親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
地区大会は、土日に行われた。
龍太の陸上は一日で終わったが、千夏のバスケは土日を通して続き、ついに迎えた決勝戦。
序盤から、栄明は相手を圧倒した。千夏は要所でボールを捌き、ディフェンスで相手の芽を摘み、速攻では確実に走り切ってゴール下を重ねる。チームの連携も冴え、栄明は危なげなく試合を制した。
試合終了のブザーと同時に、体育館に歓声が響き渡る。
栄明女バスは、見事に地区予選を勝ち抜き、県予選への切符を手にした。
息を整えながら、千夏はコート中央でガッツポーズをする仲間たちを眺めた。
嬉しくないわけがない。
でも、彼女の中には、どこか冷静な感覚も残っていた。
(……まだ、ここがゴールじゃない)
県予選、そしてその先のインターハイ。
目指す場所は、まだずっと遠い。深く息を吐いて、千夏は静かにベンチへ向かった。
身支度を整え、渚とロッカールームを出る。その時、ふと、渚の足が止まった。
「どうしたの?」
問いかけると、渚が静かに手で制す。その視線の先、廊下の向こうから、他校の選手の話し声が聞こえてきた。
「それで、どうだった?栄明のバスケ」
自分たちの学校名に気づき、千夏もまた、無意識に壁の影へ身を潜めた。
「10番……鹿野さんか……大したことないですね」
「……何よそれ」
反応したのは、隣の渚だった。低く呟くのを横目に、千夏は黙って聞き続ける。
「以前、練習試合した時からあまり変わってない印象だし。私がつけば問題ないかと。正直——期待外れです」
侮る響きではあったが、彼女たちは千夏を軽視しているわけではない。ただの客観的な分析なのだろう。自分たちの実力で十分対応できる——そう確信しているからこそ、自然と出た言葉だ。
しかし、言われた側としては、挑発とも取れる内容だった。
渚が、今にも詰め寄りそうな様子を見せる。
だが、その横で、千夏は思わずクスッと笑ってしまった。
「ち、千夏?」
信じられないものを見る目で、渚が振り向く。当然だろう。これだけ言われて笑っているなんて、常軌を逸している。
「ごめん、何でもない。行こっか」
柔らかく微笑んで、前を向く。その顔には、迷いも、焦りも、怒りすらもなかった。
「で、でも、今の話……!」
何か言いたげに口を開く渚。だが、千夏の、あまりに静かで真っ直ぐな瞳を見て、言葉を飲み込んだ。強がりでも意地でもない。揺るぎない自信が、そこにはあった。
「私は大丈夫だよ。ほら、それより次の試合のために練習しよう」
渚は少し驚いた表情を見せたが、すぐに息を吐いて、渋々歩き出した。
「……まあ、千夏が良いなら良いけどさ」
不満げな口調とは裏腹に、その顔はどこか安心したようだった。千夏は、その横顔を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じる。
(私は、特別な選手じゃないかもしれない。でも、私は最高のチームに恵まれてる)
渚や仲間たちの存在が、何よりも自分を支えている。湧き上がる感謝を、抑えきれなかった。それに——
(……龍太くんの言う通りになったね)
誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ、口元に笑みを浮かべた。
試合後、帰宅した千夏は、荷物を置いて、ゆっくり息をつく。疲労感はあるが、それ以上に、心地よい充実感が広がっていた。そんなとき、廊下から、美味しそうな匂いが漂ってくる。
(……焼肉の匂い?)
驚いてリビングへ向かうと、庭で炭をおこしながら、嬉しそうに準備を進める龍太と香織がいた。
「千夏ちゃん、おかえり! ちょうどいいところよ」
目を丸くする千夏に、香織がウインクする。
「今日は、お祝いだからね!」
——それが、焼肉パーティーの始まりだった。
庭先のコンロから、ジュージューと肉の焼ける音が響く。香ばしい匂いが、夜風に乗って辺りに広がっていた。星がちらほら瞬きはじめた空の下、テーブルには、彩り豊かな野菜や肉、キムチやサンチュが、宝石のように並んでいる。
「二人とも、地区予選突破おめでとー!!」
香織の快活な声が、夜の静寂に弾けた。龍太は照れくさそうに「はいはい」と応じながらも、その手には、真剣な表情でトングが握られている。
精密機械のように焼き加減を見極め、一枚、また一枚と、丁寧に焼き上げていく。その意外なほど几帳面な姿に、千夏はくすりと笑った。
「龍太くん、意外と几帳面だよね」
「せっかく良い肉買ったのに、適当に焼くのは嫌なんですよ」
焼き色を確認しながら、次々とひっくり返す。分けられた肉を口に運ぶと、千夏は思わず頬が緩んだ。
「うん、美味しい!」
「でしょ?俺が焼いたんですから」
誇らしげな横顔に、「じゃあ、次もお願いしようかな」と、甘えるように笑いかける。
「とりあえず、先輩。おめでとうございます」
「龍太くんも改めて、全種目おめでとう。連絡が来た時、嬉しくて、周りから不審がられたよ」
「どんな喜び方したんです」
龍太が苦笑する。
「千夏ちゃんの試合、本当に良かったよ。二日とも観に行ったけど、やっぱり栄明はレベルが違うね」
「チームメイトに恵まれてるだけですから」
「ご謙遜を。まったく、大人と話してるみたいだな」
父の隆盛が、感心して頷く。両親に送るために撮ったという試合映像をもとに、父が詳細な分析を語りはじめる。龍太はそれを半分聞き流しながら、ひたすら肉の焼き加減を見守っていた。
「そういえば、大喜君たちも勝ったそうよ」
「聞いた。めちゃくちゃ喜んでたよ。まったく、まだ地区予選だってのに」
肩を竦める龍太に、香織が苦笑する。
「あなたたちこそ、もう少し、大喜くんみたいに喜んだらいいのに」
「喜ぶって言っても、県予選まで、もう二週間もないんだぞ。大事なのは、ここからでしょ」
「ふふっ、そうだね」
千夏もまた、静かに、力強く頷いた。あまりに大人びた二人のやり取りに、隆盛と香織は顔を見合わせ、幸せそうに微笑む。
「なんというか、ホントにできた子たちね」
「そうだな。子どもの成長は早いもんだ」
「訳わかんないこと言ってねぇで、早く肉食べてくれ。焦げちゃうぞ」
その真剣な様子に、千夏も笑みをこぼす。一枚ずつ丁寧に焼かれた肉を、皆が感謝しながら受け取った。
しばらくして、飲み物を取りに千夏が席を立つ。その背中が家の中へ消えたのを見届け、香織がふと、思い出したように口を開いた。
「そういえば、せっかく地区予選突破したんだし、何かご褒美があってもいいわよね」
「ご褒美?今のこの焼肉じゃなくて?」
「これはまた別よ。この頑張りには、もう少し特別なものをあげたくて」
首を傾げる龍太に、香織が楽しげに目を輝かせる。
「龍太。今度の土曜、千夏ちゃんと遊びにでも行ってきなさい」
その言葉が落ちた瞬間、龍太の動きがピタリと止まった。トングを持つ手が、わずかに震える。
「……は、はあ?」
「なんでだよ!」
「あら、いいじゃない、たまには。千夏ちゃん、きっと頑張りすぎちゃうタイプだから。息抜きも必要でしょ?」
「そ、それもそうだけど、何で俺なんだよ。女バスの仲いい人たちとかでもよくないか?」
「せっかく一つ屋根の下で暮らしてるんだから、もっと仲良くしなさいな。それに、こーいうのは、男の子の方からスマートに誘ってあげるものよ」
「い、いやだからって……」
しどろもどろになる、まさにその時。飲み物を持った千夏が、戻ってきた。
香織は、その姿をちらりと確認すると、わざとらしく呟く。
「そういえば、お酒でも持ってこようかしら」
「は?」
「あー、そういえば切れてたなー」
「えっ、ちょっと?」
「あなた、買いに行きましょうか!」
「いいね、そうしよう」
「えっ、ちょっと待っ——!」
制止する間もなく、両親は息の合った掛け合いを見せ、さっさと席を立つ。そのまま、家の外へ向かっていった。
(……くそっ、あの野郎どもめ……!)
悪態をつきながらも、何か話さなければと、龍太は必死に頭を回す。
「えっと……先輩、今週の土曜は午前練ですか?」
「う、うん。そうだよ」
なぜか少し緊張気味に、千夏が頷く。
「午後は……その、女バスの人とどっか行ったりするんですか?」
「ううん。どこも行かないよ」
「そ、そうですか」
「うん」
予定はないらしい。
だが、踏み出したいのに踏み出せない子供のように、躊躇する。
どうする。いや、そもそもなんで俺なんだ。でも言うなら今がチャンスだよな。だが、もし断られたら——と考えた瞬間、全身が硬直した。
(くそ……断られたら、俺……)
千夏が、じっと肉を眺めている。何か言いたげな、でも言葉を探しているような表情だった。
(いや……誘わなかったら、それはそれで……)
意を決して、口を開こうとする。
「あの、先輩——」
だが、その瞬間。
千夏が、先に口を開いた。
「龍太くん」
不意に名を呼ばれ、喉に引っかかった言葉が、消えてしまう。
「な、なんですか?」
「今日の焼肉、美味しいね」
「……え?」
拍子抜けする。いつものように柔らかく微笑む千夏。その表情には、何の裏もないように見えた。
だが、その瞬間。
龍太の胸の奥に、冷たい何かが広がった。
寝室の窓を少し開けると、夜風がカーテンを揺らした。昼間の暑さが嘘のように、夜の空気はひんやりして、肌を撫でていく。遠くで虫が鳴き、夏の夜の静けさを際立たせていた。
千夏はベッドで膝を抱え、小さく息を吐く。
(……なんで、あんな風に言葉を被せちゃったんだろ)
何度も繰り返される、焼肉の席の記憶。香織が「千夏ちゃんと遊びにでも行ってきなさい」と言い放った、あの瞬間。龍太が何かを言いかけた、あの一瞬。そして、自分が咄嗟に話題をそらしてしまったこと。
わかってる。彼に、無理をさせたくなかっただけだ。
突然の提案に、どう反応すればいいか、明らかに困惑していた、あの表情。だから、助け舟を出したつもりだった。
……でも、本当に、それだけだったのだろうか。
(もし、あのまま待っていたら、龍太くん……なんて言ったのかな)
——誘ってくれたのかな。
——それとも、ただ、何かを言いかけただけ?
——もし、本当に「行こう」って言ってくれてたら?
答えの出ない問いが、波のように行き来する。考えるほど、胸がトクンと跳ねた。
「……はぁ」
何度目かの溜息をつき、スマートフォンを手に取る。LINEを開くと、一番上に「龍太」の名前。最後のメッセージは、彼からの「了解です」とスタンプ。それを見ているだけで、胸の奥が熱くなる。
(……送ってみようかな)
「今日はありがとう」。それくらいなら、不自然じゃない。打ち込んで、送信ボタンに指をかける。
——けれど、数秒後に消した。
(……やっぱ、変かな)
自分から連絡するなんて、意識してるみたいで恥ずかしい。でも、気にならないなら、どうしてこんなに考えてるんだろう。
また、布団に倒れ込む。結局、送る勇気は出なかった。
「また明日、いつものように会うんだから、それでいいはず」
そう思い込もうとするのに、胸の奥がチクリと痛む。
(……結局、距離を取っちゃってるのは、私なのに)
期待してた。でも、同じくらい、怖かった。
もし、彼が何も言ってくれなかったら。
もし、母の手前、社交辞令で誘おうとしていただけだったら。
もし、この胸を焦がす想いが、自分だけの、一方的なものだったら。
——その事実を知ってしまうのが、たまらなく、怖かった。
(でも……誘われなかったわけじゃない……私が、聞く前に止めちゃったんだ)
わざとじゃ、なかった。でも、無意識に、彼との間に見えない壁を作っていたのは、自分のほうだった。
悔しさとも後悔とも違う、ままならない感情が、胸を締めつける。
「……なんで、こんな不器用なんだろう」
枕を抱え、ぎゅっと力を込める。でも苦しくて、また溜息を吐いた。
なかなか、眠れそうになかった。
窓の外、夜空に、静かに月が浮かんでいる。
その光だけが、千夏の小さな揺らぎを、静かに照らしていた。
朝、カーテンを開けると、厚い雲が空を覆っていた。湿った風がカーテンを揺らし、外の空気が部屋に染み込んでくる。遠くで、カラスが低く鳴いた。
(……雨、降るかもな)
無意識にそう漏れたが、スマホの予報は曇り。降水確率も低い。それなのに、この胸騒ぎは、一体なんだろうか。
昨夜の焼肉の余韻が、まだ身体の奥にくすぶっている。楽しかったはずだ。温かくて、幸せな時間だったはずだ。なのに、胸の奥には、梅雨時の洗濯物のような、生乾きの感情が残っていた。
——言えなかった。
デートの誘いを、結局、言いそびれた。あの空気の中で、どうにか言おうと思ったのに。
でも、それ以上に気になっているのは、千夏の反応だった。
何か言おうとすると、まるで先回りするように、言葉をかぶせてきた。それが偶然なのか、意図的なのか。考えるほど、嫌な予感がする。
(もしかして、……気づかれてる?)
そんなわけない、と思いたい。
でも、もしそうだとしたら——言葉をかぶせてきたのは、距離を取ろうとしているからじゃないのか。これ以上、踏み込んでくるな、と。無言の警告を、発していたのではないか。
そう考えた瞬間、背中に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。
千夏と並んで歩く通学路。普段と変わらない会話。でも、龍太の中で、何かがずっと引っかかっていた。
「なんか今日、蒸し暑いですね」
そう言ってみると、千夏は「ほんとだね」と微笑む。
——その表情に、違和感はない。
ないはずなのに、龍太の心は、凪いだ海に投げ込まれた小石のように、静かに、だが確かに、波紋を広げていた。
(……俺の、考えすぎ、なのか……?)
まとわりつく湿気のせいだろうか。なんだか、息苦しい。龍太は、その正体不明の息苦しさを抱えたまま、黙って学校へ向かった。
昼休み、龍太は渡り廊下をぼんやり歩いていた。昨夜のやり取りが、ずっと頭にこびりついている。考えるほど、あの時の千夏の表情が浮かぶ。笑っていたけれど、なんとなく違和感があった。でも、それが何なのか、はっきりしない。
気づけば、自販機の前に立っていた。スポーツドリンクのボタンを押し、小銭を入れる。缶の落ちる音を聞き、取り出そうとした瞬間——
「なーにしてんのー!」
「うおっ!?」
背後から膝の裏を蹴られ、前のめりになる。なんとか自販機に手をついて踏みとどまり、心臓を跳ねさせて振り返ると——悪戯が成功した子供のように笑う、雛だった。
「ふふっ、珍しく隙だらけだったね!」
「……雛、お前なぁ……」
「いやいや、いつもならこんな簡単に決まらないでしょ? つまり、それだけぼーっとしてたってこと」
あまりに的を射た指摘に、言葉が詰まる。
「何かあったの?」
「……別に」
「うそ。顔に、でっかく書いてあるよ。『俺、今、めちゃくちゃ悩んでます』って」
じとーっと見つめられ、龍太は観念して溜息をついた。この親友に、隠し事は無理らしい。
「……千夏先輩のことで、ちょっと」
「やっぱり」と、雛が頷く。
「ふーん、ケンカでもした?」
「いや、そういうんじゃないんだけど……」
龍太は、昨夜の焼肉のことを話した。母から「千夏を遊びに誘え」と言われたこと。誘おうとしたが、言いそびれたこと。そして、千夏が、何かを言おうとするみたいに、笑顔で話題を逸らしたこと。
「なんかさ、言葉を遮られたっていうか……避けられたっていうか……」
雛は少し考えるように、視線を逸らした。
「……なるほどねぇ」
「な、なんか分かった?」
身を乗り出す龍太に、雛は小さく笑ってから言った。
「龍は……千夏先輩が、デートに誘われるのを待ってるって可能性は、考えなかったの?」
「……え?」
「なんで誘わなかったんだろう、とか、なんで遮られたんだろう、とか。そんなことばっかり考えてたでしょ?」
言われて、口をつぐむ。確かに、そのことばかり気にしていた。
「でもさ、それって、龍が『千夏先輩は別に行きたくないんじゃないか』って思ってる前提の考え方じゃない?」
「……いや、でも、本当に行きたいなら……普通に、誘いを待っててくれたんじゃないか?」
「それができるなら、千夏先輩は最初から、そうしてるよ」
ピシャリとした口調に、龍太は少し驚いた。
「千夏先輩ってさ、普段はしっかりしてて、クールに見えるけど。そういうのに慣れてるわけじゃないんじゃない?」
「……」
「もし、龍から真正面から『デートしませんか』なんて言われたら。きっと、心臓口から飛び出すくらい緊張すると思うよ?」
「……そんな、千夏先輩が?」
「そうだよ。むしろ、緊張するからこそ、そうなる前に話題を逸らしちゃったんじゃない?」
昨夜の千夏の表情が、頭に蘇る。
——笑っていたけれど、なんとなく違和感があった。
それが、ただの「いつもの笑顔」じゃなかったとしたら。
「……じゃあ、俺はどうすればよかった?」
ぼそっと尋ねると、雛はいたずらっぽく微笑む。
「簡単じゃん。龍が、ちゃんと言えばいいの」
「……でも、もし本当に行きたくなかったら?」
その瞬間、雛の表情が、わずかに変わった。ほんの一瞬だけ、眉をひそめるような。
「……龍はさ」
「ん?」
「逆に聞くけど——先輩とデート、したくないの?」
「え?」
その言葉に、龍太は、思いもよらない名を耳にしたような顔になる。
「お母さんに言われたから誘おうとしたんじゃなくてさ。——龍自身は、どうなの? 誘いたかった?」
「……俺が?」
まさか、自分が問われるとは思っていなかった。戸惑いながら、言葉を探す。
「そりゃ、別に……嫌じゃないけど……」
「うーん、そういうこと聞いてるんじゃなくてさ」
雛が、じっと見つめてくる。答えを誤魔化させないような、その目で。
「単純に、龍は、どうしたいの?先輩とデートしたい?」
その一言が、胸にストンと落ちた。
(俺は……)
彼女への想いは、憧れなのか、尊敬なのか。それとも、ただ一緒にいるのが楽しいだけなのか。自分でも、まだ、よくわからない。
「別に好きじゃなくても、それを確かめに行くのが、デートなんじゃないの?」
迷いを見透かすように、雛が悪戯っぽく笑う。
「龍って、見た目以上にマジメだからねぇ」
「うるせぇよ」
——そうか。
きっかけは、それで、いいのか。
そう気づいた瞬間、全身がカッと熱くなった。手の中の缶を、ぎゅっと握りしめる。
「……誘ってみる」
「でしょー? だからさ、龍が『どうしたいか』をちゃんと考えて、先輩に伝えなよ」
ニコッと笑う雛に、龍太は一瞬、息を飲む。こういうところは、友人として頼もしい限りだった。
「……わかった。ありがとな、雛」
「おー!」と、雛が軽く拳を突き上げる。
「頑張れ、鈍感男子!」
「……うるさいって」
苦笑して、缶のプルタブを引く。一口飲んだスポーツドリンクが、いつもより爽やかに感じられた。
パス、ステップ、シュート——
繰り返し、何も考えずに体を動かす。指先を離れたボールが、回転しながらゴールへ吸い込まれる。ネットが揺れ、体育館に乾いた音が響いた。時計を見れば、部活が終わってから、ずいぶん経っている。それでも、千夏の体は止まらなかった。
(……もう、みんな帰ってるのに)
わかっている。
頭ではわかっているのに、身体が、心が、止まることを拒んでいた。
昨日からずっと、胸の奥が、さざ波のように、静かに、絶え間なくざわついている。焦りでも、怒りでもない。名前のつけられない、この感情の正体は。それを振り払うように、また、シュートを放つ。
(……違う)
どれだけ決めても、モヤモヤは消えなかった。
不意に、後ろから声がかかる。
「——もうすぐ、体育館、閉める時間だよ」
振り返ると、入り口に立つ警備員が苦笑していた。
「あ……すみません。すぐ片付けます!」
バタバタとボールを片付け、体育館を出る。ふと、外の音に気づいた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ——
地面に、小さな雨粒が弾けている。それを見た瞬間、なぜか胸がざわついた。
(……雨)
予報は、曇りのままのはずだったのに。空を見上げると、いつの間にか、重たい灰色の雲が、一面を覆っている。
仕方ない、走って帰るしかないか——。
そう思って、バッグからスマートフォンを取り出した、その画面に。
彼の名前が、表示されていた。
『下駄箱のところで待ってます』
その、たった一文に、千夏の心臓が、大きく、確かに、音を立てた。
濡れはじめた地面を蹴り、足早に校舎へ向かう。
下駄箱の前。彼は、そこにいた。降りはじめた雨を、ただ静かに見つめている。その右手には、見慣れた自分の傘。そして、左手には——もう一本、見覚えのない、黒い傘。
(……え?)
一瞬、状況が掴めなかった。龍太は今日、傘を持ってきていなかったはずだ。
じゃあ、その手にある傘は……?
ハッとする。
(まさか……家まで取りに行ってくれたの?)
驚きとともに、心の奥に、じんわりと何かが広がっていく。
「龍太くん……それ……」
「ああ、先輩のやつです」
そっけなく、ぶっきらぼうに、彼は言った。だが、その声の奥に、ほんの少しだけ照れが混じっているのを、千夏は見逃さなかった。
「……傘、持ってなかったですよね?」
それだけ言って、龍太は傘を差し出す。手元には、取りに戻ったであろう、微かな水滴がついていた。
言葉にしなくても、わかる。
彼は、傘を取りに、学校と家を往復したのだ。
(……私のために?)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。昨夜の、馬鹿みたいに臆病だった自分が、恥ずかしくて、情けなかった。彼は何も変わらず、こんなにも優しかったのに。
「……ありがとう」
それだけが、やっとのことで口をついて出た。
「気にしないでください」
軽く頭を掻きながら言う。
「でも、走ってきたの?びしょ濡れだよ……」
「大したことないですよ。どうせ汗かいたし」
「ちょっと待っててね」
バッグからタオルを取り出し、手渡す。
「これ使って。風邪ひいちゃうよ」
「いや、別にいいですよ」
「この間、風邪引いたばかりなのに?」
「……ありがとうございます」
そう言いながら、彼はタオルを受け取った。その様子に、千夏は微笑む。ほんの少し、胸が熱くなるのを感じながら。
「……帰り、一緒に歩いてもいい?」
気づけば、そう口にしていた。
龍太は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに小さく笑う。
「いつも帰ってるじゃないですか」
「そうだね」
ぽつぽつと降り続ける雨の中、二人は並んで歩き出した。傘が触れ合いそうな距離。でも、千夏の心は落ち着かない。何度も帰り道を共にしてきたはずなのに、今日は少しだけ、違う気がする。
——わざわざ傘を持って迎えに来てくれたから?
——それとも、昨夜のことが、まだ心に引っかかっているから?
そっと、横顔を盗み見る。いつもと変わらない、少し気だるそうな表情。けれど、その奥に何か、普段とは違う緊張のようなものが、潜んでいる気がした。
(……龍太くんも、何か考えてるのかな)
聞いてみたい。でも、どんな言葉で切り出せばいいのか、わからない。雨音だけが、二人の間の、甘く、もどかしい沈黙を埋めていく。
千夏は、小さく息を吸い込み、視線を前へ戻した。
「龍太くん——」
意を決して、名を呼ぶ。
けれど、そのか細い声は、彼の強い声に遮られた。
「先輩!」
驚いて顔を上げると、龍太がまっすぐこちらを見ている。
「……え?」
何か言いたげなその目が、何かを決意したように、強い。
(もしかして……)
胸の奥が、ドクンと跳ねた。
「……先輩、俺と——」
龍太が言いかけた、瞬間。
——ピカッ!
暗い雲の間から、強い閃光が走る。
次の瞬間。
ドォォォン——!!
雷鳴が響いた。
「っ!」
反射的に、千夏が肩をすくめる。その拍子に、傘が大きく傾いた。
「あっ——」
バランスを崩し、ふらつく。
けれど、倒れる前に。
力強い手が、腕を引いた。
千夏は、思わず息を止める。
——近い。
顔が、肩が、触れそうなくらい。龍太の温もりが、すぐそこにある。濡れたシャツの冷たさと、彼の体温の熱が、同時に感じられた。息を吸うと、雨の匂いの中に、微かに、彼の汗の香りが混ざる。
(……ちかいっ)
すぐに離れればいいのに。でも、龍太の手は、まだ腕を掴んだまま。雨音だけが、やけに響く。まるで、世界に二人しかいないみたいだった。
「……っ」
恐る恐る、視線を上げる。
龍太が、見たことのないような、真剣な表情で、自分を見つめていた。その瞳に、もう、焦りも、迷いもなかった。
何か言わなきゃ——
そう思った瞬間。
龍太が、ゆっくりと口を開いた。
「……デートしてください」
静かな、けれど、はっきりとした言葉。
千夏は、一瞬、時間が止まったように感じた。
「……え?」
かすれた声が漏れる。
「もし、先輩が嫌じゃないなら——」
龍太の目が、まっすぐに捉える。
「俺と、デートしてくれませんか?」
今度は、はっきりと。雨音の中に、確かに届く声で。
——千夏の心臓が、跳ね上がる。
(……えっ?)
雨の冷たさも、傘を持つ手の感触も、一瞬で遠のく。ただ、彼の言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
——でも。
もし、これが「ご褒美」のつもりだったら。
もし、ただ母親に言われたから誘っただけだったら。
それが、一番怖い。もし、勘違いだったら。
(……違う)
そう思いたいのに、言葉が出てこない。迷っているうちに、沈黙が生まれた。
(どうしよう、返事しなきゃ……)
言わなきゃ、でも——
二つの想いが衝突して、波を立てる。どちらの決心も、つかなかった。
ふと、龍太のその真剣な表情が、ほんの少しだけ、不安そうに揺れた気がした。
……怖いのかもしれない。
彼も、返事を待つ間、私と同じように。
その瞬間、いっぱいに詰まっていた胸が、軽くなる。
だって、本当は——
答えなんて、もう、ずっと前から、決まっていたのだから。
にじむような熱い気持ちが、じんわりと湧いてくる。ぎゅっと、傘の持ち手を握った。
「……いきたい」
ほんの少し、声が震えた。
でも、今度は目をそらさずに、まっすぐ彼を見つめた。
「行きたい……龍太くんと、デート」
その瞬間、龍太の固い表情が、ふっと、緩んだ。
そして、心の底から安心したような、小さな声が聞こえた。
「……よかった……」
その声を聞いた途端、胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
(……よかった)
本当に、それしかなかった。
雷は、いつの間にか遠ざかっていた。
雨の音だけが、ふたりの間を満たしている。
——でも、気づけば、その雨音すらも、心地よく感じていた。