親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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9話

 

 

 

 地区大会は、土日に行われた。

 龍太の陸上は一日で終わったが、千夏のバスケは土日を通して続き、ついに迎えた決勝戦。

 序盤から、栄明は相手を圧倒した。千夏は要所でボールを捌き、ディフェンスで相手の芽を摘み、速攻では確実に走り切ってゴール下を重ねる。チームの連携も冴え、栄明は危なげなく試合を制した。

 試合終了のブザーと同時に、体育館に歓声が響き渡る。

 栄明女バスは、見事に地区予選を勝ち抜き、県予選への切符を手にした。

 息を整えながら、千夏はコート中央でガッツポーズをする仲間たちを眺めた。

 嬉しくないわけがない。

 でも、彼女の中には、どこか冷静な感覚も残っていた。

 

(……まだ、ここがゴールじゃない)

 

 県予選、そしてその先のインターハイ。

 目指す場所は、まだずっと遠い。深く息を吐いて、千夏は静かにベンチへ向かった。

 身支度を整え、渚とロッカールームを出る。その時、ふと、渚の足が止まった。

 

「どうしたの?」

 

 問いかけると、渚が静かに手で制す。その視線の先、廊下の向こうから、他校の選手の話し声が聞こえてきた。

 

「それで、どうだった?栄明のバスケ」

 

 自分たちの学校名に気づき、千夏もまた、無意識に壁の影へ身を潜めた。

 

「10番……鹿野さんか……大したことないですね」

「……何よそれ」

 

 反応したのは、隣の渚だった。低く呟くのを横目に、千夏は黙って聞き続ける。

 

「以前、練習試合した時からあまり変わってない印象だし。私がつけば問題ないかと。正直——期待外れです」

 

 侮る響きではあったが、彼女たちは千夏を軽視しているわけではない。ただの客観的な分析なのだろう。自分たちの実力で十分対応できる——そう確信しているからこそ、自然と出た言葉だ。

 しかし、言われた側としては、挑発とも取れる内容だった。

 渚が、今にも詰め寄りそうな様子を見せる。

 だが、その横で、千夏は思わずクスッと笑ってしまった。

 

「ち、千夏?」

 

 信じられないものを見る目で、渚が振り向く。当然だろう。これだけ言われて笑っているなんて、常軌を逸している。

 

「ごめん、何でもない。行こっか」 

 

 柔らかく微笑んで、前を向く。その顔には、迷いも、焦りも、怒りすらもなかった。

 

「で、でも、今の話……!」

 

 何か言いたげに口を開く渚。だが、千夏の、あまりに静かで真っ直ぐな瞳を見て、言葉を飲み込んだ。強がりでも意地でもない。揺るぎない自信が、そこにはあった。

 

「私は大丈夫だよ。ほら、それより次の試合のために練習しよう」

 

 渚は少し驚いた表情を見せたが、すぐに息を吐いて、渋々歩き出した。

 

「……まあ、千夏が良いなら良いけどさ」

 

 不満げな口調とは裏腹に、その顔はどこか安心したようだった。千夏は、その横顔を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じる。

 

(私は、特別な選手じゃないかもしれない。でも、私は最高のチームに恵まれてる)

 

 渚や仲間たちの存在が、何よりも自分を支えている。湧き上がる感謝を、抑えきれなかった。それに——

 

(……龍太くんの言う通りになったね)

 

 誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ、口元に笑みを浮かべた。

 

 試合後、帰宅した千夏は、荷物を置いて、ゆっくり息をつく。疲労感はあるが、それ以上に、心地よい充実感が広がっていた。そんなとき、廊下から、美味しそうな匂いが漂ってくる。

 

(……焼肉の匂い?)

 

 驚いてリビングへ向かうと、庭で炭をおこしながら、嬉しそうに準備を進める龍太と香織がいた。

 

「千夏ちゃん、おかえり! ちょうどいいところよ」

 

 目を丸くする千夏に、香織がウインクする。

 

「今日は、お祝いだからね!」

 

 ——それが、焼肉パーティーの始まりだった。

 

 庭先のコンロから、ジュージューと肉の焼ける音が響く。香ばしい匂いが、夜風に乗って辺りに広がっていた。星がちらほら瞬きはじめた空の下、テーブルには、彩り豊かな野菜や肉、キムチやサンチュが、宝石のように並んでいる。

 

「二人とも、地区予選突破おめでとー!!」

 

 香織の快活な声が、夜の静寂に弾けた。龍太は照れくさそうに「はいはい」と応じながらも、その手には、真剣な表情でトングが握られている。

 精密機械のように焼き加減を見極め、一枚、また一枚と、丁寧に焼き上げていく。その意外なほど几帳面な姿に、千夏はくすりと笑った。

 

「龍太くん、意外と几帳面だよね」

「せっかく良い肉買ったのに、適当に焼くのは嫌なんですよ」

 

 焼き色を確認しながら、次々とひっくり返す。分けられた肉を口に運ぶと、千夏は思わず頬が緩んだ。

 

「うん、美味しい!」

「でしょ?俺が焼いたんですから」

 

 誇らしげな横顔に、「じゃあ、次もお願いしようかな」と、甘えるように笑いかける。

 

「とりあえず、先輩。おめでとうございます」

「龍太くんも改めて、全種目おめでとう。連絡が来た時、嬉しくて、周りから不審がられたよ」

「どんな喜び方したんです」

 

 龍太が苦笑する。

 

「千夏ちゃんの試合、本当に良かったよ。二日とも観に行ったけど、やっぱり栄明はレベルが違うね」

「チームメイトに恵まれてるだけですから」

「ご謙遜を。まったく、大人と話してるみたいだな」

 

 父の隆盛が、感心して頷く。両親に送るために撮ったという試合映像をもとに、父が詳細な分析を語りはじめる。龍太はそれを半分聞き流しながら、ひたすら肉の焼き加減を見守っていた。

 

「そういえば、大喜君たちも勝ったそうよ」

「聞いた。めちゃくちゃ喜んでたよ。まったく、まだ地区予選だってのに」

 

 肩を竦める龍太に、香織が苦笑する。

 

「あなたたちこそ、もう少し、大喜くんみたいに喜んだらいいのに」

「喜ぶって言っても、県予選まで、もう二週間もないんだぞ。大事なのは、ここからでしょ」

「ふふっ、そうだね」

 

 千夏もまた、静かに、力強く頷いた。あまりに大人びた二人のやり取りに、隆盛と香織は顔を見合わせ、幸せそうに微笑む。

 

「なんというか、ホントにできた子たちね」

「そうだな。子どもの成長は早いもんだ」

「訳わかんないこと言ってねぇで、早く肉食べてくれ。焦げちゃうぞ」

 

 その真剣な様子に、千夏も笑みをこぼす。一枚ずつ丁寧に焼かれた肉を、皆が感謝しながら受け取った。

 しばらくして、飲み物を取りに千夏が席を立つ。その背中が家の中へ消えたのを見届け、香織がふと、思い出したように口を開いた。

 

「そういえば、せっかく地区予選突破したんだし、何かご褒美があってもいいわよね」

「ご褒美?今のこの焼肉じゃなくて?」

「これはまた別よ。この頑張りには、もう少し特別なものをあげたくて」

 

 首を傾げる龍太に、香織が楽しげに目を輝かせる。

 

「龍太。今度の土曜、千夏ちゃんと遊びにでも行ってきなさい」

 

 その言葉が落ちた瞬間、龍太の動きがピタリと止まった。トングを持つ手が、わずかに震える。

 

「……は、はあ?」

「なんでだよ!」

「あら、いいじゃない、たまには。千夏ちゃん、きっと頑張りすぎちゃうタイプだから。息抜きも必要でしょ?」

「そ、それもそうだけど、何で俺なんだよ。女バスの仲いい人たちとかでもよくないか?」

「せっかく一つ屋根の下で暮らしてるんだから、もっと仲良くしなさいな。それに、こーいうのは、男の子の方からスマートに誘ってあげるものよ」

「い、いやだからって……」

 

 しどろもどろになる、まさにその時。飲み物を持った千夏が、戻ってきた。

 香織は、その姿をちらりと確認すると、わざとらしく呟く。

 

「そういえば、お酒でも持ってこようかしら」

「は?」

「あー、そういえば切れてたなー」

「えっ、ちょっと?」

「あなた、買いに行きましょうか!」

「いいね、そうしよう」

「えっ、ちょっと待っ——!」

 

 制止する間もなく、両親は息の合った掛け合いを見せ、さっさと席を立つ。そのまま、家の外へ向かっていった。

 

(……くそっ、あの野郎どもめ……!)

 

 悪態をつきながらも、何か話さなければと、龍太は必死に頭を回す。

 

「えっと……先輩、今週の土曜は午前練ですか?」

「う、うん。そうだよ」

 

 なぜか少し緊張気味に、千夏が頷く。

 

「午後は……その、女バスの人とどっか行ったりするんですか?」

「ううん。どこも行かないよ」

「そ、そうですか」

「うん」

 

 予定はないらしい。

 だが、踏み出したいのに踏み出せない子供のように、躊躇する。

 どうする。いや、そもそもなんで俺なんだ。でも言うなら今がチャンスだよな。だが、もし断られたら——と考えた瞬間、全身が硬直した。

 

(くそ……断られたら、俺……)

 

 千夏が、じっと肉を眺めている。何か言いたげな、でも言葉を探しているような表情だった。

 

(いや……誘わなかったら、それはそれで……) 

 

 意を決して、口を開こうとする。

 

「あの、先輩——」

 

 だが、その瞬間。

 千夏が、先に口を開いた。

 

「龍太くん」

 

 不意に名を呼ばれ、喉に引っかかった言葉が、消えてしまう。

 

「な、なんですか?」

「今日の焼肉、美味しいね」

「……え?」

 

 拍子抜けする。いつものように柔らかく微笑む千夏。その表情には、何の裏もないように見えた。

 だが、その瞬間。

 龍太の胸の奥に、冷たい何かが広がった。

 

 

 

 

 

 寝室の窓を少し開けると、夜風がカーテンを揺らした。昼間の暑さが嘘のように、夜の空気はひんやりして、肌を撫でていく。遠くで虫が鳴き、夏の夜の静けさを際立たせていた。

 千夏はベッドで膝を抱え、小さく息を吐く。

 

(……なんで、あんな風に言葉を被せちゃったんだろ)

 

 何度も繰り返される、焼肉の席の記憶。香織が「千夏ちゃんと遊びにでも行ってきなさい」と言い放った、あの瞬間。龍太が何かを言いかけた、あの一瞬。そして、自分が咄嗟に話題をそらしてしまったこと。

 わかってる。彼に、無理をさせたくなかっただけだ。

 突然の提案に、どう反応すればいいか、明らかに困惑していた、あの表情。だから、助け舟を出したつもりだった。

 

 ……でも、本当に、それだけだったのだろうか。

 

(もし、あのまま待っていたら、龍太くん……なんて言ったのかな)

 

 ——誘ってくれたのかな。

 ——それとも、ただ、何かを言いかけただけ?

 ——もし、本当に「行こう」って言ってくれてたら?

 

 答えの出ない問いが、波のように行き来する。考えるほど、胸がトクンと跳ねた。

 

「……はぁ」

 

 何度目かの溜息をつき、スマートフォンを手に取る。LINEを開くと、一番上に「龍太」の名前。最後のメッセージは、彼からの「了解です」とスタンプ。それを見ているだけで、胸の奥が熱くなる。

 

(……送ってみようかな)

 

「今日はありがとう」。それくらいなら、不自然じゃない。打ち込んで、送信ボタンに指をかける。

 

 ——けれど、数秒後に消した。

 

(……やっぱ、変かな)

 

 自分から連絡するなんて、意識してるみたいで恥ずかしい。でも、気にならないなら、どうしてこんなに考えてるんだろう。

 また、布団に倒れ込む。結局、送る勇気は出なかった。

 

「また明日、いつものように会うんだから、それでいいはず」

 

 そう思い込もうとするのに、胸の奥がチクリと痛む。

 

(……結局、距離を取っちゃってるのは、私なのに)

 

 期待してた。でも、同じくらい、怖かった。

 もし、彼が何も言ってくれなかったら。

 もし、母の手前、社交辞令で誘おうとしていただけだったら。

 もし、この胸を焦がす想いが、自分だけの、一方的なものだったら。

 ——その事実を知ってしまうのが、たまらなく、怖かった。

 

(でも……誘われなかったわけじゃない……私が、聞く前に止めちゃったんだ)

 

 わざとじゃ、なかった。でも、無意識に、彼との間に見えない壁を作っていたのは、自分のほうだった。

 悔しさとも後悔とも違う、ままならない感情が、胸を締めつける。

 

「……なんで、こんな不器用なんだろう」

 

 枕を抱え、ぎゅっと力を込める。でも苦しくて、また溜息を吐いた。

 なかなか、眠れそうになかった。

 窓の外、夜空に、静かに月が浮かんでいる。

 その光だけが、千夏の小さな揺らぎを、静かに照らしていた。

 

 

 

 

 

 朝、カーテンを開けると、厚い雲が空を覆っていた。湿った風がカーテンを揺らし、外の空気が部屋に染み込んでくる。遠くで、カラスが低く鳴いた。

 

(……雨、降るかもな)

 

 無意識にそう漏れたが、スマホの予報は曇り。降水確率も低い。それなのに、この胸騒ぎは、一体なんだろうか。

 昨夜の焼肉の余韻が、まだ身体の奥にくすぶっている。楽しかったはずだ。温かくて、幸せな時間だったはずだ。なのに、胸の奥には、梅雨時の洗濯物のような、生乾きの感情が残っていた。

 

 ——言えなかった。

 

 デートの誘いを、結局、言いそびれた。あの空気の中で、どうにか言おうと思ったのに。

 でも、それ以上に気になっているのは、千夏の反応だった。

 何か言おうとすると、まるで先回りするように、言葉をかぶせてきた。それが偶然なのか、意図的なのか。考えるほど、嫌な予感がする。

 

(もしかして、……気づかれてる?)

 

 そんなわけない、と思いたい。

 でも、もしそうだとしたら——言葉をかぶせてきたのは、距離を取ろうとしているからじゃないのか。これ以上、踏み込んでくるな、と。無言の警告を、発していたのではないか。

 そう考えた瞬間、背中に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。

 千夏と並んで歩く通学路。普段と変わらない会話。でも、龍太の中で、何かがずっと引っかかっていた。

 

「なんか今日、蒸し暑いですね」

 

 そう言ってみると、千夏は「ほんとだね」と微笑む。

 

 ——その表情に、違和感はない。

 

 ないはずなのに、龍太の心は、凪いだ海に投げ込まれた小石のように、静かに、だが確かに、波紋を広げていた。

 

(……俺の、考えすぎ、なのか……?)

 

 まとわりつく湿気のせいだろうか。なんだか、息苦しい。龍太は、その正体不明の息苦しさを抱えたまま、黙って学校へ向かった。

 

 

 

 

 

 昼休み、龍太は渡り廊下をぼんやり歩いていた。昨夜のやり取りが、ずっと頭にこびりついている。考えるほど、あの時の千夏の表情が浮かぶ。笑っていたけれど、なんとなく違和感があった。でも、それが何なのか、はっきりしない。

 気づけば、自販機の前に立っていた。スポーツドリンクのボタンを押し、小銭を入れる。缶の落ちる音を聞き、取り出そうとした瞬間——

 

「なーにしてんのー!」

「うおっ!?」

 

 背後から膝の裏を蹴られ、前のめりになる。なんとか自販機に手をついて踏みとどまり、心臓を跳ねさせて振り返ると——悪戯が成功した子供のように笑う、雛だった。

 

「ふふっ、珍しく隙だらけだったね!」

「……雛、お前なぁ……」

「いやいや、いつもならこんな簡単に決まらないでしょ? つまり、それだけぼーっとしてたってこと」

 

 あまりに的を射た指摘に、言葉が詰まる。

 

「何かあったの?」

「……別に」

「うそ。顔に、でっかく書いてあるよ。『俺、今、めちゃくちゃ悩んでます』って」

 

 じとーっと見つめられ、龍太は観念して溜息をついた。この親友に、隠し事は無理らしい。

 

「……千夏先輩のことで、ちょっと」

 

 「やっぱり」と、雛が頷く。

 

「ふーん、ケンカでもした?」

「いや、そういうんじゃないんだけど……」

 

 龍太は、昨夜の焼肉のことを話した。母から「千夏を遊びに誘え」と言われたこと。誘おうとしたが、言いそびれたこと。そして、千夏が、何かを言おうとするみたいに、笑顔で話題を逸らしたこと。

 

「なんかさ、言葉を遮られたっていうか……避けられたっていうか……」

 

 雛は少し考えるように、視線を逸らした。

 

「……なるほどねぇ」

「な、なんか分かった?」

 

 身を乗り出す龍太に、雛は小さく笑ってから言った。

 

「龍は……千夏先輩が、デートに誘われるのを待ってるって可能性は、考えなかったの?」

「……え?」

「なんで誘わなかったんだろう、とか、なんで遮られたんだろう、とか。そんなことばっかり考えてたでしょ?」

 

 言われて、口をつぐむ。確かに、そのことばかり気にしていた。

 

「でもさ、それって、龍が『千夏先輩は別に行きたくないんじゃないか』って思ってる前提の考え方じゃない?」

「……いや、でも、本当に行きたいなら……普通に、誘いを待っててくれたんじゃないか?」

「それができるなら、千夏先輩は最初から、そうしてるよ」

 

 ピシャリとした口調に、龍太は少し驚いた。

 

「千夏先輩ってさ、普段はしっかりしてて、クールに見えるけど。そういうのに慣れてるわけじゃないんじゃない?」

「……」

「もし、龍から真正面から『デートしませんか』なんて言われたら。きっと、心臓口から飛び出すくらい緊張すると思うよ?」

「……そんな、千夏先輩が?」

「そうだよ。むしろ、緊張するからこそ、そうなる前に話題を逸らしちゃったんじゃない?」

 

 昨夜の千夏の表情が、頭に蘇る。

 

 ——笑っていたけれど、なんとなく違和感があった。

 

 それが、ただの「いつもの笑顔」じゃなかったとしたら。

 

「……じゃあ、俺はどうすればよかった?」

 

 ぼそっと尋ねると、雛はいたずらっぽく微笑む。

 

「簡単じゃん。龍が、ちゃんと言えばいいの」

「……でも、もし本当に行きたくなかったら?」

 

 その瞬間、雛の表情が、わずかに変わった。ほんの一瞬だけ、眉をひそめるような。

 

「……龍はさ」

「ん?」

「逆に聞くけど——先輩とデート、したくないの?」

「え?」

 

 その言葉に、龍太は、思いもよらない名を耳にしたような顔になる。

 

「お母さんに言われたから誘おうとしたんじゃなくてさ。——龍自身は、どうなの? 誘いたかった?」

「……俺が?」

 

 まさか、自分が問われるとは思っていなかった。戸惑いながら、言葉を探す。

 

「そりゃ、別に……嫌じゃないけど……」

「うーん、そういうこと聞いてるんじゃなくてさ」

 

 雛が、じっと見つめてくる。答えを誤魔化させないような、その目で。

 

「単純に、龍は、どうしたいの?先輩とデートしたい?」

 

 その一言が、胸にストンと落ちた。

 

(俺は……)

 

 彼女への想いは、憧れなのか、尊敬なのか。それとも、ただ一緒にいるのが楽しいだけなのか。自分でも、まだ、よくわからない。

 

「別に好きじゃなくても、それを確かめに行くのが、デートなんじゃないの?」

 

 迷いを見透かすように、雛が悪戯っぽく笑う。

 

「龍って、見た目以上にマジメだからねぇ」

「うるせぇよ」

 

 ——そうか。

 

 きっかけは、それで、いいのか。

 そう気づいた瞬間、全身がカッと熱くなった。手の中の缶を、ぎゅっと握りしめる。

 

「……誘ってみる」

「でしょー? だからさ、龍が『どうしたいか』をちゃんと考えて、先輩に伝えなよ」

 

 ニコッと笑う雛に、龍太は一瞬、息を飲む。こういうところは、友人として頼もしい限りだった。

 

「……わかった。ありがとな、雛」

 

 「おー!」と、雛が軽く拳を突き上げる。

 

「頑張れ、鈍感男子!」

「……うるさいって」

 

 苦笑して、缶のプルタブを引く。一口飲んだスポーツドリンクが、いつもより爽やかに感じられた。

 

 

 

 

 

 

 パス、ステップ、シュート——

 

 繰り返し、何も考えずに体を動かす。指先を離れたボールが、回転しながらゴールへ吸い込まれる。ネットが揺れ、体育館に乾いた音が響いた。時計を見れば、部活が終わってから、ずいぶん経っている。それでも、千夏の体は止まらなかった。

 

(……もう、みんな帰ってるのに)

 

 わかっている。

 頭ではわかっているのに、身体が、心が、止まることを拒んでいた。

 昨日からずっと、胸の奥が、さざ波のように、静かに、絶え間なくざわついている。焦りでも、怒りでもない。名前のつけられない、この感情の正体は。それを振り払うように、また、シュートを放つ。

 

(……違う)

 

 どれだけ決めても、モヤモヤは消えなかった。

 不意に、後ろから声がかかる。

 

「——もうすぐ、体育館、閉める時間だよ」

 

 振り返ると、入り口に立つ警備員が苦笑していた。

 

「あ……すみません。すぐ片付けます!」

 

 バタバタとボールを片付け、体育館を出る。ふと、外の音に気づいた。

 

 ぽつ、ぽつ、ぽつ——

 

 地面に、小さな雨粒が弾けている。それを見た瞬間、なぜか胸がざわついた。

 

(……雨)

 

 予報は、曇りのままのはずだったのに。空を見上げると、いつの間にか、重たい灰色の雲が、一面を覆っている。

 仕方ない、走って帰るしかないか——。

 そう思って、バッグからスマートフォンを取り出した、その画面に。

 彼の名前が、表示されていた。

 

『下駄箱のところで待ってます』

 

 その、たった一文に、千夏の心臓が、大きく、確かに、音を立てた。

 濡れはじめた地面を蹴り、足早に校舎へ向かう。

 下駄箱の前。彼は、そこにいた。降りはじめた雨を、ただ静かに見つめている。その右手には、見慣れた自分の傘。そして、左手には——もう一本、見覚えのない、黒い傘。

 

(……え?)

 

 一瞬、状況が掴めなかった。龍太は今日、傘を持ってきていなかったはずだ。

 じゃあ、その手にある傘は……?

 ハッとする。

 

(まさか……家まで取りに行ってくれたの?)

 

 驚きとともに、心の奥に、じんわりと何かが広がっていく。

 

「龍太くん……それ……」

「ああ、先輩のやつです」

 

 そっけなく、ぶっきらぼうに、彼は言った。だが、その声の奥に、ほんの少しだけ照れが混じっているのを、千夏は見逃さなかった。

 

「……傘、持ってなかったですよね?」

 

 それだけ言って、龍太は傘を差し出す。手元には、取りに戻ったであろう、微かな水滴がついていた。

 言葉にしなくても、わかる。

 彼は、傘を取りに、学校と家を往復したのだ。

 

(……私のために?)

 

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。昨夜の、馬鹿みたいに臆病だった自分が、恥ずかしくて、情けなかった。彼は何も変わらず、こんなにも優しかったのに。

 

「……ありがとう」

 

 それだけが、やっとのことで口をついて出た。

 

「気にしないでください」

 

 軽く頭を掻きながら言う。

 

「でも、走ってきたの?びしょ濡れだよ……」

「大したことないですよ。どうせ汗かいたし」

「ちょっと待っててね」

 

 バッグからタオルを取り出し、手渡す。

 

「これ使って。風邪ひいちゃうよ」

「いや、別にいいですよ」

「この間、風邪引いたばかりなのに?」

「……ありがとうございます」

 

 そう言いながら、彼はタオルを受け取った。その様子に、千夏は微笑む。ほんの少し、胸が熱くなるのを感じながら。

 

「……帰り、一緒に歩いてもいい?」

 

 気づけば、そう口にしていた。

 龍太は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに小さく笑う。

 

「いつも帰ってるじゃないですか」

「そうだね」

 

 ぽつぽつと降り続ける雨の中、二人は並んで歩き出した。傘が触れ合いそうな距離。でも、千夏の心は落ち着かない。何度も帰り道を共にしてきたはずなのに、今日は少しだけ、違う気がする。

 ——わざわざ傘を持って迎えに来てくれたから? 

 ——それとも、昨夜のことが、まだ心に引っかかっているから?

 

 そっと、横顔を盗み見る。いつもと変わらない、少し気だるそうな表情。けれど、その奥に何か、普段とは違う緊張のようなものが、潜んでいる気がした。

 

(……龍太くんも、何か考えてるのかな)

 

 聞いてみたい。でも、どんな言葉で切り出せばいいのか、わからない。雨音だけが、二人の間の、甘く、もどかしい沈黙を埋めていく。

 千夏は、小さく息を吸い込み、視線を前へ戻した。

 

「龍太くん——」

 

 意を決して、名を呼ぶ。

 けれど、そのか細い声は、彼の強い声に遮られた。

 

「先輩!」

 

 驚いて顔を上げると、龍太がまっすぐこちらを見ている。

 

「……え?」

 

 何か言いたげなその目が、何かを決意したように、強い。

 

(もしかして……)

 

 胸の奥が、ドクンと跳ねた。

 

「……先輩、俺と——」

 

 龍太が言いかけた、瞬間。

 ——ピカッ! 

 暗い雲の間から、強い閃光が走る。

 次の瞬間。

 ドォォォン——!! 

 雷鳴が響いた。

 

「っ!」

 

 反射的に、千夏が肩をすくめる。その拍子に、傘が大きく傾いた。

 

「あっ——」

 

 バランスを崩し、ふらつく。

 けれど、倒れる前に。

 

 力強い手が、腕を引いた。

 千夏は、思わず息を止める。

 

 ——近い。

 

 顔が、肩が、触れそうなくらい。龍太の温もりが、すぐそこにある。濡れたシャツの冷たさと、彼の体温の熱が、同時に感じられた。息を吸うと、雨の匂いの中に、微かに、彼の汗の香りが混ざる。

 

(……ちかいっ)

 

 すぐに離れればいいのに。でも、龍太の手は、まだ腕を掴んだまま。雨音だけが、やけに響く。まるで、世界に二人しかいないみたいだった。

 

「……っ」

 

 恐る恐る、視線を上げる。

 龍太が、見たことのないような、真剣な表情で、自分を見つめていた。その瞳に、もう、焦りも、迷いもなかった。

 何か言わなきゃ——

 そう思った瞬間。

 龍太が、ゆっくりと口を開いた。

 

「……デートしてください」

 

 静かな、けれど、はっきりとした言葉。

 千夏は、一瞬、時間が止まったように感じた。 

 

「……え?」

 

 かすれた声が漏れる。

 

「もし、先輩が嫌じゃないなら——」

 

 龍太の目が、まっすぐに捉える。

 

「俺と、デートしてくれませんか?」

 

 今度は、はっきりと。雨音の中に、確かに届く声で。

 ——千夏の心臓が、跳ね上がる。

 

(……えっ?)

 

 雨の冷たさも、傘を持つ手の感触も、一瞬で遠のく。ただ、彼の言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。

 

 ——でも。

 

 もし、これが「ご褒美」のつもりだったら。

 もし、ただ母親に言われたから誘っただけだったら。

 それが、一番怖い。もし、勘違いだったら。

 

(……違う)

 

 そう思いたいのに、言葉が出てこない。迷っているうちに、沈黙が生まれた。

 

(どうしよう、返事しなきゃ……)

 

 言わなきゃ、でも——

 二つの想いが衝突して、波を立てる。どちらの決心も、つかなかった。

 ふと、龍太のその真剣な表情が、ほんの少しだけ、不安そうに揺れた気がした。

 

 ……怖いのかもしれない。

 

 彼も、返事を待つ間、私と同じように。

 その瞬間、いっぱいに詰まっていた胸が、軽くなる。

 

 だって、本当は——

 答えなんて、もう、ずっと前から、決まっていたのだから。

 にじむような熱い気持ちが、じんわりと湧いてくる。ぎゅっと、傘の持ち手を握った。

 

「……いきたい」

 

 ほんの少し、声が震えた。

 でも、今度は目をそらさずに、まっすぐ彼を見つめた。

 

「行きたい……龍太くんと、デート」

 

 その瞬間、龍太の固い表情が、ふっと、緩んだ。

 そして、心の底から安心したような、小さな声が聞こえた。

 

「……よかった……」

 

 その声を聞いた途端、胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。

 

(……よかった)

 

 本当に、それしかなかった。

 雷は、いつの間にか遠ざかっていた。

 雨の音だけが、ふたりの間を満たしている。

 ——でも、気づけば、その雨音すらも、心地よく感じていた。

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