親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
朝5時半、ランニングシューズの紐をきつく結びながら、外に出ると湿度の高さが肌にまとわりつくのを感じた。少しひんやりした風が頬を撫でるが、その下にはどこか蒸した空気が潜んでいる。空は薄いオレンジ色に染まり始めていて、まだ日の光は柔らかい。
遠くから聞こえてくるバスケットボールの弾む音。それに背中を押されるように、「よし、行くか」と軽く腕を振り、走り出した。最初の数歩は体が重く感じられるが、リズムを掴むうちに足が自然と動き出した。まだ静かな住宅街を抜けると、街路樹が並ぶ道に差し掛かる。葉っぱの間から光がこぼれ、地面に揺れる影を落としている。
呼吸は一定に保ちつつ、早朝の街を駆け抜ける。湿ったアスファルトの匂いが微かに漂い、足元でリズムを刻むシューズの音が耳に心地よい。近くの公園ではジョギングをする人や犬を散歩させる人がちらほらと見え始め、彼らに軽く会釈を返す。
汗がじんわりと額から流れ始め、シャツが背中に貼りつく。それでも、湿度の中に漂う朝特有の爽やかさが気分を軽くしてくれる。汗をぬぐいながら少しペースを上げ、遠くの空が青みを増していくのを眺める。
「ああ、これからもっと暑くなるんだろうな」と心の中でつぶやきながら、いつもより少しだけ長く走ることを決めた。
ランニングを終え、家のドアを開けた瞬間、外の湿気とは違う室内のひんやりとした空気が体を包み込む。息を整えながら靴を脱ぎ、汗ばんだシャツを引っ張るようにして脱ぐと、冷えた空気が肌に触れて少しだけ涼しく感じた。
浴室のドアを開けてシャワーのノブをひねると、勢いよく流れ出した水がタイルに当たる音が響く。すぐに冷たい水を手で確認し、そのまま頭から浴びると、全身に広がるひんやりとした感触が一瞬で疲れた体を癒してくれる。ランニング中に溜まった汗と湿気が洗い流されていく感覚が心地いい。
次第に水温を少し上げていき、体全体を温めながらストレッチするように首を回したり、肩をほぐしたりする。シャワーの音と一緒に、ランニング中の静かな街並みや日の出の光景が頭をよぎる。なんとなく達成感が湧き、今日も一日頑張れそうな気がしてくる。
最後に冷たい水をもう一度浴びて体を引き締める。浴室から出ると、肌がすっきりとして、汗で蒸れていた気分もどこか軽くなっている。髪をタオルで拭きながらドライヤーで乾かし、制服に着替えてリビングに戻ると、朝の光に包まれながら、ダイニングテーブルに腰を下ろす人物がいた。ふと、その少女が顔を上げる。茶色の瞳と交差した。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、龍太くん。今朝もランニング?」
「はい。日課なので」
「えらいね」
さらりと返されたその言葉に、龍太は内心で苦笑いを浮かべる。
(いや、それを言うなら、朝早くからバスケの練習をしてる先輩に言われたくないんだけどな)
ふと、彼女の服装に目が留まる。白い半袖のシャツ、首元から覗く鎖骨、そして、いつもより少しだけ大人びて見える、その佇まい。夏服に衣替えした彼女の姿は、まるで初夏そのものを擬人化したかのようだった。
「そう言えば、衣替えでしたね」
「うん。やっぱり、夏服は涼しくていいね」
改めて彼女の姿に目を奪われる。何気ない衣替えの制服姿も、彼女が身にまとうと特別な輝きを放つ。
「……あー、その、似合ってますね、制服」
言葉にした瞬間、後悔した。千夏の頬が、ほんのりと桜色に染まる。
「えっ……あ、ありがとう」
彼女は照れたように前髪を弄りながら視線をそらす。その仕草があまりに無防備で、龍太は目のやり場に困った。
「いえ……」
「りゅ、龍太くんも似合ってるね」
「ど、どうも……」
唐突に訪れた気まずい沈黙。お互いに言葉を探すが、妙な空気に押し流されるように口を閉ざしてしまう。
(最近、先輩のこういう表情を見ることが増えた気がする……)
そのたびに、理性の奥で何かが警鐘を鳴らす。彼女の照れた顔を「可愛い」と思ってしまう自分を、必死で戒めようとする。だが、その抵抗は、あまりにも無力だった。
そんな緊張感に包まれた二人の間に、軽やかな声が飛び込んでくる。
「あらあら、朝から青春ねぇ」
その声の主は香織。ニヤニヤと笑いを浮かべながら、二人のやり取りを面白がっている。
「ばっ、なんの話だよ!」
「さぁ、何の話かしらねぇ」
龍太が慌てふためく横で、千夏は顔を赤くしたまま下を向いている。香織はそんな二人を見てさらに満足げに笑うと、千夏に差し出すように声をかける。
「はい、千夏ちゃんの朝ごはん。龍くんも、早く食べちゃいなさい」
「ありがとうございます」
テーブルの上には母が用意してくれた朝食が並べられていた。白いプレートには彩り豊かな料理が乗っていて、香ばしい匂いが漂っている。
メインはふっくら焼き上がった鶏むね肉のソテー。レモンが添えられていて、さっぱりとした味付けが運動後の体に染み渡りそうだ。横にはたっぷりのサラダ。レタスやトマト、アボカドがバランスよく盛り付けられ、その上には半熟卵がちょこんと乗っている。ドレッシングは手作りらしく、シンプルで優しい香りがする。
さらに、玄米ご飯が炊き立ての状態で湯気を立てている。母が気を利かせて塩昆布を添えてくれたのが嬉しい。スープは具沢山の野菜スープで、人参や大根、ほうれん草が入っていて体をじんわりと温めてくれる。
「美味しい。私、香織さんのお料理好きです」
天使のように柔らかい微笑みをする千夏に、香織は僅かに目を見開くなり、惚けたような表情になる。
「ホントお上手ねぇ……もう家の子になる?」
「えっ……あ、えっと……」
決まり悪げにぱっと顔を赤らめる千夏に、龍太はため息をついた。
「母さん、あんまり先輩を困らせるなよ」
「ウフフ……冗談よぅ」
「いや、その血走った目は冗談じゃないだろ」
母の茶目っ気に、龍太は呆れたようにため息を吐きつつも、どこか楽しげだった。朝食を平らげると、さっと身支度を整え、千夏と共に家を出た。二人は、どちらからともなく、同じ歩幅で通学路を歩き始める。
「なんだか一緒に登校するの、久しぶりだね」
不意に、千夏が柔らかな声で呟いた。その視線は、道端で風にそよぐ木々の、鮮やかな新緑に向けられている。
「前は桜が咲いてた頃ですかね」
「早いね、もう2カ月も過ぎちゃった」
千夏の言葉に、龍太はゆっくりと頷く。季節は、知らぬ間に、しかし確実に、移り変わっていく。
「そうですね。もうすっかり暑くなってきましたね」
「うん……『いよいよ』って感じだね」
千夏が小さく笑う。
――何が、とは、あえて問わなかった。
その言葉に込められた意味を、龍太もまた、痛いほどに理解していたからだ。
「夏、かぁ……」
「先輩?」
「ううん、もうすぐだなって思っただけ」
そう言いながら、千夏は空を見た。
つられて龍太も視線を少し上げれば、青空に浮かぶ雲が、ゆったりと形を変えながら漂っている。
その間から覗く澄んだ青は、どこか透き通るようで、まだどこか初夏の涼しさを感じさせた。
けれど、陽がもう少し高くなれば、空の色は濃さを増し、地面に落ちる影ははっきりと濃くなり、夏の気配がさらに近づいてくる。
もうすぐ地区予選が始まる──その事実が、二人の胸を高鳴らせていた。期待と緊張、そして覚悟。そのすべてが、新緑の通学路を歩く二人の足音にそっと溶け込んでいた。
校庭から聞こえてくる声や足音は、先日の交流会で見られた、ほのぼのとした空気とはまるで異質だった。来週から始まる地区予選を前に、生徒たちの纏う空気は、まるで薄氷のように張り詰め、ピリピリとした緊張感を帯びている。その空気に当てられたのか、大喜は教室の机に突っ伏し、深いため息を繰り返していた。
「何、お前まで緊張してんのよ」
龍太が呆れたように声をかけると、大喜は顔を上げないまま、くぐもった声で返した。
「そりゃするだろ……予選、明後日なんだぞ」
「いいじゃん。ワクワクするだろ?」
「まあ、少しはな……。でも、やっぱ緊張するって!」
大喜の苦笑まじりの言葉に、龍太は思わず吹き出した。
「緊張でガチガチになって、スマッシュ空振りとか絶対すんなよ?」
「やめろ! 想像しただけで胃が痛くなる!」
龍太がニヤリと笑ったその時、隣からひょいと顔を出したのは蝶野雛だった。
「なになにー、大喜ったら緊張してるのー?」
「……逆になんで雛は緊張しないんだよ」
「それはね、この蝶野雛様が最強だからよ!」
「同感。俺も負ける気がしねぇし」
龍太が肩をすくめて言い、雛が誇らしげにうなずく。大喜は目を見開き、ため息をつきながら呟く。
「……ほんと凄いな、2人のそのメンタル」
そのやり取りを見ていた匡が、苦笑しながら口を開く。
「大喜、俺たちが普通なんだと思う。龍と蝶野さんが例外なだけだ」
「誰が例外だコラ」
龍太が軽口で返すと、匡がふと、真面目な顔で尋ねた。。
「龍、試合って明日だっけ?」
「ああ、匡もだろ?」
「ああ……悪いな、応援行けそうにない」
申し訳なさそうに言う匡に、龍太は軽く笑った。
「いいよいいよ。お前も試合があるんだから、気にすんなって」
「お互い様だろ。俺こそ、行けなくて悪い」
龍太は、大喜の机に無造作に置かれていたシャーペンを、何気なく手に取った。中学に入学した時からずっと使っている、傷だらけのそれ。その、使い古された感触を確かめながら、ふと、呟いた。
「今年もさ、また皆でどっか出かけようぜ」
「良いじゃん! 行こうよ!」
雛が勢いよく身を乗り出す。その元気さに押され、龍太は去年の出来事を思い出していた。
自分たちの一番の優先順位は、部活だ。小学生の頃から成績を残してきた雛にとっても、それはぶれることはないだろう。 けれど自分たちは、十五歳だ。 部活以外の思い出だって、たくさん作っておきたい。夏が来るたび、小学校のプールを懐かしく思うみたいに、中一の時の花火大会に行きたくなるみたいに。
「去年は……学校で天体観測みたいなことしたよな」
「そういえば、そんな事あったな」
大喜が顔を上げる。雛も楽しそうに笑顔をつくる。
「行った行った! 龍が大絶叫してたやつだよね?」
「……頼むからそれは忘れてくれ」
龍太が苦い顔をすると、クスクスと3人が笑う。
「今年は海とか?」
大喜が提案すると、雛の瞳が輝いた。
「良いじゃん! 海行こーよ!」
「じゃあ、空いてる日確認しとかないとだな」
匡も、まんざらではないようだ。そんな、夏の他愛ない計画を話しているうちに、大喜の強張っていた表情も、少しずつ和らいでいく。
「……あー、なんか言ってたら少し気楽になってきたかも」
「おっ、いいじゃんその調子! 明後日は、雛に応援してもらって頑張れよ」
「えっ、なんで俺限定なんだよ」
龍太の言葉に、大喜が顔を赤くして反論するが、雛は余裕の笑みを浮かべている。
「応援するのはいいけど、大喜がミスったら超笑うからね!」
「おい、プレッシャーかけんな!」
大喜の抗議に、みんながどっと笑い出す。張り詰めていた緊張の糸が、ふっと、優しく緩んでいく。予選を前にした教室の空気は、いつしか穏やかさを取り戻し、それぞれの試合への思いが、少しだけ、温かさを帯びていった。
「はいっ!」
バトンを渡す前の掛け声。気楽な見学者がハッとするような大声。受け手の走者が後ろにまっすぐ高く伸ばした腕。その手に吸い込まれるバトン。ほんの一瞬のことであっても、そのスピードはかなり速い。
そのままバトンを持って地面を力強く蹴り、ぐんぐんと加速していく。次の走者が構えている。チェックマークを越えてスタートする。バトンは吸い込まれるように次の走者の手に入り、綺麗なバトンパスが決まる。
「先輩、いけますよー!」
正しいフォームで走る後ろ姿に掛け声をかけて、バトンパスがまた決まる。そのまま最終走者がゴールする。
「43秒。正式じゃねぇけど、まぁまぁ速くなったな」
ストップウォッチを見ながら呟く鶴田の声に続き、ゴール地点から喜びの雄叫びが上がる。
「うっしゃ──!!」
魂の叫びをあげたのは最終走者の浦安。興奮冷めやらぬまま、駆け寄ってくる仲間たちと手を叩き合い、龍太も自然と拳を握りしめていた。
「いやー、やっぱり龍太いるとはええな」
「ちょっ、強いって」
背中を豪快に叩く音とともに笑うのは、3年生の三浦。彼の笑顔はその場の空気を一気に明るくする。
「いや、そんな事ないですよ。三浦先輩もさっきのスタート最高でした」
「だよな、今の良かったよな。後でもう一回やろうぜ」
「はい!」
頼もしい先輩の背中を見送りながら、龍太は額に滲んだ汗を拭った。
リレー競技は二種目ある。100mを四人で走る400mリレーと、400mを四人で走る1600mリレーだ。400mリレーはヨンケイ(4継)、1600mリレーはマイルとも呼ばれている。
龍太は両方に出場し、三浦にバトンを繋ぐことになっている。その意味を龍太は重いくらいに理解していたからこそ、練習にも気合いが入る。
3年生にとってはこれが最後の大会だ。だからこそ、託されたものの大きさを龍太は痛いほど理解していた。
(このバトンには、あの人たち全員の想いが込められてる)
龍太の眼差しは真剣そのものだった。その視線の先には、夕陽に染まるトラックと、仲間たちの笑顔が広がっていた。
「絶対に勝とうな! 目指せ四継でインハイ!」
その声に、仲間たちが「おう!」と拳を上げて応える。その姿はまるで、一つのチームというより、一つの家族だった。
(この人たちを全国に連れていく。それが、せめてもの恩返しだ)
かつての自分に投げかけられた挑発的な言葉が、龍太の脳裏に一瞬よぎる。
──テメェじゃ俺には一生追いつけねぇよ、ノロマ。
龍太は拳を握りしめる。その拳には、決して折れない覚悟と、仲間たちへの信頼が込められていた。
夕暮れは、少しずつ長くなった日を名残惜しむように、空に淡い茜色を広げていた。龍太はグラウンドの片隅で一人、汗を拭きながら軽く息を整える。練習に集中していたせいで、時間が過ぎていることに気づかなかった。空を見上げると、沈みゆく太陽が地平線に近づき、世界が静かに夜を迎えようとしていた。
「今日はこれで終わりにしとくか……」
呟きながら、龍太はトラックに置きっぱなしにしていた荷物を回収する。チームメイトは既に帰宅しており、残っているのは自分一人だけだ。トラックには、まだ微かに温もりを残した風が吹き抜け、遠くから聞こえる鳥の声が心地よいBGMのように感じられた。
門を抜け、いつもの帰り道へ足を向ける。今日は珍しく、一人での帰宅だ。千夏と一緒に帰るのがすっかり日常になっていたため、この静けさがどこか新鮮に感じられる。
(先輩、今日は先に帰ったんだよな……)
『予選に向けて、今日は早く上がるね』。昼過ぎに届いた、彼女からの短いメッセージ。心配になって、『無事に着きましたか』と返信すれば、『心配性だね』と、笑う絵文字付きで返ってきた。仕方ないだろう。あの人は、ただそこにいるだけで、人の視線を集めてしまうのだから。
(こうして、一人で帰るのって、いつ以来だ……?)
足音だけが静かな通学路に響く。いつも隣にいる彼女の声や笑顔がないことが、少しだけ物足りなく思えた。それに気づいた瞬間、胸の奥がほんのりとざわめく。
「……変な感じだ」
つい口にして、自分で小さく笑った。隣に千夏がいることが当たり前になりすぎていたのかもしれない。そんなことを考えていると、彼女と交わした些細な会話が脳裏をよぎる。
「今日は暑かったね」とか、「宿題、ちゃんとやってる?」なんて、ありふれた話題。それでも、どれもが思い返すと不思議と心に残っている。
家の近くに差し掛かった時、街灯が一つ、ぽつんと明かりを灯していた。その光の下で一瞬足を止める。夕陽が完全に沈み、淡い紫色の夜がゆっくりと訪れようとしている。
(先輩、今頃どうしてるかな……)
胸の中に浮かぶのは、彼女の笑顔と、何気ないやり取りの数々。そんな自分に気づき、龍太は小さく頭を振った。
「まぁ、同じ家だし分かることか」
呟くと同時に、また一歩を踏み出す。静かな夜道に響く足音は、どこかリズミカルで、心なしか軽やかだった。
玄関の扉を開けると、ふわりと香る良い匂いが鼻をくすぐった。料理の香ばしさに混じったほのかな甘さが、疲れた体を一瞬で癒やす。
「おかえりなさい、龍太くん」
優しい声に振り向くと、そこにはエプロン姿の千夏が立っていた。シンプルな部屋着にエプロンを重ねた姿は、どこか家庭的で、その柔らかい雰囲気に思わず目を奪われる。
「た、ただいまです……なんか、いい匂いしますね」
靴を脱ぎながらそう尋ねると、千夏はほんのり笑みを浮かべた。その笑顔は、今日の夕陽のように穏やかで温かい。
「先お風呂にする?」
ごく自然に、当たり前のようにかけられたその言葉に、龍太の思考が一瞬、停止する
(……いや、待て。この流れは、何だか、ものすごく……新婚っぽくないか?)
妙な気恥ずかしさを覚えながらも、龍太は咳払いをして誤魔化し、素直に頷いた。
「そうですね、汗かいたので」
「ふふっ、お疲れ様」
そう言いながら、千夏が、これまた当たり前のように、龍太の部活バッグをその華奢な手で受け取る。
――別に、深い意味なんてない。
頭ではわかっている。わかっているのに、彼女の指先が、ほんの少しだけ自分の手に触れた瞬間、心臓が、大きく、そして確かに、音を立てた。
(……なんなんだ、この感じ)
違和感の正体が分からないまま、龍太は浴室へと向かった。
シャワーを浴びて汗を流すと、体の芯から疲れが取れていく。温かい湯が肌を包み込むたびに、今日の部活や交流会の光景が頭をよぎった。ふと、千夏の笑顔やエプロン姿が浮かび、何とも言えない気恥ずかしさを覚える。
(初めてみたけど、なんであんなに自然なんだろ……というよりなぜエプロン?)
自分の胸の内がざわつくのを感じながら、龍太はシャワーを止めた。身体を拭いて浴室を出ると、リビングから先ほどの香りが強く鼻をくすぐる。
「龍くん、お疲れ様。席座っちゃって」
ダイニングテーブルには、湯気を立てるカツ丼が四つ、整然と並べられていた。丸いどんぶりの中には、こんがりと揚がったカツが甘辛いタレにしっとりと染み込み、その上にはふんわりと卵がとじられている。彩りに添えられた青々とした三つ葉が、全体の仕上がりを引き立てていた。
湯気が立ち上るたびに、甘みと旨みが混じり合った香りが部屋中を満たす。その香りが食欲を刺激し、自然と胃が鳴りそうになる。テーブルには味噌汁も添えられており、味噌の香りがカツ丼の香ばしさと調和して心地よい。
箸や湯呑が並ぶテーブルは、どこか温かみを感じさせる雰囲気を纏っていた。テーブルの中央には漬物の小鉢が置かれ、鮮やかな赤や緑がカツ丼の色合いをさらに引き立てている。隣には冷えた麦茶が注がれたグラスが置かれ、夕食を待つ準備が整っていることを物語っていた。
「う、美味そう……」
「うふふ、頑張った甲斐があったわね」
母の言葉に、なぜか千夏が「い、いえ……」と照れくさそうに視線を泳がせる。その様子を不思議に思いながらも、龍太は席に着き、皆で手を合わせた。
箸を取り、カツ丼を一口、頬張ろうとした、その時。隣からの強い視線に気づいた。顔を向けると、千夏が、箸を持ったまま、祈るような、それでいて何かを期待するような瞳で、じっとこちらを見つめている。
「……先輩?」
声をかけると、彼女は「はっ」と我に返ったように視線をそらし、慌てて首を振った。
「え、ううん。なんでもないよ」
その、あまりにも不自然な態度が気にかかる。それでも、再び視線を戻すと、やはり千夏の瞳は、真っ直ぐに自分を捉えていた。
(え、なに……? 俺の顔に何かついてるのか……? めちゃくちゃ食いづらいんだけど……)
気まずさを感じながらも、龍太はカツ丼を一口運んだ。噛んだ瞬間、サクサクの衣と出汁が絡んだ卵の柔らかさが絶妙なハーモニーを奏でる。甘さと塩味がバランスよく舌の上で広がり、ジューシーな豚肉の旨味が口いっぱいに満ちていった。
「うまぁ……」
思わず感嘆の声が漏れた。
すると、視界の端で、千夏が ホッとしたような表情 を見せる。
それを見た瞬間、龍太はついその様子をじっと見つめてしまった。
が──
「みるな」
むっ とした顔で睨まれる。
「いや、理不尽でしょ!?」
二人の間の、その奇妙なやり取りに、母の香織が、楽しそうにクスリと笑った。
「龍くん、美味しい?」
「そりゃいつも美味いよ……でもなんか、今日は違うというか……凄い美味い。なんか調味料とか変えたの?」
「調味料、ねぇ……。そうね、今日は特別な『隠し味』が入ってる、かも。ね、千夏ちゃん」
「──っ!?」
香織が、悪戯っぽく千夏にウインクを送る。その瞬間、千夏の頬が、一瞬にして真っ赤に染まった。
「あの、先輩?」
「こ、コッチ見ないで!」
「いやだからなんで!?」
二人のやり取りを見ていた香織は、楽しげに息子へと視線を向ける。
「龍くんはニブチンねぇ……ヒントは幾つかあったと思うんだけどなぁ。一体誰を真似たのかしら」
「……俺を見ないでくれ」
父と母がくすくすと笑う中、龍太はもう、どうしていいかわからなかった。ただ、目の前の、世界で一番美味しいカつ丼を、味わうことに全神経を集中させるので、精一杯だった。
部屋の中は静かで、時計の秒針が規則的な音を刻む。外からはかすかな虫の音が聞こえ、夜の静寂が全体を包み込んでいた。机の上には教科書やノートが乱雑に広がり、窓際には明日の地区予選に必要なユニフォームがきちんと畳まれて置かれている。
龍太は床にマットを敷き、その上に仰向けになっていた。両手を頭の後ろに組み、ゆっくりと息を吐きながら体を起こす。これは腹筋を鍛えるためのシンプルなトレーニングだが、彼の動きには迷いも焦りもなく、一つ一つの動作が正確だった。
(明日は地区予選か……)
頭の片隅でそう思いながらも、龍太の心は驚くほど静かだった。特別な緊張感も高揚感もない。ただ、身体を動かす感覚に集中し、自分のペースでトレーニングを進めていた。彼にとってこの時間は、試合前の特別な儀式というよりも、日常の延長線上にあるものだった。
動きを止め、ふっと息を整える。額には汗が滲んでいるが、特に苦しそうな様子も見せず、自然なリズムで次の体幹トレーニングに移る。両肘とつま先を床につけ、体を一直線に保つプランクの姿勢を取りながら、彼は内心で明日のレースのイメトレを始めていた。
(バトンパスは完璧……後は2区で何とか俺が踏ん張らないと)
視線は自然と床に向けられ、呼吸を整えながら体の中心に力を込める。時計の針が進む音が部屋に響き、龍太の集中を妨げるものは何もなかった。
やがてプランクの姿勢を解き、ゆっくりと立ち上がる。窓際の椅子に置いてある水のボトルを手に取り、少しだけ口に含むと、冷たい水が身体中に染み渡る感覚がした。龍太は短く息を吐き、窓の外を眺めていると、そんな静かな時間を破るように、ドアがノックされた。
「どうぞ」と促すと、扉がゆっくりと開き、部屋着姿の千夏が顔を覗かせた。柔らかな素材の服が、彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。その、あまりにもリラックスした雰囲気に、龍太は少しだけ、心拍数が上がるのを感じた。
「筋トレ、してたの?」
「まあ、体幹トレーニングですけど。いつものルーティーンなんで」
「そっか、お疲れ様。……じゃあ、邪魔しちゃったかな」
「いえ、ちょうど休憩中だったんで。大丈夫です」
「そっか。……お邪魔、してもいい?」
「どうぞ」と答えると、千夏は「お邪魔します」と丁寧に部屋に入ってきた。その様子を見て、龍太は少し首をかしげる。普段ならこんな時間に来ることはないのに、一体何の用だろうか。
「急にごめんね。龍太くん、何してるのかなって思って」
「ああ、なるほど。まぁ、見ての通り体幹強化中ですね」
その、何の変哲もない返答に、千夏は思わず、クスッと笑い声を漏らした。
「その様子だと、緊張してる感じでもないね」
「そりゃまあ、後はやるだけですからね」
「大物だね」
千夏は感心したように言うが、龍太は肩をすくめる。
「どうですかね。まぁ、取り急ぎ不満があるとすれば、学校に重り忘れちゃったんで、それ載せてプランクできないのが残念ですね」
「ふふっ、やっぱり大物だ」
千夏は楽しそうに笑うと、ふと何かを考えるような表情を浮かべた。
「普段はどのくらいの重さを乗せてるの?」
「40キロぐらいですかね」
「そっか……少し重くなっちゃうけど、いい? す、少しだけだよ?」
「…………はい?」
龍太は思わず聞き返し、千夏を見つめる。
彼女はなぜか、ちょっとだけ視線を泳がせながら言葉を続けた。
「ほら、龍太くん、プランクして?」
「え、まぁ……?」
状況を掴めないまま、言われるがままにプランクの姿勢をとる。
次の瞬間──
ふわり、と、シャンプーの甘い香りが、彼の理性を麻痺させるように、鼻腔をくすぐった。そして、背中に、しなやかで、温かく、そして、あまりにも柔らかな重みが、ゆっくりと乗っかった。
「――お邪魔します」
「ファッ!?」
思わず、声が裏返った。背中に感じる、彼女の体温、その柔らかさ、そして、すぐ側で聞こえる、彼女の穏やかな呼吸。これが、トレーニングの一環などと、到底、思えるはずがなかった。
「えっ、ちょ、先輩!?」
「トレーニングになりそうかな? 40キロは……その、ちょっとだけ、オーバーしちゃうけど」
「あ、いや、その……先輩、めちゃくちゃ軽いですね」
「そ、そうかな? ありがとう」
千夏は気にした様子もなく、安定した体勢で龍太の背に居座る。
(いや、問題はそこじゃなくて!!)
身体的な負荷よりも、精神的な負荷が強すぎる。
動揺を悟られないように必死で呼吸を整えながら、龍太は何とか冷静を装った。
「わ、すごい。全然、ぶれないんだね」
千夏の明るい声が頭上から降ってくる。
だが、龍太の頭の中はそれどころではなかった。
(いや、もうダメだ、限界)
思考を振り払うため、龍太は唐突に言い放つ。
「す、少し動きますね」
「へ? う、うん」
──動けば少しは気が紛れるはず。
そんな願いを込め、龍太は腕立てを開始した。
「おおっ、すごい!」と千夏の感嘆の声が響く中、龍太は内心で冷や汗をかきながら数回の腕立てをこなしていく。そうして何回か腕立てをして、地獄のようなトレーニングを終了した。
マットの上で息を整えながら座る龍太の隣に、千夏もそっと腰を下ろした。その瞬間、ふわりと、柔らかなシャンプーの香りが鼻をかすめる。甘すぎず、どこか澄み切ったその香りが、なんだかとても彼女らしい、と思ってしまい――龍太は、慌てて意識を逸らした。
(……何考えてんだ、俺)
気持ちを落ち着かせるように、軽く咳払いをする。
「そういえば、先輩は明日何時から試合なんですか?」
「13時からかな。龍太くんは?」
「9時に四継の予選ですね」
「四継はリレーだよね」
龍太は小さく頷いた。
「3年生にとっては最後の大会ですからね。バトンミスしないでしっかり繋げないと」
「……怖くは、ないの?」
ふと千夏が真剣な表情で尋ねてくる。その言葉には、どこか自分自身への問いのような響きも感じられた。
「もちろん、怖いですよ。100メートルみたいに、自分一人で完結するレースじゃない。チームの想いを、全部背負って走るんです。責任は、重いですよ」
そう語る龍太の瞳には、しかし、恐怖の色はなく、ただ、静かで、そして燃えるような決意の光が宿っていた。
「でも、インハイ一緒に行きたいんです。それがあの人たちへの恩返しでもあると思うので」
「そっか」
納得したように頷く千夏。その横顔はどこか優しさと覚悟を帯びているようだった。
「私も今のチームが好きだから、みんなでインハイ行きたいな」
「そうですね、その為に残ったんですもんね」
龍太が穏やかに返すと、彼女は少しだけ間を置いて、まるで自分に言い聞かせるかのように、小さく、そして強く、呟いた。
「……勝ちたいな」
それはただの願望ではなく、これまで積み重ねてきた日々のすべてを込めた言葉だった。
「去年は、私が最後のシュートを外して、負けたから。……次は、絶対に、外したくない」
淡々とした口調の奥には、覚悟と焦り、そしてほんのわずかな不安が滲んでいるように感じられた。
龍太はそっと彼女の横顔を盗み見る。
千夏は、視線を伏せたまま、じっと自分の手を見つめていた。
指先がかすかに動く。
まるで、無意識にバスケットボールを扱うかのように。
彼女がどれほどの努力を重ねてきたのかは、龍太も知っている。朝早くから練習に励み、誰よりもストイックに自分を追い込み続けてきた。
それでも、勝負の世界に「絶対」はない。
どれだけ努力しても、結果がすべてを決める。
その一言には、彼女のすべてが詰まっていた。
誰よりもこのチームを大切に思い、誰よりもこの仲間と一緒に戦いたいと願っているからこそ、この言葉は、こんなにも重く、痛切に響いた。
けれど、その姿は、龍太にとってはどこか意外でもあった。
思わず、クスッと笑いが漏れる。
「な、なに?」
千夏が顔を上げ、不思議そうに龍太を見る。
「いや、栄明のエースでもそうやってプレッシャーに悩まされることがあるんだなって思って」
ぷくっと頬を膨らませる千夏。
「そりゃそうだよ。私は、別にプレッシャーに強いわけじゃないもん。プレッシャーなんて、まるで感じてないみたいな、龍太くんが、特別なの」
龍太はその仕草が妙におかしくて、口元に笑みを浮かべる。
「なんというか、先輩って意外と感情表現豊かですよね。結構分かりやすいと言うか」
「えっ?」
千夏の目が僅かに見開いた。
「皆からは、よく何考えてるかわからないって言われるけど」
「まぁ、俺も最初はそう思ってましたけど……」
龍太は、少しだけ考えるようにしてから、彼女の目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと続けた。。
「知れば知るほど、実はすごく人見知りなのに、お喋りだったり。好きなものの話をしてる時とか、バスケをしてる時は、子供みたいに目がキラキラしたり……。それに、こうやって、一人でプレッシャーと戦ってたり。……色んな顔が見えてくるなって思います」
千夏は、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
しばらく沈黙が流れる。
部屋の外では、時折遠くの車の音が微かに聞こえ、それが夜の静けさを一層引き立てていた。
「……そっか」
やがて、彼女は、ふっと、堰を切ったように小さく笑った。
「じゃあ、もし私がまた落ち込んでたり、プレッシャーに押し潰されそうになってたり……どうしようもなく、龍太くんと話したくなったら、こうしてまた、ここに来てもいい?」
「そりゃまあ、俺でよければ。LINEでもなんでも」
「ふふっ、ありがとう」
そう言って微笑む千夏。その表情は、先ほどまでの不安げなものとは違って、どこか柔らかかった。
龍太は、少しだけ照れくさそうに視線をそらす。
すると、千夏がふいに何かを差し出してきた。
龍太の視線が、その手元に吸い寄せられる。
「龍太くん、これ一緒に着けない?」
彼女の手のひらには、細い糸で編まれた小さなミサンガが乗っていた。青、白、黄色──爽やかな配色が、どこか夏の空を思わせる。シンプルだけれど、どこか温かみを感じるその手作りのミサンガを、龍太はまじまじと見つめた。
「……ミサンガ?」
「うん。私のとお揃い」
千夏が見せる足首にも同じミサンガが巻かれているのが見えた。
「日本に残るって決めたときに作ったの。願掛けというか、決意を形にしておこうと思って」
千夏は、どこか照れたように笑う。
「もし趣味じゃないとかだったら、無理にとは言わないけど……」
そう言いながら、少し遠慮がちにミサンガを持ち直す彼女の仕草に、龍太は思わず笑みをこぼした。
「へぇ、先輩って手先器用なんですね」
「ミサンガは作るのかんた……あ、今、ちょっと馬鹿にしたでしょ?」
途端にジト目を向けてくる千夏に、龍太は慌てて両手を振る。
「し、してないですって!」
「そういう人にはあげません」
「ちょ、冗談ですって!」
慌てる龍太を見て、千夏はクスッと小さく笑いながら、再びミサンガを差し出した。
「応援、行けないから。その代わりに、龍太くんが最高の走りができるように、念力、込めといたから」
「なんすか、念力って……」
その、子供っぽい言い回しが、なんだかとても彼女らしくて。
クスッと龍太は小さく笑うと、手渡されたミサンガを受け取った。軽くて柔らかい糸の感触が指先に伝わる。
「大切にしますね」
「ダメだよ、大切にしちゃ」
「えっ、いや、そうは言われても……」
「ふふっ、真面目だなあ」
千夏は柔らかく微笑み、龍太は少し頬を掻いた。
「……別に、いいでしょ。切れるまでは、大切にします。でも、俺、お返し、何も持ってないですけど」
「ううん。これは、私が、龍太くんに渡したかっただけだから。気にしないで」
柔らかく首を横に振る千夏。
ふと、龍太は念力を込めたという言葉を思い出す。
「お返しというわけではないですけど、俺も先輩のに念力送っても良いですか?」
「うん、お願い」
そう言いながら千夏がすっと足を差し出してくる。その白く滑らかな足首にミサンガが映えていて、龍太は一瞬動きを止めた。
視線が思わず釘付けになり、鼓動がほんの少し速くなる。
「龍太くん?」
きょとんと小首を傾げる千夏の仕草に、龍太は慌てて目を逸らし、首を振った。
「あ、いえ……はい、念力送りました」
「ありがとう。ちなみに、何を送ってくれたのか聞いても良い?」
「俺からは、明日の試合を楽しめますようにって送りました」
「楽しむ?」
「せっかく一生に一度の、大切な試合をするんですから。緊張なんて気にせず、ただバスケを好きって気持ちだけで突っ走ってほしいなって、そんな緊張ほぐしの念です。先輩はとびっきりのバスケバカですからね」
悪戯っぽく笑う龍太に、千夏は一瞬、目を丸くした後、ふわりと、花が咲くように笑った。
「じゃあ、私も」
千夏はミサンガにそっと触れ、目を閉じる。その仕草は神聖な儀式のようで、龍太はなぜか息を飲んでしまった。数秒後、千夏が目を開けて優しく微笑む。
「うん、上書きできたよ」
「何を込めてくれたんですか?」
「一つは、龍太くんも明日は思いっきり楽しんで走れるように、かな。……もう一つは」
「もう一つは?」
「……ふふっ、ないしょ」
千夏はクスクスと笑いながら視線を外す。その笑みがどこか蠱惑的で、龍太の胸にドキリとした衝撃が走る。
心臓が少しだけ、速くなった気がした。
「明日はお互い頑張ろうね」
「はい」
貰ったミサンガを着ける。
不思議なほどに、明日は力が湧いてきそうな、そんな予感がした。
「そう言えば、龍太くん。明日は、その……ごめんね、色々と頑張ってね」
ん?
6月の朝、早くから夏の気配を感じさせる清々しい空気が陸上競技場を包んでいた。湿気は少ないものの、じんわりと汗がにじむような気温だった。スタンドには応援の母たちやチームメイトが集まり、軽くざわめいている。トラックでは選手たちがアップを終え、スタートラインに向かう準備を整えていた。
龍太はユニフォームの裾を軽く握り、深呼吸を繰り返していた。心拍数がいつもより速い。予選の独特な緊張感が、肩に重くのしかかっているのを感じる。そんな彼の背後から顧問の鶴田が声を上げた。
「全員集合! 円陣を組むぞ!」
少し古臭いが、部員たちは慣れた手つきで自然と集まり、輪を作る。鶴田の指示は絶対だ。手を差し伸べ、肩に触れる感触が互いの存在を確かめさせる。円陣の中心に立つ鶴田は、少し興奮したような調子で声を張り上げた。
「お前たち、ここまでしっかり仕上げてきたな! これから始まるのは、練習で積み上げた努力を見せる場だ。ただしな、気負うな。落ち着け。そして、笑顔を忘れるな!」
部員たちは一様に頷き、彼の言葉を胸に刻むように聞いている。その場の空気には、次第に高揚感が漂い始めた。鶴田は声をさらに張り上げた。
「いいか、目指すのは頂点だ! でも一人一人が自分のベストを尽くすことが大事だ! 龍太!」
突然名前を呼ばれ、龍太は軽く背筋を伸ばす。注目が集まる中、鶴田は彼に向けて言葉を続けた。
「お前はチームのエースだ。だが、孤独じゃない。俺たち全員が、お前の背中を押している。だから、自信を持て!」
「はい!」
龍太の返事は決意が込められていた。だがその時、ふと耳に何かが届いた。
(なんだ……?)
最初はぼんやりとした音だった。人混みのざわめきかと思ったが、それは徐々にはっきりとしてきた。耳を澄ますと、はっきりと声が聞こえる。
「りゅーたっ、がんばれっ、負けるなっ!」
まるで遠くから響いてくるような、高く元気な声。その声に覚えがある。龍太の顔が一瞬で赤く染まった。
(まさか……母さん!?)
スタンドの方に目をやると、そこには満面の笑みを浮かべて手を振る母親の姿があった。そういえば、と脳裏に千夏の頑張れという言葉を思い出した。
彼女の言ってたことは間違いなくこれのことだろう。
そして、彼女の応援はエスカレートしていく。
「がんばりゅーた~♪ 我らがエース~♪ 速さもイケメンもナンバーワン~♪」
妙にリズミカルな応援歌がスタンド中に響き渡る。周囲の注目が一斉に集まり、部員たちは最初こそポカンとしていたが、次第に肩を震わせ始めた。
「ちょ、お前の母さんすごいな!」
「龍太、歌まで作られるなんて愛されすぎだろ!」
「しかも声にメロディー乗ってるぞ!」
龍太は必死で目を瞑った。これは現実ではない。
だが、その必死の訴えも虚しく、母親の応援歌はますます絶好調。
「ゴーゴーりゅーた! ファイトファイトりゅーた! ドンドンドンッ!」
スタンドで周囲の父母がリズムに合わせて手拍子を始める始末。鶴田は苦笑いを浮かべながらも、「いいじゃないか、士気が上がるぞ」とポンと龍太の肩を叩いた。
龍太は目を閉じたま、叫びたくなるのをぐっと堪えていると、隣にいた根岸がニヤリと口を開く。
「龍太、次の曲リクエストした方がいいんじゃないか?」
部員たちの笑い声が一層広がり、龍太は深いため息をついた。その時、母親がさらなる追い打ちをかける。
「速さの龍太~♪ 世界一~♪ 小学校の時は~♪ 転んでママママ大騒ぎ~♪」
「……もう殺せ」
龍太の静かな呟きに、部員たちは爆笑。鶴田ですら笑いを堪えられず、顔を背けていた。
初夏の太陽がスタジアムを照らし、トラックに立つ選手たちの影を濃く映し出している。空気には独特の緊張感が漂い、選手のシューズがトラックを擦る微かな音や、遠くから響く観客のざわめきが耳に届く。照りつける太陽の下、スタートラインに立つ龍太は静かに息を整えた。背中に浴びる日差しがじわりと汗を滲ませ、風がその汗を冷やしていく。
周囲には他校の選手たちがそれぞれのルーティンをこなし、集中力を高めている。誰もが自分自身との戦いに没頭している様子だ。視界の端に見える白いラインがスタート地点を鮮明に示し、これから始まる一瞬の戦いを告げている。
龍太はゆっくりと膝を曲げ、左足を確かめるように見下ろした。足首に巻かれた青いミサンガが目に留まる。それは千夏が何気なく作ってくれたものだった。
彼は無意識にそのミサンガを指先で触れ、深く息を吸い込む。不思議といつも以上に心が落ち着いていた。
「On your marks」
──ピタリと、世界が静まる。
スタジアムのざわめきが遠のき、ただ鼓動だけが耳に響く。スタートブロックに足をかけると、地面の硬さがわずかに伝わる。
「Set」
ピストルが高く掲げられ、静寂がスタジアムを支配する。時が止まるような一瞬──そして、銃声が鳴り響く。
龍太は全身の力を爆発させ、一気にスタートを切った。
一歩目。確実に地面を蹴り、力を感じる。二歩目、さらに加速。前傾姿勢を保ちながら、地面からの反発力が身体を押し上げる。風を切る感覚とともに、スピードがどんどん上がっていく。
(いい感じだ。このままいける)
全身が軽くなり、坂道を一気に駆け上がるような心地よさが身体中を駆け巡る。息を吸い込むと、酸素が全ての筋肉に行き渡るのがわかる。加速するたびに、周囲の景色が風景のように流れていく。
(俺なら、もっといける!)
トップスピードに達したその瞬間、身体が空を舞っているような感覚に包まれた。足が地面を蹴るたびに、力強い推進力が生まれる。スタンドから歓声が聞こえた気がしたが、耳にはほとんど入ってこない。視界の先にあるゴールラインだけが、彼の全てだった。
一気にゴールを駆け抜けた瞬間、身体に溜まった疲労感と、達成感が押し寄せてきた。肩で息をしながら、ゆっくりと走り抜けた先で立ち止まる。
結果を告げるタイムが発表される。
『10秒72』
周囲から驚きの声が上がる。龍太は息を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。
自分の身体を誉めてやりたい。筋肉、細胞の一つひとつが愛しい。力がむくむく湧き上がってくる。どんなことでもやれちゃいそうな気がする。自分の中に大きな力がある。と心から思える瞬間だった。
(やべぇ……やっぱ走るのって楽しい)
肩で息をしながら、顔に浮かんだのは満面の笑みだった。
薄暮の中、東京都予選の陸上競技場は冷たい緊張感に包まれていた。選手たちがウォームアップを終え、それぞれのラインへ向かう準備を進めている。その中で一際目立つ存在──高梨は、スタートラインから少し離れた場所に立っていた。
黒いスパイクを履いた足元に視線を落としながら、彼はゆっくりとストレッチをしている。表情は険しいが、どこか余裕が滲む。その背後からチームメイトの一人が駆け寄ってきた。
「高梨! 聞いたか? 田中が別の大会で、10秒台出したらしいぜ!」
その言葉に、一瞬だけ高梨の手の動きが止まる。しかし、表情には何の変化もない。ただ肩を軽くすくめて、無関心を装った声で答えた。
「……どうでもいい。あんな奴が何秒で走ろうと、俺には関係ない」
吐き捨てるように言うと、高梨は足元に転がっていたペットボトルを蹴り飛ばし、スタート地点へ向かい始めた。その背中には、わずかに怒りにも似た熱が宿っている。
トラックに立った高梨は、スタートブロックをセットしながら深く息を吸い込む。観客席からはざわめきが聞こえ、彼の名前を呼ぶ声も混じっている。それでも、彼はそのすべてを遮断するかのように視線を前方に固定した。
(……あのザコに負けるわけがない)
心の中で龍太の名前を思い浮かべると、再び胸の奥に火が灯る。あの初々しい挑戦者が自分の背中を追いかける姿は、どこか鬱陶しくもあったが、同時に無視できない存在でもあった。
スタートの合図が鳴り響く。
高梨の体が弾けるように動き出す。そのフォームは、無駄のない滑らかな流線を描きながら加速していく。観客席からは驚きの声が上がる。スタートからゴールまでのわずか数秒の間、彼はただ一直線に走り抜けた。
ゴール後、タイムが表示される。電光掲示板に表示された数字は、龍太の記録を上回るものだった。
『10秒42』
高梨は軽く息を整えると、笑みの代わりに冷ややかな言葉を口にした。
「……俺に勝てると思うなよ」
彼の視線は、どこか遠くに向けられているようにも見えた。その視線の先には、龍太の顔がぼんやりと浮かんでいる。
高梨はトラックを離れると、再び肩をすくめながら歩き出す。その後ろ姿には、絶対的な自信と孤独が滲んでいた。