親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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8話

 

 

 

 朝五時半。ランニングシューズの紐をきつく結んで外へ出ると、湿気が肌にまとわりついてきた。

 ひんやりした風が頬を撫でる。だがその下に、蒸した空気が潜んでいる。空は薄いオレンジに染まりはじめ、日の光はまだ柔らかい。

 遠くから、ボールを弾く音。それに背中を押されるように、「よし、行くか」と軽く腕を振って走り出した。最初の数歩は体が重い。だが、リズムを掴むうちに、足が自然と動きはじめる。

 静かな住宅街を抜け、街路樹の並ぶ道へ。葉の間から光がこぼれ、地面に影を揺らしていた。呼吸を一定に保ち、早朝の街を駆ける。湿ったアスファルトの匂い。シューズが刻む音が、耳に心地いい。公園ではジョギングの人や犬の散歩がちらほらと見えはじめ、軽く会釈を返す。

 汗が額から流れ、シャツが背に貼りつく。それでも、朝特有の爽やかさが気分を軽くしてくれた。

 

「これからもっと暑くなるんだろうな」

 

 そう呟いて、いつもより少しだけ長く走ることに決めた。

 帰宅してドアを開けた瞬間、外の湿気とは違う、室内のひんやりした空気が体を包む。汗ばんだシャツを脱ぎ、シャワーへ。頭から水を浴びると、溜まった汗と疲れが洗い流されていく。次第に湯温を上げ、首を回し、肩をほぐす。なんとなく達成感が湧いて、今日も頑張れそうな気がしてきた。

 髪を乾かし、制服に着替えてリビングへ戻ると、朝の光の中、ダイニングに腰を下ろす人物がいた。

 その少女が、ふと顔を上げる。

 茶色の瞳と、交差した。

 

「おはようございます、先輩」

「おはよう、龍太くん。今朝もランニング?」

「はい。日課なので」

「えらいね」

 

 さらりと返され、龍太は内心で苦笑する。

 

(いや、朝早くからバスケしてる先輩には、言われたくないんだけどな)

 

 ふと、彼女の服装に目が留まった。白い半袖、首元から覗く鎖骨、いつもより少し大人びて見える佇まい。夏服に衣替えした姿は、まるで初夏そのものを擬人化したかのようだった。

 

「そういえば、衣替えでしたね」

「うん。やっぱり、夏服は涼しくていいね」

 

 何気ない制服姿も、彼女が纏うと、特別な輝きを放つ。

 

「……あー、その、似合ってますね、制服」

 

 口にした瞬間、後悔した。千夏の頬が、ほんのり桜色に染まる。

 

「えっ……あ、ありがとう」

 

 前髪を弄りながら、視線をそらす。その仕草があまりに無防備で、龍太は目のやり場に困った。

 

「いえ……」

「りゅ、龍太くんも似合ってるね」

「ど、どうも……」

 

 唐突な沈黙。お互い言葉を探すが、妙な空気に流されて、口を閉ざしてしまう。

 

(最近、先輩のこういう表情を見ることが、増えた気がする……)

 

 そのたび、理性の奥で何かが警鐘を鳴らす。照れた顔を「可愛い」と思ってしまう自分を、必死で戒める。だが、その抵抗は、あまりに無力だった。

 そんな二人の間へ、軽やかな声が飛び込んでくる。

 

「あらあら、朝から青春ねぇ」

 

 香織だ。ニヤニヤ笑いながら、二人を面白がっている。

 

「ばっ、なんの話だよ!」

「さぁ、何の話かしらねぇ」

 

 慌てる龍太の横で、千夏は赤い顔のまま俯いている。香織はさらに満足げに笑い、朝食を差し出した。

 

「はい、千夏ちゃんの朝ごはん。龍くんも、早く食べちゃいなさい」

「ありがとうございます」

 

 テーブルには、彩り豊かな朝食が並んでいた。鶏むね肉のソテーにレモン。レタスとトマトとアボカドのサラダに、半熟卵。炊き立ての玄米に、塩昆布。具沢山の野菜スープ。

 

「美味しい。私、香織さんのお料理好きです」

 

 天使のように柔らかく微笑む千夏に、香織が目を見開き、惚けた顔になる。

 

「ホントお上手ねぇ……もう、家の子になる?」

「えっ……あ、えっと……」

 

 決まり悪げに赤らめる千夏に、龍太は溜息をついた。

 

「母さん、あんまり先輩を困らせるなよ」

「ウフフ……冗談よぅ」

「いや、その血走った目は冗談じゃないだろ」

 

 呆れつつも、どこか楽しげだった。朝食を平らげ、身支度を整え、千夏と家を出る。二人は、どちらからともなく、同じ歩幅で歩きはじめた。

 

「なんだか、一緒に登校するの、久しぶりだね」

 

 ふいに、千夏が柔らかく呟く。その視線は、風にそよぐ新緑へ向いていた。

 

「前は桜が咲いてた頃ですかね」

「早いね、もう二ヶ月も過ぎちゃった」

 

 龍太はゆっくり頷く。季節は、知らぬ間に、しかし確実に、移り変わっていく。

 

「そうですね。もうすっかり暑くなってきました」

「うん……『いよいよ』って感じだね」

 

 千夏が小さく笑う。

 

 ——何が、とは、あえて問わなかった。

 

 その言葉に込められた意味を、龍太もまた、痛いほど理解していたから。

 

「夏、かぁ……」

「先輩?」

「ううん。もうすぐだなって、思っただけ」

 

 そう言って、空を見上げる。つられて視線を上げれば、青空に浮かぶ雲が、ゆったりと形を変えていた。その間から覗く青は透き通って、まだ初夏の涼しさを残している。

 

 もうすぐ、地区予選が始まる。

 

 その事実が、二人の胸を高鳴らせていた。期待と、緊張と、覚悟。そのすべてが、新緑の通学路を歩く足音に、そっと溶け込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 校庭から響く声や足音は、先日の交流会の、ほのぼのとした空気とはまるで違っていた。

 来週から始まる地区予選を前に、生徒たちの纏う空気は、薄氷のように張り詰めている。その緊張に当てられたのか、大喜は机に突っ伏し、深い溜息を繰り返していた。

 

「何、お前まで緊張してんのよ」

 

 呆れて声をかけると、大喜は顔を上げないまま、くぐもった声で返す。

 

「そりゃするだろ……予選、明後日なんだぞ」

「いいじゃん。ワクワクするだろ?」

「まあ、少しはな……。でも、やっぱ緊張するって!」

 

 苦笑まじりの言葉に、龍太は思わず吹き出した。

 

「緊張でガチガチになって、スマッシュ空振りとか、絶対すんなよ?」

「やめろ! 想像しただけで胃が痛くなる!」

 

 ニヤリと笑ったその時、隣からひょいと顔を出したのは雛だった。

 

「なになにー、大喜ったら緊張してるのー?」

「……逆に、なんで雛は緊張しないんだよ」

「それはね、この蝶野雛様が最強だからよ!」

「同感。俺も負ける気がしねぇし」

 

 肩をすくめる龍太に、雛が誇らしげに頷く。大喜は目を見開き、溜息をついた。

 

「……ほんと凄いな、二人のそのメンタル」

 

 そのやり取りに、匡が苦笑して口を開く。

 

「大喜、俺たちが普通なんだと思う。龍と蝶野さんが、例外なだけだ」

「誰が例外だコラ」

 

 龍太の軽口のあと、匡がふと、真面目な顔で尋ねた。

 

「龍、レースって明日だっけ?」

「ああ、匡もだろ?」

「ああ……悪いな、応援行けそうにない」

 

 申し訳なさそうな匡に、龍太は軽く笑った。

 

「いいよいいよ。お前も試合があるんだから、気にすんなって。お互い様だろ」

 

 龍太は、大喜の机に置かれていたシャーペンを、何気なく手に取った。中学から使っている、傷だらけのそれ。使い古された感触を確かめながら、ふと、呟く。

 

「今年もさ、また皆でどっか出かけようぜ」

「良いじゃん! 行こうよ!」

 

 雛が勢いよく身を乗り出す。その元気さに押されて、龍太は去年を思い出していた。

 優先順位の一番は、部活だ。それはぶれない。けれど、自分たちは十五歳だ。部活以外の思い出だって、たくさん作っておきたい。夏が来るたびに小学校のプールを懐かしむみたいに、中一の花火大会に行きたくなるみたいに。

 

「去年は……学校で天体観測みたいなこと、したよな」

「そういえば、そんなことあったな」

 

 大喜が顔を上げる。雛も楽しそうに笑った。

 

「行った行った! 龍が大絶叫してたやつだよね?」

「……頼むから、それは忘れてくれ」

 

 苦い顔をする龍太に、三人がクスクス笑う。

 

「今年は海とか?」

 

 大喜の提案に、雛の瞳が輝いた。

 

「良いじゃん! 海行こーよ!」

「じゃあ、空いてる日、確認しとかないとだな」

 

 匡も、まんざらではないようだ。他愛ない夏の計画を話すうちに、大喜の強張った表情も、少しずつ和らいでいく。

 

「……あー、なんか言ってたら、少し気楽になってきたかも」

「おっ、いいじゃんその調子! 明後日は、雛に応援してもらって頑張れよ」

「えっ、なんで俺限定なんだよ」

 

 顔を赤くする大喜に、雛は余裕の笑みを浮かべる。

 

「応援するのはいいけど、大喜がミスったら超笑うからね!」

「おい、プレッシャーかけんな!」

 

 その抗議に、みんながどっと笑い出す。張り詰めていた糸が、ふっと、優しく緩んでいった。

 

 

 

 

 

 

「はいっ!」

 

 バトンを渡す前の掛け声。気楽な見学者がハッとするほどの大声。受け手が、後ろへまっすぐ高く伸ばした腕。その手に、バトンが吸い込まれる。一瞬のことでも、そのスピードはかなり速い。

 そのまま地面を力強く蹴り、ぐんぐん加速する。次の走者が構え、チェックマークを越えてスタート。バトンがまた、滑らかに渡る。

 

「先輩、いけますよー!」

 

 正しいフォームの後ろ姿に声をかけ、パスが決まる。最終走者が、ゴールを駆け抜けた。

 

「43秒。正式じゃねぇけど、まぁまぁ速くなったな」

 

 ストップウォッチを見る鶴田の声に続き、ゴール地点から雄叫びが上がった。

 

「うっしゃ——!!」

 

 魂の叫びをあげたのは、最終走者の浦安。駆け寄る仲間と手を叩き合う。龍太も、自然と拳を握っていた。

 

「いやー、やっぱり龍太いるとはええな」

「ちょっ、強いって」

 

 背中を豪快に叩いて笑うのは、三年の三浦。その笑顔が、場の空気を一気に明るくする。

 

「いや、そんなことないですよ。三浦先輩も、さっきのスタート最高でした」

「だよな、今の良かったよな。後でもう一回やろうぜ」

「はい!」

 

 頼もしい背中を見送り、龍太は額の汗を拭った。

 リレーは二種目。100mを四人で走る400mリレー——ヨンケイ。そして400mを四人で走る1600mリレー——マイル。龍太は両方に出場し、三浦へバトンを繋ぐ。

 三年にとっては、これが最後の大会だ。

 託されたものの大きさを、龍太は痛いほど理解していた。

 

(このバトンには、あの人たち全員の想いが込められてる)

 

 その眼差しは、真剣そのものだった。視線の先には、夕陽に染まるトラックと、仲間たちの笑顔があった。

 

「絶対に勝とうな! 目指せ、四継でインハイ!」

 

 「おう!」と、仲間たちが拳を上げる。その姿は、チームというより、一つの家族だった。

 

(この人たちを、全国に連れていく。それが、せめてもの恩返しだ)

 

 かつて投げつけられた言葉が、一瞬、脳裏をよぎる。

 

 ——テメェじゃ俺には一生追いつけねぇよ、ノロマ。

 

 龍太は、拳を握りしめた。その拳には、折れない覚悟と、仲間への信頼が込められていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕暮れが、空に淡い茜を広げていた。龍太はグラウンドの片隅で、汗を拭きながら息を整える。集中していて、時間が過ぎたのに気づかなかった。沈みゆく太陽が地平線に近づき、世界が静かに夜を迎えようとしている。

 

「今日はこれで終わりにしとくか……」

 

 荷物を回収する。チームメイトはもう帰り、残るのは自分一人だ。

 門を抜け、いつもの帰り道へ。今日は珍しく、一人だった。千夏と帰るのがすっかり日常になっていたから、この静けさが、どこか新鮮に感じる。

 

(先輩、今日は先に帰ったんだよな……)

 

 『予選に向けて、今日は早く上がるね』。

 昼過ぎの、短いメッセージ。心配になって『無事に着きましたか』と返せば、『心配性だね』と、笑う絵文字付きで返ってきた。仕方ないだろう。あの人は、ただそこにいるだけで、人の視線を集めてしまうのだから。

 

(こうして一人で帰るの、いつ以来だろう……)

 

 足音だけが、静かな通学路に響く。隣にいるはずの声や笑顔がないことが、少しだけ物足りない。それに気づいた瞬間、胸の奥がざわめいた。

 

「……変な感じだ」

 

 つい口にして、自分で小さく笑う。隣に千夏がいるのが、当たり前になりすぎていたのかもしれない。「今日は暑かったね」とか、「宿題、ちゃんとやった?」とか。ありふれた話題なのに、どれも不思議と、心に残っている。

 家の近くで、街灯が一つ、ぽつんと灯っていた。その下で、一瞬足を止める。夕陽が完全に沈み、淡い紫の夜が訪れようとしている。

 

(先輩、今頃どうしてるかな……)

 

 浮かぶのは、彼女の笑顔と、何気ないやり取り。そんな自分に気づいて、龍太は小さく頭を振った。

 

「まぁ、同じ家だし、分かることか」

 

 呟いて、また一歩を踏み出す。夜道に響く足音は、心なしか、軽やかだった。

 玄関を開けると、良い匂いが鼻をくすぐった。香ばしさに混じる、ほのかな甘さ。

 

「おかえりなさい、龍太くん」

 

 優しい声に振り向くと、エプロン姿の千夏が立っていた。部屋着にエプロンを重ねた姿は、どこか家庭的で、その柔らかさに、思わず目を奪われる。

 

「た、ただいまです……なんか、いい匂いしますね」

 

 靴を脱ぎながら尋ねると、千夏がほんのり笑む。今日の夕陽のように、穏やかで温かい笑顔だった。

 

「先、お風呂にする?」

 

 ごく自然に、当たり前のように。

 その言葉に、龍太の思考が一瞬、停止した。

 

(……いや、待て。この流れ、なんだか、ものすごく……新婚っぽくないか?)

 

 妙な気恥ずかしさを咳払いで誤魔化し、素直に頷く。

 

「そうですね、汗かいたので」

「ふふっ、お疲れ様」

 

 そう言って、これまた当たり前のように、千夏が部活バッグを受け取った。

 

 ——別に、深い意味なんてない。

 

 頭ではわかっている。わかっているのに、彼女の指先が、ほんの少し手に触れた瞬間、心臓が、大きく、確かに、音を立てた。

 

(……なんなんだ、この感じ)

 

 正体のわからないまま、浴室へ向かう。

 シャワーで汗を流すと、芯から疲れが抜けていく。湯に包まれるたび、今日の光景が頭をよぎる。ふと、千夏のエプロン姿が浮かんで、気恥ずかしくなった。

 

(初めて見たけど、なんであんなに自然なんだろ……というより、なぜエプロン?)

 

 胸のざわつきを感じながら、シャワーを止めた。体を拭いて出ると、香りが一層強く鼻をくすぐる。

 

「龍くん、お疲れ様。席座っちゃって」

 

 ダイニングに、湯気を立てるカツ丼が四つ。こんがり揚がったカツが甘辛いタレに染み、ふんわりと卵がとじられている。三つ葉の緑が、彩りを添えていた。味噌汁、漬物の小鉢、冷えた麦茶。準備が整っている。

 

「う、美味そう……」

「うふふ、頑張った甲斐があったわね」

 

 母の言葉に、なぜか千夏が「い、いえ……」と照れくさそうに視線を泳がせる。不思議に思いながら、龍太は席に着き、皆で手を合わせた。

 箸を取り、一口頬張ろうとした、その時。

 隣からの強い視線に気づく。

 顔を向けると、千夏が箸を持ったまま、祈るような、それでいて何かを期待するような瞳で、じっとこちらを見ていた。

 

「……先輩?」

 

 声をかけると、「はっ」と我に返り、慌てて首を振る。

 

「え、ううん。なんでもないよ」

 

 不自然な態度が気にかかる。それでも視線を戻すと、やはり、真っ直ぐ自分を捉えていた。

 

(え、なに……? 俺の顔に何かついてるのか……? めちゃくちゃ食いづらいんだけど……)

 

 気まずさを感じながら、カツ丼を一口運ぶ。サクサクの衣と、出汁の絡んだ卵の柔らかさ。甘さと塩味が舌の上で広がり、豚肉の旨味が口いっぱいに満ちた。

 

「うまぁ……」

 

 思わず、感嘆が漏れる。

 すると、視界の端で、千夏がホッとした表情を見せた。

 それを見て、つい、じっと見つめてしまう。

 が——

 

「みるな」

 

 むっとした顔で睨まれた。

 

「いや、理不尽でしょ!?」

 

 その奇妙なやり取りに、香織が楽しそうにクスリと笑う。

 

「龍くん、美味しい?」

「そりゃいつも美味いよ……でも、今日は違うというか……凄い美味い。なんか調味料、変えた?」

「調味料、ねぇ……。そうね、今日は特別な『隠し味』が入ってるかも。ね、千夏ちゃん」

「——っ!?」

 

 香織が、悪戯っぽくウインクを送る。その瞬間、千夏の頬が、一気に真っ赤に染まった。

 

「あの、先輩?」

「こ、コッチ見ないで!」

「いやだからなんで!?」

 

 二人を眺め、香織は楽しげに息子へ視線を向ける。

 

「龍くんはニブチンねぇ……ヒントは幾つかあったと思うんだけどなぁ。一体、誰を真似たのかしら」

「……俺を見ないでくれ」

 

 父と母がくすくす笑う中、龍太はもう、どうしていいかわからない。ただ、目の前の、世界で一番美味しいカツ丼を味わうことに、全神経を集中させるので精一杯だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋は静かで、時計の秒針だけが規則的に鳴っている。外からは、かすかな虫の音。机には教科書とノートが広がり、窓際には明日のユニフォームが、きちんと畳まれていた。

 龍太は床のマットに仰向けになり、両手を頭の後ろに組んで、ゆっくり体を起こす。腹筋。動きに迷いも焦りもなく、一つひとつが正確だった。

 

(明日は地区予選か……)

 

 そう思いながらも、心は驚くほど静かだった。特別な緊張も高揚もない。ただ、身体を動かす感覚に集中する。彼にとってこの時間は、儀式というより、日常の延長だった。

 両肘とつま先で体を一直線に保つ、プランクの姿勢。内心で、明日のレースのイメトレを始める。

 

(バトンパスは完璧……後は二区で、何とか俺が踏ん張らないと)

 

 呼吸を整え、体の中心に力を込める。秒針の音だけが響き、集中を妨げるものは何もなかった。

 姿勢を解き、立ち上がる。水を口に含むと、冷たさが体に染み渡った。窓の外を眺めていると、その静けさを破るように、ドアがノックされた。

 

「どうぞ」

 

 扉が開き、部屋着姿の千夏が顔を覗かせる。柔らかな素材が、動きに合わせてふわりと揺れた。そのリラックスした雰囲気に、龍太は少しだけ、心拍数が上がるのを感じる。

 

「筋トレしてたの?」

「まあ、体幹トレですけど。いつものルーティンなんで」

「そっか、お疲れ様。……じゃあ、邪魔しちゃったかな」

「いえ、ちょうど休憩中だったんで。大丈夫です」

「そっか。……お邪魔、してもいい?」

 

 「どうぞ」と答えると、千夏は「お邪魔します」と丁寧に入ってきた。普段、こんな時間に来ることはないのに。何の用だろうか。

 

「急にごめんね。龍太くん、何してるのかなって思って」

「ああ、なるほど。まぁ、見ての通り、体幹強化中ですね」

 

 何の変哲もない返答に、千夏がクスッと笑った。

 

「その様子だと、緊張してる感じでもないね」

「そりゃまあ、後はやるだけですからね」

「大物だね」

 

 感心する千夏に、龍太は肩をすくめる。

 

「どうですかね。まぁ、不満があるとすれば、学校に重り忘れちゃったんで、それ載せてプランクできないのが残念ですね」

「ふふっ、やっぱり大物だ」

 

 楽しそうに笑い、千夏はふと、何かを考える表情を浮かべた。

 

「普段は、どのくらいの重さを乗せてるの?」

「40キロぐらいですかね」

「そっか……少し重くなっちゃうけど、いい? す、少しだけだよ?」

「…………はい?」

 

 聞き返して、千夏を見る。彼女はなぜか、視線を泳がせながら続けた。

 

「ほら、龍太くん、プランクして?」

「え、まぁ……?」

 

 状況を掴めないまま、言われるがまま姿勢をとる。

 次の瞬間——

 ふわり、と、シャンプーの甘い香りが、理性を麻痺させるように鼻腔をくすぐった。

 そして、背中に。しなやかで、温かく、あまりにも柔らかな重みが、ゆっくりと乗った。

 

「——お邪魔します」

「ファッ!?」

 

 声が裏返る。背中に感じる体温、その柔らかさ、すぐ側で聞こえる、穏やかな呼吸。これがトレーニングの一環など、到底、思えるはずがなかった。

 

「えっ、ちょ、先輩!?」

「トレーニングになりそうかな? 40キロは……その、ちょっとだけ、オーバーしちゃうけど」

「あ、いや、その……先輩、めちゃくちゃ軽いですね」

「そ、そう? ありがとう」

 

 千夏は気にした様子もなく、安定した体勢で背に居座っている。

 

(いや、問題はそこじゃなくて!!)

 身体的な負荷より、精神的な負荷が強すぎる。動揺を悟られないよう、必死に呼吸を整えた。

 

「わ、すごい。全然、ぶれないんだね」

 

 頭上から、明るい声が降ってくる。だが、龍太の頭の中はそれどころではない。

 

(いや、もうダメだ、限界)

 

 思考を振り払うため、唐突に言い放った。

 

「す、少し動きますね」

「へ? う、うん」

 

 ——動けば、少しは気が紛れるはず。

 

 その願いを込めて、腕立てを開始する。「おおっ、すごい!」と感嘆が響く中、冷や汗をかきながら数回をこなし、地獄のようなトレーニングを終えた。

 息を整えて座る龍太の隣に、千夏もそっと腰を下ろす。ふわりと、シャンプーの香りがかすめた。甘すぎず、澄み切ったその香りが、なんだかとても彼女らしいと思ってしまい——龍太は慌てて、意識を逸らした。

 

(……何考えてんだ、俺)

 

 軽く咳払いをして、落ち着ける。

 

「そういえば、先輩は明日、何時から試合なんですか?」

「13時からかな。龍太くんは?」

「9時に、四継の予選ですね」

「四継は、リレーだよね」

 

 龍太は小さく頷いた。

 

「三年生にとっては最後の大会ですからね。バトンミスしないで、しっかり繋げないと」

「……怖くは、ないの?」

 

 ふと、千夏が真剣な顔で尋ねる。その言葉には、どこか自分自身への問いのような響きもあった。

 

「もちろん、怖いですよ。100メートルみたいに、自分一人で完結するレースじゃない。チームの想いを、全部背負って走るんです。責任は、重いですよ」

 

 そう語る瞳に、しかし、恐怖の色はなかった。ただ、静かで、燃えるような決意の光が宿っている。

 

「でも、インハイ、一緒に行きたいんです。それが、あの人たちへの恩返しでもあると思うので」

「そっか」

 

 納得したように頷く千夏。その横顔は、優しさと覚悟を帯びていた。

 

「私も、今のチームが好きだから。みんなでインハイ行きたいな」

「そうですね。その為に、残ったんですもんね」

 

 穏やかに返すと、彼女は少し間を置いて、自分に言い聞かせるように、小さく、強く呟いた。

 

「……勝ちたいな」

 

 ただの願望ではない。積み重ねてきた日々のすべてを込めた言葉だった。

 

「去年は、私が最後のシュートを外して負けたから。……次は、絶対に、外したくない」

 

 淡々とした口調の奥に、覚悟と、焦りと、ほんのわずかな不安が滲んでいた。

 龍太は、そっと横顔を盗み見る。

 千夏は視線を伏せ、じっと自分の手を見つめていた。指先が、かすかに動く。まるで、無意識にボールを扱うかのように。

 彼女がどれほどの努力を重ねてきたか、龍太は知っている。朝早くから練習に励み、誰よりもストイックに自分を追い込んできた。

 それでも、勝負の世界に「絶対」はない。

 どれだけ努力しても、結果がすべてを決める。

 誰よりもこのチームを大切に思い、この仲間と戦いたいと願っているからこそ、その一言は、こんなにも重く響いた。

 けれど、その姿は、龍太にとってどこか意外でもあった。

 思わず、クスッと笑いが漏れる。

 

「な、なに?」

 

 千夏が顔を上げ、不思議そうに見る。

 

「いや、栄明のエースでも、そうやってプレッシャーに悩むんだなって思って」

 

 ぷくっと頬を膨らませる千夏。

 

「そりゃそうだよ。私は別に、プレッシャーに強いわけじゃないもん。プレッシャーなんて、まるで感じてないみたいな龍太くんが、特別なの」

 

 その仕草が妙におかしくて、龍太は口元に笑みを浮かべた。

 

「なんというか、先輩って意外と感情表現豊かですよね。結構、話してみると分かりやすいというか」

「えっ?」

 

 目が、わずかに見開かれる。

 

「皆からは、よく何考えてるかわからないって言われるけど」

「まぁ、俺も最初はそう思ってましたけど……」

 

 龍太は少し考えてから、彼女の目を真っ直ぐ見つめ、ゆっくり続けた。

 

「知れば知るほど、人見知りなのに、実は凄くお喋りだったり。好きなものの話をしてる時とか、バスケをしてる時は、子供みたいに目がキラキラしたり……。それに、こうやって、一人でプレッシャーと戦ってたり。……色んな顔が見えてくるなって思います」

 

 千夏は、何かを言おうとして、飲み込んだ。

 しばらく、沈黙が流れる。

 部屋の外で、時折、遠くの車の音が微かに聞こえ、それが夜の静けさを一層引き立てていた。

 

「……そっか」

 

 やがて彼女は、堰を切ったように、ふっと笑った。

 

「じゃあ、もし私がまた落ち込んでたり、プレッシャーに押し潰されそうになってたり……どうしようもなく、龍太くんと話したくなったら。こうしてまた、ここに来てもいい?」

「そりゃまあ、俺でよければ。LINEでもなんでも」

「ふふっ、ありがとう」

 

 微笑む千夏。

 その表情は、先ほどの不安げなものとは違って、どこか柔らかかった。龍太が照れくさそうに目をそらすと、千夏がふいに、何かを差し出してくる。

 

「龍太くん。これ、一緒に着けない?」

 

 手のひらに、細い糸で編まれた、小さなミサンガが乗っていた。青、白、黄色。夏の空を思わせる配色。シンプルだけれど、温かみのあるそれを、龍太はまじまじと見つめる。

 

「……ミサンガ?」

「うん。私のと、お揃い」

 

 千夏の足首にも、同じものが巻かれていた。

 

「日本に残るって決めたときに作ったの。願掛けというか、決意を形にしておこうと思って」

 

 どこか照れたように笑う。

 

「もし趣味じゃないとかだったら、無理にとは言わないけど……」

 

 遠慮がちに持ち直す仕草に、龍太は笑みをこぼした。

 

「先輩って手先器用なんですね」

「そう? ミサンガは作るのかんた……あ、今、ちょっと馬鹿にしたでしょ?」

 

 ジト目を向けてくる千夏に、龍太は慌てて両手を振る。

 

「し、してないですって!」

「そういう人には、あげません」

「ちょ、冗談ですって! くださいよ!」

 

 慌てる龍太に、千夏はクスッと笑い、再びミサンガを差し出した。

 

「応援行けないから。その代わりに、龍太くんが最高の走りができるように、念力込めといたの」

「なんすか、念力って……」

 

 その子供っぽい言い回しが、なんだかとても彼女らしくて。龍太は小さく笑い、ミサンガを受け取った。軽くて柔らかい糸の感触が、指先に伝わる。

 

「大切にしますね」

「ダメだよ、大切にしちゃ」

「えっ、いや、そうは言われても……」

「ふふっ、真面目だなあ」

 

 柔らかく微笑む千夏に、龍太は頬を掻いた。

 

「……別にいいでしょ。切れるまでは、大切にします。でも、俺、お返し何も持ってないですけど」

「ううん。これは、私が龍太くんに渡したかっただけだから。気にしないで」

 

 首を横に振る千夏。

 ふと、龍太は念力という言葉を思い出した。

 

「お返しというわけじゃないですけど。俺も、先輩のに念力送っても良いですか?」

「うん、お願い」

 

 そう言って、千夏がすっと足を差し出してくる。白く滑らかな足首にミサンガが映えて、龍太は一瞬、動きを止めた。視線が釘付けになり、鼓動が少し速くなる。

 

「龍太くん?」

 

 きょとんと首を傾げる仕草に、慌てて目を逸らした。

 

「あ、いえ……はい、念力送りました」

「ありがとう。ちなみに、何を送ってくれたのか聞いても良い?」

「俺からは、明日の試合を楽しめますようにって送りました」

「楽しむ?」

「せっかく、一生に一度の、大切な試合をするんですから。緊張なんて気にせず、ただバスケが好きって気持ちだけで突っ走ってほしいなって。そんな、緊張ほぐしの念です。先輩はとびっきりのバスケバカですからね」

 

 悪戯っぽく笑う龍太に、千夏は一瞬目を丸くして、それから、花がほどけるように笑った。

 

「じゃあ、私も」

 

 ミサンガにそっと触れ、目を閉じる。その仕草が神聖な儀式のようで、龍太はなぜか息を飲んだ。数秒後、目を開けて、優しく微笑む。

 

「上書きできたよ」

「何を込めてくれたんですか?」

「一つは、龍太くんも明日、思いっきり楽しんで走れるように、かな。……もう一つは」

「もう一つは?」

「……ふふっ、ないしょ」

 

 クスクス笑いながら、視線を外す。その笑みがどこか蠱惑的で、龍太の胸に、ドキリと衝撃が走った。

 心臓が、少しだけ速くなる。

 

「明日はお互い、頑張ろうね」

「はい」

 

 貰ったミサンガを着ける。不思議なほど、明日は力が湧いてきそうな、そんな予感がした。

 

「そういえば龍太くん。明日は、その……ごめんね、色々と頑張ってね」

 

 ん?

 

 

 

 

 

 

 六月の朝。

 早くも夏の気配を感じさせる清々しい空気が、陸上競技場を包んでいた。湿気は少ないが、じんわり汗が滲む気温だ。スタンドには応援の親たちやチームメイトが集まり、軽くざわめいている。

 龍太はユニフォームの裾を握り、深呼吸を繰り返していた。心拍が、いつもより速い。予選独特の緊張感が、肩に重くのしかかる。そんな背後から、顧問の鶴田が声を上げた。

 

「全員集合! 円陣を組むぞ!」

 

 少し古臭いが、部員たちは慣れた手つきで輪を作る。鶴田の指示は絶対だ。肩に触れる手の感触が、互いの存在を確かめさせる。中心に立つ鶴田が、興奮気味に声を張った。

 

「お前たち、ここまでしっかり仕上げてきたな! これから始まるのは、練習で積み上げた努力を見せる場だ。ただしな、気負うな。落ち着け。そして、笑顔を忘れるな!」

 

 部員たちが頷く。その場の空気に、高揚感が漂いはじめた。

 

「いいか、目指すのは頂点だ! でも、一人一人が自分のベストを尽くすことが大事だ! 龍太!」

 

 突然名を呼ばれ、龍太は背筋を伸ばす。注目が集まる中、鶴田が続けた。

 

「お前はチームのエースだ。だが、孤独じゃない。俺たち全員が、お前の背中を押している。だから、自信を持て!」

「はい!」

 

 決意のこもった返事。だが、その時、ふと耳に何かが届いた。

 

(なんだ……?)

 

 最初はぼんやりした音だった。ざわめきかと思ったが、徐々にはっきりしてくる。

 

「りゅーたっ、がんばれっ、負けるなっ!」

 

 遠くから響くような、高く元気な声。覚えがある。龍太の顔が、一瞬で赤く染まった。

 

(まさか……母さん!?)

 

 スタンドを見れば、満面の笑みで手を振る母の姿。そういえば、と脳裏に、千夏の「頑張ってね」が蘇る。彼女が言っていたのは、間違いなくこれだ。

 そして、応援はエスカレートしていく。

 

「がんばりゅーた〜♪ 我らがエース〜♪ 速さもイケメンもナンバーワン〜♪」

 

 妙にリズミカルな応援歌が、スタンド中に響き渡る。注目が一斉に集まり、部員たちは最初こそポカンとしていたが、次第に肩を震わせはじめた。

 

「ちょ、お前の母さんすごいな!」

「龍太、歌まで作られるなんて、愛されすぎだろ!」

「しかも声にメロディー乗ってるぞ!」

 

 龍太は、必死で目を瞑った。これは現実ではない。

 だが、訴えも虚しく、母の応援歌はますます絶好調。

 

「ゴーゴーりゅーた! ファイトファイトりゅーた! ドンドンドンッ!」

 

 父母がリズムに合わせて手拍子を始める始末。鶴田は苦笑しつつ、「いいじゃないか、士気が上がるぞ」と、ポンと肩を叩いた。

 目を閉じたまま叫びたいのを堪えていると、隣の根岸がニヤリと口を開く。

 

「龍太、次の曲、リクエストした方がいいんじゃないか?」

 

 部員の笑い声が広がる中、母がさらに追い打ちをかけた。

 

「速さの龍太〜♪ 世界一〜♪ 小学校の時は〜♪ 転んでママママ大騒ぎ〜♪」

「……もう殺せ」

 

 静かな呟きに、部員たちが爆笑。鶴田ですら、堪えきれずに顔を背けていた。

 

 

 

 

 

 

 初夏の太陽が、スタジアムを照らしている。

 スタートラインに立つ龍太は、静かに息を整えた。背に浴びる日差しが汗を滲ませ、風がそれを冷やしていく。周囲では、他校の選手がそれぞれのルーティンをこなしている。誰もが、自分自身との戦いに没頭していた。

 龍太はゆっくりと膝を曲げ、左足を見下ろす。足首に巻かれた、青いミサンガ。

 無意識に、指先で触れた。

 深く、息を吸い込む。

 不思議と、いつも以上に、心が落ち着いていた。

 

「On your marks」

 

 ——ピタリと、世界が静まる。

 

 ざわめきが遠のき、ただ鼓動だけが耳に響く。スタートブロックに足をかけると、地面の硬さが、わずかに伝わった。

 

「Set」

 

 ピストルが高く掲げられ、静寂がスタジアムを支配する。時が止まるような、一瞬——

 

 そして、銃声。

 

 龍太は全身の力を爆発させ、一気に飛び出した。

 

 一歩目。

 確実に地を蹴る。

 

 二歩目、さらに加速。

 前傾を保ち、反発力が身体を押し上げる。風を切る感覚とともに、スピードが上がっていく。

 

(いい感じだ。このままいける)

 

 全身が軽い。坂を駆け上がるような心地よさが、身体中を巡る。息を吸えば、酸素が筋肉に行き渡るのがわかる。加速するたび、景色が流れていく。

 

(俺なら、もっといける!)

 

 トップスピードに達した瞬間、身体が空を舞うような感覚に包まれた。足が地を蹴るたび、力強い推進力が生まれる。歓声が聞こえた気がしたが、耳にはほとんど入らない。視界の先のゴールラインだけが、彼のすべてだった。

 駆け抜けた瞬間、疲労と、達成感が、同時に押し寄せる。肩で息をしながら、走り抜けた先で立ち止まった。

 タイムが、発表される。

 

『10秒72』

 

 周囲から、驚きの声が上がった。龍太は息を整え、ゆっくり顔を上げる。

 自分の身体を、誉めてやりたい。筋肉も、細胞の一つひとつも、愛しい。力がむくむく湧き上がってくる。どんなことでもやれそうな気がする。自分の中に、大きな力がある。心から、そう思える瞬間だった。

 

(やべぇ……やっぱ走るのって、楽しい)

 

 肩で息をしながら、顔に浮かんだのは、満面の笑みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄暮の中、東京都予選の陸上競技場は、冷たい緊張に包まれていた。

 選手たちがウォームアップを終え、それぞれのラインへ向かう。その中で、ひときわ目立つ存在——高梨は、スタートラインから少し離れて立っていた。

 黒いスパイクの足元に視線を落とし、ゆっくりとストレッチをしている。表情は険しいが、どこか余裕が滲む。背後から、チームメイトの一人が駆け寄ってきた。

 

「高梨! 聞いたか? 田中が別の大会で、10秒台出したらしいぜ!」

 

 その言葉に、一瞬だけ、手の動きが止まる。だが、表情に変化はない。肩を軽くすくめ、無関心を装った声で答えた。

 

「……どうでもいい。あんな奴が何秒で走ろうと、俺には関係ない」

 

 吐き捨て、足元のペットボトルを蹴り飛ばし、スタート地点へ向かう。その背に、わずかに、怒りにも似た熱が宿っていた。

 トラックに立ち、スタートブロックをセットしながら、深く息を吸う。観客席のざわめき。名を呼ぶ声も混じる。それでも、すべてを遮断するように、視線を前方へ固定した。

 

(……あのザコに、負けるわけがない)

 

 心の中で龍太の名を浮かべると、胸の奥に、再び火が灯る。あの初々しい挑戦者が背中を追ってくる姿は、鬱陶しくもあり、同時に、無視できない存在でもあった。

 

 スタートの、合図。

 

 高梨の体が、弾けるように動き出す。無駄のない、滑らかな流線。観客席から、驚きの声が上がった。スタートからゴールまでのわずか数秒、彼はただ一直線に走り抜けた。

 ゴール後、電光掲示板に表示された数字は、龍太の記録を上回っていた。

 

『10秒42』

 

 高梨は軽く息を整えると、笑みの代わりに、冷ややかな言葉を口にする。

 

「……俺に勝てると思うなよ」

 

 その視線は、どこか遠くへ向けられていた。先には、龍太の顔が、ぼんやりと浮かんでいる。

 トラックを離れ、また肩をすくめて歩き出す。その後ろ姿には、絶対的な自信と、孤独が滲んでいた。

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