親友の憧れの先輩に懐かれました。   作:cart_strange

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9話

 

 

 地区大会は土日に行われた。

 龍太の陸上競技は1日で終わったが、千夏のバスケの予選試合は土日を通して続き、ついに迎えた決勝戦。

 序盤から栄明は相手を圧倒し、リードを維持し続ける。

 千夏は要所でしっかりとボールを捌き、ディフェンスでは相手の攻撃の芽を摘む。速攻の場面では確実に走り切り、ゴール下の得点を重ねた。

 チームメイトの連携も冴え、栄明は試合を危なげなく制した。

 試合終了のブザーが鳴ると同時に、体育館に歓声が響き渡る。

 栄明女バスは、見事地区予選を勝ち抜き、県予選への切符を手にした。

 千夏は息を整えながら、コートの中央でガッツポーズをするチームメイトたちを眺めた。

 嬉しくないわけがない。

 でも、彼女の中にはどこか冷静な感覚も残っていた。

 

(……まだ、ここがゴールじゃない)

 

 県予選、そしてその先のインターハイ出場。

 目指す場所は、まだずっと遠くにある。

 深く息を吐きながら、千夏は静かにベンチへと向かった。

 試合後の喜びもつかの間、学校に戻れば練習が待っている。次の戦いに向け、気を引き締めなければならない。

 身支度を整えた千夏は、渚と共にロッカールームを後にした。

 その時、ふと渚の足が止まる。

 

「どうしたの?」

 

 千夏が問いかけると、渚は静かに手を上げて制した。その視線の先、廊下の向こうから他校の選手たちの話し声が聞こえてきた。

 

「それで、どうだった? 栄明のバスケ」

 

 自分たちの学校名が出たことに気づき、千夏もまた、無意識に壁の影へと身を潜めた。

 

「10番……鹿野さんか……大したことないですね」

「……何よそれ」

 

 その言葉に反応したのは隣の渚だった。渚が低く呟くのを横目に、千夏は黙ったまま話を聞き続けた。

 

「以前練習試合した時からあまり変わってない印象だし、私がつけば問題ないかと。正直──期待外れです」

 

 侮るような響きではあったが、彼女たちは千夏を軽視しているわけではない。それは、ただの客観的な分析なのだろう。自分たちの実力で十分に対応できる──そう確信しているからこそ、自然と出た言葉なのだ。

 しかし、言われた側としては、挑発と取ることもできる内容だった。

 渚が今にも詰め寄りそうな様子を見せる。

 だが、その横で、千夏は思わずクスッと笑ってしまった。

 

「ち、千夏?」

 

 渚が、信じられないものを見るような目で、こちらを振り向く。当然だろう。これだけのことを言われて、笑っているなんて、常軌を逸しているとしか思えないはずだ。

 

「ごめん、何でもない。行こっか」

 

 千夏は、柔らかく微笑みながら前を向いた。その顔には、迷いも、焦りも、怒りすらもなかった。

 

「で、でも、今の話……!」

 

 渚は、何か言いたげに口を開くが、千夏の、あまりにも静かで、真っ直ぐな瞳を見て、言葉を飲み込んだ。それは、単なる強がりや意地ではない。揺るぎない、確かな自信が、そこにはあった。

 

「私は大丈夫だよ。ほら、それよりも次の試合のために練習しよう」

 

 その一言に、渚は少し驚いた表情を見せる。しかし、すぐに息を吐き出し、渋々歩き始めた。

 

「……まあ、千夏が良いなら良いけどさ」

 

 渚の不満げな口調とは裏腹に、その顔にはどこか安心した様子が伺えた。千夏はそんな渚の横顔を見ながら、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 

(私は、特別な選手じゃないかもしれない。でも、私は最高のチームに恵まれてる)

 

 渚や他のチームメイトの存在が、何よりも千夏を支えている。そう思うと、自分の中に湧き上がる感謝の気持ちを抑えきれなかった。それに──

 

(……龍太くんの言う通りになったね)

 

 彼女は誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ、口元に笑みを浮かべた。

 

 試合後、帰宅した千夏は、部屋に荷物を置くと、ゆっくりと息をついた。疲労感はあるが、それ以上に、心地よい充実感が広がっている。そんなとき、ふと廊下から美味しそうな匂いが漂ってきた。

 

(……焼肉の匂い?)

 

 驚いてリビングに向かうと、そこには庭で炭をおこしながら、嬉しそうに準備を進める龍太と香織の姿があった。

 

「千夏ちゃん、おかえり! ちょうどいいところよ」

 

 千夏が目を丸くしていると、香織はウインクしながら言った。

 

「今日は、お祝いだからね!」

 

 ──それが、この後の焼肉パーティーの始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 千夏がリビングのドアを開けると、そこはもう、特別な祝祭の空間だった。庭先に置かれたバーベキューコンロからは、ジュージューと肉の焼ける音が響き、食欲を刺激する香ばしい匂いが、夜風に乗って辺り一面に広がっている。星がちらほらと瞬き始めた夜空の下、テーブルには、彩り豊かにカットされた野菜や肉、そしてキムチやサンチュが、まるで宝石のように並べられていた。

 

「二人とも、地区予選突破おめでとー!!」

 

 母、香織の快活な声が、夜の静寂に弾ける。龍太は、少し照れくさそうに「はいはい」と応じながらも、その手には、真剣な表情でトングが握られていた。

 

 彼は、まるで精密機械のように、肉の焼き加減を完璧に見極め、一枚、また一枚と、丁寧に焼き上げていく。その、意外なほど几帳面な姿に、千夏は思わず、くすりと笑みを漏らした。

 

「龍太くん、意外と几帳面だよね」

「せっかく良いお肉買ったのに、適当に焼くのは嫌なんですよ」

 

 そう言って、焼き色を確認しながら次々と肉をひっくり返していく。千夏は素直に「美味しそう」と呟き、分けられた肉を口に運ぶと、思わず頬が緩んだ。

 

「うん、美味しい!」

「でしょ? 俺が焼いたんですから」

 

 どこか誇らしげなその横顔に、千夏は「じゃあ、次もお願いしようかな」と、甘えるように笑いかけた。

 

「とりあえず、先輩。おめでとうございます」

「龍太くんも改めて、全種目おめでとう。龍太くんから連絡が来た時は嬉しくて、周りから不審がられたよ」

「どんな喜び方したんです」

 

 龍太が思わず苦笑を漏らす。

 

「千夏ちゃんの試合、本当に良かったよ。2日間とも観に行ったけど、やっぱり栄明はレベルが少し違うね」

「チームメイトに恵まれてるだけですから」

「ご謙遜を。まったく、大人と話してるみたいだな」

 

 父の隆盛が、感心したように深く頷く。千夏の両親に送るために撮影したという試合映像を元に、父は詳細な試合分析を語り始めた。龍太は、そんな父の話を半分聞き流しながら、ただひたすらに、肉の焼き加減を見守っていた。

 

「そう言えば、大喜君たちも勝ったそうよ」

「聞いた。めちゃくちゃ喜んでたよ。まったく、まだ地区予選だってのに」

 

 龍太が肩を竦めて言うと、香織が思わず苦笑する。

 

「あなたたちこそ、もう少し、大喜くんみたいに喜んだらいいのに」

「喜ぶって言っても、県予選まで、もう二週間もないんだぞ。大事なのは、ここからでしょ」

「ふふっ、そうだね」

 

 龍太の言葉に、千夏もまた、静かに、そして力強く頷く。その、あまりにも大人びた二人のやり取りに、隆盛と香織は、顔を見合わせて、幸せそうに微笑んだ。

 

「なんというか、ホントにできた子たちね」

「そうだな。子どもの成長は早いもんだ」

「訳わかんないこと言ってねぇで、早く肉食べてくれ。焦げちゃうぞ」

 

 龍太が手寧にトングを持ち上げる。その真剣な様子に、千夏も思わず笑みをこぼした。彼が一枚ずつ丁寧に焼き上げた肉を、皿に分けていく。父も母も千夏も、それを感謝しながら受け取った。

 しばらく焼肉を堪能していた千夏が、飲み物を取りに席を立った。彼女の背中が家の中へと消えるのを見届けたタイミングで、香織がふと思い出したように口を開く。

 

「そう言えば、せっかく地区予選突破したんだし、何かご褒美があっても良いわよね」

「ご褒美? 今のこの焼肉じゃなくて?」

 

 龍太が怪訝そうに尋ねると、香織はニコリと笑って否定した。

 

「これはまた別よ。この頑張りには、もう少し特別なものをあげたいと思って」

 

 龍太が首を傾げると、香織は楽しげに目を輝かせた。

 

「龍太、今度の土曜日、千夏ちゃんと遊びにでも行ってきなさい」

 

 その言葉が落ちた瞬間、龍太の動きがピタリと止まる。トングを持つ手がわずかに震えた。

 

「……は、はあ?」

 

 思わず素っ頓狂な声をあげる。

 

「なんでだよ!」

「あら、いいじゃない、たまには。千夏ちゃん、きっと頑張りすぎちゃうタイプだと思うから。次の大会に向けて、息抜きも必要でしょ?」

「そ、それもそうだけど、何で俺なんだよ。それこそ女バスの仲いい人たちとかでもよくないか?」

「せっかく、一つ屋根の下で暮らしてるんだから、もっと仲良くしなさいな。それに、こーいうのは、男の子の方から、スマートに誘ってあげるものよ」

「い、いやだからって……」

 

 龍太が、しどろもどろになっている、まさにその時。飲み物を持った千夏が、リビングから戻ってきた。香織は、その姿をちらりと確認すると、わざとらしく、ぽつりと呟いた。

 

「そう言えば、お酒でも持ってこようかしら」

「は?」

「あー、そう言えば切れてたなー」

「えっ、ちょっと?」

「あなた、買いに行きましょうか!」

「いいね、そうしよう」

「えっ、ちょっと待っ──!」

 

 龍太が制止する間もなく、両親は息の合った掛け合いを見せながら、さっさと席を立った。そして、そのまま家の外へと向かっていく。

 

(……くそっ、あの野郎どもめ……!)

 

 心の中で悪態をつきながらも、何か話さなければと、龍太は必死に頭を回転させる。

 

「えっと……先輩、今週の土曜日は午前練ですか?」

「う、うん。そうだよ」

 

 何故か少し緊張気味な彼女も、小さく頷いた。

 

「午後は……その、女バスの人とどっか行ったりするんですか?」

「ううん。どこも行かないよ」

「そ、そうですか」

「うん」

 

 どうやら予定はないらしい。

 だが、踏み出したいのに恐くて踏み出せない子供のように、躊躇する龍太。

 どうする? いや、そもそもなんで俺なんだよ。でも言うなら今がチャンスだよな。だが、もし断られたら……と考えた瞬間、全身が硬直する。

 

(くそ……断られたら、俺……)

 

 目の前にいる千夏が、じっと肉を眺めている。何か言いたげな、でも言葉を探しているような、そんな表情だった。

 

(いや……誘わなかったら、それはそれで……)

 

 意を決して、口を開こうとする。

 

「あの、先輩──」

 

 だが、その瞬間、千夏が先に口を開いた。

 

「龍太くん」

 

 不意に名前を呼ばれ、喉の奥に引っかかった言葉が消えてしまう。

 

「な、なんですか?」

「今日の焼肉、美味しいね」

「……え?」

 

 思わぬ言葉に、龍太は拍子抜けする。いつものように柔らかい笑みを浮かべる千夏。その表情には、何の裏もないような気がした。

 だが、その瞬間、龍太の胸の奥に冷たい何かが広がった。 

 

 

 

 

 

 

 寝室の窓を少しだけ開けると、夜風が静かにカーテンを揺らした。昼間の暑さが嘘のように、夜の空気はひんやりとしていて、肌を優しく撫でていく。遠くで虫の鳴く声が響き、夏の夜の静けさを際立たせていた。

 千夏はベッドに座り、膝を抱えたまま、小さく息を吐く。

 

(……なんで、あんな風に言葉を被せちゃったんだろ)

 

 何度も繰り返される焼肉の席での記憶。

 戻って来る直前、龍太の母が「千夏ちゃんと遊びにでも行ってきなさい」と軽やかに言い放ったあの瞬間。そして、龍太が何かを言いかけた、あの一瞬。自分が咄嗟に話題をそらしてしまったこと。

 

 わかってる。

彼に、無理をさせたくなかっただけだ。

突然の提案に、どう反応すればいいのか、明らかに困惑していた彼の、あの表情。

だから、助け舟を出したつもりだった。

 

 ……でも、本当に、それだけだったのだろうか。

 

 

(もし、あのまま待っていたら、龍太くん……なんて言ったのかな)

 

 ──誘ってくれたのかな。  

 ──それとも、ただ何かを言いかけただけ?  

 ──もし、本当に「行こう」って言ってくれてたら? 

 

 答えの出ない問いが、波のように心の中を行き来する。

 考えれば考えるほど、胸がトクンと跳ねるのがわかる。

 

「……はぁ」

 

 何度目かわからないため息をつきながら、スマートフォンを手に取る。

 LINEを開くと、一番上に「龍太」の名前が表示されていた。メッセージの最後は、彼から送られてきた「了解です」の一言とスタンプ。それを見つめているだけで、胸の奥が熱くなる。

 

(……送ってみようかな)

 

 「今日はありがとう」  

 それくらいの言葉なら、不自然じゃない。

 打ち込んで、送信ボタンに指をかける。

 

 ──けれど、数秒後に消した。

 

(……やっぱ、変かな)

 

 自分から連絡するなんて、そんなの意識してるみたいで恥ずかしい。  

 でも、気にならないなら、どうしてこんなに考えてるんだろう? 

 

 また布団に倒れ込む。  

 結局、送る勇気なんて出なくて。

「また明日、いつものように会うんだから、それでいいはず」

 そう思い込もうとするのに、胸の奥がチクリと痛む。

 

(……結局、距離を取っちゃってるのは私なのに)

 

 期待してた。

 でも、同じくらい、怖かった。

 

 もし、彼が、何も言ってくれなかったら?

 もし、母の手前、社交辞令で誘おうとしていただけだったら?

 もし、この、胸を焦がすような想いが、自分だけの、一方的なものだったら?

 ――その事実を知ってしまうのが、たまらなく、怖かった。

 

(でも……誘われなかったわけじゃない……私が、聞く前に止めちゃったんだ)

 

 わざとじゃ、なかった。

でも、無意識のうちに、彼との間に、見えない壁を作っていたのは、自分の方だった。

悔しさとも、後悔とも違う、どうしようもなく、ままならない感情が、胸を締め付ける。

 

「……なんで、こんな不器用なんだろう」

 

 枕を抱え込んで、ぎゅっと力を込める。でも、そのままじゃ苦しくて、またため息を吐いた。

 でも、なかなか眠れそうになかった。

 窓の外、夜空には静かに月が浮かんでいた。

 その光だけが、千夏の小さな揺らぎを、静かに照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 朝、カーテンを開けると、厚い雲が空を覆っていた。

 湿った風がカーテンをわずかに揺らし、外の空気がじんわりと部屋に染み込んでくる。

 遠くでは、カラスが低く鳴いた。

 

(……雨、降るかもな)

 

 無意識にそんな言葉が漏れたが、スマホを確認すると予報は曇りだった。降水確率も低い。それなのに、この、胸騒ぎにも似た感覚は、一体なんだろうか。

 

 昨夜の、焼肉の余韻が、まだ、身体の奥にくすぶっている。

楽しかったはずだ。温かくて、幸せな時間だったはずだ。それなのに、胸の奥には、まるで梅雨時の洗濯物のように、すっきりとしない、生乾きの感情が残っている。

 

 ──言えなかった。

 

 デートの誘いを、結局言いそびれた。

 あの空気の中で、どうにか言おうと思ったのに。

 でも、それよりも気になっているのは、千夏の反応だった。

 何か言おうとすると、まるで先回りするみたいに、言葉をかぶせてきた。

 それが偶然なのか、意図的なのか──考えれば考えるほど、嫌な予感がする。

 

(もしかして、……気づかれてる?)

 

 そんなわけない、と思いたい。

 でも、もしそうだとしたら──千夏が言葉をかぶせてきたのは、距離を取ろうとしているからじゃないのか? 

 これ以上、踏み込んでくるな、と。

 そう、無言の警告を、発していたのではないか。

 そう考えた瞬間、背中に、氷水を流し込まれたような、冷たい悪寒が走った。

 

 千夏と並んで歩く通学路。

 普段と変わらないように見える会話。

 でも、龍太の中では何かがずっと引っかかっていた。

 

「なんか今日、蒸し暑いですね」

 

 そう言ってみると、千夏は「ほんとだね」と微笑んだ。

 

 ──その表情に違和感はない。

 

 ないはずなのに、龍太の心は、まるで、凪いだ海に投げ込まれた小石のように、静かに、だが、確かに、波紋を広げていた。

 

(……俺の、考えすぎ、なのか……?)

 

 まとわりつく湿気のせいだろうか。

 なんだか、息苦しい。

 龍太は、その、正体不明の息苦しさを抱えたまま、ただ、黙って、学校へと足を運んだ。

 

 

 

 

 

 

 昼休み、龍太は校舎の渡り廊下をぼんやりと歩いていた。昨夜の千夏とのやりとりが、ずっと頭の中にこびりついている。考えれば考えるほど、昨夜の千夏の表情が思い浮かぶ。あの時、笑っていたけれど、なんとなく違和感があったような気がする。

 でも、それが何なのかはっきりしない。気づけば、自販機の前に立っていた。

 適当にスポーツドリンクのボタンを押し、小銭を投入口に滑り込ませる。缶が落ちる音を聞き、取り出そうとした瞬間──

 

「なーにしてんのー!」

「うおっ!?」

 

 不意に、背後から膝の裏を蹴られ、前のめりになる。なんとか自販機に手をついて踏みとどまり、心臓を跳ねさせながら振り返ると――そこにいたのは、悪戯が成功した子供のように、楽しげに笑う雛だった。

 

「ふふっ、珍しく隙だらけだったね!」

「……雛、お前なぁ……」

「いやいや、いつもならこんな簡単に決まらないでしょ? つまり、それだけぼーっとしてたってことじゃん?」

 

 あまりにも、的を射た指摘。思わず、言葉に詰まる。

 

「何かあったの?」

「……別に」

「うそ。顔に、でっかく書いてあるよ。『俺、今、めちゃくちゃ悩んでます』って」

 

 じとーっとした目で見つめられ、龍太は、観念したように、小さくため息をついた。この親友に、隠し事は、どうやら無理らしい。

 

「……千夏先輩のことで、ちょっと」

 

 そう口にすると、雛は「やっぱり」と納得したように頷いた。

 

「ふーん、ケンカでもした?」

「いや、そういうんじゃないんだけど……」

 

 龍太は、昨夜の焼肉のことを話した。母親から「千夏を遊びに誘え」と言われたこと。誘おうとしたけれど、結局言いそびれたこと。そして──千夏が、何かを言おうとするみたいにして、笑顔で話題を逸らしたこと。

 

「なんかさ、言葉を遮られたっていうか……避けられたっていうか……」

 

 そう言うと、雛は少し考えるように視線を逸らした。

 

「……なるほどねぇ」

「な、なんか分かった?」

 

 龍太が身を乗り出すと、雛は小さく笑ってから言った。

 

「龍は……千夏先輩が、デートに誘われるのを待ってるって可能性は考えなかったの?」

「……え?」

「なんで誘わなかったんだろう、とか、なんで言葉を遮られたんだろう、とか、そんなことばっかり考えてたでしょ?」

 

 言われて、思わず口をつぐむ。確かに、そのことばかり気になっていた。

 

「でもさ、それって、龍が 『千夏先輩は別に行きたくないんじゃないか?』 って思ってる前提の考え方じゃない?」

「……いや、でも、もし、本当に行きたいなら……普通に、誘いを待っててくれたんじゃないか?」

「それができるなら、千夏先輩は最初からそうしてるよ」

 

 ピシャリとした口調に、龍太は少し驚いた。

 

「千夏先輩ってさ、普段はしっかりしてるし、クールに見えるけど、そういうのに慣れてるわけじゃないんじゃない?」

「……」

「もし、龍から、真正面から、『デートしませんか』なんて言われたら、きっと、心臓口から飛び出すくらい緊張すると思うよ?」

「……そんな、千夏先輩が?」

「そうだよ。むしろ、緊張するからこそ、そうなる前に話題を逸らしちゃったんじゃない?」

「……」

 

 昨夜の千夏の表情が、頭の中によみがえる。

 ──笑っていたけれど、なんとなく違和感があった。

 それが、ただの「いつもの笑顔」じゃなかったとしたら? 

 

「……じゃあ、俺はどうすればよかった?」

 

 龍太がぼそっと尋ねると、雛は少し考えてから、いたずらっぽく微笑んだ。

 

「簡単じゃん。龍が、ちゃんと言えばいいの」

「……でも、もし本当に行きたくなかったら?」

 

 そう言った瞬間、雛の表情がわずかに変わった。

 ほんの一瞬だけ、眉をひそめるような、そんな表情だった。

 

「……龍はさ」

「ん?」

「逆に聞くけど──先輩とデートしたくないの?」

「え?」

 

 彼女の言葉に、龍太は全く耳にしない者の名を耳にしたといった面持ちになる。

 

「お母さんに言われたから誘おうとしたんじゃなくてさ。──龍自身はどうなの? 誘いたかった?」

「……俺が?」

 

 まさか、自分が問われるとは思っていなかった。

 戸惑いながら、龍太は言葉を探す。

 

「そりゃ、別に……嫌じゃないけど……」

「うーん、そういうこと聞いてるんじゃなくてさ」

 

 雛はじっと龍太を見つめる。

 まるで、答えを誤魔化させないような、その目で。

 

「単純に龍は、どうしたいの? 先輩とデートしたい?」

 

 その一言が、龍太の胸にストンと落ちた。

 

(俺は……)

 

 彼女への想いは、憧れなのか、尊敬なのか、それとも、ただ、一緒にいるのが、楽しいだけなのか。自分でも、まだ、よくわからない。

 

「別に好きじゃなくても、それを確かめに行くのが、デートなんじゃないの?」

 

 まるでこちらの迷いを見透かすように、彼女は悪戯っぽく笑う。

 

「龍って見た目以上にマジメだからねぇ」

「うるせぇよ」  

 

 ――そうか。

 きっかけは、それで、いいのか。

 そう気づいた瞬間、全身が、カッと熱くなるのを感じた。手の中の缶を、ぎゅっと、強く握りしめる。

 

「……誘ってみる」

「でしょ? だからさ、龍が『どうしたいか』をちゃんと考えて、先輩に伝えなよ」

 

 ニコッと笑う雛に、龍太は一瞬、息を飲む。こういうところは友人として頼もしい限りだった。

 龍太はゆっくりと頷いた。

 

「……わかった。ありがとな、雛」

 

 そう言うと、雛は「おー!」と軽く拳を突き上げた。

 

「頑張れ、鈍感男子!」

「……うるさいって」

 

 苦笑しながら、龍太は缶のプルタブを引いた。

 自販機の横で、一口飲み込んだスポーツドリンクが、いつもより爽やかに感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パス、ステップ、シュート──

 

 繰り返し、繰り返し、何も考えずに体を動かす。

 ボールが指先を離れ、空中を回転しながらゴールへと吸い込まれる。バスケットのネットが軽やかに揺れ、体育館に乾いた音が響く。時計を見ると、すでに部活が終わってからずいぶん経っていた。それでも、千夏の体は止まらなかった。

 

(……もう、みんな帰ってるのに)

 

 わかっている。

 頭では、わかっているのに、身体が、心が、止まることを拒否していた。

 昨日からずっと、胸の奥が、さざ波のように、静かに、だが、絶え間なくざわついている。焦りでも、怒りでもない。名前のつけられない、この感情の正体は何なのだろうか。それを振り払うように、また、シュートを放つ。

 

(……違う)

 

 どれだけシュートを決めてもモヤモヤは消えなかった。

 不意に後ろから声をかけられる。

 

「――もうすぐ、体育館、閉める時間だよ」

 

 振り返ると、体育館の入り口に立つ警備員の男性が苦笑していた。

 

「あ……すみません。すぐに片付けます!」

 

 バタバタと準備を整え、ボールを片付ける。

 体育館を出ると、ふと、外の音に気づいた。

 

 ぽつ、ぽつ、ぽつ──

 

 地面に、小さな雨粒が弾けている。

 それを見た瞬間、なぜか胸がざわついた。

 

(……雨)

 

 天気予報では、曇りのままのはずだったのに。空を見上げると、いつの間にか、重たい  灰色の雲が、空一面を覆っている。

 

 仕方ない、走って帰るしかないか――。

 

 そう思って、バッグからスマートフォンを取り出した、その画面に、彼の名前が表示されていた。

 

『下駄箱のところで待ってます』

 

 その、たった一文に、千夏の心臓が、大きく、そして確かに、音を立てた。

 慌てて、濡れ始めた地面を蹴り、足早に校舎へと向かう。

 下駄箱の前、彼は、そこにいた。降り始めた雨を、静かに、ただ、見つめていた。その右手には、見慣れた自分の傘。そして、左手には――もう一本、見覚えのない、黒い傘。

 

(……え?)

 

 一瞬、状況が掴めなかった。

 龍太は、今日は傘を持ってきていなかったはずだ。

 

 じゃあ、その手にある傘は……? 

 

 千夏はハッとした。

 

(まさか……家まで取りに行ってくれたの?)

 

 驚きとともに、心の奥にじんわりと何かが広がっていく。

 

「龍太くん……それ……」

「ああ、先輩のやつです」

 

 彼は、そっけなく、ぶっきらぼうに、そう言った。だが、その声の奥に、ほんの少しだけ、照れが混じっているのを、千夏は見逃さなかった。

 

「……傘、持ってなかったですよね?」

 

 それだけ言って、龍太は千夏に傘を差し出した。その手元には、わざわざ取りに戻ったであろう微かな水滴がついている。

 言葉にしなくてもわかる。

 彼は、傘を取りに帰るために、学校と家を往復したのだ。

 

(……私のために?)

 

 胸が、ぎゅっと、締め付けられる。昨日の、あの夜の、自分の、馬鹿みたいに臆病だった自分が、恥ずかしくて、情けなかった。彼は、何も変わらず、こんなにも、優しかったのに――。

 

「……ありがとう」

 

 それだけが、やっとのことで口をついて出た。

 

「気にしないでください」

 

 龍太は、軽く頭を掻きながら言う。

 

「でも、走ってきたの? びしょ濡れだよ……」

「大したことないですよ。どうせ汗かいたし」

「ちょっと待っててね」

 

 千夏はバックからタオルを取り出して、彼に手渡す。

 

「これ使って。風邪ひいちゃうよ」

「いや、別にいいですよ」

「この間風邪引いたばかりなのに?」

「……ありがとうございます」

 

 そんな風に言いながら彼はタオルを手に取った。

 そんな様子に千夏は微笑んだ。ほんの少し、胸が熱くなるのを感じながら。

 

「……帰り、一緒に歩いてもいい?」

 

 気づけば、そう言葉にしていた。

 龍太は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく笑った。

 

「いつも帰ってるじゃないですか」

「そうだね」

 

 ぽつぽつと降り続ける雨の音の中、ふたりは並んで歩き出した。

 傘が触れ合いそうなくらいの距離。

 でも、千夏の心は落ち着かない。

 今まで何度も帰り道を共にしてきたはずなのに、今日は少しだけ違う気がする。

 

 ──わざわざ傘を持って迎えに来てくれたから? 

 ──それとも、昨日の夜のことがまだ心に引っかかっているから? 

 

 千夏はそっと龍太の横顔を盗み見る。

 いつもと変わらない、少し気だるそうな表情。

 けれど、その奥に何か、普段とは違う、緊張のようなものが潜んでいる気がした。

 

(……龍太くんも、何か考えてるのかな)

 

 聞いてみたい。でも、どんな言葉で切り出せばいいのか、わからない。

 雨音だけが、二人の間の、甘く、そして、もどかしい沈黙を、埋めていく。

 千夏は、小さく息を吸い込むと、視線を、前に戻した。

 

「龍太くん──」

 

 意を決して、彼の名を呼ぶ。

 けれど、そのか細い声は、彼の強い声に遮られた。

 

「先輩!」

 

 強めの声が、千夏の言葉を遮った。

 驚いて顔を上げると、龍太がこちらをまっすぐに見ている。

 

「……え?」

 

 何か言いたげな龍太の目が、まるで何かを決意したように強い。

 

(もしかして……)

 

 胸の奥がドクンと跳ねた。

 

「……先輩、俺と──」

 

 龍太が言いかけた瞬間。

 

 ──ピカッ! 

 

 暗い雲の間から、強い閃光が走る。

 次の瞬間、

 

 ドォォォン──!! 

 

 雷鳴が響いた。

 

「ひゃっ!」

 

 反射的に千夏が肩をすくめる。

 その拍子に、手元の傘が大きく傾いた。

 

「あっ──」

 

 バランスを崩し、ふらつく千夏。

 けれど、倒れる前に。

 

「先輩!」

 

 力強い手が、腕を引いた。

 千夏は、思わず息を止める。

 

 ──近い。

 

 顔が、肩が、触れそうなくらい。

 龍太の温もりが、すぐそこにある。濡れたシャツの冷たさと、彼の体温の熱が、同時に感じられた。

 息を吸うと、湿った雨の匂いの中に、微かに彼の汗の香りが混ざる。

 

(……ちかいっ)

 

 すぐに離れればいいのに。

 でも、龍太の手はまだ千夏の腕を掴んだまま。

 雨音だけが、やけに響く。

 まるで、世界に二人しかいないみたいだった。

 

「……っ」

 

 恐る恐る、視線を上げる。

龍太が、真剣な、見たことのないような、真剣な表情で、自分を、見つめていた。

その瞳に、もう、焦りも、迷いも、なかった。

 

 何か言わなきゃ──

 

 そう思った瞬間。

 龍太が、ゆっくりと口を開いた。

 

「……デートしてください」

 

 静かな、けれどはっきりとした言葉。

 千夏は、一瞬、時間が止まったように感じた。

 

「……え?」

 

 かすれた声が漏れる。

 

「もし、先輩が嫌じゃないなら──」

 

 龍太の目が、まっすぐに千夏を捕らえる。

 

「俺と、デートしてくれませんか?」

 

 今度ははっきりと。

 雨音の中に、確かに届く声で。

 ──千夏の心臓が、跳ね上がる。

 

(……えっ?)

 

 雨の冷たさも、傘を持つ手の感触も、一瞬で遠のく。

 ただ、彼の言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。

 

 ──でも。

 

 もし、これが「ご褒美」のつもりだったら? 

 もし、ただ母親に言われたから誘っただけだったら? 

 それが、一番怖い。

 もし、勘違いだったら? 

 

(……違う)

 

 そう思いたいのに、言葉が出てこない。

 迷っているうちに、沈黙が生まれる。

 

(どうしよう、返事しなきゃ……)

 

 言わなきゃ、でも──

 

 二つの事柄が衝突し波を立てている。どちらの決心もつかなかった。

 ふと、龍太のその真剣な表情が、ほんの少しだけ、不安そうに揺れた気がした。

 ……怖いのかもしれない。

 彼も、返事を待つ間、私と同じように。

 その瞬間、いっぱいに詰まっていた胸が軽くなる。だって、本当は──

 答えなんて、もう、ずっと前から、決まっていたのだから。

 何かにじむような熱い気持ちが、じんわりと湧いてくるのがわかった。ぎゅっと、傘の持ち手を握る。

 

「……いきたい」

 

 ほんの少し、声が震えた。

 でも、今度は目をそらさずに、まっすぐ彼を見つめた。

 

「行きたい……龍太くんとデート」

 

 その瞬間、龍太のその固い表情が、ふっと、緩んだ。

 そして、心の底から安心したような、小さな、小さな声が聞こえた。

 

「……よかった……」

 

 小さく、安心したような声だった。

 その声を聞いた途端、胸の奥がじんわりと温かくなっていくのを感じる。

 

(……よかった)

 

 本当に、それしかなかった。

 雷は、いつの間にか遠ざかっていた。

 雨の音だけが、ふたりの間を満たしていた。

 

 ──でも、気づけば、その雨音すらも心地よく感じていた。

 

 

 

 

 

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