腹ペコ毒蟲【新版】 作:アンディライリーのうさぎ
現状で懐玉・玉折に入ってます。時系列ちゃうのはまぁお話上の都合ということで。
26話 どんな色が好き?
安倍と七海の交際が始まった。任務から帰った櫻は有頂天になり、寮の出入り口の段差につまずき転んだ。強かに打った頭に触れてみると、手のひらに虫に変化しつつある血がついている。
「七海くんは……紅い海が、お好き…」
彼女の口もとが思わず軟体動物のように緩む。押さえきれぬ感情が発露し、床を蹴った。軽やかなステップで喜びを体現する。その間に壁に肩をぶつけたり、天上に頭をかすめたり、つま先に当たった消火器を蹴り飛ばしていく。転がった消火器はそそくさと戻した。
自分の部屋に入り晩飯を食べ、風呂に入ってからドライヤーで髪を乾かしていても、キブンが浮ついている。もちろん気分が浮ついていても、風呂上がりのスキンケアは怠らない。彼女はスキンケアの重要性を歌姫から教えこまれた。若いうちにサボっていた
「いつか七海くんと、海に行けたらいいなぁ」
櫻はベッドに横になり、カーテンの隙間から覗く夜空を眺める。
昼の海は青く、夜の前の海は赤い。その二つの色を七海と二人で見てみたい。
今は6月に入ったばかりだ。あと1か月もすれば本格的なサマーシーズンとなる。ちょうど繁忙期な現在であるが、その頃になれば少しは時間が取れるだろう。──と、そう信じたい。呪霊の索敵を得意とする彼女は、ただでさえ忙しい。
「………水着、そういえば持ってないかも」
櫻は困った時の、歌姫パイセンに縋る算段を立てた。
◇◇◇
安倍と七海の件は当然周囲にも知れるわけで。七海は事を知った男子諸君(灰原除く)にダル絡みされることが増えた。いや、家入も面白がり交ざってくる。
2年らは安倍が七海に好意を持っていることは分かっていたらしい。しかし七海が無意識に抱えていた安倍への好意は、灰原しか気づいていなかった。
そんな、太陽の日差しが夏の装いを感じさせてきた昼ごろ。体力作りを兼ね、ジャージ姿でグラウンドを走っていた七海は横を走っている灰原をうかがう。長袖を肘までまくっている彼に対し、灰原は上着のジャージを腰に巻きつけている。半袖から覗く筋肉は入学当時と比べてすっかりたくましくなっている。
双方の息は荒く、流れた汗が地面に吸い込まれる。遠くからはメガホンを持った五条の「遅れてるぞ1年ー!」という声が聞こえる。そのメガホンは背後から現れた夜蛾に奪われ、白い頭にスパァンと、小気味のいい音を立てて振るわれた。一連の様子を見ていた七海は深いため息をつく。
「灰原は、いつから気づいていたんですか?」
息が切れぬように、七海は少しペースを落とす。同じく速度を緩めた灰原の丸い目が、惜しみなく彼に向けられる。うーんと、灰原は顔を上に向ける。
「安倍先輩が最初にお弁当を持ってきてくれた時、笑った安倍先輩を見た七海の目が、普段とは違う気がしたんだ」
「…よく見ているんですね」
「七海は僕のクラスメイトで、友達だからね」
安倍と七海の関係が変わっても、七海と灰原の関係は変わっていない。灰原が本気で安倍に好意を寄せていたなら──いや、本気だったのだろう。灰原にとって七海は恋敵でもあったはずだ。だというのに、いつもと変わらぬ笑みで七海に笑いかける。
複雑な感情に彼の眉間に皺がよる。この皺よせは七海のわかりやすい感情表現の一つでもある。灰原はその真意を汲み取る。
「好きな人には、幸せになってもらいたいでしょ?」
先ほどまで灰原の口もとにあった笑みが消える。黒い目がまっすぐに七海をとらえる。
「だからもし、また安倍先輩を泣かせたら、七海でも許さないからね」
「……はい」
「──────よしっ! ラストはどっちが早くゴールに着くか、勝負しよう!」
「はい?」
七海の返事を待たずに駆け出した友人を、彼は慌てて追いかける。先ほどまで心にあったモヤは、今はスッキリしている。自然と足に力がこもる。ふくらはぎの筋肉の動きが存在を主張する。息を一気に吐き、七海は先方の白いシャツを捉えた。切り揃えられた黒い髪が奔放に揺れている。汗が光る。それはどちらのものか。不思議と口角が上がる。並んだ時にチラリと横目で見た灰原の顔も笑っている。その笑みにはしかし、獰猛さがある。そうして前に引かれた白線に、二人とも転がるようにゴールインした。
「ハァー……ッ」
「疲れたぁ…!」
長距離のラスト一周を全速力で駆けた二人は天を仰ぐ。空は青い。七海の頭上に、その空と同じ色の目をした五条が現れ、天上の一部分を隠す。ただでさえ長身な男を地面に寝転がっている状態で見ると、超大型巨人になる。
五条はニヤッと口角を上げた。
「青春してるねぇ」
青春、青春か──。七海はその言葉を反復する。悪くない。
それから上半身を起こし、灰原に差し出された紙コップを受け取った。
「「ゴフッ!!」」
七海と灰原は口に含んだ水を噴き出す。水にしては酸味が効きすぎている。何だこれは。
口を拭った七海の視線の先に、紙コップとレモンを持つ夏油の姿が映った。硝子は毒牙にかかった一年の様子を愉快げに撮っている。
「………」
尊敬できねぇ先輩たちだった。本当に。
◇◇◇
外に出ると雨の匂いがした。一昨日の任務で汚れたシャツは乾いていない。昨日のシャツはどうせ雨だからと、洗濯カゴに入れたままになっている。自室の洗濯機には乾燥機能が付いていない。寮の一角には乾燥機付きで、しかも無料なランドリールームもあるが、そこを使う気にはなれなかった。
櫻は自然の、日干しした服の匂いが好きなのだ。懐かしい院長の匂いを彷彿とさせる。まぁ、どのみち着る服がなくなれば、ランドリールームの恩恵に頼らざるを得なくなる。
時期は梅雨である。はじめてのデートの日は、あいにくの雨だった。
服については以前に「腕によりをかけて──」と言っていた歌姫が、いくつか見繕ってくれた。デート前の服選びの際、先輩は最高に生き生きとしていた。しかしふと、「彼氏か……」とも呟いていた。歌姫の春はまだらしい。ちなみにこの時、水着も買っている。
本日の服は淡いピンクのトップスと黒のタイトスカートに、パンプスを合わせている。鎖骨や肩に布がないのが妙に落ち着かず、そわそわする。普段そこは夏だと暑苦しい制服で守られている場所だ。
髪はかんざしなどの装飾を付けず、シンプルにポニーテールにしている。その後ろ姿は馬の尻尾のようでもある。
服よし、化粧よし、携帯や財布もよし。……気になりもう一度鏡の前に立ち、自分の姿を確認する。表情は緊張から強張っていた。一般的に19歳で初デートは遅い方なのだろうか? 彼女には分からなかった。
恋をしてからというもの、毎日未知の領域を探索している。イマジナリーフレンドの喪失感は今や、遠い過去のようにさえ感じられる。
ナナミンが彼女にとって、どうでもいい存在になったわけではない。
ただこれは、彼女は一歩踏み出しただけの話である。
寮の出口に立ち、赤い傘を差す。それを半回転させて肩に乗せる。待ち合わせにしている屋根のある場所に向かうと、そこにはすでに七海がいた。櫻は思わず時刻を確認する。30分前である。事前に教えられた待ち合わせ時刻について、歌姫先生は「5分前よ」と語っていた。その教えを守りきれず早めに出てきてしまったと思えば、すでに、いる。
「………」
櫻は木の後ろにそっと隠れ、ガラケーを出した。七海は壁に寄りかかり、文庫本サイズの本を読んでいる。傘は腕にかけられていた。白いシャツにジーンズという至ってシンプルな格好であるが、そのシンプルさが元の素材の良さを惜しげもなく発揮している。これもまた、普段の制服だと分かりにくいものである。
「天が生み出した、現代のルネサンス………」
腰…腰
──いや、そもそも盗撮はよろしくない。
彼女が内心で反省しているうちに、傘を差した七海が目前にまで迫っていた。
「あの、そのっ……」
「肩、濡れてしまっていますよ」
七海の傘が、彼女の方に向けられる。えっ? と櫻は自分の左肩を見てから、右肩を見る。するとトップスの先がそこそこ濡れ、濃いピンクになっていた。どうやら画面越しの七海に気を取られているうちに、持っていた傘が傾いてしまったらしい。
「撮るのは構いませんが、あの撮り方だと盗さ………」
「……ど、どうしたの?」
「いえ、その…」
七海の視線が不自然に泳ぐ。その先には木があった。何かあるのだろうかと、彼女もそこを凝視する。それは何の変哲もない、ただの木のように見える。
「…すみません、少しよろしいですか?」
「ん? うん」
七海の手が彼女の頬──を通り過ぎ、ポニーテールにしてある髪に触れる。その長いしっぽを彼女の右肩に乗せた。予測不能な一連の動きに、彼女の心臓がドッドッと、キングエンジンばりの拍動をなす。うなじに指がわずかにかすった瞬間、謎の声を上げてしまいそうになった。顔はおそらく真っ赤だろう。
「……紐が、透けています」
「紐?」
彼女の思考回路が後ろを向けと命ずる。後ろに何か紐があるかもしれないと。ただ腕を掴まれたことでそれは阻まれる。クエスチョンが絶えない彼女の視界に、耳と首元が赤い七海の顔が映る。
「………下着の紐が、透けています」
「えっ?」
確認のため尻尾を退ければ、確かに濡れた部分の中でいっそう赤いところがある。雨なのに撥水加工ではないものを選んできてしまったと、彼女はそこで気づいた。
「………着替えてきます!!!」
「まっ、走ると転びますよ!!」
「……! あ、そうか。化粧もしてるんだし…」
冷静さイズ、大事。彼女は七海に断りを入れてから、最速の歩きで寮に戻り着替えた。着替えの際は、化粧が服につかないように気にするあまり髪が乱れてしまったため、結局下ろした。白の──今度はきちんと撥水加工のされているトップスに着替え、七海のもとに戻った頃には待ち合わせ時間から20分過ぎていた。自分の失態で──と、ただでさえ白い彼女の顔が青白くなる。
「私は気にしていませんよ」
「でも……」
「その…………いえ、何でもありません」
「…?」
七海は彼女から顔を逸らす。そして腕時計の巻いてある右手を口元に寄せた。その仕草は、彼女のイマジナリーフレンドが眼鏡をくいっとさせていた時のものに似ている。
櫻は七海の顔を見ようとして、逃げられる。「……行きましょうか」と言った七海は、左手を差し出した。
「七海くん、顔が赤いけど……風邪気味なら…」
「行きますよ」
七海には、これ以上この事には突っ込んでくれるな、というスゴ味がある。
「……うん、わかった」
櫻は恐る恐る、七海の手を握った。
色白のわりに、その体温は高い。自分のものと違い、血管の隆起がよく分かる。気になり、手の角度を変えて、人さし指の腹で隆起の場所を軽く押す。音にすると、「プニッ」か、「コリッ」としている。癖になる感触だった。その面白さに指で撫でたり押したりを繰り返していると、「安倍さん」と声がかかった。櫻は七海の顔を見る。先ほどよりも七海の顔は赤い。部分的にどころか、顔全体が赤くなっている。
「フゥー………握るなら、普通にお願いします」
「う、うん…」
何だか、七海の顔が赤い理由をわかった気がしてしまった、彼女の顔もまた────。
熟れた瓜のように、赤くなった。