親友の憧れの先輩に懐かれました。 作:cart_strange
地区大会は土日に行われた。
龍太の陸上競技は1日で終わったが、千夏のバスケの予選試合は土日を通して続き、ついに迎えた決勝戦。
序盤から栄明は相手を圧倒し、リードを維持し続ける。
千夏は要所でしっかりとボールを捌き、ディフェンスでは相手の攻撃の芽を摘む。速攻の場面では確実に走り切り、ゴール下の得点を重ねた。
チームメイトの連携も冴え、栄明は試合を危なげなく制した。
試合終了のブザーが鳴ると同時に、体育館に歓声が響き渡る。
栄明女バスは、見事地区予選を勝ち抜き、県予選への切符を手にした。
千夏は息を整えながら、コートの中央でガッツポーズをするチームメイトたちを眺めた。
嬉しくないわけがない。
でも、彼女の中にはどこか冷静な感覚も残っていた。
(……まだ、ここがゴールじゃない)
県予選、そしてその先のインターハイ出場。
目指す場所は、まだずっと遠くにある。
深く息を吐きながら、千夏は静かにベンチへと向かった。
試合後の喜びもつかの間、学校に戻れば練習が待っている。次の戦いに向け、気を引き締めなければならない。
身支度を整えた千夏は、渚と共にロッカールームを後にした。
その時、ふと渚の足が止まる。
「どうしたの?」
千夏が問いかけると、渚は静かに手を上げて制した。その視線の先、廊下の向こうから他校の選手たちの話し声が聞こえてきた。
「それで、どうだった? 栄明のバスケ」
自分たちの学校名が出たことに気づき、千夏もまた、無意識に壁の影へと身を潜めた。
「10番……鹿野さんか……大したことないですね」
「……何よそれ」
その言葉に反応したのは隣の渚だった。渚が低く呟くのを横目に、千夏は黙ったまま話を聞き続けた。
「以前練習試合した時からあまり変わってない印象だし、私がつけば問題ないかと。正直──期待外れです」
侮るような響きではあったが、彼女たちは千夏を軽視しているわけではない。それは、ただの客観的な分析なのだろう。自分たちの実力で十分に対応できる──そう確信しているからこそ、自然と出た言葉なのだ。
しかし、言われた側としては、挑発と取ることもできる内容だった。
渚が今にも詰め寄りそうな様子を見せる。
だが、その横で、千夏は思わずクスッと笑ってしまった。
「ち、千夏?」
渚が、信じられないものを見るような目で、こちらを振り向く。当然だろう。これだけのことを言われて、笑っているなんて、常軌を逸しているとしか思えないはずだ。
「ごめん、何でもない。行こっか」
千夏は、柔らかく微笑みながら前を向いた。その顔には、迷いも、焦りも、怒りすらもなかった。
「で、でも、今の話……!」
渚は、何か言いたげに口を開くが、千夏の、あまりにも静かで、真っ直ぐな瞳を見て、言葉を飲み込んだ。それは、単なる強がりや意地ではない。揺るぎない、確かな自信が、そこにはあった。
「私は大丈夫だよ。ほら、それよりも次の試合のために練習しよう」
その一言に、渚は少し驚いた表情を見せる。しかし、すぐに息を吐き出し、渋々歩き始めた。
「……まあ、千夏が良いなら良いけどさ」
渚の不満げな口調とは裏腹に、その顔にはどこか安心した様子が伺えた。千夏はそんな渚の横顔を見ながら、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(私は、特別な選手じゃないかもしれない。でも、私は最高のチームに恵まれてる)
渚や他のチームメイトの存在が、何よりも千夏を支えている。そう思うと、自分の中に湧き上がる感謝の気持ちを抑えきれなかった。それに──
(……龍太くんの言う通りになったね)
彼女は誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ、口元に笑みを浮かべた。
試合後、帰宅した千夏は、部屋に荷物を置くと、ゆっくりと息をついた。疲労感はあるが、それ以上に、心地よい充実感が広がっている。そんなとき、ふと廊下から美味しそうな匂いが漂ってきた。
(……焼肉の匂い?)
驚いてリビングに向かうと、そこには庭で炭をおこしながら、嬉しそうに準備を進める龍太と香織の姿があった。
「千夏ちゃん、おかえり! ちょうどいいところよ」
千夏が目を丸くしていると、香織はウインクしながら言った。
「今日は、お祝いだからね!」
──それが、この後の焼肉パーティーの始まりだった。
千夏がリビングのドアを開けると、そこはもう、特別な祝祭の空間だった。庭先に置かれたバーベキューコンロからは、ジュージューと肉の焼ける音が響き、食欲を刺激する香ばしい匂いが、夜風に乗って辺り一面に広がっている。星がちらほらと瞬き始めた夜空の下、テーブルには、彩り豊かにカットされた野菜や肉、そしてキムチやサンチュが、まるで宝石のように並べられていた。
「二人とも、地区予選突破おめでとー!!」
母、香織の快活な声が、夜の静寂に弾ける。龍太は、少し照れくさそうに「はいはい」と応じながらも、その手には、真剣な表情でトングが握られていた。
彼は、まるで精密機械のように、肉の焼き加減を完璧に見極め、一枚、また一枚と、丁寧に焼き上げていく。その、意外なほど几帳面な姿に、千夏は思わず、くすりと笑みを漏らした。
「龍太くん、意外と几帳面だよね」
「せっかく良いお肉買ったのに、適当に焼くのは嫌なんですよ」
そう言って、焼き色を確認しながら次々と肉をひっくり返していく。千夏は素直に「美味しそう」と呟き、分けられた肉を口に運ぶと、思わず頬が緩んだ。
「うん、美味しい!」
「でしょ? 俺が焼いたんですから」
どこか誇らしげなその横顔に、千夏は「じゃあ、次もお願いしようかな」と、甘えるように笑いかけた。
「とりあえず、先輩。おめでとうございます」
「龍太くんも改めて、全種目おめでとう。龍太くんから連絡が来た時は嬉しくて、周りから不審がられたよ」
「どんな喜び方したんです」
龍太が思わず苦笑を漏らす。
「千夏ちゃんの試合、本当に良かったよ。2日間とも観に行ったけど、やっぱり栄明はレベルが少し違うね」
「チームメイトに恵まれてるだけですから」
「ご謙遜を。まったく、大人と話してるみたいだな」
父の隆盛が、感心したように深く頷く。千夏の両親に送るために撮影したという試合映像を元に、父は詳細な試合分析を語り始めた。龍太は、そんな父の話を半分聞き流しながら、ただひたすらに、肉の焼き加減を見守っていた。
「そう言えば、大喜君たちも勝ったそうよ」
「聞いた。めちゃくちゃ喜んでたよ。まったく、まだ地区予選だってのに」
龍太が肩を竦めて言うと、香織が思わず苦笑する。
「あなたたちこそ、もう少し、大喜くんみたいに喜んだらいいのに」
「喜ぶって言っても、県予選まで、もう二週間もないんだぞ。大事なのは、ここからでしょ」
「ふふっ、そうだね」
龍太の言葉に、千夏もまた、静かに、そして力強く頷く。その、あまりにも大人びた二人のやり取りに、隆盛と香織は、顔を見合わせて、幸せそうに微笑んだ。
「なんというか、ホントにできた子たちね」
「そうだな。子どもの成長は早いもんだ」
「訳わかんないこと言ってねぇで、早く肉食べてくれ。焦げちゃうぞ」
龍太が手寧にトングを持ち上げる。その真剣な様子に、千夏も思わず笑みをこぼした。彼が一枚ずつ丁寧に焼き上げた肉を、皿に分けていく。父も母も千夏も、それを感謝しながら受け取った。
しばらく焼肉を堪能していた千夏が、飲み物を取りに席を立った。彼女の背中が家の中へと消えるのを見届けたタイミングで、香織がふと思い出したように口を開く。
「そう言えば、せっかく地区予選突破したんだし、何かご褒美があっても良いわよね」
「ご褒美? 今のこの焼肉じゃなくて?」
龍太が怪訝そうに尋ねると、香織はニコリと笑って否定した。
「これはまた別よ。この頑張りには、もう少し特別なものをあげたいと思って」
龍太が首を傾げると、香織は楽しげに目を輝かせた。
「龍太、今度の土曜日、千夏ちゃんと遊びにでも行ってきなさい」
その言葉が落ちた瞬間、龍太の動きがピタリと止まる。トングを持つ手がわずかに震えた。
「……は、はあ?」
思わず素っ頓狂な声をあげる。
「なんでだよ!」
「あら、いいじゃない、たまには。千夏ちゃん、きっと頑張りすぎちゃうタイプだと思うから。次の大会に向けて、息抜きも必要でしょ?」
「そ、それもそうだけど、何で俺なんだよ。それこそ女バスの仲いい人たちとかでもよくないか?」
「せっかく、一つ屋根の下で暮らしてるんだから、もっと仲良くしなさいな。それに、こーいうのは、男の子の方から、スマートに誘ってあげるものよ」
「い、いやだからって……」
龍太が、しどろもどろになっている、まさにその時。飲み物を持った千夏が、リビングから戻ってきた。香織は、その姿をちらりと確認すると、わざとらしく、ぽつりと呟いた。
「そう言えば、お酒でも持ってこようかしら」
「は?」
「あー、そう言えば切れてたなー」
「えっ、ちょっと?」
「あなた、買いに行きましょうか!」
「いいね、そうしよう」
「えっ、ちょっと待っ──!」
龍太が制止する間もなく、両親は息の合った掛け合いを見せながら、さっさと席を立った。そして、そのまま家の外へと向かっていく。
(……くそっ、あの野郎どもめ……!)
心の中で悪態をつきながらも、何か話さなければと、龍太は必死に頭を回転させる。
「えっと……先輩、今週の土曜日は午前練ですか?」
「う、うん。そうだよ」
何故か少し緊張気味な彼女も、小さく頷いた。
「午後は……その、女バスの人とどっか行ったりするんですか?」
「ううん。どこも行かないよ」
「そ、そうですか」
「うん」
どうやら予定はないらしい。
だが、踏み出したいのに恐くて踏み出せない子供のように、躊躇する龍太。
どうする? いや、そもそもなんで俺なんだよ。でも言うなら今がチャンスだよな。だが、もし断られたら……と考えた瞬間、全身が硬直する。
(くそ……断られたら、俺……)
目の前にいる千夏が、じっと肉を眺めている。何か言いたげな、でも言葉を探しているような、そんな表情だった。
(いや……誘わなかったら、それはそれで……)
意を決して、口を開こうとする。
「あの、先輩──」
だが、その瞬間、千夏が先に口を開いた。
「龍太くん」
不意に名前を呼ばれ、喉の奥に引っかかった言葉が消えてしまう。
「な、なんですか?」
「今日の焼肉、美味しいね」
「……え?」
思わぬ言葉に、龍太は拍子抜けする。いつものように柔らかい笑みを浮かべる千夏。その表情には、何の裏もないような気がした。
だが、その瞬間、龍太の胸の奥に冷たい何かが広がった。
寝室の窓を少しだけ開けると、夜風が静かにカーテンを揺らした。昼間の暑さが嘘のように、夜の空気はひんやりとしていて、肌を優しく撫でていく。遠くで虫の鳴く声が響き、夏の夜の静けさを際立たせていた。
千夏はベッドに座り、膝を抱えたまま、小さく息を吐く。
(……なんで、あんな風に言葉を被せちゃったんだろ)
何度も繰り返される焼肉の席での記憶。
戻って来る直前、龍太の母が「千夏ちゃんと遊びにでも行ってきなさい」と軽やかに言い放ったあの瞬間。そして、龍太が何かを言いかけた、あの一瞬。自分が咄嗟に話題をそらしてしまったこと。
わかってる。
彼に、無理をさせたくなかっただけだ。
突然の提案に、どう反応すればいいのか、明らかに困惑していた彼の、あの表情。
だから、助け舟を出したつもりだった。
……でも、本当に、それだけだったのだろうか。
(もし、あのまま待っていたら、龍太くん……なんて言ったのかな)
──誘ってくれたのかな。
──それとも、ただ何かを言いかけただけ?
──もし、本当に「行こう」って言ってくれてたら?
答えの出ない問いが、波のように心の中を行き来する。
考えれば考えるほど、胸がトクンと跳ねるのがわかる。
「……はぁ」
何度目かわからないため息をつきながら、スマートフォンを手に取る。
LINEを開くと、一番上に「龍太」の名前が表示されていた。メッセージの最後は、彼から送られてきた「了解です」の一言とスタンプ。それを見つめているだけで、胸の奥が熱くなる。
(……送ってみようかな)
「今日はありがとう」
それくらいの言葉なら、不自然じゃない。
打ち込んで、送信ボタンに指をかける。
──けれど、数秒後に消した。
(……やっぱ、変かな)
自分から連絡するなんて、そんなの意識してるみたいで恥ずかしい。
でも、気にならないなら、どうしてこんなに考えてるんだろう?
また布団に倒れ込む。
結局、送る勇気なんて出なくて。
「また明日、いつものように会うんだから、それでいいはず」
そう思い込もうとするのに、胸の奥がチクリと痛む。
(……結局、距離を取っちゃってるのは私なのに)
期待してた。
でも、同じくらい、怖かった。
もし、彼が、何も言ってくれなかったら?
もし、母の手前、社交辞令で誘おうとしていただけだったら?
もし、この、胸を焦がすような想いが、自分だけの、一方的なものだったら?
――その事実を知ってしまうのが、たまらなく、怖かった。
(でも……誘われなかったわけじゃない……私が、聞く前に止めちゃったんだ)
わざとじゃ、なかった。
でも、無意識のうちに、彼との間に、見えない壁を作っていたのは、自分の方だった。
悔しさとも、後悔とも違う、どうしようもなく、ままならない感情が、胸を締め付ける。
「……なんで、こんな不器用なんだろう」
枕を抱え込んで、ぎゅっと力を込める。でも、そのままじゃ苦しくて、またため息を吐いた。
でも、なかなか眠れそうになかった。
窓の外、夜空には静かに月が浮かんでいた。
その光だけが、千夏の小さな揺らぎを、静かに照らしていた。
朝、カーテンを開けると、厚い雲が空を覆っていた。
湿った風がカーテンをわずかに揺らし、外の空気がじんわりと部屋に染み込んでくる。
遠くでは、カラスが低く鳴いた。
(……雨、降るかもな)
無意識にそんな言葉が漏れたが、スマホを確認すると予報は曇りだった。降水確率も低い。それなのに、この、胸騒ぎにも似た感覚は、一体なんだろうか。
昨夜の、焼肉の余韻が、まだ、身体の奥にくすぶっている。
楽しかったはずだ。温かくて、幸せな時間だったはずだ。それなのに、胸の奥には、まるで梅雨時の洗濯物のように、すっきりとしない、生乾きの感情が残っている。
──言えなかった。
デートの誘いを、結局言いそびれた。
あの空気の中で、どうにか言おうと思ったのに。
でも、それよりも気になっているのは、千夏の反応だった。
何か言おうとすると、まるで先回りするみたいに、言葉をかぶせてきた。
それが偶然なのか、意図的なのか──考えれば考えるほど、嫌な予感がする。
(もしかして、……気づかれてる?)
そんなわけない、と思いたい。
でも、もしそうだとしたら──千夏が言葉をかぶせてきたのは、距離を取ろうとしているからじゃないのか?
これ以上、踏み込んでくるな、と。
そう、無言の警告を、発していたのではないか。
そう考えた瞬間、背中に、氷水を流し込まれたような、冷たい悪寒が走った。
千夏と並んで歩く通学路。
普段と変わらないように見える会話。
でも、龍太の中では何かがずっと引っかかっていた。
「なんか今日、蒸し暑いですね」
そう言ってみると、千夏は「ほんとだね」と微笑んだ。
──その表情に違和感はない。
ないはずなのに、龍太の心は、まるで、凪いだ海に投げ込まれた小石のように、静かに、だが、確かに、波紋を広げていた。
(……俺の、考えすぎ、なのか……?)
まとわりつく湿気のせいだろうか。
なんだか、息苦しい。
龍太は、その、正体不明の息苦しさを抱えたまま、ただ、黙って、学校へと足を運んだ。
昼休み、龍太は校舎の渡り廊下をぼんやりと歩いていた。昨夜の千夏とのやりとりが、ずっと頭の中にこびりついている。考えれば考えるほど、昨夜の千夏の表情が思い浮かぶ。あの時、笑っていたけれど、なんとなく違和感があったような気がする。
でも、それが何なのかはっきりしない。気づけば、自販機の前に立っていた。
適当にスポーツドリンクのボタンを押し、小銭を投入口に滑り込ませる。缶が落ちる音を聞き、取り出そうとした瞬間──
「なーにしてんのー!」
「うおっ!?」
不意に、背後から膝の裏を蹴られ、前のめりになる。なんとか自販機に手をついて踏みとどまり、心臓を跳ねさせながら振り返ると――そこにいたのは、悪戯が成功した子供のように、楽しげに笑う雛だった。
「ふふっ、珍しく隙だらけだったね!」
「……雛、お前なぁ……」
「いやいや、いつもならこんな簡単に決まらないでしょ? つまり、それだけぼーっとしてたってことじゃん?」
あまりにも、的を射た指摘。思わず、言葉に詰まる。
「何かあったの?」
「……別に」
「うそ。顔に、でっかく書いてあるよ。『俺、今、めちゃくちゃ悩んでます』って」
じとーっとした目で見つめられ、龍太は、観念したように、小さくため息をついた。この親友に、隠し事は、どうやら無理らしい。
「……千夏先輩のことで、ちょっと」
そう口にすると、雛は「やっぱり」と納得したように頷いた。
「ふーん、ケンカでもした?」
「いや、そういうんじゃないんだけど……」
龍太は、昨夜の焼肉のことを話した。母親から「千夏を遊びに誘え」と言われたこと。誘おうとしたけれど、結局言いそびれたこと。そして──千夏が、何かを言おうとするみたいにして、笑顔で話題を逸らしたこと。
「なんかさ、言葉を遮られたっていうか……避けられたっていうか……」
そう言うと、雛は少し考えるように視線を逸らした。
「……なるほどねぇ」
「な、なんか分かった?」
龍太が身を乗り出すと、雛は小さく笑ってから言った。
「龍は……千夏先輩が、デートに誘われるのを待ってるって可能性は考えなかったの?」
「……え?」
「なんで誘わなかったんだろう、とか、なんで言葉を遮られたんだろう、とか、そんなことばっかり考えてたでしょ?」
言われて、思わず口をつぐむ。確かに、そのことばかり気になっていた。
「でもさ、それって、龍が 『千夏先輩は別に行きたくないんじゃないか?』 って思ってる前提の考え方じゃない?」
「……いや、でも、もし、本当に行きたいなら……普通に、誘いを待っててくれたんじゃないか?」
「それができるなら、千夏先輩は最初からそうしてるよ」
ピシャリとした口調に、龍太は少し驚いた。
「千夏先輩ってさ、普段はしっかりしてるし、クールに見えるけど、そういうのに慣れてるわけじゃないんじゃない?」
「……」
「もし、龍から、真正面から、『デートしませんか』なんて言われたら、きっと、心臓口から飛び出すくらい緊張すると思うよ?」
「……そんな、千夏先輩が?」
「そうだよ。むしろ、緊張するからこそ、そうなる前に話題を逸らしちゃったんじゃない?」
「……」
昨夜の千夏の表情が、頭の中によみがえる。
──笑っていたけれど、なんとなく違和感があった。
それが、ただの「いつもの笑顔」じゃなかったとしたら?
「……じゃあ、俺はどうすればよかった?」
龍太がぼそっと尋ねると、雛は少し考えてから、いたずらっぽく微笑んだ。
「簡単じゃん。龍が、ちゃんと言えばいいの」
「……でも、もし本当に行きたくなかったら?」
そう言った瞬間、雛の表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬だけ、眉をひそめるような、そんな表情だった。
「……龍はさ」
「ん?」
「逆に聞くけど──先輩とデートしたくないの?」
「え?」
彼女の言葉に、龍太は全く耳にしない者の名を耳にしたといった面持ちになる。
「お母さんに言われたから誘おうとしたんじゃなくてさ。──龍自身はどうなの? 誘いたかった?」
「……俺が?」
まさか、自分が問われるとは思っていなかった。
戸惑いながら、龍太は言葉を探す。
「そりゃ、別に……嫌じゃないけど……」
「うーん、そういうこと聞いてるんじゃなくてさ」
雛はじっと龍太を見つめる。
まるで、答えを誤魔化させないような、その目で。
「単純に龍は、どうしたいの? 先輩とデートしたい?」
その一言が、龍太の胸にストンと落ちた。
(俺は……)
彼女への想いは、憧れなのか、尊敬なのか、それとも、ただ、一緒にいるのが、楽しいだけなのか。自分でも、まだ、よくわからない。
「別に好きじゃなくても、それを確かめに行くのが、デートなんじゃないの?」
まるでこちらの迷いを見透かすように、彼女は悪戯っぽく笑う。
「龍って見た目以上にマジメだからねぇ」
「うるせぇよ」
――そうか。
きっかけは、それで、いいのか。
そう気づいた瞬間、全身が、カッと熱くなるのを感じた。手の中の缶を、ぎゅっと、強く握りしめる。
「……誘ってみる」
「でしょ? だからさ、龍が『どうしたいか』をちゃんと考えて、先輩に伝えなよ」
ニコッと笑う雛に、龍太は一瞬、息を飲む。こういうところは友人として頼もしい限りだった。
龍太はゆっくりと頷いた。
「……わかった。ありがとな、雛」
そう言うと、雛は「おー!」と軽く拳を突き上げた。
「頑張れ、鈍感男子!」
「……うるさいって」
苦笑しながら、龍太は缶のプルタブを引いた。
自販機の横で、一口飲み込んだスポーツドリンクが、いつもより爽やかに感じられた。
パス、ステップ、シュート──
繰り返し、繰り返し、何も考えずに体を動かす。
ボールが指先を離れ、空中を回転しながらゴールへと吸い込まれる。バスケットのネットが軽やかに揺れ、体育館に乾いた音が響く。時計を見ると、すでに部活が終わってからずいぶん経っていた。それでも、千夏の体は止まらなかった。
(……もう、みんな帰ってるのに)
わかっている。
頭では、わかっているのに、身体が、心が、止まることを拒否していた。
昨日からずっと、胸の奥が、さざ波のように、静かに、だが、絶え間なくざわついている。焦りでも、怒りでもない。名前のつけられない、この感情の正体は何なのだろうか。それを振り払うように、また、シュートを放つ。
(……違う)
どれだけシュートを決めてもモヤモヤは消えなかった。
不意に後ろから声をかけられる。
「――もうすぐ、体育館、閉める時間だよ」
振り返ると、体育館の入り口に立つ警備員の男性が苦笑していた。
「あ……すみません。すぐに片付けます!」
バタバタと準備を整え、ボールを片付ける。
体育館を出ると、ふと、外の音に気づいた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ──
地面に、小さな雨粒が弾けている。
それを見た瞬間、なぜか胸がざわついた。
(……雨)
天気予報では、曇りのままのはずだったのに。空を見上げると、いつの間にか、重たい 灰色の雲が、空一面を覆っている。
仕方ない、走って帰るしかないか――。
そう思って、バッグからスマートフォンを取り出した、その画面に、彼の名前が表示されていた。
『下駄箱のところで待ってます』
その、たった一文に、千夏の心臓が、大きく、そして確かに、音を立てた。
慌てて、濡れ始めた地面を蹴り、足早に校舎へと向かう。
下駄箱の前、彼は、そこにいた。降り始めた雨を、静かに、ただ、見つめていた。その右手には、見慣れた自分の傘。そして、左手には――もう一本、見覚えのない、黒い傘。
(……え?)
一瞬、状況が掴めなかった。
龍太は、今日は傘を持ってきていなかったはずだ。
じゃあ、その手にある傘は……?
千夏はハッとした。
(まさか……家まで取りに行ってくれたの?)
驚きとともに、心の奥にじんわりと何かが広がっていく。
「龍太くん……それ……」
「ああ、先輩のやつです」
彼は、そっけなく、ぶっきらぼうに、そう言った。だが、その声の奥に、ほんの少しだけ、照れが混じっているのを、千夏は見逃さなかった。
「……傘、持ってなかったですよね?」
それだけ言って、龍太は千夏に傘を差し出した。その手元には、わざわざ取りに戻ったであろう微かな水滴がついている。
言葉にしなくてもわかる。
彼は、傘を取りに帰るために、学校と家を往復したのだ。
(……私のために?)
胸が、ぎゅっと、締め付けられる。昨日の、あの夜の、自分の、馬鹿みたいに臆病だった自分が、恥ずかしくて、情けなかった。彼は、何も変わらず、こんなにも、優しかったのに――。
「……ありがとう」
それだけが、やっとのことで口をついて出た。
「気にしないでください」
龍太は、軽く頭を掻きながら言う。
「でも、走ってきたの? びしょ濡れだよ……」
「大したことないですよ。どうせ汗かいたし」
「ちょっと待っててね」
千夏はバックからタオルを取り出して、彼に手渡す。
「これ使って。風邪ひいちゃうよ」
「いや、別にいいですよ」
「この間風邪引いたばかりなのに?」
「……ありがとうございます」
そんな風に言いながら彼はタオルを手に取った。
そんな様子に千夏は微笑んだ。ほんの少し、胸が熱くなるのを感じながら。
「……帰り、一緒に歩いてもいい?」
気づけば、そう言葉にしていた。
龍太は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく笑った。
「いつも帰ってるじゃないですか」
「そうだね」
ぽつぽつと降り続ける雨の音の中、ふたりは並んで歩き出した。
傘が触れ合いそうなくらいの距離。
でも、千夏の心は落ち着かない。
今まで何度も帰り道を共にしてきたはずなのに、今日は少しだけ違う気がする。
──わざわざ傘を持って迎えに来てくれたから?
──それとも、昨日の夜のことがまだ心に引っかかっているから?
千夏はそっと龍太の横顔を盗み見る。
いつもと変わらない、少し気だるそうな表情。
けれど、その奥に何か、普段とは違う、緊張のようなものが潜んでいる気がした。
(……龍太くんも、何か考えてるのかな)
聞いてみたい。でも、どんな言葉で切り出せばいいのか、わからない。
雨音だけが、二人の間の、甘く、そして、もどかしい沈黙を、埋めていく。
千夏は、小さく息を吸い込むと、視線を、前に戻した。
「龍太くん──」
意を決して、彼の名を呼ぶ。
けれど、そのか細い声は、彼の強い声に遮られた。
「先輩!」
強めの声が、千夏の言葉を遮った。
驚いて顔を上げると、龍太がこちらをまっすぐに見ている。
「……え?」
何か言いたげな龍太の目が、まるで何かを決意したように強い。
(もしかして……)
胸の奥がドクンと跳ねた。
「……先輩、俺と──」
龍太が言いかけた瞬間。
──ピカッ!
暗い雲の間から、強い閃光が走る。
次の瞬間、
ドォォォン──!!
雷鳴が響いた。
「ひゃっ!」
反射的に千夏が肩をすくめる。
その拍子に、手元の傘が大きく傾いた。
「あっ──」
バランスを崩し、ふらつく千夏。
けれど、倒れる前に。
「先輩!」
力強い手が、腕を引いた。
千夏は、思わず息を止める。
──近い。
顔が、肩が、触れそうなくらい。
龍太の温もりが、すぐそこにある。濡れたシャツの冷たさと、彼の体温の熱が、同時に感じられた。
息を吸うと、湿った雨の匂いの中に、微かに彼の汗の香りが混ざる。
(……ちかいっ)
すぐに離れればいいのに。
でも、龍太の手はまだ千夏の腕を掴んだまま。
雨音だけが、やけに響く。
まるで、世界に二人しかいないみたいだった。
「……っ」
恐る恐る、視線を上げる。
龍太が、真剣な、見たことのないような、真剣な表情で、自分を、見つめていた。
その瞳に、もう、焦りも、迷いも、なかった。
何か言わなきゃ──
そう思った瞬間。
龍太が、ゆっくりと口を開いた。
「……デートしてください」
静かな、けれどはっきりとした言葉。
千夏は、一瞬、時間が止まったように感じた。
「……え?」
かすれた声が漏れる。
「もし、先輩が嫌じゃないなら──」
龍太の目が、まっすぐに千夏を捕らえる。
「俺と、デートしてくれませんか?」
今度ははっきりと。
雨音の中に、確かに届く声で。
──千夏の心臓が、跳ね上がる。
(……えっ?)
雨の冷たさも、傘を持つ手の感触も、一瞬で遠のく。
ただ、彼の言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
──でも。
もし、これが「ご褒美」のつもりだったら?
もし、ただ母親に言われたから誘っただけだったら?
それが、一番怖い。
もし、勘違いだったら?
(……違う)
そう思いたいのに、言葉が出てこない。
迷っているうちに、沈黙が生まれる。
(どうしよう、返事しなきゃ……)
言わなきゃ、でも──
二つの事柄が衝突し波を立てている。どちらの決心もつかなかった。
ふと、龍太のその真剣な表情が、ほんの少しだけ、不安そうに揺れた気がした。
……怖いのかもしれない。
彼も、返事を待つ間、私と同じように。
その瞬間、いっぱいに詰まっていた胸が軽くなる。だって、本当は──
答えなんて、もう、ずっと前から、決まっていたのだから。
何かにじむような熱い気持ちが、じんわりと湧いてくるのがわかった。ぎゅっと、傘の持ち手を握る。
「……いきたい」
ほんの少し、声が震えた。
でも、今度は目をそらさずに、まっすぐ彼を見つめた。
「行きたい……龍太くんとデート」
その瞬間、龍太のその固い表情が、ふっと、緩んだ。
そして、心の底から安心したような、小さな、小さな声が聞こえた。
「……よかった……」
小さく、安心したような声だった。
その声を聞いた途端、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じる。
(……よかった)
本当に、それしかなかった。
雷は、いつの間にか遠ざかっていた。
雨の音だけが、ふたりの間を満たしていた。
──でも、気づけば、その雨音すらも心地よく感じていた。