かに、問いを投げた。

 

「憧れと恋って、何が違うんだろうな」

「……随分、哲学的な話だな」

 

 龍太は、思わず匡の顔を覗き込む。

 

「遠くから見て『すごいな』『綺麗だな』って感動して、それで終わるなら、それは憧れてるだけなのかもね」

「憧れ……ね。なら、恋は?」

「さあ。一緒にいて楽しいとか、安心するとか、側にいたいって思うこと、なんじゃない?」

「……匡って」

 

 その言葉の奥に、何か深いものを感じて、龍太は息を呑んだ。だが、答えを考える前に、開始を告げるアナウンスが響く。

 この交流会では、一人ずつ異なる「競技スケジュール」の紙が配られる。運営が経験を参考に、初心者と経験者がバランスよく混ざるよう調整しているらしい。一人で複数の競技を回りながら、さまざまな相手と交流できる仕組みだ。

 

「匡、何番?」

「『42』……あ、一緒のチームだな」

「そうみたいだな。っていうか龍、ちゃんとアンケート答えたの?」

「いや、適当」

「……はぁ。なんか、龍いるだけで目立ちそうなんだけど」

「なんで嫌そうなんだよ。てか、そんなことねえだろ」

 

 外の競技へ向かう者が、次々と体育館を出ていく。ふと視線を感じて顔を上げると、千夏がこちらを見ていた。一瞬、たじろぐ。彼女が唇を動かす。「な・ん・ば・ん」。その仕草に、龍太は指で「17」と伝えた。

 千夏の顔が、ぱっと明るくなる。

 笑顔が、花開くように広がった。

 あまりにそれは、現実を超えて美しくて。龍太は、思わず目をそらした。

 隣から、匡の声が静かに響く。

 

「……やっぱり付き合ってる?」

「付き合ってねえって!」

 

 抗議をよそに、体育館に熱気が満ちていく。交流会は、新たなステージへ進んでいった。

 

 

 

 

 

 

 体育館の空気は、いつもより和やかだった。

 試合前の説明で、ルールが発表される。経験者はシュート三回まで、しかも未経験者からのパスを受けたときだけ得点が認められる。会場の隅々で、驚きと笑いが広がった。経験者が輝くだけの試合ではない。誰もが主役になれる舞台なのだ。

 試合が始まる。経験者は積極的にパスを回し、未経験者を全力でサポートした。千夏もプレーのたびにボールを未経験者へ預け、その動きをフォローする。彼女が軽やかに動くたび、チームに安心感と一体感が広がっていく。

 途中、皆の出場機会を考えて、千夏は自らベンチに下がった。隣には、病み上がりで控えに回る龍太が座っている。二人は言葉を交わすでもなく、コートを見つめていた。

 未経験者のプレーが、見るからに成長していく。おずおずとしていた動きが力強さを増し、声も大きくなる。それを見た千夏が、小さく拍手を送った。

 

「みんな、楽しそうだね」

 

 ぽつりと呟く。

 龍太が頷いた。

 

「そうですね。先輩も、楽しそうでしたよ」

「うん。勝ちにこだわるのも大事だけど。こうやって、みんなで一つのボールを繋いでいくのも、素敵だよね」

 

 否定をしない、彼女らしい優しさが滲んでいた。その横顔を見つめながら、龍太は胸の奥が温かくなるのを感じる。

 

「皆、予選で切羽詰まってるでしょうし。いい息抜きになりますね」

「ほんとにね」

 

 そのとき、未経験者の一人がシュートを決めた。歓声と拍手。千夏も立ち上がって拍手を送る。

 

「さて、と。俺も、そろそろ行きますか」

 

 龍太がふいに立ち上がると、千夏が驚いて見上げた。

 

「体調は大丈夫?」

「問題ないです。先輩はどうします? まだ出れる時間ありますけど」

「うん! 一緒に出たい!」

 

 即答する、その眩しい笑顔に、龍太は一瞬、目を逸らした。胸の奥が、甘く、苦しくざわめく。その正体に気づかないふりをして、コートへ踏み出す。

 試合が再開する。初心者の一人がボールを受けたが、どうすればいいか迷い、足を止めてしまった。焦って目を泳がせるその姿に、ディフェンダーが迫る。

 

「ここだよ!」

 

 千夏の明るい声が響く。自信に満ちた笑顔で手を挙げ、初心者を安心させた。促されるように、ボールが彼女へ飛ぶ。軽やかにキャッチし、すぐ状況を確認。その視線が、一瞬で龍太を捉えた。

 千夏が、龍太の右手側へ柔らかいパスを送る。片手で受け、軽くドリブル。だが、すぐにディフェンダーが立ちはだかった。龍太は焦らず、一瞬、未経験者へ視線を向ける。

 頷くと、初心者が戸惑いながらも前へ動いた。龍太は片手で優しくパスを送る。ボールはふらついたが、初心者はどうにかキャッチし、千夏へ返した。

 千夏が片手で受け、軽快なステップでディフェンダーをかわす。一切の無駄がない。観客から感嘆が漏れた。彼女が前進するたび、相手の守りが乱れ、スペースが生まれていく。

 そのタイミングを、龍太は見逃さなかった。彼女の動きに呼応し、空いたスペースへ走り出す。気づいた千夏が、すぐさまパスを放った。右手一本でキャッチし、間髪入れずシュートの体勢へ。

 

(……なるほどねっ)

 

 追い込まれた瞬間、龍太の意識は極限まで澄んでいた。

 彼は、シュートを打たなかった。

 誰もいないはずのスペースへ、ボールをふわりと放り投げる。

 そこには、予見していたかのように、千夏が走り込んでいた。掴み、美しいフォームで跳ぶ。だが、彼女にもう、シュートの権利はない。

 

「千夏、もうシュート打てないんじゃ——」

 

 相手チームの渚が呟く。その疑念が確信に変わるより先に、近くで風が吹いた。

 弧を描いたボールは、リングではなく、バックボードへ。

 跳ね返る。

 意図のわからない観客のざわめきの中、千夏は静かに確信していた。

 

(——きっと、そこにいる)

 

 根拠のない自信だった。

 けれど、揺らがなかった。

 その感覚を、あえて言葉にするように——彼女は、名を呼んだ。

 

 ——龍太くん! 

 

 声が響いた瞬間、龍太はすでに跳んでいた。跳ね返ったボールを片手で掴み、リングへ豪快に叩き込む。

 ドン、と音が、体育館全体に広がった。

 割れんばかりの歓声。着地した龍太の視線の先に、満面の笑みで手を挙げる千夏がいた。引き寄せられるように、龍太も小さく手を挙げて応える。

 

「……ちょっと、人使い荒すぎません?」

「ごめん、きつかった?」

「冗談です。ナイスパス、さすがですね」

「ふふっ、こんな無茶なパスに応えてくれるの、龍太くんくらいだよ」

「そんなことないと思いますけどね」

 

 笑顔で、ハイタッチ。二人の間に、言葉のいらない信頼が漂っていた。

 それを見た渚が、懐かしさに口元を緩める。

 

「全く……妬けるじゃんか。というより、アレはもう経験者扱いでしょ」

 

 初心者を巻き込みながら、息の合った連携を見せる二人。その姿が、試合の熱気をさらに高めていった。

 

 

 

 

 

 

 

 学校全体が、祭りのような賑わいに包まれていた。

 第一体育館はバスケ専用。仮設の観覧席に生徒が集まり、ハーフコート二面で短い試合が繰り広げられる。第二体育館ではバドミントンと卓球。校庭では屋外バスケとミニサッカー。そして教室では、クイズ大会やディスカッション。文化系の活動も行われていた。

 その一室で、蝶野雛と猪股大喜が、真剣な顔で頭を抱えていた。目の前のクイズボードが、容赦なく二人を悩ませている。

 

「……全然わかんない」

「……同じく」

 

 雛が深く溜息をつけば、大喜も肩を落とす。周囲から「頑張れよ!」と声が飛ぶが、それどころではない様子だ。

 

「これじゃ授業と変わらないじゃん!」

 

 二つに結んだ髪を揺らし、雛が顔を上げて叫んだ。

 

「同感……はぁ、体育館行きたい」

「あー、バドもあるもんね。さすが、バドバカ」

「バカつけなくていいだろ」

「えー、なかったらただの『バド』じゃん」

 

 あはは、と雛が笑う。その笑顔に、大喜も少し気持ちが軽くなる。

 けれど、その顔がふと曇る瞬間を、雛は見逃さなかった。

 

「ねぇ、大喜」

「ん?」

「……龍と、何かあったでしょ」

「えっ……いや、別に何も」

「嘘。顔に書いてある。朝からずっと、心ここにあらずだし。今日、龍太と全然話してないよね?」

 

 鋭く指摘され、大喜は詰まった。じっと見つめる視線に耐えきれず、小声で話しはじめる。

 

「……千夏先輩と龍、今、一緒に住んでるんだって」

「えっ!? そ、それって……同棲!?」

 

 驚きで声が大きくなり、他の生徒がちらりと視線を向ける。雛が慌てて手を振って誤魔化すと、大喜は首を振った。

 

「いや、そういうんじゃないらしい。先輩の家の事情で、ただの居候。付き合ってるとか、そういうのは絶対にないって言ってた」

「……そっか」

 

 頷きながらも、雛は胸のざわめきを押し殺すように、ボードへ視線を戻す。その横で、大喜がぽつりと漏らした。

 

「この間、龍があんなことになったときさ……誰よりも必死だったの、千夏先輩だったんだ。あのときの顔、忘れられない。付き合ってないって言ってたけど……少なくとも、千夏先輩は、龍のこと、めちゃくちゃ大切に思ってるよ」

 

 声に、悔しさと劣等感が混じる。それが、雛の胸に重く響いた。

 

「やっぱり龍って、凄いよな。器用で、何でもできて、雑誌に載るくらい有名で、その上、驕らない。好かれるの、よくわかる。……ほんと、二人はお似合いだよな」

 

 その横顔に落ちた影が、彼の抱える重さを物語っていた。雛は、自分でも気づかぬうちに、唇を開いていた。

 

「でも、大喜だって、すごいよ」

 

 静かだが、確かな意志のこもった声。大喜が、驚いたように顔を上げる。

 

「私、ちゃんと見てる。インターハイのために、誰よりも遅くまで自主練して、どんなにきつくても諦めない。それって、誰にでもできることじゃないよ」

 

 その目が、ぶれることなく、まっすぐ彼を捉えていた。雛はもう一度、深く息を吸って、続ける。

 

「大喜は、いつだって真っすぐで、努力家で、優しくて……。大喜には、大喜だけの良さがあるんだから、もっと自信持ちなよ! 私からしたら、龍なんかに負けないくらい…………か、か、カッコいいって、思う、から……っ!」

 

 その言葉が、教室の静けさを切り裂いた。

 自分の言ったことの意味に気づいた雛は、顔を、紅葉よりも赤く染め上げる。

 

「ちょ、コッチ見るな!」

「いや、理不尽だろ!? って、叩くな!」

 

 頬を染めたままボードで叩く雛と、照れ臭そうに受け止める大喜。

 

「こ、この雛様が認めてるんだから、堂々としてればいいの! わかった!?」

「……おう」

 

 気恥ずかしくなった雛が「早く問題解くよ!」とボードを持ち上げる。その忙しない仕草に、大喜は思わず笑った。

 

「……ありがとな、雛。なんか、元気出た」

「べ、別にお礼なんて……」

「まさか、りんご飴でヨダレ垂らしてた雛に褒められる日が来るとはな」

「い、いつまで覚えてるのよそれ! あれは忘れて!」

「いやだ、絶対に忘れない。女子のあんな顔、初めて見たし」

「この、このっ!」

 

 さらに叩こうとする雛を制する大喜。微笑ましいやり取りに、周囲からクスクスと笑いが漏れる。

 

『そこの二人、イチャイチャしてないで、早く問題解いてください』

 

 突然の声に、二人は同時に肩を跳ねさせた。そして、顔を真っ赤にしたまま、慌ててボードに向き直る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休憩を告げる頃、体育館から校庭へと、風景がゆるやかに変わりはじめた。

 プレーを終えた生徒たちが、弁当やパンを手に集まってくる。校庭の大きな木の下では、上級生と下級生が混じり合い、シートを広げて輪になっている。

 そんな中、龍太は一人、いつもの屋上を目指していた。

 扉を開けると、暖かな春の日差しが全身を包む。柔らかな風が髪を撫で、遠くで鳥が鳴いた。一歩踏み出し、深く息を吸う。

 

(やっぱり、ここが一番落ち着くな)

 

 肩の力が抜けた、その瞬間。背後の声に、心臓が文字通り飛び跳ねた。

 

「屋上は、気持ちがいいね」

「ぬおぉぉおおおっ!?」

 

 悲鳴に近い声で振り返ると、春風に栗色の髪を遊ばせ、千夏が立っていた。ラフなジャージ姿でさえ、映画のワンシーンのように見える。

 

「い、いつからいたんですか!?」

「んー、途中から。階段を上る龍太くんの後ろ姿が見えたから、つい、ついてきちゃった」

「なら声かけてくださいよ!」

 

 抗議に、千夏はきょとんとして、それから「ふふっ」と笑う。その無邪気さに、苛立ちが一瞬で霧散した。

 

「……こんなとこで油売ってていいんですか」

 

 女バスの仲間と昼食を取らなくていいのか。その含みに、千夏は軽く首を振る。

 

「みんなには、友達と食べるからって言ってあるよ」

「……そうですか」

 

 選ばれた特別感を覚えてしまい、慌てて打ち消す。

 

「一緒に、食べてもいい?」

「……ついてきておいて、今更じゃないですか」

「ふふっ、ありがとう」

 

 千夏は定位置に腰を下ろし、隣を、ぽん、と軽く叩いた。その何気ない仕草に、龍太は心臓が妙な音を立てるのを感じながら、少し間を空けて座る。

 弁当を広げ、小さく手を合わせる。手作りの卵焼きを口に運ぶと、優しい出汁の味が広がった。

 ふと、強い視線を感じて顔を上げる。千夏が、にこにこと、ただこちらを見ていた。

 

「な、なんですか?」

「ううん。相変わらず、同じ中身だなーって」

「そりゃまあ……」

 

 弁当ではなく、こちらを見ている気がして、龍太はわざとらしく視線をそらす。その態度に、千夏がくすくす笑った。

 

「今日ね、すごく楽しみにしてたんだ」

「交流会ですか?」

「うん。それもあるけど。龍太くんが久しぶりに登校できるから、一緒にバスケできたらいいなーって」

「俺はすっかり忘れてましたけどね」

 

 瞬間、千夏が頬を膨らませ、拗ねたまなざしを投げる。

 

「昨日、晩御飯のとき、ちゃんと言った気がするんだけどなあ」

「あ、いや、冗談です。ちゃんと覚えてましたよ」

 

 冷や汗をかく龍太に、じーっと視線が飛ぶ。

 

「ホントかな?」

「……す、すみません、忘れてました」

「ふふっ、冗談だよ」

 

 からかう笑顔に安堵しながらも、龍太の心は晴れない。大喜への罪悪感、事件の謎、そして、目の前の彼女に抱く、名前のつけられない感情。それらが渦になって、胸の奥で重く巻いていた。

 

「あっという間だったね」

「バスケですか?」

「うん。欲を言えば、龍太くんともう少しやりたかったな」

「家でできるじゃないですか……というより、最近ずっと自宅待機で、ほとんど一緒にバスケしてる気がしますけど」

「それはそうだけど……学校って、特別じゃない?」

 

 そう言って、千夏はふっと視線を遠くへ向けた。その横顔が、どこか儚げに見える。

 

「龍太くん」

「?」

「たくさん、思い出、作ろうね」

 

 声は柔らかく、けれど、どこか遠くを見ていた。

 驚いて顔を上げた龍太の視線が、まっすぐ前を向く彼女の横顔

 を捉える。穏やかで、少しだけ、寂しげだった。

 

「……そう、ですね」

 

 なんとか返したものの、自分の声が、どこか遠く感じた。千夏は小さく微笑み、風に溶けるような空気を纏ったまま、視線を先へ戻す。

 その言葉が残した余韻に、龍太の心は、そっと引き寄せられていく。

 

(思い出……一年、違うもんな)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 体育館の隅。喧騒から少し離れた場所で、蝶野雛は膝を抱え、顔をうずめていた。

 耳まで真っ赤な顔を隠すように、膝に額を押しつけている。バスケの弾む音も歓声も、今の彼女には別世界の出来事だ。

 

(なんであんなこと言っちゃったの!?)

 

 頭の中で、さっきの自分の言葉が繰り返される。「龍なんかに負けないくらい……か、かカッコいいと思うからっ!」——蘇るたび、胸がキューっと縮こまる。

 

「もぉー……私のバカバカ!」

 

 小さく自分を責めるが、心拍数が上がるばかり。あのときの大喜の驚いた顔が浮かんで、余計に恥ずかしい。足をパタパタさせながら、羞恥と格闘していた。

 

(絶対、からかわれる……もう体育館のど真ん中なんて、歩けない!)

 

 遠くから、コートの大喜の声が聞こえてくる。それだけで胸が高鳴り、また顔が熱くなる。意識しないようにするほど、彼の笑顔が浮かんでしまう。

 

「うぅ……」

 

 とうとう、うめき声が漏れた。

 そのとき、目の前にスニーカーが止まった。顔を上げると、ショートカットの女子生徒——羽場優奈が、不思議そうに首を傾げて立っている。新体操部の三年、雛の先輩だ。

 

「何してるの? こんな隅っこで」

「……なんでもないです」

 

 咄嗟に顔を背けるが、優奈はお構いなしに、隣へひょいと腰を下ろした。すべてを悟っているような、悪戯っぽい余裕がある。

 

「さっきのクイズ大会、近くで見てたよ」

「っ」

 

 身体が硬直する。顔が一瞬で熱くなり、膝に頭を埋めた。

 

「いやー、まさか、白昼堂々、愛の告白が飛び出すとはね。青春って感じで、お姉さん、胸が熱くなっちゃった」

「ち、違います! そんなこと言ってません!」

 

 慌てて手をバタバタさせる雛を、優奈はニヤリと笑ってからかう。

 

「まぁまぁ、あんだけ楽しそうだったし、結果オーライじゃない?」

「……まぁ、そうですけど」

 

 消え入りそうな声で呟くと、優奈がポケットから小さな紙を取り出した。

 

「はい、これ」

「……え?」

 

 差し出されたのは、組み合わせ番号の紙だった。

 

「次のバドミントン、私、猪股くんとペアみたいなんだけど。……よかったら、代わってあげる」

「えっ!? なんでですか!?」

「だって、そっちのほうが面白そうでしょ? 雛も猪股くんも、あんなに楽しそうだったし」

「そ、そんな理由で……」

 

 困惑しつつ、雛は数字をじっと見つめた。胸の中で、小さな不安と喜びが交差する。 

 

「ほら、せっかくだから、愛、育んでおいでなさいな」

「っ」

 

 瞬時に赤らめ、紙を慌てて隠す。言い返そうとするが、言葉が出ない。

 

「そ、そんなこと言わないでください! そ、そういうんじゃ……」

「はいはい、そういうんじゃないね。でもさ、どう見ても楽しそうだったよ。だから、素直に受け取っときな」

 

 優奈は立ち上がり、軽く手を振って中央へ戻っていく。その背を見送り、雛はそっと紙を握りしめた。

 

「もう……先輩、からかいすぎですよ」

 

 呟きは、喧騒に溶けて消えた。紙を大事そうにしまい、雛は中央へと歩き出す。胸の中に、かすかな期待と、まだ消えない恥ずかしさを抱えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 校庭では、ミニサッカーが行われていた。普段はバスケ部のエースとして駆ける千夏も、軽い気持ちで輪に加わっていた。……はずだった。

 

「千夏! 前、前! あ、もう行っちゃったよ!」

「あ、う、うん……ごめん!」

 

 返事はするが、動きが散漫だ。足取りは軽快さを欠き、視線も時折宙を漂う。違和感を覚えた仲間たちが、ちらりと視線を交わした。

 そんな中、同じく参加していた渚が、タイムの合間に近づいてくる。

 

「ねえ、千夏。今日どうしたの? なんか変だよ」

「え、そ、そんなことないよ! いつも通りだよ?」

 

 無理に笑顔を作って首を振るが、表情は硬い。渚は、じとーっと見つめて腕を組んだ。

 

「その『いつも通り』が、全然いつも通りじゃないって言ってんの。……さては、何かあったでしょ」

「な、なんでもないってば! 本当に!」

 

 焦りが滲む。渚は、意地悪そうに笑んだ。

 

「あー、はいはい。さては、彼のことでしょ?」

「えっ、ち、違う! 別に龍太くんは、何にも関係ないから!」

 

 顔を真っ赤に、全力で否定する。あまりに分かりやすい反応に、渚は確信したように深く頷いた。

 

「……ふーん。私、まだ名前出してないんだけど」

「そ、それは……その……」

 

 渚は面白がって肩を叩き、もう一歩踏み込む。

 

「で? 何があったの?」

「別に……大したことじゃないよ。ただ、最近なんだか、悩んでるみたいで。多分、大喜くんとのことなのかなって」

 

 俯きながら、ぽつりと。不安が滲んでいた。

 

「大喜くんって、あの真面目そうなバドの子?」

「うん。いつも朝練、二人一緒にしてるんだけど……最近、二人の間の空気が、少しだけ、ぎこちない気がして」

「ふーん。それで千夏はどうしてんの? 助け舟出したりしてるの?」

「ううん、何も……」

「見守るだけ、ねえ。……それってさ、結構、寂しくない?」

 

 ストレートな問いに、千夏は微かに笑った。肯定とも否定ともつかない、曖昧な笑み。

 

「……少しだけ、ね。でも、龍太くんは、きっと自分で解決できる人だから。早く、いつもの二人に戻るといいなって、思うだけ」

 

 その健気すぎる言葉に、渚は深く溜息をついた。

 

「いやいや、あんた、聖母か何か? まあ、それで上の空だったわけね。……なんというか、あのバスケ馬鹿だった千夏が、こうも分かりやすく恋する乙女になるなんてねえ」

「……えっ!?」

 

 恥じらいが、千夏の顔に溢れる。否定しようとするが、言葉にならない。

 

「な、何言ってんの渚! 全然違うから!」

「はいはい、そのセリフ、もう聞き飽きましたー」

 

 渚が笑ったその瞬間、タイミング悪く、ボールが千夏の足元に転がってきた。反射的に蹴り出したそれは——見事に、自陣のゴールへ。

 

「……え?」

「えええーっ!? 千夏っ!?」

 

 呆然と立つ千夏と、爆笑する渚。周りの選手も、堪えきれず声を上げた。渚はお腹を抱え、千夏の肩をバンバン叩く。

 

「千夏、これだからアンタは可愛いんだよ!」

「も、もう! 渚、笑わないでよ!」

 

 真っ赤になって抗議する姿さえ微笑ましく、渚の笑いは止まらない。

 タイムの終わり際、渚は息を整えながら、ポケットから何かを取り出した。

 

「あー、ついでにこれ渡しとくね」

「え? なにこれ?」

 

 手渡された紙片には、「68」とある。首を傾げる千夏に、渚がニヤリと笑った。

 

「次のバドミントンの組み合わせ。あんたのクイズ大会のと、交換ね」

「え、でも、バドミントンってダブルスでしょ? 知らない人だと、緊張するし……」

「相っ変わらずの人見知りね。大丈夫。お相手は、あんたの王子様だから」

「えっ」

「私はバド苦手だから、代わりにお勉強してくるわ。だから千夏は、思う存分、愛を育んできなさいな」

 

 からかうウインク。「もーっ!」と抗議しながらも、千夏は紙をぎゅっと握りしめた。

 

「……ありがとう、渚」

「頑張んなよ! 何かあったら、いつでも話聞くからさ!」

 

 千夏は、小さく頷く。その瞳に、次のステージへの期待と、ほんの少しの緊張が映っていた。

 

 

 

 

 

 交流戦は、最高潮の盛り上がりを見せていた。

 その中でも、ひときわ注目を集めるコートがあった。陸上部のエース・龍太、女子バスケ部のエース・千夏、新体操部のエース・雛、そしてバドミントン部の次期エース(?)・大喜。各部のスターが集結したこの試合は、「夢のペア対決」と呼ばれ、人だかりができていた。

 

「……ってか、なんでお前らが組んでんだよ」

 

 対峙する一年コンビに、龍太が眉を寄せる。大喜が苦笑して肩をすくめた。

 

「俺のペアだった羽場先輩が体調崩しちゃって。雛が代役になったらしい」

 

 その交代劇に納得して龍太が頷くと、雛が自信満々にラケットを構えた。

 

「そーいうこと! だから大喜、絶対勝つよ!」

「おう」

 

 弾むような声に、大喜も覚悟を決め直すように握り直す。

 

「だそうですよ、先輩」

「うん、負けられないね」

 

 龍太の軽口に、千夏も柔らかく応える。だがその瞳には、慣れない競技への緊張が滲んでいた。龍太は、思わずその様子を見つめてしまう。

 

「……ど、どうしたの?」

「いえ……先輩、本当にバドミントン、できるんですか?」

「むっ……! 今、ちょっと馬鹿にしたでしょ?」

「滅相もございません! ただ、純粋な興味で……」

「こう見えても、運動神経には自信あるんだから!」

 

 頬を膨らませて構え直す。その仕草の愛らしさに、龍太は吹き出すのを必死でこらえた。

 

「いくよー」

 

 合図とともに、千夏がシャトルを構える。真剣そのものの表情で、軽く上に投げた。

 

「っ」

 

 振り抜いたラケットは、空を切る。シャトルは……そのまま、地面へポトリ。

 一瞬、静まり返る体育館。

 慌てて拾い、構え直す。同じように投げて振り抜くが——今度も、かすりもせず床へ。

 温かい眼差しが飛んでくるのを自覚したのか、千夏の頬が紅潮した。

 

「や、やっぱり先輩って、不器用ですね」

 

 吹き出しながら言う龍太に、千夏が頬を膨らませる。

 

「さ、サーブだけ苦手なの!」

 

 未経験者はサーブ失敗で相手に加点されず、何度でも挑戦できる。龍太は少し近づいて、優しく伝えた。

 

「左手は、動かさなくていいんです。ただ、落とすだけ。ラケットを、シャトルに当てにいくイメージで」

「う、うん……やってみる」

 

 修正した千夏のラケットが、ついにシャトルを捉えた。弧を描いて飛ぶその姿に、顔がぱっと明るくなる。

 

「おおっ!」

 

 目を輝かせる千夏に「よかったですね」と微笑みながら、龍太は反対側へ視線を向けた。

 その瞬間、大喜が勢いよくラケットを振り抜き、スマッシュを叩き込んでくる。

 

「お、おまっ!?」

 

 間一髪で拾い返すが、返球は甘く、雛のもとへ飛んだ。

 

「雛!」

「う、うん!」

 

 落下地点に入るが、タイミングがわずかに遅れ、ラケットは空を切る。遅れて、シャトルが頭にコツンと当たった。

 

「あいたっ」

 

 そのまま床に落ちる。照れ笑いを浮かべる雛に、隣の大喜が我慢できずに吹き出した。

 

「ひ、雛、ちゃんとシャトル見ないとダメだろ」

「つ、次はちゃんと当てるんだから!」

「分かったから背中叩くな!」

 

 そのやり取りに、龍太と千夏も顔を見合わせ、つい笑い声を漏らす。

 ラリーが続くにつれ、大喜のスマッシュは鋭さを増し、龍太は拾い返すのに全神経を注いだ。観客の歓声も熱を帯び、試合は最高潮へ達していく。

 

「ナイス、大喜!」

「すごい、龍太くん!」

 

 笑い声と真剣な応酬が入り混じり、会場全体を飲み込んでいった。

 

「さすがだな……」

 

 ラリーを続けながら、大喜は心の中で龍太を称えた。

 

 どれだけ強烈なショットを叩き込んでも、彼は食らいつき、正確に返してくる。その俊敏さ、鋭い洞察。それが、自分との圧倒的な差に思えた。

 彼女の隣には、誰もが認める「ふさわしい存在」が立っている。その現実に、押し潰されそうになる。

 それでも、顔を上げて踏み出すしかない。わかってる。

 でも、考えるほど、憂鬱と絶望が胃の底から頭まで広がっていく。

 憧れと劣等感が交錯し、大好きなはずのバドへの集中が、散漫になる。視界がぼやけ、シャトルを追う目が曖昧になっていく。

 ああ……何やったって、俺にはもう。

 半ば諦めをのせて、身体が硬直した。

 その時だった。

 

 ——大喜っ! 頑張れ! 

 

 隣から響いた声が、迷いを断ち切る刃のように、心へ突き刺さる。

 閉ざされていた視界が、一気に開けた。

 空中で舞うシャトルだけが、見える。まるで、自分に向かって導かれているように。

 

 ——私からしたら……龍なんかに負けないくらい……か、かカッコいいと思うからっ! 

 

 頭の中で拘っていた疑問も、迷いも、驚きも、後悔も——みるみる蒸発していく。

 

「——っ」

 

 地面を力強く蹴り、全身で跳ね上がる。ラケットを振り抜く感触。放たれたシャトルは、鋭い直線を描いて、龍太のコートに突き刺さった。

 

「ナイスショット!」

 

 歓声と拍手。その中で、雛の声が、ひときわ大喜の耳に届く。

 

「やったね、大喜!」

 

 弾けるような笑顔。その姿に、大喜は不意に目を逸らした。

 自分の名を呼び、隣に立ってくれる存在。それは憧れではなく、今、確かにここにいる、彼女なのかもしれない。

 満たされることのなかった、これからも永遠に満たされないであろう少年期の憧憬が、大喜の中で、ゆっくりと薄れていく。

 

「ありがとう……雛」

 

 小さく呟いて、もう一度ラケットを握り直す。

 その手にあったのは、新しい決意と、隣にいる彼女への感謝だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千夏は、肩のバッグを揺らしながら部室へ向かっていた。交流会の余韻に、足取りは軽い。夕方の柔らかな日差しが校舎を橙に染め、心地よい風が汗ばんだ肌を撫でる。

 

「楽しかったな……」

 

 ぽつりと呟き、今日を思い返す。未経験者が懸命にプレーする姿。仲間と交わした笑顔。そして——龍太との、あの連携。胸の奥が温かくなって、思わず唇が緩んだ。

 部室の前で、視界の端に動くものが映った。体育館の入口がわずかに開き、隙間から人影が入っていく。誰かと足を止めると、見覚えがあった。

 

「……大喜くんと、龍太くん?」

 

 引き寄せられるように、足が体育館へ向かう。壁際に身を寄せ、息を殺して覗き込むと、フロアの真ん中に座り込む二人がいた。

 夕陽が長い影を作り、広い体育館は、まるで二人だけの聖域のようだった。

 大喜が、身振り手振りで何かを熱心に話している。龍太が静かに頷き、時折、柔らかく笑う。その穏やかな光景に、千夏は、侵してはならない領域に踏み込んでしまったような感覚に陥った。

 静寂に溶けるように、声の断片が、微かに届く。

 

「……れてただけなのかもしれないって、今なら思う」

「……そっか」

 

 龍太の声は、驚くほど優しく、深く、友の告白を受け止めていた。その短いやり取りだけで、二人のわだかまりが、雪解け水のように消えたのだと、千夏は直感した。

 

(……良かった。二人とも、ようやく元に戻ったんだ)

 

 胸につかえていた小骨が、すっと取れたような安堵。凍えていた心が、春の日差しに溶けていくようだった。

 ふと、遠い記憶が蘇る。

 

 ——ナツはさ、バスケのことになると、いつもそうだよな。

 

 かつての親友と交わした、何気ない会話。もう二度と戻らない、あの時間。

 自分にも、もう一度、あんな風に笑い合える日が来るのだろうか。

 

(……邪魔、しないほうがいいよね)

 

 そっと、扉の影から離れようとした、その時。

 

「何してるんですか?」

 

 背後の声に、千夏は息を飲んだ。

 

「——っ!?」

 

 雷に打たれたように振り返ると、大きな瞳を不思議そうに瞬かせる、雛が立っていた。

 

「え、えっと、これは……その……」

 

 焦って、バッグを握りしめる。覗き見の後ろめたさが、胸を締めた。だが、雛はそんな動揺など意にも介さず、すっと中を覗き込む。

 

「ん? あれ、大喜と龍?」

「う、うん。なんか、二人で話してるみたいで……」

 

 説明に、雛はしばらく中を見つめ、やがて、ふっと花がほどけるように微笑んだ。

 

「なるほど……。そっか。ちゃんと、仲直りできたんだ」

「うん。そうだね」

 

 その穢れのない笑顔に、千夏の緊張も解けていく。ほっとした空気が、二人の間に流れた。

 それを破ったのは、雛の、あまりにストレートな一言だった。

 

「千夏先輩って……もしかして、龍のこと好きなんですか?」

「えっ!?」

 

 その問いが、千夏の心のいちばん柔らかな部分を、的確に射抜いた。

 

「べ、別にそういうわけじゃ……」

 

 否定しながらも、耳まで赤いのは明らかだ。視線に耐えきれず、目を伏せる。

 

「気には……なってるよ?」

 

 最後は、蚊の鳴くような声。それでも、雛にははっきり聞こえたらしい。自分のことのように、嬉しそうに頷いた。

 

「ふふっ、やっぱりそうですよね」

 

 その微笑みに、千夏は恥ずかしさで頬を膨らませる。

 

「ちょ、蝶野さんは? 大喜くんのこと」

 

 自分だけ質問されるのは不公平だと、反射的に振り返す。今度は雛が顔を赤らめた。

 

「ま、まぁ、その……ちゃんと仲直りできたか、心配で」

 

 視線を泳がせ、しどろもどろになる姿に、千夏は思わずくすっと笑う。

 

「ふふっ、そっか。……同じ、だね」

「……はい」

 

 二人の間に、静かな共感が流れた。心の中の感情を少しずつ言葉にすることで生まれる温かさは、共通のものだった。

 体育館から、龍太と大喜の声が、また届く。

 

「雛となんかあったの?」

 

 その言葉に、雛の肩が、びくりと跳ねた。

 

「えっ……?」

 

 緊張して、無意識に拳を握る。

 

「な、なんだよ、急に」

「いや、さっきのお前の様子見てたらさ。そういうのって、大抵、別の誰かの存在が影響してたりするもんだろ。……大喜、お前、もしかして雛のこと、好きになったか?」

 

 あまりに直球な一言が、静寂に鋭く突き刺さる。大喜の顔が、夕陽よりも赤く染まっていくのを、千夏と雛は息を呑んで見つめた。

 

(ちょっと、何言ってるのよ……!)

 

 雛の心臓が、早鐘のように鳴る。

 

「べ、別にそういうわけじゃ……ただ」

「ただ?」

 

 好奇心には、抗えない。雛は扉に張りつくように、必死に耳を澄ませた。

 

「……カッコいいって、言われたら……さ。そりゃ、意識、するだろ……」

「ほぉ〜? いつ言われたんだよ。で? 意識しちゃった、と」

「……まあ、ちょっと、は……。あのときの雛の顔が、なんか、忘れられないっていうか……ドキッ、としたっていうか……」

 

 自分の言葉の破壊力に気づいたのか、大喜はそれ以上、続けられなかった。

 得意げに笑う龍太とは対照的に、扉の外では、雛が目を丸くして固まっている。

 

(ちょっと……え、えぇ……!?)

 

 胸が、ドクンドクンと鳴る。顔の熱を、どうにもできない。

 そして、話題の矛先が、思わぬ方向へ飛んだ。

 

「そんなこと言ってるけど、龍だって、千夏先輩のことどうなんだよ?」

「えっ、俺?」

 

 今度は、千夏の心臓が跳ねた。

 聞いてはいけない。そう思うのに、耳は正直に、彼の言葉を待っていた。

 

「一緒に住んでるんだろ? なんか思うことないのか? その、可愛い、とかさ」

「そりゃ、まぁ……毎日のように思うけどさ」

「——っ!」

 

(えっ…………!?)

 

 千夏が、絶句する。心臓が暴れそうなほど、鼓動を速めた。

 

「いや、そりゃそうだろ。学園のマドンナと一緒に暮らしてんだぞ……正直、耐えるのに必死だって」

「龍がそんなこと言うなんて、珍しいな」

 

 軽く笑う大喜の声に、意外そうな色が滲む。だが、千夏にはそれどころではない。龍太の言葉一つひとつが、心へ直接投げ込まれる爆弾のようだった。

 

(た、耐えるって……どういう……)

 

 顔が、一気に熱くなる。

 

「いや、そうなるって。お前、仮に雛と一緒に住んでみろよ」

「な、なんで雛が出てくるんだよ!」

「……今、想像した?」

「してないって!」

「ほんとか?」

「ほんとだって!」

 

 龍太が、じっと大喜の顔を覗き込む。そして、ふっと笑うと、低い声でぼそりと呟いた。

 

「まぁ、ふとした時にさ、いつもと違う距離感で側にいられてみろよ。心臓が持たないって……特に、風呂上がりとかさ」

「ぶっ!」

 

 大喜が吹き出した。

 

「お前、さらっと何言ってんだよ!」

「いや、マジで。あの色香に充てられて、俺、よく耐えてるなって自分を褒めたいくらいだぞ?」

「……まぁ、否定はできないけどさ……」

 

 ぼそぼそ呟きながら、大喜がどこか納得した顔をする。龍太は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「ん? 風呂上がりの雛、想像した?」

「だ、だからしてないって!」

「顔真っ赤だぞ」

「いちいち煽るな!」

 

 あまりに赤裸々な男子トークに、千夏と雛は、消えてなくなりたいほどの羞恥に襲われていた。

 

「でもホントさ、皆の言ってたこと、ようやくわかった気がするよ」

 

 ふと、龍太の声のトーンが変わった。

 

「ん?」

「いや、なに……見た目もそうだけどさ……あの人、すげぇキレイだよな。中身が」

「……お前、よくそんなこと、ストレートに言えるな」

「だって、事実だろ? バスケに真っ直ぐで、誰にでも優しくて、ちゃんと周りが見えてて。……そりゃ、モテるよな」

 

 何の飾り気もない、真っ直ぐな言葉。

 大喜でさえ照れているのに、千夏の心臓は、もう、爆発寸前だった。

 

「でもさ、龍がこんな風に異性に悩むなんて、本当に珍しいよな」

「……うるせえよ。しょうがないだろ、あんなことされたら。この間だって……」

「この間?」

 

 龍太は少し言い淀んで、ぼそりと呟く。

 

「熱出したとき、ずっと手を握っててくれたり……助けてくれたとき、抱きしめられたり……。不意に思い出すと、頭、パンクしそうになるんだよ」

「はあ!? それ、どういう状況だよ!」

 

 大喜の驚きの声に、千夏は耐えきれず背を向けた。

 

「せ、先輩……。すごい、大胆、なんですね……」

「〜〜〜っ!」

 

 その一言が決定打になったのか、しゃがみ込んでしまう。その姿を、同性の雛さえ、思わず可愛いと思った。

 

 

 

 

 

 夕暮れ。

 千夏と龍太は、いつもの公園で落ち合い、家路についていた。

 橙と紫の混じる空の下、長く伸びた二人の影が、遠慮するように、一定の距離を保って揺れている。普段なら軽口を叩く時間が、今日は、妙に重い沈黙に支配されていた。

 千夏は俯き加減に歩きながら、バッグの肩紐をぎゅっと握っている。体育館で、偶然、耳にしてしまった本音。それが、何度も頭の中で反響していた。「耐えるのに必死だ」。「すげえ、綺麗だよな、中身が」。思い出すたび、耳の奥が熱を帯び、彼の顔をまともに見られない。

 一方の龍太も、隣の不自然な様子に戸惑っていた。いつもは太陽のように明るい彼女が、今日はまるで薄氷の上にいるように、脆く、静かだ。何か怒らせただろうか。その焦りが、口を重くさせる。

 じりじりと、沈黙が空気を締めつけていく。

 

(……なんだよ、これ。めちゃくちゃ気まずいぞ……)

 

 何度も声が喉まで出かかっては、飲み込む。意を決して口を開こうとした、その瞬間——。

 袖口に、小さな、だが確かな力がかかった。

 

「……先輩?」

 

 驚いて足を止め、横を見る。千夏が、控えめに袖を掴んでいた。顔を伏せたまま、ぽつりと、小さな声で紡ぐ。

 

「龍太くんとの思い出……最後にもう一個だけ、作ってもいい?」

 

 その声は、夕暮れの風に溶けてしまいそうなほど、か細く、儚かった。

 顔を上げた瞳は、不安と、それ以上の期待に潤んでいる。上目遣いのその表情は、龍太が今まで見たことのない、あまりに無防備な彼女だった。

 夕陽が、その白い頬を、熟れた果実のように赤く染めている。彼女の言葉が、不思議なほど甘く、切なく、鼓膜を震わせた。

 

「……どこか、寄っていきますか」

 

 ややあって、龍太がそう答えると、千夏の表情が、魔法が解けたように、ぱっと輝いた。その無垢で眩しい笑顔に、龍太の心臓が、大きく、確かに、音を立てる。

 

「うん!どこへ行こうかな」

 

 弾むような声とともに、ぎこちない空気は、嘘のように消えていた。軽やかに歩き出す後ろ姿を追いながら、龍太は、小さく、幸せな溜息をつく。

 

(……やっぱり、この人には、敵わない)

 

 夕陽が、二人の影を、さらに長く伸ばしていく。

 並んで歩くその二つの影は、いつの間にか、その距離を少しだけ、縮めているように見えた。

 

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